わらべうた




661


善立寺では、伊東が筆を取り内海が正面に座り声を潜めていた。
「茨木君への文ですか?」
「ああ…もう少し堪えるようにしたためている」
伊東はため息をついた。
新撰組隊士の幕臣への昇進…噂程度には脱退する前に聞いたことがあったが、まさかと聞き流していた。いくら幕府の屋台骨が揺らいでいるからと言って出自が農民である彼らを幕臣として迎え入れるほど腑抜けていないだろうと思っていたのだが、そういえばその頂は変わり者の一橋慶喜になったのだったと考えればなにも特別な話ではない。
それにその話の前に分離を果たせたのは良い結果だ。自分たちにとって仕える相手は幕府ではない…もし称号が与えられていたら名誉ではなく足枷となっただろう。そしてそれは残してきた茨木たちも同じだ。
内海も懸念していた。
「正式には来月というお話でしたが、困りましたね。真面目な茨木君はともかく佐野さんや他の同志は堪え切れるかどうか…感情的になってしまわないか心配です」
「そして彼らを御陵衛士に加える策がない」
伊東は内海に本音を漏らし、頭を抱えた。
「新撰組と隊士の移籍を禁じている。これから時間をかけて御陵衛士と新撰組との関係を築くつもりだったが…時間がない。新撰組の内情を探らせるつもりが裏目に出るとは」
「…どうされますか」
内海の質問に、伊東は「どうしようもない」と首を横に振った。
「臥薪嘗胆の気持ちで務めを果たしてほしいが…自分に置き換えると不本意な立場に置かれるなんて辛酸を舐めるような心地だ。しかしどうにか堪えて機会を待ってもらわねば…命に関わる。彼らは優秀だ、長年の信頼もある…失いたくはない」
「そうですね…」
流石の内海も良い策が思いつかないようだったが、懐から手紙を差し出した。
「例の件です。あちらの御住職には良い返事を頂きました。立地的にも良いのではないでしょうか」
「そうか、こちらは朗報だな」
それまで厳しい表情だった伊東だが、ホッと安堵したように手紙を受け取った。
「高台寺か…」


幕臣への取り立ての知らせから、隊の士気は上がった。稽古にも熱が入り、特に地稽古は白熱していた。
「そりゃ当然そうだろうよ。局長や幹部だけが出世したわけじゃねぇんだ、隊士全員だぞ。喜ばないわけねぇって」
原田は稽古を眺めながら笑った。
今日の当番は永倉と総司だが、非番の原田がフラフラと暇そうにやってきたのだ。永倉が仕方なく相手をしていた。
「源さんなんかまだ時々、こっそり泣いてるぜ」
「お前だって非番なのにおまささんの所に帰らずに浮き足立っているだろう」
「それがさぁ、幕臣の嫁だぜって散々自慢したら鬱陶しがられてさぁ。しんぱっつぁんとこの小常ちゃんはなんて?」
「祝いの膳を作ってくれたさ。小常は料理上手なんだ」
「ケッ!惚気かよ。なぁ総司、堅物の惚気なんて聞いてられねぇよな!」
原田に話を振られたが、総司は
「すみません、聞いてませんでした」
と謝った。その様子を見て永倉は不思議がる。
「どうした?そんなに汗をかいて、息も荒い」
「…少し、疲れて」
「風邪でも引いてるんじゃないか?」
「ハハ…季節の変わり目ですから、そうかもしれません」
額や顳顬から流れる汗を拭きながら総司は息を整えた。聡い永倉はまだ納得できない表情を浮かべていたが、
「そりゃ、総司も幕臣って言ったら稽古にも力が入るよなぁ!」
と原田がフォローしてくれたので、「そうだな」とそれ以上は何も聞かなかった。そして永倉は視線を隊士たちに向けつつ
「それにしても、熱が入らない連中もいるようだ」
と呟いた。彼の視線の先には茨木たち伊東に近しい隊士たちの姿がある。彼らの冷めたようなやる気のない稽古の姿は熱気あふれるなかでやたら浮いていた。
原田は鼻で笑う。
「なぁんで、大好きな先生と出ていかなかったんだろうな」
「声を潜めろ、左之助。当然、意図があって残留したのだろうし、土方さんもわかってて放置してるんだ」
「ま、触らぬ神に祟りなし…他の奴らもそう思っているみたいだ。それから気になるのは…あいつだ」
原田は顎で道場の片隅にいる武田を指した。
「田中寅蔵を裏切り者だと見抜いた功労者なんだろ?いつもなら無駄に自慢気にするくせに、なんであんな辛気臭い顔してやがるんだ」
武田は覇気のない表情で突っ立っている。形だけ稽古に参加し、ぼんやりとしていて時間が過ぎるのを待っているように見えた。
原田以上に武田を毛嫌いする永倉は、不快感を隠さない。
「田中寅蔵は放火を認めなかったし、新撰組も伏せた…つまり武田の進言はただの無駄足になったんだ。田中の切腹は表向きはただの脱走だから功労などないさ。それに武田は仲間を売ったようにも見えるから、結果的に評判を落とした。それが気に入らないんだろう」
「はぁん、なるほどなぁ。本当に嫌いだなぁ、しんぱっつぁんは」
永倉の手厳しい辛辣な言い草に、原田さえも苦笑した。
昇進へと沸き団結したように見えて、綻びがある。それがいつしか大きな亀裂になりはしないだろうかと危惧しながら、総司は聞き流すだけだった。

そのうち稽古が終わり、総司はそそくさと道場を出た。西本願寺の屯所では各隊に部屋が充てがわれているのでそのまま戻らず、土方の元へ向かった。
(頭がクラクラする…)
熱っぽい身体を引き摺りながら向かっていると、不運なことに近藤と鉢合わせた。
「あ、先生…」
「歳ならいないぞ。稽古は終わったか?…ん?どうした、顔色が悪いぞ」
「…い、いえ。皆、昇進の知らせを聞いて稽古に熱が入って…少し、疲れただけです」
「疲れた?お前がか?試衛館にいた頃は皆が嫌がっても稽古を続けていたじゃないか」
「ハハ…そんな頃も、ありました…」
「しかし皆の士気が上がっているのは良いことだな」
上機嫌な近藤は総司の異変に気づかず、談笑を続けようとする。しかし
「近藤せんせ、お時間では?」
と山崎が通りかかり、助け舟を出してくれた。
「ああ、そうだった!黒谷に行かねばならんのだ、また話そう」
「は、はい」
「いってらっしゃいませ」
二人に見送られ近藤は早足でその場を去っていく。すると山崎はサッと総司の背中を摩り、彼に言われるがまま総司は深く深呼吸した。
「…すみません、助かりました」
「何のこれしき。少し、稽古に力を入れすぎたんやないですか?」
「いえ…いつも通りこなしたはずなんですが…」
いつも通りだったはずなのに、いつもよりも疲れる。それは紛れもなく自分の体力が劣っているからであり、無理をしているからだ。
山崎は当然、理解しただろう。
「無理したらあきまへん。上手に付き合っていかな」
「…養生しろと、おっしゃらないんですね」
事情を知っている山崎だが、今までずっと核心に触れずフォローし続けててきた。医学方として思うところはあるはずだが、
「それは俺の役目やないんで」
と微笑むだけだった。
そして奥の部屋まで送ってくれ、総司は土方の部屋で横になった。主人は不在だが鬼の棲家は誰も近寄らず別宅とは違う静けさに包まれている。
今にも崩れそうな積み上がった書物、束になった手紙、書き損じで山になった屑箱、乾いた筆…その光景は彼の忙しさを物語っている。
(昔は部屋に閉じこもるような人じゃなかったのに)
試衛館にいた頃は、土方は常にフラフラと出歩いていて夜遅くに帰ってきた。寝起きが悪い彼は昼頃まで寝ていて、いつもそれを叩き起こすのが総司の役目だった。
その怠惰な日々に較べれば、生き生きとしているのかもしれないけれど背負った荷物も多い。
近藤が日向を歩くなら、土方は常にその影を進んだ。彼は総司に対して負い目があるようだったが、総司からすれば彼の負担を少しでも減らせたのならそれでよかったと思う。
総司は身体をゆっくりと起こし、部屋の隅で積み上がった書物の一冊を取った。それは気分転換の軍記物の初巻だったのだろうが、その下には土方の筆跡で閉じられた帳面があった。
(発句かな…)
彼の唯一の趣味である発句帳かもしれない。軍記物の下にあったのは隠していたのだろうが、彼が忙しい合間を縫って句作に興じているのなら微笑ましい。
少し覗いて元の場所に戻そう…そんな悪戯心で開くとひらりと何かが落ちた。
「これは…梅の、押し花…」
すぐにあの時の押し花だと思い至った。別れを決めて彼の心を慰めるようにと早咲きの梅を置いていった…土方は朽ちるのを惜しく思い、押し花にしたと言っていた。彼らしくない行動だがそれほど互いに思い詰めていたのだ。
そしてその押し花が挟んであった帳面には、一つの歌が書かれていた。
『うつせみの唐織衣なにかせむ綾も錦も君ありてこそ』
(これは…土方さんの句作ではない…)
句には造詣のない総司だが、土方のものではないと直感した。しかしこの押し花を挟んでいたのだから特別な一句なのではないか。
尋ねてみたいけれど憚られたのは、内緒で覗いてしまったのもあるが、この句の悲しさが身に染みていたから。
「…君ありてこそ…」









662


梅雨入りを感じさせるような雨が降っていた。
武田は貸本屋から出た。前回借りた物は読み終えぬまま返し、新たに借りることもない。この所は何にも活力が湧かない日々が続いていた。
傘を差し、水溜りを避けて歩く。俯きながら足元を見ていた。
(あんな戯言を間に受けてどうする…)
田中寅蔵の切腹から数日経ったが、彼の恨み言はまるで耳元に囁かれるかのように遺っていた。
所詮この世は弱肉強食。何事も先を読んで行動すべきだーーー田中の行動は常軌を逸していた。武田が近藤や土方に進言しなくとも彼はその悪行を詳にされ切腹を申し付けられただろう。
ただ、彼はただ死ぬだけではなかった。
爪痕を残すように火事を起こし、呪いのように後味の悪い言葉を残した。武田だけではない、近藤や土方に対しても嫌味のような辞世を叫び、ただ己の本懐を遂げずに去る悔しさをぶつけた。
ある意味、見事だった。
しかし
(私は死にたくはない。それの何が悪い?)
武田に残っていたのはただそれだけだった。ただそれだけだからこそ生き残るために保身に動く。それが醜く滑稽だとしても、生きる者の本能ではないか。死にたくないから刀を手にしているのだ。
「…ん?」
雨で視界が曇るなか、見覚えるある人影に目が止まった。
男は酔った様子で居酒屋から飛び出し「飲まなきゃやってられねぇ!」と叫び、フラフラと歩く。すると店の中からもう一人駆け出てきて彼に肩を貸して歩き始め、消えていった。
武田は目を凝らした。
(…あれは、佐野と中村か…)
伊東に近いと言われるが新撰組に残った隊士だ。そして
「やれやれ…佐野さんには困りました。こんなに酔ってしまうなんて」
「仕方ありません。気持ちはわかります」
同じ店から出てきたのは茨木と冨川だ。彼らは傘を片手に並んで歩き出したので、武田はこっそりと後を追った。冨川は穏やかな性格で印象が薄いが、真面目な茨木と親しい男だ。
「きっと先生は策を巡らしてくださっているはずです。手紙に『堪えるように』とあるのですから、我々はそうすべきです」
「はは…潔癖な茨木君にはそれも容易いのでしょうが、佐野さんはああいう性格ですからなかなか難しいでしょう。中村君が上手く宥めてくれたら良いのですがね」
酒が入っているせいか彼らは往来だというのに気を抜いている。加えて武田の存在が会話が聞こえる範囲でも気づかれなかったのは雨のおかげだろう。聞き耳を立てられているとは知らず、彼らは続けた。
「しかし、茨木君。正直に言えば、互いに隊士の行き来を禁止する約定がある以上簡単に事は運びますまい。我々はこのまま幕臣となる覚悟も必要かと」
「いや、それだけは我慢なりません。私にとって主君は伊東大蔵先生ただ一人。腐り切った幕府の一員と成り果てるなど…到底受け入れられぬ!そんな屈辱を味わうならこの命など…」
「茨木君、それは先生が悲しまれる。安易な選択はしてはならぬ」
冨川が遮って、茨木は「分かっています」と力なく答えた。
「…でも、いつまで耐えれば良いのでしょう。来月には正式に話が進んでしまう」
「待ちましょう。伊東先生は妙案を編み出される、それを信じるのです」
「…」
冨川の慰めるが、茨木は真面目な分思い詰めているようだった。
武田は足を止め彼らと距離を取った。
「…なるほど…」
彼らの会話の一部始終で状況は察した。武田にとって幕臣への昇進の話は田中の一件のせいで聞き流していたのだが、茨木たちにとって大きな問題となっていたのだ。伊東に忠誠を誓う彼らには幕臣など以ての外、今すぐにでも御陵衛士へ合流したいはずだ。
武田はごくん、と息を呑んだ。
副長助勤から降格となり田中寅蔵を“売った”自分にはもう新撰組に居場所はない。そして彼らも幕臣への昇進を望まず、新撰組から逃れたいと思っている。
『通る道は同じだと、伝えたかったのさ』
田中の言葉が脳裏を過ぎる。ぞくりとした悪寒を覚えて振り返るがそこには誰もいない。
(私は貴様と同じ間違いは犯さぬ)
そう思い、再び足を踏み出した。早足で彼らに追いつき
「おい」
と茨木の肩に手を置く。彼はとても驚いた様子で振り向き武田の顔を見るや「なんですか!」と叫んだ。緊張感なく会話を交わしていたせいで反射的に敵意を持った眼差しを向けたが、
「妙案があるぞ」
と武田は口にした。


今日も小雨が降っていた。
総司が土方の部屋に訪れると、近藤の姿があった。
「総司、良いところに来たな」
近藤は甘い菓子の皿を差し出して「ここに座れ」と畳を軽く叩いた。言われるがままに近藤の隣に腰を下ろすと、二人の目の前に広げられた紙にはずらりと名前が書かれていた。それは堅苦しい名簿ではない。
「これは…もしや、御子のお名前ですか?」
「そうなんだ。そろそろ産まれるかも知れぬからな。おたまのときは多摩から名前をもらったが今回は旗本の跡取りになるかも知れない。試衛館の大先生やおつねにも相談して決めたほうが良いと思ってな」
近藤は上機嫌で並んだ名前を眺めている。男と女の名前の候補がいくつかあってどれも近藤に関わる文字や読みがあった。
土方は苦笑していた。
「取らぬ狸の皮算用だ。男か女かわからねぇんだ、生まれてから考えれば良いだろう。せっかちだな」
「それはそうだが、こうやって悩むのも今だけの楽しみだ」
「暇だな」
「歳は嫌味ばかりだ。総司なら分かってくれるだろう?」
「勿論です」
総司は笑った。
新撰組の局長と副長が顔を合わせてこんな相談をしていると知ったら、隊士たちは驚き気が抜けるだろう。けれど目まぐるしい時間の合間に訪れるこんな平穏なやりとりが今は貴重に感じる。
総司は候補の中からいくつか良いと思うものを伝え、土方も渋々同じようにすると近藤は満足げに頷いた。名前の一覧の書かれた紙を懐に仕舞い
「よし、お孝にも話しに行こう」
と早速立ち上がる。すると土方が
「総司、お前も行け」
と目配せした。
「なんだ?大袈裟だな、護衛なんかいらないぞ」
「…いえ、私も別宅に用事があるんです。途中までご一緒させてください」
「そうか、そういうことなら構わん」
近藤は「行こう」と足取り軽く部屋を出て、総司もそれに続いた。去り際にちらりと土方を見ると頷くだけで何も言葉なかったが、「別宅で休め」ということなのだろう。彼の配慮が有難いような申し訳ないような複雑な心地で、総司は近藤とともに屯所を出た。
しばらく歩くと
「雨が止んだな」
近藤が傘を畳んだので、総司も同じようにして隣に並んだ。曇天の空はまだ一雨降らせようとしているが、もう少し持つだろう。
「楽しみですね、もう少しで産まれるのですよね?」
「梅雨が明ける頃にはな。お孝は強気に『心配するな』と言うが、あれも初産だから不安だろう。おみねさんも居て心強いができるだけ別宅に帰ってやらないとな」
「そうですね。お孝さんも安心でしょう」
「まあ、いざという時は男の俺は役にも立たん。せいぜい大急ぎで南部先生を呼びにいくだけだ」
近藤はハハハッと笑い飛ばし、総司もつられて笑った。雨で、ぬかるみで、視界も悪いのに何故か近藤の進む先だけは明るく晴れ渡っているように見える。
(いつまでもそうあってほしい…)
「先生、『うつせみの唐織衣なにかせむ綾も錦も君ありてこそ』って歌、ご存知ですか?」
総司はふと思い立ち、先日土方の帳面で見つけた歌を尋ねた。近藤は和歌の類にはあまり縁がないかと思いきや、
「それは和宮様の御歌だな」
と即答したので驚いた。
「和宮様って…先の大樹公の?」
「そうだ。家茂公が亡くなられた際に詠まれたと聞いている。京へ来られる前、家茂公は土産をたくさん買って帰ると和宮様に仰ったようだが、突然の病で大坂で薨去された。手元には和宮様宛の豪華な絹織物などが遺されたようだが…そんなものよりも再びお会いしたかったのだろう」
「…」
「公武合体のため許嫁と破談して不本意ながら将軍家に降嫁されたが、夫婦仲は良かったのだろうなぁ」
近藤はしみじみと語るが、総司はうまく飲み込むことができなかった。
土方がこの歌をわざわざ書き残し、そこに梅の押し花を挟んでいた。
綾も錦も、何もいらない。生きてくれるならそれだけで良いーーー。
「…どうした?」
「え?あ…」
総司は無意識に目尻に涙が滲んでいた。慌てて拭うと近藤が笑った。
「気持ちはわかるぞ、俺も会津公から伺った時には涙したものだ。お若いお二人だから、きっと純粋なお気持ちだったのだろう」
遠い眼差しで語る近藤の言葉が、今は右から左へと流れて行く。
『私はあなたのものではなく…新撰組一番隊組長として、近藤先生の弟子として、死にたいんです』
鴨川のほとりで土方に伝えた本音は、彼にどう響いたのだろうか。
『何もいらないから、生きてほしい』
そう願う彼にどう聞こえただろうか。
総司は立ち止まった。
「…近藤先生、あの…屯所に戻っても良いですか?」
「ん?構わんが…忘れ物か?」
「そのようなものです。先生、どうかお気をつけて」
「ああ」
総司は迅る気持ちを抑えつつ、軽く頭を下げて元きた道に戻ろうとする。一、二歩歩いたがしかしその瞬間に急に呼吸ができなくなった。
(嫌だ…)
けれどその日は来てしまった。
「ゲホッ…!」
総司は咄嗟に両手で口を抑え、咳を抑え込もうとした。まだ近藤は近くにいる…頭の中は誤魔化さなければとそれだけだった。
しかし身体は言うことを聞かず、何度も咳き込んでしまった。尋常ではない様子に近藤が駆け寄り「どうした?」と背中をさすった。
クラッといつも感じる目眩のようなものがしてその場に膝をつく。
「総司、大丈夫か?!苦しいのか?」
「ゲホッゲホッ…せ、んせ、…ゲホッ、離れて…」
「何を言っている?ほら、水でも飲むか?」
「…ゲホッ!」
大きく咳き込むと口の中に不快な血の味が広まって、堪えきれずに溢れた。指の間から滴り地面に落ち、近藤は絶句する。
「…血、だと…?総司、これは一体どういうことだ…」
「…っ」
「総司!」
答えようにも体が言うことを聞かず、ヒューヒューと肩を上下させながら息を繰り返すしかない。次第に身体の力が抜けて行く。
「おい、総司!総司!」
「失礼します」
焦る近藤とは別に、冷静で淡々とした声が聞こえた。町人姿に身を包んだ大石だった。
「大石君…これはどういうことだ!君が何故ここに…」
「俺からは説明できません。局長、一緒に屯所に戻っていただけますか?」
大石は総司を抱きかかえた。近藤は唇を噛んで悲しみとも怒りとも言えない複雑な表情で
「歳が全部知ってるんだな」
と問いかけると大石は頷いた。
総司は朦朧とする意識のなか二人のやりとりを聞いていた。
(違うんです、先生…歳三さんは何も悪くない…)
けれどその言葉は近藤に伝えることはできず、意識を手放してしまった。






663


人目につかないように屯所の裏口から大石とともに戻った近藤は、まっすぐ土方の部屋に向かった。道中、大石は事情を一切語らず、抱えられた総司は眠ってしまったので近藤の頭は混乱したままでまるで沸騰しているかのようだった。
「歳!」
出て行ったはずの近藤が断りもなく部屋に入ったので土方は驚いていた。
「何かあったのか?」
「何かあったじゃないだろう!馬鹿野郎!」
近藤は言葉にできない感情を堪えきれず、気がつけば土方に掴みかかり涙を流していた。
「何故、俺に伝えなかった?!また隠し事か?深雪の時のように俺を蔑ろにしただろう!」
「…かっちゃん、まさか…」
土方は近藤の背後で大石が総司を抱えて現れたことで全てを察し、動揺した。
「一体何の病だ!なんでこんなことになっている?!いつからだ!」
「かっちゃん、落ち着いてくれ。隊士に聞こえる」
「落ち着けるわけないだろう!俺にとって総司は弟も同然だ、可愛い愛弟子がなんで血なんて吐くんだ!」
「かっちゃん、頼むから!」
土方は慟哭する近藤の肩を両手で掴んだ。動揺する近藤はようやく目の前の幼馴染がひどく苦しい表情をしていることに気がついて、グッと言葉を飲み込んだ。
「…大石、悪いが局長の部屋に寝かせてやってくれ。目が覚めたら教えろ」
「了解しました」
大石は総司を抱えたまま部屋を出て行った。
近藤は二、三回深く深呼吸して土方の前に座った。できるだけ落ち着いて戻ってきた経緯を話す。
「急に咳き込んで血を吐いて…倒れ込んで意識を失った。松本先生や南部先生を呼んだ方が良いんじゃないのか?」
「…初めてのことじゃないから焦らなくて良い。総司が望んだらそうする」
「今まで何回もあったのか?」
「…そうだ」
「まさか労咳か?」
咳き込んで血を吐いて昏倒する…近藤もその病を知っていた。けれど土方が「違う」と否定するのをほんの少しの希望を持って待っているように見えた。
しかし、
「ああ」
と土方が認めると、サッと血の気がひいたように青ざめて頭を抱えた。
「い…医者には診せたのか…?」
「縁談相手だったお加也という娘がいただろう。偶然、病を知られて以来診てもらっているようだ」
「…総司は巡察も、稽古も続けているよな?何故、養生させない?」
「…」
「薬屋だったお前ならこのままだと悪化すると分かっているだろう?!」
「…」
声を張り上げた近藤に、土方は反論できない。彼の言うことは正論で今この時でさえ命を縮めているのは間違いないのだ。総司の無茶を容認し続けている。
再び苛立った近藤はやり場のない感情を持て余し、両手を震えるほど強く握り締めた。
「歳、何で黙っているんだ。深雪の時のように俺が受け止められないとでも思ったのか?仕事に影響するとでも?俺はそんなに頼りないのか?」
「かっちゃん…」
「俺を馬鹿にするのも大概にしろ!今すぐ養生させるんだ。松本先生にお願いして、脱退させて江戸に戻して静かな暮らしを…」
「そんなことはわかってる!」
近藤以上に土方は声を荒げた。
「歳…」
「あいつにも伝えてる、江戸に戻って養生しろって…だが、総司は頑なに拒む。今まで通りで良い、このままかっちゃんの傍に居たいんだと、言うことを聞かない」
「…」
「今まで話さなかったのは、幕臣への取り立てが正式に決まるまで隠してほしいと言われたからだ。祝いの席に水を差したくないと」
「馬鹿な…俺の為だと…?」
「かっちゃんは知ってるはずだ。総司は誰よりもなによりもかっちゃんを慕ってる。自分の命はかっちゃんのものだと思ってる。そんな総司なら、考えそうなことだろう」
「…」
近藤は身体の力が抜けた。
土方の言う通り昔から知っていた。誰よりも近藤のために役立ちたいと、命をかけてついてきたのは総司だ。
熱く燃え上がった怒りと哀しみの混じった炎が、冷や水を浴びせられて鎮火したかのようだった。
「…このままだと、どうなる?」
「養生しなければ一年ほどで床に伏すことになるだろう」
「…そう、か…」
少し冷静になると、どうしようもない現実が襲ってくる。近藤が落ち着くと土方はこれまでのことを簡単に説明した。発病してもう半年近く経つこと、英が関わったこと、大石と山崎が知っていて手助けをしていること、土方自身が知ったのもつい最近だと言うこと。
目の前の幼馴染はかつてないほど苦痛に顔を歪め、絞り出すように状況を口にしていた。近藤はようやく、家族であり兄弟子であり特別な関係である彼が一番苦しんでいるのだと思い至った。彼に当たるのは間違いだと。
「…悪かった。深雪のことが思い出されて、ついカッとなった。お前を責めても仕方ないのに」
「俺のことは良い。だが、総司を責めないでくれ。あいつはあいつなりに近藤先生のために行動してきたんだ」
「わかってる。…わかるから、余計に悔しい…」
近藤はようやく握りしめていた拳を解いた。爪が手のひらに食い込んで赤くなっていたが、痛みを感じなかった。
「だがいろいろ腑に落ちた。このところ総司もお前も様子がおかしかっただろう。それに…幕臣への昇進を伝えたときも総司は喜んでいたが、悲しんでもいたように見えたんだ。これから先を悲観していたんだな…」
「そうかもな…」
「二人の問題だろうとさほど真剣に捉えず、昇進に浮かれて、呑気に子どもの名前を考えていた自分が恥ずかしいよ」
近藤は落胆したが、土方は「やめてくれ」と首を横に振った。
「そうやってかっちゃんが落ち込むと、総司は自分を責める。もうこれ以上、あいつを苦しめたくない」
「…だったら、江戸で養生させよう。試衛館に戻れば良いじゃないか」
「だが…」
「俺が説得する、師匠である俺が諭せば、言うことを聞くかもしれないじゃないか」
「…」
近藤の提案に対し、土方はあまり良い反応を見せなかった。
「なんだ?もう隠し事はするな、思うことがあるなら言ってくれ」
「…俺は…」
「失礼します」
襖の向こうから大石の抑揚のない声が聞こえた。


大石は姿を消し、二人はすぐ隣の土方の部屋に移った。その頃に止んでいた雨もまた降り始めていて、部屋はすでに薄暗くなっていた。
「…近藤…先生…」
横になって不安げな総司に対して土方は
「喋るな。左側を下にして横になれ」
と、身体を支えてやった。呼吸は落ち着いたが依然として顔色が悪く、近藤は(何故今まで気が付かなかったのか…)と再び己を責めた。しかし土方に言われた通り、それを表には出さないように努めた。
近藤は総司のそばに膝を折り、手を握った。
「…総司、歳から話は聞いた。今まで大変だっただろう」
「せ…」
「話さなくていい。すぐにでも松本先生に診てもらおう。それから…江戸に戻って養生するんだ。京は何かと騒がしい、静かに静養できないだろう」
「…」
近藤の話に総司はいっそう顔を歪めて手を握り返し、首を横に振った。
「我儘を言うな。それに…治ったら、戻ってきたら良いじゃないか。な?」
駄々をこねる子どもを宥めるように、近藤は優しく声をかける。しかし総司は頑なに首を横に振り拒んだ。だが頑固なのは師匠と同じなので近藤も譲らない。
「松本先生にご相談する。新撰組のことは大丈夫だ…とにかく、今日はこのまま休め。また話そう」
「…は、い…。先生…、……」
「なんだ?」
蚊の鳴くような絞り出す声が聞こえず、近藤は耳を寄せる。そしてようやく鼓膜に届いたのは、
「…ごめんなさい」
という謝罪だった。
それを聞いた途端、近藤はそれまで堪えていたものが堰を切ったように溢れ出し、顔が真っ赤になって体が小刻みに揺れた。怒りではない、悲しみだ。
「何故、なぜ、他の誰でもなくお前なんだ…!お前は俺の一番弟子で、可愛い弟分じゃないか!なんで…何でだ…あまりに理不尽じゃないか…!」
近藤は感情のままに痛いほど強く総司の手を握りしめ、咽び泣く。総司も尊敬する師匠の慟哭を前に涙が溢れた。
「かっちゃん」
土方が宥め、近藤はようやく手を離したが大粒の涙は止めどなく流れていた。
「うっ、う…すまん…すまん」
「謝るな。総司、お前もだ。一体誰が悪いって言うんだ。誰も悪くないのに謝るなんて、謝り損だ」
「そうだ、そうだよな。歳、お前の言う通りだよ…」
近藤は手拭いを取り出して目元を拭う。そして「頭を冷やしてくる」と言って部屋を出て行った。
師匠のあれほどまでの慟哭を目の前にした総司は動揺した。その原因が自分であることがひたすら情けなかった。
すると、近藤の代わりに土方が手を握った。
「…と、…さん」
「来るべき日が来ただけだ。かっちゃんのことは心配するな。お前は自分のことだけを考えろ」
「…」
雨がさらに強く降っていた。雨音のせいで聞こえないけれど、近藤はまだ嘆いているのだろう。
総司はぼんやりと天井を見つめた。来るべき日がまさかこんな唐突に、あっという間に来てしまうなんて思わなかった。
(僕の願いは叶わなかった)
そう思うと無性に虚しく、寂しくなった。今後も何も叶わないのではないかと悲観してしまう。
するとそれを察したかのように土方が
「俺も横になる」
と総司の隣に身体を横たえた。すぐそばに彼の体温を感じ、寂しさは和らいだ。
土方の口調はいつになく優しい。
「…かっちゃんはお前を江戸に帰すと言っている。あの頑固者を説得するのが大変なのは、お前もよく知っているだろう?素直にかっちゃんの言うことを聞くつもりはあるか?」
「…」
総司は首を横に振った。いくら近藤の願いでも、江戸に戻って養生するなんて考えられなかった。
その反応を見て、土方は苦笑した。
「そうだな。お前も同じくらい頑固だ。間に挟まれた俺は苦労するな」
「…歳三、さんも…帰れと言うんじゃ…」
「ああ…そう思ってた」
土方は総司の枕を避けて、代わりに片腕を腕枕として差し出した。そして抱き寄せる。
「そう思ってたのに、かっちゃんが同じことを口にして納得できない自分がいたことに気づいた。お前が俺の知らないところで血を吐いて、病に苦しむ方が嫌だと思ったんだ」
「…じゃあ…」
「まだ、結論は言えない。ただ…かっちゃんに話して良かったと思う。あいつと話すと自分のことがよくわかる」
彼の言う通り間近で見ると少し穏やかになった気がした。土方にとっても近藤は唯一無二の親友だ。だからこそ共有することで気づきを得ることができるのだろうし、土方も肩の荷が降りたのだ。
「もう今日は寝ろ。眠るまでこうしておいてやるから」
「…はい」
総司は土方の腕の中でゆっくり目を閉じた。
雨音はやがて聞こえなくなった。









664


連日、雨が降り続けていた。
紫陽花の青い花弁が雨粒に揺れるなか、斉藤は伊東とともに外出した。いつもは内海か篠原を伴うことが多いので珍しいことだった。
「この先に懇意にしている宿がある。そこで話そう」
「…」
そう誘われた善立寺からほど近い宿は、人目につかない場所にある。どうやらよほど重要かつ誰の耳にも入れたくない話らしい。
女将が案内した二階の奥の座敷は風通しが良く、この雨の中でも心地よい。
「ここから清水が見えるはずだが、今日は見通しが悪いな」
「へえ、今日は残念ながら」
伊東は女将に酒と肴を運ばせた後は金を渡して人払いを頼んだ。懇意にしている宿でさらに金まで握らせるとは。
「…伊東先生、よほど重要なお話とお見受けしますが」
斉藤が率直に尋ねると、伊東は手にしていた扇を広げて軽く仰いだ。
「本当は君にすら話すことが憚られるが、君は聡いし会津や幕府とも縁がある。どうせ知られるのなら最初に話してしまった方が気が楽だと思ってね」
「内海さんもご存知ないお話ですか」
「…あれは、きっと反対する。他の同志にも賛同は得られないだろうからね」
「…」
(俺なら理解すると?)
そう口にしかけたが飲み込んだ。伊東のペースに巻き込まれると余計なことまで話してしまいそうだ。
伊東は扇をパチン!と閉じて、それをこめかみに当てた。整いすぎる美貌が歪み目を伏せた。
「新撰組が幕臣へ昇進する。彼らがどういう地位に就こうと我々には関係のないことだが、残してきた同志のことは気掛かりだ」
「…茨木や佐野のことですか」
「ああ。彼らからもこのまま幕臣となることなど到底受け入れられないと陳情がきた。もちろん気持ちはわかる…己の名誉に関わるのだ」
「しかし隊士の受け入れは約定で禁じています」
「そう、様々思案したがやはり我々にはできることがない。…そして今朝、届いた手紙がこれだ」
伊東は斉藤に小さく折り畳まれた紙を渡した。細く小さく書き連ねられた文字は真面目な茨木のものであったが、その内容は彼らしくない大胆なものだった。
斉藤は素直に驚いた。
「会津に仲裁…ですか」
「幕臣になるということは慶喜公に仕えるということだが、新撰組は会津の元で長く働いてきたのだから二君に仕えるということになる。それは武士の面目が立たぬ故に幕臣への取り立ては異議がある…そう申し出て会津に仲裁を頼むという筋書きだ」
「…しかし、会津にはその裁量はありません。幕臣への昇進は幕府が決めたことです」
「その通りだ」
伊東は大きくため息をついた。
「会津がどう判断するか…これは結果がどう転ぶかわからない賭けのようなもの。彼らからすれば新撰組に残るよりはマシという手立てだ」
「…」
斉藤は伊東ほど彼らの行動に希望は見出せなかった。
会津が取りなしで御陵衛士へ加盟ができるはずもない。それに新撰組からすらば裏切り行為だとみなして処罰するかもしれない。伊東の言う通り極めて成功率の低い自爆のような『賭け』だ。
伊東は少し呆れているように見えた。
「先生がお止めすれば良いのではありませんか?」
斉藤は手紙を返しつつ尋ねた。忠誠心の強い茨木たちは伊東の鶴の一声で言うことをなんでも聞くだろうし、それを本人も自覚しているはずだ。
しかし伊東は首を横に振った。
「彼らとのやりとりは頻繁にはできない。これほど頑なな様子だと何度も説得が必要だろうが、その機会があるかどうか。それに…私はこの方法を、本当に茨木たちが思いついたとは思えない」
「…確かに、仰る通りです」
追い詰められている彼らが、武士の面目を気にして二君に仕えずなどと言い張るとは思えない。そして何より『会津への仲裁』という既視感のある行動には違和感があった。
斉藤はすぐに思い至った。
「先生、武田観柳斎が茨木たちに近づいています。この古臭い言い回しと過去の永倉さんの嘆願書の件を直に知っているあの者なら、考えそうなことです」
「…そう、私もそう思ったのだ」
伊東は驚かず、口元だけ笑った。もちろん彼もわかっていたのだろう。
(なるほど、俺だけ呼び出したのはそういうことだったのか)
武田をよく知り、永倉の嘆願書に署名した斉藤ならすぐに話が通じると思ったのだろう。だがそれでも厳重に人払いするほどのこととは思わなかった。
伊東はそれまで手をつけなかったのに、ようやく酒を持って斉藤の猪口に注いだ。
「…武田観柳斎についてよく調べてほしい。そして彼に感化されている茨木たちも気になる。あれは真面目すぎる男だから、追い詰められて視野が狭くなっているのだろう」
斉藤は伊東の銚子を受け取って注ぎ返した。
「調べるのは構いませんが、今までのお話は内海さんに隠すほどのこととは思えません」
斉藤の包み隠さない問いに、伊東はすぐには答えずに酒を煽った。「美味いな」と笑うので斉藤も同じように飲み干した。まるで水のような酒でとても酔えそうにない。
そして、
「…これからが本題だよ」
伊東は妖しく微笑んだ。


総司の体調が落ち着く頃、屯所に松本がやってきた。坊主頭の額が何重にも層になり眉間にすら皺を寄せている。
総司は安静を言い付けられて横になり、その傍らに近藤、土方も居合わせた。不穏な様子の松本は今にも怒鳴り散らすような剣幕だったが、突然土下座せんばかりに頭を下げた。
「すまなかった!うちの馬鹿どものせいで!」
総司は慌てた。
「ま、松本先生、やめてください!お加也さんは熱心に診察してくださったのです、英さんも手を尽くしてくださいました」
「いや、まだまだひよっこのくせに、俺や南部に隠しやがって!新撰組の主治医は俺だぞ!」
「法眼が謝ることはありません!むしろ総司が二人に黙っておくようにお願いしたのです、非があるのはこちらです!」
総司と近藤が何度も頼んでようやく松本は顔を上げた。そして土方へ視線を向けた。
「…土方、悪かった。お前には以前から沖田の体調を気に掛けるように頼まれていたのに、近藤から経緯を聞くまで思いあたりもしなかった」
「いえ…近藤の言うように、総司が隠していたのです。それを言うならつい最近まで気が付かなかった我々の落ち度でしょう。ご迷惑をお掛けして申し訳ありません」
土方が頭を下げ、結局総司が三人を謝らせてしまったようで居心地が悪い。
「…土方さんはどうして松本先生にそんなことを?」
「おみつさんに頼まれたからだ。お前の両親は労咳で亡くなってる、おみつさんはお前の体調を気にしていた」
「そう…だったんですか…」
姉であるみつと土方の間に、そして土方と松本の間にそんなやりとりがあったとは全く知らなかったが、結果的には姉の悪い予感が当たってしまったようだ。姉には何と知らせれば良いのだろうか…申し訳なさが募る。
「…とりあえず改めて診察だ」
松本はそう言って、手慣れた手つきで診察道具を取り出してあちこち熱心に診察した。加也と同じように胸の音に耳を澄ませこれまでの経過を詳しく尋ねる。その目つきは医者のそれに違いなく、まさかその目で見つめられる日が来るとは思わなかった、なんて総司は現実逃避のようなことをぐるぐると考えていた。
診察を終えた松本の表情は冴えなかった。
「…残念だが、うちの馬鹿どもの診察は正しかったようだな」
「ああ…そうですか…」
近藤は落胆していたが、総司にはそれはなかった。自分の体の事はわかっていたし、加也や英を信頼していた。
近藤は息を吐いて気持ちを落ち着かせつつ、松本の前で居住まいを正した。そして今度は近藤が頭を下げた。
「法眼、総司は新撰組にとって、我々にとって大切な存在です。治してほしいと懇願するには難しい病だと言うのは百も承知です、どうかどうか…!」
「先生…」
「だったら今すぐに静かな場所で養生させるべきだ。仕事も稽古も一切駄目だ。特効薬はないが身体を休ませていくつかの峠を越えれば快癒することがあるだろう。それから…」
松本の話に近藤はうんうんと頷く。総司は困惑し、土方は何も言わなかった。
ペラペラと話していた松本だが、突然話を止めた。
「…ってのはまぁ、一般的な話だ。大切なのは本人にその気があるかどうか。沖田、どうなんだ?」
松本が総司に尋ねたので、即答した。
「松本先生、私はそのつもりはありません」
「総司!」
言うことを聞かない子供を叱るように近藤が声を上げたが、松本は「だよな」と苦笑した。
「最初からおとなしく養生するなら、加也や英に口止めしないだろう。近藤や土方にまで半年も伏せて、このまま生活するつもりだったやつが素直に言うことなんか聞くもんか」
「法眼…!」
「近藤、俺は数々の患者を診てきたが、病に罹ったものは病に罹った者しかわからない気持ちってのがある。医者はそれを手助けするだけだ…俺はよく言ってるだろう?病は気からってな」
「しかし!」
食い下がる近藤を松本は「焦るな」と宥めた。
「まだ時間はあるからよく話し合え。このまま同じ生活をするにしても、養生するにしても俺は必ず手を貸す。俺は労咳に気づかなかったヤブ医者だが、悪いようにはしないさ」
松本の頼もしい言葉に総司はどこか安堵する。
きっと加也や英に伏せるように頼まなくとも、松本は力を貸してくれていたのだろう。彼は快活な性格でお首にも出さないが、本当は自分に打ち明けられなかったことに一番憤ったのかもしれない。
「先生…申し訳ありませんでした」
総司は心から謝罪した。しかし気にする様子もなく笑った。
「謝ることはない。…今後も加也と英に診察をさせるが、俺も助言するから安心しろ」
「はい…ありがとうございます」
松本は診察道具を片付けて近藤の見送りを拒み、「じゃあな」とあっさり去っていった。
「近藤先生…」
「…俺は納得できない」
松本から促されたものの、近藤は話し合いを拒むように部屋を出ていってしまった。信頼する恩人からの助言さえ受け付けない様子に、土方はため息をつきながらも苦笑した。
「あの頑固者はまだ現実を受け入れてないだけだ。少し時間を置こう」
「…はい、わかってます」
「隊士にはまだ伏せておく。互いに納得してから皆に話そう」
「そう…ですね」
長年の仲間である永倉や原田、小さい頃から知っている井上、慕ってくれている島田や山野…皆の顔が浮かんだ。しかしそれをかき消すように土方がやや乱暴に頭を撫でたので、それ以上は考えるのをやめた。
「歳三さん…」
君ありてこそ。
あの日、その意味を近藤から聞き、咄嗟に彼に会わなければと踵を返した。結局吐血してしまい近藤に知られてそれどころではなくなったが、あのあと自分は何を尋ねるつもりだったのだろう。
「…なんだ?」
土方は総司の言葉を待っていたが、
「ちょっと、疲れました」
と総司が誤魔化したので「そうだな」と言って掛け布団を肩まで掛けてくれた。





665


梅雨の合間、曇天の隙間から日差しが差し込むが相変わらずじめじめとしていた。
「局長、何かあったのですか?」
巡察を終えた総司は山野に尋ねられ、言葉が詰まった。
「…何かって?」
「いえ、最近お元気がないご様子なので…先日まで昇進を大変お喜びだったじゃないですか。まさか…あの、不測の事態でも起こったのではないかと危惧する隊士がいて」
近藤はあの日を境に気落ちして部屋に篭るようになった。土方は「落ち着くまで放っておけ」と心配していない様子だったが、事情を知らない隊士からすればそのアップダウンは一体何が起こったのかと驚くほどだったのだろう。彼らが昇進が取りやめになったのではないかと疑うのは当然の流れだ。
総司は複雑な心情を誤魔化しつつ、笑った。
「…心配ありませんよ。昇進の話はちゃんと進んでいるし、近藤先生もお元気ですから。少し…考えたいことがあるのかもしれません」
「そうですか、良かった!僕もわかります。目の前に信じられないことが起こると一旦は喜びますけど、そのうち実感が湧いてきて冷静になっちゃったりするんですよね。皆にも伝えておきます」
山野が前向きに捉えてくれたので助かる。彼は隊内でも愛されるキャラクターなので、隊士たちの危惧も杞憂だとすぐに広まるだろう。
草鞋を解きつつ
「先生、お願いがあるんです」
と山野がおずおずと切り出した。
「お願い?」
「先生は先日、刀を安定に新調されたじゃないですか。僕も安定ほどではありませんが反りの浅いものを検討していて…でも、僕ごときには扱えないんじゃないかと思っているんです」
「そんなに気構えることはないと思いますよ。要は自分に合えばそれで良いんだし」
総司は腰から安定を鞘ごと抜いた。
斉藤から『餞別』にもらった刀は手に吸い付くように馴染んだ。目利きの斉藤が選んだものだからなのか、自分の形に合っていたのかうまく言葉にはできないが、とにかく使い心地が良い。
「良かったら使ってみますか?」
「良いんですか?!」
山野は目を輝かせて安定を受け取った。最初は遠慮がちだったが、目を見開いてあちこちを見つめる姿はとても熱心だった。
「先生、道場でお付き合いいただけませんか?」
「良いですよ」
山野に誘われたのを快諾して、誰もいない道場にやってきた。稽古後なので隊士たちの熱気が残っていて蒸し暑いままだった。
総司は安定の代わりに山野に無名の刀を借りて、軽く打ち合うことにした。木刀を使う稽古よりも緊張感はあるが、相手は山野なので無茶はしないだろうし体への負担もない。
キン!キィィン!と金属音が響く。安定は他のものよりも刀身が黒い。そして細身でよく切れるが、特に剣先が細いため腕に覚えのある者でなければ扱えないと言われている。
山野も顔を顰めながら苦心していたが、やがて刀を下ろして
「僕には難しそうです」
と鞘に収めて総司に返した。素直な反応は山野らしい。
「ふふ、難しいですか」
「何ていうか…思った通りに振るえないというか、僕には手に負えない感じがあります」
「そうですかね。私はあまり刀に興味がなくて…」
「先生は別格だからですよ!」
「褒めてもなにもでませんって。そうだなぁ…斉藤さんあたりに指南してもらえれば良いんですけど、今はそうもいきませんね」
手に馴染みきった総司にはわからない感覚だったが、山野は「考え直します」と納得した様子だった。
二人はじわりとかいた汗を流すため井戸へ移動した。山野は桶を引き上げてせっせと手拭いを絞り総司に渡してくれた。
「先生の前の刀は加賀清光でしたね」
「ええ。でもあれはもともとは近藤先生が手に入れたものと交換したんです」
「交換?でも局長の刀は『虎徹』ですよね」
「ああ、懐かしいな。『虎徹』は、元はと言えば私が購入したものなんです」
「えぇ?!」
山野は声を上げて驚いたので、総司は経緯を簡単に話した。彼のいう通り『虎徹』は天下の名刀であり、『加賀清光』と対等な価値ではない。しかし総司にとっては世間的な評価よりも近藤に与えられたものだということが大切だったのだ。
そして、
「私にとっては虎徹が近藤先生を守り、加賀清光が先生から力を与えてくださるような、そういう存在なんです。そして私は刀のように傍を離れず共に生きていきたい…刀を交換したのはそういう『約束』の証なんです」
近藤は『刀の盟約』だと言っていたけれど、総司にとって共に浪士組の一員として上洛する決心と誓いが刻まれたのだ。残念ながら加賀清光は実戦では使い物にならないが、それも近藤と土方のために使ったのなら果たすべき役割を全うしたということなのだろう。
(僕も同じなのかな…)
悲観的な気持ちが一瞬過ぎったが、山野の前なのでやり過ごす。
山野は感嘆のため息を漏らす。
「大切な刀だったのですね。てっきり僕は、先生は少し変わった刀が好みなのかと思っていました。安定も加賀清光も凡人に扱えるようなものではありませんから」
「そもそも銘にはさほどこだわりはありませんけどね。手に馴染んで切れ味がよければそれで…」
「弘法筆を選ばずって言いますもんね」
「前から言ってるけど、私を褒めても何も出てこないですよ」
「僕だって前から言っていますが、先生に嘘はつきません、本心です!」
山野のまっすぐな眼差しが総司には眩しい。けれど彼の清々しさに救われているのは確かで、身に余る賛辞も「ありがとう」と受け取った。
汗を拭いた二人はそのまま近くに腰掛けた。湿気を払うような冷たい風が吹き始め、心地良くなった。
「山野君はどうして新撰組に?」
「僕ですか?」
何故そんなことを尋ねるのか、と彼は少し強張ったので「世間話ですよ」と微笑んだ。
すると彼はぽりぽりと頬を掻きながら言いづらそうにした。
「僕はその…故郷が居づらく、都に来ました。この顔が悪目立ちして絡まれることが多くて…当時『壬生狼』は荒くれ者の集まりだと評判だったので、箔がついて良いかなあ…なんて、そんな不純な動機です」
山野は可愛らしい見た目で周囲からは少し浮いているが、池田屋以前からの古参隊士だ。熱心な働き者なのでさほど深い入隊理由がなかったのは意外だが、彼の評価を貶めるほどのことではない。
「不純なんて、気にすることはないです。私だって…近藤先生のために働きたい…そういう気持ちは当然あったけど、要は置いてけぼりは嫌だっただけなんです」
「置いてけぼり?」
「道場に残れと言われたんです。あの時は役目を終えてすぐに戻る予定だったから、道場を守れと言われたんですが…駄々をこねて」
散々、周囲を巻き込みながらどうにか近藤を説得し、浪士組参加を果たした。今となってはあの時食い下がらなければどうなっていたのかわからない。
山野はふふっと笑って
「良かったです。先生が駄々をこねてくださって、今の僕がありますから」
と言った。彼に取って何気ない言葉だったのだろう。いつもの過剰過ぎる賛辞でしかない。
けれど今の総司にとって特別な言葉だった。
「…先生?」
「山野君…もし、私が…あなたの想像通りの人間じゃなくても…」
「なにをおっしゃいますか。先生は先生です」
言葉を遮って強く肯定する山野は、曇りのない瞳で柔らかく微笑んでいる。総司は思わず彼を抱きしめた。
「せ、先生?」
「…ちょっとだけ。島田さんに怒られますか?」
「先輩は先生に怒ったりはしないと思いますけど…」
「ハハ、そうですね」
「先生…何かあったんですか?」
「…なにも」
総司は山野から離れた。彼は何か言いたげに総司の顔を見ていたが、
「あ、島田さんだ」
と、ちょうど彼の連れ合いが来たので話を切り上げた。
「山野、ずるいぞ、先生を独り占めして稽古なんて」
「良いじゃないですか、先輩は伍長でいつも先生のそばにいるんですから」
「む…それはそうだが」
彼らの軽快な会話を耳にしていると、身体の力が抜けて口元は自然と微笑んでいた。





666


「口減らしを?」
江戸の貧乏道場を継いだ俺は、ある日ひどく嫌そうな顔をした義母のふでから口減らしを一人受け入れることになったと聞かされた。
「うちも裕福じゃぁないんですけどね!親もいない子だから躾もできているかどうか…全く…」
ふではブツブツと文句を言いながら食膳を片付けていく。俺も自分の分と義父の分を重ねて続いた。
「すまん」
義父である周助は俺に謝った。その口減らしは兄弟子である源さんの遠い親戚の子だということで、義父はふでの了解も得ず受け入れてしまったらしい。義父の人の良さは良く知っていたので、
「俺は構いませんよ」
と言いつつ、内心は少し不安だった。お義父そんとお義母さんの喧嘩はしょっちゅうで気に病むことでもないが、俺は末っ子で自分より年下と過ごしたことはない。子供は嫌いではないが、どうも怖がらせてしまう顔らしく近寄り難いらしい。
(む…困った)
その時、ちょうど歳がやってきた。行商で近くを通りかかったという彼に相談すると
「放っておけば良いだろ」
とあっさり言われてしまった。
「そうはいかんだろう。八つか九つの年端のいかぬ子が親元を離れて来るんだ。不安だろうから優しく歓待してやらんとかわいそうじゃないか!」
「歓待ねぇ…どうせおふでさんは面倒がってるんだろ?初めは優しく受け入れたってそのうち気がつくさ、自分は歓迎されてないってな」
「ぐ…、義母さんはあまり子どもが好きじゃないんだ」
武家の血筋から貧乏道場を継ぐ義父に嫁いだ義母は子どもに恵まれず、俺を養子として迎えることになった。もともとは義父も養子なので、近藤家は何かと跡取りには悩まされる家系なのかもしれない。その為、ここは子供が暮らすような環境ではないのだ。
「俺は剣ばかりで玩具など不得手だし、子供が喜ぶような遊びも知らん…」
真剣に思い悩む俺をみて、歳は面白がる。
「お前が可愛がれば可愛がるほどおふでさんは気に入らないだろうぜ。浪人とはいえ武士の子なんだろ?身分だけは立派なのに貧乏道場の口減らしなんて…女将さんは鼻につくのさ」
「…俺が不甲斐ないせいだなぁ」
剣の腕には自信があっても身分の壁だけはどうしようもない。昔から農民の子である俺が剣ばかり打ち込むことは「無意味」だと嗤われたし、「農民のくせに」と馬鹿にされた。俺は一向に気にしなかったが、逆に身分の合わない立場に甘んじるしかないその子は不憫だった。せめて試衛館が名の知れた立派な道場なら良かったのに。俺が立派な剣士であれば誇れたのに。
「はあーかっちゃんは親切だな」
歳は茶を飲み干して再び行商箱を担いだ。傘を目深に被ると、目元が涼しげな色男がさらに印象的になる。その整った顔立ちと言葉巧みな話術で実家の『石田散薬』の売れ行きは悪くないそうだが、俺は道場で汗を流し繕わぬ努力を重ねる歳の方が好きだ。本人も素を曝け出しているように見える。
(お前も本当はその方が良いんだよなぁ…)
同じ農家の末っ子。継ぐものも荷物もない立場である俺たちは何にだってなれる。武士にだってなれる。
そう信じて俺は道場主になったけれどその先は開かれぬまま頼りない。歳も俺に人生を預けるほどの甲斐性がないの知っているから、道場には適当に顔を出すだけで行商人を続けている。
何もかも、俺に力がないせいだ。
「じゃあな、また来るよ」
歳はいつものように去っていく。情けない俺を放っていく。俺はたまらず叫んだ。
「…歳!」
「なんだよ」
「不甲斐ない俺は今度こそ、その子を守るぞ!何も持ってないし、何にも良いことはないかも知れないが、『ここに来るんじゃなかった』なんて言わせないようにしてやる!」
俺は己を奮い立たせた。何故だかそうしなきゃならないと思ったのだ。
突然、自分を鼓舞して叫ぶ姿を見て歳は唖然としていた。けれど幼馴染はよく心得ていて
「おう、頑張れよ」
と細かいことは聞き流して「またな」と去っていったのたった。


肩にふんわりとした柔らかな温かさを感じて、近藤は目を覚ました。
「あ、堪忍…起こしてしもうた?」
孝は穏やかに微笑む。初めは様々な経緯から心を開かなかった孝だが、今では献身的に尽くしてくれていて、別宅の縁側でうたた寝をしていた近藤に羽織を掛けてくれていたのだ。
「…すまん、少し寝ていたようだな」
「へえ、せやけどほんの少し」
「そうか…」
昔の、長い夢を見ていたのだが実際にはそれほど寝ていなかったようだ。
孝は大きなお腹を抱えつつ近藤の横に膝を折った。
「もう…産まれるな」
「へえ。旦那様のご昇進もお決まりになって…この子はもしかしたら幸運をもたらしてくれてはるのかも」
「…そうかもしれないな」
近藤は力なく頷いた。孝のいう通り、昔どうしても得られなかった「身分」という壁がようやく崩れた。自分が旗本なんていまだに信じられない喜びであり、背筋が伸びる見に余る計らいだ。
誰に感謝してもしきれないというのに…一番傍に居て献身的に働き、感謝しなければならない二人が苦悩しているなんて。
「旦那様?」
「…雨が降るのかも知れぬ。雲の色が暗い」
「まあ、ほんまや」
近藤は話を変えて曇天を見上げた。身重の孝に話すべきではないし、総司と親しいみねに伝われるのも本意ではない。
孝は明るく続けた。
「そういえば、旦那様。今朝の夢にお姉ちゃんが出てきて」
「深雪が?」
「『なんも心配ない、大丈夫や』って。そろそろこの子が産まれるって教えてくれはったのかも………」
「ん?どうした?」
亡くなった姉の話を朗らかにしていたのに、孝は突然サッと青ざめて大きくなった腹に手をやった。
「旦那様…もしかしたら…」

それからあっという間にバタバタと忙しなくなった。
ちょうどやってきたみねが近藤に産婆を呼ぶように頼み、産気づいた孝を手厚く看護した。近藤は近所の産婆を送り届け、ついでに診療所にも駆け込み南部と数名の助手を連れて帰って万全の体制を整える。
それから先は近藤の出番はなく、ただただ部屋の外で祈り待つだけの時間となり、そこへ話を聞きつけた土方がやってきた。予想通り小雨が降っていた。
「どうだ?」
「…南部先生は初産故に時間がかかると言われた。おたまの時は同じ初産でもすぐに産まれたのに…」
「心配することはない、お産は千差万別だ」
土方はしっかりしろ、と言わんばかりに近藤の肩を叩き隣に座った。
「屯所は良いのか?」
「何かあれば知らせるように山崎に頼んでいる」
「…総司は?」
こういう時に土方とともに駆けつけそうなものだが姿がない。近藤が尋ねると土方も何とも言えない顔をした。
「…気にするなと言ったが、自分がいたら良くないと一点張りだ。赤子に何かあってはいけないと…」
「馬鹿な…そんなことあるわけない」
「師匠に似て頑固なんだよ。良く知ってるだろ?」
土方は苦笑するので、近藤も「知ってるな」となんだか力が抜けた。
「…昼間、夢を見たんだ。総司が試衛館にやってきた頃の夢だ。お義母さんは嫌がって、お前は『放っておけ』なんて言って…」
「結局日野を逃げ出してきた宗次だと知って、かっちゃんは喜んだよな」
「そう、あれは運命の再会だと今でも思ってるよ」
近藤だけでなく、土方も鮮明に覚えているらしい。
試衛館で繋がった縁がここまで導いてくれた。
土方や総司だけではない、亡くなった山南や去っていった藤堂もすべて必然の出会いだったのだと近藤は今でも思っている。
「…あの時…宗次郎が来ると知らなかったが、俺は心に誓っていた。その子を守ろう、俺の所にきたその縁を大切にしたい、だから絶対に守ってやる…そう思ったんだ。それは我が子に対する気持ちと何ら変わりはない。血の繋がりなんてなくても、総司が俺の大切な家族であることに変わりないんだ」
「…」
「だから守ってやるんだ…俺が…」
孝の出産も相まって近藤の決意は固い。総司も師弟を超えた家族であるという彼の気持ちを理解しているだろうが、それでも互いの決意は揺るがないだろう。
その時、部屋のなかから荒い悲鳴が聞こえて来る。女性たちの励まし響き、近藤にも緊張が走った。
「そうだ…深雪が言ったんだ」
「深雪?」
ついに錯乱したのかと土方は困惑したが、近藤は首を横に振った。
「お孝の夢の話だ。昨晩夢に出てきたと…『心配ない』『大丈夫』だと…。詳しく聞く前にこんなことになったんだが…深雪が言うのなら、お孝は大丈夫だよな?」
姉を思う妹の気持ちが彼女を呼んだのか、もしくは妹を心配する気持ちがそうさせたのか…今の近藤にはそれが唯一の支えのようだった。
近藤は手を合わせて祈り、土方はその隣で黙った。
しとしとと降る雨、大波のように押し寄せる痛みと闘う孝の絶叫。
「…なあ、かっちゃん」
「ん?」
「かっちゃんは守れるさ。お孝も、生まれてくる子も…試衛館で待ってるおつねさんもおたまも。かっちゃんは家族は絶対に守る。だから…総司もそうしてやってくれ」
「ああ、だから江戸で養生を…」
「違う。あいつの気持ちを守ってやってくれ」
近藤は目を見開き、土方を見た。
「歳…それはどういう意味だ」
「…かっちゃんの傍に居たい、役に立ちたいって気持ちをわかってやってほしい」
「お前は養生させる気がないのか?このまま命が尽きるのを待つのか??」
「…人はどこで生まれるのかは選べない。それは俺たちが良く知っている。でも…どこで死ぬかは選べる。遠い江戸に無理矢理行かせてあいつに何かあったら…俺たちの知らないところでいなくなるなんて、耐えられるか?家族が孤独に死ぬなんて想像できるか?」
「…俺は…」
「なによりもその時、どんなに総司が無念か…。俺はそれを考えると江戸に行けと言えなくなる」
「……」
近藤は表情を歪め、頭を抱えた。本当は近藤もわかっているはずだ。総司の病が養生したからと言って治るものではなく、奇跡が起きない限りどう足掻いたところで限りなく命を縮めるしかないのだと。それを「わかった」と受け入れられないのは本人ではなく周りの方なのだ。
「…悪い、こんな時にする話じゃないのはわかってる。だが、あいつを守りたいなら違うやり方も考えるべきだと思う。そのために頑なになってほしくないんだ」
「…そう…か…」
近藤は同意はしなかった。けれど今までのように聞く耳を持たなかったわけではなく、土方の言葉を受け入れていた。
するとその時、「オギャァ!」という赤子の泣き声が聞こえてきた。

「元気な女の子です」
南部からのお墨付きをもらい、近藤は生まれての赤子を抱いた。小さな小さな命とその温かさに触れ、近藤は喜びの涙を流した。
その子は『お勇』と名付けられた。それは数ある候補の中で総司が良いと言っていた名前だった。







667


夜番を終えた武田は屯所を出て先斗町へ向かった。眠らない町は相変わらずの賑わいを見せているが今の武田には目に入らない。約束の旅籠へ入ると中村が待ち構えていた。
「こちらです」
二階に案内され部屋に入ると、佐野と冨川が既に芸妓を侍らせて酒を飲んで待っていた。
「遅かったですなぁ、武田先生!」
顔を赤らめて酔う佐野に手招きされ、武田は上座に腰を下ろす。すかさず芸妓から盃を渡され並々と酒が注がれた。
「何か話があったのではないのか?」
武田は彼らに呼び出され、理由も聞かずにやってきた。てっきり何か相談事があるのではないかと思ったのだが、彼らに深刻さはない。
豪気な佐野はハハハ!と高笑いする、
「なぁに!武田先生から素晴らしい助言を頂いた、その感謝の席なのです!路頭に迷うしかない我らを救ってくださったのだ、なあ冨川!」
「佐野さんの言う通りです。我々には思いつきもしない妙案です」
「きっと伊東先生も驚かれるでしょう!」
若い冨川や中村からも称賛され、武田は悪くない気分だった。
先日彼らと居合わせ、幕臣への昇進についての意見を耳にした。彼らは武田に対し最初は頑なな態度だったが現状への不満を語り出すと止まらず、武田がそれに呼応すると態度は軟化した。新撰組の情報を流し、来るべき時に御陵衛士への合流を目指す彼らにとって幕臣という肩書きは必要なくむしろ足枷になるものだった。
『拒めるものなら拒みたいのだが、伊東先生から指示がないのです』
彼らは脱走し御陵衛士への合流を考えていたようだが、監察の目を欺くのは難しく、約定により御陵衛士も受け入れられない。行き詰まっていた彼らに武田はある助言をしたのだ。
「会津を巻き込むなんて俺たちには考えつかねぇ。さすが武田先生は見識が広い!」
佐野は興奮気味だった。
彼らの話を聞いた武田は数年前、永倉たちが会津に建白書を提出したことを思い出した。隊内の揉め事を会津に託すことで穏便に収めることができた…今回も同じように会津に間に入って貰えば彼らの希望は幾許か叶うのではないか、そう提案したのだ。
「会津公は寛大な御方。無下に扱うようなことはされまい」
「我らの道は武田先生のおかげで開けました!」
「さあ、飲んでください」
冨川と中村に煽られて、武田は酒が進む。彼らはすっかり武田を信用していた。
「…そういえば、茨木君は?」
「もうすぐ来るかと…」
噂をしていると茨木がやってきた。賑やかな宴の席には不似合いな、青ざめた顔だ。
「茨木?どうした」
「…席を外してもらえますか」
彼は芸妓を部屋から追い出すと、懐から手紙を取り出した。
「伊東先生からのお手紙です、小者を通じて先程受け取りました」
「手紙にはなんと?」
「…」
言葉にするよりも読んでくれと言わんばかりに手紙を広げて差し出した。佐野、中村、冨川に加わり武田も手紙を囲うようにして覗き込んだ。美しい筆跡だが内容は『韓信の股くぐりだと思い、耐えろ』『会津に仲裁はできない』『愚策である』…彼らの希望を打ち砕き、武田を否定するものだった。
「何故だ!」
佐野は叫んだ。他の二人も青ざめて茨木を見る。
「先生は…我々を見捨てるのですか…?」
「先生の為に不本意ながら隊に残ったというのに!」
「茨木、なんとか言ってくれ!」
彼らのリーダーである茨木は詰め寄られても言葉を失ったままだった。忠誠心の厚い彼らだからこそ伊東の言葉は重く、それ故にようやく開かれた希望を否定された哀しさは大きい。茨木が放心しているのは当然だ。
「…俺は、この文を見なかったことにする…!」
佐野は憤った。
「たとえこの命にかえても、幕臣だけは受け入れるわけにはいかねえ!俺は武田先生の策に賭ける!」
「私もです!本当は御陵衛士として隊を出たかった!それをしなかったのは、伊東先生の為なのにこのような仕打ち…」
「俺たちは見捨てられたんた!!」
耐え忍んできたからこそ彼らの不満は止まらない。失望は怒りへと変貌しさらに高まる。
「茨木はどうする?!」
佐野に詰め寄ら、茨城は複雑そうに顔を顰めた。誰よりも真面目で伊東を信頼してきた茨木も彼らとともに雄叫びをあげて怒りたかっただろう。けれど彼にはその怒りよりも理性が優った。
「…先生のお言葉は…神のお言葉。俺は…無視することなどできぬ…」
「茨木!」
「少し…考えさせてください…」
茨木は絞り出すようにそう言うと、重たい身体を引きずるようにその場を去っていった。
佐野は「意気地が無い」と言いながら、芸妓を呼び戻し他の二人と共に浴びるように酒を飲む。武田はその中に加わりながら、彼らの愚痴を聞き流していた。


今日は時折、雷の音がゴロゴロと聞こえて来る曇り空だったが、良い知らせのおかげで憂鬱にならないで済んだ。
「おなごだそうですね、無事に生まれてよかったです」
「ああ、お孝も元気だそうだ」
報告がてら土方からお産の様子を聞き、総司は喜んだ。期待していた跡取りの誕生ではないが、たまが産まれた時の喜びとなんら変わりない。
「かっちゃんはお前も顔を見に来いと言っていた。南部先生も具合が良いなら足を運んでも良いと…」
「先生のお気持ちは有り難いですが、遠慮します」
「お前も頑固だな」
土方は呆れたように苦笑して、それ以上は何も言わなかった。感染る病のことも気がかりであったし、近藤の喜びに水を差すのは本意ではない。
「そういえばもう一つ、良い話がある。近藤局長にはまだ伝えていない話だ」
「なんですか?」
土方は珍しく上機嫌だった。
「屯所を移転することになりそうだ」
「え?」
「ここから少し南の不動堂村だ。局長の別宅もすぐ近くだからあいつも気にいるだろう」
「まさかその為に?」
子供が産まれて土方まで舞い上がっているのかと総司は驚いたが、「そんなわけない」と土方は否定した。
「実は前々から西本願寺から屯所を移転して欲しいと言われていたんだが、そのつもりなはないと突っぱねていたんだ。だがこの頃、銃や大筒の調練で益々騒がしくなっただろう?ついに耐えられなくなったんだろうな、土地も建物も全部あちらが工面するから出て行ってくれと懇願されたんだ」
「ああ…なるほど…」
「悪くない話だろう」
まるで土方が仕向けたかのように新撰組にとって良い条件だ。総司は西本願寺側の気持ちも何となく察し手放しには喜べないが、幕臣に昇進した新撰組にとって新たな門出となるのだろう。
「その図面だ。隊士には出来るだけ少人数で部屋を与えるつもりだが、副長助勤は個室にする。近藤先生の許可が出たらすぐにでも造らせるつもりだ」
「個室…」
「お前もその方が気兼ねないだろう?」
土方が広げた図面を総司はまじまじと眺めた。それを見たところでどれほどの大きさか想像ができないが、隊士たちも大部屋のような広間ではなく部屋を与えられるのなら大きな屯所となるのだろう。
「…私にも、部屋があるんですか?」
「当たり前だろう、どこで寝るつもりなんだ」
「…」
総司は言葉に詰まった。自分以上に近藤が頑固なのは弟子である総司が一番よく知っている。問題が解決する前に新天地に移ることは、どうも気が引けた。
総司の戸惑いを土方はもちろん察していた。
「…また落ち着いたらかっちゃんと話してみろ。あの時からろくに話をしていないだろう?」
「土方さんは…近藤先生がここに残っても良いって言ってくださったら、土方さんも許してくれるんですか?」
「…」
土方は少し黙って図面を閉じた。そして
「お前に部屋がなかったら、俺の部屋に置いてやるよ」
と少し笑った。
「…歳三さん…」
「それが嫌ならかっちゃんを説得しろ。いいな?」
土方ははっきりとは言わずにそのまま仕事に戻る。彼が何も言わないのは近藤の意見を尊重しているからなのだろう。そして、『一番隊組長として死にたい』という総司の気持ちも理解して、恋人としての己の願望は口にしない。
(歳三さんも十分頑固だけれど)
『ありがとう』
と言うのは違う気がして、総司は「わかりました」とだけ答えたのだった。




668


梅雨の残りのような小雨が降るなか、土方は醒ヶ井の近藤の別宅を訪ねた。孝の傍についてやれと休暇のような形でゆっくりと過ごしていたのだが、それももうそろそろ終わりだ。正式に幕臣となる日が近づいていた。
孝は産後の経過も順調だそうで、みねのサポートを受けながらお勇の面倒をみていた。
「しばらく俺の別宅には来なくていい。お孝とお勇の世話を頼む」
土方がみねに告げると、
「へえ、ありがたくそうさせていただきます」
と責任感の強いみねざ受け取ってくれたので、当分は土方の別宅で総司も気を抜いて養生できるだろう。
そんな会話をしている最中でもお勇の泣き声が聞こえてくる。近藤はたまの時と同じようにやはり赤子を泣かせていた。
「俺の顔はそんなの恐ろしいのか?」
近藤が困惑するとお勇はますます泣き叫ぶ。孝は「恐ろしいのでしょうね」と遠慮なく返答して笑うのですっかり尻に敷かれているらしい。近藤は仕方なくお勇を孝に任せ、土方ともに客間として使っている別室に移った。
「移転の申し出は了解したぞ。もともと西本願寺には不逞浪士の出入りを疑って乗り込んだが、今ではその疑いも消えた。あちらが土地と屯所を準備してくれるなら願ったり叶ったりじゃないか」
「ああ、この別宅にも近い」
「お孝も喜ぶ。それに新しい門出に新天地に移るなんて、縁起が良いじゃないか」
近藤も反対する理由がないらしく、屯所移転の件は滞りなく進むだろう。子の誕生、昇進、移転…喜ばしい出来事が重なるが、しかし近藤はどこか心底喜んでいなかった。もちろん総司の病の件だ。
「…この数日、俺なりに考えたんだが…」
近藤は茶に手を伸ばしつつ切り出した。
「お前の言う通り、俺も総司を江戸にやるのは返って気がかりかもしれぬ。総司も残ることを望んでいるし、こちらなら名医の松本先生の助けがあるだろう?」
「そうだな」
「だが…今まで通りとは行くまい。今まで労咳になった隊士は除隊させてきた、それは任務を果たせないからだ。総司もそれを知っているのだからきっと無理をするだろう。残すなら、命を縮めるようなことはさせたくない」
「…ああ」
土方も近藤と思いは同じだ。例え永らえることができなくとも病状を悪化させるのを見て見ぬ振りはできない。
「それから…俺たちほどではないにせよ、総司の名は知られている。幕府の権威が弱まっているなか病のことが広まれば命を狙われるかもしれない。いまなら返り討ちにできるだろうが、それも…いつまでできるか、わからないだろう」
「…」
「四六時中、誰かに守られるのも総司は望むまい。その辺りがちゃんと話がついて、病に支障がない限りは…隊に残っても良いと思う。もちろん悪化するならすぐに南部先生の所で預かってもらい、療養させるべきだろう」
近藤にしては言葉に力がない。それが積極的に賛成というわけではないのだとひしひしと感じたが、それでも総司の意向を汲んでくれているのだから大きな前進だ。
土方は安堵のため息を漏らした。
「…やっぱり、早くかっちゃんに話したほうが良かったな」
「ん?」
「俺は…自分が思っていた以上に混乱していたようだ。早く養生させたい、だがそれを望まない自分もいて…どうすべきか、わからなくなった」
「当然だ!」
近藤は土方の隣に座り、肩に手を回した。
「俺にとって総司は家族だ。お前にとってもそうであり、それ以上でもある。それなのにこんなことになって…いつもみたいに冷静に頭を働かせられるわけがない!」
「ああ…総司が命を狙われるなんて思いつきもしなかった」
「当たり前だ!だから俺に隠し事をするな、すぐに相談しろ。俺たちは一蓮托生の親友だぞ」
ばんばんと肩を叩きながら、近藤の方が何故か感極まっている。「ああ、駄目だ」と言いながら目尻を拭った。
「泣くべきじゃないとわかってる。総司は生きているし、俺たちより長生きする。年功序列だ、そうじゃなきゃおかしい」
「…そうだな」
近藤は今度は土方の正面に片膝をついた。お勇が泣く鬼瓦のような顔が真剣に土方を見つめていた。
「…歳、改めてちゃんとお前の気持ちを聞かせてくれ。鬼副長としてじゃない、お前個人として総司にどうしてほしいと思っている?」
「…」
「俺は確かに総司の兄弟子であり師匠だが、幼馴染としてお前の望みも確認しておきたいんだ。お前の意に沿わないことを進めたくはない」
愚直なほど真っ直ぐな近藤には裏表というものがない。だから人を惹きつけてここまで上り詰めたのだ。そんな彼が幼馴染であることが、これほど有難いと思ったことはなかった。おかげで現実に向き合うことができるのだ。
(この男の前では嘘はつけない)
土方は正直に吐露した。
「…総司は、俺の念者としてではなく『新撰組一番隊組長』として死にたいそうだ」
「…」
「気持ちはわかる。その為にあいつは剣の道に生きてきたのだから…病のことがなくても床の上で死にたいなんて思っていないだろう、かっちゃんも俺も同じだ。だからそれを叶えてやりたい。それは本心でそう思っている…だが…」
土方は言葉に詰まった。近藤と話すと迷いの先の答えが見えてくる…それは心に向き合うということだ。嘘偽りのない本音に耳を傾けるということ。
土方は顔を伏せた。額に拳を当てて、言葉にならない感情をどう言い表せば良いのか苦悩した。
それは長い時間だったが、近藤は何も言わずに待っていた。いつの間にか雨が止んでいたがそれすら気づけないほど土方は言葉を探し続けていた。
そしてようやく辿り着いた。
「……俺は、本当は…、何もいらないんだ」
「何も…?」
「直参にならなくても、武士になれなくても…形のない名誉なんて本当はいらない。目に見える、形のある…大切なものを、大切にしたいだけだ…」
君ありてこそ
綾も
錦も、君ありてこそーーーー。
夫の死に際し悲しみの暮れた妻の嘆きがどこか自分に当てはまって、書き留めていた。最初は深い理由はなかったが思い返すたびに心に刻まれるようだった。
「養生してほしい…本当はそう思ってる。それで治るなら…そうさせる。だが治るとも限らない病だ、未練だけは残させたくない。だから…俺はあいつには何も言わない。言いたくないんだ」
「…わかった。じゃあ代わりに俺に言ってくれ。お前は俺の女房役だ、一人に抱えさせるわけにはいかない。いいな?」
「ああ」
近藤は土方の本音を聞いて少し安心したようだった。肩を軽く叩いて「これでも食え」と甘い干菓子を差し出してきた。いつもは拒むがいまは確かに甘いものが食べたい気分だった。


再び雨がしとしとと降っている。
「武田先生」
屯所で声をかけられ、自分がぼんやりしていたことに気がついた。手にしていた書物もいつの間にか閉じていた。
「…もう『先生』と呼ばれる立場ではないが…」
「ああ、すみません。つい昔からの癖で…他意はないのですが気を悪くされましたか?」
「いや…」
島田は人の良い笑みを浮かべて武田の隣に座った。
彼とは池田屋以前からの古参隊士であると同時に、一時同じ任務を務めた間柄だ。だが世間話をするほどの親しさはない。
「何か用かね?」
「これ、枇杷です。近所のお婆さんにもらったもので、皆に配っていた所です」
「…ありがたくいただく」
武田は枇杷を受け取ったが、島田はなぜかその場に留まり自分の分にかぶりついた。
「うん、美味い」
「…何か話でも?」
「いやぁ、別に。武田先生とは長い仲です、枇杷を共に食べたっておかしくはないでしょう」
「…」
武田も島田という人間をよく知っている。彼は見事なまでに裏表がなく性格は柔和で、誰からも好かれる…つまり好感の持てる男であり、自分とは正反対だ。そんな島田を追い返す理由もなくて武田は枇杷を同じように頬張った。
「我々もついに幕臣ですねぇ、感慨深い。武田先生はいかがですか」
「…別に、武士になりたいと思ったことはない」
「それは意外です。てっきり…」
「上昇志向はそれほど強くはない。…もともと医学生だった。尊王攘夷の気運が高まり、軍学へと傾倒した…剣の腕には自信がなく、私の武器は知識しかなかったのだ。武士になりたいなどと考えたことない、ただ生き延びることに必死だっただけだ」
刀を握れば弱い者が死ぬ。だったら戦わぬように後方から知恵を絞る…武田にとって軍学は自分の身を守るためのものだった。それが今は古臭い兵法として足枷になっているかもしれないが、捨てる気持ちはない。
「へぇ。俺なんかは庄屋の次男ですから、武士には憧れたもんです」
島田は枇杷を齧りながら相槌を打つ。呑気な彼が羨ましい。
武田は雨を降らす空を見上げた。
「…雨が降ると古傷が痛む」
「ああ…あの時の」
数年前、武田は向かい傷を負った。島田の目の前で脱走した部下に切り付けられたのだ。生死を彷徨うほどの重傷からどうにか持ち直したのだが、今でもその痛みを身体が覚えていた。
「…古傷が痛むと三郎のことを思い出すのだ。三郎のおかげで命を取り留めたが、代わりに彼を失ったように思う。あれ以来、どこか虚しい気持ちが続いている」
「…」
「達者でいてくれればそれで良い。私はせめて…あれにもらった命を無駄にせぬようにするだけだ」
幻のように消えてしまった馬越の姿はもうどこにもない。彼への執着はいなくなった途端に消え、格好が悪くても足掻いて生き延びることが恩に報いることだと言い聞かせた。
「…要らぬ話をした。忘れてくれ」
武田は枇杷を食べ終わると立ち上がり島田に背中を向けた。すると「あの」と引き止められた。
「馬越は…武田先生が武士になられること、喜ぶと思います」
「…そうだと良いな」
武田は曖昧に返答して去った。雨はそこら中に水溜りを作っていた。





669


非番である茨木は昼間から酒を飲んでいた。いつもは理性が働き飲みすぎるということはないが、今日はくらくらと頭が揺れるほど浴びるように飲んだ。
そして時折つぶやいた。
「…先生は、我々を見捨ててなどおらぬ…」
新撰組に残留した同志たちは口々に、伊東からの冷たい対応に憤り嘆き、忠告を無視してもはや武田の策に乗るしかないと息巻いている。本当は茨木も彼らと同じように事を起こそうと拳を突き上げたかったのだが、僅かに残っていた生真面目な気質がそれを許さなかった。
(幕臣へと取り立てられるなど、きっと先生にさえ思いも寄らなかったのだ)
本当は時期を待ち何かしらの理由をつけて合流する予定だった。けれど新撰組と御陵衛士の取り決めに阻まれて身動きが取れない。…あまりにも話が早すぎたのだ。組織としての地位を確立していない御陵衛士が新撰組に歯向かうことなどできるわけがない…冷静かつ客観的に考えれば分かる。伊東のいうように耐えて待つしかないのだと。
だが、感情は乱れていた。
(なぜ、私なのだ…!)
御陵衛士として最初から脱退していればこんなことにはならなかった。伊東に残留を命令されたあの時からこの残酷な運命が決まっていたというのか。
過去を呪っても仕方ないとわかっている。だからこそ酒を飲んで憂鬱を晴らしたい気持ちが止まらなかった。
「…酒、酒だ!」
呂律の回らない茨木が叫ぶと
「そのくらいにしておけ」
と向かいの席に誰かが座った。ぼんやりとした視界の中で目を凝らすと、斉藤の姿が見えた。
「…先生の、指示ですか…?」
何故ここにいるのか…そう問いたかったのにうまく言葉にできない。
「たまたま通りかかっただけだ。…ボロを出す前に酔いを覚ませ。監察に目をつけられる」
斉藤は茨木に水を差し出したが、彼はそれを払い退けた。
「何故、あんたなんだ…?」
「…」
「先生は私ではなくなぜ、あんたを連れて行った?敵が味方かわからぬようなあんたより、私が信用ならないとでも!」
ほとんど八つ当たりだったが、斉藤は聞き流していた。
「…酔いすぎているようだな」
「答えろ!」
「先生の真意は図りかねるが…信用しているからこそ、置いていったのだろう」
斉藤はもう一度茨木に水を差し出した。
「…信用して、くださっている…?」
「残留した同志を助けられるのは君だけだ。うまく立ち回り会津を味方にすれば良い」
「我々は…見捨てられたのではないのか?」
「心配するな…万事うまくいく」
茨木は差し出された水を一気に飲み干した。朦朧としていた視界が晴れ、思考が冴える。
「うまくいくとはどういう…」
そう尋ねようとしたが、目の前にはもう誰もいなかった。


山崎は南部診療所から屯所に戻った。
「やれやれ…」
屯所の門をくぐり、肩を回す。医学方の修行は南部から手ほどきを受けているが、普段は穏やかな南部が手厳しく指導するため気の抜けない。いつも日々の巡察や稽古よりもぐったりして戻ってくるのだ。
山崎は傷の手当てや縫合など外科的な側面を重点的に学んでいた。針医者の息子である血が流れているおかげか器用なようで、幾分か縫合などには自信があるが病の見立ては不得手だった。それが顕著に結果として現れたのは総司の労咳だ。
(まったく、情けない情けない…)
医学方としてそれなりに自信があったが、身近な隊士の重病に気がつかないなんて…土方は責めなかったが、思い出すだけで自己嫌悪を繰り返していた。
しかし、いつも明るく冗談を言って和ませる総司が病に罹っているなんて誰が想像しただろう。
(神様は残酷やなぁ…)
そんなことを考えながら戻ると、ちょうど総司が汗を流しているところだった。山崎は咄嗟に駆け寄った。
「あ、やまさ…」
「はよう上着を着てください」
突然のことに総司は目を丸くしていたが、山崎の顔が真剣だったのですぐに意味を理解した。
「大丈夫ですよ、心配をかけてすみません」
「謝ることなんて…」
総司が微笑むので、山崎も少し安心した。
「南部先生のところへ行かれていたんですか?」
「へえ…まあ。いつも鬼のような指導でいつも参ります」
「想像ができないな。先生が怒ったところを見たことがないから」
「怒らへんから怖いんやと思います」
山崎が大袈裟にため息をつくと、総司は「確かに」と笑いつつ袖を通して襟を整えた。たしかに調子は良さそうだ。
「松本先生はお元気ですか?この間は…その、ご迷惑をおかけしてしまって」
「松本せんせはいつも通り。加也姉さんとハナさんを叱りつけて、一晩寝たらなぁんも無かったような感じで」
「そうですか…お加也さんと英さんには悪いことをしました」
巻き込んでしまっただけなのに、と総司は目を伏せるが山崎は「そんな」と笑い飛ばす。
「診療所では日常茶飯事の光景やから、気にすることやないと思います。むしろお二人の見立てもその後の処置も、間違っておらへんかった…俺よりもよほど有能です」
加也はともかく、英は同期だ。医者という職業に何のゆかりもないはずだがセンスはずば抜けていて、南部が重用している。そんな英なら総司の病に早々に気がついたのではないかと思うとさらに気が滅入った。
山崎がそんなことを考えているのを察したのか、
「山崎さんが自分を責める必要はありませんよ」
と総司は穏やかに言った。
「この半年、御陵衛士の脱退でお忙しかったはずです。私は病を露見させないことに必死で…この間の火事まで土方さんにさえ気づかれなかったんです。ふふ、鬼副長と監察を誤魔化すなんて、よくやったと思いませんか?」
冗談めかして笑う総司だが本心からそう思っているようだ。山崎も何だか気が抜けて「まったく」と苦笑した。
「ほんま、敵いませんな。素人の芝居に騙されるなんて、俺が監察を引退したのも当然かも」
「またまた」
「せやけど、今後は些細なことでもゆうてください」
総司は「わかりました」と頷いたので山崎は安心して立ち去った。そのまままっすぐ寄り道せずに土方の元へ向かう。もともと呼び出されていたのだ。
「山崎です」
「入れ」
短い返答を聞いて中に入る。
土方はこのところ昇進と屯所移転の件で忙しくしていた。少し前までは顔色が悪く寝不足のようだったが、今は問題なさそうだ。
山崎は懐から小さな紙を取り出した。
「例の件で…少し状況が面倒なことになりそうかと思います」
「…」
土方は眉間に皺を一つ刻んだ。何人もの信頼できる小者を取り次いでもたらされた情報は、潜入中の斉藤からのものだ。少し時間がかかるが慎重に慎重を期している。
土方は小さな紙を広げて目を通した。
「…会津だと?」
「二君に仕えず…武士としてできぬとそういう訴えのようです。数年前の建白書のことを思い出しますな」
「誰の入れ知恵だ?」
「武田でしょう」
監察として武田の行動は耳にしていた。彼が伊東の熱心な信者である茨木や入隊以前から付き合いのある佐野に近づいている…彼らには会津に仲立ちをさせるなんて案は思いつくわけもない。
土方は不快感を隠さなかった。
「茨木たちが御陵衛士と繋がりがあるのはわかっているだろう。奴らに近づいて、武田に何の旨味がある」
「さあ…降格を根に持っているのか、参加を断られた御陵衛士を未だに諦められへんのか…図りかねます」
先日の火事の件で武田はさらに評判を落とした。新撰組に居場所がないのはわかるが、彼の行動に何の意味があるのかは山崎でさえ理解できなかった。
土方は考えることすら億劫になったようで「まあいい」と鼻で笑った。
「あいつのことは放っておく。それよりも会津だが…」
「根回しが必要で?」
「いや、会津には相手にしないように伝えておく。こちらとして悪い話じゃない。予定よりも早いが面倒事は早く片付けるに限る」
土方は手紙を丸めるとそのまま傍にあった蝋燭で燃やしてしまった。
「それに…きっと伊東も同じことを考えている」
ゆらゆらと揺れる小さい炎があっという間に手紙を焼き尽くした。土方の表情には影があり、触れてはいけない『何か』があった。山崎はそんな時はたいてい沈黙を守ることにしていた。
そして土方は
「…ひとつ、頼みがある」
と口にした。
「なんなりと」
「お前の持つツテを辿って…手に入れて欲しいものがある」







670


慶応三年六月十日。
まるで祝福するかのように雨が上がり晴天に恵まれたこの日、新撰組隊士総員が幕臣へと取り立てられた。
目に見えて何かが変わったわけではなく、任務も変わらず激務であり、日々に変化はない。けれどどこか誇らしく晴れ晴れとした気持ちで隊士たちはその日を迎えたのだった。
近藤は早速、皆に幕臣としての処遇と屯所の移転を告げた。西本願寺からすぐ南、さほど離れていないがその広さは三千坪以上となり大名屋敷と肩を並べるような規模となる。
「我々はますます国の為に尽力せねばならぬ。肩書きは所詮ただの肩書きであるが、我らの働きを天がお認めになったのだ。その誇りを忘れず、これからもよろしく頼む」
その夜は無礼講の大宴会が催された。今までの苦労を労い、明日からの日々への思いを馳せる。ほとんどの隊士が身分が低く苦しめられたがついに幕臣まで上り詰めた…その感激に酔いしれた。
「酔ったのか?」
宴会を抜け出し夜風に当たっていた総司の元へ土方がやってきた。
「ええ、少し…。土方さんも珍しく飲んだんですね」
「あの状況で飲まないわけにいかないだろう」
「ハハ、確かに…井上のおじさんはまた泣いてましたね」
近藤は隊士一人一人を労い声をかけた。永倉や原田は率先して宴を盛り上げ隊士たちも羽目を外し、涙腺の緩い井上や島田たちは笑っているのか泣いているのかわからないような状況でこれまでの思い出を語りながら酒を飲んでいた。
総司はその様子を見ているだけで口元が緩んだ。
「何だか…今までで一番、楽しい宴です。何の憂いもないみたいにみんな楽しそうで」
「そうだな」
土方も同意して「かっちゃんは幸運だ」と微笑した。
「多少の困難はあったが…それも今となっては小さいことだ。これから直参として表舞台に立つんだからな」
「そうですね…このところずっと雨が降っていたのに昇進した今日だけはよく晴れてますね。近藤先生は天気さえも味方につけるんですねぇ」
総司は雲一つない夜空を見上げ、煌めく星に目を細める。土方は「天気なんて」と馬鹿にするかと思ったが「そうだな」と頷いてそのまま総司を抱き寄せて後頭部に手を回した。
「…こんなところで?」
「別に誰に見られたって構わないだろう」
「ふふ、歳三さんも気が大きくなっているみたいだ」
総司が少し揶揄うと土方はその口を塞ぐように口付けた。いつもより高い体温を間近で感じ、(やっぱり酔っているんだ)と内心笑った。
もちろん躊躇いはあったが、今日だけは病のことを口に出さないと決めていた。たった一日、喜ばしいこの日だけ、全てを忘れて酔いしれるのも悪くはないだろう。


数日後。
「大風呂は三十人くらいなら一気に入れるらしいぜ!」
原田は興奮気味に永倉と話し込む。今日も銃の調練を眺めていた。
「ハハ、それが重要か?個室が与えられる方が喜ばしいだろうに」
「個室なんてつまんねぇよ、それよりでっかい風呂で気持ちよく汗を流す方が良いじゃねえか。それにしても西本願寺はよほど腹に据えかねていたらしいな。移転の費用も建築の金も全部あちらが持つからどうか出ていってくれってことらしい。どうやら新撰組に知らせる前から手筈を整えていて、今は突貫工事の真っ最中だ」
「一刻も早く出ていってほしいんだな。ま、互いに利害が一致するから良いことだ」
パァン!パァン!と隊士たちの球が命中する。最初はおぼつかなかった訓練も慣れてきたのか、得意とする隊士も出てきたところだ。
原田はその光景を眺めながら笑った。
「この騒がしい音も、隊内の血生臭い争いも迷惑だってことだな。…なぁ、総司。お前は頑なに銃の稽古をやらねぇな」
話題は少し離れたところで草履を脱いでいた総司へ飛び火した。
「ハハ、何ですか急に」
「ほら見てみろよ、あの威力をさ。俺だって槍に自信はあるが敵わないってわかるぜ。変な意地張ってないで身を入れて稽古したらどうだ?」
原田は良い意味でこだわりがない。それは槍への誇りがないという意味ではなく、新しいものが好きで好奇心が強く、自分にとって利になるものは躊躇いなく受け入れるのだ。
「…別に意地を張っているわけじゃないですよ。ああいうのは不得手だと思って」
「確かに新八っぁんだって思った以上に下手くそだが、やってみなくちゃわかんねぇだろう?」
「下手で悪かったな」
槍玉に上げられて永倉は不服そうだ。しかし原田は構わずに「本当のことだろう?」と笑い飛ばした。
「あちこち的を外してみんなを困らせたじゃねえか。俺は剣術の腕と銃術の腕は無関係だと気づきを得たぞ」
「別に皆んながみんなそうだとは限らんだろう。…だが、不得手だと知ることも悪いことじゃない。俺はやっぱり剣だけを極めることにするよ、時代が変わって爺さんになってもな」
真面目な永倉はそれはそれで良い発見だったと前向きだ。総司も彼らのいう通り、食わず嫌いなのは良くないとはわかっていたのだがどうにも気が進まず
「じゃあ報告に行くので」
と逃げるようにして土方の元へ向かったのだった。

その夜。
些細な風でも消えてしまいそうな蝋燭一本を灯りにして、武田は裏口から外に出た。茨木に呼び出されたのだ。
「何用だ?」
彼は暗闇でもわかる虚な目をしていた。目元にはクマができ、窶れているように見える。
「…どうした。一体何が…」
「こちらへ」
問答無用に案内され、武田は仕方なくついていく。屯所から少し離れた細道に入るとそこには佐野、中村、冨川ら十数名が揃っていて驚いた。
「何事だ」
「茨木は決意したのです」
佐野が答える。
「これから善立寺に向かいます」
「御陵衛士…伊東先生に合流の懇願に。それができぬなら会津へと!」
中村、冨川が続く。後ろに控える同志たちも深く頷き彼らは武田には静かなる戦意を秘めているように見えた。自然とごくりと喉が鳴る。
「…脱走か」
「共に参りませんか?」
茨木からの思わぬ誘いだった。
「なに…?」
「今回の件は武田先生にご尽力いただきました。我らとともに伊東先生の本願を成就させるべく働きましょう」
茨木は手を差し出す。
並び立てる言葉は耳通りが良いのに、その響きはどこか後ろ暗い。思い悩み、考え尽くし茨木が至った結論はこれだったのか…嗾けた武田に彼を責める資格はない。だがその手を簡単に取ることはできなかった。
躊躇う武田をせっかちな佐野は責めた。
「武田先生は我々を導いてくださったのにまさか脱走をしてはならぬと、そのようなことをおっしゃるのですか!」
「…そのようなことは言わぬ。脱走が叶った先にも道はあろう」
馬越がそうであったように、去っていった先が死だけとは限らない。だが限りなく死に近いのだ。
「では何を躊躇うのです?」
「伊東先生を説得できたのか?このことをご存知か?」
「…先生が何を仰ろうともう後戻りはできません。でも大丈夫です、『万事うまくいきます』」
「…」
茨木の目には揺るぎない自信が溢れている。真面目な彼は思い悩み迷ったはずだが、別人のようだ。何が彼をそうさせたのか…武田にはわからない。
しかし実際に幕臣へと昇進したことが彼らを突き動かし、焦らせたのは間違いない。
武田には答えが出ていた。
「…悪いが、拙者は行かぬ」
「何?!」
「裏切るのですか!」
佐野が声を荒げ中村が責めた。冨川も明確に眼光が鋭くなり他の者も息巻くが、武田は動じなかった。
「自分の命をどう使うか、それは自分が決めること。今回の勝負には賭けれぬ…負けるからだ」
「ご自分が言い出したことでしょう!」
「無責任だ!」
卑怯者が土壇場で逃げ出したように見えるだろう。武田は彼らが怒るのは当然だと思い、何も言い返さなかった。目の色を変えて武田を責め、あと少しで誰かが刀に手を掛ける…そんな一触即発の状況を止めたのは茨木だった。
「もう良い!…もともとこの御方は伊東先生に拒絶されたのだ、我々の同志ではない。…たった一度友誼を結んだと勘違いしただけだ」
「…茨木君、まだその時期ではない。伊東先生が了解されないならこの先の道はどう考えても途絶えている」
「もう忠告は必要ありません。…私は正式に新撰組が昇進したと聞いた時、吐き気がした。宴の席では正気でいられなかった…滑稽な芝居に付き合うのは限界なのです」
まるで全ての扉を閉めたように茨木は頑なであり武田の言葉は彼らの間にある深い溝の底へあっさりと落ちていく。なにを言ったところで引き止めることも、思いとどまらせることもできないとわかった。
「千人の諾諾は一士の諤諤に如かず。たとえ何も意味がなくとも、我々は声を上げなければならぬのです」
「…」
「最後にひとつ聞かせてもらえますか。なぜともに隊を抜けるつもりがないのなら我々に助言などしたのです。我らが何か企んでいると局長や副長に告げ口すれば良いものを…」
「それは…」
それは自分でもわからない。ただ彼らの力になりたかった。損も得も考えず、路頭に迷う彼らに手を差し伸べたかった。
(いや、違う)
善行をして、自分を慰めたかったーーー。
「…気まぐれだ」
「…」
茨木は少し蔑むように武田を見て「行こう」と同志たちとともに去っていった。
深い暗闇の中に消えていく彼らのいく道が奈落に繋がっているように見えた。それはかつて田中が予言した『末路』なのか…武田は深くため息をついた。
























解説
なし


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