わらべうた




671


翌日。
昇進の喜びに水を差す出来事が起きた。
「一体どういうことだ!」
知らせを受け別宅から戻った近藤は土方に詰め寄るが、「落ち着け」と肩を叩かれ仕方なく膝を折った。
土方が順序立てて説明する。
「先程、会津から使者が来た。茨木司、佐野七五三之助、冨川十郎、中村五郎が首謀し他の者も合わせて十名が脱走し会津藩邸に駆け込んだそうだ。奴らは新撰組が幕臣に昇進したことで会津と幕府、二君に仕えることとなることは武士として面目が立たぬと昇進を拒む上書を提出した」
「二君に?会津公への忠義は幕臣になっても変わらぬ!」
近藤は異議があるようだが、土方は相手にするなと言わんばかりに首を横に振った。
「どうせ建前だ。奴らにとっては言い訳でしかない…結局はああだこうだと理由をつけて幕臣になりたくなかったのだろう」
「…なぜ会津に?我々に直接訴えればよかろう」
「法度のせいで正しく主張が伝わらぬと、会津に仲立ちを求めたようだ」
馬鹿正直に近藤や土方に訴えたとして、その主張が通るわけがない。会津を巻き込めば命だけは助かると思ったのだろう。
近藤は苦悶の表情を浮かべたが、土方は淡々としていた。その意味を考えるのは億劫だった。
「お前が何かを知っていたかどうかはもう聞かぬぞ。…それで、どうすれば良い?彼等は何を求めている?」
「脱退したいそうだ。当然普通なら有無を言わさず切腹だが会津まで巻き込まれては簡単に申し付けるわけにはいかないだろう。だが、これまでのことを考えると処罰しないわけにもいかない。…ひとまずは帰隊を促す。会津の使者は近藤局長の返答を待つとのことだった」
「わかった、すぐに文を書く」
近藤は頭に血が上っているようだったが、すぐに文机に向かい筆をとったので、土方は部屋を出た。
十名もの隊士か脱走をしたのですでに隊内に話が広まっていた。どこか屯所は騒がしい。
「土方さん」
巡察を終えた総司が報告にやってきた。
「ああ」
「巡察は問題ありません。ただ…隊士たちは動揺しています。根拠のない憶測もいくつか耳にしました」
真実を知っている土方にとって根も歯もない噂話は騒音でしかないが、それもいつものことだと割り切った。
「総司、隊士にはいつも通り任務を続けるように伝えておけ。怠れば処罰する」
「わかりました」
「それからこの件は内々に処理する…お前も決して関わるな」
土方の鋭利な眼差しを見て総司は簡単に解決することではないのだと察した。伊東に近いのに新撰組に残った彼等はいつか何かをしでかすのではないかという危惧はあったが、こんなに早くことを起こすなんて。
けれど経緯を知らない無関係な総司が出る幕などなく、土方の言う通り変わらぬ日常を続けることが大切だと理解した。幕臣となった新撰組は会津お預かりの寄せ集めではないのだ。
「わかりました」
そう答えて互いに頷いた。


話は昨晩に遡る。
茨木以下、十名が善立寺を訪ねてきたのは夜も更けた深夜のことだった。
「伊東先生…!」
久しぶりの再会に涙を堪え感激したのは茨木たちだけで、伊東と内海は難しい顔をして出迎えた。
人目を気にしながら中へ入り、薄暗い客間で相対した。
「…待てと、伝えたはずだよ」
伊東は重々しく叱った。茨木たちは頭を下げた。
「申し訳ございません。しかし、我々には耐えられなかったのです…腐り切った幕臣として名を連ねることが…どうしても!」
「…」
「ご迷惑だとわかっています。でも、どうかお力添えください…!」
茨木だけでなくその場にいた全員が思い詰めた顔でいた。脱走は捕まれば切腹だ、並々ならぬ決意でここにやってきたのだということはわかる。
けれど伊東には無策で無謀だとしか思えなかった。
「私も君たちを幕臣にするつもりで残したわけではないが、この状況は宜しくない。君たちがここにいることで他の同志の命も危険に晒すのだ」
「伊東先生は我々を見捨てるのですか?!」
佐野が声を張り上げる。長い付き合いのある伊東は彼が熱しやすいことを熟知していた。努めて冷静に話を逸らす。
「そうではない。だが互いに不利益を被るのだ。…茨木君、君ならわかるはずだよ」
「…」
脱走してきた十名の中で一番真面目で賢いのは茨木だ。こんな簡単なことがわからなかったわけがない。
茨木は問いかけに返答せずに、声を絞り出した。
「先生は…我々にどうしろとおっしゃるのですか?我々はもう引き返せぬところに来てしまいました。御陵衛士に加盟できないなら、脱走とみなされ捕縛され殺されます」
「…今ならまだ間に合う。帰隊して話を収めるのが最善だ」
「そんな!もう俺たちが帰る場所なんてありません、新撰組に帰ったら切腹です!近藤や土方に頭を下げろというのですか?!」
若い中村が悲鳴のように声を上げると他の者たちも伝染するように悲壮感を漂わせる。熱意と勢いでここまで来た彼らには伊東に冷たく「戻れ」と言われることを想像すらしていなかったのだ。
伊東は小さくため息をついた。
「…話は文で聞いている。次善の策を考えているのだろう?」
「我々は…会津の京都守護屋敷へ向かいます。一度でも隊を抜け出した以上、戻れば切腹です。無駄死にするつもりはありません。ですが…」
茨木は伊東をまっすぐに見つめた。
「…できることなら、先生に迎え入れていただきたかった。よくやったと褒めていただきたかった…」
恨みと渇望…様々な感情が入り混じった言葉だった。互いにこんな形での再会を望んでいたわけではなかったのだ。
茨木は伊東が全てを投げ出してでも彼らを助けると約束して欲しかったのだろう。命を賭けてでも戦うと言葉にしてほしかったのだ。
けれど
「…御陵衛士はまだ新撰組を敵に回すわけにはいかない。君たちはもう少し待つべきだったのだ」
伊東は率直に彼等の行動を非難した。あと少しの忍耐と恥辱を受け入れる度胸さえあれば本願は叶ったのだ。一時の感情で全てを台無しにしたのは彼らだ。
伊東と茨木たちの間には重たい沈黙が流れた。希望が打ち砕かれた茨木は俯き小さく泣く。他の者たちは困惑して言葉を失っていた。
「…こちらにも会津の知己がいる、君たちの望みが叶うように手を尽くそう」
伊東の申し出に茨木たちは何も言わなかった。
もう話すことはないと内海へ視線を遣り、彼等を見送らせた。
東の空から朝日が差し込もうとしている。伊東はしばらくぼんやりとそれを眺めていた。
戻ってきた内海は
「大蔵さん、これで良いと思います。いまの我々は新撰組を敵に回すことはできませんし、彼等を救う手立てなどありません」
と励ました。伊東が若い同志たちを救うことができず、落ち込んでいると思ったのだろう。
だが、伊東は落胆などしていない。
「まったく…理性的な忠誠心よりも感情が優る…そんな間者は無能でしかないな」
「え?」
内海は聞き間違えたのかと思った。決死の覚悟で隊を抜けてきた彼らに少なからず同情していると思っていたのに、伊東の口から溢れたのははっきりとした失望だったのだ。
伊東は懐から扇子を取り出した。
「…若い茨木には荷が重すぎたのだろう」
そして「少し寝るよ」と内海の前から去っていってしまったのだった。





672


六月十三日。
近藤からの指示が届き、帰隊を促された茨木たちだが当然従わずに会津藩邸に居座り続けた。
会津の公用人たちは帰隊するように説得したが、
「我々は上書の御返事を頂きたいのです」
「会津公の公平なお裁きを」
「梃子でも動きませぬ」
と夜になっても諦めようとしないので、困った公用人たちは『翌日まで熟考する』と一旦保留にし、宿に泊まらせた。

その夜。
「戻りました」
山崎は近藤、土方の待つ部屋で報告した。
「組下の隊士と共に善立寺を捜索しましたが、茨木らの姿はありませんでした」
会津からの知らせはきいていたが、念のため山崎を御陵衛士の屯所である善立寺に向かわせたのだが誰かを匿っている様子はなかったということだった。
「奴らは一度は顔を出したのだろう?」
「はい、伊東先生もそれは認めました。ただ話をして帰隊を促したと…その後は知らないとのことでした」
元監察である山崎なら伊東が偽りを述べているか、庇っているか察せられると思ったのだが、そのような疑いはないらしい。
土方は腕を組み直した。
「…公用人の諏訪様の話によると、茨木たちは強情で耳を貸す様子はないとのことだ。脱退を認めてもらえないなら切腹も辞さないと」
「しかし法度がある。今までもそれを守ってきた…お前は切腹させるつもりだろう?」
「ああ…だが、容保公もこの度のことを不憫に思っておられ、不問とするようにとお達しがきた」
近藤は松平容保の名前を出すと急に困ったような顔をしつつ、土方を窺った。
「なあ歳…いや、土方君。彼らはまだ若いし、半分は入隊して半年くらいの新入隊士だというじゃないか。俺も尊王の志は根底にあるし、今の幕府に不信感を持つのも仕方ないとも思える。…彼らを許してやることはできないのか?脱退はできぬが、帰隊した折には今回のことは不問に付しいつも通りに接してやろうではないか」
それを聞いた土方は深々とため息をついた。
(かっちゃんはそう言うと思った…)
近藤は集団での脱走に最初は憤っていたが、その事情や経緯を耳にすれば必ず同情するだろうと土方は察していた。加えて尊敬する容保の名前が出れば妥協点を見つけようとするに違いない。
いつもなら土方は厳しく切り捨てるところだが、いま新撰組は幕臣に昇進したばかり…会津を巻き込んだ醜聞を巷に広めるわけにはいかない。
しかし他の隊士への建前もある。同じような過ちを繰り返すわけにはいかない。
「…近藤局長、全部を全部奴らの主張を通したらこっちの立場がない。明日、茨木たちが殊勝な態度を見せ、話し合える余地があるなら…考えよう」
「ああ、そうだな!それが良いな、なあ山崎君、君もそう思うだろう?」
「へえ…互いに合致できるなら良いことやと思います」
近藤は二人の合意を得て「良かった」と何度も頷いて、上機嫌のまま足取り軽く部屋に戻っていった。
「…全く、楽観的だな」
「それが局長の良いところかと」
山崎は苦笑した。彼に言われなくとも近藤のまっすぐさと素直さには助けられるが、土方には必要ないものだ。
「…それで、『あいつ』はなんて言ってる?」
「やはり伊東は冷たく追い返したと。それから…」
山崎は急に声を潜め、土方に耳打ちした。


茨木たちは宿に移ると、密かに西本願寺侍臣の西村という男を呼んだ。この男は尊王攘夷派として志士たちとの交流があり、新撰組を敵視していて分派した伊東とも繋がりのある立場だった。状況を説明すると西村は積極的に彼らに助力し、伊東の元へ足を運んだ。
伊東は西村に伝言を頼んだ。
「明朝、私の別宅に来るように茨木に伝えてください」
その言葉に従い、茨木は人目を気にしながら陽が上らぬうちに別宅へとやってきた。
「先生…」
「待っていたよ。ここには妾以外はいない、安心したまえ」
口元に笑みを浮かべてはいるがいつもよりも冷たい微笑みだった。伊東の意に反する行動を続けているのだから当然だと茨木は解釈した。
客間で向き合った二人には重たい空気が流れていた。
「昨日、新撰組隊士が屯所にきた。君たちを匿っていないか見回っていったよ」
「…ご迷惑をお掛けして申し訳ございません」
「今日も会津藩邸で籠城するつもりか?」
伊東が率直に尋ねた。
「…会津公のご判断を仰ぎたいと思います」
「今日は近藤や土方がやってくるだろう。数年前の建白書の件では寛大なご判断だったと聞くが、今回もそうであるとは限らない。一度脱走した君たちを簡単に許すだろうか?ひょっとしたらその場で切腹を申しつけられるかもしれないよ」
「しかし…」
「茨木君、嫌な予感がするんだよ。会津藩邸に行かず、このまま京を去り行方を眩ましてはどうだい?今度こそ時期を待って再起を図るべきだ」
「…」
茨木は口ごもり、俯いた。伊東は彼に近づきその肩に手を置いた。
「…君のような優秀な人材を失うのは惜しい。報国のため、私のために働くために、ここは一旦退いてはどうだろうか?」
冷笑が一転、穏やかに語りかける師の顔となった。朝焼けの穏やかな光に照らされたその整った顔立ちはこの世のものとは思えないほど美しく、茨木にはまるで後光が差したかのように見える。
しかし新撰組の監察はすでにこちらの動きを察知しどこかでこちらを見ているだろう、今更逃げ出したところで捕らえられるに決まっている。もう後戻りはできない。
茨木はこのまま何も考えず、身を任せてしまいたいという衝動を飲み込んだ。
「…先生、私は先生のために隊に残りました。本当は御陵衛士としてご一緒したかったけれど、先生のためにそうすることが最善だと納得したからです。私を信頼してくださったからこそ重要な任務をお授けくださったのだと」
「その通りだよ」
「そして今…同志と共に正々堂々真正面から隊を去ることが最善だと考えるのです」
茨木は強い決意を口にした。
「会津の力を借りることにはなりましたが、近藤局長に直接脱退の旨を伝えることができます。我らの不満をぶつけることができるのです。皆が危惧するように危険な賭けかもしれませんが、コソコソと隠れて身を守るのではなく、向かい合うことが肝要だと思うのです。そうでなければこの先、我々に何ができるでしょうか。報国の志を果たせはしないでしょう」
「茨木君…」
「…先生のご迷惑にはならないようにいたします。たとえ御陵衛士になれなくとも別の形で先生に忠義を尽くすつもりです。それに…『万事うまくいく』、そう聞きました。きっと神仏が手助けをしてくださるはずです」
『誰が』とは言わなかった。だが茨木はうまくいくのだと確信していた。
伊東は茨木の肩に置いていた手をゆっくりと膝元に戻した。そして肩を竦め頷いた。
「…わかったよ。私は君の立派な覚悟の足枷にはなりたくない。自分の不始末は自分でカタをつけるべきだからね。…ただ気をつけてくれ、局長はともかく副長がどんな策を弄するのか私には見当がつかない」
「ご安心ください。会津公も我らに好意的に接してくださっています、新撰組も大それたことはできません。きっとうまくいきます」
茨木は深々と頭を下げて
「お気遣いありがとうございます」
と礼を言って出ていった。
伊東はため息をつきながら庭に出た。春が過ぎ、夏を待つ青々とした木々を見渡しながら
「斉藤君」
と呼んだ。身を潜めていた斉藤がゆっくりと姿を現した。もちろん二人の会話を盗み聞きしていたのだ。
「はい」
「…私の芝居もなかなか上手かっただろう?」
伊東が冗談めかして尋ねるが、相手は常に無表情を貫く斉藤なので特に反応はない。
「茨木は真面目すぎて周囲が見えていません」
「ふ…あれほど強情なら私の話した通りに事は運ぶだろう。あとは君に任せる」
「わかりました」
伊東は懐から扇子を出して口元を隠した。そして呟いた。
「残念だよ、全く…最後の機会だったのに」






673


六月十四日。
会津藩邸にて、茨木以下十名の脱走隊士と、近藤、土方、山崎ら数名は向かい合って会談が始まった。
茨木は近藤に向かって深々と頭を下げた。
「…近藤局長、ご足労をいただきありがとうございます。本来であれば、隊規違反にて即刻処分を受ける身であることは承知しております。ですが我々はこれからも報国のために働きたく思っており、脱退を許可していただきたいのです」
茨木は淀みなく近藤に要求を伝えた。立ち振る舞いに新撰組への恐れはない。泣いて懇願するとまでは思っていなかったが少なからず動揺すると思っていたので、近藤の予想は外れていた。
「…君たちは幕臣への取り立てについて異議があると聞いた」
「はい。我々はもともと尊皇の志を持って入隊しました。会津公は先帝から深い信頼を受けられた御方…会津公の元で働くことで尊皇の志を果たすことができると思い、お預かりの新撰組にに加入したのです。しかし世が変わり、今の幕府にそれは感じ取れず…会津公の元から離れるのであれば、幕臣として働くことはできません」
「私とて尊皇の気持ちは変わらぬ。しかし幕臣となって幕府を支えることが御国、会津ひいては帝のためになると思わぬのか?」
「思いません」
「…」
新撰組の屯所ならば茨木も恐れ遠慮しはっきり拒まなかっただろうが、いまは違った。近藤の目を見据え対等な立場を貫いていた。
近藤が少し言葉に詰まったので、かわりに土方が口を出した。
「先ほども言っていたが、脱走は法度に背く。これには全ての隊士が例外なく当てはめてきた。それをどう思う?」
「土方副長、例外なくというのは偽りです。伊東先生は今、御陵衛士としてご存命でいらっしゃいます」
「勘違いしているようだが、あれは脱退ではなく分離だ」
「でしたら我々も同じようにしてください」
「お前が伊東と同じだと?笑わせるな」
土方が鼻で笑うと、初めて茨木の表情が変わった。こめかみをピクリと動かし、背後に控える同志と共に睨みつけるように土方へ視線を向ける。
「…なんとおっしゃいましたか?」
「茨木、お前は自分を買い被っているようだが、お前ごときと伊東は全く違う。何の手順も踏まずに脱走した裏切り者にすぎない」
「何?!」
「随分な物言いじゃないか!」
茨木の後ろに控えていた者たちが土方のぞんざいな物言いに異議を唱えた。近藤は「それ以上はやめろ」と言わんばかりに土方に視線を向けたので仕方なく口を閉ざすことにする。
近藤が再び口を開いた。
「…すまない、話を戻そう。新撰組としては他の隊士への影響も鑑みて、茨木君たちには一度帰隊してもらい今後のことを考えたいと思っている。もちろん今回の騒動についてなんらかの処分はあるが…これまで通り働いてほしい」
「帰隊についてはお断りします。我々はもう二度と屯所に戻らぬ決意で脱走したのです。それに…私は今まで何人もの仲間や同志があっという間に死ぬのを見てきました。信用できません」
茨木は言葉の後半は土方への当てつけのような言い方をした。
まさに一触即発、ピリピリとした緊張感が漂っている。誰かが鞘に手を伸ばそうものなら斬り合いが起こるような雰囲気だが、近藤だけは例外だった。穏やかな笑みを絶えず浮かべている。
「茨木君、君は真面目な隊士で今までも勤勉に働いてきたのを知っている。他の皆もそうだ、佐野君、中村君、冨川君…他の皆もまだ入隊は浅いがまだまだこれからだ、戻って共に働きたいと思っているんだ。それに容保様からは君達の切腹恩赦の話を頂いている。我々は信用できぬかもしれぬが、先帝の信頼を得ていた会津公との御約束なら受け入れることができるだろう」
「…」
「うーん、信じられないか。だったら私の命を賭けよう」
「!」
「おい」
近藤が軽々しくとんでもないことを申し出るので、茨木たちは目を見開き、土方は思わず諫めた。しかし近藤は冗談ではないらしい。
「土方君、彼らは命を賭してこの場にいるのだぞ。だったら俺も命懸けで向かい合うべきじゃないか。ああ、せっかくの機会だ、会津公の前で一筆書くと言うのはどうだろうか?血判を押そうではないか」
「…」
深くため息をつく土方と、近藤の言い分を唖然と聞いている茨木たち。先ほどまでの張り詰めていた空気は一気に解けてしまう。
茨木は「あの」と口を開いた。
「…近藤局長、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「なんだ?」
「なぜ我々の脱退をお認めにならないのですか。たとえ我々が帰隊したとしてもこれまで通りの働きができるとも思えませんし、いつ裏切るかわからない面倒な存在です。それなのにどうして我らの帰隊をお望みになるのですか?」
茨木には敵意はなく、ただ純粋な疑問として尋ねていた。近藤は少し考え込み、ゆっくりと言葉を発した。
「例外を一つ許せば、後々に響く…と、土方副長は言うだろう。だが私にとって法度を守ることは、去っていた者たちを尊重すると言うことだ。志半ばで切腹した者たち…彼らはある意味形のない、無意味なしがらみで死んだだけ。本来は死ぬ必要すらなかった者もいるだろう。だから君たちを許せば、彼らを蔑ろにすることになる。それは…隊の長として、許せぬことなのだ」
「…」
「君たちはまだ間に合う。御陵衛士に比べれば新撰組は粗野で粗暴な集団に見えるかもしれないが、もう少し力を貸してはくれないだろうか?」
近藤の一言一言でいつの間にか、空気が変わる。茨木たちの言い分を理解し受け入れながらも、一本の太い幹のような揺るがない志だけは変わらずにそこにあり続ける。とてつもなく大きな存在として。
(だからこの男は隊長にふさわしい)
土方はそう思う。
本人は無自覚で意味なく素直に言葉を口にしているだけなのだろうが、耳を貸せばたちまち彼の度量の大きさに感嘆し平伏すしかなくなるのだ。
茨木もそうだったのだろうか。
「…わかりました、脱退は諦めます」
「茨木!」
「お、おい!」
茨木がそう口にした途端、背後に控える者たちが声を上げたが彼は構わずに続けた。
「会津公と近藤局長がお約束をしていただけるのなら、我々は帰隊し御恩に報いたく思います」
「茨木、血迷ったのか!?」
「約束なんて反故にされるに決まっているでしょう?!」
気が触れたのか、と佐野が身を乗り出し、中村は悲鳴のように叫ぶ。しかし茨木は首を横に振った。
「少し黙っていてくれ。…局長、副長、ひとつお願いがございます」
「うむ、言ってみてくれ」
「私とここに控える佐野、中村、冨川は帰隊いし心を入れ替えて幕臣としてお仕えします。ですが他の者は我々の熱気に押されて脱走した未熟者です。帰隊したとしてもお役には立てますまい…放逐処分にしていただけないでしょうか」
佐野たちよりもさらに後ろに控えていた六名は互いに顔を見合わせて困惑していた。だが実際、脱走してからと言うもの落ち着かず宿でも眠れず、この場で局長副長を目の前にしてことの重大さに尻込みしていたことに茨木は気がついていた。
近藤は再び土方に視線をやった。
「…良いだろう。ただし新撰組に在籍していたことは他言無用にしてもらう」
土方は鋭く彼らを睨みつけ(もし漏れるならばその時は)と無言の圧力をかけた。彼らはそれだけで震え上がりさっさと退席して行ったので、やはり帰隊しても持ち堪えることはできなかっただろう。
「良い折衷案だ」
近藤は喜んだが、
「おい、俺はまた納得できない!幕臣なんて!」
「これは一体どういうことです?!」
佐野が声を荒げ、中村が困惑している。するとずっと黙っていた冨川が「落ち着きましょう」と二人を制した。
「近藤局長、少し四人で意見を交わしたいと思います。必ず説得致しますので別室に移動してもよろしいでしょうか」
「もちろんだ、良い返事を期待している」
近藤はすぐに了承して四人を見送ったのだった。


別室に移動するなり、佐野は茨木の胸ぐらを掴んで抗議した。
「どういうつもりだ?!近藤に懐柔されちまったのか?」
「落ち着いてください」
「冨川、お前もだ!なんで怒らないんだ!幕臣になるなんて勝手なことを言いやがって…!」
中村は「そうですよ!」と佐野の肩を持ち、詰め寄った。
間に入ったのは冨川だった。
「茨木君、単純に局長の申し出を引き受けたのではないでしょう。…まずは理由を聞きましょう」
憤る佐野を落ち着かせ、中村も仕方なく膝を折った。茨木は俯いたまま口を開いた。
「…私は、間違えたのだとようやく気づいたのです。こんなやり方は何処にも出口がない。法度を重視する新撰組で、脱退が叶ったところでいつか監察に追い詰められて殺される。帰隊すれば冷遇され何らかの理由をつけて切腹を言い渡される…結局は我々は死ぬ。その死にいったいどんな意味があるのかと…」
「な、なんだって?!」
「そんな…局長は会津公の目の前で宣誓すると仰ったじゃありませんか!」
中村が問うと茨木はようやく顔を上げた。彼は微笑んでいた。
「…そうだ、中村君。君は近藤局長のことを信じたのだね?局長と約束を交わそうとした」
「あ…いえ、そんな…」
「隠さなくても良い。佐野さん、冨川さん…皆も同じなのではありませんか?近藤局長の懐の大きさにほんの一瞬でも絆されたのでは?会津公と局長が約束してくださるのなら、と本気で心が揺れたのでは?」
「…」
獰猛な佐野が悔しそうに舌打ちし、中村は目を背け冨川だけが頷いた。皆図星だったのだ。
「ええ…そうです、茨木さんの言う通りです。あれほど新撰組の失望し逃げ出したというのに…憎しみを貫くことができなかった」
「我々はその時点で負けたのです。伊東先生のように誰にも頼らず自分の志を貫き、戦うことができなかった。私たちは伊東先生の一番の臣下であることを自負していたのに…新撰組に許される道を選ぼうとした」
『お前ごときは伊東とは違う』
馬鹿にされたと一気に熱が上がった土方の一言が、今更傷口に染みる。何の用意もなく正当さもなく師匠と同じように堂々と脱退を主張するなど、思い上がるなと言われていたのだ。
茨木には見えていなかった。
『自分の不始末は自分でカタをつけるべきだ』
伊東が別れ際に行った餞別の一言を聞き流し、『きっとうまくいくはずだ』と何かの呪いにかかったかのように信じきっていた。
誰かの手助けを期待していたのか?それではそもそも他力本願ではないか。
そして、己を過信していた結果がこれだ。
「だったら…だったら、帰隊するというのか?いつか殺されるとわかっていながら…!」
佐野は興奮と悲嘆が入り混じりわなわなと震え涙目になっていた。中村も青ざめて言葉を失う。
これから先、どの道を選んでも待っているのは脱走した新撰組によってもたらされる『死』だけだ。
だったら、
だったら選ぶのは決まっている。
「茨木君…君の思うようにして良いよ。私はそれに従う」
冨川が後押しした。彼はいつの間にか茨木の心中を察していたのだ。他の二人は動揺して青ざめているが彼だけは澄み切った瞳で穏やかなままだった。
「…御免!」
茨木は脇差を抜き、冨川の腹を貫いた。
「な…っ!なにをしている!」
「茨木さん!」
「…し、静かに…!」
驚く彼らを静止したのは刺された冨川の方だった。血を流し息も絶え絶えな彼は
「茨木君…私は、君と共にここにいることを後悔していないよ…」
と言い残し、自分で首を切るとそのまま息を引き取った。
顔にまで血を浴びた茨木は、突然のことに絶句する二人へ視線を向けた。
これが答えだ。
「新撰組による死か、誇り高い切腹か…選ぶ道は任せます…私は最後に腹を切る。介錯しましょう」
茨木は最後の引導を渡した。
意気揚々と歩んできた道は、いつの間にかだんだん細い畦道に変わったように思う。一体何処で間違えたのかわからないが、どの道を選んだとしても結局はここに辿り着くのではないだろうか。
伊東という希望が消えたときから、路頭に迷い続けていたのだ。
佐野は急に気が狂ったかのように嗤いはじめた。
「ふ…フフ、ふふ…お恨みします、伊東先生…!我を共に連れて行ってくだされば、こんなことには…!」
恨み言を口にしながら、佐野は小刀で腹を突き、生捕りにされまいと痛みを堪えた。そんな様子を見ていることができず、茨木は彼を楽にさせた。いつも感情的で対処に困ったが、茨木にとって本音を口走る佐野のことがいつも羨ましかった。
「中村君はどうする?君はまだ若い、ここから逃げ出しても…」
「いいえ、俺だけ生き残るなんてありえません。介錯を頼みます!」
中村は何かが吹っ切れたように明るかった。
茨木は彼の瑞々しい若さが失われるかと思うと不憫だった。若輩であるが勇敢な中村は慣れない手つきで自分に刃先を向け戸惑っていたようなので、彼の背後に周り茨木は気取られる前に彼を絶命させた。
三人が血を流して横たわっている。茨木はその光景を目にしながら正座し、安堵していた。
(これで…伊東先生にご迷惑をかけずに済む…)
放逐された他の者たちは早々に都を離れるだろう。脱退し御陵衛士に近づいた者は皆、これでいなくなる。
(先生の憂いがなくなるなら…それで良い)
そういえば伊東ほど賢い人ならばこの顛末を予想していたのではないか。むしろ脱退した自分たちはどう考えても伊東にとって邪魔だっただろうけれど、本当の望みは何だったのだろう。
ふとそんなことを思ったけれど、茨木は考えることをやめた。
考えたところで答えはない。
(いつか先生に教えていただこう)
茨木はゆっくりと目を閉じた。




674


別室に移動した彼らを待つ近藤の元へ、会津藩士が駆け込んできた。
「一大事でござる…!」
血相を変えた近藤と土方たちは嫌な予感を抱えながら別室に移動すると、そこには四人の息絶えた死体があった。
「なっ…何故だ?!なにがあった!」
混乱する近藤は土方に詰め寄るが、即答はできない。山崎はその光景に言葉を失いながらも
「切腹…ですな」
と呟いた。
会津藩邸で賊に押し入られたわけでもなく、彼らが仲違いして殺し合ったわけでもない。着衣の乱れもなく整然としており明らかに自ら腹を裂き、介錯されていた。
近藤はサッと青ざめ、唇を噛んだ。拳が震えるほど握り締められている。
「理解ができぬ…彼らは幕臣として仕えると言ったじゃないか!こちらも折衷案を受け入れて、全て丸く収まった…そうじゃなかったというのか?!」
近藤の悲鳴のような怒号が部屋に虚しく響いていた。答えを知っている彼らにはもう返答はできないし、全てが後の祭りだ。それは徒労感しかない光景だった。
「…尾形、屯所に戻り応援を呼んでこい。会津にこれ以上迷惑をかけられない」
「は…はっ!」
土方は同行していた尾形を屯所にやり、肩を落として落胆する近藤を元の部屋に戻らせた。
そしてこれまで間を取り持ってきた会津公用人の諏訪に経緯を話すと、やはり突然の幕引きに理解はできない様子であったが
「若者の死には心が痛むが、自らの志を貫いたのだから何も言うことはない」
と賛同も批判もなく、会津公へこの結末を伝達する、とただそれだけだった。
部屋には山崎がまだ残っていた。
「…やはり、こうなりましたなぁ…」
彼はため息をついたが、土方も同じ感想だった。
「茨木は真面目すぎた。冷静に考えれば分かったはずだ…伊東が全力で奴らを庇わなかった時点でもう手詰まりだと。局長の言う通り帰隊したとしてもいつか限界が来る…こうなるのは時間の問題だ」
万が一、伊東が御陵衛士の総力を上げて、会津を巻き込み彼らを助けたのなら…新撰組には彼らを追い詰めることはできず、違う未来があったのかもしれない。けれどそうしなかった時点で伊東は彼らを見捨てたのだ。彼らがどんな希望を見出して脱走したのかはわからないが、その時点で運命は決まっていた。
山崎は呟いた。
「…茨木は気づいたんやろうか…」
横わる茨木は正座を崩さず苦痛のない静かな切腹を遂げていた。覚悟と決意を持った誇り高い死に様には、伊東への恨みと憎しみなど皆無だ。
「何も気づかずに死んだのなら、その方が良いだろう。知らぬが仏…」
「今の状況ほどその言葉が似つかわしいことはありますまい…まぁ、そうやったらせめてもの救いですな」
そんな会話を交わしていると衣擦れのような音が聞こえた。土方が死んだ四人に目を向けると、その中の一人である佐野が僅かに動いていたのだ。
一歩踏み出した山崎を引き止めて、土方は脇差を抜くと瀕死の佐野に跨り、躊躇いなくその心臓を貫いた。
「あ…ぁぁ…」
体が痙攣し、小さな呻き声はやがて聞こえなくなり息絶えた。
山崎は懐紙を土方に渡した。
「副長自ら手を下さずとも」
「いや…俺が、殺しておきたかったんだ」
土方は剣先の血をふるい落とし、受け取った懐紙で清めた。





四人の遺体は光縁寺に仮葬されることになった。
「仮葬とはいえ不本意だろうぜ、脱走したのに新撰組隊士として葬式をあげて、光縁寺に…なんてさ」
原田は珍しく眉間に皺を寄せていた。
凄惨な結末は新撰組に衝撃を与え、俄に葬儀の準備で忙しくなった。会津から「手厚く葬るように」との指示があり彼らは少なくとも表向きは裏切り者というよりも志を果たした立派な隊士として見送られるらしく、隊士たちの胸中は複雑だ。
永倉は「もう良いだろう」と原田を慰める。
「そもそも血迷って脱走したこと自体が法度違反。そして結局は己の不始末を切腹で収めたんだからもう何も言うことはないさ」
「…あいつら、何がしたかったんだろうなぁ…」
原田はぼんやりと空を見上げた。なんとなく手持ち無沙汰な二人の元へ総司がやってきた。
「二人ともなにぼんやりしているんです?明日は早朝から葬儀をして、その後は引っ越しですよ。早く荷物をまとめなきゃ」
「はぁー!なんでこんな時に!」
総司に急かされて原田は叫んだのだった。
明日は新しい屯所への移転日なのだ。

原田の比ではなく落胆していたのは近藤だった。引っ越しの準備は捗らず、足取りも重いようで仕方なく既に終えた土方が手伝っていた。
壁のように積み上がった書物をまとめながら
「…なぁ、歳。明日のことだが…」
と言いかけると「延期はしない」とあっさり看破された。
「不動堂村への移転は元々決まっていただろう。西本願寺とも話がついているのに、何故脱走した裏切り者に気遣って延期しなきゃならないんだ」
「裏切り者ってなぁ、そんな言い方は…」
「近藤局長の助け舟を蹴って、奴らは切腹したんだ。高潔な最期に見えるが俺たちへの当てつけでもある。同情すべきか?」
「…それはそうなんだが…後味が悪いだろう…」
「あまり引きずるな。直参だぞ」
「…」
土方の言い方は冷たいが、経緯を考えればその通りかもしれない。近藤が彼らに同情してしまうのはその最期があまりに覚悟を持った見事なものだったと、それだけの理由なのだ。これまで処罰してきた脱走者と何も違いはない。
「…わかった。でもひとつだけ聞いても良いか?」
「なんだ?」
「俺は…なにか拙いことを言ったか?彼らを追い詰めるような言葉を選んでしまっただろうか?今後のために教えてくれ」
「…」
近藤は真摯に土方に尋ねる。
(敢えて言うなら、そういうところだ)
脱走した茨木たちにとって、敵であるはずなのに近藤はとても眩しかっただろう。罪を赦し、心から帰隊を願う心に触れて動揺した…それがもしかしたら何かの引き金になったのかもしれない。だがそんなことを本人に伝えてどうする。
「…近藤さんは何も言ってない。奴らが決めたことだ」
土方には推察することはできるが、決して彼らの本音を知ることはできない。だから『切腹した』という事実が全てだ。
「わかった」
近藤はそう言うと、キツく書物を縛り上げた。
ちょうどその時、総司がやってきた。
「先生、引っ越しの準備はいかがですか?私の組は山野君の采配でもう片がついたみたいなので、お手伝いしようと思うのですが」
「ああ…そうか、ご苦労さま。では山野君と島田君を寄越してくれ」
「…わかりました」
近藤の返答がどこかよそよそしく、総司も居心地が悪かったのかそのまま戻っていく。
あれから何だかんだと時間が経ち、このような騒動になってますますぎくしゃくしていた。
「…近藤先生、ちゃんと話を…」
「分かってる。でも仕方ないだろう、落ち着かないんだ。移転したらちゃんと話す」
「まったく…」
近藤は言い訳っぽく並べて話を切り上げてしまったが、まだ迷いがあるらしく先延ばしにしているのだ。土方は仕方なく席を立ち、総司を追いかけた。そんなに離れていなかったのですぐに捕まえることができた。
「総司、待て」
「あ…土方さんはもう引っ越しの準備は終わったんですか?」
「もうとっくに終わってる。それより…」
「じゃあ小荷駄方でも手伝って来ようかな」
気落ちしているのを誤魔化そうとしているのか、総司は師匠と同じようにわざとらしく話を切り上げようとした。土方は腕を掴んだ。
「そんなのは手伝わなくていい。話があるんだ」
そう言ってやや強引に屯所の裏手に移動した。隣の西本願寺との境目であった竹矢来はすでに外されており、明日には元の平穏な巨刹に戻るのだろう。
「話って…」
「屯所を移る前に、渡しておきたいものがある」
そう言って土方は懐から手ぬぐいに包まれたものを差し出した。受け取ると思った以上に重厚感があった。
「なんです、これ…」
「開けてみればわかる」
総司が不審に思いながら手ぬぐいを開くとさらにクシャクシャの懐紙に包まれていた。躊躇いながら開けて目に飛び込んできたのは思いもよらぬものだった。
「これ…これを、私に?」
「山崎のツテで入手したものだ」
それは拳銃だった。調練で扱うものとは違い、小型で軽い。
総司はすぐに元に戻した。
「…こんなもの私には扱えません。それに…気が進みません」
「言っておくが、お前に剣を捨てろと言っているじゃない。護身用に持っていて欲しいだけだ」
「護身用なら必要ありません」
「総司、これが近藤先生の条件だ」
総司は頑なに拒んだが、土方にそう言われ言葉に詰まった。
「…条件?」
「お前が隊に残る条件だ。任務で病を悪化させないこと、安静に努めること、それから…お前の身の安全を確保すること」
「…これがないと、私の身が危ういと言うんですか?」
「そうだ」
土方が即答したので、総司はますます腹が立った。総司には信用していないということと同義だった。
「土方さん!」
「今、お前は剣を握ることに問題なくとも、これから先はどうだ?稽古だって覚束なくなって、体力もなくなる。もし突然血を吐いた時に敵に囲まれたら近藤局長を守れると言えるか?」
「…っ、その時はこの身を挺して」
「だったらすぐに江戸に帰す。盾となって死ぬことでしか局長を守れないなら、何のために隊に残るんだ」
逆上せあがった憤りが、土方の冷静な指摘によって水を掛けられたように冷めていく。言われてみればその通り、病によって蝕まれた身体は日に日に重く鈍くなっている。それに簡単に命を投げ出す為に残りたいと言ったわけじゃない。
(でも…)
銃の調練に積極的になれなかったのは、剣だけを極めて生きてきた自分が否定されるような気がしたからだ。もちろん新しい時代の兵法として必要なのはわかっていて隊の訓練として取り入れることに異論はないが、自分には不要なものだと割り切っていた。
土方はそんな総司の気持ちを察していた。
「…悔しい気持ちはわかる。だが、近藤先生は隊に残すならこれから先、お前に何かあった時に必ず自分自身を守れるようにして欲しいと言っていた。お前の生き方を変えろと言っているわけじゃない、ただ万が一の時に備えて持っていて欲しいだけだ。これで近藤先生も安心できるだろう」
土方に諭され、ようやく気持ちが落ち着く。自分には過分な武器のように思えるが、近藤がこれを持っていることで安心してくれるのなら譲歩するべきだろう。
「…土方さんも同じ考えですか?」
総司が尋ねた。すると彼は少し間を置いてから
「…ああ。近藤先生のためだ」
と頷いた。
(土方さんの本心を知りたいのに…)
それは総司の望んでいた答えではなかったが、これ以上は何も言えなかった。
「…わかりました。でも本当に、持っているだけですから」
「ああ、そうしてくれ」
土方が少し安堵したように微笑んだのだった。











675


六月十五日。
切腹を果たした四人の葬儀が行われ、新撰組は新しい屯所へと移転した。
ほぼ同じ頃、御陵衛士の屯所である善立寺にも知らせが届いた。離れ離れになった同志の死を聞き、彼らは悲嘆した。情に厚い篠原は号泣し伊東に訴える。
「伊東先生!茨木たちは詰め腹を切らされたに違いねぇ!ここは一矢報いなければなりません!」
「そうです、先生!彼らの無念を晴らすべきです!」
「その通りだ!」
彼らは声を上げて訴えたが、伊東は表情を変えなかった。
「一矢報いる?無念を晴らす?…新撰組の屯所に戦を仕掛けにいくつもりかい?」
「それは…」
「…その…」
微笑を絶やさず問いかけられ、篠原たちは言葉に詰まった。多勢に無勢、現実的な話ではないと本当はわかっていたからだ。
伊東は続けた。
「それに会津からの知らせによると、彼らは新撰組と和解したのちに別室で切腹を果たしたのだ。生きる道を絶ち、自分で腹を切った…彼らの選択は彼らの望みによるもの。我々に何ができるというのだ」
「…」
「…」
沸騰した湯が冷水を浴びせられたかのように鎮まり、ただ白い湯気だけが漂う。伊東の整然とした口ぶりには茨木たちの死への動揺はなく、ただただ淡々としていた。
唖然とする彼らに伊東は
「…彼らの無念は、今後の我々の働きによって報われるべきだ。皆、頭を冷やしなさい」
と言い付けて部屋を後にして去っていく。内海だけが後を追った。
「大蔵さん…」
「…何か言いたいことでも?」
「あなたらしくありません。いつもならたとえ嘘でも茨木君たちを称え悲しみ、篠原たちに寄り添うはずです」
「新撰組参謀の伊東甲子太郎ならそうしただろうね」
内海はハッとした。もう伊東は隊士たちの間を取り持つ『参謀』ではなく彼らを率いる孤高の『御陵衛士の頭領』なのだ。
「…失礼しました」
「謝らなくて良い。みんなそう思っているだろう」
伊東は内海を部屋に招き入れ正面に座らせた。そして懐からいつもの扇を取り出し
「暑いね」
と仰ぐ。晴れ渡った空は雲一つない快晴で、夏を予感させる日差しが降り注いでいる。
「…しかし大蔵さんの目算が外れたのではありませんか?会津が仲裁に入れば助かるはずだったのに」
「まさか。彼らが脱走した時点で私の計画は崩れた。大人しく幕臣になっていれば良いものを」
「…」
伊東の口振りには切腹した同志への情は一切なく、内海はごくん、と喉を鳴らす。
そして視線を落としながら「まさか」と言葉を震わせた。
伊東はあえて挑発した。
「…まさか?その続きを言ってみると良い」
「あなたは…敢えて彼らを、見捨てたのですか?」
「…間者というのは先を見越す力が無ければ務めらない。茨木君たちはそれが欠けていた、不適格だった…だが、それについては任命したこちらにも責任があるけれどね」
「話をすり替えないでください」
伊東を遠慮なく非難できるのは内海だけだろう。彼は立場の上ずっと敬語を使い続けているが、本来であれば気の置けない友人なのだ。
(お前には知られたくはなかったが…)
伊東は扇を閉じた。
「そうだよ、こうなるように仕向けた。使えない駒はさっさと切り捨てるに限る。こちらに味方すると見せかけて新撰組に寝返えられては面倒なことになるからね」
「なんてことを…!茨木君は一切そのようなことを疑うような人物ではなかった!」
「そんなことが何故わかる?会津によると茨木たちは近藤局長に一度は絆されたようだったと聞く。皆はこのまま帰隊するのだと思い込んでいた。彼らが寝返らない保証がどこにあった?」
「…」
「内海、もう我々は新撰組を離れた。あの法度には心底うんざりしていたが、法度のない我々には縛るものがない故に団結力が必要だ。僅かな綻びも見逃せない…彼らは脱走し御陵衛士を頼ることで我々を危険に貶めたのだ。それが分からないのなら今後も足枷になるだろう、だから必要ないんだよ」
伊東の言い草に対していつも冷静で取り乱すことのない内海が、眉毛を釣り上げて憤っている。助けてくれと頼ってきた彼らにどうにか手を差し伸べるべきだったとでも言うのだろうか。しかし伊東は怯むことはなかった。
(我々は常に背水の陣なのだ)
頼る術もなく、荒々しい道を進み背後からは新撰組の影が付き纏う。それを常に理解し、ほんの少しの油断も許さずにこの険しい道を進むしかないのだ。
内海は次第に怒りを解き、グッと唇を噛むようにして何かを堪えながら
「わかりました」
と言って部屋を出ていった。
彼は何を「わかった」と言ったのだろう。伊東は少し考えたが、その答えを知ることはないのだろうと思い考えるのをやめた。彼はきっと自分で折り合いをつけて、次に顔を合わせるときにはまるでなにもなかったかのように装うに違いないのだ。
「…ふっ、なんで話してしまったのだろう…」
こうなると思っていたから胸の内は斉藤にしか明かさなかった。彼の伝手を頼って会津には手出し不要の通達をし、茨木にはそれとなく会津を頼らせるように仕向け、この結末へと誘った。全ては疑惑の芽を摘むため。
きっと誰にも理解されなかっただろう。
腹心の内海の前で悲しむふりをすればよかったのだろうか。御陵衛士たちの前では強がっただけで本当は茨木たちが惜しかったのだと嘆けば、内海も納得したのだろうに。
(ただ、私も誰かに話したかったのだよ)


西本願寺では慌ただしく人が出入りしている。すぐ近場への移転ということだが、数年過ごした屯所の移転はそう簡単ではなく、多くの小者を雇って大量の荷物や武具の類を移動させているようだ。またトンカンと道場を解体する音も近所中に響いていて騒がしい。
そんな様子だからこそ、藤堂の姿はあまり目立たなくて済んだ。物陰に身を隠し遠目からその様子を眺めながらため息をつく。
「…茨木たちの葬儀はもう終わったのかな…」
親しい間柄ではなかったが同志の死はズシンと重くのし掛かる。御陵衛士たちは伊東に諌められ仕方なく憎しみを堪えて飲み込んだが、対照的に長く共に過ごした彼らを悼む間も無く新撰組は新天地へと急ぐ。
(まあ、新撰組からすれば裏切り者が切腹しただけなんだから仕方ないんだろうけれど…まるで四人の死から逃れるみたいだよ…)
そう思いながら壬生から西本願寺に移転した頃のことを思い出す。藤堂は当時江戸にいて戻ると西本願寺に移転されていたので実際にその様子は知らないが、あの時も山南の葬儀から間も無く移動したのだ。西本願寺への移転を拒んでいたのは山南だった…それが切腹の原因の一つだと聞いている。
それなのにこんなにあっさり移転してしまうなんて、虚しい。
(いつまでもそう思うのは、未練がましいのかな…むしろ山南さんの望みが叶ったと喜べば良いのか…)
そんなことを思っていると突然、肩に手を置かれた。「ひえ!」と身を竦ませて驚きながら振り返るとそこには青ざめた顔をした武田がいた。
「た…武田先生?」
慣習でつい『先生』と呼んでしまったが、今ではその必要はない。けれどそんなことが気にならないほど武田の様子は尋常ではなく、額に汗をかき、唇は色を失い、目は虚ろだった。
新撰組と御陵衛士は会話を交わすことすら禁止させているし、先日会った際には『御陵衛士には近づくな』と釘を刺したあとだったのだが
「どうしました?」
と藤堂は心配のあまり、武田に問いかけてしまった。彼は視点が定まらないママ尋ねてきた。
「…伊東先生は…此の度の件は…?」
「此の度?茨木君たちの件ですか?いえ…その、無念だとそういうことをおっしゃっていましたが」
「それだけか?!」
武田は血走った目で藤堂を見据え、その両肩を掴む。
「え?え?…はい?」
「拙者を殺すようにと、そういう命令が下ったのでは?!」
「どうしてそんな…」
「先生にはくれぐれも、拙者は彼らを止めた、拙者は悪くないのだとそう伝えてくれ!頼んだぞ!」
「は、はあ…」
困惑する藤堂の返答は、まるで武田の耳に入っていないようだった。彼は言いたいことだけ言うとふらふらと藤堂から離れて去っていく。西本願寺の方向へ向かってしまったので追いかけるわけにもいかず藤堂は立ち尽くすしかない。
「…なんだったんだ、一体…」
脈絡のない問いかけに、訳がわからない伝言を託され藤堂はどっと疲れてしまった。





676


出来上がったばかりの新築の屯所は立派な佇まいで隊士たちを圧倒した。想像以上の広さと爽やかな木の香りが充満していて自然と皆の心が弾む。
「先生、素晴らしいですねぇ!まるで大名屋敷のようです!」
山野は感激してあちこちを見て回っているようで、広い長屋付きの玄関や威厳のある客間、隊士が集まる大広間は百二十畳以上の広さだ。さらに大きな浴槽や小者にまで準備した部屋など、さまざまな語ってくれた。総司はせいぜい局長や副長の部屋とこの自分の個室しか見回っていないのだが、彼の臨場感あふれる興奮した感想のおかげで一通り見て回ったような気分だった。
「本当に立派ですねぇ、迷子になりそうだ」
「ああ確かに!平隊士はまだ部屋割りが決まらないので大広間に集まっているんですが、全員が集まっても事足りるくらいなんですよ!」
山野が嬉しそうにしながらも、手伝いに来てくれたのだが
「先生は本当にお荷物が少ないんですね」
と改めて行李ひとつの総司の荷物をまじまじと見ていた。長く暮らせば自然と物が増えそうなものだが、総司にはこれといった趣味も物欲もなくいつも身軽だった。
「書物も読みませんからねぇ…本当は個室なんて持て余しているんです。私はもう良いですから近藤先生のお手伝いをして差し上げてください」
「わかりました!」
山野は元気の良い返事をして出ていくと、入れ替わりに山崎がやってきた。
「どうも、先生」
「どうしました?」
「なに、今度からお隣さんやからご挨拶に」
彼は茶化したが、きっと土方が意図的に総司の部屋の隣を医学方の山崎にしたのだろう。総司は軽く頭を下げた。
「お世話になります」
「いいえ、何がありましたらこの扉をいつでも遠慮なくお開けください。もっともいっつもおるっていうわけやないんですけど」
「頼りにしてます。…それから、土方さんから受け取りました」
「…ああ、あれ」
山崎はそれまでの軽快な口調を潜めた。
「自分も最初は吃驚したんやけど…よくよく考えると持っていて損はないというか、それで安心ならそれでええかと。…誤解せんでください、悪意は無いんです」
「勿論分かってます。でも…簡単に受け取ることはできなくて」
「そりゃそうです。自分は武士やないけどその矜持はわかります。…せやから御守り代りに」
「…土方さんと同じことを言うんですね」
「ハハ、そうですか?」
土方も山崎と同じような言い方で総司を言い聞かせた。山崎は古参隊士であり土方の片腕として働いてきたが斉藤が隊を離れたいま、土方にとって貴重な存在だ。
「これからも宜しく頼みます。土方さんを助けてあげてください」
きっと今もこの先も土方にとってなくてはならない存在だ。あるいは総司よりも近くで仕えることになるだろう。
そういう思いを込めた言葉だったのだが、山崎は敢えて笑って
「…何を仰る、ご自分は引退なさるとでも?鬼副長を押し付けるなんて酷やなぁ」
と惚けたのだった。

昇進から新屯所までの引っ越しが駆け足だったため、各部屋に隊士を割り振ることに苦労した。ひとまず平隊士は二人一組で割り当てることにして、これを機に隊編成を改めて見直すことにしたのだが。
「やはり一番、二番と呼んだ方が扱いやすい。同志も減ったことだし、組長は増やさず六小隊にしようと思うが、近藤先生はどう思う?」
土方が尋ねると、近藤は「お前の思う通りで良い」と了承した。その目は何故か泳いでいて落ち着きがない。
「…おい」
「すまん。どうも気がそぞろになる。この部屋は広すぎるし立派すぎるんだ。俺も組長格の個室くらいで良かったのに」
局長の部屋は今までよりも広く意匠も凝らして作らせていて、近藤はキョロキョロと見渡しながらも居心地が悪そうだ。
「馬鹿を言うな。直参だぞ、この部屋じゃ狭いくらいだ。今度は小姓をつけて身の回りの世話をさせるからな」
「小姓などいらぬぞ。しかしそうは言うが…お前の部屋の二倍もあるじゃないか。もう少しお前の部屋も広ければ俺だって」
「俺は御目見じゃねえ、弁えてる。…それより早く隊士に部屋を割り振らねぇといつまでも大広間で待たせるのは酷だろう」
「あ、ああ、そうだな」
近藤はようやく土方の話に集中する。これまでの編成を踏襲しながら、一番隊は総司、二番隊は永倉、三番隊を井上、四番隊を原田、五番隊を山崎…その下に伍長を二人置く形とした。隊士たちの部屋割りも土方の案でまとまる。
「うん、これで良いな。早くみんなに知らせてやろう。待ちわびてるぞ」
「ああ。それから…例の件だが、総司には渡した」
土方が何の起伏もなく報告したので、近藤は最初何のことかわからなかったが、すぐに「ああ」と思いつく。
「…総司は怒っただろう?剣を生業にしているのに小銃だなんて…」
もともとは要望を受けた土方の発案であったが、最初近藤自身が難色を示した。総司と同じように剣の道をひたすら歩んできた近藤にも、小銃を渡されるのは屈辱的だと思ったのだ。
だがそれよりも近藤は総司の身を案じた。
「確かに怒っていたが…それでも受け取った。あいつも冷静に考えて納得したんだと思う。それに、倒幕派の連中は銃を懐に忍ばせているらしいから、近々皆がそうするようになるだろう」
「…そういうものか」
「これを機に銃の調練を強化する。西本願寺に遠慮することはない、一町の大屋敷だ、思う存分鍛えられるからな」
土方は部屋の外に目をやった。一番見晴らしの良い局長の部屋からはもう西本願寺との竹矢来は見えない。互いに檻だと感じていたしがらみが無くなったいま、気にかかることはあるがそれでも気持ちは晴れやかだ。
近藤は立ち上がって土方の視線の先で足を止めた。腕を組みゆっくりと辺りを眺めながら、万感のため息をついた。
「…広いなぁ。まだ俺たちの身の丈に合っているのかわからない」
「また頼りないことを」
土方も立ち上がり近藤の隣に並んだ。
「うん、だからこれから俺たちがこの屋敷に相応しいようにならねばならん。…これからも宜しく頼むぞ」
「…ああ」
土方は近藤の横顔を見た。自分にはまだ相応しくないと言っているが、今まで十分に役目を果たしてきた。その褒美だとすればこの屯所ではまだ足らないとも思えるが、田舎道場の道場主、あるいは農民の子が、ここまで上り詰めたのだからこの男は大したものであるし、選ばれた存在だ。
彼はいろいろなものを土方に見せてくれる。見たことのない景色ばかりが彼の前にはいつも広がり、同じものを見ていたいと思える。
「どうした?」
「…いや。今夜の宴会が終わればようやく落ち着く。…総司に改めて話してやってくれ」
「ああ…そうだな。いつまでも不安にさせては身体に障るよな」
「かっちゃん」
土方がそう呼ぶ時、彼自身も『鬼副長』ではなくなる。
「うん?」
「…俺は、間違っていないか?」
「間違っていないさ」
近藤は即答した。腕を組み自信に満ち溢れた表情だった。
「歳は間違ってない。農民から直参になった俺が証拠だ。全部お前の采配だよ」
「…だが…」
「まさか総司が病になったのもお前のせいだとでも?」
「…少なくとも、試衛館に置いてくれば無理をさせることはなかった」
総司は試衛館にいても同じだと一蹴していたが、土方はそうだとは思えなかった。労咳は血脈の他に人から感染ると言う話もあり都で誰かからうつされたのかとしれない。それに同じ病に罹ったとしても、試衛館にいたならもっと羽を伸ばして養生できただろう。
土方のなかでずっと燻る不安を、近藤は「ハハ!」と笑い飛ばした。
「歳、それは傲慢だよ」
「…なに?」
「お前は神か仏のつもりか?正解か間違いか、そんなことはいつも後になってからわかることだ。過去を振り返ったところで戻れるわけでもあるまい。正解であろうと間違いであろうと、すべては最善を尽くした結果だ…お前らしくないな、本来ならお前が言うべきセリフだぞ」
「…だが」
「それにたとえ間違った道に進んだのだとしても…その道でしか得られないこともあったはずだ。だからこの道はいつも『正解』だよ。そうでなければ…進めやしない」
間違えたかもしれないと思うことはある。かつての仲間を見捨て、同志を切り捨てるときはいつも振り返りたくなる。けれどそうしないのは歩みを止めたくは無いからだ。進み続けることでしか切り拓けないかった、そしてそれが近藤の出世へと繋がったのだ。
(そうだ…もうこの道を進むしかない。そう決めたじゃないか…)
「…ああ、お前の言う通りだ」
「たまには俺も良いことを言うだろう?」
近藤は少し嬉しそうに笑ったのだった。






677


「ああ、やっぱりこっちの方が良いなぁ」
移転を祝う宴会を終えて、総司は土方とともに別宅に戻った。ほろ酔い気味の総司は慣れ親しんだ別宅の部屋で身体を広げる。新築の個室は快適だけれど、慣れ親しんだこの家の方が落ち着いた。
そんな総司を土方は少し呆れたように見ていた。
「お前もかっちゃんと同じことを言う。…珍しく飲んでいたな」
「へへ、原田さんに飲まされたんです。今日は調子も良かったし…土方さんも少しは飲んだんでしょう?」
「少しな。…とにかく休め、水を持ってくる」
「はーい」
上機嫌の総司とは対称的に土方はいつもの調子を崩さない。総司に湯飲みを渡しすぐに横になるように言ったが、
「今夜は縁側で涼ませてくださいよ」
「身体が冷えるだろう」
「平気です、少しで良いですから」
酔いに任せて甘えると、土方は仕方ないと許してくれた。
総司は縁側に腰掛けた。昼間の暑さを残した夜に、どこからともなく蝉の声が聞こえてくる。雲一つないすっきりとした夜空には星が煌めき、いつまで見上げても飽きることはない。
総司が酔いで火照った身体を休ませていると、土方は何本か蝋燭に灯をつけ、そのまま文机に向かい仕事をはじめたようだ。
「こんな時にまで仕事ですか?」
「環境が変わるとやることが多いんだ。かっちゃんだってお勇の世話で別宅に戻ることが多いし、任せられない」
土方はそう言うが、近藤に我が子との時間を作ってやりたいという優しさだろう。
総司は筆をとりさらさらと書物を始めた土方の横顔をしばらく眺めていた。蝋燭の仄かな光の中でもわかる精悍な顔立ちにしばらく見惚れていた。
(きっと酔っているせいだなぁ…)
見慣れているはずなのに土方を見ていると心の奥底から無性に彼への愛情が湧き上がった。何の憂いもなく彼とここで過ごした日々が思い出され愛おしく、そして死病に罹っても変わらず受け止めてくれることがなによりも総司を慰める。
ーーー触れたい。
そう思った時に無意識に彼の背中に手が伸びてそのまま後ろから抱きついていた。
「…どうした?」
総司の視線には気がついていただろう。
「いえ…邪魔ですか?」
「いや。そうしていたいなら好きにすれば良い」
土方は穏やかにそう言って、再び筆を動かし始めた。
背中から伝わる鼓動に耳を傾ける。どくん、どくんと刻まれるリズムが次第に自分のそれと重なっていく。
「…歳三さん」
「なんだ?」
「昔、試衛館では魚油で火を灯してましたよね。こっちに来てからは菜種ですから臭くないですけど、魚油の時は臭いし、煙たかった」
総司が脈絡もなく昔話を始めたので、土方は「ふっ」と笑った。
「何だ、藪から棒に」
「ふと思い出したんです。魚油の方が安いから仕方なかったけど、今はそんな思いをしなくて済みますね」
「ああ、臭いがうつるから俺は二度と勘弁してほしい」
土方は裕福な豪農の育ちなので試衛館で初めて魚油の匂いを嗅いだのだろう。菜種は米一升よりも高価だった。
総司は土方の背中に体を預けながら続けた。
「でも私の家もずっと魚油だったんです。だから試衛館も同じで…幼い私にとっては唯一『家』を感じられる臭いだったな…」
恋しかったわけではない。けれどその臭いは総司にとって短い実家での『思い出』に違いなく、幼少の頃はその匂いに触れて寂しさを紛らわせていたこともあった。
「…だったら、たまに魚油でも使おうか?」
「さっき二度と勘弁してほしいって言ったじゃないですか」
「我慢してやる」
土方の言い草がなんだか可笑しくて総司は笑った。
「もう良いんです。あの匂いは私も好きじゃないし…いまは、もう別の拠り所がありますから」
そう言って土方に一層強く抱きついた。この温もりも匂いも鼓動も…いま総司にとってなによりも落ち着くことができた。
(離れたくないな…)
このまま手が届く場所で寄り添っていたい。
簡単だと思っていたことがこれからはそうは限らないのだと思うと、よりいっそう離れ難かった。
土方は手を止めて沈黙した後に、筆を置いた。
「…総司」
「あ、やっぱり邪魔ですか?」
「そうじゃない。…改めて、お前に話しておきたい」
土方は総司の方に身体を向けて二人は膝が触れる程の距離で向き合った。
「話…って」
「先にかっちゃんと話し合ってから…とも思ったが…明日から新撰組は新しい日常を歩む。その前にお前の今後のことはちゃんと区切りをつけておきたいんだ」
「…」
かつてないほど真剣な土方の表情に、総司は一気に酔いが覚めて身体が少し強張った。
彼の中で今まで幾度となく延ばし延ばしにしてきたことの結論が出たと言うことなのだろう。
総司はこれまで頑なに自分の気持ちを押し通してきたけれど、いま土方の本音と結論を聞くとどうなってしまうのかわからない。
土方は少し言葉を選ぶように話し始めた。
「俺は…労咳がどれほど苦しい病か知っている。薬屋だったからな、老いも若きも関係なく死んでいくのを見てきた。だからこそお前に無理をさせたくない…本当は静かな場所で養生してほしい。これは揺るがない本音だ」
「でも、それは…」
「良いから最後まで黙って聞いてくれ。…しかし養生して欲しいが、遠い江戸に帰すことはお前も嫌がるし俺も気が進まない。お前は誰にも心配をかけまいとするだろうし、様子がわからないのは逆に気がかりだ。こちらなら松本先生の協力を得ることができるが…新撰組に残ればお前は必ず無理をする。俺はお前が寝込んでも役立たずだとは思わないが、お前は違うだろう…」
「…」
総司もこの先の生活について具体的に想像できてはいなかった。周囲に気を遣わせ、肝心な時に働けない自分を許容できるのか…不安ではあった。それは近藤や土方からすれば尚のこと気がかりだろう。
少し視線を伏せた総司の手を、土方が取った。
「気がかりがいくつもある。お前のために何が一番良いのか、俺なりに考えたがずっと答えが出なかった」
「答え…」
「…かっちゃんが言っていた。俺は間違っていないと。間違っていたとしてもそれは最善を尽くした結果だと。だから俺はもう迷わない、例え間違っていたとしてもこの選択を後悔しない」
「歳三さん…」
その答えを土方は口にした。
「お前は俺の傍にいてくれ。もう何も心配しなくて良い、何があっても俺はお前を守る」
土方がそう言い、総司を抱き寄せた。背中よりも暖かな体温に包まれて強張った身体が一気に解け、大粒の涙が零れた。
単純な喜びだけではない。言葉にならない複雑なものが込み上げてそれは嗚咽となって溢れたのだ。
「…私を、…新撰組隊士として扱ってくれるんですか?」
「当たり前だ」
「今でも私は…歳三さんの為ではなく、隊士として死にたいと…思ってるんですよ」
「ああ…それで良い。お前の人生はお前が選べば良い。俺はそれを支えるだけだ」
言葉すら震える総司は彼の首筋に顔を埋め、何度も頷くことしかできなかった。そんな総司を土方はあやすように撫でる。
「でも無茶はするな。できないことはできないとちゃんと認めるんだ。しんどい時もちゃんと休め」
「…は、い…、なんでも、いくつでも約束します…」
痛みさえ引き受けて傍に置いてくれるというのなら、なんだってする。足枷にしかならないのに必要だと言ってくれるならどんなことだって受け入れる。
けれど土方は
「約束は、一つだけで良い」
と苦笑した。
「一日でも長く俺の傍にいてくれ。お前のためだけじゃない、俺のためにそうしてくれ」
ずっと、本当の気持ちが聞きたかった。
誰とも関係なく、迷いも葛藤も超えた先にある彼だけの本音を聞きたかった。
それが例え、遠くで養生しろと言うのならそうしたかもしれない。
でも彼は共に生きる道を選んでくれた。痛みを伴うことをわかっていても。いつか自らを責める選択だとしても。
だったら何があっても傍にいよう。彼がもう必要ないと言うその日まで、醜態を晒してもその約束を守ろう。
総司は土方の首元から顔を上げた。子どものようにぐしゃぐしゃになった泣き顔だったけれど、土方はそんな総司を見て少し笑っていた。
「約束します。ずっと…ずっと、傍にいます」
総司は土方の頬に手を這わせ、自分から口付けた。
仄かな灯りを放つ蝋燭がゆらりと揺れて、二つに重なった影を作り出す。
(今が一番、幸せかもしれない…)
死病を抱え、明日さえ解らぬ前途多難な日々だというのに、何故だか心が満たされている。
一度は手放したその幸福が、遠回りをしてまた手元に戻ってきた…それは何ものにも変え難いぬくもりをもたらすのだ。
「…歳三さん、私も同じ気持ちです。綾も錦も…貴方がいなければ意味がありません」
それを聞いた土方は一瞬虚をつかれたような顔をしたが
「また勝手に発句帳を覗いたな」
とあの江戸にいた頃のように総司の額を弾いたのだった。






678


六月の終わり。
梅雨が終わり、初夏を感じさせる風が吹き始めていた。
「こういう時期はあんみつに限る」
と言いながら、甘味処で総司と向かい合った近藤が若い女中にあんみつを二つ頼んだ。
病を知られて以来、まともに顔を合わせるのは久しぶりで、総司は幾分か緊張していたが近藤には全くそれがなかった。まるで何もなかったかのようにいつも通りだ。
「俺も何度かここに来たが、おみねさんもここの餡子は旨いと言っていた。評判の店のようだ」
「そ、そうだったんですか…」
「しかし、おみねさんは何を作らせても料理上手だな。掃除も細やかで気が利く…あんなに出来た人を歳はどこで見つけてきたんだろうなぁ…それが深雪やお孝の祖母だというのだから偶然とはいえ、まったくあいつは見る目があるよ」
「はぁ…」
他愛のない話を続ける近藤と、それをぎこちなく受け取る総司。そうしていると先ほどの女中があんみつを二人前並べて去っていって、近藤は早速評判の餡子を口に運び「旨い」と唸る。総司もそれに続いたが、まともに味わう余裕はなかった。
(いままで近藤先生に本気で怒られたことなんてなかった…)
幼少から兄貴分としていつも甘やかしてくれていて、近藤と意見が真正面からぶつかったことなんて一度もない。こんな風に向かい合ってどうしたら良いか分からず緊張するなんて初めてのことだ。
総司が半分も口に運ばない間に近藤は全て完食し、匙を置いた。
そして穏やかに口を開いた。
「…ここの甘味処はな、歳と時々来るんだ」
「土方さんと…ですか?」
「ああ。あいつとの仲直りはいつもこの甘味処だ」
総司は(ああ)と気がついた。普段から以心伝心の二人だが年に一度は大きな喧嘩をする。大抵引き金を弾くのは土方だが、仲直りを切り出すのは近藤だ。その時に決まって甘味処へ行っていたが、それがここだったのだろう。
「歳は甘いものが嫌いだと公言しているが、大嫌いだというわけじゃない。ここに来たら一緒に同じものを食う…それが俺たちの和解の合図なんだ。食い終わる頃にはいつも通りさ」
「へぇ…」
「ハハ…あいつは分かりづらいようで、分かりやすい。自分の譲れない一線はハッキリしている。…総司、お前もそう思うだろう?」
近藤に問いかけられ、総司は頷いた。幼馴染の近藤には及ばないかもしれないが、理解しているつもりだ。
「…歳はお前のことに関しては冷静なようでそうでもない。ずっと養生させたい気持ちと傍に置きたい気持ちに板挟みになっていたようだが…俺からすれば、あいつの本音はお前を手離したくないのだとすぐにわかった。だからこそ…俺には受け入れ難かった。歳と一緒にお前に同情して感情に流されてここに留め置いて、お前の病状を悪化させるようなことがあったらおみつさんに申し訳ないだろう」
「先生…」
やはり近藤は反対するのか、と総司は気を落としかけた。しかし師匠の表情は穏やかなままだった。
「だが、思い出したんだ。お加也さんとの縁談を断った時のことを」
近藤は「ふっ」と小さく思い出し笑いをした。
「歳と共にいることが生きる意味だと、それ以外は望まないと。…今思い出しても、これ以上ない告白だ」
「あ、あれは…忘れてください」
総司の顔は急に紅潮した。加也との縁談を断るために近藤を説得したときに、無自覚に気持ちを語ったのだが、自分でも後で赤裸々すぎたと反省したのだ。
「お前の生きる意味を否定するなんて烏滸がましいことはできぬ…俺のすべきことはお前たちを引き離すことじゃない。お前たちの歩む『これから』を支えることだと気がついたんだ。だから、覚悟した」
「…先生…」
「歳はお前にはなかなか本音を言わないだろうが、俺にはあいつの気持ちが手に取るようにわかる。…だからあいつは俺が支える。もちろんお前のことだって守ってやる」
飾らない近藤の言葉には自信が満ちている。だからこそ心に直接語りかけてくるのだ。
「誰にも遠慮しなくていい。好きなように、気持ちのままに生きたら良い。そのかわり身体を大事にして小銃もちゃんと稽古するんだ…大丈夫だ、お前はきっと俺より長生きするぞ」
突然、近藤の顔がぼんやりとして見えなくなった。頭での理解よりも先に心が揺さぶられ、無意識に涙が溢れていたのだ。
「ハハ、泣くようなことじゃないぞ」
近藤が差し出した手拭いを受け取り大粒の涙を拭った。
嗚咽を堪えながらようやく気がついた。
仲直りをするためにここに来たのだ。
同じものを食べることが和解の合図だ。
「先生…ありがとう、ございます…」
絞り出した言葉を近藤は「うん」と満足げに受け取って
「さあ、あんみつを食え。食い終わったら行くところがあるぞ」
と総司に匙を持たせた。
そして店を出て向かったのは、屯所近くの醒ケ井の近藤の別宅だった。外からでもお勇の威勢の良い泣き声が聞こえてくるが、そこは総司が遠ざけていた場所だった。
「…先生、私は…いけません」
総司は立ち止まった。
幼い赤子になにかあってはならないとお勇に会うつもりはなかったのだが、近藤は及び腰の総司の腕を引く。
「案ずるな、お孝も了解している。松本先生や南部先生だって少しなら構わないと言っていただろう?」
「でも…気が引けます。先生の御子に何かあったら」
「俺の子だから心配ない。…お前が名づけ親だぞ、一度くらい抱いてやってくれ」
「…遠目から眺めるだけなら」
近藤が頑なに誘うので総司は観念して中に入った。ちょうど庭で孝がお勇をあやしているところだった。
「沖田せんせ、ようやく来てくださいましたね」
孝は厭う様子もなくお勇を抱いて総司の元へやってきた。目を腫らしたお勇は初めて見る顔に少し驚いて目を丸くして、泣くのをやめたようだった。
「お孝さん、私は…」
「旦那様とうちの子やから何にも心配することありません。抱いてやっておくれやす」
「ほら、総司」
二人はやや強引に総司の腕にお勇を抱かせた。
頼りない小さな命が腕の中にある…儚くて、でも力強くて、ただそこに在るだけて愛おしい。
「…お勇、ちゃん…」
薄く生えた髪の毛と孝に似たつぶらな瞳、すっとした鼻筋、近藤と同じ大きな口。
互いにぎこちない対面だったが、お勇の方が先に心を開いた。嬉しそうに笑ったのだ。
「まあこの子人見知りなんですよ、こんなに笑うなんて!」
「お孝、俺の言ったとおりだろう?総司は昔から赤子に好かれるんだ」
「ほんまに!」
孝と近藤は手を叩いて喜び、総司は不思議な幸福感が込み上げた。何もわからないはずの無垢な赤子が微笑みかける、それはまるで神に祝福されたようなそんな気持ちだ。
(叶わないことばかりじゃないのかもしれない)
労咳を知ったとき、何もかもを諦めなければならないのだと思った。きっと何一つ満足に出来なくなり、生きることもままならない…この先の未来に望みはないのだと打ちひしがれた。
けれど、何もかもを手放す必要はない。
目の前にある幸福に触れ、喜びを共有する…この一瞬一瞬は誰にでも平等なはずだ。
(僕はそれを大切にしよう)
ありのままに、思うままに生きる。少し我儘になって周囲の手を煩わせるかもしれないけれど、それもまた自分の人生なのかもしれない。
澄んだ瞳で見つめるお勇を見てそんな決意をしたのだった。






679


御陵衛士は新たな節目を迎えていた。
仮の屯所としていた善立寺から高台寺の月真院へと移ったのだ。これより彼らは『高台寺党』とも呼ばれることになる。

手入れの行き届いた月真院の庭園を眺めながら、藤堂は深いため息をついていた。
「…どうした?」
斉藤が声を掛けると、藤堂は「いやぁ」と少し言葉を濁しながら目を泳がせる。
「白壁と草木、池が調和して見事に美しい庭だと思って」
「伊東先生の受け売りか?」
「ハハ、斉藤さんは誤魔化せません。…ちょっと気になることがあって」
「武田のことか?」
斉藤は藤堂に声をかけた時から見当はついていたのだが、彼は「なんで」と言わんばかりに驚いていた。
「伊東先生は放って置けと仰ったのだろう?」
「まあ、そうなんですけど…あんまりにも憔悴していたので、気の毒で」
「奴が茨木を唆したのは事実だ。我々の報復を恐れているのだろう」
武田は藤堂に『自分は悪くない』のだと必死に縋ってきたらしい。伊東は藤堂の話を聞いてひどく軽蔑したようで、報復どころかもう関わり合いになりたくないと拒んだのだ。
藤堂はもう一度ため息をついた。
「…あの人も変わった人ですよねぇ。入隊したあとすぐ近藤先生に取り入って軍学だとか威張って誇らしげで…自意識過剰で評判の美青年だった馬越君なんかに手を出して。挙句、自分の居場所をなくして御陵衛士に近づいて拒まれたのに茨木君たちを嗾けるなんて…あれ?なんだかよく考えると、同情するべきことは何もないような」
「少なくとも深く考え込んで心配してやるほどのことではないと思うが」
「まあ、そうなんですけどねぇ…」
藤堂は自分でもなぜこんなに気に掛けるのかわからないようだが、それが彼の人の良さなのだろう。
「なんだか…必死なんですよねぇ、あの人。可哀想なほど」
「…」
斉藤は何も答えなかった。


不動堂村の屯所では早速、銃の訓練を頻繁に取り入れることになった。
「全くよぉ、散々稽古には興味がないとぼやいていた奴がさぁ…俺たちの立場がねぇよ」
原田はブツブツと文句を言いながら「なあ?」と永倉に話を振った。腕を組みながらその様子を眺めていた永倉は唸りつつ、彼を諌めるのかと思いきや、
「左之助の言う通りだ」
と憮然と言い放つ。
不満そうにこちらを見ている二人に、総司は苦笑するしかなかった。
何かしら理由をつけて参加を拒んでいた銃の調練に初めて参加したのだが、思わぬ才能を発揮することになってしまったのだ。
「先生、全弾的の中心に当たっています…」
山野は少し呆然としていた。一緒に稽古をしていた一番隊の隊士たちも手を止めてこの信じられない事実に驚き慄いているようだった。
照準を定めて撃ち放つ訓練で、総司は最初こそ辿々しく構えていたのだがその弾は見事に的の真ん中に的中した。それはたまたまではなく次第に構えが安定するとさらに精度が高まって、結局は全弾狙い通りの軌道を辿ったのだ。
総司は苦し紛れに謙遜した。
「…いや…きっとまぐれですよ。もしかしたら運が良いだけかも」
「嘘つけ!隠れてどこかで修行を積んだんだろ?!」
「まさか。最初は上手く構えることもできなかったのを見ていたでしょう?」
「あー!見ていたから余計腹が立つんだよ!なんだよ、しんぱっつぁんが全然ダメだったから剣ができるやつはこっちはさっぱりなはずだってたかを括ってたんたせ!?」
原田はいま銃の稽古に夢中らしく本業の槍を疎かにするくらいに熱中しているので、あっさりと総司が越えて行ったのが悔しいのだろう。
総司が訓練に身を入れるようになったのは、もちろん近藤と土方との約束のためだ。せめて自分の身は自分で守り二人を心配させない…そのためなら剣だけに固執するのではなく時代に合わせた技能も必要だと納得したのだ。もちろんそんな総司の心情の変化など周囲の隊士たちには理解できないだろう。
「あ、土方副長!」
島田がめざとく土方の姿を見つけたのでその場にいた平隊士たちは一斉に頭を下げた。
「気にするな、様子を見にきただけだ」
そうは言っても、鬼副長の登場で隊士たちも緊張感をもって訓練に取り組むようになる。土方は腕組みをしてそれらしく眺めていたが、総司が訓練に参加すると聞いて様子を見にきたのだろう。
(心配性なんだからなぁ…)
総司は再び銃を構えた。土方から渡された小銃とは違い、銃身の長いゲベール銃は銃弾を前方から籠める前装式の燧石銃だ。その命中精度は高くはなく、総司と同時に発射した隊士たちはほとんど的を外してしまった。総司は相変わらず真ん中を射止めたが、それはまさに感覚でしかない。
(結局、剣術も銃も同じだ)
剣術の稽古でも上手く言葉にすることができなくて門下生を指導できなかったが、銃でも同じだったというだけだろう。
総司は休憩をとりながら、高みの見物をしている土方の元へ向かった。
「調子はどうだ。どうやらやっかまれているようだが」
「ハハ、今日は調子が良いだけだと思いますけど」
「慣れてきたら渡した小銃でも稽古しろよ。いざという時に使えなかったら無駄だ」
「わかってます」
土方の言うことは尤もなのだが、わざわざ様子を見にきて小言を言う過保護な母親のようだ。
土方は調練を続ける隊士たちに目をやった。
「ゲベール銃だとどうしても銃弾を前方から込める手間があるな。命中率も悪いし、射程も短い…練習には構わないが、早めにミニエー銃を導入した方がよさそうだ」
「ミニエー銃?」
「後ろから銃弾を込める最新の銃だ。あっちこっちの藩にはゲベール銃が出回っているが、長州や薩摩は異国からそのミニエー銃を購入しているらしい。射程は伸びるし命中率は高い」
「へえ…」
土方が銃ことについて詳しいのは知らなかったが、彼は生来新しいもの好きなので意外ではない。
「お前が銃が使えるなら好都合だ。局長の親衛隊として一番隊はますます機能できる」
「生憎ですけど、私はやっぱり性に合いません。指先だけで命のやり取りをするなんて…仕方ないから稽古はしますけど、重心は剣のままが良いです」
最新鋭の武器の威力を目の当たりにしてこれから先、銃を重きに置いた編成になるのは理解できた。けれどだからと言って剣を怠るのは自分の望んだ生き様ではない。
総司の気の進まなさは当然土方は察していたので
「格好がつく、という話だ。一番隊は剣も銃もできる精鋭になれば見栄えがする。お前が育ててみろ」
「口で言うのは簡単ですけどねぇ…」
総司は稽古を続ける部下たちを見渡した。手先の器用な山野は様になっているが、ほかの隊士は戸惑いがあるらしくまだまだ安定した射撃ではない。特に大柄の島田が身体を縮めて構えているのはなんだか頼りなく見えた。
総司は土方に焚き付けられたような心地で、島田の元へ向かった。猫背になった彼の姿勢を正し、身体の軸がぶれないようにと教えた。彼は戸惑いつつも総司の期待に応えようと必死で、言われるがままに集中して的を狙った。
パァン!と弾く音が響いてその中心を射抜く。
「やった!やりました!」
と喜んだ島田に応えようとしたその時、突然総司はその場に崩れ落ちるように膝をついた。急にやってきた息苦しさを堪えながら、胸を抱えてぜーぜーと荒い息を繰り返す。
「ゲホッ!ゴホッ」
「先生?!」
「沖田先生!」
島田は銃を投げ捨て、近くにいた山野も駆けつけた。二人が声を上げたので隊士たちも驚き、近くにいた原田と永倉も駆けつける。
「おい、どうした?総司??」
「なにがあった?」
二人は一体何が起こったのかと周囲に尋ねるが当然答えられる者はいない。その内、総司はゲホゲホと苦しい咳を繰り返し、最後には吐血した。
「せっ、先生!!」
真っ赤な血が地面に落ちたことで山野は途端に青ざめて悲鳴のように声を上げる。急に緊迫感が高まり隊士たちが驚きと戸惑いと困惑に包まれるなか
「どけ」
と土方が隊士たちをかき分けてやってきた。総司の背中を摩り、呼吸を落ち着かせようとした。
「…島田、山崎を呼んで来い」
「は、はい…!」
島田は慌てて駆け出して行く。山野たち配下の隊士たちは唖然としていた。
「おい、これはどういうことだよ!」
「これはまさか…?」
永倉と原田は吐血に驚かない土方が事情を知っていると気がついた。彼らは問い詰めたが
「後で話す」
と返事をして、土方は総司を抱えた。意識はあるものの荒い息を繰り返し顔色が悪い。
(いつかこういう日が来ると思っていたが…)
それはいつも突然に訪れてしまう。いつも予期せぬ形で、平穏な時間を嵐のようにかき乱すのだ。







680


土方は総司を山崎に任せ、別宅から近藤を呼び、幹部及び一番隊の隊士を集めた。
「…君たちにも近々知らせるつもりだった。突然このような形になってしまったが…残念ながら、総司は労咳に冒されている」
近藤が重々しく事実を告げると、吐血を目の当たりにした配下たちをはじめ、永倉や原田も言葉を失った。
伍長の島田が恐々口を開いた。
「…恐れながら、局長。先生の病状は…」
「時折血を吐く程度でまだ本人には体力も気力もある。だが…このままなら一年ほどで床に伏すようになるだろう」
「…」
尋ねは島田は絶句して、誰もが息を呑んだ。
隣にいた山野は少しの希望を見出すように
「沖田先生はこれから…療養されるのですよね?」
と問いかけるが、
「本人の希望で可能な限りこのまま務めを果たすということだ。一番隊の皆にはこれから一層支えてやって欲しい」
「…」
彼らの表情には驚きよりも戸惑いがまさった。本人が希望しているとはいえ重病であることを知りながら激務をさせるのは気が進まないのだろう。しかし彼らには近藤の指示には抗えない。
雰囲気を察した原田が「なあ」と切り出した。
「労咳は死病だ…今まで何人も脱退してきたんだぞ。いくら剣ができるからって病まで退治できるわけじゃない。それなのに、今まで通りっていうのは…」
近藤は「わかっている」と頷いた。原田だけではない、この場にいる皆が困惑しているのはわかっていた。
「もちろん、支障が出れば養生させる。無理をさせるつもりはない…松本先生や南部先生の助けをかりて、本人が納得できるまで全うさせたいというだけだ」
「…そうか…」
お喋りな原田でさえも続く言葉がなく俯いた。誰よりも剣の道に生きてきた総司がよりによって労咳だと誰も信じられなかったのだ。それがどれほどの絶望か…重たい沈黙のなか、小さな嗚咽が響いた。
「山野…」
「僕のせいです…先生のお身体のことを任されてきたのに…何も気づけず…」
「お前のせいじゃない」
「僕は役立たずです…。先生は一体いつから苦しまれていたのでしょうか。きっと長く悩まれたはずです。それなのに僕は何も知らずに…」
島田の励ましは山野の耳には届かず、彼は両手で顔を覆った。その涙に誘われて組長を慕う隊士たちが感情を昂らせる。
その時、それまで黙っていた土方が口を開いた。
「誰も謝るな、泣くな。そうしたところでお前たちの組長がどう思うか、考えろ…わかるだろう」
敢えて淡々とした命令口調で彼らを奮い立たせる。
そして彼らはハッと気がつくのだ、誰よりも近藤や土方こそが苦しみ悩み、出した結論なのだと。長年家族のように連れ添い特別な絆で結ばれた彼らの結論に、異議を挟むほど愚かな者はいなかった。
永倉も難しい顔をしながらも、
「…総司がそういう道を選んだのなら、俺たちも力になるしかない。左之助、そうだろう?」
「ああ…わかった」
原田も腹を括ったようで、深く深呼吸してから隣にいた島田の背中をバンバン!と強く叩いた。
「い、痛いです、先生…」
「元気を出せ!総司は昔から丈夫なんだ、きっと克服するに違いないぜ。切腹しかけて死ななかった俺がそう言うんだから間違いねえぞ!」
原田が大袈裟に鼓舞したことで隊士たちは少し緊張を解いて雰囲気も穏やかになる。
土方は
「隠したところで皆に伝わるだろうが、外には漏らすな。倒幕派に総司の名は知れ渡っている…御陵衛士も例外じゃない」
と釘を差した。当然その場にいたものは深く頷く。
その時、山崎がやってきて病状が落ち着いたと報告し総司も顔を出した。
「皆…」
永倉や原田、そして島田や山野をはじめとする一番隊の隊士たちの顔を見て総司は言葉に詰まった。事情を聞いた彼らがどう受け止めたのか…わからなかった。
彼らの前で膝を折り頭を下げた。
「…黙っていて、申し訳ありませんでした。本来なら新撰組の足を引っ張るだけの病人なんて不要だとわかっていますが…」
「なに水臭いこと言ってるんだよ!」
総司の言葉をかき消すように原田が声を上げた。
「労咳だって言っても、俺よりも剣は強いし悔しいことに銃だって上手い。そんな奴が不要なもんか。ここにいる隊士だってお前の下で働きたいんだぞ。それに近藤先生と土方さんが揉めたら誰が仲裁するんだよ!あの暴れ馬だってどうするんだ。ここにいるお前の仕事は山ほどある、いなくなったら…いなくなったら、困るんだよ!」
気丈な声が次第に擦れて昂る。原田はそれを「なぁぱっつぁん!」と誤魔化した。
「左之助の言う通りだ。ここにいる誰もが不要だなんて思っていない。…そうだよな、島田?」
永倉は島田に目を向ける。彼は大粒の涙をこぼしながらもグッと唇を噛み、
「当然です!我々の組長は沖田先生だけです!!」
と部屋中、もしくは屯所中に響き渡るような大音声で叫んだ。伍長として長く総司の傍らで働いてきた島田の嘘偽りのない感情が、涙声の中に滲み出ていた。そしてそれは島田だけの想いではなく、一番隊皆の総意でもあった。
「先生、俺たちが支えます!」
「何でも言いつけてください!」
隊士たちから挙がる声に総司はただ「ありがとう」と返すことしか出来ず、目頭が熱くなる。
「良い部下を持ったな」
という近藤の穏やかな言葉に「はい」と頷いた。

その場が解散になると、総司は山野を引き止めた。自室に招き入れ改めて「すみません」と謝った。
「池田屋以降、山野君はずっと体調を気にかけてくれていたでしょう?それなのにずっと隠して誤魔化して…言い訳ではないけれど一番隊で一番君が悲しむのがわかっていたから、言いづらくて」
「先生は謝らないでください!僕こそ何も気づかずに…情けないです…」
引っ込んだはずの涙が再び溢れて山野は慌てて懐から手拭いを取り出した。すでに涙に濡れていて、彼がどれほど泣き崩れたのかと総司は心の中で再び詫びた。
山野は軽く目頭を抑えると「あの」と尋ねた。
「…もしかして、土方副長と仲違いをされたのも病のことが原因ですか?」
「ええ、まあ…別れ話を切り出したら大事になりました」
彼は目を丸くして驚いていたが、総司はこれ以上山野に隠し事をする気になれなかったのだ。
「…でもお気持ちはわかります。僕だって先生の立場ならきっと同じことをしていると思います。…でも今は元通りになられたんですよね?」
「はい。…もしかしたら前よりも優しくなったので良かったのかもしれませんね」
ハハ、と茶化したが、山野は大真面目な顔で
「それはわかります」
と頷いた。
「このところ、土方副長が先生を見る目はとてもお優しいと思っていました」
「へえ」
「でも僕から見ても先生にだけはずっと前から…あ、そうだ」
山野は突然、ぐるりと部屋を渡した。物の少ない殺風景な部屋で何を探しているのかと思いきや「これ」と愛用している襟巻きを持ってきた。
「僕も隠し事をしていたことを謝らなければなりません。実は、これは僕からの贈り物ではなく…副長から託されたものなのです」
「土方さんが?」
総司は驚いた。
山野によると別れ話をしていた頃、彼が談判に行った所ときに渡すように命じられたとのことだった。自分からの物だと明かすなと言われていたらしい。
「副長はきっと先生のことをいつも考えておられるのですね」
山野から改めて襟巻きを受け取る。
よくよく考えれば若い山野が選びそうな色ではないし、土方らしいセンスの品物だと思える。
「…そうかもしれません」
何を思って贈ってくれたのかわからないけれど、あの喧嘩の最中でも彼の愛情は常に感じていたように思う。だからこそ拒むのが辛く、結局は関係を断つ決意を貫くことができなかったのだ。
「…あ、僕が話したことは命令違反ですかね」
「ハハ、そうなりますかね。だったら内緒にしておきます」
「お願いします。…でももう僕には隠し事はしないでください」
山野は突然深々と頭を下げた。
「山野くん?」
「これから山崎先生に医学を学びます。きっと先生にとって一番役立つ部下になります…だから隠し事はしないで、僕を頼ってください!」
山野は総司をまっすぐに見つめる。
その姿がかつて『浪士組に加わりたい』と懇願した自分と重なった。若くて、希望に満ちて、眩しい。
「…病人の世話なんて、貧乏籤ですよ?」
「僕にとっては当たりくじです!」
「ハハ…敵わないなぁ」
彼の心からの決意と懇願を断ることなどできない。総司は「ありがとう」と返事をして微笑んだのだった。




























解説
673 幕臣取り立てに反対した四人の死については、切腹という説と襲われたという説があります。

また茨木は近藤からの信頼が厚く、伊東は御陵衛士として引き抜くつもりが近藤に懇願され残したと言う話もあり、近藤が帰隊を望んだのもその辺りが関係あるのかもしれません。

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