わらべうた




641


暖かくなってきたせいか、小鳥の囀りがいつもよりも嬉しそうに響いていた。季節は移ろい、寒さの角が取れたように風も穏やかになった。
土方が別宅を出たとき、ちょうど総司がやって来た。稽古が終わったのだろう。
「あれ?屯所に戻りますか?」
「いや…用事があるから出る。お前はゆっくりしていけ」
「わかりました」
総司は「いってらっしゃい」と微笑んだ。いつもと何ら変わりない表情だと思う反面、その笑顔の奥にどんな葛藤を抱えているのか…そう思うと今すぐ問いただしたくなる。
「土方さん?」
「…何でもない」
土方は総司の肩を軽く叩き「じゃあな」と背を向けた。約束の時間は迫っていた。


窓辺から鴨川がよく見えた。
夏になれば納涼床が置かれ皆が酒を嗜みながら涼を取る光景が広がるが、いまはまだその時ではない。
土方は久々に再会する彼と向き合いながら、最初に口にする言葉を考えていた。
「…正直、来るとは思わなかった」
目の前には英がいる。土方にとっては『薫』という名前の方が親しみがあるが、それは彼にとっては二つ前の名前だから遠い過去に違いないく、忘れ去られた別の人生なのかもしれない。
最後に顔を合わせたのは河上が起こした火事の時だ。彼の美しい顔が火傷を負った姿は見ていられないほど痛々しかったが、今ではその傷さえも彼自身の中に溶け込んでいて不思議と目立たない。
「そっちが呼びつけたくせに」
英は遠慮なく返答した。鬼副長を目の前にしても怯まないのは彼らしい。
「断ると思っていた」
「勿論、最初は何の冗談かわからなかったけど…山さんにしつこく頼まれたから仕方なく」
英は『山さん』と山崎を親し気に呼んだ。彼らは南部の弟子同士であるのだからなんら不思議ではないが、あれほど自暴自棄だった彼が新しい人生を歩んでいるのだと改めて実感する。
「それで…何の用?」
「…総司と親しくしているらしいな」
「やはりそのことか」
賢い英は土方の用件に見当がついていたようだ。呆れたようにため息をついた。
「まったく…過保護が過ぎるよ。喧嘩した友人とヨリを戻したらダメなのか。それとも恋人が知らない間に和解してたのが納得いかない?」
「何故、和解した?」
「時間が解決すると言うでしょう。偶然再会して、互いに納得したんだ。良い大人なんだから構わないだろう」
英は何の澱みなく答える。そもそもその昔は土方を翻弄するほど弁が立つ陰間だったのだ、簡単に全てを話すわけがない。
「…総司の様子がおかしい。友人として何か知らないか?」
「なにも」
「即答か」
「やましいことがあったらここに来ていないよ」
英は頑なに否定した。だが、土方にはその態度こそが総司が隠す『何か』を知っているのだと確信させた。
「…本当に何も知らない奴は洗いざらい吐いて潔白を証明するものだ。お前はそうしないんだな」
土方の挑発に対して英はその眼差しを鋭利に尖らせて向けた。
「まがいなりにも医者の卵だ。口が固いのは当たり前、勝手な推測は口にしない。…洗いざらい吐く奴は後ろめたいからだ。俺はあなたが怖くないし、嘘をついて許しを乞う立場じゃない。勘違いするな」
英はぴしゃりと言い返し、睨みつけた。彼は怯む様子もなく堂々たる『怒り』を土方にぶつけたのだ。そしてそれは紛れもなく正論だった。
つい尋問するような言い草になってしまった…土方は一呼吸置いて、
「…悪い。そういうつもりじゃない。ただ…嫌な予感がしているんだ」
「嫌な予感?」
「このところあいつは様子がおかしい。おそらく何かを隠しているのだろう。総司がお前と和解したことを俺に言わないのも同じ理由だと思ったんだ」
「…」
土方の率直な言葉に英はようやく怒りの矛を納め、「そうか」と冷えてしまった茶に手をつけた。
「沖田さんに聞いてみたら?」
「…あいつはいつか話すから待ってくれというだけだ」
「じゃあ待てば良い」
「あとになって手遅れだったと後悔したくない」
如何なる理由であっても、総司が『死』さえ考えるような状況は今までになく切羽詰まっている。それを黙って待ち続け、去って行ったのが山南だった。
英は少しため息をついて間を置き、ゆっくりと外に目をやった。鴨川の静かな流れと穏やかな春の囀りが聞こえて来る。
「…冬は寒くて、頭がうまく働かない。空気が薄いせいか心が凍ったように気持ちに余裕がない患者が多いんだ。でも春になると暖かくなって、不思議と気持ちが高揚してまるで別人のように穏やかになる人もいる。…だから、せめてもう少し待ってみたら?」
「総司は…お前の患者なのか?」
「嫌だな、言葉尻ばかりを捉えてろくにお喋りもできやしない」
英は急いてばかりの土方に、呆れたように苦笑した。
土方はこれ以上は何も聞き出せまいと思った。彼はのらりくらりと躱しているというよりも、土方を慰めるように諭している。らしくなく焦っている…そのことを指摘されると、土方は次第に彼の言う通りもう少し待ってみようと納得できてしまったのだ。
「…わかった。悪いが俺がお前を訪ねたことは総司には伏せておいてくれ」
「良いけど…代わりに一つ頼みがあるんだ。むしろ今日はそのために足を向けた」
「頼み?」
「君鶴にもう一度会ってやってほしい」
土方は途端に苦い顔をしつつ、「知り合いか?」と尋ねた。英は君鶴との関係とこれまでの経緯を簡単に説明した。
「仇討ちを失敗したことも聞いた。でも君鶴はあんたを殺したいわけじゃない、真実が知りたいだけだ。だから君菊天神が何をして、どんな最期を迎えたのか…直接話してやってほしい。そうすれば気持ちの整理がつく」
「…気が進まない。君菊の件は…掘り返したところで誰も快くは思わないだろう」
「もちろん納得はしないかもしれない。悲しむし怒るだろう。でも…このままなにもわからず中途半端に投げ出すなんて可哀想だろう?禿として可愛がられた姉代わりをあんたが奪ったんだ…情けをかけてやってほしい。それに君鶴は沖田さんとの交流もあるんだ、捨て置いて良い無関係な人間じゃない」
「…」
土方は腕を組み少し黙った。
君菊の件はもう誰にも話すつもりはなかった。池田屋の頃、功を焦り未熟な自分が彼女を死へ追いやった…それはいまの『鬼副長』を作り上げた苦い記憶であり、忘れられない瑕疵だ。
「…少し考えさせてくれ」
「わかった」
英は頷いて、茶を全て飲み干した。
「…じゃあ行くよ。心が決まったらまた文を寄越して」
「お前は昔とは別人だな」
英は腰を浮かしていたが、土方が思わぬことを口にしたので驚いた。
「別人?ああ、火傷のせいかな」
「違う。薫でも宗三郎でもない…お前には『英』という人生が似合っている」
賢くて弁が立ち芯のある姿には昔の名残があるが、その眼差しには後ろ暗い過去の残像はなく光だけを捉えて眩しく見える。中性的で整った顔立ちは火傷すら凌駕する希望で満ちているようだ。
英は微笑んだ。
「…最初は分不相応な名前だと思ったけど…馴染むと悪くないと思える。名は体を表すというけれど、松本のおっさんに感謝してるよ」
「そうか」
「じゃあ」
去っていく英を見送って、彼と総司が和解したことは自然なことだったのだろうと悟った。そしてあの日、彼を生かしたことは間違いではなかったのだろうとも思ったのだった。






642


このところ、強い風が吹いていた。砂を巻き上げ、若葉を揺らす嵐は春を連れてやってくる。
(もう咲いた…)
蕾だった梅の花が咲いている。
それを見ると目を細めて『俺は梅の方がいい』と口にする彼の横顔が浮かんだ。
猶予は終わった。
自分を甘やかしていた冬は過ぎ、覚悟を決めるべき時がきた。

「先生?どうかされましたか?」
組下の山野が声をかけてきた。総司は巡察の途中、突然民家の生垣の向こうにある梅の枝をみて立ち止まったのだ。しばらく呆然としていたので他の隊士も何事かと困惑していた。
「ああ…すみません、何でもありません」
「そうですか?顔色がお悪いようですが…」
「大丈夫です。じゃあ今日の死番を先頭に各自、いつものように」
山野の言葉を遮って、平静を装い指示を出す。隊士たちがいつも通りに散って行ったのを見送って、総司は彼らの報告を待つ。慣れた巡察の手順だが、心は氷水を浴びせられたかのように急に強張っていた。
(ずっと…覚悟を決めてきたのに)
いざその時が来たのだと思うだけで、動揺した。手にはじわりと汗をかき無意識に唇を噛んでいた。
(情けない…まだ黙っていようなんて、そんなことを考えてしまう…)
ずっとどう切り出せば良いか考えていた。でもどう説明したところで土方は悲しむだろうし、落胆するに違いない。歩み続ける彼を引き止め、足手まといになるようなことだけはしたくない。
「沖田先生!」
そんなことを考えていると島田が飛び込んできた。
「なにか?」
「火事です!この先で…」
「案内してください!」
「はっ」
島田が駆け出したのを追う。彼は走りながら状況を説明した。
「巡察途中で火事だと騒ぎを聞き駆けつけました。山野には火消しを呼びにいかせていますが、まだ火の手は小さく鎮火が可能と判断し、近隣住民と共に消火活動を始めています」
「火事になったのは?」
「旅籠の裏手です。やはり火の元がない場所なので付け火かと…陣頭指揮は武田先生が」
「武田先生?なぜです」
「偶然居合わせたと…詳しくは伺っていません」
「…」
先日の火事の現場にも武田が居合わせた。彼は野次馬のひとりとして眺めているだけだったが、今日は先陣を切って消火に当たっているらしい。
言いようもない違和感を覚えながら到着すると、武田が指示を出し、町民に混じって隊士たちが近くの井戸から引き上げた水汲み桶を火元へと送る作業を繰り返していた。そのおかげかすでに煙が立ち上るだけで鎮火していた。
そしてちょうど山野が連れてきた火消したちが合流したので、武田が状況を説明し引き継いだ。ひとまず周囲は安堵に包まれるなか、
「お疲れ様です、武田先生。こちらには何か御用があったのですか?」
総司は身なりを整える武田に声をかけた。彼は少し驚いた様子だった。
「あ、ああ…なに、偶然通りかかったら火事だと耳にしたのでな。このところ放火の話も聞いていたのでもしや、と」
「そうですか。先日も火事の現場にいらっしゃいましたよね。それもたまたまですか?」
「…人違いでは?居合わせたのは今日が初めてだ」
武田はあからさまに顔色を悪くして目を逸らす。そして「では」とさっさと話を切り上げて小走りで去って行ってしまった。
(なぜ嘘を?)
広い都で二度も火事に居合わせれば不自然ではあるが無いことではない。それなのにわざわざ嘘をつき、逃げるように去っていったのは何か後ろめたいことがあるからではないのか。
(まさか、武田先生が付け火を…?)
ふとよぎった疑惑が、すぐにかき消された。
「ゲホッ…!」
煙を吸い、咳き込んでしまったのだ。(しまった)と思った時にはすでに遅く、それをきっかけにしてまた身に覚えのある不快感が押し寄せてくる。
(こんなところで血を吐くわけにはいかない…!)
不幸中の幸いだったのは火事の現場で同じように咳き込む者がちらほらいたこと。それに紛れて総司の咳は目立たずに済んだが、何度も続けば島田や山野に気づかれてしまう。
総司はどうにか息を止め全身の血流を集中するように押さえ込み、どうにか強張った四肢を動かして物陰に移動した。そこで手のひらに「ゲホッ」と吐き出したのはやはり血だった。
総司は混乱した。
(どうすれば良い…このまま配下に姿を見られれば全てがバレる。でも放棄してこの場を去ることもできない…!)
追い詰められ頭が真っ白になった。そのせいかこちらに近づいている人物の存在に気がつかなかった。
それとは別に、背後へ駆け寄る足音が聞こえた。
「沖田先生?」
「…!」
山野だった。振り返れば彼に気づかれてしまう。
「先生?こんなところでなにを…」
「山野」
別の声が聞こえた。知らない声ではないが、聞き慣れた声でもない。その声の主は総司の身を隠すように山野との間に立った。
(誰だ…?)
その答えは山野が教えてくれた。
「…大石さん」
「監察として、この火事について沖田先生へ報告したいことがある。悪いが先に戻ってくれ」
「…先生、よろしいのですか?」
山野は以前、大石が島田に怪我を負わせた一件で思うところがある。大石の指示に素直に従うのは不本意だったのか、総司に確認を求めたのでどうにか声を絞り出した。
「…ええ…そうしてください」
「わかりました」
山野は去って行った。
総司は気が抜けてその場に座り込み大石が介抱する。彼は町人の一人として紛れ込んでいたようで小袖を着流していた。
荒い息を繰り返しながらも、総司は尋ねずにはいられなかった。
「…知って、いたんですか…?まさか、監察は…」
大石は総司の喀血に気がついても何の反応も見せなかった。ただ懐紙を差し出し、自分の上着を掛けた。
「監察にとって近藤局長とあなたは監視の対象外です。俺しか知りません」
「なぜ…」
「数日前の大雪の朝に別宅で喀血したでしょう。俺は近くにいました」
「…」
総司は息苦しさに抗いながらあの日のことを思い出す。庭に飛び出て真っ白な雪の上で血を吐いた…少し後にみねと土方がやってきて何事もなく隠し通したはずだが、確かにあの時土方は別の訪問者を気にしていた。それが大石だったのだ。
「…ひじ、かたさん…には…?」
「報告はしていません」
「そう…ですか。良かった…」
安堵しつつ、「ゲホッゲホッ!」と激しい咳を繰り返す。大石は励ます言葉もなくただ無言で総司の背中をさすった。
そうしてしばらく経ち、火事を見にきた野次馬たちが三々五々に帰って行った頃にようやく落ち着いた。
「…ありがとうございました。もう、大丈夫です」
「あなたは監視対象外ですから副長への報告義務はありません。ただ、もし副長から何か問われれば隠すことなく報告します」
「勿論です。あなたまで…巻き添えにはしません」
病のことを知る者が一人、また一人と増えていくことが心苦しい。ただ大石は同情せず淡々と接してくれたので気が楽だった。
「それで…火事の件は、なにか…?」
「火事の件というよりも武田先生です。あの人のことは監察の方で追っています…何か不審な動きがあってもあなたには知らぬふりをして欲しい」
「…まさか本当に武田先生が付け火を?自作自演だと?」
「…」
大石は少し呆れたように総司を見た。不審に思っても余計なことをするなと釘を刺されたばかりだ。
「わかりました、もう聞きません」
総司は両手を上げて降参を示し、上着を返した。
「これ、ありがとうございました。それからさっき山野君から庇って貰えたのも助かりました」
「…いつまでも隠し通せるとは思いませんが」
「わかっています。もう…猶予はない」
総司は重たい身体をどうにか奮い起こし、立ち上がる。しかし一瞬の立ちくらみに耐えきれず大石が手を貸した。
「俺はあなたが嫌いではありません」
「…」
「昔馴染みの門下生として、少なからずあなたが病であるという事実に動揺しました。…近藤局長や土方副長はその比ではない。早く打ち明けた方が良いでしょう」
大石はそういうと総司の返事を待たずに「では」と去って行った。彼の身のこなしはすっかり監察のそれになっていた。





643


大石と分かれた総司は屯所へまっすぐ戻らずに、北野天満宮へ足を向けた。
梅の花があちらこちらで咲いている。春を告げる美しい花に行き交う参拝者は目を細めていた。
総司はそのなかでも一番、多くの花びらを纏う木の前に立っていた。
ゆらゆらと揺れながら、天に向かって咲く梅の花。寒い冬を越えてようやく待ちわびた春の陽気を喜んでいるように見える。
本当はここにくるのがずっと怖かった。
自分の心の整理がつくよりも先に梅が咲いていたら…見て見ぬふりはできず揺らいだまま現実と向き合うことになる。
しかし、しばらく眺めていると心の奥底でずっと咲かないで欲しいと願っていたのがまるで嘘のように、清々しい気持ちになっていった。
英と加也に知られ、鈴木に目撃され、大石まで知ることになった…そして約束の刻限を知らせる鐘のように梅が咲き、もう迷うことはできないと悟ったのだ。
(僕は役立たずかもしれない)
もう認めよう。
家族と離れ、試衛館で育った総司にとって誰の役にも立てない自分は価値がないものだ。だからいつか錆びて斬れなくなる刀となってしまうその日まで、懸命に働くしかない。
(ずっと傍に置いてほしい…とは言えないけれど…)
優しさに縋るのは苦手だ。だけど自分にとって唯一無二の居場所だから。
だからこそ、守りたい。
たとえ自分がそこにいなかったとしてもーーー。
「お武家様」
そんなふうに呼ぶのはひとりしかいない。総司は振り向いた。
「…君鶴さん…」
「なんや深刻なお顔で、どうかされました?」
君鶴は穏やかな笑顔を浮かべていた。稽古の帰りなのか風呂敷を抱えている。
総司は迷った。彼女が新撰組を憎んでいることを知った以上、気軽に立ち話をして良い相手ではない。しかし今更無視することはできない。
「…いいえ、何でもありません」
「ほんまに?もしかしてお身体の具合がお悪いんやない?顔色もお悪いし」
「大丈夫ですよ。…君鶴さんはお元気そうで良かった」
「あ…この間はすんまへん。お恥ずかしいところを見られてしもうて…」
君鶴は恥ずかしそうにしながらも、
「せやけどもう平気どす。英せんせが良いように取り図ろうてくださって」
「英さんが?」
「へえ、詳しくは言えへんのやけど。…ふふ、知ってはりますか?英せんせはうちら芸妓よりよっぽど麗しい方やから、花街では観音様の生まれ変わりやゆうて評判どす。せやから英せんせに診て頂いたらお武家様もきっとようなりますえ」
君鶴はいつものようによく喋り、明るく総司を励ました。その明るさに総司も絆された。
「…やっと、決心がついたんです」
「決心?」
「ずっと病を打ち明けなければならないと思っていた人がいて…でも言えなかった。だけどこうやって言わないでずるずると引き伸ばすことこそがあの人を傷つけるんだと、わかっていたんですけど踏み出せなかった。…でもこうして梅の花を眺めていると背中を押されたように思います」
風が吹いて、梅の花が散った。
並んで梅を眺める二人はしばらく風に舞う花びらを目で追った。
「…うちも、英せんせに言われて気がつきました。憎い憎いとそればっかりやのうてちゃんと向き合わなあかん…そうすることが何より姐さんの為やって。本当のことを知るのは怖いけど、踏み出すのが大事やって…」
「…そうですか」
君鶴と英の間でどんな解決策を見出したのか、総司には尋ねることは憚られた。新撰組隊士の立場を隠しながら彼女に根掘り葉掘り問うのは筋違いだろう。
だが、何らかの明るい未来へ踏み出そうとしているのは素直に良かったと思えた。月並みだが、君菊の禿だった君鶴には彼女の分まで幸せになって欲しい。きっと君菊も土方も同じように思っているはずだ。
「あ、あかん。もう帰らな」
「すみません、引き止めてしまって」
「いいえ…あ、そや、これ金平糖」
君鶴は懐から巾着を取り出し、総司に渡した。
「ハハ、前にも金平糖をくれましたね」
「お武家様甘いものがお好きそうやから」
「正解です」
君鶴は満足そうに笑うとそのまま「ほな」と手を振って去っていった。
巾着から金平糖を一粒取り出して口に運ぶ。食べ飽きない仄かな甘さが心に沁みた。
(僕も戻ろう)
どこにも寄り道をせず、彼の元へ向かおう。
全て打ち明けたら、きっと彼は怒るだろう、悲しむだろう、迷うだろう…でも自分を偽る方が彼への裏切りに違いないのだ。



火事現場から逃げ出した武田は、大通りに出て周囲を見渡した。自分を追ってくる者はいない。
安堵のため息を漏らした。
(よりによって『親衛隊』に出会すとは運が悪い)
『親衛隊』は一番隊の影のあだ名だ。近藤や土方に気に入られた隊士が集う華々しい精鋭部隊は、周囲から羨望だけでなく嫉妬の目で見られてきた。本人たちは知らないだろうが、裏では何かと贔屓される彼らは局長の『親衛隊』と揶揄されているのだ。
(成り行きで消火を手伝うような真似をしてしまった…)
目立つことは避けていたのに、伍長の島田と鉢合わせたせいで手伝わざるを得なかったのだ。
しかし、武田の災難は続く。
「武田先生」
驚いて振り向くと、明るい口調で声をかけてきたのは藤堂だった。その背後には斉藤が控えている。
「藤堂…先生。やあ、奇遇ですな」
「向こうで火事があったみたいですねぇ、武田先生も野次馬に?」
「まあ…そのようなものだ。そんなことより、御陵衛士のお二人とこのような往来で話し込むのは互いに宜しくないと思うのだが」
必要性のない接触は禁止されている。互いに古参だとしても例外はない。
藤堂は「ああそうでした!」と下手な芝居をして
「お話があります」
と声のトーンを落とした。
武田は考えた。魁先生は策を労せず猛進する素直な性格だが、斉藤はいつも何を考えているのかわからない不気味さを帯びている。
断るのは得策ではないと判断し、三人は物陰に移動した。人通りから外れ、小春日和の日差しが絶たれた薄暗い場所だ。
「伊東先生が迷惑されています!」
人の視線がなくなった途端に藤堂は憤ったように武田に詰め寄った。
「な、なんのことやら…」
「とぼけても無駄です!離隊前にも共に脱退したいなど無理を仰ったそうですね?我々は伊東先生と志を共にする同志であり、意欲を持って行動しているのです。先生の講義に一度も足を運ばれたことがないのに気軽に加入したいなど…先生に失礼とは思いませんか?!」
「そ…」
「俺たちは古参であるあなたの説得を請け負いました。今更の加入は御陵衛士として受け入れられず、新撰組との約定に違反します!」
藤堂から矢継ぎ早に責め立てられ、武田は言葉を無くした。魁先生のあだ名は健在で、飾りなくストレートな『苦情』だ。
しかし、武田にも言い分がある。
「私と伊東先生とのお話である。外野が口出しすることではない!」
「先生はお忙しいのです!」
「伊東先生には以前、『身を保証する』とお約束いただいたのだ。その約束を果たしていただきたいというまでのこと」
「そんな出鱈目…」
「藤堂さん」
それまで黙って成り行きを見守っていた斉藤が藤堂の肩に手を置いて止めた。敬愛する師のために熱くなりすぎたと気がついたのか、藤堂は「すみません」とすぐに謝った。
代わりに斉藤が口を開く。
「…武田先生。我々は分離したばかりで勝手が掴めぬ日々…すぐにこちらに加入するのは現実的ではない」
「だから、先ほどから言っておろう。伊東先生とお話ししているのだ、とやかく言われる筋合いは…」
「いまは副長助勤を外されたとか?」
斉藤の問いかけに、武田の表情が曇る。触れられたくない事実だったのだろう。
「…それがなんだ?」
「さぞ、隊での身の置き場に苦心されているでしょう。しかしだからと言ってこちらで受け入れるのも難しい…とはいえ、伊東先生ならなんとかできるかもしれない」
「ちょっと、斉藤さん!」
断固として拒否する藤堂に対し、斉藤は交渉の余地を与える。武田はすぐに
「何が条件だ?」
と食いついた。
「それは俺たちにはわからない。あなたが有用な存在だと示せる『手柄』が良いのでは?」
「手柄…」
「ひとまず、一旦引き下がってください。いつ監察に目をつけられるかわからない」
斉藤の申し出に武田は渋々ながら「わかった」と頷いて、了承した。そしてさっさと去っていき、その場には斉藤と藤堂が残った。
藤堂は不満そうだった。
「斉藤さん、あんな勝手なこと言っちゃ拙いですよ」
「俺は武田に助言しただけで、加入できる『約束』はしていない。それに何か伊東先生がお喜びになる手柄をあげたとしたらそれはそれで構わないだろう。これでしばらくは大人しくなるだろうから、内海さんから託された任務は果たした」
「…それはそうですけど…」
藤堂はいまいち納得できてないようだったが、斉藤が歩き出すと付いてきた。
(さて…気になるのは『身を保証する』約束だ)
伊東と武田には新撰組の頃は接点は然程ないはずだ。彼らの間に一体何があったのか…斉藤は考え込んだのだった。





644


総司が屯所に戻ると、その姿を見つけた山野が駆け寄ってきた。
「先生、遅かったですね」
「ええちょっと…大石さんと話し込んでいました」
「そうですか…あ、局長から言付けがあります、巡察から戻ったらすぐに別宅に来るようにと」
「別宅?まだ報告が…」
「報告も後回しで良いそうです。副長もそちらでお待ちだとか」
「土方さんも?」
山野も詳しくは知らないようだったが、
「局長は大変ご機嫌なご様子でしたよ」
とのことだったので悪くない話なのだろう。
総司としては病を告白する決心を削がれてしまったような複雑な気持ちだが近藤直々の指示なので仕方ない。すぐにもう一度屯所を出て近藤の別宅へと向かった。
陽の光が西へ落ち、空は茜色に染まる。東から夜がやってきて一日の終わりを告げる。その繰り返しは当たり前の光景だったが、自分にとって長く続かないのだと思うと何でことのない景色もすべて目に焼き付けたくなる。
そんなことを考えていると近藤の別宅に到着したが、何やら騒がしい。土方以外にも客人がいるようだ。
玄関から中に入ると孝が出迎えた。
「おこしやす」
懐妊している孝は少し膨らんだ腹を抱えるようにしていた。
「お孝さん、ご無沙汰してます。…なにやら大勢お邪魔しているようですね」
「へえ、たくさん。せやからおみねさんにも来ていただいてます。うちのことはお気になさらず、どうぞ」
孝に招かれ、総司は上がった。気性の激しい孝だったが今はそんな素振りもなく穏やかで落ち着いていて、いっそう深雪に似てきたように思う。そんな孝に案内されるまま客間に向かうと、思わぬ光景があった。
「近藤先生…?」
集まっていたのは、土方だけでなく永倉、原田、井上という試衛館食客たちだったのだ。屯所では各々顔を合わせるものの、全員が揃うのは珍しく皆、堅苦しい様子はなく試衛館にいた頃のように近藤を囲んで座っていた。
「おう、来たな!」
近藤が手招きし、原田が「遅いぜ」と笑い永倉と井上が頷く。総司は土方の隣に腰を下ろしたが、彼もどこか気を抜いていて屯所では決して見せない穏やかな表情だった。懐かしい雰囲気に触れつつも
「遅くなってすみません。それで何でみんな揃って…?」
総司が困惑していたので、永倉が状況を説明する。
「近藤先生から良い知らせがあると呼び出されたんだ。来て見たらこの面子で俺も驚いた。思い出話に花を咲かせていたところだ」
「なんせ、屯所では気楽に昔話も出来やしない」
井上が愚痴ると、近藤が「その通り」と同意する。もともと井上の方が近藤よりも随分入門が早い兄弟子だがおくびにも出さずに部下に徹している。たまには四方張らずに会話がしたいのだろう。
原田はすでに酒を手にしていた。
「うまい酒と肴があるのに、何の話かと尋ねても『総司が来るまで待て』とのご命令だったんだぜ。待ちくたびれた」
「すみません、そうとは知らず…こんな楽しそうな宴だと知っていたらもっと早く帰ってきたのになあ」
「大切な話があるんだ。…近藤先生」
すでに知っているらしい土方が促し、近藤が姿勢を正した。なんとなく引き締まった雰囲気を感じ取り、皆も居住まいを正し近藤の言葉に耳を傾ける。
「…皆、今まで苦労をかけてきた。ここに山南さんや平助、斉藤君がいないのが残念だが…試衛館食客である皆にまず最初に話しておきたいと思ったんだ」
近藤は前置きを口にしながらすでに頬は紅潮し目は潤み、口が小さく震えていた。どうやら余程の話だと察し、
「な、なんだよ、思わせぶりだよなぁ新八っつぁん」
と原田が落ち着かない。総司も何故か心臓が高鳴って土方を見たが彼は(かっちゃんから聞け)と言わんばかりに視線をやった。
近藤はようやく口にした。
「新撰組隊士の幕臣への取り立てが内定した!」
その言葉に永倉は固まり、井上は口を開いたまま、原田は手にしていた酒をこぼし、総司は
「…本当、ですか?!」
と声を上げた。近藤は何度も頷いた。
「ああ、会津公が我々の忠心に応えるべく間を取り持ってくださったのだ。まだ表沙汰にはできぬが…俺たちは皆、武士になれるんだ!」
高らかな宣言に沸いた。井上は感極まり近藤の両手を取り
「良かった…本当に良かった!大先生もお喜びになられるでしょう!」
と喜びを分かちあった。原田は永倉と肩を組み「酒だ!祝い酒だ!」と徳利ごと流し込み、永倉も続いた。
総司は呆然として信じられない気持ちだった。
「…土方さん、本当ですか?」
「ああ、先日広沢様からお話を頂き、今日黒谷に足を運んだ。幕府は近いうちに俺たち全員を幕臣に取り立てることを約束してくれたそうだ」
土方の声もいつもより浮ついているように聞こえる。
(紛れもない現実なんだ…!)
総司は数年前、試衛館にいた頃のことを思い出していた。剣の腕を認められ講武所に教授として推薦されながらも、身分の問題で白紙になった…あの時に誓った『近藤を武士に』という夢がこんな形で叶うとは思ってもいなかった。
近藤の夢は自分の夢だ。感極まり視界がぼやけた。
「…馬鹿、泣くなよ」
「本当なんですよね?先生が幕臣に…武士になれるんですよね?!」
「ああ…まったく、お前は最近涙脆いな」
土方が総司の頬の涙を拭った。総司の中に湧き上がる喜びを通り越した感動は言葉では言い尽くせないほどだった。
総司はと近藤に駆け寄り抱きついた。突然のことに
「驚いた!」
と声を上げたが、総司はそうせずにはいられなかったのだ。
「先生、おめでとうございます…!こんなに、こんなに嬉しいことはありません…っ!」
「ありがとう。みんなのお陰だから早く言いたかった。それにお前たちもみんな幕臣になれるんだ、素晴らしいことだ!」
新撰組としての働きを評価してもらえたことも誇らしいが、総司にとって自分の身分や立場がどうなろうと構わない。ただ近藤の夢が叶い、土方が報われるのが嬉しい。
「俺も歳とこうして抱き合って喜んだんだぞ」
「屯所で局長と副長が抱き合ったのか?隊士が見たら驚いて腰を抜かすぜ!」
原田が揶揄し、永倉と井上は笑った。土方は
「かっちゃん」
と口の軽い幼馴染を諌め、近藤は「すまん」と頭をかく。
ここはまるで試衛館だ。近藤の出世を喜び、夢が叶うのだと希望を抱いたあのときと、同じ。もちろん変わってしまったこともある。
(山南さんは絶対に喜んでくれている。藤堂君や斉藤さんだって…)
ここにいない食客たちもこの喜びを共有してくれるに違いない。
「総司、これからも宜しく頼むぞ」
「はい!これからも…」
(これからも…?)
不意に総司は言葉に詰まった。
急に冷や水を浴びせられたかのようだった。
これから先、武士として歩む近藤の傍に自分の居場所があるだろうか。大病を患った自分は役立たずな鈍刀なのに。
「どうした?」
近藤が突然口籠った総司を心配した。
「あ…ぁ、いえ、その…これから、先生がさらにご活躍されることが嬉しいです」
(僕はその姿を病床から眺めることしかできないだろうか…)
「なんだ、総司。泣いてやがるのか?そりゃそうだ、農民から武士なんてあの太閤秀吉以来じゃねえか?」
「左之助は大袈裟だなぁ!」
原田が茶化すと近藤が笑い飛ばし、その場はさらに盛り上がる。そして孝とみねが肴を持ってきたのでそのまま宴会の流れとなった。
総司は近藤から離れ、
「先生、ちょっと頭を冷やしてきます」
と申し出た。
「うむ。突然のことで驚かせたな」
「いえ…本当に嬉しいんです。夜風に当たったらすぐに戻ります」
そう言うと、盛況な宴を抜けて部屋を出た。しばらく廊下を進むと手入れの行き届いた庭がある。かつて深雪がよく散歩をしていたお気に入りの庭だ。
春の夜はまだ寒いが、その庭先に裸足で降りた。三日月の細く頼りない月の光を見上げながら、総司は小さくため息をついた。
(束の間の、夢を見たような気持ちだ)
近藤の幕臣への出世は現実だが、ここにいる自分だけは幻のように感じる。
皆はこれから日向の道を歩いていくのに、自分はその道に背を向けて頭を擡げ、離れなければならない。
(先生の出世は嬉しい。でも…僕の役目はここまでなのかもしれない)
「総司」
「…土方さん…」
「裸足でなにやってるんだ」
土方は「腹減ってるだろう」と握り飯をひとつ総司に手渡した。
「…なんだか現実味がありません。講武所の時のように撤回されたりしませんよね?」
「かっちゃんは十分よく働いてる。むしろ今までずっと浪人の身分だったのが不似合いなくらいだ」
「それはその通りです。まさか…土方さんが何か手を回したんですか?」
「俺にそんなことができるわけないだろう。…ただ、広沢様には話をした。かっちゃんに足りないものは身分だけだからな…でもそれが意味があったのかはわからない。会津公の意向だ」
「そうですか…会津公は情け深い方ですね」
総司は土方から受け取った握り飯をなんとなく手慰みに弄ぶ。
その様子を見ていた土方が、
「お前、本当は嬉しくないのか?」
と尋ねた。聡い土方は何か勘づいて追いかけてきたのだろう。
「…なに言ってるんですか、嬉しいに決まってます。嬉しすぎて、落ち着かないからこうして夜風に当たっているんです。すぐに戻りますよ」
「本当か?」
「本当です」
本当は、彼に追いかけてきてほしくなかった。
前途洋々に歩き始める師匠の足手まといにしかならない自分が情けなくて、どうにか落胆する気持ちを沈めるために出てきたのだ。
(こんな喜ばしい日に水を差すことはできない)
「…そうか、わかった」
土方は背を向けた。きっと納得してはいないけれど問い詰めないのは総司がいつか話すことを待っているからだ。
「それ、食ったら戻れよ」
「…はい」
彼の姿が見えなくなって、言われた通りに握り飯を口にしたけれど、うまく飲み込むことができなかった。
嬉しいのに、悲しい。
相反する感情が苦しかった。






645


武田は妙だった。
普段は学者を気取り古典ばかりを読み漁る本の虫で屯所から出るのは巡察の時だけであったが、この所は暇があれば町を徘徊しあちこちに出入りしている。誰かを探しているようでもあり、何かを求めているようでもある。その熱心さは数年前に馬越を追いかけていた時と同じような執念さがあったが、斉藤でさえその目的は掴めなかった。
御陵衛士には時間がある。斉藤は数日間、武田を付けていたが収穫はない。
(伊東に近づくことはなくなったが…)
数日前に嗾しかけたのが効いたのか、武田が御陵衛士に近づくことはなくなった。内海には感謝されたが、武田の思惑が汲み取れず斉藤は得心いかない。
(その身を保証するという言葉も気になるが…)
本人に尋ねれば良いのだろうが、伊東は薩摩や土佐の元へ通うのに忙しくしていて暇がない。
新撰組と御陵衛士は互いの隊士の移籍を禁止しているが、武田は自信があるように見えた。伊東の弱みでも握っているのだろうか。
大通りを町家一軒分ほど離れながら武田を付けていると、彼が誰かに声をかけられて足を止めた。
斉藤は咄嗟に物陰に隠れ、その様子を窺う。
(…あれは、田中か…)
田中寅蔵は新撰組隊士であり、斉藤と同じ撃剣師範を務めるほどの腕の持ち主でもある。年も同じくらいの若者で普段は品行方正だが、思想の話になると目の色を変えて昂る屈指の『攘夷論者』だ。最近、新撰組は幕府の意向を重視する姿勢であるため、彼は武田とは違う意味で窮屈な思いをしてるだろう。
一方で、武田は近藤たちに擦り寄り追従し、常に右顧左眄の態度だ。斉藤からすれば二人は水と油のようであり、街ですれ違ったからといって立ち話をするような間柄ではないはずだ。
(…なにを話しているのか、よく聞こえないな)
田中がいつものように何かを熱く語り、武田がそれに耳を傾けているように見える。そして二人は周囲を気にするように場所を変え、近くの店に入って行った。
斉藤は追いかけようとしたが、その店は席の数が少なく入ればすぐに顔を合わせるほど小さいことを知っていた。仕方なく彼らが出てくるまで近くで待つ…ことにしたのだが。
「あ、斉藤さん。ここにいたんですか!」
と何かと親しげにしてくる藤堂に見つかってしまった。
「…何故ここに?」
「伊東先生のお気に入りの茶菓子を買い求めて来たんですよ。ほら、最近お疲れじゃないですか、少しでも気を休めていただきたくて…斉藤さんこそ何故ここに?」
「…」
己の不運と藤堂の間の悪さが恨めしい。
「…ただ、ここに立っていただけだ。もう行く」
「ああ、でしたら付き合ってください。なんせ茶菓子なんて買ったことがないんです」
「…わかった」
斉藤は藤堂が拒んでも食い下がるだろうと理解していたので、仕方なく誘いに応じることにする。
(武田と田中に何らかの繋がりがあるとわかっただけで良しとするか…)
内心ため息をつきながら藤堂の隣を歩いた。懐かれるのは面倒だが純朴な子供のような彼を振り切るのも難しい。
付き合うついでに
「田中寅蔵について何か知っていることはあるか?」
と尋ねてみた。さほど期待はしていなかったのだが、
「ああ、彼も離隊を志願して来たと内海さんから伺いましたよ」
あっさりと藤堂が口にしたのは斉藤の知らない情報だった。
「田中寅蔵が御陵衛士に?」
「はい、武田先生ほどしつこくはないようですが…あの人は熱心な攘夷をよく口にしていましたし、時折伊東先生の講義にも顔を出していましたから。内海さんに説得されて留まりましたが、隊に残っている茨木君たちに何かと近づいているようです」
攘夷論者である田中からすれば新撰組よりよほど御陵衛士の方が己の思想に近い。分派に便乗したいというのが本音だっただろうが、伊東はそれを受け入れなかった。
田中は攘夷に熱心だが普段は品行方正だ。その二面性がなんとなく薄気味悪いのは斉藤も感じていたので、伊東が遠ざけたのも理解できる。それに伊東自身は勤皇ではあるが攘夷については積極的ではない。
(武田と田中は御陵衛士から拒まれたという共通点があるのか…)
「あっ!」
隣を歩いていた藤堂が突然声を上げたので斉藤は驚いた。
「なんだ」
「い、いえ、こっちから行きましょう、斉藤さん」
大通りを歩いていた二人だが、藤堂が斉藤の腕を無理矢理引き、脇道へと誘う。何事かと斉藤が目を凝らすと視線の先に新撰組の隊士たちが集まっていた。
藤堂が焦って身を隠したがるので、
「別に逃げる必要はないだろう」
と宥める。しかし彼は唇を尖らせて
「だって気まずいじゃないですか。まだ分離して数日だし…真正面から鉢合わせっていうのは、ちょっと。…あれは一番隊と二番隊かな、いつもの巡察の順路とは違いますね」
「火事の件で広く見回っているのだろう」
「ああ、なるほど」
藤堂は逃げようとしたものの、物陰から様子を窺っていた。
「茶菓子を買いに行かないのか?」
「…この道から行くと大回りになるので、皆が去るのを待った方が良いかなって」
彼は嘘をつくのが下手だ。数日前とはいえ別れた仲間たちの様子を知りたいだけなのだろう。
だが斉藤もそれに付き合うことにした。他でもない一番隊なら様子が気になる。藤堂とともに目を凝らしながら巡察の様子を窺うと、彼らはいつも以上に警戒心を持って不審者の捜索にあたっているのか隅々にまで目をやっていた。
総司は永倉とともに話し込んでいる。
「なんだか…少し、痩せました?」
「誰が?」
「沖田さんです。わかりません?」
藤堂は至極当然のことのように答えるが、斉藤にはピンと来なかった。
「毎日顔を合わせていたら気づかない程度かもしれませんね。まあ、あの人は昔から白皙の美少年という風貌ですから多少痩せたところでその美貌に拍車が掛かるだけかもしれませんが」
藤堂が過剰に語るものだから、斉藤はついまじまじと彼を見てしまった。
まだ数日だけだというのに、数年会ってないかのように懐かしい。
屯所を出る前夜、彼に誓った言葉は多少大袈裟だったかもしれないが本心だった。いつどこにいても守るーーー大樹公には果たせなかった誓いを今度こそ、と。
本当は離れ難かった。一人で抱え込み無理をしがちな総司が自分を頼りにしているのはわかっていたから、近くにいたかった。
その未練を断ち切るために出ていくときはなにも言わなかったが、彼も見送りもしなかった。斉藤のことを彼はよく理解していた。
「あ、行ったみたいですよ」
藤堂は安堵して元の道に戻る。隊士たちはこの辺りの巡察を終えたのか、背を向けて屯所に向かっているようだった。
斉藤は小さくなっていく総司の背中を追った。ぼんやりとして見えなくなるまで。


総司が巡察を終え土方のもとに報告へ向かうと彼は外出の準備をしていた。
「お出かけですか?」
「ああ。…ちょうど良かった、お前に話があったんだ」
「話?」
土方は忙しなく着替えながら、
「いまから上七軒に行ってくる」
と意外なことを話し始めた。君菊を亡くして以来、避けていた場所だ。
「上七軒…?」
「君鶴と話をしてくる」
「え?でも、君鶴さんは…その、土方さんのことを…」
「英に頼まれた。君菊のことを話してやってほしいと」
「は…英さんに?」
土方の口から君鶴や君菊だけでなく、英の名前まで飛び出して総司は驚いた。知らぬ間に一体土方になにがあったのか理解できないまま、彼は一方的に説明する。
「お前が英と和解したことは山崎から聞いた。英には別件で用事があって顔を合わせたんだが、引き換えに君鶴の説得を頼まれた。仇討ちをするつもりはもう無いようだが、納得させてやってほしいとな」
「納得…」
「君菊が何故死んだのか…嘘をついても仕方ないだろう、ありのままに伝えるだけだ。寵愛していた禿だそうだから、君菊も望んでいるはずだ」
先日、君鶴が英に『良いように計らってもらった』と言っていたがこのことだったのかと理解する。仇討ちが失敗し、彼女は悲嘆し土方も後味が悪かったはずだ。英の仲介で互いに納得できるならそれが良いだろう。
しかし淡々と話すけれど、土方はどうやって気持ちに折り合いをつけたのだろうと総司は思う。君菊のことを誰かに語ることは一生無いと思っていたのに、それでも君鶴に全てを話すのは君菊への手向になると考えたからだろうか。
「…わかりました。でも何でわざわざ私に?」
総司が尋ねると土方は少し呆れたようにため息をついた。
「噂とはいえ、『馴染み』の君鶴と顔を合わせるんだ。お前に変な誤解をさせたく無いからに決まっているだろう」
「誤解なんて」
「まったく…気を回した俺が馬鹿みたいだな」
土方は今度は大袈裟にため息をついて腰に刀を差した。そして突然、総司を抱き寄せた。
「ひじ…」
「総司、俺はずっと…お前のことを考えてる」
土方の声が一番近い場所で鼓膜を揺らす。
「聞きたいことは山ほどあるが、お前が話したいと思うまで待つつもりだ。だが…」
ドクドクと脈打つ心臓が、きっと土方にも伝わっている。彼の発する言葉一つ一つに身体は強張った。
「…嘘だけはつかないでくれ」
「!」
「嘘をつくくらいなら、なにも話さなくていい。俺はお前を信じてる」
今までのどんな言葉よりも、総司の気持ちをかき乱した。
自分の気持ちばかりで、ただなにも知らされず待ち続ける土方のことを考えていなかった。彼の口から溢れる『信じる』という言葉の重さは誰よりも総司が理解していたのに。
総司は土方の背中に両手を回し、強く抱きついた。
「歳三さんが戻ってきたら、話します」
「…良いのか?」
「どんなに遅くなっても構いません。ちゃんと話します」
彼の胸に顔を埋めながら、総司は目を瞑った。彼が良いのか、と尋ねたのは時間のことでは無いとわかっていたが、今までの葛藤をいま吐露したところで引き留めるだけだ。それに土方も一人で抱えてきたのだから、自分だけが苦しんだわけではない。
「…分かった」
土方は短く答えた。
春の夜に見る夢は、儚く短いのだ。






646


夕刻、伊東はようやく屯所としている善立寺に戻り一息ついた。
「敵が味方か分からぬ者を相手にするのは酷く疲れるが、温かい茶と好物の菓子でその疲れも吹き飛ぶよ」
藤堂が用意した菓子を伊東は満足そうに口に運ぶ。師匠に褒められ、藤堂も尻尾を振る犬のように喜んだ。
同席した斉藤は「さっそくですが」と話を切り出す。
「武田観柳斎の件です」
「その件なら解決したと内海から聞いている。君がうまく言いくるめてくれたのだろう?」
「武田はしつこい男です。また妙な気を起こして御陵衛士に近づくかもしれません」
「それはあり得ます!」
斉藤が否定して、付き合いの長い藤堂が深く頷いたので、伊東は顔を顰めた。
「やれやれ…私には新撰組に構っている暇などないのだが」
「武田は伊東先生から『身を保証する』と約束したと豪語していました。それ故に強気なのです。…伊東先生はそのような約束を?」
斉藤が問うと、伊東は少し考え込みながら茶で菓子を流し込んだ。そして思い出すようにゆっくりと口にする。
「…ああ、そうだ、随分昔の話だ。彼とは一度目の廣島行きで一緒だったのだが、その際にある男と接触したところを見られたのだ。その時にそのような出任せを口にした」
「ある男?」
「名も知らぬ流浪の者だ。使い勝手が良く、先日の九州行きでもよく働いた」
伊東は二人に説明しながら「フフ」と愉快そうに笑った。藤堂は不思議そうに首を傾げた。
「伊東先生?」
「いや、すまない。まさか武田君がそんな昔のことをアテにしているとは思わなかったのだ。それにその切り札は我々が新撰組に在籍していた時なら有用だが、脱退したいまでは何の意味もない。…まったく、彼は本当に軍学を修めているのか?甲州軍学というのは時代多くれも甚だしいのだな」
伊東の言う通り、武田は切り札を使うべきタイミングを間違っている。すでに近藤や土方になにを知られたところで恐ろしくはないのだ。
藤堂は「本当ですね」と同意したが、斉藤は表情を変えなかった。武田がもう少し伊東派の動きを注視していればその切り札はうまく使えただろう。嗤えないほど浅はかだ。
斉藤は話を続けた。
「その武田ですが、今日、田中寅蔵と接触しているのを見かけました。彼も御陵衛士への加入を目論んでいたとか?」
「ああ…しかし、田中君は攘夷論者だ。私の考えとは合わないし、信用できるとは言い難い。…その二人が何を画策しているのかわからないが、面倒なことになるかもしれないね」
「斬りましょうか」
斉藤があっさりと申し出る。藤堂はギョッとして「ちょっと」と短絡的な発言を咎めたが、伊東は穏やかに微笑んだ。
「我々が拒み続けさえすれば、彼らは自滅するだろう。君の手を汚すことはない、放っておけば良い」
「わかりました」
「また何かあれば知らせてくれ。…私は少し休むよ。藤堂君、ご馳走様」
伊東はそう言って席を立ち、その場には斉藤と藤堂が残った。彼はまだ不満そうにしていた。
「…なにか?」
「俺たちはもう新撰組じゃないんですから、何かあればすぐ斬るなんて簡単に…」
「気に入らないのか?俺は伊東先生にそういう意味で御陵衛士に加えてもらったのだと思っているが」
「そんなわけないです、伊東先生は純粋に斉藤さんを同志として認めています」
そう訴える藤堂の瞳には一寸の曇りもない。おそらく嘘偽りなく心からそう思っているのだろう。
(驚くほどのお人好しだ)
そしてきっと頑なに伊東を信じている。それはもう誰にも裏切られたくないという弱さの裏返しだろう。
「そうか、それは良かった」
斉藤は短く答えて話を切り上げたのだった。


土方は籠を降り、北野天満宮の前に立った。薄暗闇のなかに待ち合わせの人物はいない。
(もう梅も散っているだろう…)
ゆっくり花見をする暇もなく梅は去る。桜の見事な開花の裏でこっそりと役目を終える梅は強く、儚い。
何故か昔から惹かれるのは梅の方だった。かつて、冬の寒さを耐え忍びながら誰よりも早く春を告げるひたむきさに総司を重ねた。幼い頃から苦しい境遇に遭いながらも弱音一つ吐かず、大人ばかりの環境で子どもらしさを見せずに生きてきた…そんな総司だからこそ、いま何かを隠し続ける姿は素直に可哀想だと思った。昔から大人びた子どもであるが故に誰かを頼り、弱みをみせることができないのだ。
(余程の秘密なのだろう…)
英との約束を果たし君鶴を説得し、屯所に戻れば打ち明けると言っていたが、その表情には悲壮なほどの覚悟があった。
「…長い夜になりそうだ…」
そう呟いた時、「お待たせ」と足音が聞こえてきたのでそちらに提灯をかざす。待ち合わせをしていた英だった。薄暗闇のなかだとますます男とも女とも分からない中性的な色香が増す。
「ああ」
「この先にある人気のない店でお鶴が待ってる。女将は懇意にしている患者で、今日は人払いを頼んでいるから気兼ねなく話して」
「お前は?」
「俺は隣の部屋で待ってるよ。誓って、聞き耳を立てたりしない。聞かれたくないだろうし、聞きたくもないからね。でもお鶴を一人にはできないし、何かしでかしたらすぐに飛び込むからさ」
英が茶化すが、彼が仲立ちをするからには君鶴にはその気はないのだろう。彼とは並んで目的の店へと歩きながら、
「…ひとつ、聞いて良いか?」
と土方は切り出した。
「なに?」
「総司のことだが…」
「いやだな、まったく…惚気か愚痴か知らないけれど話す相手を間違っているよ」
英の言う通り、よりによって彼に話すのは筋違いなのだろうが彼にしか聞けなかった。
「怪我をしていなかったか?」
「…怪我?」
「お前も知っているだろう、河上彦斎…年末に奴と一線交えてから様子がおかしい。あいつは剣の才に長けている。もし何か…」
「怪我はしていないよ」
英は土方の言葉を遮って答えた。その表情は先ほどまでの飄々としていた様子とは違い、どこか深刻そうな横顔だった。彼にとって河上との一件は決して良い思い出ではない…土方はそのせいだろうと思い、
「わかった」
と話を切り上げた。
そうしていると店にたどり着いた。上七軒の賑わいから少し離れた静かな店だ。
女将は二人を出迎えると早速、二階の部屋へと案内した。英の言った通り貸切にしているらしく、階段の軋む音が静寂の中に大きく響いた。
「じゃあ、隣にいるから」
英はそう言って隣の部屋に入る。女将も去って行き、土方は案内された部屋に入った。
そこではすでに君鶴が深々と頭を下げていた。
「…このたびは、御足労を頂きましておおきに、ありがとうございます」
「…」
決して穏やかな席になるとは思っていなかったが、ピンと張り詰めた緊張感で満たされている。
土方は何も答えずに彼女の前に腰を下ろした。座敷の華やかな姿ではなく、瑠璃色の小袖に身を包み化粧も薄い。だが飾り立てなくともどこか抜きんでて印象的な面立ちは一度見たら忘れられない麗しさがある。さすが君菊の禿だ。
「…その着物は、君菊のものだろう」
「!…覚えてはりますの…?」
君鶴は目を丸くして驚いた。
「ああ。…それからお前のことも思い出した。足を痛めた君菊の介抱をしていた時、水を持ってきただろう」
「…」
あれは数年前、君菊と初めて出会った時だ。往来で足を痛めていた君菊を抱え、近くの店の座敷を借りた。持っていた薬を飲ませ少し会話を交わした…それが全ての始まりだったのだ。
「…姐さんはあの頃、とても気落ちしてはりました。懇意にしていた男はんに捨てられて…せやけど土方さまに出会ってまるで人が変わったかのように元気に…」
君鶴は俯いて涙を堪える。そして続けた。
「ずっと…ずぅと、お聞きしたかった。君菊姐さんに何があったのか、そして…何で、居らんようになってしもうたのか…でも一番、聞きたかったのは…土方さまは、姐さんのことをどう思ってはったのか…」
君鶴は教えてください、と懇願し頭を下げる。
(髪飾りも君菊のものだ…)
見覚えのあるものを目の前にすると、それがきっかけのように自然と記憶が鮮明になっていく。まるで泡沫のように散っていった彼女の姿が見えてくるようだった。







467


日が沈み、静かな夜が訪れていた。
「君菊は新撰組の間者だった」
君鶴は青ざめるが、土方は続けた。
「あの頃の俺は…新撰組の名を挙げるために必死だった。君菊の好意を利用して間者として情報を得て…そのなかで、長州の浪人が君菊の馴染みの客だと知り危険な賭けをした結果が、池田屋の一件だ」
「あの件が…」
幼かったはずの君鶴もその時のことは覚えているらしい。身近にいた君菊が関わっていると知って驚いていた。
「その件で君菊には負担をかけた。だから元々間者を引き受ける条件だった身請けをするために準備を進めていた、その矢先に…亡くなった」
土方はいま、思い出すだけで己の浅はかさに苛立つ。あの時もっと早く彼女を請け出していれば結果は違ったのではないか…何度そう思ったことか。
「君菊の芸妓としての誇りに傷をつけるわけにはいかない。間者であったことは隠し、女将にも行方不明になったと口裏を合わせて事実を伏せた。…これが全てだ」
簡単に説明すると、本当に短く終わることだったように思う。けれど君菊の遺したものは失ってからの方が長いせいかとても大きな出来事だった。
『ぜんぶ、あげますえ』
柔らかくも芯の強い言葉が耳に残っている。聡い君菊は土方の好意など感じていなかっただろうに、それでも自分自身を投げ出してまで務めを全うした。
今でもそれが彼女の深い愛情だったのだとわかる。
しばらくの沈黙の後、君鶴は唇を震わせながら
「まだ…ふたつ、残ってます」
「…何故死んだのか、か…」
土方は一層気が重くなる。
しかし、ここで彼女の疑問に答えることが、君菊の供養になるのならそれも悪くないだろうと思い英の提案を受けたのだ。彼女の恩に報いることなく時間が経ち、巡り巡って自分のやるべきことを君菊に託されたのだと悟った。だからここにいる。
「…君菊は長州の吉田稔麿の下僕に殺された」
「吉田…」
君鶴の瞳孔がカット見開く。そして口元に手を当ててあからさまに動揺した。
「覚えているのか?」
「もちろん…もちろんどす。あの方は突然やってきはって大夫を殴り、姐さんを深く…傷つけた方や。明朝の腫れ上がったお顔を見てうちはどんなに…」
幼い禿だった君鶴にはまるでトラウマのように覚えているのだろう。そしてその吉田の下僕に殺されたと知って、握りしめた拳がわなわなと震えていた。
「どうして…そないなことに…!」
「…君菊の身が危なくなり匿っていたが、池田屋では吉田は死んで危険は去った…君菊は屯所へ見舞いにやってきたが、その帰りに…突然、襲われた。俺の目の前で」
「襲われた?なんで…」
何故、君菊が死んだのか。
それは土方もあの時何度も思った疑問だった。
何故警護を手薄にしたのか、何故去っていく彼女を最後まで見送らなかったのか、そもそも何故彼女の来訪を許可したのか…。少し考えれば君菊を恨みに思う者が待ち構えてもおかしくはなかったのに、彼女はそれほど危険な務めを請け負っていたのにそこまで頭が回らず全てが「終わった」のだと楽観視していた。
だからあの時、総司は言った。明確に、口にした。
『あなたが、君菊さんを殺したんです』
血まみれで息絶えた君菊を抱えて、頭が真っ白になった土方に総司は容赦なく現実を突きつけた。
下手人が誰かなんて関係ない。巻き込んだのは土方自身であり、この結果を招いたのも土方だ。
こうなる覚悟がないのなら、関係ない他人を巻き込むな。ましてや自分へ好意を寄せるか弱い女子を利用するな。
総司ははっきりとそう責めたのだ。そう言われて正気に戻った。
「俺が殺したんだ」
「…!」
「下手人はその場から逃げた。その後どうなったのかは…わからない」
「わからないやて!」
君鶴は声を荒げた。色白の頬を真っ赤に染めてそれまで我慢していた感情を爆発させるように叫んだ。
「目の前で姐さんが死んだのに、何もせえへんかったってこと?!追いかけて、仇を討つこともなく、無惨に殺されただけ?!」
「そうだ」
「違う、あんさんは用済みになった途端、見放したんや!」
彼女の激昂は尤もだった。目の前で死んだ君菊に何の落ち度もなかったのに、その仇を討つことすらなく見送ったのだ。
「…君菊が望まなかったんだ」
「そんな嘘つかんといて!」
君鶴は急に立ち上がると、そのまま髪から簪を引き抜くと土方へと襲い掛かった。怒りに任せた末の行動だったのか、土方はその手をあっさりと掴み胸の前で止めた。
「…ッ」
「嘘じゃない。追いかけようとした俺を引き止めて…仕方ないと言った」
「…仕方ない…?」
君菊は言った。
『仕方ない』と。
仇を討つことよりも、最期の一瞬まで傍にいて欲しいと望んだのだ。そしてそれが幸せだとも口にした。
君鶴の手にしていた簪が落ちた。それもまた君菊のものだった。彼女は大粒の涙を零しながら
「…は…はは、姐さんの言いそうなことや…」
と呟いた。
君菊のことをよく知っている君鶴だからこそ腑に落ちたのだろう。力なく項垂れた彼女に土方は簪を返した。
英は君鶴には変な気を起こさないように説得したと言っていたが、やはりそう簡単に受け入れられるものではない。まだ若い君鶴を責めようとは思わなかった。
「…墓は、西本願寺にある。お前が行けば君菊も喜ぶだろう」
土方は懐から君菊の戒名を書いた紙を渡した。君鶴はそれを見るとゆっくりと大切なものを受け入れるように受け取った。
静かな部屋に君鶴の啜り泣く声がしばらく響いていた。
(そういえば君菊は泣かなかった…)
少なくとも土方の前ではいつも微笑んでいて、感情を露わにすることはなかった。彼女も人知れずこんな風に泣いたのだろうか…今更そんなことに思いを馳せる。
そしてようやく落ち着く頃、
「…土方さま、まだもうひとつ、残ってます」
「…」
「姐さんのことを…どう思ってはったんどすか…」
それは君鶴が一番聞きたかったことだろう。だがそれは土方が誰にも、総司にさえも口にしたことのないことだった。
彼女をどう思っていたのか。
誰に話したところで誰も得をしない、私情でしかない。
「…俺には、この先の人生を共に歩むと決めた者がいる」
「…」
「それは君菊も知っていたし、それを知った上で身請けの話をしていた。…だから君菊のことを本心でどう思っていたのか、それを誰にも言うつもりはない」
友人だった、恋人だった、恩人だったーーそんな陳腐な言葉で表現することはできない。
ただ、
「ただ…君菊の想いには、感謝している」
彼女がいてくれたから、いまの新撰組がある。
彼女が繋いでくれたから、武士への道を開いた。
そして彼女がいたからこそ…自分はもっと強く在らねばならないと気がつかされた。
「…これで、全部だ」
もう話すべきことはない。
土方は深く息を吐いた。今まで君菊のことを話すのを避けていたが、そんなに悪いことではないのかも知れないと思った。あの時に決めた覚悟を思い出せる。そして身近にいる大切なものを守らなければならないと改めて思えるからだ。
君鶴は目尻の涙を拭いつつ、緊張を解いたようだった。
「…うち、毎日北野天神さんにお願いをしてました。どうか、姐さんに会わせて下さるように、ご無事でおられますように…姐さんがきっと亡くなってはるって心のどこかでわかっていても、毎日手を合わせてました」
「…」
「やっぱりうちは信心深い氏子やない。きっとあの方の願いも…」
目を伏せて嘆く君鶴の言葉は、突然の来訪者によって打ち消された。
「大変だ!」
隣の部屋にいると言っていた英が慌てたように駆け込んできた。
「火事だ!」


総司は屯所の土方の部屋から夜空を見上げていた。
「満月だ…」
静かな夜に幾億もの星が瞬いている。暗闇の中でとりわけ眩い光を放つ月は少しの欠けもないまん丸な満月だ。
土方の本心に触れ、これ以上は黙っていることはできないと心を決めた。咄嗟の決断だったが少しの後悔もない。今はただこの事実を知った土方がどうか取り乱さないでほしいと願うだけだ。
総司は土方の帰営までこの部屋で待つことにした。どう切り出そうか、うまく説明できるだろうかと何度も頭の中で繰り返していた。
そんな時だった。
誰かがザッザッと最小限の足音でこちらに駆け込んできた。監察の大石だった。
「失礼します!土方副長は…」
「外出中ですが、何か?」
「また火事です。夜番の隊にも向かわせていますが、今回は規模が大きくなりそうだとのことで応援を」
「すぐに行きます」
大石は総司の返答に逡巡した。彼は総司の病を承知している。立ち上がりながら総司が「大丈夫です」と頷くと
「お願いします」
と仕方なく頭を下げた。
「すでに三軒ほど延焼しているそうです。場所は上七軒」
「上七軒?!」
「はい。先に行きます」
大石は忙しなく去ったが、総司の気持ちも逸った。
(まさか…)
巻き込まれたのではないか。嫌な予感が頭をよぎった。








648


土方が廊下に出ると、すでに煙が充満していた。
他に客がいればすぐに騒ぎになっただろうが、人払いをしていたせいで気がつくのが遅れたようだ。英に知らせてきた女将は、彼の腕の中で意識が朦朧としている。
「他に客はいないんだな?」
「ああ。俺たちだけだ」
英に短く確認をとって、部屋に戻り窓を開ける。
「くそ…ダメか」
ほとんど境界のないほど接する隣家も火の手が上がり、逃げ道はない。
(最近、あちこちで付け火の被害があったが…)
焦る気持ちはあるが、頭の中は冷静だった。ひとまず助かってから考えれば良い。
再び廊下に戻ると、君鶴も状況を理解して青ざめている。
「英、女将を抱えられるか?」
「もちろん。こんな形だけど俺は男だし余裕だよ」
唯一の救いは英が取り乱していないことだ。彼は以前も火事に遭い火傷を負っているが軽口を言うくらいはできるようだ。
「こんな夜だ、二階から飛び降りるのは危ない。まだ火は大きくないようだから階段を降りよう。お前は女将を頼む」
「わかった」
英も同じ考えだったのか反論なく同意して意識のない女将を肩に担ぐ。土方は君鶴に手を差し出した。
「お前は俺が背負う」
「…うち、自分で歩けます」
「一階は歩ける状態かどうかわからない。それに何かあったら君菊に申しわけが立たないだろう。もう時間がないんだ、従ってくれ」
「…」
君鶴は複雑そうだったが非常時に意地を張っても仕方ないと思ったのか、土方の手をとって従う意思を見せた。
土方は君鶴を背負い、英と共に階段をゆっくりと降りる。流石に煙の充満度は二階よりも濃く、あちこちで火柱が立っている。都の町屋は細長く出入り口までが遠い。
「英、先に行け」
「わかった」
初めてここにきた土方よりも、懇意にしている英の方が建物の構造をよく知っているだろう。彼を先に行かせて土方はそれを追った。
視界は煙でボヤけ、足元も焼けた家財で散乱している。何かの破片がそこらじゅうに広がり歩きづらいが、慎重に、しかし早く脱出せねば命に関わる。
「きゃっ…!」
君鶴が何度か小さく悲鳴をあげた。降りかかる火の粉を払いながら土方はひたすら前へ歩いた。
燃え上がる炎がパチパチと音を鳴らす。できるだけ呼吸を浅くしながら腰を屈めて前へと進んだ。
「もう少しだ」
英の視線の先には焼け焦げた扉がある。土方が安堵した瞬間だった。
「危ない!」
「!」
英の声でハッと気がついた。炎炎と燃える襖がこちらに倒れてきたのだ。
土方は咄嗟に君鶴を下ろし、彼女を守りながら両手で襖を払い除ける。一瞬の熱さがあったがそれでも全身で受けるよりもよほどましだろう。
しかし
「熱い!」
その炎は君鶴の長い髪へと飛び火した。
「いやや…!」
「落ち着け!」
土方は脇差でその髪を切ろうとしたが、彼女は自分の髪を引っ張り、投げ捨てた。
「…髢か?」
「…」
土方の問いに君鶴は答えない。だがここで押し問答している暇はないので土方はもう一度君鶴を担ぐと、出入り口で待ってる英の元へ向かった。
しかし彼は困った顔をしていた。
「火事で変形したせいか、ビクともしない」
英は何度か扉を引っ張るが動く様子はなく、蹴っても破れない。土方もやってみるが結果は同じだった。
「他の出口は?」
「あっちに裏口があるはずだけど、今から向かうのは…」
煙が充満し、一刻の猶予もない。土方は何か別の手段はないかと考えるが、思いつく前に事は解決した。
扉の向こう側から、ドンドンドン!と誰かが必死に叩いてきたのだ。
「土方さん!いますか、土方さん!」
「総司…!ここだ!」
「わかりました!扉を壊します、離れてください」
土方が英とともに扉を離れると、斧らしきものでガンガンッと豪快に破壊する音が聞こえてきた。数回で扉は壊れ、その先には総司と斧を構えた島田の姿がある。土方たちが彼らの助けを得ながら燃え盛る建物を離れたとき、轟音とともに炎に包まれていった。あと少し遅れれば一緒に焼け焦げていただろう。
土方がその光景をぼんやり見ていると、急に背中が急に重くなった。
「おい…」
君鶴がぐったりと目を閉じていたのだ。英は抱えていた女将を隊士に託し、駆け寄った。真剣な目つきで脈を測りながら、
「…大丈夫、気を失っているだけだ」
「そうか…」
土方は君鶴を下ろし、安全な場所に移した。一気に色々なことが起こって気が抜けたのだろう。目を閉じた顔はまるで子供のようにあどけない。
(赤毛…)
火事の最中には分からなかったが、髢の下には見慣れぬ赤毛が隠されていた。英は驚いていなかったので知っていたのだろうが、異国の血が混じっていることは推測できた。
「あまり深くは聞かないでやって」
「…ああ」
土方が何を考えているのか英はわかったのだろう。だが彼に言われなくとも、これ以上君鶴の心に踏み込むつもりはなかった。ただ、
(まったく、毎度君菊は厄介なものを引き受ける…)
なんとなく、赤毛の君鶴を彼女が自ら引き取ったのだろうと推察できた。面倒見の良い君菊ならそうするに違いない。
そうしていると、総司がこちらにやってきた。
「よかった。皆さん、無事で…」
「助かったよ。全く人生で二度も火事に遭うなんて、本当にツイてない」
英が苦笑すると、総司も「本当に」と無事を喜んだ。
土方は数度咳払いして近くにいた島田に
「状況は?」
と尋ねた。
「はい、我々は監察の指示を受け夜番の応援でこちらに参りましたが、この先五軒ほど焼けています。数人怪我人が出ていますが今のところ逃げ遅れた者はいないようです」
「付け火か?」
「火事の規模が大きく、まだ判然としないとのことです」
「そうか。今日の夜番は…」
「井上先生のところです」
「…。火消しに確認して必要なら加勢しろ」
「ハッ!」
総司の配下たちは島田を先頭にして指示に従い去っていく。土方がようやく一息ついたとき、
「土方さんは怪我は?」
と総司が尋ねた。
「無事だ。よくここがわかったな」
「上七軒に行くと言っていましたし、嫌な予感がして。きっと火事だと気づいたら陣頭指揮を取ると思ったのにいないので焦りましたよ。島田さん達とこの辺りを探し回っていたら、扉を叩く音がしてまさかと」
「お前の嫌な予感はよく当たるな」
「誉め言葉なんですか?」
「さあな」
二人は助かった安堵感で久しぶりに何に気負いもない力を抜いた会話を交わした。総司が何の憂いもなく微笑む顔が何だか土方の目に焼きついた。
しかしそれは、
「ゲホ…ッ」
と突然、総司が咳き込んだことで長くは続かなかった。


煙による軽い咳だと思ったのは一度目だけで、もう一度繰り返したとき、身に覚えのある吐き気を感じた。
すぐに英と目が合い、彼は何か言いたげにしたがそれよりも近くに土方がいて躊躇い、身じろぐ。
「ゲホ…ゲホゲホ!」
「どうした、煙を吸い込んだのか?」
「いえ…」
違う、と首を横に振ったがまた激しい衝動に襲われて総司はその場に跪いた。
「総司?」
「ゲホッ!」
体を折り耐えきれず吐き出す。喉が焼け付くような痛みと共に異物感を吐き出したとき、身体中が震えた。それは喀血によるものだけではない。
(やっぱり…もっと早く、話しておけばよかった)
目の前の土方がとても悲壮な表情で総司を見ていたからだ。今まで見たことのない驚きで青ざめ、動揺し、混乱しているように見えた。
ずっと隠していたことが、あっさりと彼の目の前に晒された。
「…総司…お前…」
手のひらから滴り落ちる血は、建物を焼き尽くす炎よりも赤い。加えて今夜の満月は明るすぎて何もかもを詳らかにしてしまう。
「…ごめん、なさい…」
総司はそう告げて、体の力を振り絞りその場から離れた。逃げ切れるわけがないとわかっていたけれどそうしなければ何もかもが終わってしまいそうで恐ろしかったのだ。
取り残された土方はしばらく呆然としていた。しかし
「歳さん」
と英に背中を軽く叩かれて正気に戻る。
「……知っていたのか…?」
「うん。でも…それは後で話す。今は…」
「…ああ…」
土方は立ち上がり、急いで総司を追った。
通り一本向こう、火事で避難し誰もいなくなった町屋の片隅に総司は座り込んでいた。もっと遠くに行くつもりだったのに力尽きてしまったのだろう。
土方はその後ろ姿を前に立ち止まった。
総司は身を屈め肩からぜえぜえと息苦しそうな呼吸を繰り返している。それは江戸にいた頃、薬売りの傍らでよく見ていた光景だった。
『若いのにねぇ、死病なんて』
『可哀想に…』
同情や哀れみのなかで痩せ細り、感染るからと遠ざけられ、孤独に息途絶えていく若人がたくさんいた。効く薬もなく気を紛らわせる程度の鎮痛剤しか渡すことのできなかった無力さを覚えている。
(お前もその中の一人だと言うのか…?)
土方は喀血する総司を目の前にしても、いまだにその事実を受け入れることができなかった。だからこれは夢なのではないか。総司に触れてしまうと全てが現実になってしまいそうな気がして、その場から動けない。
しかし、
「…と…し、ぞ…さん」
「総司…」
「ハハ…こんなふうに、知られるなら…あのとき、覚悟を決めれば、良かった…」
寂しげに微笑む総司を見た瞬間、すべての迷いは無くなった。なぜ一刻も早くそうしなかったのかと己を叱咤しながら、土方は総司を背中から抱きしめた。
「歳三さん…」
「俺はそう思わない。お前が、何も教えてくれないまま、山南さんの墓の前で…死ななくてよかった」
「…っ」
「そして今、まだ…俺の目の前で生きてる。それは夢じゃないだろう?」
「でも……私は、なんども、何度も嘘を…ずっと逃げて…」
この日が来るのが怖かった。
総司の目から溢れる大粒の涙を見れば、どれだけ苦しんでいたのか土方にはすぐ察することができる。
「もうわかったから」
言葉にしなくても良い。
土方は一層強く総司を抱きしめた。
そうしているうちに総司の呼吸は落ち着いていく。ぐったりとした総司に寄り添いつつ、土方は目元を拭った。
「ごめんなさい…」
「何を謝るんだ」
「こんな…病になってしまって…私は、役立たずです。きっと、近藤…先生のお役にも…」
鈍刀は主人の命を危険に晒すだけだ。これから幕臣としてますます脚光を浴びる近藤の元にいる資格なんてない。
「…歳三、さんも…早く、私を見捨ててください」
足枷を得るよりも手放した方が気が楽になる。最初は辛くともそのうち考えが変わるだろう。総司は声を震わせながら懇願したが、土方は
「言いたいことはそれだけか?」
と受け入れなかった。
そして何の躊躇いもなく口付けた。
「…!」
総司は咄嗟に胸板を押したが、上手く力が入らない。いつも同じ何ら遠慮のない行為は続き、ようやく隙を見て逃げるように顔を逸らした。
「何馬鹿なことを…!」
と叫んだが、それも再び唇で塞がれてしまった。口腔に感じる温かで懐かしい誘いによって総司は抵抗をやめた。
そして互いの唇が惜しそうに離れた。
「…感染るって、知らないんですか…?」
「知ってる。でも俺には関係ない」
土方はどこにそんな根拠があるのか自信満々だった。
総司が一番危惧していたことをあっさり聞き流して、欲しい言葉を投げかける。土方の前では迷いはなくなる。
(やっぱりこの人が好きだ…)
そう思えば思うほど、堪えきれない悔しさと哀しさが溢れ出る。
「…っ、私は…なにも、できません…」
「そんなことはない。俺の傍にいればいいだろう」
「きっと邪魔になる…」
「また口を塞がれたいのか?」
「…」
口をつぐんだ総司を土方は優しく撫でた。昔から子供扱いだと不貞腐れていたのに、今はそれが心地良い。そして土方は子供をあやすように抱きしめた。
「お前は難しく考えすぎだ。…二人でいれば何も恐れることはないのに」
彼の背中越しに見える満月は、あまりにも美しかった。







649


火事は収束したようで、次第に静かな夜が戻り始めていた。
「…とにかく、戻ろう」
土方は総司の手を引き立ち上がらせる。呼吸は随分落ち着いたが、まだふらついている身体を支えた。
「あの…お願いがあるんです」
「なんだ?」
「この件…近藤先生には黙っておいてもらえませんか?」
総司の申し出に土方は「だめだ」と即答した。
「こんな重要なことを局長で、兄弟子であるかっちゃんに黙っておけるか。今すぐにでも報告に行きたいくらいだ」
「お願いします、あと少しで良いんです。近藤先生の夢がようやく叶うこの時に、私のことで暗い影を落としたくないんです。先生が武士になった暁にはちゃんとお話しします、約束します」
総司は縋るように頼み込んだ。今の総司にとって近藤の夢が叶うことはたった一つの希望でもある。それを邪魔するのが己であるなんて一生許せそうにない。
土方も総司の気持ちを汲み取ったのか、躊躇いながらも
「…考えておく」
とひとまずは心に留めてくれるようだ。総司は安堵し、一層身体の力が抜けた。
土方は総司を背中に担ぎ、火事現場にもどることにする。
「英の他に知っているのは誰だ?」
「…お加也さんと君鶴さんです。あと、鈴木さんと大石さん」
「女子はなんとなく想像がつくが、何でその二人が」
土方はあからさまに不快感を示した。よりによって御陵衛士として出ていった伊東の弟と、試衛館の頃から因縁がある大石の名前が上がるとは思わなかったのだろう。
「二人とも偶然、私が血を吐いたところに居合わせたんです。私が頼み込んで黙っていてもらいました…大石さんを責めないでください、土方さんに問われたら隠さずに答えると言っていましたから」
「…」
「あと、河上も知っています。そもそも彼と…」
「長い話になりそうだ。落ち着いてからで良い」
火事現場はすぐそこだ。総司は土方の背中を離れ、衣服を整えた。
満月の淡い光に照らされた白い煙が、もくもくと夜空へと舞っていく。五軒分を焼いたという火事は火消しと新撰組によって消し止められ、女将の意識も戻り怪我人はいないとのことだった。野次馬たちも減り、関係者だけがその場に残っている。総司は組下の隊士を夜番の井上たちとともに帰営させた。
依然、目を覚さない君鶴には英が付き添っていた。
「話は終わった?」
英は成り行きを察していた。総司が頷くと土方へ身体を向け、深々と頭を下げた。
「黙っていて申し訳なかった。嘘はついてないが、隠し事をした」
「英さん、やめてください。私が頼み込んで付き合ってもらっただけなんですから」 
「…松本先生や南部先生はご存知なのか?」
「いや…知っているのは姐さん…加也だけだ」
土方は難しい顔をしていたが「頭を上げろ」と英の肩を軽く触れた。
「医者のお前を責めるつもりはない。今夜は総司の話を聞くからまた改めて話をしたい。…それから、君鶴のことを頼む」
「わかった。お鶴は煙を吸いすぎたのかもしれない。心配だから診療所へ連れて帰るよ」
英は意識のない君鶴を抱える。彼女の赤毛は月夜の下でよく目立ち、野次馬たちの目に触れてしまった。彼女は懸命に隠していたようだったので、目を覚ましたらショックを受けるかもしれない。そういう意味でも英は連れて帰るのだろう。
「じゃあね」
「…英、お前は大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ。またね」
土方と英が会話を交わしている。不思議なことに総司には、まるで昔からそうしていた友人同士のような響きに聞こえた。


総司は土方の背中に背負われて別宅へ向かった。
何から話して良いかわからない総司へ土方がぽつぽつと質問をする。この日に備えて散々用意してきた台詞があっさりと頭から抜け落ちて、どこかぎこちないやりとりになってしまった。
いつ血を吐いたのか、どうやって皆に知られていったのか、なぜ別れると言ったのかーーー。
あらかた説明を終えた頃に別宅へ入る。満天の星は晴れの兆しを見せる太陽に隠れていき、いつの間にか朝方になっていた。
土方から水を受け取り飲み干すと疲労感のある身体を横たえて、総司は深呼吸した。
「土方さん、あの…」
「もう寝ろ。だいたい経緯はわかった」
「…いいえ、まだこれからのことを話してません」
「…」
土方はあえて触れていないようだった。気まずそうに視線を逸らす。
「それは…すぐに答えの出るようなことじゃない」
「私は今までのように暮らしたいんです」
総司の言葉で土方の表情が歪んだ。
「…だめだ。近藤先生に話すまでは黙っているにしても、そのあとは療養するんだ。江戸に戻っても良い」
「いいえ、そのつもりはありません。自分が近いうちに役立たずになるのはわかっています、だからこそその日までは先生のお役に立ちたいんです。幕臣になられるのであれば、尚更…」
「そんな身で何ができるって言うんだ。今も万全ではないのだろう」
「できるだけのことをします。例えなにもできなくても弾除けくらいにはなるでしょう」
総司は重たい身体を起こして、土方の腕を掴んだ。
「お願いします。私は生きながらえるよりも、いまちゃんと動けるうちに、先生のために役に立ちたいんです」
縋ってでも譲れない思いを告げる。
けれどわかってくれると思った土方は、今までで一番苦い顔をしていた。
「…なんで、お前はいつもそうなんだ」
総司の手を逆に掴み、強く握りしめた。痛いほどに強いその手から彼が悲嘆しているのが伝わってくる。
「…歳三さん…」
「役立たずだとかなにもできないだとか、なぜ自分を貶める。お前はもう試衛館に預けられた小さなガキじゃない、今までだってちゃんとかっちゃんのためにいろんなものを犠牲にして働いてきただろう」
「犠牲にだなんて、そんな…」
苦しかったこともあった。手に負えないほどの悲しみを背負うこともあった。けれど一度もそれを『犠牲』だと思ったことはない。
土方はさらに強く力を込めた。
「お前が生きているだけで良い。役に立たなくても、それでいいと絶対にかっちゃんは言う。それとも他に理由が必要か?それだけじゃ、お前にとって意味がないのか?」
「そんな…!ッ、げほっ!げほ!!」
総司が声を上げると、また咳き込んでしまった。土方はパッと手を離し、再び総司の体を横たえた。ヒューヒューっと喉が鳴って浅い呼吸を繰り返す。
「…また今度にしよう。俺にも…少し考えさせてくれ」
総司は頷いた。夜通し働いた病人の身体はこれ以上持ちそうにないし、土方も心の整理が必要だろう。
急に襲ってきた眠気に意識を奪われながら、総司はうとうとと浅い夢を何度か見た。夢と現を交互に繰り返しながら、そのどちらかに土方の姿を見た。
(歳三さんが…泣いている気がする…)
こんな日が来るのが怖かった。
でも、こんな日が来ないはずがないとわかっていた。
ひとりで孤独に現実を受け止める土方が本当に泣いているのだとしたら、その背中に寄り添い謝りたい。
こんな病を招いてしまったこと、あなたを苦しめてしまったこと、何もかもを謝りたい。

朝陽だろうか。
白く眩い優しい光が差し込んでいた。
どんなに絶望した夜にも、必ず夜明けがやってくるのだ。













650


天は大きな間違いを犯す。
いままでその最たるものが近藤という存在だと思っていた。彼は恵まれた剣の腕を持ち、熱心な勉強家で志も篤く忠義を尽くすまさに誠実な男だが、その出自はいつまでも農民のままであった。そのせいで彼の前には大きな壁がいつまでも立ち塞がり、何度も挫折を経験した。それを傍で見守り続けた土方はいつも歯痒い思いを抱えていた。彼がその呪縛から逃れられないのにどうして自分が脱することができるだろうか。
天は間違えた。彼を産み落とす場所を。そのせいで同じ場所で足掻き続けることしかできず、ずいぶん足踏みをしたように思う。しかしそれもようやく終わり、近藤はあるべき場所へようやく導かれた。命を賭けて戦い続けた苦労が報われたと思った矢先だ。
(何故、総司が…)
土方は眠る総司の隣で頭を抱えていた。長い夜を超えての徹夜だが、目が冴えてまったく眠気はない。いっそ夢であってほしいくらいなのにこの悪夢はどうしようもない現実でしかなかった。
穏やかな寝顔はいつもと変わりない。しかし以前痩せたように感じたのは間違いではなかったのだ。
(何故気づかなかった…!)
土方は拳を握りしめた。爪が皮膚に食い込んでいたが気にならなかった。
総司が途切れ途切れに説明したところによると、初めて喀血したのは河上と対峙した時、そして君鶴に助けられ英が診察した。別れを切り出した頃に鈴木に見つかり、つい最近に大石に気づかれたということだった。
その間、土方は伊東の脱退と幕臣への昇進のことで忙殺され、別れを切り出されても感情に任せて責めるだけだった。その裏にどれほどの葛藤があったのか知ることもなく、一人で悪者になろうとする姿に気がつかなかった。
(どんなに孤独だったことか…)
誰にも話せず、自分を役立たずだと貶め、行き詰まって山南の墓の前に立ったのだろう。そしてその首元に刀を押し当てたーーー将来に絶望して。
そこまで追い詰められたのに気づくことがすらできなかった自分が情けない。
「…悪かった…」
今更謝っても仕方がない。総司が聞けば「謝ることはない」と一蹴するだろう。病は土方が招いたものでもなく、気がついたところで何かができたわけではない。
けれど土方は自分を責めた。
神や仏を熱心に信じたことはない。そんなものがいるならばとっくに自分は罰せられている。
けれど今まで自分が目的のために仲間を殺し、同志に手をかけて命をぞんざいに扱って来たことの報いは自分へと帰ってくるだろうと思っていた。因果応報という言葉がまさにふさわしく、自分の歩む道の果てには地獄しかないと覚悟していたのだ。
けれどその報いは総司へ向けられた。まるで天は土方の一番の苦痛を知っているかのように、土方に代償を求めたのだろう。
「…くそ…」
土方は目頭を抑えた。打ち寄せる波のように悲しみとも、苦しみとも言える苦痛が押し寄せてくる。
泣く資格はない。泣いたところで総司を困らせるだけで何も変わらないのだ。
土方は眠る総司の細い髪を撫でた。せめて夢の中では穏やかであってくれと願う。
朝陽が昇り、春の暖かな日差しが差し込んでいたのだが、今の土方には眩しすぎた。


武田は屯所に響き渡る銃声に顔を顰めていた。
幕府からの要請で銃の実践訓練が導入されてしばらく経った。初めは辿々しかった隊士たちも随分慣れ、様になってきたということだったが武田は目にしていない。
(武士の矜持が許さぬ)
頑なな態度ではあったが理性では理解できていた。昨年の長州征討では敵の最新鋭の銃に随分と遅れを取ったことが大きな敗因であった。どう考えても刀が不利な戦であることは明白であり早急に身につけるべき戦力だろう。
しかし武田にはひたすらに軍法を学び刀にこだわり続けここまでやってきたという誇りがある。その誇りをすっかり忘れて異国の武器を携えるという選択がどうしても武田にはできなかった。頑固だと揶揄されても構わない、最後の一人になるまで抗ってやる。
武田は読んでいた書物を閉じ、数冊抱えて五月蝿い屯所を出た。
大通りから小道に入るといきつけの貸本屋がある。その蔵書を見渡すとほとんど読んだことがあるものばかりだったが、数冊読み返すことにして店を出た。
すると
「武田先生」
とまるで偶然のように田中寅蔵が声をかけてきた。
(またか…)
偶然だと思っていたのは最初の数回で、このところは待ち伏せされているのだと気がついていた。
一見すると凛々しい若人のようだが、撃剣師範を務める過激な攘夷論者である彼は獰猛な眼差しと牙を常に隠している。品行方正であると同時に不穏な威嚇を常に感じる男であった。
「…何か用かね」
「用というほどのことはありませんが、少し世間話などいかがですか」
「私には話すことなどない」
武田は冷たくあしらうが、田中は怯まず
「昨日の上七軒の火事のお話です」
と切り出した。上七軒の火事は町中で大きな話題になっている。武田は嫌な予感がして田中と共に人通りの少ない物陰に移動した。
「…私は夜番で、井上組長とともに消火にあたった…それだけだが?」
「これまでのすべての火事の現場にいらっしゃってますよね」
「偶然だ!」
武田は瞬間的に反発したが、田中は笑みを浮かべたままだった。
「随分都合の良い『偶然』ですが…監察がそれを信じるでしょうか。伊東先生に合流しようとした一件で目をつけられているのでは」
「それは貴様も同じだろう」
田中の眼にカッと炎が灯る。しかしそれは一瞬のことで彼はそれを隠した。
「…伊東先生は新撰組に残ることが忠臣のすべきことだとおっしゃったのです。他にも数人、そのように厳命された者がいます」
「誰だ、それは…」
「言わぬ約束です、それに話がずれています。…武田先生、火事の一件で何かご存知のことがあるのではありませんか?」
「…」
武田は田中の狙いがいまいち掴めなかった。
伊東に合流を拒否されたという立場は同じであるが、火事にこだわる理由がわからない。
(まさか私と同じ目的か…?)
武田は田中を見据えた。弱腰な態度を見せるからつけ上がるのだ。
「…私が付け火の犯人とでも?」
「それは…」
「根拠があれば示されるが良い。後ろ暗いことなど何もない!」
田中の言葉を遮って武田は怒鳴る。それまで饒舌に語っていた彼は黙り、(ただのハッタリか)と武田は鼻で笑う。
「まったく…これだから口先だけの攘夷論者は」
「何だと!」
呟き程度の一言で、燻り続けていた火種が火柱を上げるかのように田中は顔を真っ赤にした。それまで涼しい顔をして武田を責めていたのが嘘のようだ。
「攘夷こそが国益となるのだ!古臭い兵法ばかり語る学者風情にはわからぬのであろう!」
「攘夷攘夷と吠えるだけなら誰でもできる!」
「何だと?!」
田中は怒り狂い、己の右手を柄にやった。武田は「ふん!」と嘲る。
「抜くなら抜け。はみ出し者の私を監察はどこかで見ている。その鯉口を切れば私闘を禁ずる法度で貴様は切腹だ!」
「…っ」
田中はこめかみに血管が浮き出るほどに興奮していたが、法度の言葉にグッと唇を噛み震えながら刀から手を離した。
「失礼する!」
田中は怒りがおさまらない様子で荒ぶったまま去っていく。武田は内心、獰猛が野獣が去って行ったことに安堵した。
「…一体、何だったのだ…」
(火事の付け火は私だと密告するつもりだったのか?)
しかしそうしたところで根拠はなく、彼に何の利点があるのだろうか。
それに気になるのは、伊東が臣下を数名残していると口にしたことだ。きっとそれは内密にすべき事柄を感情に任せて漏らしてしまったのではないのだろうか。
「…所詮、この世は弱肉強食」
武田は無意識に呟いていた。







解説
なし


目次へ 次へ