わらべうた




681


「武田先生は隊を裏切っているのではありませんか?」
遠慮のない、はっきりとした口調で目の前の男が責めた。突然のことに武田は口篭りながらも
「せ、拙者は…隊を裏切るようなことは…何一つしておらん」
「でしたらなぜ茨木たちは死んだのです?」
「…知らぬ!!拙者には関係ない!」
武田は叫んだ。まるで自分に降りかかる火の粉を払うかのように必死に言い逃れをしていた。しかし男は表情ひとつ変えずに
「では、正しい行いであったと?彼らは先生が提案した案に乗って脱走し、切腹したのですよ。責任を感じられないのですか」
「切腹までのことになるとは思わなかったのだ!実際に以前、会津に仲裁を求めて事なきを得た…今回も同じだと…!」
「先生は軍師を名乗りながら、全く見通しが甘いのですね。あの頃と今の新撰組は違うのですよ。会津が仲裁したところで彼らは決して許されなかった…彼らの本願を叶えるためには入念な下準備が必要であったのに、逸らせるように脱走を促したのは貴方の失策では?」
流れるように責め立てられ、武田は青ざめる。ぱくぱくと唇は上下したがうまく言葉を紡げない。
「な、何故…何故だ。何故お前がそんなことを」
「だって先生がそうおっしゃっているではありませんか」
「わ、私が?」
「心の中で、本当はご自分の無能さを嘆いている。無力さを痛感している…そうでしょう?」
「な…」
「田中寅蔵の件も同じです。貴方は善い行いをしたつもりかもしれませんが、結局は彼を破滅させた。ただ、自分より腕の立つ男から報復されることを恐れ、殺される前に殺した…しかも他人を使って間接的に。…生に執着するばかりにご自身が空回りしていることにはとっくにお気づきでしょう。そんな自分を憐れだと思わないのですか?」
「もう…やめてくれ…」
武田は身体中の力が抜けて膝から崩れた。そして上半身さえも支えられぬ有り様となり、両手で這った。
わかっている。
軍師を気取りながら、自分の予想は常に外れてしまう。出世の道を歩んでいると思えば突き落とされ、どうにか元の道へと苦心したところで仲間が死に、せめてもの思いで手を差し出せば大勢死んだ。
何と無力な。
何と…哀れな。
生き恥を晒しているだけなのだ。
(わかっている、わかっている…だがお前には言われたくはなかった…)
「先生、もう一度申し上げます。…先生はもう隊を裏切っているのではありませんか?」
「馬越…」
「先生のなすべきことはなんでしょうか?」
(なすべきこと?そんなことを知っているなら…教えてくれ!)
武田は己を見下ろす馬越に救いを求めるように手を伸ばした。しかしその手はどこにも届かずに地面に落ちたーーー。

ハッとして目を覚まし、すぐに夢だと気がついた。
「……」
同室のはずの隊士は既にいない。いつもより寝坊をしてしまったのか、もしかしたらうなされていた武田が気味悪かったのかもしれない。額には大粒の汗をかき身体中が悪寒で震えていた。
(落ち着け…落ち着け…馬越はここにはいない。あれがこんなことを言うはずがないじゃないか…)
夢の中で理路整然と武田を非難し続けた馬越は、死んで枕元に立ったわけでもなく、生霊を飛ばしたわけでもないだろう。しかしあの壮絶なまでに整った美貌が冷たく怒るとまるで氷のように凍てついているようにみえる。そして吐かれた言葉は氷柱のように鋭利な刃となった。
「馬越…せっかく夢に出てくれるのなら、私を導いてくれ…」
(すべて…お前の言う通りだ)
自分の正しさを証明するために空回りばかりして多くの同志の命が散った。責められるべきであり、何もかもがうまく行かず、とっくに隊士でいる資格などない。
『隊を裏切っているのではありませんか?』
その言葉にどう答えたら良いのかわからない。
裏切った気持ちなどない。ただ生きることしか見えていなかったーーー殺されないように生きるしかなかったのだ。



「あぁ、いいお湯だった…」
別宅にて総司が風呂から上がると、みねが湯呑みを差し出した。
「白湯どす。今日は暑い日やけど薄着で身体を冷やしたらあきまへんえ」
「わかってますよ、おみねさん」
「滋養に良い野菜も卵もたんと買うて参りました、いまからお夕飯を。それからこれは喉に良い飴と、気持ちの落ち着くて評判のお香、他にも…」
「ハハハ、おみねさん、そんな急に私を重病人にしないでくださいよ」
あれこれと忙しないみねに、総司は苦笑した。
近藤が孝とお勇を総司に会わせたいと事情を説明したため、みねにも病のことが伝わってしまった。長年の付き合いであるみねは酷く驚き、悲嘆したそうだが、今目の前では気丈に振る舞っていた。
「笑い事やあらへん。ちゃんと精の付くものを召し上がっていただきますえ。肉も野菜も魚も…ぜんぶ平らげるまでちゃんと見届けな」
「困ったなあ、わたしは肉の類はあまり好きじゃないんです。でもわたしなんかよりお孝さんとお勇ちゃんのお世話をお手伝いしてあげてください。近藤先生は赤子の世話は苦手だし…」
「もちろん、今日もこの後は醒ヶ井へ参ります。ほら、せんせはお部屋で休んで。湯冷めしたらあきまへん」
みねに背中を押され、総司は土方が待つ部屋に入った。二人の会話は土方にも聞こえていたようだ。
「まるで母親みたいだな」
「ハハ…私は母の記憶がないので新鮮です。姉ともまた違うような気がするな」
「…おみつさんから返事は?」
総司の病について、手紙で知らせていた。近藤や土方からも心配しないように添えたが、遠く離れた地で前々から危惧していたことが現実になりさぞ落胆しているだろう。
「まだ。…でも姉のことですからいつまでも落ち込んでいないでしょう。そのうち返事が来ますよ」
「そうか…」
この数日で総司を取り巻く状況は一変した。隊にいる誰もが病を知り、隠す必要がなくなった。稽古も基本的には助言だけで実地は永倉や他の剣術師範に任せている。隊務は山崎と組むので安心だが、島田や山野が逐一口うるさいくらいに気遣うのですっかり病人扱いだ。
必要以上に気遣われる環境が煩わしいわけではないが、落ち着かないので引き続き別宅で休むことにした。
総司はみねに言われた通り、湯冷めしないように薄手の羽織を肩から掛けて土方の隣に腰を下ろした。そしてふと彼の手元の手紙が視界に入る。
「…高台寺?」
「ああ、お前には知らせてなかったか。御陵衛士が善立寺から高台寺の月真院に移ったんだ。今度は仮の屯所ではなく、本営になるそうだ」
「へえ…高台寺なんて、風流な伊東先生のお好みなんですかねぇ」
「そうかもな」
総司の呑気な言葉に土方は苦笑しながら手紙を畳んだ。そして不意に総司の頸当たりへ顔を寄せた。
「…薬湯の匂いがするな」
「ああ、わかりますか?おみねさんが用意してくれたみたいで…効能はわかりませんが呼吸が楽になったような気がします」
「悪くない匂いだ」
「土方さんも入ってきたらどうですか?一番風呂を頂いてしまいましたけど」
土方は「そのうちな」と答えつつ、
「そういえば山野が山崎に弟子入りしたいと申し出たそうだ」
「山野君が?」
「勿論お前のためだろう。ただ、今は隊士が少なくなって人手が不足している。ましてや一番隊から減るのは困る…山崎も医学方としては修行中だ、少し待つようにお前から伝えてくれ」
「わかりました。…はは、本当に律儀な子なんです。私の身の回りの世話なんて勿体無い」
真面目な山野は山崎に必死に弟子入りを懇願したのだろう。義理堅い彼がそういえば先日、土方から託された襟巻きについて教えてくれたのだが、
(土方さんには黙っておこう)
「…なんだ?」
「いえ、なんでも。…あ、涼しい風が吹いてきました」
総司は話を逸らしつつ立ち上がり、縁側から庭を眺めた。
夏にしては心地の良い風が流れていく。穏やかで静謐な時間…限りある仮初の幸福が身に染みた。
(…少しでも長く、こうしていられたら良いのに)









682


夏のカラリとした暑さが日々続いていた。
今日は得意の槍の稽古だったが、指南役である原田は身が入らず、ぼんやりとしていた。それは暑さのせいではない。
「おい!」
「ぐえ!」
隊士に混じり、稽古を受けていた井上源三郎が模造の槍で原田の脇腹を刺した。
「いてて…なにすんだよ!」
「ぼんやりしているからだ。好奇心が唆る銃の稽古はさぞ楽しかろうが、槍術師範の本分を忘れてもらっちゃ困る!」
「わかってるけどよ…」
原田はため息をつきながら頭をかく。もちろん銃への興味は尽きないが、悩んでいたのはそのことではない。
総司の病が全隊士に伝えられたのは昨日のことだった。誰もが新撰組随一の剣士が病に犯されたことに驚き、困惑したが、本人は支障のない限りは隊務を続けていくと語ったので現状、目に見えた変化はない。
(あーあ、源さん、また泣いてら…)
気丈に「しっかりしろ!」と原田を叱る井上の目は赤く腫れている。遠縁の親戚であり、試衛館に総司を導いた井上はいまだに子供のように可愛がっていたので、ショックは計り知れない。涙もろい彼はつい先日まで幕臣への昇進で喜びの涙を連日流していたのに、今度は悲しみへと変わってしまった。勿論、それを必死に隠しているようだが。
そんな井上ですら日常を続けようとしているのだから、原田もそうしないわけにはいかない。
「よし!…じゃあ、引き落としと巻き落としの稽古だ!」
「ハイ!」
蒸し暑い道場で隊士たちが稽古槍を打ち交わしている。原田は一周見渡しながら「ん?」と気がつき、一人の隊士に近づいた。
「お前、武田と同室だったよな?稽古は?」
「はっ!…その、まだお休みかと」
「はぁ?こんな時間まで寝てるって?」
「私も声をかけましたが…一晩中魘されていて顔色も悪く…この所、毎晩そんな調子でこちらも参っています」
「…ふうん」
隊士も疲労が溜まっているようだったが原田は腕を組み、ふんと息を吐く。どんな夢を見ているのか知らないが重い病に冒されたほどのことではないだろう。
(いい気なもんだぜ、まったく…)


近藤は「武田君が?」と首を傾げた。原田が耳にしたことはとっくに土方のところにも届いていた。
「具合が悪く寝込んでいるようだ。南部先生にも診てもらったようだがこれと言った原因はなく…気鬱ではないかと」
「まあ…彼には考え込むようなところがある。心配だな」
近藤は同情するようにため息をついたが、土方は
「甘やかすわけにはいかない」
とはっきり述べて続けた。
「ただでさえ扱いづらいのに、武田は降格処分を受けてから様子がおかしい。田中の件にも絡んでいるし、茨木たちに加担したという噂もある」
「何?」
茨木たちの切腹騒動について、近藤は未だに引き摺っているため途端に剣幕が鋭くなった。
「茨木たちに脱走を唆した…とそういう噂があるだけだ」
「噂かどうか、お前なら知っているのだろう?」
「…茨木に近づいたのは事実だ」
土方は今更、過去のことを掘り起こすつもりはなかったので意図的に暈した。近藤は彼らを惜しく思っているようだが、土方には伊東の置き土産である彼らは邪魔な存在だったのでこの結末は決して悪いものではないのだ。
近藤は深くため息をついた。
「それで…どうするつもりだ?お前のことだ、何も確証がないから放置しているのだろう?」
「…武田は隊規違反を犯していない。田中を殺したわけでも、茨木たちと脱走したわけでもない。…だが、奴の行動が甚だ迷惑であることは変わらない。これで更に気がおかしくなったら面倒だろう」
「うむ…」
「気鬱だというのなら丁度良い。…放逐するのはどうだ?」
これまで病の者は除隊処分にしてきた。その中には気鬱の者もいたので決して特別なことではない。
近藤も頷いた。
「…隊の士気を下げるわけにはいかない。俺も賛成する」
「決まりだ。本人に伝える」
「俺から伝えよう。彼には軍師として世話になったところもある」
「ああ、頼む」
土方としては近藤の言うことなら受け入れるだろうという考えもあったので彼が申し出てくれたのは丁度良かった。
近藤は「しかしなぁ」ともう一度ため息をついた。
「武田君のことは仕方ないにしても…このところの分離や脱走で随分隊士が減ってしまった。幕臣に昇進したからこそ兵力は必要だぞ」
「わかってる。もう少し状況が落ち着いたら俺が江戸に募集に行くつもりだ」
故郷の江戸にはまだまだ入隊希望の者がいると義兄から手紙が来ている。幕臣昇進の報せも相まって最近は更に増えているそうだ。
「お前が直々に?」
「他に誰が行くんだ。副長助勤が減って毎日の巡察で手一杯なのに。…それに、おみつさんに用事がある」
「…まだ返事はないのか?」
土方が首を横に振ったので、近藤は顔を顰めた。
「筆まめなおみつさんから音沙汰がないのだから、相当心を痛めているのだろう。総司はなんて?」
「そのうち返事が来るだろうと」
「まったく…」
楽観的な愛弟子に近藤は少し呆れた。しかしもともと距離感のある姉弟であるので、それが互いの本心かどうかはわからない。土方がみつに会いに行くのもそのためなのだろう。
「だったら総司も一緒に江戸に行ってくるか?少し顔を見て話すことができればおみつさんも安心するし、今後のことも理解してくれるだろう」
「言っただろう?人手不足だと…」
「どうにかする。これは大切なことだろう?俺だって時間があれば巡察に加わるぞ」
近藤は胸を張ったが、
「やめてくれ、倒幕派の良い的だ。…わかったよ、少し考えてみる」
土方が折れたので「そうか?」と引き下がったのだった。


同じ頃。
総司は土方の別宅で英の診察を受けていた。
「これ、咳止めはそろそろ無くなるだろうと姉さんが」
診察を終え、総司は加也からだという薬を受け取った。
「ありがとうございました」
「悪くなっていないようで良かった。やはり隠し事は体に良くないらしい」
「そうみたいですね」
周囲の人間に気を遣わせているという憂いは多少あったが、「吐血してはならない」と常に緊張感を持ち続けていた頃に比べると心労は減った。それが身体を楽にしているのだろう。
「あ、熱冷ましを忘れた」
英は持参した風呂敷を広げ、あちこちと探すが見つからないらしい。
「ああ…持って来るのを忘れたみたいだ、取りに帰って来るよ」
「だったら散歩がてらご一緒しますよ。お加也さんにはまた小言を頂戴するのでしょうけど、松本先生や南部先生にもお会いしたいし」
「悪いね」
二人は連れ立って別宅を出て、南部の診療所へと歩き出した。
夕方になってようやく日差しは陰った。長く伸びる影を追うように二人で歩く。
「屯所は不動堂に移転したらしいね」
「ええ、立派なお屋敷ですよ。一度いらっしゃってください」
「嫌だよ、いくら立派でも新築で綺麗でも鬼の巣窟に違いないじゃないか」
英は半ば茶化しながら拒んだ。
彼の横顔が橙色の夕陽に照らされてその端正さが際立つ。その昔、陰間として名を馳せた『宗三郎』の面影はどこにもなく、冗談を口にする姿は何にも縛られず無邪気だった。
「…斉藤さんは、お元気ですか?」
総司は何の気なしに尋ねたのだが、英は「何で?」と問い返す。
「いえ…御陵衛士と新撰組は面会も禁じられているので」
「…元気だよ、たぶん。でも沖田さんのことを気にしていた」
「…斉藤さんは勘の良い人ですから」
「そうかな。肝心な所は見過ごす間抜けだと思うけれど」
英のあっけらかんとした言葉に総司は驚いた。総司はそんなふうに思ったことは一度もなかったのだ。
「間抜け…ですか?斉藤さんのことをそう言う人は初めてです」
「ふふ」
英は笑って茶を濁して、それ以上は言わなかった。
そうしているうちに診療所にたどり着く。夏風邪が流行っているせいかひっきりなしに患者が出入りしていた。残念ながら松本も南部の姿もない。
「はい、熱冷まし。悪いけど手伝って来るからここで」
「ええ、ありがとうございます」
「気をつけて」
英と別れ、総司は診療所を後にした。
あっという間に陽は落ちて、星の瞬く夜がやって来る。
(屯所に戻ろう)
診療所から別宅に戻るよりも屯所の方が近い。総司は足早に歩き出したのだが、
「あっ」
という言葉が聞こえて、自然とそちらに目を向けた。
「…藤堂君…」






683


藤堂と目があったとき、互いに気まずさを感じていた。
(…えっと、素通りした方が良いんだっけ…?)
敵対関係ではないが、分派した別組織。喧嘩する理由もないが仲良くする必要もない。けれど長く同じ釜の飯を食べてきた間柄である彼を無視することはできなかった。
「…お元気ですか?」
総司がおずおずと声をかけると
「えっと…元気です、皆…」
藤堂も困ったように答えた。
ちょうど夕暮れ時で立ち話をしても目立つことはない。
「…ああ、御陵衛士は高台寺に移られたんですよね。きっと伊東先生のお好みの風光明媚な屯所なんでしょうね」
「ハハ…たしかに先生も移転してから機嫌が良いです。新撰組こそ新しい屯所に引っ越ししたんですよね」
「個室なんて立派なものを与えられて困ってるんです」
「それは羨ましいなぁ」
話しているうちに自然と昔のような空気感に戻っていく。試衛館でも年下組だった二人はもともとは軽口を言い合っていた間柄だったのだ。
藤堂は「実は」と少し躊躇いながら頭をかいた。
「…俺、何度か新しい屯所の前をうろうろしたんですよ。門番に見つかりそうになったりして。…とても立派でどこかの藩のお屋敷みたいで…試衛館なんて犬小屋みたいに小さい所からあんな大きな屯所なんてすごいです。皆んなが幕臣に出世して、本当に良かったと思ってます」
「藤堂君…」
「本当はお祝いをしたいくらいでしたが、さすがに今の立場ではできなくって、斉藤さんと隠れて乾杯したんです」
藤堂の表情は薄暗闇でもわかるくらい朗らかだった。分離前、悲壮感と倦怠感に溢れていた彼はもう目の前にはいない。
「色々ありましたけど、今は新天地で楽しくやってます。近藤先生にそう伝えてもらえますか?」
「…わかりました」
彼との別れはとても惜しく虚しかったが、彼にとって良いことだったのだろう。過去のしがらみから距離を置いてまた新たな居場所を得たのだ。
藤堂は「あんまり立ち話もできませんね」と周囲を気にしながら
「身体の具合が悪いんですか?」
と突然どきりとするようなことを尋ねてきた。
「…どうしてですか?」
「どうしてって、すぐ先には南部先生の診療所があるし、薬を抱えているじゃないですか。それに…少し痩せましたか?」
「…ちょっと夏風邪を引いたんです。屯所にも何人か寝込んでいるんですよ」
笑って誤魔化すと、藤堂も「そうですか」と納得してくれた。
「じゃあお身体に気をつけて、俺はそろそろ行きますから。…またこんな風に偶然出会ったら、声を掛けても良いですか?」
藤堂は少し甘えるように微笑む。御陵衛士とは距離を置くように言われているが、かつての仲間を無碍に遠ざけることはできなかった。総司の中でもまだ彼は『試衛館食客』なのだ。
「勿論です」
「良かった」
藤堂は嬉しそうに喜んで、手を振って去って行った。
偶然の再会は思っていたほどの戸惑いもなく、穏やかで優しい時間だった。何よりも藤堂がかつての仲間の出世を心から喜んでくれていることが有難かった。


夜。
蝋燭の灯りがゆらゆらと揺れている。武田はそれをずっと見つめていた…一刻、いや二刻はそうしているので、同室の隊士は気味悪がって部屋を出て行ってしまった。
眠れない夜が続いていた。ついに昨晩は茨木が夢に出てきた。
『何故一緒についてきてくれなかったのか』
『何故自分達に近づいたのか』
『何故自分が死んで、お前が生きているのか』
『何故…』
延々と詰問を繰り返されるのに、武田は夢の中で口は塞がれ手を縛られていた。まるで拷問のように責められ、抵抗を許されずまるで真綿で首を絞められているような地獄だった。
そして目が覚めたとて、その地獄が続いているかのように気が滅入り食事も喉を通らない。馬越や茨木の言葉が脳裏を過りまるでお経のように繰り返されるのだ。
何度も何度も反芻される。
ゆらゆら、何処からか入り込んだ隙間風で炎が揺れている。蝋が溶け小さくなっていくのをただ見ていると、次第に現実と夢の境界が見えなくなっていく。
「…やっと、貴様が来たのか…」
小さな灯りの向こうに、田中の姿が見えた。はっきりとはしていないからきっと幻覚なのだと頭ではわかっていた。
『俺たちの通る道は、同じだ。そう言っただろう?』
「…戯言だ」
『戯言などではない。現に、貴様は狂いかけている。密告で俺を殺し、間違った策で茨木たちを殺し…きっと直接殺した方がまだマシだったであろうな』
「煩い…」
『身につまされるだろう。これが現実だ…お前は同じ末路を行く』
「煩い!そんなわけがあるか!拙者は…死なぬ!」
武田は叫ぶ。しかし耳を塞いでも彼の囁きは聞こえてくる。
『生にしがみつくその執着心は、俺とは違うな。生き恥を晒して、何と無様な』
「貴様に何がわかる!」
『わからぬ。だが…もう貴様が潮時だというのは、わかる』
「黙れ黙れ黙れ…ッ」
武田は咄嗟に脇差を抜き振り翳した。死んだはずの目の前の亡霊を何が何でも殺したかった。
しかしその刀は簡単に弾かれて手元から離れていった。もちろん亡霊であり妄想でしかない田中がそうしたのではない。
「武田君!しっかりしたまえ!」
「……きょ…局長…」
刀を弾き飛ばしたのは近藤だった。いつの間にか目の前にいて武田の両肩を掴み、何度も揺さぶっていた。その背後では少し呆れたように腕を組んだ土方が立っていて
「新築の屯所を早速傷つけるつもりか」
と嫌味を吐いた。
武田はぼんやりとしながら周囲を見渡した。当然、田中の姿はない。
「一体誰と話していたんだ?」
「そ、…それは、わかりません…」
彼らが一体いつからそこにいたのかわからないが、死んだはずの田中だと答えることなどできずに俯いた。
近藤は行燈に火を灯し、改めて項垂れる武田の前に膝を折った。
「…武田君、話があって来た。君はこの所、寝込んでいるそうだね、南部先生から気鬱だと聞いている」
「気鬱…」
そう言われても武田はピンと来なかった。この後に及んでも自分は正気だと信じていたのだ。
近藤は続けた。
「思い悩むことは多いだろう。しかし任務をこなせないとなると他の隊士の士気に関わる。特に君は副長助勤だったのだから目立つ存在だ…だから、どうだろう?隊を出るというのは」
「は…」
「気鬱で除隊になった者もいる。気に病むことはない…というのは変な言い回しになってしまうが、君の今までの功労を認めた上で除隊を提案したい」
遠回しでオブラートに包んだ物言いだが、背後に控える土方の不穏な雰囲気で彼らが何を言いたいのか察することができる。
役立たずは出て行けと言っているのだ。
「…拙者は、不要だと…」
「不要などという言い方は良くない。君には散々世話になった…だが、此処にいては病も良くならぬ」
「…」
武田はグッと唇を噛んだ。そして目の前の近藤、不遜に立つ土方を見据えた。
「はっきりと言えば宜しい。邪魔者であると!」
「武田君…」
「時代遅れの無能な軍師は隊には不要、そう皆が思っているのはわかっておる!」
「これでも譲歩している」
土方の重たい言葉が、武田を止めた。
顔を歪めた近藤に対し、表情一つ変えずに続けた。
「密かに茨木たちに近づき、脱走に関わった…この件についてこれ以上追求されたいか?」
「…そ、それは…!」
「除隊はこれまでの働きを加味した上での『処分』だ」
土方の容赦ない宣告が武田の自尊心を一刀両断に切り捨てた。これは優しい提案などではなく、最後通牒だ。除隊と切腹のどちらかを選べといっている。
屈辱的だと感じると同時に、しかし安堵感があった。
(もう、死に怯えなくて済むのか…?)
夢の中で彼らに…いや、自分自身で『生き恥を晒している』ような生き方に限界を感じていたのは確かだ。近藤や土方の言い分は突然の解雇であり脅しだが、殺されることに比べれば些細なことでしかない。
(死ぬのは嫌だ)
敵うはずのない二人に抗えば必ずその先は死であり、田中と同じ末路を辿ることになってしまう。
(生き延びれば拙者の勝ちだ…!)
武田は言葉を飲み込んで両手をついた。そして深々と頭を下げて
「…かしこまりました…」
と除隊を受け入れることにした。近藤は「良かった」と安堵したように言ったけれど、土方はただ侮蔑の眼差しを武田に向けただけで何も言わなかった。








684


「…除隊ですか…」
巡察を終えた総司が土方の元に報告へ向かうと、彼はまるでせいせいしたと言わんばかりに頷いた。
武田は朝早くに荷物をまとめて屯所を出たのだ。
「気鬱で使い物にならないし、田中や茨木の件で信用も失っている…潮時だ」
「…でも、此処を出て宛があるんでしょうか?御陵衛士に合流されたりしたら面倒なことに…」
「あんな扱いづらい奴を伊東が仲間に引き入れるとは思えないが、合流するならすれば良いさ」
土方は関わり合いになりたくないようで吐き捨てた。彼のいうように去っていった武田を心配する義理はないのだが、あれほど隊での出世を望み媚び諂ってきた彼があっさりと身を引いたことが意外だったのだ。しかしこだわる理由もない。
「…まあ、近藤先生がご納得されたのなら構いません」
「それより藤堂に会ったんだろ?」
突然、昨日のことを持ち出され総司は驚いた。
「…監察から報告が?」
「まあな。そもそも藤堂は監察との定期的な報告をした後、お前に会ったんだ。だから近くに監察がいた」
「ああ、なるほど」
監察がいつから尾行していたのかと勘繰ったが、そうではなかったらしい。
「どんな話をした?」
「どんなって…世間話です。互いに屯所を移して…新天地で楽しくやっていることを近藤先生に伝えてほしいと」
「それだけか?」
「…そうです」
土方は何を疑ったのだろう。総司としては懐かしい友人との何気ない再会でしかなかったのだが、土方にとっては疑うべき敵との遭遇だったのだろうか。
(仕方ないとは言え…なんだか寂しいな)
「…今度藤堂にあっても構うなよ」
「何故ですか?」
「あいつは御陵衛士だ。隊士たちにも近づかないように言っている」
「でも、藤堂君はこちらとの橋渡し役だし…試衛館の食客です」
「…いいから、近づくな」
土方は都合が悪くなったのか話を切り上げて背中を向け、文机で筆を取った。
総司は納得できない気持ちを抱えつつ、すぐ近くの近藤の部屋へ向かう。
藤堂と再会したこと、そして幕臣への昇進を心から喜んでいたことを伝えた。
「…そうか。やはりみんなで祝いたかったなぁ」
近藤はしみじみと受け取りながら、「どうした?」と尋ねた。総司の顔色が優れなかったことに気がついたのだろう。
「…土方さんに、藤堂君には会うなと言われました。彼は新撰組との橋渡し役なんですよね?」
「まあ…そうだな」
「積極的に仲良くするわけではなくて、会えば立ち話くらいは…」
「歳はそういうことを心配しているんじゃないと思うぞ」
近藤は穏やかに笑った。幼馴染の考えも弟弟子の憤慨もすぐに察したのだろう。
「まったく、俺はこの頃あいつの伝言役のようだよ。言葉足らずで困るな。…きっと歳はお前の病が御陵衛士に露見するのを警戒しているんだ」
「…藤堂君は誰彼かまわず言いふらすような人では…」
「勿論その通りだが、彼の今の上司は伊東先生だ。見聞きしたことを報告する義務があるだろう。もし伊東先生の耳に入り倒幕派などに伝わったらどうする?お前の身が危険に晒されるだろう」
「…」
「歳はずっと先の、いろんな可能性を考えているんだ。歳は平助のことを信頼していないわけじゃない、だが病を知れば彼は御陵衛士と新撰組の板挟みになるだろうし、余計な負担をかける。歳なりにお前や平助のことを思っての言葉だと思うぞ」
試衛館食客という思い出を共有していても、今の立場は違う。土方は「構うな」と藤堂を遠ざける言い方をしたけれど、それは彼を守るためでもありそこに仲間としての思いやりがあったのだ。
「…私の考えが足りませんでした」
短絡的だった、と総司は反省した。久々の再会で舞い上がってしまったのだろう。しかし
「逐一説明しない歳が悪いんだ」
近藤は笑い飛ばした。


夏の盛りとなり蝉の声があちこちで聞こえるようになった。
鈴木は月真院の庭をぼんやりと眺めていた。新撰組を離れて数ヶ月、あちこちと仮の屯所を経て此処に落ち着いたが優雅な佇まいは相変わらず見慣れなかった。
しかし一方で兄である伊東は日々忙しない。
(兄上は解き放たれたかのようだ)
新撰組にいた頃に抑圧されていた報国の志を滾らせるように、精力的な活動を続けている。詳細はあまり明らかにしないが、倒幕派や勤王の大物たちに次々と面会し、長州寛典の建白書の提出を画策、近いうちに再び太宰府へ足を運ぶそうだ。
御陵衛士たちは伊東の活動に同行することもあるが、鈴木は相変わらず蚊帳の外のままで、屯所の警備などをして時間を潰していた。新撰組に比べれば緊張感のない屯所だ。
鈴木は有り余る時間のせいか、時々古巣のことを考えていた。組長として数名の配下を従えていたが、急に新撰組を去ることになってしまい十分な別れができなかった。そして
(…あのひとはどうしているだろうか…)
鈴木は総司のことを思い出していた。もともと勝手な感傷から遠ざけていたが、労咳だと知り素直に不憫だと思った。華やかな天才剣士が病に蝕まれているという不運な状況がその後どうなっているのか…気がかりだった。
(まだ隠し通しているのか…土方や近藤は気がついたのだろうか…)
新撰組の剣客が労咳ともなれば噂は瞬く間に広まるだろう。きっとまだ隠し通しているのだろうかと考えていると、
「鈴木さん」
声をかけられそちらに視線をやると、斉藤がいた。
「…何か?」
「伊東先生はどちらへ?」
「わかりません」
「…」
鈴木の冷たい返答に対して斉藤は表情一つ変えなかった。
御陵衛士として分離してしばらく経つ。兄は斉藤を重用し彼自身も期待に応える働きをしているようだが、未だに鈴木は仲間として受け入れていなかった。
幕府や会津とつながり、土方の片腕として働き、今は御陵衛士の一員…何重もの仮面を被っているかのようだ。きっと今だってそうに違いない。
(兄上は一体この男のどこを信頼できるというのか…)
「では、内海さんはどちらへ?」
「…御寺の住職に用向きがあると、出て行きました」
「そうか…」
至急の用事ではないようで、斉藤はその場に留まり鈴木と同じように庭を眺めた。当然鈴木には居心地が悪く、離れようとしたのだが突然、遠くから
「誰か!誰か来てください!」
という藤堂の叫び声がして二人は同時に駆け出した。

向かった門前では困惑する藤堂と刀を抜いた武田がいた。鈴木は咄嗟に刀を抜いたが斉藤に「早まるな」と止められてしまった。
「何を悠長な!この者は新撰組隊士で…!」
「新撰組と揉めるわけにはいかない。それに…」
斉藤は「見ろ」と言わんばかりに顎で指した。武田は両手で刀を構えているものの、目が虚ろで視線は泳ぎ、紫に染まった唇はまるで魚のようにぱくぱくとしていてとても正気ではない。
藤堂もそれに気がついたから刀を抜いていなかったのだ。両手を前に出し、静止させようとする。
「武田先生、落ち着いてください。ここは御陵衛士の屯所です…ことを起こせば大事になります。それは互いのためになりません」
「か、構わぬ…拙者は、…拙者は、隊士ではないのだ…」
「え?」
藤堂は少し驚いたが、武田は続けた。
「拙者を…御陵衛士に……叶わぬなら、このまま死ぬ…」
「…それは…」
困惑する藤堂が斉藤と鈴木に視線を向けた。新撰組隊士の受け入れは禁じられているし、何より会話を交わせないほど正気ではない武田を受け入れられるはずもなかった。
斉藤が一歩前に踏み出した。
「…伊東先生は外出されている。出直されよ」
「嘘をつくな!…拙者が茨木たちを殺したとお疑いなのだろう?!断じて違う!」
「何も言っていない」
「違うのだ!まさか切腹するなど思いもよらず!」
「良いから今日は立ち去れ。…さもなくばこの刀を抜くことになる」
斉藤が語気を強めると、武田は怯み後ずさる。さらに青ざめて剣先がカタカタと震えた。
その時、
「何事です?」
外出していた伊東が戻ってきた。抜刀した武田はその姿を見るやハッと顔色を変えた。そして突然怒鳴った。
「伊東先生!何故、彼らを見捨てたのです…!」
「なんの話だ」
「何故救いの手を差し伸べなかった!四人は無駄死にした!若く優秀な…我々を先生は認めてくださったではありませんか!」
「…」
「貴方は、私を一番信じていると言った!だから助けてくれると思ったのに…!」
金切り声のような叫びの後、武田は伊東へと駆け出して刀を振り上げる。先ほどまでと同じ人物とは思えないほど俊敏な動きで、三人は出遅れた。
「兄上っ!」
鈴木は慌てて後を追ったが、伊東はサッと身を翻しながら刀を抜き応戦した。
斉藤は目を見張った。軍師を自称し剣術を不得意としていたはずなのに、武田は伊東と互角に相対している…まるで誰か別の人物のように。
しかしそれでも伊東には敵わず、武田はその場に叩きつけられるようにして倒れ込んで動かなくなった。








685


伊東は一息付き、刀を鞘に収めた。藤堂と鈴木が駆け寄り、斉藤は武田が気を失っていることを確認する。
「一体何事だ。何故この男が単独で奇襲など仕掛けてくるのだ」
伊東が剣幕を鋭くして尋ねるが、明確に答えられる者はいない。唯一経緯を知るのは藤堂だけだ。
「…突然、来訪し…先生に会うまでは帰らぬと一点張りでした。尋常ではない様子だったので説得しましたが抜刀し…二人が駆けつけてくれました」
「新撰組の命令か?」
「いえ…わかりませんが、さきほど自分は隊士ではないと口走りました。御陵衛士に加えろと…自分にはその資格があるとか、なんとか。でも明確なことは分かりません」
藤堂はちらりと鈴木へ視線を向けるがそれ以上のことはわかるはずもない。伊東は深くため息をついた。
「…まず、武田君が新撰組隊士なのかそうではないのか確認せねばならぬ。本人は正気ではないようだが、隊士ではないという言葉を鵜呑みにしては揉め事の種になるかもしれぬ。面倒だが無下に扱えないな。…藤堂君、新撰組へ確認を頼む」
「わかりました!」
「鈴木、この男をどこか適当な場所に閉じ込めておきなさい」
「はい」
伊東は的確に二人に指示を出しこの場を去らせると、残った斉藤に近づいた。
「…気が触れていたとは言え、解せぬことが沢山ある。君もそう思うだろう?」
「はい。武田が隊士なのかどうなのかはともかく、気になるのは奴が途中から『拙者』から『私』へと一人称を変え口調もどことなく違ったことです。それに…武田には先生と互角で渡り合えるほどの剣術の才能もなければ度胸もないはずです」
「奇妙な話だ。まるで…」
「誰かが憑依したかのようでした」
答えが同じだったのだろう、伊東はお得意の扇を取り出して口元を隠しつつ苦笑した。
「斉藤君、『誰か』なんて濁さなくても良い。私が信じていると言いながら見殺しにしたのは茨木だけだ」
「…」
斉藤は何も答えられなかった。
死んだ茨木が武田に憑依して襲ったのか。
思い出してみれば先ほどの武田の剣筋は茨木のそれによく似ていた気がするのだが、それを認めるのは憚られた。
「…俺は、そういうことは一切信じないタチです。神も霊も、何もかも気のせいだと」
武田が自責の念に駆られ追い詰められ、妄想に取り憑かれた。茨木を模倣することで自分を慰めた…そんなふうに考える方が自然だと斉藤は思う。
しかし伊東は
「私は死者が憑依したとしても驚かないよ」
と意外にも霊の類を信じていると言った。
「茨木は剣術にも柔術にも優れて頭も良かったが、驚くほどに真面目だった。そんな彼が死した後全てを悟り私を恨んだとしても仕方ないね」
伊東は涼しい顔のままで意図は読み取れない。
斉藤は不毛な話を切り上げて
「それで、武田はどうしますか?」
と尋ねた。藤堂と鈴木を遠ざけたのはここからが本題だと思ったのだ。
伊東は「ふふ」と少し笑った。
「聡い君ならもうわかっているのだろう」
「…間違っていたら困ります。指示を」
「私は亡霊に怯えるのは御免だよ。…彼が新撰組隊士ではないというのなら、目障りだから殺してくれ」
「わかりました」
斉藤が頷くと、伊東は扇を懐に戻して「なるべく早く頼む」と添えて屯所に入った。



この日の夜の巡察は総司と山崎の組だったのだが、出発前に土方がやってきて「話がある」と引き止めた。
「今、藤堂から知らせがあった。…放逐した武田が月真院で伊東を奇襲したそうだ」
「武田先生が?」
「まさか!」
総司も山崎も思わぬことに声を上げてしまった。土方も難しい顔をしている。
「もちろん返り討ちにあって意識を失い、今は拘束しているそうだ。…本人はもう隊士ではないと名乗ったそうだが、それが本当かどうか確かめたいということだった。武田は正気を失った様子でまともに会話ができる状態ではないらしい」
「…」
予想外の展開で総司は言葉が出てこないが、状況をよく知るであろう山崎は矢継ぎ早に質問した。
「伊東せんせは武田をどうするおつもりで?」
「もし隊士ではないなら一度は情けをかけて今夜中に解放するつもりだと、藤堂は知らせてきた。御陵衛士も奴に関わりたくはないのだろう。もちろん隊士ではないと伝えている」
「はっ…放逐したのは良い判断でしたな。これでもし奴が未だに隊士の身やったら、御陵衛士と全面戦争や…」
山崎は笑えない冗談だと吐き捨てる。しかし実際、彼のいう通り御陵衛士の伊東に新撰組が刃を向けたとなれば大ごとだっただろう。
総司は空を見上げた。夏の夜は短いとはいえもう日は暮れている。
「今夜中に、ということはもう…?」
「恐らく今頃、知らせが届いて追い出されているだろう。…お前たちには武田の行方を追ってほしい。もちろん監察にも協力させる」
「それで、斬りますか?」
山崎が尋ねると土方は「ああ」とあっさり頷いた。
「新撰組を放逐したとは言え、副長助勤であった者が状況が見えず正気を失っているなんて、放っておけない。何かあればこちらの名誉に関わる」
以前なら「放っておけ」と捨て置いたかもしれないがいま新撰組は幕臣という立場がある故の土方の慎重な判断だった。
「できれば今夜中に仕留めたいが…無理はしなくて良い。お前たちだけでは人数が足りないだろうから、応援に向かわせる」
「わかりました」
総司と山崎は早速、隊士の元へ向かい簡単に事情を説明してすぐに屯所を出た。向かう先は月真院のある高台寺に程近い祇園周辺だ。あちこちの店は活気があり夜とは思えぬほど明るい。
「でも伊東先生を襲うほど気がおかしくなっているなんて…どうしてしまったんでしょう」
「さあ、実際のところは…。でもわかる気がしますな。古参隊士として順調に出世を果たしてきたのに、お得意の軍学も廃れてあっけなく転落、そして隊を追い出され…しょうもない自尊心が傷付けられたんでしょ」
「そういうものですか…」
総司は軽く咳をした。山崎が尋ねる前に「ただの咳払いです」と答えて無用な心配をしないように首を横に振った。彼は
「はよう終わらせて屯所に帰りましょ」
と改めて周囲を見渡した。

同じ夜。
「どこへ?」
斉藤は月真院の門前で鈴木に引き止められた。気配を消して外に出たはずなので彼はここで斉藤が出てくるのを待っていたのだろう。
「…答える必要が?」
「武田は追い出しました。兄上はこれ以上の関わりは無用だと皆に通達しています」
意識を取り戻した武田は、気を失う前の威勢がなくなり尻尾を巻いた仔犬のようになっていた。御陵衛士たちは伊東が襲われたと知り立腹していたが、武田がすでに新撰組隊士ではないことや、言葉少なく縮こまりながら弁明するのですっかり戦意も削がれてしまった。結局、二度と月真院に近づかないことを約束させて追い出したのだ。
しかし斉藤は彼を斬るように命令を受けていた。鈴木はそのことを悟っているようにこちらを見据えていたので、深いため息をついた。
「…鈴木さん、これは俺の仕事だ。あんたが関わる必要はない」
「そうはいかない。あの男が正気を失っていようが、気が狂っていようが、俺の眼の前で兄上に斬りかかったのは間違いない。それは俺には許せない」
鈴木の眼差しは武田とは別の意味で昂っているように見えた。傍目には冷めた兄弟の間柄に見えるが、弟が兄を想う気持ちはただの兄弟愛ではなさそうだ。
「…好きにしろ」
斉藤は東大路の坂を下る。数歩離れて鈴木の足音が聞こえてきた。
(面倒だが、時間がない)
斉藤は祇園の町へ急いだ。








686


総司は島田、山野を伴って祇園の街を駆け回っていた。他の隊士は別のルートから探索し、山崎たちは元監察のノウハウを活かして隠れ蓑になりそうな料亭や宿をあたることになった。
「先生、少し休まれた方が」
「大丈夫です、ご心配なく」
総司が少し息が上がったのを山野は心配したが、武田を逃すわけにはいかない。
「武田先生がヤケを起こして民を傷つけるようなことがあっては新撰組の名に傷が付きます。できるだけ早く見つけないと」
総司は気が急いていた。人通りの多い祇園で武田を見つけるのは容易ではないのだ。
しかし、山野の隣に並ぶ島田は彼らしくなく覇気がなかった。
「島田さん?」
「…すみません、その…自分は未だに信じられないのです。武田先生がこんな事をしでかすなんて」
島田が同情めいたことを漏らすと、山野はこの期に及んで、と少し呆れた。
「先輩、あの方はいつも威張って踏ん反り返って、高慢だったじゃないですか。それが副長助勤を外されて脱退処分になって…出世するはずだったところから転落して、気がおかしくなってしまったんですよ」
よほど評判が悪かったのか山野にしては辛辣だ。しかしほとんどの隊士は同じことを思っているし、この状況をいい気味だと心のなかで嘲笑しているだろう。
だが島田は違った。
「…自分は武田先生とは同じ頃に入隊した同期です。それ故の贔屓目かもしれませんが…元々はああいう人ではなかったのです、壬生にいた頃は得意の軍学を武器にこの国のために働きたいのだと言って飲み交わしたこともあります」
「でも先輩…」
「わかっている。今は山野の言う通り隊士を邪険に扱って評判も悪く、この結果は己の不徳が招いた。だが…この間、話をした時に言っていたんだ、本来は上昇志向があるわけではないと」
「だったらどうして!」
どうしてこんなことになってしまったのか。隊士たちから嫌われ、自棄になってこんなにも自分を追い詰めてしまったのはどうしてなのか。
山野が尋ねると、島田は首を横に振った。
「…本当のところはわからん。だが…死にたくないと言っていた。自分たちは古参で沢山の仲間の死を見てきた…けれど生き延びてきたのは自分に自信があったからです。自分の実力が新撰組の役に立つはずだという自信が支えとなった。…しかし…剣術の腕に劣る故に軍学を武器に戦ってきた武田先生にとって、それを古臭いと揶揄され使い物にならないと降格されたこと…それは、我々にとって剣が持てなくなるのと同じなのではないか。…自分はそう思うのです」
「…」
山野は言葉を失った。総司も足を止めて島田の言葉に耳を傾ける。
「自分の居場所を無くし、もがいていたのではないかと思うのです。田中の件、茨木の件…真実は誰にもわからないことですが、どうにか生き延びようと懸命だった…それが不器用なやり方だったのだろうと自分にはそのように思うのです」
「…」
総司と山野は黙り込んだ。島田の語る武田はとても人間味のある人物だ。もちろん彼自身が言った通り同期として肩を持っているだけかもしれないが、島田にとって殺すという選択肢は安易で納得できないものなのだろう。
「だからこそ今回の件は少し解せません…御陵衛士の屯所に乗り込むなんて、そんな命知らずなことをする人ではないのです。武田先生の本当のお考えは何だったのか…」
「…だったら尚のこと、武田先生を探して出さねばなりません」
「でも、土方副長は…!」
見つけ次第斬るように命令が出ていた。島田はずっと思い悩んでいたのだ。
総司は励ますように彼の背中を軽く叩いた。
「武田先生を見つけ出して様子を確認しましょう。正気を失っているようなら土方さんの言う通りにしなければなりません。でももし、あなたの言葉が通じるなら…話が通じる余地があるなら私から土方さんに進言してみます」
まだ救いがあるのなら、島田の信じた通りなら、手を差し伸べることはできるかもしれない。
「ありがとうございます!」
島田は喜び、その目を輝かせる。長く生活を共にしてきた同期の隊士として簡単に見捨てることができないのは彼らしい。
山野はおずおずと「すみません」と出過ぎたことを詫びたがそんなことを気にする島田ではない。
「さあ行きましょう!」
島田は先頭を駆け出した。


目を覚ました途端、御陵衛士の面々に囲まれて武田は混乱した。身体を縛られた自分はこのまま嬲り殺されるのではないかという威勢だったが、詰問に対して気弱に答えると次第に彼らの戦意は削がれ、最後は伊東の指示によって門外へ投げ捨てられた。
武田の記憶は曖昧だった。新撰組から放逐され安心していたはずなのに、どうしても都を離れる気になれずせめて茨木たちの無念を訴えるべく、伊東を訪ねた。ところがまともに取り合ってもらえず頭が沸騰するように興奮し…気がつけば捕われていた。
「くっ…」
頭がガンガンと痛む。高台寺を離れれば離れるほど身体中が気怠くなり、やがて歩けなくなった。
動悸と息切れに苦しみながら座り込んだ先は、墓地だった。長く手入れされていないのか無縁仏ばかりの墓石が並び、暗く澱んだその場所へ辿り着いた意味を考えた時に、武田ははっきりと自覚した。
「無念か…無念であろうな…」
茨木は成仏していないのだ。この身に宿り、この世に残した憎しみを晴らそうとして、御陵衛士の屯所に押しかけ伊東に刃を向けたのだ。
「そうだ、そうに違いない…拙者の意思ではないのだ、気鬱であるものか医者の誤診に決まっている拙者は狂ってなどおらぬ狂っているのは周りだ拙者は何も悪くない悪くないのだ…」
『ついにおかしくなったか』
その声を聞いた途端、背筋が震えた。ゾクゾクと冷たいものが身体中を走るようだ。
墓石に座り、田中がこちらを見ていた。
「貴様はまた来たのか!」
『遅いではないか、待ちくたびれているのだぞ』
「馬鹿を言うな拙者はそちらには行かぬ死ぬはずがあるまい死ぬ理由があるまい」
『お前に霊など取り憑いてはおらぬ。自分にそう言い聞かせて暗示をかけているだけだ』
「馬鹿を言うな馬鹿を言うな馬鹿を言うな馬鹿を言うな」
『話にならぬ』
田中は呆れたようにため息をついた。蹲り頭を抱えてぶつぶつと喋り続ける姿は滑稽で狂っていて手に負えない。
『もうこれが最後だ』
「ああせいせいする!貴様の顔など二度と見たくはない!」
『死に様とは生き様だ。茨木たちの切腹は立派であったぞ』
「…!」
その言葉のあと、プツッと田中の気配は無くなった。武田は不気味な墓地で立ち尽くし何故か「田中ァッ!」と叫んだ。その声は墓地に響き渡りこだまして跳ね返ってくる。
そして、
「そんなところで何をしている?」
と尋ねられた。聞き覚えがあったがすぐに声の主はわからない。しかし今宵は満月で月が眩しくその者の顔を照らし出していた。
「…斉藤…」
無表情のまま武田を見据えていたのは斉藤で、その背後にははっきりとした敵意を剥き出しにした鈴木の姿があった。
それまで混乱していた武田の頭が急に冴えて動き出した。斉藤という男は土方や他の誰かの命令で密かに何人も手に掛けてきた…こんな夜に目の前に現れればその意味はわかる。
わなわなと唇が震えた。
「…拙者は…許されたはずでは…!」
「伊東先生に刀を向けたのだ、許されるはずがない」
「…っ!」
武田は立ち上がり刀を構えた。すると鈴木も抜刀し
「何故兄上を狙った!」
と怒鳴る。
「…ッ、茨木たちの無念を晴らすためである!」
「彼らは切腹したのだ、兄上に何の関係がある!?」
「事情を知らぬ者は黙っておれ!」
武田が吐き捨てると、鈴木はグッと言葉を飲み込んだ…その隙に武田は背中を向けて逃げ出した。あちこちに並ぶ墓石の合間を走り抜け、二人の追手から必死に懸命に逃げた。
そして墓地を抜けた先は、別世界のように賑やかな祇園の街だ。
「はっ、はは!ここまでくれば!」
(人混みに紛れれば逃げ切れる…!)
あと少し……そう思った時、
「ぐあっ!」
背中に熱いものを感じ、そのまま転がった。肩口に感じる火傷のような痛み…しかしそれを武田は知っている。かつての部下に正面から斬られた時と同じだったからだ。
(斬られた斬られた斬られた…!)
「さ…ッ、斉藤ぉオオ!」
「勘違いするな。不気味な墓地で殺すのは気が滅入るからここまで泳がせただけだ」
逃げおおせたのではなく、逃されていた。斉藤は涼しい顔をして剣先を武田の喉元に突きつける。
そうしていると追ってきた鈴木も合流した。
相手は二人、身体は動かず逃げ場もなく追い詰められた。
「ま、待ってくれ…」
「ああ、待ってやる。俺と伊東先生の弟、どちらに斬られるのが良いか選ばせてやる」
「何故拙者が死なねばならんのだッ!!」
青ざめながらも武田は渾身の力で叫んだ。
何故だ、何故だ、なぜ…何故こんなことになった?
怒りや憎しみ、後悔、憤り…震えるほど感情が高まった。
「拙者が何をしたと言うのだ?!誰の命を奪った?誰に傷をつけた?!どんな道理があるというのだ!」
「…」
「ハハッ答えられぬのか!野蛮な暗殺者め!」
精一杯の皮肉も斉藤は右から左へと受け流し、さらにその剣先を喉元へと押し込んだ。
「…まっ、待たれよ…!」
「決まったか?」
『死に様とは生き様だ』
無慈悲な宣告とともに、脳裏には田中の最後の言葉が浮かんだ。
田中は死んだーーー何の言い訳もせず。
茨木は死んだーーー生き延びる選択をせず。
では自分は?
自分の選ぶ死に様は…生き様は。
『大丈夫』
「……」
『大丈夫』
突然、優しい声が響く。それは妄想ではない。
馬越は武田が昏睡している間に去った。彼がどう言う事情で新撰組を離れたのかはいまだにわからないが、彼がそう言いながら看病をしてくれたことは夢ではないと信じていた。
昏睡しながらもまるで子供をあやす母親のような何度も励ます声が耳に届いていた。
そうだ……『大丈夫』だったのに。
もっと自分にそう言い聞かせればよかった。剣の腕に劣り、時代にそぐわない軍学で身を立てるしかなかった自分はいつのまにか卑屈になって孤独になって、ずっと不安だった。
(拙者を殺したのは、拙者自身だったのか…)
「ぐ、ぐぁあぁあぁぁあ」
「?!」
武田は喉元に突き付けられていた斉藤の刀を両手で握った。当然皮膚が裂け血が噴き出すが、彼はそれをもろともしない。瞳孔が開き目が血走りながら
「ひとつだけ、伊東に伝えよ!」
「…なんだ?」
「拙者は愚かであったかも知れぬ。だが、本心で茨木たちを救いたかったのだ!それがお前には無かったが拙者にはあったのた!!」
事情を知らぬ者の出過ぎた真似だったのだろう。けれどあの路頭に迷う若人に何とか手を差し伸べて救いたかったという気持ちは嘘偽りない本心だったのだ。
武田は両手で掴んだ斉藤の刀を渾身の力で己の喉元に突き立て、押し込んだ。そして無言の骸となってその場で力を失った。
それが武田観柳斎の死に様だった。
「…」
斉藤は武田の手から刀を抜き、血を払って懐紙で拭き取った。傍で見届けた鈴木も刀を鞘に収めつつ、
「立派な死だった」
と呟く。殺された方が楽だったであろうに、その道を選ばずに己で終わらせたのは確かに勇敢であっただろうし、気弱な武田が最後の最後に気骨を見せたとも言える。
しかし斉藤はため息をついた。
「立派な死など、どこにあろうものか。この男は追い詰められて死んだ…少なくとも俺がこの死に方を『立派』だと言えるはずがない」
「…」
鈴木が相変わらず淡々とした斉藤の横顔を見た時、こちらに駆けてくる足音が聞こえた。誰かが様子を見て役人にでも伝えたのだろうか。
「面倒なことになる前に行くぞ」
斉藤は鈴木に声をかけ現場から逃げ出そうとしたのだが、
「斉藤さん?」
その声に足が止まった。
振り向くと島田と山野、そして総司の姿があったのだった。







687


総司の顔を見た途端、斉藤は一瞬頭が真っ白になった。予期せぬ、そして一番会いたくないタイミングだったのだ。けれどすぐに平静を取り戻した…彼らの間には飛び散った真っ赤な鮮血と武田の屍があった。
島田と山野はあまりに壮絶な死に様に絶句していたが、総司は冷静に状況を確認する。人気のない場所に血まみれの屍の周りには二人の男だけで、ほかに人の姿はない。
「…殺したんですか?」
「…」
総司は斉藤に尋ねた。推察できうる当然の質問だろう…けれど彼からその答えが返ってくる前に、
「俺が殺しました」
と鈴木が前に出た。
「あなたが?」
「この男は兄上を襲いました。当然兄は傷ひとつありませんが、この男は正気を失っていた…また襲ってくるかもしれない相手を生かしておくわけにはいきません。言っておきますがこれは兄の命令ではなく、俺の独断です。斉藤先生には同行していただいただけのこと」
「…」
鈴木の話を聞きながらも、総司は斉藤が殺したのだと確信していた。もう何年もの付き合いだからこそ、彼が醸し出す殺気はすぐにわかるし、それが残り香のような微量なものだとしても感じ取ってしまう。
一方で鈴木は斉藤を庇うつもりなどなく、むしろ自分が手を下したかったからこそ名乗りを上げたのだろう。斉藤としては結果さえ得られれば手柄を上げたい気持ちなど毛頭なかったので、訂正はしなかった。
彼は強気に続けた。
「元新撰組隊士を殺したからといって何か問題が?」
「…いいえ、こちらも捜して処分するつもりでした」
「だったら何も問題はない、正当な防御だ」
「ええ…」
鈴木は淡々と言ったが、総司は複雑だった。島田から武田の話を聞いてもう一度彼の気持ちに耳を傾けてみようと思っていたところなのだ。一番同情していた島田は涙目になりながら武田の屍に歩み寄り、隊服を被せた。
「…武田先生は何かおっしゃっていませんでしたか?」
「さあ…もう忘れました」
「斉藤さん、何か聞いてませんか?」
「…」
斉藤は総司に呼びかけに答えないどころか目を合わせることすらせずに、「行こう」と鈴木に声をかけた。
「待ってください、さい…」
何か島田の慰めになる言葉を聞きたい…そう思って総司が踏み出した時、
「ゲホッ!」
と突然咳き込んだ。
総司は違和感のある咳だと気がつきすぐに口元を押さえる。それまで感傷に浸っていた島田と動揺していた山野はそれを合図にハッと顔色を変えて、
「先生!」
と駆け寄った。
「ゲホッ、ゴホッ…!」
総司はしばらく激しく咳き込んだので、去りかけた斉藤と鈴木は足を止めた。尋常ではない咳き込み方に斉藤は何事かと顔を顰め、鈴木は「あ…」と漏らす。
そして総司の指の隙間から赤い血がポタポタと流れ落ちた。それは武田の血と混ざって同化していくが、斉藤には全く違うものに見えた。
カッと眼が熱くなり、声が漏れた。
「な…」
彼が血を吐いている。青ざめて苦しそうに悶え、後輩に支えられている…それは見たことのない姿だった。
「先生、自分が背負います!」
「山崎組長のところへ行きましょう!」
島田は総司を背に乗せて、山野はそれを支えた。彼らは逃げるように急いで去っていき、現場は再び二人きりになる。
斉藤はしばらく沈黙した後こめかみを指先で何度か叩いた。彼と再会してから頭がうまく働かず、ただ目の前で自分が見た光景だけがはっきりと焼き付いている。
(血を…?あれはなんだ?胃をやられているのか?いや…それにしては…)
辿り着く答えは多いが、
「…やはり、重くなっている…」
鈴木の呟きが聞こえた時、斉藤の頭がハッと冴えた。自然と身体が動き、彼の胸倉を思い切り掴んでいた。
「ぐっ…!なんです!?」
「…知っていたのか?」
「何を!」
「血を吐いただろう!?」
こんなに心が乱されたのは初めてのことで支離滅裂だ。だが、鈴木が悪いわけではないのに、彼が『知っている』とわかった途端止まらなかった。自分の悪い予感が当たったような気がして。
斉藤の剣幕に驚きつつ、鈴木はゆっくりと答えた。
「…労咳だそうです。離隊前に先ほどのような喀血を見ました」
「労咳…」
「誰にも話していません。本当は兄に報告すべきだとわかっていますけど…憚られてしまいました」
鈴木の表情には総司への同情があった。
斉藤は胸倉を掴んでいた手をゆっくりと離して
「悪かった」
「…」
「先に戻ってくれ。少し…歩いて帰る」
鈴木の返答を待たず、その場を離れた。武田の遺体はそのうち新撰組が回収するだろう。
少し歩くと祇園の町に合流する。すぐそばに壮絶な死体があると思いもしない人々が今日も夜の花街に酔い、楽しみ、賑わっている。
普段と変わらない光景なのに、斉藤はその全てが憎らしく感じ、目を伏せながら早足でそのまま街を抜けて鴨川に出た。幾許か静かになった川縁でただただ静かに流れる水面に握りしめた拳を打ちつけた。パァン、パァンと繰り返され、水飛沫が上がり濡れるが気に留めず、気が晴れるまで続けた。晴れるはずはないけれど。
苛立っていた。鈴木の話によると発病は離隊前、新撰組に在籍していた時からだ。
何故、気が付かなかったのか、何故、伝えてくれなかったのか。
普段は過去への後悔など無意味だと吐き捨てるくせに、今回ばかりは自分を許せそうにない。
そして何よりーーー知ったところで、何も出来やしない。
近くに在れば手を貸すことも、励ますこともできるのに…隊を離れてしまった今、近づくことすら言葉を掛けることすら容易くない。
彼はここから見えない場所で苦しみ続けている。
(俺はこんなところで何をしているんだ…)
『絶対に守る』
「ふっ…はは、ハハハ…」
斉藤は虚しい気持ちで自嘲する。真っ黒な水面にゆらゆらと揺れる黒い影ーーー何も写さぬ漆黒の影は自分そのものだ。
離隊前の誓いがまるで絵空事のような戯言に聞こえた。主君でもない友人でもない彼に誓っておきながら、慰めることすらできない無力な存在のくせに。きっと彼も無意義な言葉だと心の奥で憐れに思ったことだろう。
斉藤は川縁からふらふらと離れると、鞘に巻きつく組紐を握りしめた。そしてもう一度、今度は強くこめかみを叩き、沸騰した頭を冷やす。
(これで良かったのかもしれない)
もし離隊前に知っていたら、理性よりも感情が上回り土方の命令を拒んだに違いない。寄る辺なき分際で己を見失ってしまっただろう。
(俺がすべきことは…なんだ…)
自分に問いかけた。
答えはわかっていた。


目が覚めると、そこは南部の診療所だった。
「おっ、起きたか」
「松本先生…英さん…」
松本は酒を飲んでいて、英はそれに付き合っているようだった。そして山野が顔を覗かせた。
「先生、お加減はいかがですか?」
「山野君…」
「あの場所から屯所に戻るよりもこちらの方が近くて、駆け込みました。僕はここに残って、一番隊の皆んなは山崎先生の指揮のもと武田先生の遺体を回収して屯所に戻ったはずです」
「島田さんは?」
「一番隊の伍長としての役目を果たすと。ご心配なく…気丈にしてましたから」
「…随分、寝てしまったんですね…」
意識を失っている間に全ては終わってしまったようだ。
「話が終わったならちょっと診せろ」
酔っている松本は急に医者の顔になって、総司の脈を取りながら聴診器で肺の音を聞いた。
「…もう落ち着いていたようだな。今晩はこのままここに泊まっていけ。もう夜更けだ」
「でも…」
「そうしろ」
総司は後処理が気になって屯所に戻りたかったのだが、松本に強く言われて引き下がった。山野には屯所に戻るように伝えて素直に世話になることにする。
松本は豪快に笑いながら再び酒に手をつけた。
「おい、沖田。あの可愛らしい隊士、俺に弟子入りしたいと懇願してきたぞ?お前の看病をしたいってさ。ハハッつまり山崎には任せられねえってことか、と尋ねると困ってたが」
「山野君、またそんなことを?」
「慕われてるんだな。…ま、気が利きそうな奴だし、悪くはないが勝手は出来ねぇから、土方の許可を取ってこいと言い付けておいた」
その土方は人手不足だと言っていたので、山野の希望はなかなか難しいだろう。
そして松本は「俺ァ寝る」と言って酒を持ってふらふらと部屋を出て行ったので、部屋には英だけが残った。寝静まって静かになった部屋で彼は総司の額で熱くなった手拭いを交換し始めたのだが、
「英さん…さっき、斉藤さんに会いました」
と報告すると手を止めた。
「…あの人の前で吐血したってこと?」
「ええ…色々あってろくに話もできていませんけど、とても驚いた顔をしていました。いつも冷静沈着な斉藤さんの…あんな顔を見たことがなかったな…」
「…」
英は再び手を動かし、水で絞った新しい手拭いを額に置いた。冷んやりして心地が良いが、その冷たさで思考が冴えてより鮮明に斉藤が唖然としていた顔を思い出す。
彼はどう思っただろう。隠すなど水臭いと怒ったのか、それとも呆れたのか…弁明したいけれど直接言葉を交わすことはできない。近いようで遠い場所にいる。
「英さん、斉藤さんに会うことがあったら伝えて欲しいんです」
「何を?」
「…心配しないで欲しいと」
「…」
英はその伝言を預かる、とは言わなかった。ただとても哀しい表情を浮かべて
「残酷な言葉だね」
と呟いた。
総司自身もわかっていたけれど、そう伝えることしかできないもどかしさは彼も理解してくれるはずだ。
「もう寝た方が良い」
英はそう言って部屋の明かりを消して出ていった。








688


淡い朝陽と小鳥の囀りが聞こえて総司が目を覚ますと、傍に昨晩はいなかったはずの土方がいた。腕を組み、難しそうな顔をして浅く眠っている。総司はそっと身体を起こすが、衣擦れの音であっさりと目を覚ましてしまった。
寝起きが悪い土方だが、起きるなり挨拶もなく
「具合は?」
と尋ねた。
「大丈夫です。松本先生も昨日、診てくださいましたし…土方さんはいつここに?」
「山野から知らせを聞いてすぐだ。武田の件はもう片付いたから心配しなくて良い」
「武田先生は…」
「伊東の弟が殺したと聞いたが…本当のところはどうでも良い」
土方は斉藤がその場に居合わせていたというだけで何かを察したようだが、結論を曖昧にした。過程が違っても望んだ結果さえ得られれば良いのだ。
「新撰組には法度があるが、御陵衛士はそうじゃない。命を狙われれば相手を先に殺すのも当然だろう…こちらは武田を放逐している、御陵衛士を責める立場じゃない」
「…もちろん、その通りです。ただ後味が悪かったので…」
「武田は錯乱していた。もし新撰組が殺していたとしてもどちらにせよ後味が悪いに決まっている…もう気にするな。気にするべきことは他にある」
「…」
総司は島田の顔を思い浮かべた。同期に入隊し、仲が良いわけではないが切磋琢磨してきた…最後の最後まで武田を信じていた島田はこの結末を嘆いていることだろう。
けれど、土方の言う通りもともと武田は新撰組を出た身だ。総司がこだわったところでもう彼との関係は永遠に断たれてしまったのだ。
土方はため息をついた。
「鈴木と、斉藤に見られたのか」
「…ええ。まあ鈴木さんはもともと知っていましたけど」
「そもそも鈴木は何故、お前の病を伊東に隠しているんだ?奴は伊東の忠実な僕で、すぐに報告するはずだろう」
何でも見越している土方にしては珍しく首を傾げていた。確かに鈴木の立場ならとっくに伊東に報告して御陵衛士全員に伝わっているはずだが、伊東や藤堂が知っている様子はない。鈴木が隠したところで何の得もないはずなのに。
けれど総司はそうは思わなかった。
「…土方さん、鈴木さんはちゃんと自分の考えを持っている人ですよ。きっと私に同情して、最初に交わした『他言しない』と言う約束を離隊した今でも守ってくれているんです。きっと融通が効かないほど純朴な人なんです」
離隊する前、少しだけ彼の胸の内を聞き、頑ななまでの兄への忠誠と自分の心の葛藤を知った総司は、彼が決して約束を違えない人物だと悟った。それ故にいままで彼が誰かに病のことを話すなんて考えもしなかったのだ。
土方は「ふん」と鼻で笑った。
「最初は『嫌われている』とか言っていたくせに、ずいぶん仲良くなったんだな」
「ふふ、本当はもっと仲良くなりたかったんですけどね」
時間が足りなかった、と総司は笑う。
そうしていると診療所の方から人声が聞こえてきた。そろそろ患者が来る時間なのだろうか。
「…斉藤さんには、伝えてないんですよね?」
総司は一番知りたかったことをあえて世間話のように尋ねる。大仰に尋ねたところで土方は答えてくれないとわかっていた。
「当たり前だろう。お前を病を知ったのは分離した後だ」
「でも…今でも連絡を取り合っているのでは?」
「馬鹿いうな、あいつは隊に見切りをつけて出て行ったんだ。今は一歩間違えば敵同士なんだ」
「…」
土方は頑なに斉藤は去った者だと切り捨てた。総司は彼が何かしらの意図を持って脱退したのだと信じていたけれど、土方の物言いはまるでその気配を感じさせない冷たいものだった。
「今は隊士みんなが知っています。耳が早い斉藤さんだったら遅かれ早かれ…」
「あいつは御陵衛士だ。伊東に伝わる可能性があるのにわざわざ伝えてどうする」
やはり土方は顔色ひとつ変えずに淡々と言った。そして
「もうあいつの話はするな」
土方は総司を引き寄せて肩を抱き、そのまま顎を上向かせ塞ぐように口付けた。少し強引なそれが土方の心情を表しているようだった。



「昨晩は大変だったね」
朝餉を終えると、伊東がいつも通りのにこやかな笑みを浮かべて声を掛けてきた。斉藤は「ええ」と短く答えるが
「顔色が悪いね…寝不足かい?」
とめざとく察した。斉藤にも目元のクマの自覚はあったが、昨晩は武田を始末するために夜更けまで働いたのだから、伊東もそれ以上は何も言わなかった。
「伊東先生、昨晩のことでお話があるのですが」
「ああ、聞くよ」
「鈴木さんもよろしいですか」
近くにいた鈴木にも声をかけると、伊東は少し嫌な顔をしたが「場を移そう」と言って三人で伊東の部屋へと移動した。
武田の件について端的に報告をした。斉藤は新撰組との辻褄を合わせるべく、武田を殺したのは鈴木だと話した。てっきり斉藤が手を下したのだと思っていた伊東は眉間に皺を寄せて「何故お前が?」と不快感を滲ませた。そもそも斉藤の密命に加わったこと自体気に食わなかったのだ。
鈴木は吃りながら
「あ、兄上の命が狙われたのです。生かして良いわけがありません」
と話しても兄は尚も嫌そうだったが「わかった」と答えるだけで褒めはせずに、斉藤へ視線を向けた。
「新撰組が居合わせたのは誤算だが、同じ目的だったのなら彼らが良いように計らうだろう。念のため近藤局長へも手紙をしたためれば良い…とにかく、これで一件落着だ。ようやく落ち着いて眠れるよ」
満足そうな顔をして伊東は感謝を述べると、斉藤は続けた。
「もう一つお話ししたいことが」
「なにか?」
「副長助勤の沖田が労咳に冒されているようです」
斉藤の淡々とした報告に、伊東は「ほう」と興味を示した。隣の鈴木は驚いた顔をしていたが無視して続けた。
「まだ前線に出ているようですが、そのうち病に蝕まれ床に伏すことになるでしょう。副長助勤格が減り、新撰組の戦力はますます低下することになるかと思います」
伊東も頷いた。
「彼は近藤局長の懐刀であり、一番の使い手だ。病とは不運なことだが…彼が退けば隊内の求心力にも関わるかもしれないね。良いことを知らせてくれた」
伊東は斉藤を褒めて、二人を下がらせる。
鈴木はすぐに斉藤に詰め寄って小声で問うた。
「何故、話したのです?」
「…逆に聞くが、何故隠す?新撰組は敵だ、奴らの情報なら事細かく伊東先生に伝えるべきだろう」
「あなたは沖田さんとは旧知の仲でしょう。病の話が広まれば身の危険があるかもしれないのに。薄情だと思わないのですか」
「そうかも知れないが、もう庇う理由はない。…御陵衛士として正しい判断をしたはずだが、何か異論が?」
斉藤は厳しく鈴木を睨む。たしかに鈴木が今まで秘密を守ってきたのは個人的な同情からであり、御陵衛士として伊東の役に立ちたいと思うのなら隠すことなく伝えれば良い。斉藤の行動は正しい。しかし鈴木にはできないことだった。
「…仲間を売るのか?」
「仲間ではない」
斉藤は寄せ付けないほどの凄味で断言して鈴木との会話を切り上げて去って行った。その背中にはこれ以上何も話したくないというはっきりとした拒絶を感じた。
(わからない人だ…)
きっとなにか裏があって御陵衛士に加わったと思っていたのに、かつての仲間の不幸をあっさりとバラして、手柄にしてしまうとは。
(まさか本当に兄上の為に尽くしているだけなのか…?)
散々疑っていたが、伊東への忠誠は嘘ではないのかも知れない…鈴木はまるで掴みどころのない斉藤という存在への迷いを抱えることになった。


その日のうちに総司は土方とともに屯所に戻り、すぐに島田の元に向かった。武田の死に落胆して気落ちしているのではないかと思ったのだが、しかし彼は思った以上に元気そうだった。
「先生、実は…」
島田はその理由をこっそりと明かしてくれた。彼は懐から手紙を広げる。
「これは…?」
「小者が自分宛に届けてくれました。誰からの手紙かはわかりませんが…武田先生の最後の言葉を知ることができました」
手紙には短く、
『武田は茨木たちの無念を晴らそうとし、自害した』
とだけ書かれていた。
「無惨に殺されたのではないとわかり、自分としても安心しました。…残念ですが、それが武田観柳斎という男の選んだ道なのなら受け入れるべきだと悟ったのです」
「そうですか…」
「ご心配をおかけしました」
晴れやかな表情を浮かべる島田は気がついていないが、これは斉藤の筆跡だった。もともと彼の筆跡を知っている人物は限られているが、斉藤なら島田がこれを総司に見せることくらい予想がついていたはずだ。
斉藤は何も言わない、土方は本当のことを教えてくれない。信じていても不安はよぎる。
けれど彼はいち隊士でしかない島田を思いやってくれているーーーやはり彼はまだ新撰組隊士だ。
(僕はそれだけで良い)








689


夏の日差しが日に日に厳しくなっていた。
伊東は支度を整え、広間で涼む御陵衛士たちに
「少し出てくるよ」
と告げた。するとその中の一人であった内海が立ち上がり何も言わず伊東の後に続いた。それはいつもの光景なので誰も何も見送り、二人は玄関へと向かう。
「内海、今日は御寺の住職との茶会だ。供はいらない」
「でしたら御寺までお送りします」
「…」
内海は警護役を引き受けてくれたが、普段から無表情な上にいまだに表情が固い。
「…まだ怒っているのか」
「…」 
内海は何も答えなかった。
古い馴染である内海との関係にギクシャクしたものがが生まれたのは、茨木たちの切腹騒動からだ。彼らを救済せず見捨てた伊東を内海は責め、憤った。伊東は彼のことだからすぐに真意を理解するだろうと思っていたのだが、皆の前ではいつも通り振る舞いつつ二人きりになると急に空気が重くなってしまう。
「あ、伊東先生、お出かけですか?」
すると二人の緊迫感に気がつかない呑気な藤堂が屯所に戻ってきた。大きな西瓜を抱えている。
「ああ、夕方には戻るよ。…藤堂君、その西瓜は?」
「近所の婆さんに貰いました。少し掃き掃除を手伝っただけなんですけど」
「ありがたいね、暑い日が続いているからみんな喜ぶよ。私の分は良いからみんなで分けなさい。…内海もご相伴に預ったらどうだ?」
「いえ、大蔵さんに同行します」
伊東は遠回しに同行を断ったのだが、内海はわかっていただろうにあっさりと拒んだ。
「わかりました!冷やして皆んなで頂きます!」
無邪気な藤堂に見送られ、二人は門の外に出た。
じりじりとした日差しを傘で遮り歩き出すと、地面の熱気が足元から伝わってくるようだ。
「暑いね」
「はい」
返事はしたものの、内海はそれ以上会話を続けるつもりがないようだと察し、伊東も口をつぐんだ。
(藤堂君のあの様子なら沖田君の病の件はまだ耳にしていないのだろう…)
斉藤からもたらされた新撰組の近況には驚いたが、素直な性格の藤堂がそれを知っている様子はない。おそらく新撰組でも緘口令が敷かれているのだろう。
新撰組の弱みを握ったものの、伊東はそれを御陵衛士たちにわざわざ言いふらす気持ちにはならなかった。総司の屈託のない素直さが伊東の害になったことは一度もなく、個人的な繋がりも希薄だ。それにまた軽々しく口外しては内海に責められることになるだろう。
(近いうちに皆の知る所になる)
伊東が感知しないことを決めた時、角を曲がると
「危ない!」
と突然内海に腕を引かれて驚いた。野犬と出会したのだ。瞠目な目をした野犬は鋭い眼差しで「ヴヴヴ」と威嚇する。
内海が刀を抜こうとするので
「殺すな。…私は犬が好きだ」
と伊東は止めた。すると言葉が通じたかのように犬はジリジリと後ろに下がっていき、そのまま山の方向へと駆け去って行った。
内海は
「犬がお好きでしたか」
と少し苦笑した。切羽詰まった場面で犬を擁護したことが彼の頑なな態度を少し絆したようだ。
「飼ったことはないが、子供の頃は近所の野良犬に餌をやっていた。…あの野犬はとても痩せていたから腹を空かしていたのだろう」
昔、母に見つからないように餌をやっていたことを思い出す。野良犬は賢くて決まった時間に家にやってくるようになってしまい、結局父によって追い払われてしまったのだ。
今まで思い出したことのなかった記憶が急に蘇り、懐かしさで口元が緩んだ。幼い頃は母との関係も良好で、穏やかな日々を過ごしていた。
「罪のない犬を殺さなくても良い」
「犬に掛けてやる慈悲があるのなら、茨木たちを助けたらよかったのではありませんか?」
ちょっとした雑談のつもりが、内海から返ってきた思わぬ言葉に伊東は少し驚いた。目の前の内海は淡々とした中に未だにあの日の怒りを込めたような強い眼差しでこちらを見ていた。
けれど、何も話の通じない人形で在るよりは余程マシなので伊東も冷静だった。
「…犬と比べられては、茨木たちも心外だろう」
「そういう話ではありません」
「彼らの行動は御陵衛士に危険を齎すものだったと説明したじゃないか」
「手を差し伸べることはできたはずです」
「新撰組を敵に回す時期じゃない」
「私が気に入らないのは、あなたがあれだけ毛嫌いしていた新撰組と同じ行動をとったことです。必要がない、邪魔なら殺す…あなたはそんな人ではなかった」
数少ない、気の置けない関係である内海の言葉はあくまで友人としてのものだ。だからこそ複雑に入り組んだ理性ではなく、感情に刺さる。
「…だったら、私は新撰組を経て変わったのかもしれない。そういう選択肢を厭わず取れるようになったのかな…『仕方ないことだ』と諦めることができた」
「…」
「しかし、どうすれば良かった?彼等はおそらく監察の監視下にあっただろう。受け入れれば新撰組との約定を破ることになり、我々と接触した時点で全てこちらの責任となる可能性があった。散々辛酸を舐めて分離したばかりだというのに…」
「そう仰って頂ければ良かった」
内海は尚も真っ直ぐに伊東を見て、続けた。
「茨木たちの処遇についてはある程度納得しているつもりです。救う手立てはあったとは思いますがそれを取れなかった理由もわかる。…ですがあなたは私に何も打ち明けず、斉藤先生を利用してことを終わらせた。それはまるで監察を動かす土方副長と同じではありませんか」
「…」
「だったら御陵衛士は任務が変わっただけの新撰組と同じです。我々はあなたの理想を実現するための御陵衛士でしょう…こんなやり方はいずれ他の同志にも批判を受けます」
(ああ、そうだったのか)
伊東は内海は忠誠心の厚い茨木たちを見捨てたことが気に入らないのだと思っていたのだが、そうではなかった。自分を介さず一人で何もかもを終わらせてしまったことをずっと怒っていたのだ。自分を信頼していないのだと憤っていた。
「…申し訳なかった。内海に話せば…きっと反対すると思ったんだ」
「反対します。ですが、理解することもできたはずです。私にはその資格がなかったのかと…ずっと口惜しかった」
「悪かった」
伊東は心から謝罪した。今でも茨木たちへの対処を後悔しているわけではないが、その過程において内海に何も話さなかったことは間違いだった。
「すべて内海の言う通りだ。法度がない分、結束が揺れることを恐れたが…我々はそんな柔な決意で脱退したわけではない。…これからはきちんと話す」
「…そうしてください」
内海の表情はようやく和らいだ。ここしばらく凝り固まっていたせいか互いにぎこちないが、少なくとも和解はできた。
二人は再び歩き始めた。夏の日差しを眩しそうに受ける内海の横顔を見て、伊東は微笑んだ。


夏の夜。
「すごい!素晴らしいことです、先生!」
養生する総司を見舞いに来た近藤は「そうかな」と照れくさそうに頭をかいた。ちょうど居合わせた土方もまんざらではなさそうで、
「旗本なのだから当然だ」
と頷く。
先日、近藤は会津公用人の大野英馬に会いに行ったのが、その大野が留守で親藩会議に出ていると言うことでその会議に飛び入り参加したらしい。いくら新撰組局長とはいえ浪人の身分では許されないことだが、旗本に昇進したからこそ為せたことだ。
「光栄なことに俺のことを皆様知って下さっていてな…話に耳を傾けて頂いた」
近藤は恍惚の表情を浮かべて詳細を語る。総司には具体的な話はわからないが聞いているだけで浮き足立つ心地だ。
すると興奮する二人を「その辺で」で土方が止めた。
「近藤先生、そろそろ寝かせてやってくれ」
「ああ、そうだな」
「ええ?!もっと聞かせてくださいよ。ただでさえもう元気になったのに明後日まで養生しろだなんて言いつけられて暇にしているのに」
総司は口を窄ませて拗ねた。もう夏日だと言うのに床の上で過ごす退屈な時間に耐えかねていたのだ。
「また今度聞かせてやる。もっともお前には難しくて眠たくなるような話かもしれないぞ」
「そうだ。薩摩がどうとか、土佐がどうとか…大先生の講釈で寝てたお前が耐えられるはずがない」
近藤は親のように言い聞かせ、土方は兄のように揶揄う。二人に言われると総司は観念するしかなく
「明後日には復帰しますからね」
と布団を被った。
近藤と土方は明かりを消して部屋を出る。そして少し離れて近藤が小声で話し始めた。
「…総司には話さなかったが、おつねから手紙が届いた。おみつさんが試衛館に相談に来たそうだ」
「そうか…」
土方は総司の姉であるみつからなんの知らせもないことを気にしていた。
「おつねは、高名な医者に診てもらっているから大事ないと話したそうだが…両親を労咳で亡くしているのだ、決して楽観的にはなれまい。やはり近いうちに一度江戸に帰してやった方が良い」
「…隊士募集の件もある。一度話してみよう」
「それから…お義父上の具合も良くないそうだ。お前が様子を見てきて欲しい」
「わかった」
夏の夜に虫の声がどこからともなく鳴り響く。穏やかな日々はいつまでもは続かない。






690


真夏日が近づく蒸し蒸しした道場で、総司は剣術師範として稽古に臨んでいた。永倉も同じ当番で彼が主に仕切り、総司は口添えするだけに留まる。
厳しい稽古の合間の休憩時間、総司は島田たち隊士に声をかけた。
「聞いてください。この間、西本願寺からこの新しい屯所まで一体何歩離れているのか数えてみたら、たった八百歩だったんです。もっと離れていると思いません?」
病み上がりの総司に対して、隊士たちはよそよそしかった。気安く慰めることもできずどう接すれば良いのかわからない様子だったのだが、総司がいつもと変わりない調子でまるで病なんて感じさせない屈託のない笑みを浮かべたので、ようやくその緊張を解いた。
「確かに自分ももう少し離れているかと」
「でもあの立派な屋根はここからでも見えますから、俺はもっと近いのだろうと思っていました」
「私もです」
「いや、せめて千歩は超えるのではないか?」
「今度皆で歩いてみよう」
どうでも良い雑談でしかないがら総司を中心にやいやいと盛り上がる。そうしているとあっという間に休憩時間が終わり、永倉の号令で再び稽古が始まった。
懸命に剣を振るう隊士たちを総司は穏やかな気持ちで眺めていた。少し前までは彼らに混じって檄を飛ばし、厳しく指導をしていた。それができなくなった自分には価値がないと思っていたが、こうして客観的に隊士たちの稽古を見るのも悪くはない。一人一人の良い所と悪い所を見極めることができ、それが彼らの成長に繋がるのだ。
(僕は僕なりのやり方で隊のために尽くそう)
そう思っていると
「総司」
と道場の外から土方に呼ばれた。稽古中に呼び出されるのは珍しいので急用だと思い急いで応じた。
「なにか?」
「飛脚から文が届いた。…おみつさんだ」
深刻そうに手渡した土方に対して、総司は
「ああ、姉上ですか」
と何の気なしに受け取る。
「わざわざ届けてくれたんですか?稽古が終わったら読みますよ」
「馬鹿、今すぐに読めよ」
「はあ…今すぐに?」
「今すぐに」
土方に急かされて仕方なく道場を離れて文を開いた。自分に似た筆跡の姉からの手紙には季節の挨拶から始まり、近藤のために働くようにといういつもの文言が続いた後、病のことについては
『思うままになさりなさい』
とだけあった。
「ああ、良かった。江戸に帰ってこいだとか、隊を辞めろだとかそんなことを言われたら困るなぁと思っていたんです。姉は頑固ですからね」
「…」
総司は叱られなかったと子供のように安堵したのだが、土方は苦い顔のままだった。
「土方さん?」
「…お前はこれがおみつさんの本音だと思うのか?おみつさんは何年も前からお前が体を壊していないか心配していた…それなのに、本当に病になってしまったのにこんな一言で理解したと思えるか?俺はよほど、帰って来いと書いてある方がマシだった」
「…」
総司はゆっくりと文を畳んだ。
土方の危惧することはもちろんわかっていた。未だに口減らしとして家を追い出したと負い目を持ち、送った金にも手をつけない…そんな姉が病について納得するのは難しいだろうと。総司は知らないが、両親が同じ病で亡くなるのを姉は間近で見てきたのだから尚更だ。
けれどだからこそこの短い言葉には姉の意志を感じた。
「…姉は姉であり、親代わりです。共に暮らした時間は短いですが姉のことはわかっているつもりです。筆まめな姉がこれだけ返事に時間がかかって、悩んで出した答えがこれなんです。無理をして悩んでいるかもしれないけれどそれをおくびにも出さない…だったら私はそれを受け取るだけです」
「しかし…」
「ご存知のように姉は私以上に頑固ですからね。本音なんて聞けやしない、伝えてくれる言葉だけが全てで、額面通り受け取ればそれで良いはずです」
「…」
総司の言葉に、土方はまだ納得していない様子だった。彼がみつに何を頼まれたのか、総司は詳しくは知らないがその約束を守れたなかった、と土方が罪悪感を持っているのだろう。
(病なんて誰のせいでもないって、歳三さんが言ったのに)
「土方さんは心配しなくても大丈夫ですよ」
総司は話を切り上げようと手紙を懐にしまったのだが、
「お前、江戸に行くつもりはないか?」
と土方が思わぬことを言い出したので驚いた。
「江戸に?また隊を離れて養生しろなんて話を蒸し返すんですか?」
「違う。隊士募集のために俺が江戸に行くつもりなんだ。近藤先生はお前も同行したらどうかと言っている」
「…姉に会うためですか?」
「一度顔を見せたら安心するだろう」
それが近藤と土方の優しさだということは分かっていた。姉が強がってこんな返事を寄越したことも分かっているし、皆がそれで安心するのなら良いのかもしれない。久しぶりに試衛館や日野に顔を出すのも悪くはない。
けれど総司は気が進まなかった。
「…今は…あまり戻りたくありません」
「総司…」
「皆が心配するのがわかっているのに、顔を見せたくないんです。姉も…顔を合わせれば安心するかもしれないけれど、望まないような気がします」
「…」
「とにかく少し考えさせてください。…稽古に戻ります」
総司は話を切り上げてそのまま道場へと戻った。
蒸し風呂のような熱気の中でひたすら剣を振るう彼らをみて改めて
(僕はここにいたい)
と思ったのだった。



土方は総司の返答を近藤に伝えた。
「困った奴だなぁ。なにも、そのまま帰れなんて言っているわけじゃない、姉孝行だと思ってちょっと顔を見せて来いと言っているだけなのに」
近藤は聞き分けのない弟弟子にため息をつきながら、「俺からも説得するよ」と付け足した。
「江戸へ行くのは九月か?」
「その予定だ」
「早めに戻ってきた方が良いかもしれぬ。このところ何かと騒がしい」
近藤は腕を組み、難しい顔をした。
「どうも土佐と薩摩の動きが怪しいようだ。…大政奉還という言葉を知っているか?文字通り政権を朝廷へお返しする…ということだが、幕府内外でそれを実現させようという動きがあると伺った」
「…徳川が政権を手放すと?ありえるのか?」
土方は俄には信じられなかった。三百年以上続いてきた徳川の統治は揺らぎようもなく今後も続いていくのだと思い込んでいるからだ。
「それがありえぬことではない。政権を返上すれば少なくとも徳川は無傷ですべて手を引くことができる」
「徳川さえ良ければ今まで幕府のために散々働いてきた会津や桑名がどうなっても良いってのか?慶喜公は変わり者だという話だが、冷酷無慈悲でおられるようだな」
「そう熱くなるな、仮の話だ」
近藤が苦笑し、土方も「はあ」とため息をついて自分を落ち着かせた。
近藤は茶に手を伸ばし、それを少し口に含んだ。
「…まあ、そうなれば少なくとも戦は起こらない。人民への被害は少なくて済む…それだけは良いことだと思うぞ」
「…」
土方は何も答えなかった。戦が起こるのなら起これば良い、黙って引き下がることなんて今更できるはずがない…心の中では沸々と何かが湧き上がるが、また近藤に「やめておけ」と諌められるので黙っておく。
「世の中は目まぐるしく変わる。我々もいつでも幕府のお力になれるように隊士を増やして兵力を増強しよう」
「…ああ」
土方は目の前の課題に目を向けることにした。












解説
688 武田観柳斎は除隊を許されましたが、その後も都で活動を続けた為、暗殺されたと言われています。斉藤が殺したという通説もありますが、御陵衛士となっていたため可能性低いかと思われます。



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