わらべうた




651


加也が英と共に土方の元へやってきたのは、翌日のことだった。偶然ひとりで別宅にいた土方は二人を招き入れた。
加也は客間に入って早々に頭を下げた。
「ご無沙汰をしております。英から事情を聞き、主治医として病状をご説明したくお約束もないのにお邪魔してしまいました。突然、申し訳ございません」
「いや…いずれ話を、と思っていた」
「あの、沖田さんは?」
「屯所に戻った」
加也は少し呆れたように「そうですか」とため息をついた。
「もう五度目の喀血です。英に任せていましたがこの機会に診察したいと思っていたのですが」
「夕方には顔を出すかもしれない」
「仕方ありません、またの機会に致します」
土方は加也と顔を合わせるのは見合いの席以来で、その時の一度きりだったが、それでも彼女が随分と大人びた医者となったことは感じ取れた。
彼女はまずこれまで病のことを黙っていたことを詫びたが、そもそも総司が頼んだのだろうから責めるつもりはなかった。
「…それで、あいつの病状というのは…」
「まだ時折血を吐く程度で、ご本人も重い病だという自覚はないのかもしれません。しかし、このまま休養せず忙しく過ごせば身体の負担となり、必ず支障をきたすでしょう。日常的に血を吐き、床に伏すことになります」
「それは…あと、どれくらいで?」
土方は、自分がらしくなく緊張しているのを自覚した。いまはまだ目に見えて重い病だと思えないのは総司だけでなく土方も同じだ。病の重さはわかっていても現実味がない。
加也は少し黙った後に答えた。
「…一年位内には今と同じ暮らしはできなくなるでしょう」
「一年…」
「沖田さんにもお伝えしましたが、病の進行は人それぞれです。長く患う人や完治する人もいます。ですが、養生しない限り長らえることは有り得ません」
加也は淀みなく口にした。妥協も甘えも隙もなく、この病が命を喰らうのだと。
そして続けた。
「…あの方は、短くとも思い通りに生きたいのだとおっしゃいました。医者として、また友人として許容すべきか葛藤しましたが…わたくしは、協力することを選びました。生き方は本人が決めるべきだと…でも本心からそれを納得したわけではありません」
「姉さん」
それまで黙っていた英が初めて口を挟んだが、加也は無視して続けた。
「今は短くとも良いと思っていても、長く生きられるならまた違う希望も得られましょう。できればわたくしはそのお手伝いがしたいと…そう思っています。南部や良順先生にはまだ話しておりませんが、きっと良い手立てが見つかります。ですから…」
加也は養生して欲しい、と言いかけてやめた。個人的な望みを口にするのは相応しくないと踏みとどまったのだろう。
一方で英は複雑な表情だったが、今の土方には慮る余裕はなかった。
「…あいつは同じことを言っていた。このまま役立たずのまま生きるくらいなら、このままで良いと」
「土方さまも同じお考えですか?」
「…俺は、養生するようにあいつを説得するつもりだ」
「そう仰って下さるのなら、お考えが変わりましょう!」
加也は頷き微笑んだ。土方が同じ意見であることに安堵したのだろう。しかし土方の表情は冴えない。
「あいつは頑固だ、説得するには時間がかかる。近藤局長には伏せることになるだろうから、南部先生や松本先生にはまだ黙っていて欲しい」
「構いません。できれば隊務の方も調整して頂けるなら助かります」
「そのつもりだ。…非番の日はここで過ごすように言っておく。これからも診察を頼みたい」
「かしこまりました」
加也の凛とした眼差しと揺らぎない信念がほんの少しだけ土方を安堵させる。まさか見合い相手だった彼女との縁がこれからも続くとは、土方にも予想だにしないことであった。

加也は一足先に診療所へ戻り、英が残った。彼は風呂敷から漢方薬を取り出して土方に差し出した。
「あまり眠れてないのだろう?」
「…眠気がない」
「先のことを考えると誰しも眠れなくなる。目元にクマができている…これから長いんだから、一度休んだ方が良い」
英の前で去勢をはっても仕方ない、土方は抗わず薬を受け取った。
「…お前は、どう思っている?」
加也の「養生すべき」という意見にどこか英は納得していないように見えた。
しかし彼は首を横に振った。
「医者の卵の立場でそんなこと言えないよ」
「総司の友人として、言ってみろよ」
「…意地悪だな。そりゃもちろん長く生きられるならそれは良いことだけど…長く細く生きたからって良いことばかりじゃないだろう」
英はそれまで正座だったが、足を崩して楽な体勢になった。総司の友人であり、土方の知人として話しているのだ。
「陰間として生きてきた死生観かな…皆、何かしらの病でパタパタと死んだ。それが普通で、老いて醜くなると自分に価値がないと思っていたから、長く生きたいと思ったことがなかった」
「…」
「でも陰間から抜け出した今は、長く生きられるならそれも良いと思える。だから姉さんが言った通り、生きているうちに考えが変わる、その為に生き続けるのは大切かもしれない。でもそれは周りの意見でさ…一番大切なのは本人の気持ちだから、俺は医者としても友人としても沖田さんの意見を尊重するよ」
「…そうか」
「それに、一人くらい味方がいても良いだろう」
英は少し茶化したが、皆が養生しろと責め立てては総司が意固地になることを察しているのだろう。
土方は深く息を吐き、こめかみに指先を這わせた。寝不足のせいで思考が働かないせいか、何が総司のためになるのか、何をすべきなのか混乱していた。
(こんな時にかっちゃんなら良い答えをくれるのだろうが…)
必死に口止めをされたのだ、幕臣への昇進が正式に決まるまでは黙っているつもりだ。しかしどんな顔をして近藤と会話を交わせば良いのか。
「…一つ、話しても?」
英が口を開かない土方に問いかけた。
「なんだ?」
「俺が初めて沖田さんを診察した時…あの人は自分の病状よりも『この病は感染るのか』と尋ねてきた。労咳は巷では移る病いとして恐れられているけれど、明確な根拠はない…そう話したけれど、ひどく気にしていた。たぶん、歳さんにうつしてしまうことを気にしているんだ」
「…それは、あいつもそう言っていた」
「でも、傍にいたい…そう願っているのだとすれば本当は色々な葛藤があるはずだ。口にしないだろうけど、大病の自分にその資格があるのか、厄介者じゃないのか…とかね、あの人は考えそうだろう」
「…」
「そういう不安を取り除いてあげられるのは歳さんだけだから。落ち込む気持ちはわかるけど、あの人の前でそんな寝不足の顔を見せちゃダメだ」
英は総司の話をしているのかと思いきや、土方を叱咤していた。昔から心を見透かすようなことを言って土方を翻弄していたけれど、今は真っ当な指摘が有り難く感じる。
「…ああ、わかった。すぐに休む」
「うん。じゃあ俺はもう帰るから…」
英が荷物を抱えて立ち上がる。しかし足を止めて躊躇いながら
「あの…もうひとつ。斉藤さんのことだけど」
と口にした。
「ああ…親しいんだったな」
「仕事の話はしない、飲み仲間だよ。だから…脱退したのだって知らなかった」
「そうか…別に対立しているわけじゃない。お前は気を使わなくて良い」
英は少し安心したのか「そうか」と微笑んだが、すぐに視線を落とした。
「でも…沖田さんのことは当然知らないんだろう?知っていたら出て行かないはずだ」
「…知らないはずだ。総司が良いというまで黙っていてくれ」
「勿論、そうするよ…」
英にしては歯切れが悪い。彼はその長いまつ毛を寂しそうに伏せて
「悲しむだろうな」
と呟いたのだった。







652


都を賑わす付け火について意外な噂が立ち始めたのは、桜が満開になる暖かな春のことだった。
「聞いたか?付け火の犯人は子どもだってさ」
原田がいつもの好奇心を剥き出しにしながら声をかけてきたが、永倉は首を傾げた。
「子ども?俺は食うにも困る老人だと聞いたぞ?」
「はぁ?全く違うじゃねえか」
「ちなみに私は山野くんから美しい女人がフラれた腹いせに付け火をしたと聞きましたよ」
さらに総司からそんな話を聞いて、原田はますます混乱したようだった。
「なんなんだよ、まったく!」
「あちこちで色々な噂が立っているようだ。もっとも、土方さんがいた上七軒はまだ火元もよくわからないらしいぞ」
「まさか新撰組の鬼副長がいるとは思わなかったんだろうなぁ。きっと恨まれたくなくて今頃震えてるぜ」
原田は上七軒の件だけは「運がない」と同情したように頷いたので、総司は思わず笑ってしまった。
火事は数日前に土方が巻き込まれた上七軒の件から止まっていた。結局、犯人は分からないまま時間だけが過ぎていた。
隊内ではあちこちで広がっては消える噂に翻弄され騒がしいが、総司はどこか俯瞰しながらそれを聞き流していた。頭の中は別のことでいっぱいだったからだ。
(土方さんは何を考えているんだろう…)
火事の件だけでなく、幕臣への昇進や伊東がいなくなった穴埋めなどで忙しない。いつも以上に疲れているように見えるのはきっと病を知ったせいだろうが、あの日以来ゆっくりと話をする暇がなかった。
ただ非番の日は別宅で養生するようにキツく言いつけられたのでそれだけは守っている。
(…土方さんは養生しろというのだろうな…)
自分が土方の立場なら同じように言うだろう。家族同然、そして特別な関係を結んだからこそ死を急がせたくないと願うはずだ。
土方の気持ちは痛いほどわかる。彼から見れば自分はただ意地になっているだけなのだろうけれど。
「…で、総司はどう思う?」
「え?あ、すみません。聞いてませんでした」
原田は「おいおい」と肘で総司を小突く。
「だから、犯人は誰かって話だよ。子供か?老人か?美人か?それとも別の話を聞いたか?」
「…そんな話は聞いてませんが…付け火の犯人は、火事の様子をどこかで見ているって本当ですかね?」
「お?そうなのか?」
原田は再び興味津々の表情を浮かべ、隣にいた永倉は手を叩く。
「それは聞いたことがある。頭がおかしい奴ほど自分で付け火をした後の様子を確認したいらしい」
「疑われるんじゃねぇの?」
「野次馬に紛れれば気付かれにくい」
永倉の話を聞いて原田は「なるほどな」と腕を組んだ。
「それで、総司は心当たりがあるのか?」
「…いえ、確信はありません。ただ気になることがあって…」
総司は躊躇いつつも武田の件を話した。総司が知る限り武田は火事の現場に何かしらの形で存在し、上七軒の時は夜番の一人として消火にあたった。偶然が重なったにしても武田の様子もおかしかった。
だが、原田は笑い飛ばした。
「まさか!あの小心者がそんなことするはずねえよ!」
「…私も武田先生の性格的に想像がつかないんです」
原田の言う通り、武田は不遜な態度で周囲を威嚇するが、臆病者でもあり計算高い。己への損得を考えれば無作為な付け火などしようはずがない。
永倉は「うん」と唸った。
「…犯人でなくとも何か知っているかもしれない。それをあえて黙っているのは何か狙いがあるのかもしれないな…」
「狙い?」
「とにかく、少し探ってみよう」
永倉がそう言い出した時、パーン!と銃声が聞こえた。このところ続く銃の稽古が始まったのだ。
「お、やっと始まったか。行こうぜ」
原田は稽古を楽しみにしているようです、当番ではない時にも顔を出しているようだ。二人を誘ったが、
「すみません、少し疲れたから休みますね」
と総司はやんわりと断って二人を送り出したのだった。


同じ頃、銃声の騒がしさに紛れるように一人の監察が土方の部屋に顔を出した。
監察に異動になって数ヶ月、きっかけは思わぬ出来事だったが山崎の見込み通り彼はそちらが向いていたようだ。
「お呼びでしょうか」
大石は抑揚のない声で問いかける。土方は彼を部屋に入れた。
「…報告することはあるか?」
「文に記した通りです」
彼らは滅多に屯所に足を踏み入れることはない。それ故に今回の呼び出しは緊急性の高いものだと理解しているだろうが、大石は淡々としていた。
「…余程、総司には思い入れがあるんだな」
嫌味のように聞こえるだろう。けれどその言葉にさえ彼が動揺せず、無表情のままであることは素直に感心していた。
「お尋ねになれば話す…と、約束しました」
「そうか」
何を考えているのか分からないが、総司の言った通り大石は約束を違えなかったのだ。彼の口の硬さは信用に値すると評価した。
土方はさらに問うた。
「他の者…監察以外を含めて知っている者はいるか?」
「いいえ、誰も知らぬことかと」
「じゃあこのままの状況を維持しろ。今の任務は別の者に任せて総司の手助けをして欲しい」
「…」
大石はすぐに返事はしなかった。それまで全く表情を変えなかったのに少し困惑しているように見えた。
「なんだ?」
「…予想外の話だったので」
大石には土方が私情を優先したように思えただろう。だが、土方自らが総司の任務に付き添うことはできないし、組下の隊士に知られるのは困る。そうなると必然的に大石に頼らざるを得なかったのだ。
「少しの間だけだ、そのうち療養させる。何があっても…総司の口以外から局長に知られるわけにはいかねえ」
「…了解しました」
大石はそれ以上は何も言わずに「では」と立ち去った。足音を立てず、気配を消してまるで風のように姿を消した。
すると入れ替わるように近藤がやってきた。
「誰がいたのか?」
妙なところで勘の良い近藤の言葉を聞き流し、
「何か用か?」
と尋ねると近藤は上機嫌で土方の前に腰を下ろした。
「昇進の件だよ。そろそろ隊士に話しても良いんじゃないかと思ってな。それにおつねや大先生にも早く知らせたいんだ」
人の良い近藤は早く隊士に知らせて喜ばせたいと言う気持ちが強いようだが、土方は首を横に振った。
「まだ駄目だ。会津公はお約束してくださったが、幕府から仮の決定が出ただけだろう」
「仮の決定が覆されたことはないと耳にしたぞ」
「何が起こるかわからない。隊士たちをぬか喜びさけてどうする。それに、江戸の皆には絶対にまだ伝えるなよ、講武所の件では大先生も随分落ち込まれたんだから」
近藤は「そうか」と残念そうに肩を落とす。彼はただただ喜びを分かち合いたいのだろうが、分かち合うべき者とそうでない者がいることを知らない。
近藤は尚も呑気に続けた。
「ほら、桜も満開で美しいだろう。晴れやかな門出に丁度良い季節だと思ったんだ」
羨ましいほど前向きで明るい。今の土方には眩しく清々しく、少しだけ恨めしい。
(…総司の気持ちがわかるな…)
病を告げれば今までの喜びが吹き飛ぶくらいに落胆し、悲しむだろう。それがわかるからこそもう少しだけ、もう少しだけ、と甘やかしてしまうのだ。
「…どうした?怖い顔をして…何かあったのか?」
「もともとこんな顔だ。良いからもう少しだけ黙っていてくれ。酒を飲んだら口が軽くなるから気をつけろよ
「わかったよ」
やれやれと口うるさい幼馴染に辟易したように、近藤は苦笑したのだった。






653


山﨑が神妙な面持ちで土方の部屋を尋ねてきたのは大石に命令を出した次の夜だった。
監察から身をひいている彼は堂々と土方の部屋を訪ねれば良いのだが、誰にも聞かれたくない話を持ってやってくる時は大抵人目を忍んでやってくる。今夜もそうだった。
「どうした」
「…近藤局長は、別宅でしょうか?」
「ああ、そのはずだ」
山崎は少しだけ安堵したように、土方の前に座った。しかしすぐに表情を引き締めて深々と頭を下げた。
「…監察の性というか、業と言いますのか…どうしても気になってしもうて、調べてしまいました」
彼が深刻な顔で前置きを述べたので、土方もすぐに察した。
「…総司のことか?」
「…」
山崎は言葉にはせずに頷いた。
「副長が沖田せんせのことを気にされるのがどうも…。先日の火事の夜、火事の様子見がてら身を隠して沖田せんせに同行し、知りました」
「そうか。近々お前には話すつもりだった」
「監察としても、医者の端くれとしても失格やと思います。こんなに近くにいて気づかへんやなんて…」
「あいつはよほど上手く隠していたんだな」
山﨑が苦悩するのが珍しくて、土方は苦笑した。いくら監察の対象外とはいえ山崎の目を誤魔化したのだから大したものだ。
「ハナさんや加也姐さんに問い詰めましたが、口が固とうて固とうて…恥を偲んで、こうして副長の元へ参った次第です」
「南部先生や松本先生にもまだ黙っていてくれ。お二人が知れば、近藤先生に伝わる」
「やはり、局長はまだ…」
「話していない」
「…」
山崎は複雑そうな顔をしていた。医者の卵として労咳のことはよく知っているだろう。彼が何を言いたいのか、何を忠告したいのかはわかっていたので、土方はあえて口を挟ませなかった。
「しばらくあいつの隊とお前の隊を合同で任務にあたらせる。露見しないように支えてやってほしい」
「…へえ、畏まりました。なんとしてもお守りします」
聡い山崎は弁えてそれ以上は何も問わず、再び深々と頭を下げたのだった。


翌日。
非番の総司が別宅で休んでいると、土方がやってきた。火事の日以来、ここで顔を合わせるのは初めてだった。
「おかえりなさい」
総司が出迎えると土方は「ああ」と短く答えて水を飲んだ。
「さっき、英さんが帰ったんです。会いませんでした?」
「いや、会わなかった」
「そうですか。評判の落雁を頂いたんです、これなら甘いものが苦手な土方さんも食べられるだろうって」
「…そうか」
総司は普段と同じようにふるまっているが、土方はそれをぎこちなく受け取った。まるで病なんて嘘みたいに明るく見えるのは、土方の現実逃避なのかもしれない。
土方は部屋に入るなり、
「横になっていろ」
と言ったが、総司は笑い飛ばした。
「心配しすぎです。英さんも悪くなっていないと言っていましたし、普段は全然いつも通りで大丈夫ですから」
「…」
総司は落雁を手に取るとひょいっと口に放り込む。上品な菓子をまるで子供のように食べるのは、確かにいつもと変わらない。
土方は気が進まず茶だけを口に含むと、気まずかったのか総司が「そうだ」と話始めた。
「そういえば、英さんから伝言…というか、相談があって」
「相談?」
「君鶴さんのことです。火事の後、南部先生のところで療養していて、もうすっかりお元気になったそうなんですが…」
「髪のことか?」
土方はあの赤毛のことを思い出す。色素が薄いというよりもはっきりと異人の血が混じっているという異質な髪だったのではっきりと覚えていた。
勘の良い土方はなんとなく総司の話が見えた。
「はい。あの時、火事の野次馬がたくさんいたでしょう。君鶴さんは評判の芸妓さんだからすっかり噂が広まってしまって…とても置屋に戻れるような状況じゃないそうなんです。だからしばらくは南部先生のところで匿われることになっているそうなんですが、それもいずれ支障が出るでしょう。だから何とかならないかと…」
総司は知人であり病のことを伏せてくれている君鶴への恩義なのか、どうにか世話を焼きたい様子だった。とても他人にお節介を焼いている場合ではないのだが、放っておける性格ではない。
それが新たに心労になっては良くないと思い、
「わかった。考えてみる」
と土方はすぐに引き受けた。総司は驚いた。
「…意外です、絶対に面倒だとか放っておけとか言うと思ったのに」
「…別に良いだろう。君菊の禿だった娘だ、良いように計らう」
「そうですね、お願いします」
総司は嬉しそうに微笑んで、茶を口に運ぶ。すると咽せてしまったのか軽く咳き込んだので
「大丈夫か?!」
咄嗟に土方は総司の背を摩った。もちろんすぐに収まった。
「…大袈裟ですって、ちょっと喉に詰まっただけなのに」
「じゃあ、放っておけと言うのか」
「…それは…」
「…」
土方と総司の間にぎこちない沈黙が生まれた。
庭から差し込む暖かな日差しが、まるで部屋には届いていない。目を賑やかす春の花々も、土方の目には映っていない。土方には総司を目の前にそんな余裕はなかったのだ。
総司はおそるおそる尋ねた。
「やっぱり歳三さんは…隊を離れて養生しろって言うんですか?」
「…」
「本当は、私だってわかっています。こんな…人にうつしてしまうかもしれない、足手まといでしかない病人がいたって役に立つはずがない、迷惑だって…。でも…」
「何度も言わせるな。俺はお前が病になったからといって役立たずだと思っていない。俺にはうつらないと断言できる」
「だったら…!」
「だからこそだろう?!」
土方は声を荒げた。
「お前が大切だから養生しろって言いたいんだ!役立たずだからとか足手まといだからじゃない、治してほしいから休めって言ってるんだ!」
「…っ」
「くそ…当たり前だろう、そんなことは…」
土方は視線を逸らし、頭を抱えた。
総司はしばらく呆然とした。
(ああ…そうか…僕は、そんな当たり前のことをわかっていなかったのか…)
普段そんなことを口にしない彼が、本気で怒鳴ってようやく実感する。
彼を困らせているんじゃない、悲しませているのだと。
彼は悲しいのだと。
そんな当たり前で単純なことが見えていなかった。先のことばかりを考えて、今湧き上がるべき感情が見えていなかった。
「…あ…」
無意識に一筋の涙が頬を伝っていた。彼に見られたくなくてすぐに拭ったけれど、すぐに溢れて止められなかった。
「総司…」
「…すみません、何だか…自分でもよくわかりません」
「良いんだ。怒鳴って悪かった。ただ…まだ俺も整理できない。お前には静かな場所で養生してほしいと思うが…どこへも行かせたくないとも思う。俺の目の届かない場所へお前が行ってしまうなんて、考えられない」
「…私もです。ここにいちゃいけないと思うのに、ここ以外では生きられないような気がしてしまう。我儘だとわかっているんですけど」
「だから、近藤先生に話したらどうすべきか相談しよう。それまでは…お互いにゆっくり考えれば良いだろう」
「…はい」
土方はゆっくりと総司を抱き寄せた。温かな体温に触れて強張った身体が解きほぐされていくような心地だった。
「本当だ…」
「何が?」
「二人で居れば恐ろしくないって歳三さんが言っていたじゃないですか。本当だなって、今実感しています」
考えれば考えるほど思いつめていたのに、いまはすぐに手を差し伸べてくれる相手がいる。頼れる相手がいる…それがどれほど心強いか実感した。
「そうか」
総司だけでなく、最初は少し表情が固かった土方もほっとしているように思えた。互いの気持ちを共有することがこんなにも安心感を生むのだとやっと理解し合えたのだ。
「ちゃんと聞いてやるから、思ったことはちゃんと伝えろ」
「…今までちゃんと聞いてくれてなかったんですか?」
「まったく…茶化すな」
「はい、わかりました」
土方の肩に顔を埋めて心臓の鼓動を聞いた。不思議なことに自分のそれと同じリズムを刻んでいたのだった。





654


総司が剣術の稽古に励む隊士を眺めていると、同じ当番である永倉が
「確かに武田の様子がおかしいな」
と首を傾げていた。
「何かわかりました?」
「ここ数日、奴の行動を気に掛けていたが、非番の日はもちろん暇さえあればどこかに出かけて行く。昔から陰気で外出を好むような奴じゃないだろう。なにかおかしいな」
永倉の言い草には武田への嫌悪が滲んでいたが、それは昔からなので総司は聞き流した。
「監察が追っているようですから、何かあればすぐに土方さんの耳に入るとは思いますが…」
「万が一、奴が付け火なんかに手を出してるなら俺が斬る」
正義感の強い永倉は冗談ではなく本気のようだったので、総司はあえて
「物騒なことを言わないでくださいよ」
と笑ったが彼の表情は変わらなかった。
そうしていると
「総司、稽古を代わるぞ」
と井上がやってきた。
「どうしてです?」
「知らん。ただ土方に代わるように言われただけだ」
「…そうですか」
総司は巡察から戻ってきてすぐの稽古だったので土方が気を使ったのだろうと察した。不調はないがいつ何時血を吐くかわからない状況だと英にも警告されていたので素直に従うことにする。
井上が気を吐き、稽古は活気付く。面倒見の良い井上の稽古は昔から好評で新撰組でも人気だ。総司はほんの少しの寂しさを覚えながら道場を後にしたのだった。


同じ頃、斉藤は付き纏う藤堂を振り切って一人で歩いていた。
(息が詰まる…)
無邪気な藤堂の相手も疲れるが、少数の御陵衛士は互いの行動を把握しあっているためなかなか気が抜けず、加えて屯所を間借りしているせいで新撰組にいた頃に比べると一人になる時間はほとんどなかった。それに未だに斉藤のことを疑っている者もいるため何かと動きづらいのだ。
「さて…」
視線の先には武田の姿がある。人混みに紛れ新撰組隊士としてのオーラは全くない。ただその目はギョロリと見開いていてどこか不気味に見える。
斉藤は彼が田中寅蔵と落ち合うのかと思い背中を追っていたが、その姿はない。このところプツンと関係が切れたかのように彼らが会うことはなかった。
(見込み違いだったのか…?)
御陵衛士として脱退を希望した者同士が接触していることが気掛かりだったが、権力に弱い武田と攘夷に熱心な田中では水と油ほどの考えの違いがある。彼らが何かを共謀しているとは思えず、勘違いだったのだろうかと考え始めていた。
すると付けていた武田は目当ての店を見つけたのか、立ち止まると吸い込まれるように中に入った。賑やかな繁盛店だったので、斉藤も姿を隠しつつ中に入ることにする。
店の隅に陣取り、周囲の様子を探った。常連客や旅装の客で犇めき合うなか、斉藤と対角線上の隅の席に武田の姿を見つけた。待ち合わせているのは新撰組隊士の茨木だった。
(よりによって…)
斉藤はため息をついた。
茨木は伊東が新撰組の動向を探るために敢えて残した同志だ。彼以外にも数人いるがそのリーダー格になる。賢く冷静で真面目だが、器用ではない。武田と茨木の接点はないはずで、茨木はどこかぎこちない態度だった。武田はそんな彼に対していつもの高圧的な姿勢で接しているようで、彼の表情は固い。
遠くの席に座る斉藤には彼らが何を話しているのかは聞き取れなかったが、徐々に茨木の表情が曇っていき次第に青ざめたのを見て察した。
(武田に露見したか…)
茨木がなぜ新撰組に残ったのか…少し考えれば誰でもわかるようなことでもあるが、誰も触れずにいたグレーな領域に敢えて踏み込まれると必要以上に焦るものだ。土方でさえ泳がせている彼らに『君たちは密偵だろう』と直接名指しされると居心地が悪い。
(だが、なぜそんなことを…)
斉藤は彼らの様子を注視した。
武田が傲慢な態度なのは相変わらずだが、茨木の表情は次第に憤りへと変わった。そして武田が話し終えたのか満足そうに席を立つとそのまま出ていった。茨木は頭を抱えて考え事をしているようだった。
斉藤はすかさず彼に近づいた。
「どうした?」
「あ…っ」
斉藤の存在に全く気がついていなかったのか、茨木はとても驚いた顔をした。
「なぜ、ここに…」
「偶然だ。それより、武田に何を言われた?」
「…伊東先生にご報告します」
茨木は遠回しに斉藤には話したくないという意思を示した。伊東の同志のなかには斉藤をいまだに受け入れない者が多く彼もその一人だ。
「大方、土方副長に密偵を務めていることを報告するとでも言われたのだろう?」
「!な、なぜそれを…」
真面目な茨木は咄嗟に嘘がつけずに焦るが、その反応だけで充分答えを得た。
「何を強請られた?」
「……この件を黙っていて欲しければ、伊東先生と話をさせろと」
茨木は焦っているようだったが、斉藤は呆れた。
(まだ自分に見込みがあると思っているのか…)
伊東に会いさえすれば処遇が改善されると信じている。愚かなほど短絡的な考えに斉藤は唖然とした。
だがそこまで考えが及ばないのか、茨木は「どうすれば」と相談を持ちかけたのだが
「放っておけ」
と斉藤は言い放った。
「しかし…!」
「負け犬の遠吠えだ。土方副長は相手にしないだろうし、お前が否定すれば根拠もない。おそらく伊東先生に報告すれば同じ返答が返ってくるだろう」
「…」
茨木は少し冷静さを取り戻して頷いた。不意のことには覚束ないが本来は賢いのだ。そして苛立ったように親指の爪を噛み、
「田中の奴…」
と吐き捨てた。
「田中?まさか、田中寅蔵か?」
「…ええ。熱心に伊東先生に協力したいと申し出るので仲間に加えたのです。不本意でしたがあの者は感情に流されるところがあり、妙なことを吹聴されては困ると判断しました」
「伊東先生はご存知なのか?」
「いいえ…分離以降、我々は伊東先生に接触することが難しいのです…」
脱退からまだ数日、動きづらいのは彼らも同じだ。易々と伊東に手紙が届くわけがなく探り探りのはずだ。
「…勝手なことをしたと叱られるでしょうか」
斉藤の反応が芳しくないので、茨木は再び焦る。忠誠心の強い彼は失敗を恐れているようだ。
「…俺から伝えておく。それで、田中が武田に漏らしたのか?」
「先程そのように言っていました。田中は口が軽く信用できない、自分は弱みを握っている…仲間にするなら切り捨てて自分にしろ…と」
「…」
斉藤はますます言葉を失った。武田という人間はおそらく一生かかっても理解することができないほど遠い存在なのだと、気が遠くなるようだ。
だがどうにか気力を取り戻し、尋ねた。
「弱み…とは?」
「わかりません…尋ねましたが答えませんでした。でもハッタリに決まっています」
茨木はふん、と鼻を鳴らして決めつけるが、武田の性格を考えるとなんらかの自信があって口にしたのだろう。
「…わかった。くれぐれも田中と武田には気をつけろ。しばらく二人を遠ざけておけ」
「わかりました」
茨木は軽く頭を下げてすぐにその場を去った。御陵衛士との接触は禁じられている、どこで誰が見ているのかわからないのだ。
斉藤は自分の先に戻り酒を頼んだ。その酒が来る間にサッと矢立を取り小さな紙に文字を連ねると小さく折りたたみ机の隅に置いた。すると
「ハイ、どうぞ」
と年配の女将が酒と肴を持ってきて、代わりにその紙を持っていく。
斉藤は何も気づかないふりをして酒に手をつけたのだった。







655


桜が散り始めた春の終わり。
「一名捕縛しました。いま隊士に尋問をさせています」
巡察が終わった総司の報告を受け取り、土方は「そうか」と頷いたが、
「…どうした?具体が悪いのか?」
と総司の表情が優れないことに気がついた。しかし総司は首を横に振った。顔色が悪いというよりも、不機嫌な様子だ。
「もしかして…山崎さんに話しました?」
この所、山崎と一緒の巡察が多く何かとフォローしてくれていた。しきりに総司の調子を伺うのも最初は彼が医学方を兼務しているからかと思ったが、頻繁に尋ねられるので察してしまったのだ。
「ああ。もっとも、話す前にすでに予感していたようだが…ダメだったか?」
「いえ、そういうわけではなく…助かってますけど、申し訳なくて」
知っていながら知らないふりをして手を貸してくれている…医学方として思うところがあるだろうに力を貸してくれているのが気の毒だったのだ。
「遠慮するな。今は…頼っておけ」
「…わかりました」
新撰組隊士の幕臣への昇進が間近だ。喜びに水を差したくないという総司の思いを土方が汲んでくれているのだから、反論はなかった。
そうしていると近藤がやってきた。
「歳、今良いか?」
「ああ」
近藤が少し困った表情で部屋に入ると、その背ろには武田の姿があった。
土方は急に雰囲気を張り詰めて
「何事だ」
と武田を問い詰めるが、彼は何も答えず上座に座った近藤とその横に控える土方の前に腰を下ろした。困惑顔の近藤と邪険な態度の土方を前に武田は悠然とした余裕がある。彼らの間に挟まれた総司は張り詰めた空気を察し、「私は席を外します」と申し出たのだが、
「構いませんぞ、沖田先生」
「は?」
「事の真意は明らか。むしろ一人でも多くの者に耳を傾けて頂きたい」
「…」
何の話かわからず当惑した総司が近藤に目を向けると、深く頷いたので彼のいう通りその場に居座ることにした。
すると舞台は整ったと言わんばかりに武田が口を開いた。
「拙者はすでに平隊士の身。思うところもあるがしかし新撰組への忠誠は誰よりも厚いと自負しております。それ故に隊を裏切る不届き者を見過ごすわけにいかず、近藤局長に注進致したく参上したのです。事は重大故、土方副長のお耳に入れるべきと思いました」
「…と、武田君が申すのでな…」
近藤は仕方なく足を運んだらしい。長年、新撰組に籍を置く武田は良く心得ていて、近藤に先に話を通せば土方も聞かざるを得ないとわかっていたのだろう。
そんな周到さがますます土方の嫌悪感を煽るのだが、当の本人は気がついていないのだ。
「…前置きはいらない。話してみろ」
土方が促すと、鼻を鳴らして武田は続けた。
「この数日、続いている放火の件です。老人、女、子ども…放火犯について様々憶測があるが…それはすべて事実。金を積んで彼らに放火を指示した者がいるのです!」
朗々と語る武田に対し、土方は表情を変えなかった。総司は懐疑的に首を傾げたが信じ込みやすい近藤は素直に驚いている。
「…まさか、新撰組にそのような者が?」
「ええその通りです、局長!奴の意図は図りかねるがその野心故の行動でしょう!それに上七軒以来、ぴたりと放火が止んだのは副長が巻き込まれたことを恐れたに違いありません。逆にそれが己が隊士の一人であることを示しているのです」
「そ、そうかもしれぬ…」
人の良い近藤は武田の話に頷くが、土方が
「勿体ぶらずにその者の名前を言え」
と強く遮った。
武田は薄く笑い答える。
「田中寅蔵です」
その意外な名前は総司の頭にはなく、また近藤も同じだったのか「まさか!」と声を張り上げた。しかし土方だけは反応せずに冷静に続けた。
「根拠は?」
「奴に頼まれて付け火をしたという者を突き止めました。空き家や留守を狙い火をつけるようにと指示を受けたそうです」
「何のために?」
「本人を尋問すれば宜しい」
武田は相当自信があるようだったが、総司は俄には信じられなかった。田中は過激な攘夷論者であり、たまに隊士と激論になり騒動を起こすことはある。しかしこのような大事を起こすとは思えなかったのだ。
それに総司には武田に対して疑念があった。
「…武田先生、私はあなたを火事現場では必ず見かけました。偶然というには偶然すぎるほど…私がその事実を問い詰めた時、あなたは隠そうとした。なぜです?」
それまで自信満々だった武田が一瞬動揺した。しかし尊大な態度を崩すほどではなかった。
「それは…拙者が疑われるのを避けるためだ。現場にはたまたま居合わせただけ…しかしいらぬ憶測を口にされるのは面倒であったのだ」
「では、その疑いを晴らすために犯人探しを?」
「…そのような所です」
歯切れの悪い返答だが、筋が通っていて総司には反論はなかった。
武田は再び近藤へと視線を向けた。仕切り直しと言わんばかりに強気の口調に戻る。
「局長、田中は伊東とも通じているという噂があります。剣の腕があり撃剣師範である彼は有能ですがいつ局長へその刃を向けるかわかりませんぞ。それに上七軒では副長にも危険が及んだ。早めに対処されては…」
「笑わせるな。伊東と通じているのはお前も同じだろう」
土方の一言でさらに空気は張り詰めた。武田はそれまでの自信に満ちた眼差しを、あからさまな敵意へと変えて土方を睨む。ピリピリと緊迫した空気が流れるなか、武田はどうにか感情を抑えながらも返答した。
「…あれは動揺し、血迷っただけのこと。今は御陵衛士などに興味のカケラもござらん」
「では放火の犯人を突き止めて汚名返上のつもりか?それとも別の目的があるのか?」
「拙者は忠義を尽くしたまでのこと。下心などない!」
「忠義?誰に対する忠義だ」
「なにを…!」
「そこまで!」
言い合いになった二人を近藤が止めた。今にも抜刀しそうな武田と、火に油を注ぎ続ける土方の間に近藤が仲裁に入る。
「武田君、ひとまず田中君のことは了解した。注進は感謝する…これ以上はこちらに任せてくれないか」
「局長がそうおっしゃるなら」
近藤からの謝意に満足したのか、武田はひとまず怒りを鎮めて受け入れた。
「では失礼」
深く頭を下げつつ横目で土方へ憎々しい視線を送りながらも武田は去っていく。
その姿が見えなくなったのを確認して、近藤は深くため息をついた。
「まったく…わざと彼を挑発しただろう」
「私の闘争を許さず、法度で切腹になれば丁度良いと思っただけだ」
「まったく…」
血の気の多い幼馴染に呆れながら、近藤は腕を組み直した。
「それで、いまの話はどう思う?本当に田中君が首謀者だと?」
「武田の妄想なら良かったんだが…概ね間違いない」
「知っていたんですか?」
総司は驚いた。武田が話している間に何のリアクションもなかったのは、彼への嫌悪ではなく単に事実だとわかっていたからなのだ。
土方は二人の反応を見て軽くため息をついた。
「監察よりも武田が優秀だとでも思っているのか?…最初は武田がやたらと火事現場に居合わせることを不審に思った。そこで監察に奴を尾行させていると田中の行動が目についた。奴も火事現場で必ず目撃されていたからな…結局は田中が黒だということになり、いまは証拠を集めさせているところだ」
「では武田先生はなぜ現場に?土方さんも偶然だと?」
「点数稼ぎだろう」
「点数稼ぎ?犯人を見つけて手柄を上げようとしたのか。まあ…彼は降格されたばかりだからなぁ、気持ちはわからないでもないが…」
同情する近藤を土方は「違う」と否定した。
「伊東への手土産だろう」
「伊東先生に?」
「御陵衛士はまだこれと言った活動がなく手柄もない。武田は都を騒がす犯人を見つけたと伊東に伝え、あわよくば…とでも思ったのだろう。だが結局は近藤先生に伝えた」
「うむ…歳、どういうことだろうか?」
混乱してきたのか近藤は悩ましげだ。総司は手を叩いた。
「ああ、そうか。上七軒で土方さんが巻き込まれたから、恩を売るために御陵衛士ではなくこちらに伝えたんですね。田中さんが副長を狙ったとでも言い換えれば、謀反人を捕まえたということで株が上がると?」
「たぶんな。己の身の振り方を優先して動いているのは間違いないだろう。そのうち己の行動で自滅する…近藤先生、今後は武田に付き合わなくて良いからな」
「やれやれ…歳が全て把握しているなら、俺は武田君の空回りに振り回されたのか」
近藤は心底疲れたように頭を抱え、総司は苦笑する。策を巡らせた結果が土方の手のひらの上だと気がつけば、武田はどんな顔をして地団駄を踏むことか。
そして田中寅蔵が脱走したのは、その夜のことだった。







656


四月十五日、早朝。
「脱走したと聞いたぞ。田中君の件は誠だったのか…!」
朝から血相を変えて声を上げる近藤に対し、土方は不機嫌そうに聞き流す。呼ばれていた総司たち副長助勤たちがずらりと並ぶが、
「一体どういうことだよ」
と原田が首を傾げるように幹部とはいえ事情を知らない者がほとんどだ。
しかし土方は説明を省き、
「撃剣師範であり、井上組の田中寅蔵が昨夜脱走した。理由は不明だが脱走は事実だ。監察が追い見失ったとのことだが、まだ洛外には出ていない。徹底して探し出せ」
「…誠に申し訳ないが、よろしく頼む」
上司である井上は深々と頭を下げたが、そもそも彼の組下は問題児が多く日頃から手を焼いているのを皆知っているため、責める者はいなかった。
だが今回の脱走はいつもとは違う。
「っても、相手はあの田中だろ?無傷ってわけにはいかねぇなぁ…」
原田が気が進まない様子でため息をついた。
田中寅蔵は撃剣師範を務めている優秀な使い手だ。並の平隊士では歯が立たず、犠牲が出るかもしれない。他の副長助勤たちも困惑した表情で顔を見合わせていた。
その雰囲気を感じとった近藤も渋い顔で腕を組む。
「左之助の言う通りだな。ここは同じ撃剣師範の総司や永倉君の組を中心に動いた方が良いのかもしれぬ」
そう言って同調したのだが、
「馬鹿を言うな」
と土方が一刀両断した。
「撃剣師範だろうが、何だろうが、田中一人に対してこちらが何人で対応すると思っている。法度を破った裏切り者に恐れ、逃げ腰の腑抜けた隊士など今後必要ない」
土方が局長の言葉さえ遮って吐き捨てた台詞で、場の空気は一気に緊迫した。それは隊士が脱走したことへの苛立ちだけが起因ではないのだが、それは総司以外には分からないことだった。
驚く近藤と気まずい原田…口を開いたのは永倉だった。
「…土方副長の言う通りだ。なるべく率先して動くつもりだが、相手はあの『田中寅蔵』だ。火がつけば何をしでかすか分からないところがある…早めに連れ戻そう」
その声かけのおかげで幾分か士気が高まり、皆はそれぞれの部屋に戻っていく。
未だに不機嫌な土方に
「何かあったのか?」
と近藤は尋ねたが彼は何も答えなかったのでそのまま出て行ってしまった。
残ったのは総司だった。
「…土方さん」
総司は複雑だった。田中の捕縛を総司と永倉に任せようとした流れを彼が断ち切ったのは、自分を庇っているのがわかっていたからだ。土方が考えているように、確かにいまの総司には田中の相手は荷が重いのだが。
「お前が何を言いたいのか分かっている。だが…今は耐えてくれ」
「…」
彼の気遣いに対してわかりました、と安易に答えたくはなかったが彼に反抗する立場でもない。
総司はふうと息を吐いて、自分の気持ちを落ち着かせた。
「…彼が放火している件は皆んなには話さないのですか?」
「身柄の確保が先だ。『そらみたことか』と武田が大きな顔をしては面倒だからな…」
「でも田中のことは見張っていたんでしょう?いとも簡単に監察の目から逃れて脱走するなんて、意外です」
「監視から逃れたのは失態だが…脱走は意外ではない。わざとそうさせたからな」
土方はフッと小さく、妖しく笑った。彼の表情に誰も寄せ付けない影が差す。
「…彼を泳がせているんですね。何のために?」
「最後にはわかるだろう」
土方は答えを濁らせて立ち上がった。総司にさえ明かさないのはそこに暗い思惑があるからなのだろう。
彼の指す最後は一体どこにあるのか…わかるのはいつもすべてが片付いてからだ。


善立寺の朝も騒がしかった。
「新撰組から使いの小者がやって来ました」
皆が朝餉に揃うなか、内海が伊藤に手紙を手渡した。
分離して以後、一度も交流のない新撰組から手紙が寄越される…皆が緊迫するなか伊東はその手紙を無言で読んだ。
「…伊東先生、手紙には何と?」
耐えきれずせっかちな篠原が声を掛けると、伊東は厳しい表情のまま皆を見渡した。
「昨晩から今朝にかけて田中寅蔵と接触した者は?」
と尋ねた。心当たりのない者は一様に首を横に振り「一体何事か」と不思議そうにしていたが、そのなかで一人がおずおずと手を挙げた。藤堂だった。
「…すみません、俺は昨夜に少し話を」
「どういった話かい?」
「たまたま通りかかったら俺がいたとそういう風に声を掛けられました。接触は禁止されていると突っぱねましたが、まだこちらに加盟したいと懇願され…振り切って逃げました」
「そうか」
伊東は少し安堵したように息を吐いて手紙を折りたたんだ。
「大蔵先生、新撰組からは何を?」
「田中寅蔵が昨晩、脱走したそうだ。その行方を尋ねる内容だったが…御陵衛士に身を寄せているのではないかと疑っているのだろう」
「何を馬鹿な!」
「奴は仲間でもなんでもありませんぞ」
「甚だ迷惑な話だ!」
御陵衛士たちは声を上げて憤りを露わにしたが藤堂は伊東の前に出て頭を下げた。
「俺の軽率な振る舞いがご迷惑をおかけしました!」
「今回は不運な事故のようなものだ、君が謝ることはない。田中は君の親切心に付け込み勝手に声を掛けて来たのだから拒みようがないだろう。今後は誰が来ても相手にすることはないよ」
伊東の慰めに藤堂は「はい、はい」と申し訳なさそうに頷き、仲間たちも彼を囲み励ました。
藤堂はすっかり『御陵衛士』の一員であり、伊東の腹心だ。違和感なく溶け込む藤堂がそこにいる。
斉藤が彼らの結束が固まるのを眺めていると、伊東がお開きを告げてまた日常的へと戻っていく。
斉藤もそうしようと思ったのだが、
「斉藤君」
と伊東に呼ばれて傍に腰を下ろした。
「はい」
「田中寅蔵について君は何を知っている?」
「隊内でも指折りの攘夷論者で、同じ撃剣師範でした。普段は品行方正に見られますが、思い詰めると理性よりも感情が勝る…脱走は考えられないことではありません」
「我々への合流を諦めていないのだろうか?」
「…そうとも考えられますが、それ以上に諦められないのは攘夷のはず。都を落ち延びたところで本懐は叶わないと分かっているとすれば、留まっているかと思います」
斉藤に意見に対して、伊東はさほど表情を変えなかった。おそらく同じ考えだったのだろう。
伊東は微笑んだ。
「私は文の返事をしたためるが…君は新撰組の手助けをしてやったらどうだろうか?」
「…手助け?」
「君のことだから田中の不穏な動きには気がついていたのだろう?だったら居場所も見当がつくのではないか?」
「…」
斉藤は何も答えなかった。
伊東は言葉通り文机に向かい、さらさらと細く美しい字で文を書く。
彼が何を考えているのか…言葉通りのアドバイスなのか、斉藤の立場を疑う誘導尋問だったのだろうか。
「…伊東先生、これは一つの可能性ですが」
斉藤は切り出した。
「可能性?」
「田中寅蔵が付け火の犯人である、という可能性です」
「…ほう?」
全くの不意打ちだったのか、伊東は少し驚いて文を書く手を止めた。
「私は付け火の犯人も田中寅蔵にも全く興味はないが、君がなぜそう思ったのか、気になるな」
「俺が火事で思い出すのはまずどんどん焼けです。禁門の変で撤退する長州兵が都に火を放ち、大変な騒ぎになりました」
「私はその頃こちらにはいなかったが…民は会津や新撰組が長州兵を炙り出すために火を放ったのだと誤解したそうだね」
「そういうこともありました。それから…もう一つ」
「もう一つ?」
「…ただの推論です。後できっと笑い話になるでしょう」
「皆で笑おうではないか。…じらさないでくれ」
斉藤の前置きを伊東は笑い飛ばす。彼は好奇心を隠さずに楽しそうに聞いていた。
「…池田屋です。新撰組が捕らえた古高は都に火を放ち、帝を長州へお連れするのだと息巻いていました」
池田屋騒動でその目論見は阻止されたが、一体どこまで本気だったのか今となってはわからない。だが尊王攘夷に燃える彼らの眼差しは何の曇りもなかった。田中はままならない攘夷への気持ちを、利己的な方法で発散しているのではないか…。
察しの良い伊東は斉藤の少ない言葉で意図を掴んだようだ。
「まさか…君は、田中が模倣していると?」
「証拠はありません。ただ、火事と言えばそのような因縁がある…そう思うだけです」
「…」
斉藤には答えはわからない。ただ伊東は斉藤の話をとても興味深く聞いていて
「笑い話になると良いな」
と微笑むだけだった。






657


武田は屯所を出た。
大通りを東へと早足で向かい、朝の賑やかな市場を通り抜けその隅にある古びた宿へ入る。人々の日常という営みが聞こえるある部屋に、田中は潜んでいた。
彼を見つけた途端、
「なぜ、私を呼び出した」
武田は懐から手紙をまるで汚物のように彼の前へ投げ捨てた。いつの間にか枕元に置いてあった手紙にはこの宿へ来るようにとそれだけが書かれていたのだ。
刀を抱え座り込んでいた田中は、
「身に覚えがないのか?」
と武田を強く睨みつけた。その眼差しは人を喰らうような獰猛さを孕んでいたので、強気に踏み込んだものの、武田は怯む。
「な…なにを…」
「いくら時代遅れの学者崩れとはいえ昨日のことくらいは覚えているだろう。貴様は局長たちに俺が付け火の犯人だと告げ口した」
田中は刀を抱えたまま座っている。武田は仁王立ちのまま応戦した。
「じ、事実をお伝えしたまでだ!お前は何件もの火事騒ぎを起こし、ついには土方副長を巻き込んだのだぞ!新撰組隊士として犯人を進言するのは当然であろう!」
「白々しいな…隊を裏切り、御陵衛士に加わろうとした貴様が今更そのような正義感を振りかざすとは」
「…ふん!何とでも言えば良い!」
冷めた態度の田中と、熱くなっている武田。
武田は子供の喧嘩のように彼を相手にするのが無駄だとようやく気がついた。
(どうせ、そのうち捕らえられるに違いない)
本当は今すぐにでも田中を捕らえるべきだが、しかし剣の腕で及ばないことは重々わかっている。
田中も状況は理解しているはずだが「フフッ」と悲壮感なく笑った。
「…監察の目は誤魔化したはずだが、貴様のような間抜けな学者に出し抜かれるとはな…自分の爪の甘さには驚かされる。さっさと切り捨てればよかったものをつまらぬ人殺しをする気が進まないばかりに、機会を逃したのがこの結果だ。…ところでなぜここに来た」
「なぜだと?呼び出したのはお前ではないか」
「無視すれば良かろう。しかも殺されるかもしれぬのに一人でのこのこと…脱走した隊士と関わりを持って何の得がある」
「…」
武田は言葉に詰まった。
手紙には差出人の名前がなかったが、おそらく田中だと察しはついた。彼の脱走は早朝には隊内に広まり、捜索に多くの隊士が加わることになっている。
この手紙を近藤や土方に渡せば良かったのかもしれない。いつその刀を抜くかわからない田中を相手に別れを惜しむほど親しくはないはずだ。
ただ立場が同じだっただけでーーー。
「…ただ、知りたいだけだ」
「何を?」
「なぜあのような真似をした。放火など…馬鹿げている。誰かを殺したかったのか?それとも別の意図があったのか?」
今でなければもう彼の口から真実は語られることはないのかもしれない。そう思うと最後に一目だけでもこうして向かいあい、その心のうちを尋ねてみたかったのだ。わからなかった問題の答えを知りたかった…ここに来たのは好奇心かもしれない。
田中は少し黙り込んだ。
「…ある時から、新撰組が自分の居場所ではないと気がついたのだ」
「…」
「気がついたからには苦痛となり…しかし逃げ出そうにも逃げ出せず、苛立ちは募った。そうしてふと思い出したのだ…攘夷の狼煙は炎であったと。炎が止むことなく焼き尽くされれば、この世は変わるのだと」
「…正気か?その目論見が外れて長州は力を失ったのだぞ」
「今は盛り返している。きっとこの世が変わる時に彼らは……いや、これ以上は論じても仕方ない。どうせ死んだ後の話だ」
一瞬目の色が変わった田中だったが、すぐに昏い目で笑って、続けた。
「攘夷を諦めた幕府やそれに従う新撰組には用はない。俺には御陵衛士もただの隠れ蓑にすぎない…つまり新撰組に入隊したことがそもそも間違いだったのだ。だから結末は同じだ、どうせ死ぬ。そして貴様も同じだ」
「…何?」
心外な風に問い返しておきながら、武田は内心ドキッとしていた。
「居場所がない、考えを改めるつもりもない…そんな時代遅れの俺たちは御陵衛士に関わった時点で終わっている。副長に目をつけられ、ますます存在意義を無くし…最後には逃げ出す。俺は自分のそんな最後が分かっていたからこそ、派手に打ち上げ花火を上げただけさ。たとえ無意味な狼煙だとしても気分は悪くなかった」
攘夷の志を折られ居場所を無くした田中と、いらぬ軍学を振り翳し用無しとなった武田。二人は御陵衛士という逃げ道を模索しながらも拒まれ、ついに拠り所を無くした。
同じだった。
何もかも、同じであった。
しかし武田はわかっていても認めるわけにはいかなかった。
「…私は同じ轍は踏まぬ!」
「そう思っていれば良い、ただの死人の戯言だ。ただ俺を犠牲に生き延びたところで、通る道は同じだと…そう伝えたかったのさ」
「…」
武田は息を呑んだ。死を悟った男にとって戯言でしかないとしても、武田にとっては呪いの遺言のようだった。直接手を下してはいなくとも、自分の保身のために田中を犠牲にしたことは間違いない。
「…では、俺はもう行く」
田中は重たい身体をゆっくりと持ち上げると、そのまま部屋を出ていった。
追いかけることも、捕まえることもできたがそうしなかったのは彼への温情か贖罪か。
しかし、田中がわざわざ武田を呼び出した理由は明らかだった。
彼は恨み言を遺したかったのだ。自分を殺した男へ、同じ末路を歩むのだと言い遺しておきたかったのだ。



その日の昼頃、田中寅蔵は本満寺に潜伏しているところを捕らえられた。無抵抗で屯所に戻った田中は刀を振るうことなく大人しく詮議を受けている。
「拍子抜けしたな」
原田はそんな感想を漏らしたが、それからは長かった。
田中は何も語らなかったのだ。放火のことも脱走の理由も何も口にせず、ただ一言もなく切腹することを望んだ。
最初は憤っていた近藤も次第に困り果て
「何か反論することはないのか?」
と尋ねたが彼は無反応のままだったので、彼の意を汲み切腹を申し付けた。
「放火の件は認めないが、それでも良いのか?奉行所に引き渡した方が…」
「自白せず、証拠がない。それに役人に渡せば身内の恥を晒すことになる…気は引けるが、火事に死人はいない。このまま処断した方が話は大きくならないだろう。脱走の罪で切腹だ」
土方の決断に近藤は「仕方ない」とため息混じりに応じた。
そして淡々といつもと同じ段取りで事は運ぶ。 
幾度となく繰り返されてきた法度による処罰だが、しかし田中は腹を裂く小刀を手にする前に叫んだ。
「四方山の 花咲き乱る 時なれば 萩も咲くさく 武蔵野までも」
その場にいる全員がその辞世の句を理解する間も無く、田中は小刀を手に取り腹に差し、介添役が首を落とした。
あっという間の出来事に皆が言葉を失うなか、
「…胸糞が悪い」
と土方は吐き捨てて誰よりも先に去った。近藤は田中の魂のない身体をしばらく眺めたが、何もなく重い腰を上げて土方に続く。
「萩も咲く、武蔵野…か。最後に恨み言を遺したな」
永倉はやれやれ、とため息混じりにつぶやいた。彼は攘夷の志を曲げず、いつかその風が国を変えるのだと信じていた。
総司は田中寅蔵という人間をよく知らない。ただ彼はここにいるべき人間ではなかったということだけはよく分かった。
そして末席には、気の毒なほど青ざめている武田の姿があった。

田中寅蔵は光縁寺に埋葬された。切腹で亡くなった隊士の名が再びその墓石に刻まれたのだ。









658


四月の終わり。
総司は土方とともに南部の診療所を訪ねた。相変わらず患者の出入りが多く、弟子も大勢いるため診療所に対する適切な表現ではないが、盛況な様子だ。
「土方様、沖田さん、どうぞ中へ」
忙しい合間を縫って加也が案内してくれた。
「英は往診で、山崎さんは南部の助手として出ています」
総司の病のことはおくびにも出さず、淡々としている。今日の目的は総司の診察ではないのだが、客間に到着した時に小声で
「沖田さん、またお時間を作ってくださいね」
と釘を刺されてしまったので総司は苦笑するしかないのだが、土方は「必ずそうする」と約束してなかにはいった。
「おう、土方、沖田。久しぶりだな」
片手を上げて軽く挨拶してきたのは松本良順だ。綺麗に剃り上げた坊主頭が印象的だが、いつも溌剌としていてとても幕府御典医には見えない。少し前まで十四代将軍家茂公が崩御されたことに落胆していたが、今は肩の荷が降りたようにスッキリとしていた。
「ご無沙汰をしております。大坂から戻られたのですか」
「ああ、慶喜公はご壮健だから医者の出番はなくて助かる。こうやって南部の手伝いをしながら暇つぶししてるぜ」
「そうですか」
松本は上機嫌で土方と会話を交わすが、めざとくその後ろに控えていた総司に気がついた。
「なんだ沖田、今日はおとなしいな。具合でも悪いのか」
「…いいえ、先生は相変わらずお元気そうだなぁと思っていたところです」
「ハハッ、医者が暇しているのが一番だ。…そういえば幕臣への取り立てが決まったそうだな」
勘の良い松本が何かを察する前に話題を変えたので、土方と総司は内心安堵する。
「ご存じでしたか」
「ご存じもなにも、上の方でちょっとした話題になってる。見廻組と同格にするってんで、ちょいとやっかむ連中もいるが…俺はお前たちの働きを考えれば当然だと思うぜ」
「ありがとうございます」
松本の言葉にはいつも嘘がない。土方にとって数少ない信頼できる存在であり、総司にも同じだ。
(先生はきっと怒るだろうなぁ…)
病を隠していつもと同じ任務を続けているなんて知ったら、「病を軽んじるな!」と叱られそうだ。その日が遠からず来ることがわかっていて澄まし顔で会話を交わすことが心苦しい。
「失礼致します」
そんなほんの少しギクシャクした空気を変えるように、小鳥の囀りのような声が響いた。三人分の茶を持ってきたのは君鶴だった。彼女は髢をつけておらず地毛の赤毛を童のように顎の辺りで切り揃えていた。
二人はこの診療所で療養している彼女に会いにきたのだ。
「君鶴さん…具合はいかがですか?」
「…おおきに、身体の方はなんとも。…先生方に良うしてもらうてます」
そう言いながら君鶴は少し目を泳がせた。彼女にとってなんとも言えない再会だろう。仇だと思っていた土方と、新撰組だと知らなかった総司が並んでいるのだ。
総司は彼女の方へ身体を向け、頭を下げた。
「…ずっと、隠していてすみませんでした。あなたの事情を知ってから、関わるべきではないと思っていたのですが、まさかこんなことになるなんて…」
「いいえ…お名前を聞かなかったのはうちの言い出したこと。それに命を助けてもろうて、感謝しかありまへん」
互いに頭を下げて、どこかよそよそしい言葉を交わす。新撰組の一員として、君菊の禿であった彼女に向かい合うのは今までとはどこか違う。
するとそんな空気を察したのか、
「まあ、巡り合わせってのは不思議なもんだ。天の神様にもわかんねえことだから、仕方あるまい」
と笑う。すると君鶴も表情を絆しながら「ほんまに」と答えてその場は和んだ。しかしそれまで黙って成り行きを見守っていた土方が
「…それで、今後のことだが…」
と本題を切り出すと、君鶴は再び表情を落とした。
「はっきり言うと、廓では良くも悪くも噂になっている。好奇の目に晒されるのも嫌だろうが、異国嫌いの浪人に絡まれるともっと面倒なことになるだろう」
「…へえ。お座敷にはいろんなお客はんがおります。どうにかお世話になった女将さんにご迷惑だけはお掛けしとうないと思うてます」
「だったら、身請けはどうだ?」
「…せやけど、こんな髪のうちを身請けする方なんて…」
「俺が身請けする」
突然の土方の申し出に君鶴は目を丸くした。
「…な、ご冗談を…」
「冗談を言うほど暇じゃない。いつまでも診療所に世話になるわけにもいかないだろう。状況が状況だから華々しく身請けできないが、噂が落ち着くまで身を隠した方が良い」
唖然とする君鶴は言葉を失い、戸惑いながら松本に視線を遣る。しかし彼は生来の面白がりなので顎の無精髭に手をやりながらただただ笑っていた。
「悪くねぇ話だな。こいつらはじきに浪人じゃなくて幕臣になるんだぞ。生活に不自由はないだろうし、ほとぼりが冷めるまで世話になったらどうだ」
「…でも…うちは、そないな立場やないし…」
君鶴は困惑していた。当然、一度は仇と思った相手に身請けされるのは受け入れ難いだろう。
松本は迷う君鶴の背中を押す。
「詳しくは知らねぇが、もう和解しているんだろ?噂ほど悪い奴らじゃないことは俺が保証してやる。だが…沖田はそれで良いのか?また妙な噂になるぞ」
「構いません。君菊さんを身請けできなかった、その恩を代わりに受け取ってほしいと思います」
総司は嘘偽りなく答えた。
つい先日、土方が君鶴を身請けすると相談された時も何の戸惑いもなかった。彼が君菊への恩義に報いるためにそうしたいのだということも感じ取ったし、彼女の知人として最も安全な方法だとも思ったのだ。
しかし君鶴は
「…少し、考えさせてください」
と即答はしなかった。突然の申し出に彼女が困惑するのはわかっていたので、土方も無理強いはせずに頷いた。
ちょうどその時、急患が来たようで弟子の一人があわてて松本を呼びにやってきた。
「全く、南部もこき使うぜ」
とブツブツ言いながら去っていく。
その姿が見えなくなって、君鶴は
「お願いがございます」
と、切り出したのだった。


君鶴は総司と土方とともに西本願寺へやってきた。赤毛を隠すように頭巾を目深に被った君鶴は、道中で買い求めた菊の花を墓前に供えた。
「…姐さん、ようやくお会いできました」
君鶴は万感の思いを胸に呟いた。
三人の目の前には君菊の墓がある。かつて明里が望み、ここに建てられた。
君鶴は涙ぐみながら目を閉じて、長く手を合わせた。待ち望んだ再会はこんな形ではなかっただろうが、それでもこうして花を手向けることができた安堵感で満たされていた。
今まで総司はこの場所に来ることに積極的ではなかった。真実はどうであれ新撰組に利用され、殺されたと言っても過言ではない君菊への罪悪感はいつまでも忘れることはできなかったからだ。近くにあっても、遠いような近寄り難い特別な場所…そしてそれは総司よりもよほど土方は強く思っているだろうけれど、彼は顔色ひとつ変えず、君鶴を見守っていた。
「…おおきに、気持ちの整理がつきました」
君鶴は穏やかな表情をして、土方へ深々と頭を下げた。
「今までのこと…お詫びいたします。申し訳ございませんでした」
「…謝ることはない。君菊の禿だったのなら、家族を殺されたようなものだろう…恨んで当然だ」
「うち、あれから考えました。姐さんが最期になにを思ったのか…どんな気持ちで亡くなったのか。自分を殺した人を許すなんてはじめは信じられへんかったけど…そういえば、姐さんはそんな人やったって、ようよう思い出しました」
君鶴は墓石をしみじみと眺める。まるでそこに君菊がいるかのように語った。
そして総司と土方へと視線を戻した。
「ちゃんとお話が聞けてよかった。恨むばかりで本当の姐さんのことを忘れてしもうて…思い出せた。せやからこれからも楽しかった思い出を胸に、生きていきます」
君鶴にはあどけない少女の面影があった。けれだ新たな決意を口にするその横顔は凛として美しかった。


それから数日後、身請けの段取りがついたところで英から知らせが届いた。
君鶴が姿を消した。
残された手紙にはこれまでの感謝とくれぐれも身体に気をつけるようにと総司への言付けがあった。
土方は君鶴を探さず置屋へ事情を話し、親戚に引き取られたことにしたそうだ。
総司は彼女がいなくなったことを聞いて驚きはしたものの、内心安堵していた。
(僕たちに関わらないところで幸せになった方が良い)
異国の赤毛では苦労するかもしれないが、君菊の愛情を受け生き延びた彼女はどこでもやっていけるだろう。
(誰に願わなくとも、きっと大丈夫だ)
北の星は彼女の願いを叶えてくれなかったかもしれない。けれど次に向かうべき道標となって彼女を支えてくれるはずだ。
(僕はそれを遠くから見守るだけだ)
健やかであれ、幸せであれ、とーーー。









659


日夜問わず人の出入りがある屯所に比べると、別宅はいつも静かだ。日中は人々の営みの音とたまに童たちの遊ぶ声が響いてくるくらいで、時折風の音さえ聞こえてきそうなほどの静寂が訪れることさえあり、まるで屯所とは違う時間か流れている。
総司はその平穏な日常を耳にしながら、庭を眺め横になる日が増えた。屯所では気を張っている分、別宅では無理せず回復に努めている。
加えて、土方が普段別宅の世話をするみねへしばらくは近藤の世話に専念するように指示したらしい。孝の御産が近いのも良い口実になったと言っていた。
そのおかげで他人の目を気にせずに済み、随分と楽をしている。体調も整い以前より調子は良い。
そして、夕方になると
「おかえりなさい」
と土方がやってきたのを迎えるのも悪くはない。彼はいつも総司の変わらぬ姿に一瞬安堵しながら「ああ」とぶっきらぼうに返事するだけだが、互いに立場を忘れ、気を抜ける時間であることに違いない。
夜になると床に就く。
「おやすみなさい」
蝋燭の灯りを消して月明かりだけが差し込むと、決まって彼は手を握る。総司が眠るまでずっとそうしている。恥ずかしいようなくすぐったいような気持ちは湧き上がるが、やがて彼の体温に包まれて穏やかに寝息を立てる。そして朝になると大抵土方は先に出ていて、総司もゆっくり身支度をして屯所に戻ることにする。
華々しい桜は散り、道端には野花が咲いていた。
特別な日ではないこの何気ない日常が、今は愛おしく感じた。


そんな日々が続いていたある日、総司が屯所に戻ると、
「先生ッ!!」
と涙目の島田が駆け寄ってきた。大柄な彼が全力で走るとまるで猪が猛進してくるようだった。
「ど…どうかしました?」
「ずっ、…お、さがしして、あの、夢ではないかと何度も頬をつねり、皆に殴ってもらったのですが、どうやら夢ではなく!」
なにを言いたいのか、島田はかつてないほど混乱していて要領を得ない。ただ顔を真っ赤にして感情を昂らせていた。
「落ち着いてください、なにかあったのですか?」
「あの、その…!」
「幕臣への昇進が決まったというのは本当ですか?!」
島田を追いかけてこちらにやってきた山野もまた興奮して尋ねてきた。総司は(そのことか)と安堵する。
「近藤先生からお話がありましたか?」
「ハイっ!今朝方、会津公用人の方がいらっしゃり、正式に決まった、と…」
「改めてお話があるとのことでしたが、先生がすでにご存知なら本当のことなのですね?!」
島田、山野に詰め寄られる。よく見渡すと他の隊士たちも期待の眼差しでこちらを見ていて、総司は苦笑してしまった。
「大それたことは私からは言えませんけど、良いお話があるのは本当ですよ」
総司が遠回しに肯定したので、彼らはワッと盛り上がり歓喜に沸いた。島田は号泣し山野に慰められ、隊士たちは喜びを分かち合う。
その姿を眺めながら、総司は近藤の元へと向かうとやはり土方もいた。
「総司、こっちに来い」
近藤が手招きするので総司は遠慮なく部屋に入った。
「先生、会津の方がいらっしゃったとか?」
「うむ。会津公から幕府から正式に内示が出たとお話があったんだが、つい、通りかかった島田君に漏らしてしまった」
「…まったく、あと少し黙っていれば格好がついたものを」
土方は隊士を集めて発表するつもりだったようで、目算が外れて不満そうだ。近藤は「すまんすまん」と手を合わせるがそれでも喜びが口元から溢れているようにみえた。
「喜び事ですから良いじゃないですか。もう噂になっているみたいですから早く話してあげてくださいよ」
「ほら、総司もこう言っているだろう?」
近藤は早く話したくて仕方ないようでうずうずしている。子供のような喜びように半ば呆れながら、土方は
「わかった」
と山崎を呼び出して皆を集めるように指示を出した。
「よし、じゃあ俺は紋付羽織に着替えてくるぞ!お孝が誂えてくれているんだ!」
近藤は抑えきれない興奮と共に部屋を出て行った。まるで子供のように飾らない近藤の喜びようを目の前にすると、自然と笑みが溢れてくる。
「本当に決まったんですね」
「ああ、平隊士は見廻組御雇、監察は見廻組並、お前たち副長助勤は見廻組格、俺は肝煎格、近藤先生は見廻組与頭格」
土方は説明しながら名簿のような紙を総司の前に広げた。
「これはまだ名簿の段階だが、ほぼ決まりだ」
「…つまり、土方さんと私たち、隊士たちは御家人、近藤先生は旗本ということですよね」
「ああ、近藤先生は将軍への拝謁が許される御目見得以上の身分だ。今までの功績を思うと低くはないが、高くもない」
「十分ですよ。土方さんはちょっと欲張りすぎます」
総司が笑い飛ばすと、土方も「そうか」と苦笑した。
もともと武士の身分であった総司にとっても高揚する出来事だが、近藤や土方にとっては特別な昇進だ。今まで身分で苦しめられどうして隔たりのあった大きな壁がついになくなったのだから、文句を言うけれど土方だって喜ばしく思っているに違いない。
「ついに…ついにですねぇ…」
名簿を眺めながら総司はしみじみと実感する。
ここに名前のある者、ない者。
これまでの激動の日々と、これからの先行きの見えない未来を。
そして、幕臣に昇進して喜ぶ近藤に、真実を話さなければならない。
「…総司、心配するな」
「…」
「かっちゃんはきっとちゃんと受け止める。俺も良い方法を考える…だからちゃんとここにお前の名前もある。お前だけ置いていったりしない」
副長助勤の一番最初に書かれた自分の名前が、誇らしくもあり哀しくもある。その複雑な心情を見抜いたのか、土方は総司の肩を抱き寄せた。
毎晩手を繋ぐような、心地よいけれど恥ずかしさが込み上げる。
「…このところ、優しすぎて怖いですよ」
「今だけだ。病が治ったらこき使うから今のうちに甘えておけ」
「そうします」
不思議なことに、土方とともにいるとあの不快な咳は治まっていた。まるで清涼な空気を吸っているかのように心地よいのだ。


それから、紋付袴の正装姿の近藤は隊士たちを集め幕臣へと取り立ての内示が出されたことを明らかにした。隊士たちは驚き、喜び、高揚した。涙もろい島田が顔を真っ赤にしてどうにか涙を堪えていたのに、すでに話を知っていたはずの井上がまた号泣した。
そのなかで一部、青ざめて動揺する者達がいた。彼らはその日の夜に行きつけの酒場へと集まった。
「茨木さん、俺たちも幕臣へに取り立てられちまう。これは伊東先生に忠誠を誓う我らにとっては死活問題だぞ!」
威勢よく捲し立てたのは佐野七五三之助だった。かつて御陵衛士の篠原と共に横浜で外人居留地警備の役目を担った時からの伊東の旧友だ。他にも中村五郎と冨川十郎が憤っていた。
「幕臣となれば、御陵衛士へと加わることが難しくなる。我々は伊東先生のために隊に残ったのです」
「その通りだ、決して幕府の捨て駒になるためではないというのに!」
「皆、声が大きい」
冷静に制する茨木に佐野は
「先生はなんとおっしゃっているんだ!」
と詰め寄った。しかし茨木は首を横に振った。
「先生への連絡はこちらからはできない。そのうち幕臣の内示の件は伝わるだろうから、なにか指示が来るだろうが…」
「待つしかないと?くそ!」
佐野が腹立ったように酒を浴びるように飲み干した。入隊前からの友人であるが熱くなりやすい性分なのを伊東は熟知しているので、まとめ役を茨木に任せたのだ。
若い中村は冴えない表情だ。
「他の同志たちも動揺しています。先日切腹した田中寅蔵は、御陵衛士に接触した故に殺されたという噂もあり…次は自分たちではないかと」
「まさか。我々は何の咎もないのだぞ」
冨川が心配するな中村を励ました。茨木はも頷いたが内心は頭を抱えていた。
(だが…御陵衛士と新撰組との間での隊士の異動は禁止されている。伊東先生は我々をどうするつもりなのか…)
もともと御陵衛士への合流を念頭に隊に残ったのに、幕臣になるとますます身動きが取れなくなる。しかし辞退する理由もない。
「茨木、我々は八方塞がりだぞ!」
佐野が絡み、茨木は「わかっています!」とつい声を張り上げてしまった。生真面目で冷静な茨木が大声を出すことは珍しい。
「…ひとまず、伊東先生からのご連絡を待ちましょう。それまでは勝手な行動を慎むように皆に伝えてください」
「わ、わかったよ」
「今は我慢ですね…」
茨木は深いため息をつきながら酒に手を伸ばした。







660


五月。
過ごしやすい涼やかなある日、伊東はやや複雑な表情をしていた。
「…新撰組の幕臣への取り立てが決まったそうだ」
「えっ?!」
と声を張り上げたのは藤堂だけだ。御陵衛士一同が揃っている席だった。
「近藤局長は旗本、他の者は御家人の扱いになる。見廻組と同格というところか…」
伊東の話を聞いて御陵衛士たちは騒つく。
「幕府はよほど兵の数が不足しているらしい」
「出自のわからぬ輩を取り立てるなど、幕府の権威は失墜したものだな」
篠原や加納などの腹心たちは冷ややかに鼻で笑い、他の者も小馬鹿にするように笑う。鈴木は何も発せず内海は伊東と同じで複雑そうに表情を歪め、斉藤は無表情だった。
「皆、やめたまえ。古巣の陰口を言う為に分離したのではないのだ」
伊東が諫めるとサッと収まり、「申し訳ありません」と口にして頭を下げた。そして内海を呼び出すと奥の部屋へと去っていったが、鬱憤の溜まった彼らの陰口は止まらなかった。
「ふん、邪魔者の俺たちが分離したから局長らが武士への取り立てを願い出たのだろう」
「所詮農家の倅…無意味で身の丈に合わぬ肩書きだ」
新撰組への嫌悪を隠せない者たちが遠慮なく悪態をつくなか、藤堂は「来てください」と強引に斉藤の腕を取りそのまま門外へ出た。
「なんだ?」
「伊東先生のお話は…本当ですか?」
「何故俺に聞くんだ。近藤局長から知らせが来たのだろうし、先生がおっしゃっているのだから本当に決まっているだろう」
斉藤の返答を聞いて、藤堂は「はぁぁ」と力が抜いたようにその場に座り込む。そして両手で顔を覆った。
「…可笑しいですよね…」
「なにが?」
「俺、すごい嬉しいんです。決して仲良く別れたわけじゃないのに…近藤先生の夢が叶ったんだって、心から嬉しいんです…祝えるような立場じゃないのは分かっているのに…」
藤堂は感情に嘘がない。裏表がない素直さが皆に好かれ可愛がられ、それ故に耐えきれずに隊を出た。そんな彼にとって昇進の知らせは今の立場を超えて、かつて同じ釜の飯を食べた仲間としての喜びしかないのだ。
「あの場で喜んだりしたら皆に疑われるから我慢しましたけど…本当は今すぐ新撰組へ向かって永倉さんや原田さんと祝杯を上げたいくらいなんです。おかしいですよね…でも、斉藤さんならわかってくれますよね?」
「…ああ」
当然、斉藤は伊東よりも先に昇進の話は耳にしていた。その時は藤堂ほどの胸の高鳴りはなかったが、古巣の彼らがどれほど喜ぶのだろうかと想像した。
藤堂は斉藤の返答を聞いて再び立ち上がった。彼は両手を頬に当ててだらしなく綻ぶ顔を誤魔化していたが、それでも喜びが溢れ出ていた。
「よかった。俺だけじゃないんですね」
「…だが、堂々と祝杯を上げるわけにはいかない。先生たちから疑われるのは困る」
「わかってますって。斉藤さん、俺が奢りますから付き合ってくれます?」
「分かった」
いつもは面倒に感じる彼の誘いだが、今日は素直に応じた。彼と喜びを分かち合えるのは自分だけであったし、祝い酒を飲みたいのは自分も同じだったのだ。


その日は珍しく、土方が
「付き合え」
というので連れ立って町へ出かけた。正式な幕臣への昇進は六月になるそうだが、事前に試衛館へ知らせることになったらしい。
「今は軌道に乗っているが、壬生にいた頃に金を貸してくれたのは試衛館や義兄さんたちだ。良い機会だから昇進の知らせと一緒に御礼の品を贈るつもりだ」
「良い考えですね」
総司は喜んで付き合うことにしたのだが、贈り物の類いは土方の方が手慣れていて業物の刀剣を数本、西陣織の帯や塗りの簪など手早く選んでしまった。加えて荷物持ちかと思いきや、纏めて小者に運ばせてしまう。
「なんだ、私は用無しじゃないですか」
「まだ用事がある」
土方がそう言うので、総司は隣を歩いた。
五月の爽やかな陽気の中、ゆったりと土方と二人で外出していることが珍しくなんだか照れ臭い。彼は気分転換に誘ってくれているのはわかっていたが、尋ねると認めないだろうから黙っておく。
「さっきのお店で選んだ簪、おのぶさんへの贈り物ですか?」
「ああ。よく分かったな」
「昔、近藤先生が土方さんが派手好みなのはおのぶさんと同じだって、言ってました。紅色の目立つ簪はおつねさんは遠慮されるでしょうし」
「姉さんは昔はもっと派手だったんだ。化粧も真っ赤な紅を指すものだから喜六兄に笑われていた。今はずいぶんおとなしくなったんだ」
郷里の話をすると土方が少し綻んだ。昇進を喜ぶのは故郷の人々だ。特に義兄である佐藤彦五郎と姉ののぶ夫妻は末弟の行く末を昔から案じていて、金銭的なこと以上に世話を焼いてきた。
「また会えると良いなぁ…」
ふとそう呟いてしまったのは、無自覚であっても病のことで弱気になっているからかもしれない。総司は口にしてしまったあとすぐに気がついたが、
「そうだな」
と土方が何も言わなかったので撤回することもできなかった。
北へ向かって鴨川沿いをしばらく歩き、少し疲れたくらいで土方が足を止めた。なんて事の無い川辺だった。総司はあたりを見渡した。
「ここですか?」
「場所はどこでも良いんだ。屯所から離れて、お前と話がしたかった」
「…」
周囲に人影はなく川は穏やかな日光に照らされてキラキラと光っている。それを眺めながら土方は口を開いた。
「…江戸に戻るつもりはないのか?」
「…」
「新撰組から離れたくないと言うなら、藤堂みたいに江戸で兵を見繕ってくれればいい。おみつさんの元で養生して…手が足りなければ義兄さんに言えば協力してくれるだろう。お前は役目を果たせる」
「本気で言ってますか?」
「本気だ」
さらさらと流れる川の音が心地良く、不思議と感情は昂らなかった。場所を移して話をすると互いに冷静で客観的になれるのかもしれない。
「…私は、剣に関して自分を高めることは出来ても、他人を見出すことはできません。他道場に知り合いもいないし…だから自分に向いているとは思いません」
「だったら修練だと思え。いずれそういう立場になるだろう」
「それは私の目指すところではありません。私は一本の剣として近藤先生のお役に立つことがなによりも大切です。江戸に戻ってはそれが果たせません。それにもし…」
もし、そのまま事切れたとしたらどんな選択肢よりも一番望まない終わりになる。
口にしなくとも土方はわかったはずだ。それにもともと総司が安易に引き受けるなんて思ってもいないだろう。
土方は足元の小石を拾った。
「一本の剣、か…お前は芹沢を殺した時も、山南さんの最後を引き受けた時も、そうやって自分に言い聞かせたんだろう」
その石を川面に投げた。まるでやりきれない感情を振り払うように。
「…この数日、昔のことを思い出してた。浪士組に参加するとき、お前には試衛館に残る道があった。お前は付いてくる意志が固かったがあのとき…」
「やめてください」
総司は遮った。彼が何を言いたいのかなんてすぐにわかる。
「試衛館に残れば病にならなかったとでも?今更、別の道を選ぶべきだったなんて、そんなことを言うのはやめてください。私はいつも最善の道を選んで、ここに来たんです。芹沢先生を殺したことも山南さんの介錯を務めたことも、それは私の決めたことで歳三さんは関係ない」
「…だから、もう良いって言ってるんだ。お前は十分役目を果たしてきた」
土方がこれまでのことを慰労し、その働きを心から認めてくれているのはわかる。けれども今の総司には『御役御免だ』と言われているとしか思えなかった。
「歳三さんは結局…後悔してるんですね」
「…ああ、そうかもな…」
いつになく本音を吐露する土方は、鴨川に視線を向けたまま総司を見ようとはしなかった。
「…」
「だから今度こそ間違えたくない。お前が一日でも長く生きる為に、最善の道を選びたい。俺はお前を失いたくない。それが…この数日で考えた結論だ」
土方の横顔が、鬼副長や兄弟子のそれではなく、たったひとりの特別な存在としての思いやりに満ちていることはわかっていた。彼とて苦渋の判断なのだと理解していた。
けれど総司はその優しさを受け入れることはできなかった。その気持ちを拒んででも貫かなければならないものがあった。
「だったら、私の結論とは違います」
土方の袖を掴んだ。
「歳三さん、私は一本の剣だと言ったはずです。錆びたからと言って手入れを怠りそのまま放置すれば本当に斬れなくなる。私も病だからと床に臥せばそのまま何もできなくなるでしょう。錆びて使えなくなるなら、折れた方が良いんです」
「…だからお前は剣なんかじゃない」
「歳三さん、お願いです、床の上で惨めに死ねなんて言わないでください。そんなことを言うくらいなら切腹を命じてくれた方が余程マシです。生きて欲しいと言ってくれるなら、病人にしないでください。生きて欲しいと言ってくれるなら、どうか傍に置いてください」
「…総司、俺は…」
土方はそれまで保っていた冷静な表情を崩した。彼は恋人としてどうにか説得したいようであったが、総司は違った。
彼の腕を抱きしめながら今まで口にできなかった本音を言葉にした。
「ごめんなさい。私はあなたのものではなく…新撰組一番隊組長として、近藤先生の弟子として、死にたいんです…」
こんなことを言いたくはなかった。
それは、彼を傷つけるだろう。
彼の想い人として生きたいのではなく、武士として死にたいのだと懇願しているのだ。
土方は苦悩し表情を歪めた。そしてもう片方の手で顔を覆い、しばらく何も言わなかった。
ただそこに流れる川のせせらぎと時折小鳥の鳴き声が聞こえてくる。
「…わかったなんて簡単には言えない。ただお前の気持ちが固まっているのはわかった」
「…」
「仲違いをしたいわけじゃない。また話をしよう」
「…はい」
並行線のまま結論は出なかったが、どんなに苦しくとも互いの本音をぶつけ合うことが今の二人には必要だった。そしてこれからも。
土方は懐から黒い紐を取り出した。
「それは?」
「黒は邪気を払う」
そう言いながら総司の髪を結ぶ。斉藤に餞別として渡してから適当な組紐でまとめていた。
「私は何でもかまいませんけど」
「俺が気に入らないんだ」
何が気に入らないのか、と思ったがそれ以上は聞かなかった。
五月の穏やかな日差しが川面を照らす。ゆらゆら、きらきら、いつまで眺めていても飽きない永遠がそこにあった。
でも二人の間には無い。
そのどうしようもない現実が身に沁みた。























解説
657放火の件はフィクションですが、田中寅蔵は攘夷思想が強いことも理由になったのか、脱走します。御陵衛士に助けを求めるもの約定に従い拒まれ、結果、その日のうちに捕縛され、切腹をしています。彼の辞世は萩=長州が武蔵野=近藤たちの故郷をいつか飲み込むだろうという嫌味が込められています。


658君鶴の設定はほとんどフィクションです。君菊=君鶴というのが定説で、彼女は土方に身請けされ女児を産んだと言われています。




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