わらべうた




691


季節は夏へとすっかり移り変わり、連日茹だるような暑さに見舞われていた。
「…では、いつもの通りに」
夏の巡察は夜の涼しさが残る朝に当たればまだマシだ。いつも通り総司は手早く組下に指示を出したのだが、彼らはいつにも増してハキハキとして散っていった。精鋭が集う一番隊とは言えども、副長が同行するとなれば特別な緊張が走るのだ。
「…朝早いのは苦手なくせに、わざわざ同行しなくても」
「山崎は所用で巡察から外れているだろう。あれがいなければお前が無理をしないか監督する者がいない。仕方なく同行したんだ」
「過保護ですよ。山野君だっていますから無理なんてしません」
「別に気にするな」
気にするな、と言われても腕を組んで仁王立ちする威圧感のある土方がいては、隊士たちも落ち着かないだろう。
総司は仕方なく彼の隣に立つことにする。
「鉾が立っているな」
土方は目線を遠くにやった。祇園祭の迫る大通りにはあちこちに山鉾が準備されていた。
「ああ、日に日に増えてますよ。毎年あれを見ると池田屋のことを思い出します」
祇園祭の宵山、賑わう町を駆け抜けたあの夜。不思議なことにあの時の息遣いや鼓動は身体に刻まれていて、祇園祭を意識するたびにまるで昨日のことのようにあの熱気を思い出すのだ。
土方が尋ねた。
「良い思い出か?」
「…どうでしょうね。仲間が死んだし無傷だったわけではありません。自分の不甲斐なさを感じたし…でもあれがなければ今の新撰組がない、ということはわかります。悪い思い出ではないとしか」
諸手を挙げて「よくやった」と称賛するには犠牲が多かった。総司自身も暑気あたりで意識を失い皆に心配をかけてしまったのだ。
「土方さんはどうですか?」
「…俺はあの時、二回息が止まるような寒気を感じた。一度目はあちこち浪士を探し回っていた時に島田から池田屋だと聞かされた時だ。こっちが当たるはずだったのに、目論見が外れた」
「そうだったんですか?」
総司はたまたま近藤たちは池田屋に辿り着いたと思っていたのだが、土方の見方は違っていたらしい。
「あの古高の野郎から『丹虎』が怪しいと聞かされていたからな…最後の最後に騙されたわけだが、人数ではこちらが上回っていただろう?俺は自分たちが当たるように割り振った」
「へえ」
数年経って聞かされる事実に総司は驚いた。あの一日は目まぐるしくてただただ突き進むしかなかったが、土方には策があったようだ。
「…あれ?ってことは、私や近藤先生、永倉さんや藤堂君は外れくじをひかされる予定だったんですか?酷いなぁ」
「俺たちがお膳立てしたところに、駆け付けて仕留めてもらうつもりだったさ」
「本当かなぁ。…それで、二回目は?」
総司が尋ねると土方は少し呆れたような眼差しを向けた。
「お前、心当たりがないのか?」
「わかってますって」
総司が茶化すと、土方は「まったく」とため息をついた。
言葉にせずともわかる。二回目は総司が意識を失って倒れているのを見た時だろう。あの時の土方の表情は悲壮感が漂い青ざめていて、それは喀血した総司を見た時と同じだった。
「…肝心なところで、俺の勘は外れる。そういう意味では近藤先生の方が格が上だ、あいつは普段はそうでなくとも大切なところは外さない」
「そういうものですかねえ…」
過去に思いを馳せながら、総司は夏空に高く聳える鉾を眺めた。力強く凛々しい風格は古都の誇りを背負っているように見えた。
そんな時。
「ぬっ盗人やァ!」
近くから中年の男の叫び声が聞こえた。総司と土方が辺りを見渡すと斜向かいの宿から慌てて飛び出す者がいた。
「誰か!捕まえとくれやす!」
悲鳴を上げた商人風の男が逃げていった者を指差す。総司は咄嗟に体が動いたのだが、土方に「俺が行く」と止められてしまった。
「でも…」
「いいから」
盗人はどんどん逃げていく。口論している時間が勿体無い、と土方は駆け出したのだが少し行った先で直ぐに足を止めた。目を離した隙に盗人は気を失いその場に倒れていたのだ。その傍には武家風の身なりをした長身の男が立っていた。
「これは貴殿の財布か?」
「ああ、おおきに、おおきに!!」
商人は深々と頭を下げて財布を受け取る。そして忌々しげに「此奴は常習犯でな」と意識のない男に吐き捨てると
「では、私が役人に引き渡しておきましょう」
と人の良い笑みを浮かべた。年の頃は土方とあまり変わらず、卒のない動きと品の良い微笑み、涼しげな目元が印象的な月代のある男だった。
(どこかで見たことがあるような…)
総司は遠目から首を傾げていたのだが、土方は既に気がついていたようで彼の前に立ち頭を下げた。
「浅羽様」
「…ああ、土方殿。ここは新撰組の管轄内でしたか」
「はい。この男は我々が引き受けます」
「では頼みます」
浅羽と呼ばれた男は総司の存在にも気がついたようで軽く頭を下げたので、総司も同じようにしたのだが名前を聞いたところで心当たりがない。
浅羽は親しげに土方との会話を続けた。
「我が殿は此の所忙しく、近藤局長とお話しする機会がないとぼやいていらっしゃいました。宜しくお伝えください」
「承りました」
「土方殿も宜しければ今度、是非一献」
「ええ、是非」
浅羽は「絶対ですよ?」と無邪気な様子で念を押して去っていったので、総司が土方の元へ向かった。
「あの方は?」
「容保様の小姓頭の浅羽忠之助殿だ。公の場でお前も何度かお見かけしたことがあるはず」
「小姓頭…」
土方に言われて朧げに思い出す。卒のない雰囲気で容保公の傍に座り、いつも穏やかな笑みを浮かべていた。
「親しいんですか?」
「親しいというか…会津公と考えの近い御方で、新撰組にも初めから好意的に接してくださっている。俺なんかより近藤先生の方が親しくされているだろう」
「へえ…でもどうしてこんなところに。黒谷や二条城はここから遠いですが」
「さあな」
颯爽と去っていった浅羽はもう後ろ姿さえ見えなくなっていた。
そうしていると一番隊の隊士たちが各地の見回りを終えて戻ってきた。総司は詳細は話さずに盗人を役所に届けるように命令を出し、屯所への帰営を始めた。
夏の暑さを払うような涼しげな出立ちは、なぜか総司の記憶に深く残ったのだった。


御陵衛士の屯所、月真院にも同じ夏の日差しが降り注いでいた。
「あっついなぁ…」
こめかみから滲む汗を拭いながら、藤堂は読物を片手に夏の眩い太陽を見上げつつ日陰に移動した。
再び読み物に目を落としながら、「ふぁ」と欠伸をする…伊東に勧められて読んでいる難しい本はなかなか頭に入らない。
(そもそも性分じゃないんだよなぁ…)
伊東が新撰組に入隊してから座学に足を運び難しい話を熱中して聞き「賢さ」に憧れたが、それは山南の死から燻っていた仲間との溝を埋めるための手段だったのだろう。念願叶って脱退が叶った今、難しい書物に興味を持てないのは本当の自分に向き合い始めたからなのかもしれない。
(みんな巡察かなぁ…この暑いなかだから、原田さん辺りはブツブツ文句を言っていそう…)
読み物よりよほど想像のつく光景に口元が緩む。自分でも単純だと思うが、古巣を離れてみると懐かしく邪な気持ちが消えてしまうようだ。
「藤堂さん」
「エッ…あ、どうも」
いつの間にかそこにいたのは同じ御陵衛士の加納だった。虚空を見つめてニヤニヤと笑っていたので不審に思ったのか眉間に皺を寄せてこちらを見ていた。
「…文が届いていました」
「ありがとうございます」
大量の伊東への文に混じっていたもののうちの一通を受け取った。
差出人は『嶋崎』…心当たりのない名前だがその筆跡はすぐにわかった。
(近藤先生…?)
『嶋崎』とは近藤が養子に入る前の姓であるため加納は気が付かなかったようだが、藤堂はなんとなく後ろめたくて身を屈めて隠すようにその手紙を開いた。
(一体何の用事なのだろう…)
橋渡し役とはいえ、表向きは分離している。表立って新撰組との交流を持つわけにはいかないのだが、その手紙の内容に
「え…?」
と絶句してしまったのだった。







692


夏の暑さは夜まで続き、寝苦しい日々が続いていた。
「具合はどうだ?」
個室になったのをいいことに、近藤が総司の元に頻繁に顔を出すようになっていた。前の屯所では局長が顔を出すと同じ広間を使う一番隊の隊士たちが畏まってしまい、そういう機会がなかったため新鮮だ。
「暑いので少し寝不足ですけど、大丈夫です。先生こそお疲れではありませんか?」
「正直疲れているよ。お勇は元気が良すぎる」
近藤は苦笑した。
孝とともに悪戦苦闘しているようで、「屯所の方が楽でいい」と漏らす。
「でももう先生の顔を見て泣かなくなったのでは?」
「それがそうでもない。日が暮れると俺の顔が怖いのか、お孝じゃないと手に負えなくてな…俺はすっかり除け者だよ。そういえばおたまもそうだったな。幼い子は皆怖がる」
近藤はパンパンと軽く自身の頬を叩く。当然本人にはどうしようもなく困っているのだろうが、傍から聞いている分には微笑ましい光景だ。
「俺を見て泣かなかったのはお前くらいかもなぁ。すぐに懐いて…まさか試衛館に口減らしに来るとは思わなかったが」
「ふふ、随分昔の話ですね」
懐かしい話に近藤は目を細めた。総司とて最初は鬼瓦のような顔面に驚いたのだが、その大きな口がニコッと笑うとなぜか心が絆されてしまったのだ。
そうしていると大きな足音がこちらに近づいてくるのが聞こえてきた。
「近藤先生、ここにいたのか」
「どうした?」
土方は眉間に皺を寄せて近藤の前に膝を下ろした。ただならぬ様子に総司は驚いたのだが、
「近藤先生、何で藤堂に総司の病を知らせた?」
と尋ねたのでさらに驚いた。
「え?どういうことですか?」
「藤堂から文が届いた。定期的な知らせとともに総司の病を心配していると…近藤先生から文が届いたと書いてあった」
土方ははっきりと怒っていた。そして先日近藤も藤堂に病を知らせることに前向きではなかったはずだ。
しかし近藤は柔らかい表情のままだった。こうなることがわかっていたのだろう。
「俺も総司の身の危険を考えてできるだけ病を知っている者は少ない方が良いと思っている。だから平助に伝えるべきではないと思っていたが…この間、斉藤君と鈴木君の前で喀血したと言っていただろう?それならもうきっと伊東先生にも伝わっている…だったら伊東先生から平助の耳に入る前に伝えた方が良いと思ったんだ。…総司、勝手なことをして悪かった」
「いえ…いずれ藤堂君も知るでしょうし、私は構いませんが…」
総司はちらりと土方を見た。彼が近藤に対して憤る姿はいつもと少し違う。
「藤堂は御陵衛士だ。伊東と一緒に俺たちに見切りをつけて出て行った奴に、わざわざ近藤先生自ら文を届けるなんて…」
「歳、俺は御陵衛士の藤堂平助宛に手紙を書いたわけじゃない。昔馴染みの食客の彼へ書いたんだ。ちゃんと名前も『嶋崎』と名乗ってな」
「屁理屈を言うな」
「屁理屈なんかじゃないさ。俺は一度たりとも平助を敵だなんて思っちゃいない。彼が今どう思っているのかわからないが、少なくとも昔馴染みとして総司の病を伊東先生から耳にすることを望んじゃいないと思った。もしそうなれば…本当に彼を仲間外れにして見捨てたみたいじゃないか」
「近藤先生…」
近藤が総司を想うように、他の食客たちのことも等しく想っている。それがたとえ仲間割れした相手だとしても、共に過ごした時間はなくならない。
「心配しなくとも平助は簡単に口外したりしない。お前だって本当はわかっているだろう?」
「…甘いんだよ、近藤先生は」
「土方さん、もう良いですから」
「良くない」
いつもなら「仕方ないな」と矛を収めるはずの土方は尚も怒っていた。彼は鬼副長として憤っているのではないのだ。
「平助のことはそれなりにわかっている。だが、今はわからない。伊東に傾倒して出て行った…そんな奴を俺は信用しない」
「歳…」
「万が一…いや、万が一ってこともないな。あいつが、御陵衛士が俺たちにとって邪魔になる日が来たら容赦はしない」
「土方さん…」
「…」
土方の鋭利な眼差しに近藤は黙り込み、場は一気に緊迫感に包まれた。『喧嘩』なんて生易しいものではなく、土方は本気で憤っていたのだ。
「…悪かった。俺は自分の考えを間違っているとは思わないが、お前に知らせず勝手をしたことは謝る」
近藤が折れて頭を下げた。土方は何も言わずに部屋を立ち去っていく。その足音が聞こえなくなるまで微動だにできない…そんな迫力だけが部屋に残っていた。
近藤は頭をかいた。
「…ハハ、歳に怒られると分かっていたから相談なく文を届けたが、こんなにも怒られるとはなあ。総司も巻き込んですまなかった。お前にも知らせるべきだったな」
「いえ…その、私も甘いって思われそうですけど、藤堂君のことは土方さんほど見切りつけられなくて…たぶんまたどこかの路地で出会ったら自分から打ち明けてしまったと思うんです。だから先生は謝らないでください」
新撰組を離れて藤堂は試衛館にいた頃のような朗らかさを取り戻していた。土方に止められていても、そんな彼に隠し事はできずに話してしまう未来は易々と想像できていたのだ。
近藤は「似たもの師弟だな」と笑って続けた。
「しかし歳は怒っていたな。お前のことになると目が違うぞ」
「ハハ…」
土方が目の色を変えて激怒していたのは、総司にも分かったので苦笑するしかない。
「土方さんだって本当はわかってますよ」
「うん、それもそう思うよ」

夜空は澄んでいて、星がはっきりと見えた。
自室に戻った土方は苛立ったまま文机に向かった。藤堂の文を文箱にしまい軽く息を吐く。
こうなることを想像していなかったわけではない。お人好しの近藤はいまだに藤堂のことを食客の一人だと思っているし、彼を気にかけている。それ故に伝えたのだろうし、総司もそのことを責めたりはしない。
土方もその感情を持ち合わせていないわけではないが、やり切れない気持ちを振り切って分離という今がある…今後を見据えてそれ故の節度は守っておきたいと思っていた。
(総司も血を吐く回数が増えてきた…)
思っていたよりもこの生活は長くは続かないのかもしれない。
その焦りのせいで近藤に当たってしまったのだろう。
「失礼しても宜しいでしょうか?」
考え込んでいると山崎が顔を出した。夜更けにわざわざ顔をだすのだからなにか重要な話だろうと身構える。
「なんだ?」
「…実は文を言付かりました」
「…」
また文か、とこのところ文に振り回されているようだ思いつつ山崎から受け取ると見慣れない筆跡だった。優雅で静謐な流れるような手だが、書き手の名がなく祇園の料亭の名が記されていた。
「誰から受け取った?」
「それが見たことのない御方で…ただ『約束をしている』とだけ」
「…」
心当たりのない土方は困惑するが、
「それが、身なりの良いお武家様で…どっかで見たことがあるんやけど、なんや思い出せず」
山崎が悩みながら首を傾げるので、同じようなリアクションをしていた総司のこと思い出した。
(まさか…)
「少し出てくる」
「ご存じの御方ですか?こんな夜更けでは危険です、俺も行きます」
「…いや、大丈夫だ」
山崎の供を断り、土方はすぐに屯所を出た。







693


記された料亭に赴くと、やはり浅羽がいた。
「こんな夜更けに来てくださって有難い」
土方を歓待し酒を勧めた。それを受け取りつつ
「何か御用が?」
と尋ねるが、
「それはおいおいお話ししましょう」
とかわされてひとまず乾杯した。
宴の類かと思っていたが、浅羽は一人で静かに飲んでいたようで芸妓を呼んでいた気配すらない。盃を空にすると窓の外に視線を向けた。
「今宵は月が綺麗に見えます。酒の肴に最適ですねぇ」
「はあ…」
小姓頭である浅羽は土方よりも少し年上だか、見目麗しく洗練されていて、身なりが良いのもそうだが、身のこなしも隙がなくまさに美丈夫という言葉が相応しいだろう。
しかし、なぜ親しい近藤ではなく自分が呼び出されたのか…と困惑していると、察した浅羽が笑った。
「ハハ…実は諸用で出歩いているところで新撰組の隊士に会い、そういえば土方殿は先日のお約束を覚えてくださっているだろうかと悪戯心が芽生えたのです。名を記さず場所をしたため、伝言とともに託し…来てくださるかどうか賭けでした。でもあなたは覚えてくださっていた」
「…勿論です」
先日、巡察の途中で出会した時に浅羽は「是非一献」と誘ってきたが、社交辞令ではなかったらしい。
だが、土方は浅羽がここに呼び出した理由はただの悪戯心だけではないだろうと思った。酒を嗜みながらも彼はずっと身体中の神経を緊張させていて、身構えているように見えるのだ。ただその理由は彼の微笑みの裏側に隠れていてすぐには聞き出せないだろうと思い、土方は待つことにした。
こうして二人で飲み交わすなど当然初めてなのだが、浅羽は社交的でよく喋る。新しい屯所はどうかとか壬生浪士時代の話だとか故郷はどんなところだとか…土方は決して饒舌な返答をしたわけではないのだが、浅羽は興味深そうに聞き入っていた。相手の気分を害さない相応しい距離感を保ちながら。
(さすが、会津藩の小姓頭だ)
松平容保の近侍として場の空気を読み、相応しい対応を取る。藩主の深い信任を得る役職である浅羽は人を不快にさせない振る舞いを身につけていた。ある意味で伊庭のように隙がない。
浅羽は盃を口に運ぶ。
「土方殿のような色男は花街などで持て囃されるでしょう。何度か浮名が耳に入りましたよ」
「まさか…ここ数年は仕事以外で足を運ぶことはありません。全て根も歯もない噂話です」
君菊や君鶴、それ以外でも勝手な噂が流れていることは知っていたが、浅羽の耳にまで入っているとは…土方は少しうんざりした。
「それは奥方が良い顔をされないので?」
「…私は嫁をもらっていません」
浅羽は「ほう」と興味深そうにしたが、土方はわざわざ総司のことを大っぴらにするわけがなく
「仕事が忙しいので」
と切り上げた。浅羽はそれ以上追求せずに「私も独り身です」と微笑む。
「殿は良いご縁を探すようにおっしゃるが、この情勢で私だけのうのうと縁談のことなど考えられず…いつか平穏無事に皆で会津に戻ることだけが望みです」
不安定な情勢の中、律儀に京都守護職を引き受けた上司と共に上洛した彼らは決して望んでここに留まっているわけではない。浅羽が口にした「故郷に帰る」という希望は会津藩士たち全員に共通する思いなのだろう。
浅羽は「うむ」と腕を組んだ。
「しかし…目算が外れました」
「目算?」
「土方殿なら花街のことは詳しいと思っていたのですが」
「…それは、今宵の『本題』ですか?」
土方は浅羽の雰囲気が少し変わったことに気がついていた。長い長い雑談はこの話を切り出すための前置きだったのだろう。
浅羽は土方の問いに少し驚いていたが、「ふふ」と笑った。
「さすが、新撰組の副長…隠し事はできません」
そして手にしていた盃を置いて、話し始めた。
「実はある男を探しているのです。名はわかりませんが、祇園の芸妓たちの間では『麻呂殿』と呼ばれているそうです」
「麻呂…?公家の者ですか?」
「素性はわかりません。渾名ですから意味はないのかもしれない。ただ芸事に優れ唄も嗜み、金払いも良い上客だそうです。月に一度、もしくは二月に一度ほどしか足を運ばず、その際に店を貸し切って豪遊するのだとか。このところ私も仕事の合間に花街に足を運んでいるのですが、どの店を訪ねても会うことができないのです。…花街では土方殿の名前を何度か聞いたのでご存じかどうかお尋ねしたかったのですが」
「…残念ながら。…しかし、監察に調べさせることはできると思います」
祇園での人探しなど監察にとっては容易いことだ。土方の耳に入らないだけで、彼らはすでに知っている人物かもしれない。
「本当ですか?」
「ですが、何故その男を探しているのでしょうか?」
土方の質問を浅羽は想定していただろう。顔色ひとつ変えずに
「個人的な事情、ということにしていただけますか。もちろん会津にも関わりのないことです」
と明確な答えを拒んだ。微笑みを絶やさなかったがやはりその影には緊迫感があり、それは薔薇の枝に隠れた棘のようだ。
(殺すつもりか…)
土方はそう直感したが、浅羽に尋ねたところで認めることはないだろう。
「できれば探し出し一度会いたいのです。その手筈を整えて頂ければ、新撰組にそれ以上は求めませんし、何か不都合なことが起こってもあなた方の名前は一才口にしません」
「…」
そこまで言われて、会津お預かりの立場で拒めるはずがない。浅羽は小姓頭で松平容保との距離が近く、近藤も信頼している相手だ。そして浅羽もそれを分かった上で頼み事をしているのだろう。
(…食えないお人だ)
どこから計算しているのだろう。もしかしたらあの日、巡察で遭遇したことすら彼に想定内だったのではないかと思わせられる。
しかし、土方は浅羽への嫌悪は芽生えなかった。
「わかりました、善処します」
不思議なことにこの不可解な依頼を受けてみようと思えた。そうするべきだと誰かに背中を押されたような気がしたのだ。


翌朝。
総司が目を覚ますと隣で土方が横になっていた。いつの間にか外出して戻ってきたようだ。
(今日は非番だから良いけれど…)
個室になって人の目を気にしなくて済むせいか、近藤だけでなく土方も別宅のように寛いでいる。
「あれ…?」
しかし珍しく酒臭い。付き合いで飲む程度のはずだが、昨日の近藤との喧嘩がよほどむしゃくしゃしたのだろうか。
まだ寝入っている土方に布団を譲り、総司は着替えて部屋を出た。夏日でも朝の風は涼しく爽やかだ。
「沖田先生、おはようございます」
「早いですね、山野君」
まるで待ち構えていたかのように山野は白湯を差し出した。
「今日は一番隊は非番ですから、ゆっくりしたら良いのに」
「いえ…先日、山崎組長に医学の本をお借りしたのです。これが読めなければ向いてないと言われ、このところ徹夜で読み進めているのですが、異国語が混じって僕には難しくって」
山野は恥ずかしそうに頭をかく。だが忙しい任務の合間を縫っている分、彼の端正な顔にクマが目立っていた。数日まともに寝ていないのだろう。
「…山野君が倒れたら、みんな困りますよ。無理はしないで今日は休みなさい」
「でも…」
「山崎さんに指南してもらえるように言っておきますから。土方さんにも君が医学方と両立できるようにお願いしてみます」
「それって…」
山野の目が輝く。その大きな瞳で見つめられるとどうしても甘やかしてしまうのだ。
「…君がどうしても貧乏くじを引きたがるんだって言っておきます。でも一番隊の任務と医学方の修練は大変ですよ、あの山崎さんがようやくこなしているくらいなんですから」
「勿論、頑張ります!ありがとうございます!」
山野に感謝しなければならないのは総司の方だろう。彼は献身的に仕え、言葉通り身を粉にきて働いているのだ。
彼の曇りのない純粋な心は、今日の夏の青空のようにどこまでも澄み切っていた。







694


月真院の庭は優雅で趣がある。夏の空に映える緑の生き生きとした生命力がごく自然な風景として広々と広がっているところを、伊東は気に入っている。
今日は少しまとまった時間が取れたので部屋の荷物の整理に時間充てていた。新撰組を出て二度屯所を移動し、ようやく落ち着いたので積み上がった書物や手紙の類を整理しようと思ったのだ。
何名かの同志が「手伝います」と名乗り出たが、彼らの目に触れない方は良いものが多かったため内海だけを手伝わせることにした。
「この手紙の束は捨てても宜しいのですか?」
「ああ、見られると不都合だから焼いたほうが良いな」
「わかりました。それからこちらの書物は…古いようですが」
「それは山南総長から譲り受けたものだ」
内海は「ああ…」と少し気まずい顔をした。
山南が脱走の罪で切腹になった後、形見分けのように彼の愛蔵書を近藤と土方、希望する隊士たちと分け合った。近藤が半分以上を受け取り、土方は数冊のみ、隊士が何冊か持っていって後の残りを伊東が引き受けたのだ。
「今となっては時代遅れの産物とも言える書物たちだが…どうも捨てる気になれなくてね。今更だが藤堂君に譲ろうかな」
「それも良いかもしれません」
内海は古い書物を端の方へ積み上げつつ、一冊の本を手にした。他のものに比べて読み古されている。
「これは…」
「東湖先生の『回天詩史』だ。…内海がくれたものだよ」
「…ええ、そうでしたね…」
内海はまだ持っていたのかという顔をしたが、伊東にとっては特別な一冊だ。
(これが全ての始まりだったのだから)
伊東が手を差し出すと、内海が手渡す。あの時と同じように。


私が水戸への遊学を果たした際、過干渉な母から逃れられるという解放感に満たされていたが、一方で優秀だった父が藩から追放されたという挫折を抱えていた。父は家老と揉め、蟄居を命じられたが己の志を貫き脱藩、しかし借金が重なり伊東家はすっかり没落してしまった…自由を得た私は父を恨みはしなかったが、その境遇はどこかで卑屈になっていたように思う。
そして弟への複雑な思いもあった。乳母に育てられた弟は自分とは全く違う生き物になっていた…それが母によってがんじがらめに生きてきた自分とは正反対であり、羨ましいと思ってしまったのだ。
そんな私にとって重荷でしかない家族から離れ、ようやく自分の人生を歩み始めた時、水戸藩召し抱えの神道無念流金子道場で出会ったのが内海だった。齢は同じくらいなのに頭ひとつほど背丈が高く、見下ろされているような気分になったのを覚えている。男らしい精悍な顔つきは既に出来上がっていたのだ。
内海は私をまじまじと見ていた。内海と違い、まだ十四だった私は月代を剃らずあどけない幼さを残した思春期であったが、時折男から慰み者を選別するかのような好奇な視線を浴びることがあったので、同じだろうと慣れていた。
私が好戦的に
「…何か?」
と問うと、
「いや」
無口な内海は何でもないと言いながらも私を見ていた。稽古の最中だと言うのにずっと視線を感じ、上から下までじっくりと鑑賞されているかのような不快感があった。
(気味の悪いやつだ…)
そんな内海は浮いた存在だったが、周囲は別の話題で騒がしかった。
この頃、米国の船が来航し数百年続いてきた鎖国から開国へと国が動こうとしていた。土地柄か尊王の志を持つ水戸藩では若者は皆が常に激論を交わし、熱心に学んだ。この道場でも先輩方は暇があれば開国だ、鎖国だと騒がしく、田舎から出てきたばかりの私と無口な内海を除いて皆が熱気を帯びていた。
そのせいか自然と除け者の私たちは距離を縮めることになる。彼のぽつぽつとした言葉が、ようやく続くようになり会話として成立する。どうやら悪い奴ではないらしい…もともと私はお喋りなので無害な奴だとわかれば遠慮はなかった。
そして内海は
「すまない。実は…女子だと思ったのだ」
と初対面の際に不快な視線を向けていた理由を打ち明けた。
「は?」
「田舎にはあまり女子がいなかったのだ。それで…色白で整った顔立ちをして小柄だから『もしや女子なのでは』と疑っていた…」
「…」
私は絶句するしかなかった。いくら私が女顔でもそこまでの勘違いをするような者はいなかったし、それを素直に打ち明けるような正直者にも出会ったことがない。
「は…ハハハ!ハハハ!」
私は笑った。内海は恥ずかしそうにしていたけれど私は大笑いした。
それからは彼とは親友と言える間柄になった。彼と共に道場で剣術を学び、周囲の影響を受けて水戸学にも傾倒した。先輩方がそうであるようにこの国の将来を憂い、行動に移すべきだという気持ちが芽生えた。
数年後、私はようやく内海と肩を並べて歩けるほどの背丈になった。とても女には見えないはずの青年に成長した。
(私は家や藩などの小さなもののためではなく、この国のために働こう…!)
そう思った時にやってきたのは、同じように月日を重ねて成長した弟の姿だった。幼かった弟がまるで知らない男のような顔をして私の前に現れたのだ。
その弟から父が倒れて余命幾許かだと知らされたが、私の心は冷めきっていた。ただでさえ没落し気を落とした姿が目に焼き付いているのに、さらに弱々しくなった父にも会いたくなかったし、束縛の激しい母にはもっと会いたくはなかった。とにかくもう田舎に戻るつもりはないのだと突っぱねたが、弟は強引で了承するまで居座るなどと言い始めるので仕方なく折れた。
何も事情を知らない内海は、
「一度顔を見せて、またすぐに戻って来れば良いじゃないか」
と言ったが、気は進まない。
弟に懇願されたことに従うことへの屈辱もあったが、いま水戸で立ち上がらんとする若人たちの熱気から離れてしまうのが惜しかった。
するとそんな私の心情を察したのか、内海が「これを」と渡してくれたのが『回天詩史』だった。
「不条理に蟄居を申し付けられた藤田東湖先生がその間に書かれたものだ。…大蔵君にとって気の進まない帰路になるかもしれないが、東湖先生のように情熱を持ち続ければ必ず本願は叶う」
内海の木訥として力強い言葉が、私の心に沁みた。私のことをわかっているのは、お前だけだと心底感動した。
(私は親友とも離れ難いな…)
「…ありがとう」
私はそれを受け取り、荷物をまとめたのだ。




「あの時のあなたはとても悲壮な顔をしていましたからね。まるで今生の別れのような」
「そうかな」
伊東が惚けると内海は苦笑した。
確かにあの時、弟に連れ戻されることになりもう帰ってこられないのでは無いかと悲観していた。自由でのびのびとした生活に水を差され苛立っていたのもある。
「ですから『回天詩史』を選びました。東湖先生の不屈の精神を胸に、また戻ってきてほしいという気持ちで…」
「ああ、随分支えられたよ」
結局、田舎に戻って父を見送った後、父が遺した私塾を引き継ぐことになってしまいなかなか道場に戻れなかった。精神的に焦った時に『回天詩史』を開き心を落ち着かせた。
そして内海から手紙が届いた。江戸へ行くことになったこと、一緒に行かないかという誘いに乗ってふたたび家を出ることにしたのだ。
(その後のことは…あまり思い出したくはないな)
愚弟が自分へ抱いていた邪な気持ちと、血がつながっていない兄弟であることを知り困惑した。ただ全てを忘れて一刻も早く逃れなければと家を飛び出たのだ。
「…また内海に再会して心底安心したよ。戻って来られたのだと」
「しかし私は鈴木君に嫌われてしまいました。兄弟水入らずの時間を邪魔してしまったことを怒っているのでしょう」
「だとすれば、あれが子どもなだけだ。いつまでも昔のことをひきずって器が小さい」
伊東が遠慮なく罵倒するのを内海は苦笑して、
「いい加減、仲直りしてはいかがですか。御陵衛士の結束を考えるならまずはお二人の関係からでしょう」
「…」
伊東は何も答えなかった。答えようがなかったのだ。
(修復できるならとっくにそうしている…)
だが、今更数年前の過ちを掘り起こしてどうする。弟が今でも何かしらのしこりを持っているのは間違いないのに。
「考えてみるよ」
伊東はそう言って話を切り上げたのだった。






695


私が内海とともに江戸へ出た頃、世の中はペリー来航で揺れていた。
黒い塊のような軍艦で接舷した異国人は、鎖国を続け外の世界から閉ざされていた人々にとって脅威でしかなく、鬼か天狗か…まるでこの世のものではない恐ろしい怪談のような語り草で瞬く間に広まっていく。
「幕府は強靭な戦力を見せつけられてすっかり弱腰なのだろう。言われるがままに国を開き、条約を結び…いずれ占領されるに違いない」
二十歳そこそこの私は憤っていた。
その頃は私は内海と共に水戸で世話になっていた金子道場の師匠にあたる杉山藤七郎に師事し、道場へ通っていた。水戸ほどではないにせよ若者たちの攘夷への熱気は高まっていたのだが。
「…大蔵君がどんなに優秀でも国を動かすことはできない。俺たちは無力だな」
冷静な内海は熱気に狂うことなく俯瞰していた。私から見れば冷めていると思い、彼の態度をつまらなく感じた。
それから数年は燻ったまま、ただ己の腕を磨いた。剣術だけではない、国学から和歌まで手を出して自分の教養を高めようと努力した。その間にも世間は騒がしく私の心を揺さぶる。
内海は時折、私の話に付き合ってくれたが聞き役に徹して熱心ではなく、どちらかといえば剣術に力を入れていき自然と距離ができてしまった。
そんな日々を過ごしていた冬のある日ーーーその日は朝から大雪だった。
火鉢の前で読書をする私の元へ内海が血相を変えて駆け込んできたのだ。私の姿を見るなり
「いた!」
と叫び全身の力が抜けるように尻餅をついた。寒さで彼の頬が赤く染まり、息は白く沸騰した湯気のように噴き出している。
「ど、どうした?」
いつも冷静沈着な内海が慌てふためいている姿に私の方が驚いてしまう。彼は息を整えつつ口を開いた。
「数日前、佐野から手紙が届いていたと言っていただろう?」
「あ…ああ、誘いがあった。都合が悪く断ってしまったが…佐野がどうした?」
佐野は水戸の金子道場で共に学んだ仲間だ。それほど親しくはないが情熱的な男で行動力がある。
「佐野は死んだ…!佐野だけじゃない、他にも道場の奴らが…」
「な、何故だ?」
「桜田門で大老を…井伊大老を討った。大騒ぎになっている」
「…!」
私はそのあと内海から詳細を聞いて身震いがした。佐野のように一介の浪人に過ぎない名もなき者たちが大老を暗殺した…この震えは驚きからではない、自分のすぐ近くにいた者が世を変えたことに興奮したのだ。正しいとか正しくないとかそういう天秤ではなく、何者でもない者たちが成し遂げたことに感動していた。
「素晴らしい…素晴らしいな!死んでしまったのは残念だが、未来永劫、国を憂い命を賭けた若人として語り継がれるだろうな。私も誘いに乗るべきだったかもしれない」
私は手を叩いて感動していたが、内海はため息をついた。
「…大蔵君は時折、大胆なことを口にする。わからない人だ」
「君は違うのか?」
「俺は…ただ、君が巻き込まれたのではないかとそれしかなかった」
彼が大慌てでここに駆け込んできたのは、ただ一心に私の無事を確かめるためだったようだ。
それがなんだか居心地が悪くて私は話を逸らした。
「…私は内海の方がよくわからない。君はいつも淡々としていて、常に達観している。攘夷への熱意や国を守る気概はないのか?」
「それは…」
内海は少し言葉を選ぶように続けた。
「…人には向き不向きがある。俺は君に比べれば言葉が拙いし、頭も回らない。何か策を立てるのも苦手だし、今回のことも大老を殺すなんて大それたことをよくやったものだと思うだけで、それだけだ。自分がそれに加わりたいなどと思いもよらない」
「しかし…」
水戸を出て江戸に来た。何かを学び得たいという気持ちがないわけがないだろう。
私の言いたいことが顔に書いてあったのか、内海は少し笑った。
「俺たちは同じ道場で同じ師の元に学んできた…だから俺の考えは大蔵君と同じだ。つまり君とともに在ればそれだけで良いんだ。…怠慢かもしれないが」
内海にとって何気ない一言だっただろう。本人の言う通り、考えることを手放した末の怠慢なのかもしれない。
けれど私にはこれからも共に生きるのだという約束を結んだように感じたのだ。それは家族と決別することを選んだ私にとって何よりの言葉であり、喜びであったけれど素直ではない私は、
「…まったく怠慢だ」
そう言って照れ隠しをしつつ、込み上げる己の持て余した感情から目を背けた。
弟の二の舞になってはならない…親友以上になってはならない。失うくらいならこのままで良い。
私は強く自分に言い聞かせたのだ。




朝から蝉の声が響いていた。
「…」
いつも目覚めの良い伊東だが、今朝は夢を引きずっていてあまり良い気分では無かった。
(忘れたつもりだったが…)
過去のことが夢に投影されたのは、昨日内海と昔話をしたせいだろう。もう十年以上前のことを思い出すなんて久しぶりだが、あの日のことははっきりと覚えていた。
のちに桜田門外の変と言われた大雪の事件は、佐野だけではなく同じ道場で学んだ仲間たちが何人も死んだ。喝采と悲嘆が入り混じる出来事が己を奮起させ、ますます尊王攘夷へ歩むことになるのだが内海は伊東ほど過激なことは口にせず、黙々としていたが側を離れなかった。
「おはようございます、起きておられますか?」
「ああ…」
髪を整えつつ内海を迎え入れると、彼はまだ寝起きの伊東に少し驚いたようだった。
「珍しいですね、いつも朝は早いのに…」
「…長い夢を見ていたんだ。それで何か急用か?」
「土佐の石川という者から文が届いています」
伊東はその名前で一気に頭が冴えた。内海から急いで文を受け取り、さっと目を通した。夢の余韻が消し去った。
「…朗報だよ。近々、お会いできそうだ」
「土佐…というと、例の大政奉還の件ですか」
薩長はその同盟によって軍力を高め討幕へと動き始めている。それを平和的に政権移行を進めようと仲介しているのが土佐であった。
「私は幕府は既に用済みだと考えているが、薩摩や長州がこれからの政治を動かすというのも気に入らない。彼らは秘密裏に異国と手を結び銃などを買っている…もし彼らの世になればこのまま異国に侵略されるかもしれない。それ故に土佐の動きには注目している」
「…しかし大政奉還など、信じられない話です。徳川は三百年ほどこの国を収めてきた…簡単に手放すとは…」
現実味がない、と内海は否定的だった。しかし御陵衛士として方々で情報を得た伊東にとってはそうではない。
「どうかな…すでに薩摩と土佐の間で密約が結ばれているという噂もある。大政奉還が実を結ばなければ戦になるだろう、そうなった時に薩摩や長州の軍事力に幕府が勝っているかどうか…」
伊東は文にもう一度目を落とした。
「ぜひ土佐の今後の展望を伺いたいと思っているんだ。土佐にはいろいろな考えを持った志士がいるが、この石川殿なら良い情報を得られるだろう」
石川誠之助…中岡慎太郎の変名だ。陸援隊の隊長となった彼は薩長同盟や薩土密約にも関わった大物であり、ずっと伊東が面会を希望していた相手でもある。
「良かったですね」
内海はそう言ったけれど、言葉ほどには喜んでないように聞こえる。淡々として抑揚がなく顔も変わらない。けれど本当にそう思っているからこそ、口に出して言葉にしている…それを知っているのは伊東くらいだろう。
彼とは常に対等だった。齢も近く互いに『親友』だと自負していたのに、彼は敬語を使い伊東と分かりやすく距離を取るようになった。それはいつからだったか。
(私が…伊東に婿入りしてからだな…)
夢の続きを思い出す。
それは悪夢ではないが、記憶の奥底に自ら蓋をしていた現実である。










696



桜田門外の変の翌年、私は江戸深川の伊東道場で塾頭を務めていた。
もともとは神道無念流を学んでいたが、北辰一刀流も修行を重ねておりその縁で伊東誠一郎先生と知り合い、招かれたような形だった。
伊東道場は古くからの名門で内弟子は十名ほどの道場だったが、先生とは気が合い内弟子たちも熱心な粒ぞろいばかり…今までで一番居心地が良かった。そしてその道場に出入りするようになったのが共に新撰組へ入隊することになる加納鷲尾だった。彼はやたらと噂好きだった。
稽古が終わると、
「先生もなかなか隅に置けませんな」
「何のことだい?」
「お気づきでしょうに…ほら、おウメさんが」
加納は誠一郎先生の娘であるおウメさんが道場を覗いているのをわざわざ知らせてきたのだ。彼女は道場では目立つ存在だ。色白の細身でまるで絹の糸のように繊細で儚げな印象を持つ。そんな彼女が道場を覗けば皆が色めき立つし、視線を感じていたので彼が言いたいことは理解していた。
「近所では美人と評判ですよ。もう年頃だろうから良いご縁があるのではないかとか。…先生のことを熱心にご覧になっている」
「そうだね、嫁の貰い手には困らないはずだよ」
「ハハハ」
敢えて我関せずの態度を取ると、加納は笑い飛ばして別の弟子のところへふらふらと去っていった。
すると入れ替わるように、同じく道場に出入りしている内海がやってきた。彼も私を追いかけるようにこの道場に通うようになっていたのだ。
彼は眉をハの字にして困ったような顔をしていた。
「大蔵君、伊東先生のお嬢さんに茶でもどうかと誘われたのだが」
「光栄だな。誘いに乗ったら良いじゃないか」
「俺とサシのわけがない。…君も一緒にとのことだ」
内海は(頼むから来てくれ)という顔をしていた。もう二十五を過ぎていると言うのに特に色恋に関して初心な内海はおなごに声をかけられただけで固まってしまうような堅物なので、これは一大事なのだ。
「わかった、わかったよ」
私は苦笑しつつ助けてやることにしたのだが、相手はおウメだけではなく父である伊東先生も同席していた。一気に場の雰囲気が畏まる。
(どういうことだ?)
と私は視線を向けるが、内海も首を横に振る。どうやらからも事情を知らないようだ。
「そう固くならずに。評判の菓子が手に入ったからご馳走しようと思ってね。おウメは最近茶に凝っているんだ、是非飲んでやってほしい」
伊東先生はご機嫌でそうおっしゃっる。おウメは恥ずかしそうにしながらも、洗練された動作と作法に則った美しさで私と内海に茶を立ててくれた。
「鈴木君の家は志筑藩の目付だったかな?」
先生は私の素性については知っているはずなのに尋ねてくる…本題の前振りなのだろうと思いつつ、私は素直に応じた。
「…ええ、父はすでに亡くなりましたが」
「君が家督を継いで、母君と弟君が故郷に?」
「そうです。ただ家督と言ってもすでに一度は追放されたような家柄ですので、さほどこだわらず自由にさせてもらっています」
藩の家老と袂を分かち、一度追放された父は数年後に許されたが元の役職には戻れずに塾を開くこととなった。それ故に私は家督を継いだと言ってもそれは名目上のもので、実際の形として家も役職も何もないのだ。
「そうか。…あまり回りくどく言っても聡い君なら察してしまうだろうから単刀直入に言おう。このおウメを嫁にして我が家に婿入りするのはどうだろうか」
私は伊東先生の率直な物言いが好きだった。煩わしい詮索をしない江戸っ子の気質が心地良いのだ。だからこそ、確認のように家のことを尋ねてきた時から、何となく察してはいた。だが
(何も内海を同席させなくとも…)
内海と一緒なら茶の席を拒まないとでも思ったのだろうか。
「…大変、ありがたいお話ですが…」
「私は君をこの道場に誘った時から婿にしたいと思っていたんだ。君は勤勉で努力家で、見た目も人柄も良く、門弟からも慕われている。家督を継いでいるということが気になっていたがそれも問題ないというのなら何も差し支えはない。加えて、おウメも君のことを気に入っている」
「ち、父上…」
年頃のおウメは顔を赤らめて恥ずかしそうに俯いたが、父である先生は「ハハハ」と笑うだけだった。
「君も年頃だし、悪い話ではないのではないか?そう思うだろう、内海君」
先生はそれまで何も反応のなかった内海へ話を振った。私はなぜか心臓の鼓動が跳ね上がるような心地だった。
(内海…)
彼が何と答えるのか、私は待ち構えた。
「…はい。良いお話だと思います」
内海は相変わらず表情の読めない淡々とした言い方をした。伊東先生は満足そうにまた笑って、おウメも俯きながらも微笑んでいた。
私だけが
「少し考えさせていただけますか…?」
とぎこちなく答えるので精一杯だった。

その夜。
私は内海と共に酒を飲んでいた。時折息抜きに通う旅籠の一室だ。女中に旨い酒と肴を運ばせて大いに酔った。
「友を売ったな」
私は半分冗談、半分本気で内海に詰め寄ったが彼はびくともしない。
「まさか。婿入りなんて本当に良い話ではないか」
「君がそう言ったからすっかり先生とおウメさんは乗り気になってしまった。もう嫁入り道具がどうとか、花嫁衣装がどうとかそんな話をしていたではないか」
先生はせっかちで気が早い。明日までに返事をして欲しいと急かし、すっかり決まったものだと浮き足立っていた。
内海は酒を口に運ぶ。
「…だが、実際に良い話じゃないか。先生は道場を継いでほしいと仰っているのだろう。願ったり叶ったりだ」
「そんなことはない。私は…また家だとか、道場だとか、そんなものに縛られるのは御免だ」
「だったらこの後はどうするつもりなんだ」
「それは…」
私は口ごもる。相変わらず尊王攘夷の志は私の中に燃えたぎっているが、明確な目的や手段があるわけではない。むしろ北辰一刀流の道場主という箔がつく方が良いのかもしれない。
内海は昆布の佃煮をつつく。
「大蔵君はおウメさんの気持ちには気がついていたのだろう。娘を溺愛する伊東先生ならいずれこの話を持ってくるとわかっていたはずだ」
「…それはそうだが、かわしていたつもりだった」
「君は人が良いというか、優等生すぎる。はっきりと拒めばおウメさんだって早々に諦めただろうに」
「…先生のお嬢さんにそんな真似はできないだろう、普通…」
「そういうところが甘い」
内海は的確に私の心情をついてくる。数年来の親友には、いま私が彼女を拒みきれなかったことで後悔しているとわかっているのだ。
私はやけ酒のような気持ちで煽る。今夜の酒はよく回る。
「じゃあどうすれば良いというんだ?」
「良い話だと思えば受ければ良いし、嫌だと思うならやめれば良い」
「そうできたらどんなに楽か」
「大蔵君は好きな人はいないのか?」
「は?」
「嫁にしたいような女がいるのか?」
私は堅物の内海から『好きな人』という思春期のような言葉が本当に出てきたのかと疑いたくなった。彼と知り合って数年、色恋の話は何度かしたことがあるが、いつも彼からはそっけない返答しか得られなかったので、興味がないのだろうと思っていた。
一方で私は、嗜みだと思い女遊びは経験していた。誰かに入れ込んだことはないのだが。
「…そんな女はいないが、少なくともおウメさんを嫁にしたいと思ったことはないな」
繊細ですぐに折れてしまいそうな彼女では、胸の奥に攘夷の熱情を秘めた私の相手など務まらないだろう。
内海は「答えが出ている」と指摘した。
「では断れば良い。明日まで待ってくださるというのだから、明日断っても問題はない」
「…そうは言うが…今後も世話になるのだ。無下にできない」
「それは耐えるしかない」
内海はどこか他人事のようにはっきりといった。それは彼らしいと思っていたけれど、いつも以上に冷たくも聞こえる。
「…内海だったら、断るのか?世話になった先生の娘さんだぞ。今後居心地が悪くなるに違いないのに」
「勿論だ」
「じゃあ、どうやって断る?」
「好きな人がいる、と言う」
「…」
現実味のない返答だ。しかし内海は冗談ではなく本気だったようでまっすぐに私を見据えていた。
「…本気か?君にそんな浮いた話があるなんて。聞かせてほしいよ」
「誰にも言ったことはないし、成就するまでは誰にも言うつもりはない」
「はぁ…相変わらず堅物だな」
私は「もっと飲め」と内海に酒を注ぎ、自分にも手酌した。
(内海にもそういう相手がいたのか…)
親友であるはずの私にも漏らさず、心の中に秘めておくなんて奥ゆかしい一面に驚いた。そんな風に思われる相手は幸せだろうとも思った。
その後は同じ話の堂々巡りで、次第にお互い酒が回ってしどろもどろになった。特に内海はいつも平然としているくせに、今夜ばかりは酔い潰れて眠ってしまったのだ。
「…全く、結論が出ていない、結論が…」
私はブツブツ言いながら酒を啜る。
自分の気持ちを優先すべきだという本心と、ここで身を固めるのも決して悪くはないという計算がせめぎ合っていた。確かに良い話なのだ。
(だが…私は、この縁談が上手くいかないことを知っている)
私は表向きは内海の言う通り優等生に見えるだろうが、家族を捨てたことのある冷徹な人間だ。不要なものは切り捨て自分の考えを貫き、今でも尊王攘夷のためなら命を擲って働きたいと願っているのだ。きっとおウメさんが望むような安寧な暮らしは送れまい…いつか彼女を捨ててどこかへ行ってしまうような非情な夫になってしまうだろう。
(やはり…だめだ、無理だ。断るべきだ)
私はブルッと身体が震えるのを感じた。夜も更け隙間風がすっかり冷たくなってしまったのだ。
「風邪を引くぞ」
眠った友に声をかけるが、彼は目を閉じたままだ。私は仕方なく自分の上着をかけてやったのだが。
「…」
私は内海をじっと見た。寝ていても無口で可愛げがない男だ。
数年来の親友は今宵は良く酔い、らしくないことを口にした。まだ私の知らない一面があるのだと微笑ましく思う。
(私のことを一番わかっているのはお前だ)
親友という言葉が恥ずかしげもなく似合うのは、この男くらいだ。唯一無二の存在は、嫁にも代え難い特別なものだ。
私は家に収まるよりも、この男とともに道なき道を歩いてみたいと思う。いつか荒れ狂う荒波の中を進むことになったとしても、彼は私の道標になることだろう。
「…内海、」
「なんだ?」
彼は目を閉じたまま返事をしたので驚いた。
「寝ていなかったのか?」
「寝ていた。今、呼ばれたから起きた」
「酔っているか?」
「ああ、しこたま酔っている」
「ふふ…そうだな。君は素直な男だ」
彼が目をゆっくり開き、しばらく見つめ合う。私は彼の返答を待っていたのだが内海は何も答えず手を伸ばし、私の後頭部に触れた。(何だ?)と思った途端に引き寄せられ、体勢を崩した私はそのまま彼の上に覆いかぶさるようになってしまった。
「おい…」
私は固まっていた。身体も、頭も、何もかもが真っ白になった。酔いがすっかり覚めて、ただただ唇に感じた生々しい感触だけを感じていた。
「…う、…み」
一体何が起きたのか、混乱してわからない。理性では彼を拒みたかったのに、感情は満たされてしまう。
その一瞬で私は私がわからなくなっていく。
けれど、
わからないけれど、思い出した。
ーーー弟とも同じことをした。
そして訣別した。
忘れろと言って、気が付かないふりをして、拒んだ。何もかもを捨てた。
それを思い出した私はただただ、
(内海を捨てたくはない…!)
そう思った。
友情か、愛情か…答えはどうだって良い。だが弟のように彼を切り捨てられない。彼と培ってきた日々を忘れることができない。
私は彼の胸板を押して離れた。内海は少しだけ動揺したように見えたけれど、すぐに再び眠り始める。それが狸寝入りだとわかっていたけれど全て酔いのせいにして、何事もなかったかのように振る舞う…お互いにそれでよかったのだと思う。
なぜなら、私は答えが知りたいではないからだ。内海が酔っていたせいでこんなことをしたのか、それともそうではないのか、そんなことを知ったところでどうしようもない。

そして、私は決意した。
翌日、婿入りを受け入れると返事した。伊東先生は喜び、おウメさんは涙を流していたけれど、私にとって彼らは手段でしかない。北辰一刀流の道場主という看板を掲げて、私は新たに歩み始める。親友の内海と共に。
内海はあの夜のことを忘れたようだったし、おウメとの結婚を喜び、そしていつしか彼は私を「大蔵先生」と呼んで敬語を使い始めた。道場主と弟子の関係である私たちに相応しい距離感が出来上がったのだ。






697



夏の合間に雨が降った日だった。
「…陸援隊の石川誠之助ですか」
斉藤は伊東に呼び出されていた。いつもそばに控えている内海の姿もある。
「今年の二月に太宰府へ行った際に彼に少しだけ縁ができたのだが彼は今、京で陸援隊の隊長を務めている。その彼と柳馬場で先日面会を果たし、土佐の考えや幕府との折衝について詳細を聞くことができた。土佐は今後幕府との関係において重要な役割を果たすだろう。そして、我らは協力できるはずだと考えが一致した」
「…中岡慎太郎は倒幕派の中でも評判の良い人物です。人望があり約束を違えぬかと」
「さすがに君は変名だと知っているな」
斉藤は(試されたのか)と少し不快になったが、人を唆すのが得意な伊東なのでそれは聞き流すことにした。
「彼は土佐の大物だ。陸援隊としても存在感を示している。連絡を取り合うのは容易ではないし、倒幕派には我々を新撰組の一部だと疑っている者もいる。表立って頻繁に会うのは難しい。…そこで御陵衛士からひとり、陸援隊に加盟させようと思うのだ」
伊東の視線で斉藤は察した。
「…俺に、ですか?」
「斉藤先生は腕も立つし情報収集に長けている。適任だと思います」
斉藤は伊東に尋ねたのだが、返答したのは内海だった。無表情な彼の瞳の奥にはまだ斉藤への疑いがあり、邪魔者を遠ざけようとしている意図を感じた。
伊東は少し困ったような顔をしていた。
「…と、内海がそう言うのだが、私は君にはこちらに留まってほしいと思っている。陸援隊からの情報は、幕府や会津と繋がりのある君を手放すほどのことではない。そこで君の考えを聞きたいのだが」
伊東はあくまで微笑んで斉藤の意思を確認しようとしていた。斉藤は少し考えた。
(伊東はまた俺を試しているのか?それとも…)
どう答えるべきが正しいのか。もちろんさまざまな立場を考慮すると御陵衛士に残るべきだと思うが、それを強固に主張するとかえって疑われないか。
(それに…これ以上、遠くへ行くのは気乗りしない)
せめて目の届く場所で、総司の状況を見守っていたいーーーそれは私情でしかなく、口にできない理由だ。
斉藤が答えあぐねていると伊東は
「…内海、やはり斉藤君は気が進まないようだ。他を当たろう」
とあっさり引き下がった。
「大蔵さん、しかし…」
「私は最初から橋本君が良いと思っていたんだ。彼は新撰組では伍長を務めていただけあって腕も立つし、真面目で約束を違えぬ。きっと邪心なく任務を全うしてくれるだろう」
「…わかりました」
内海は渋々ながらも受け入れる。斉藤はほっと安堵しつつ「申し訳ありません」と頭を下げた。同時に伊東がなぜ引き下がったのか疑問に思った。
しかし伊東は語らずに「橋本君を呼んできてくれ」と内海に頼んだ。彼が出て行って、部屋には二人きりになる。
「…では、俺も…」
「いや、少し話がしたい」
「…」
斉藤は浮かしていた腰を再び据えて、伊東の前に座った。彼は改めてまじまじと斉藤を見ていた。
「…君はこのところ、様子が変だ」
「…」
突然の思わぬ指摘に斉藤は驚いた。表情には出ていなかっただろうが、伊東なら些細な変化も気がつくだろうと思い身体が強張ってしまう。
「変…とは、どのように」
「藤堂君に聞いたよ、先日酔い潰れてしまったのだろう?君はあの正月の居続けでも散々飲んだがちっとも酔い潰れなかった。それにこのところずっと難しい顔をして遠くを見ている…眉間の皺が板についてしまいそうだ」
「…それは」
「君がいつからそうだったのか、ふと考えてみると沖田君の病を知らせてきた時からだ。君はずっと彼とは親しかったし思うところがあるのだろうと思ってね」
「…」
斉藤は何も答えられなかった。
(俺は間者失格だな…)
ずっと役割を全うしてきたのに、総司が労咳だというだけで表情に出てしまうとは。いくら伊東が察しが良いからといっても、斉藤は今すぐにでも己を罰したい気持ちでいっぱいになった。
けれど伊東は微笑んだままだ。
「君の人間らしい一面が見られて私は安心した。先ほどの話も『行きたくない』という気持ちがありありと見えていた」
「…申し訳ありません」
「謝ることはない。たとえ道が違えてしまっても、友であることは揺るがないのだ。…残念ながら私の立場では『見舞ってきたらどうか』などは言えないが、君自身にそうした気持ちがあるのを否定しなくても良い」
斉藤は初めて、伊東という人物の素顔に触れた気がした。もちろん油断はできないが、いまこの瞬間の彼は本音を話しているのだろうと思えたのだ。
伊東は少し目を伏せた。
「…家族でも友人でも…何事も、素直であることが一番良い。私は今までそれに気が付かず色々なものを失ってきた。それがもう取り戻しようのない過去になってしまった」
「…」
「ふ…少しお節介を焼いてしまった。もうすぐ内海が戻ってくるだろう、君は戻って良い」
「かしこまりました」
斉藤は頭を下げて部屋を出た。
今まで伊東は癖のように扇を取り出して語ることが多かったけれど、先ほどは全くそれがなかった。あの扇は物事を論じる場での彼の武具であるため、彼自身の本音から出る言葉の前では必要ないものなのかもしれない。
そして垣間見た伊東の過去は斉藤にはあまりわからなかったけれど、あれほど如才なく振る舞う秀才でも『後悔』と言うものがあるのかと少し意外だった。伊東は斉藤の人間味を見たと言っていたが、同じ言葉を返したいくらいだ。
斉藤はふと足を止めた。夏の空が雲に覆われてその日差しが遮られる。
(雨が降りそうだ…)



「変な天気だなあ…」
総司は空を見上げて今後の天気を憂いた。
今日は一番隊単独での巡察だ。相変わらず土方が同伴すると言ってきたけれど、
「隊士が萎縮するからやめてください」
と丁重に断った。山野からの手厚いサポートで十分だった。
伍長の島田が「先生」と声をかけてきた。
「先日、この先の旅籠に不逞浪士滞在の情報がありました。自分が死番ですので見回ってきます」
「わかりました」
島田ともに数名の隊士が方々へ散っていく。
隊士たちがあちこちと見回りをするとき、総司は旅籠が立ち並ぶ一角で隊士たちの働きを眺めながら悠然と待つのが仕事だ。以前は彼らと共に最前線に立っていたけれど今では遠慮されてしまうのでこうして万が一に備えることにしている。
それを最初は役立たずだと嘆いていたけれど、今は慣れた。隊士たちの動きを見ているのも仕事であるし、
『大将ってのはそういうもんだ』
と土方はあっさりと肯定してしまったからだ。
(僕は大将なんて器じゃないけれど)
総司は思い出して苦笑する。しかし土方の言う通り、いつまでも組長が前線で仕事をしていては後進は育たないのかもしれない。
「…あれ?」
ポッ、と頬に冷たさを感じて見上げると雲が厚く広がっていた。このまま降り出すだろうと思い、『身体を冷やすな』と山野に叱られては困るので近くの軒先に避難する。ちょうど店じまいした旅籠の前だったので邪魔にならずに助かった。
「早めに切り上げた方が良いなぁ…」
空はどんどん暗くなっていく。夏の雨は助かるがたまにそのまま嵐になってしまうので容易には喜べない。
しかし隊士たちは熱心にあちこちの旅籠を回っているようで引き揚げてくる気配はない。
(しばらくここで待っていよう…)
そう思った時、不意に背後に温かいものを感じて驚いた。それは羽織で肩がそれ触れるまで何の気配も感じられなかったのは、さすがだった。
「…斉藤さん…」







698


雨はすぐに本格的に降り始めた。
見回りに出ている隊士たちには不運だろうが、二人の再会にとって人の目から隠されるようで都合が良い。
斉藤はしばらく黙って総司を見ていた。総司もまたそんな彼から目を離すことができずに彼の言葉を待った。
「…少し、話をしても良いか?」
斉藤の前置きが、今の二人の関係を示しているようだった。ずっと友人として接してきたのに互いの了承がなければ会話することもままならない。もどかしいが互いの立場上仕方ないことだ。
「ええ、隊士もしばらく帰って来ないだろうし、私は構いませんが…」
「ちょうど良い、中に入ろう。この店は随分前に潰れている」
斉藤はガタついた扉を強引にこじ開けて廃屋となった旅籠の中に入ったので総司も続いた。少し埃っぽいが周囲の目を気にしないで済む分、気は楽だった。
総司が髪や肩口の雨粒を払っていると、斉藤は前置きもなく
「…身体の具合は?」
と尋ねてきた。あれから鈴木に労咳の件は詳しく聞いたのだろう。
「大丈夫です。松本先生や英さんにも良くして頂いているし…こうして隊務にもちゃんと出られていますから」
総司はいつも通りに振る舞うが、斉藤の表情は冴えない。難しい顔をして腕を組んでいた。
「…任務から離れて、療養するつもりはないのか?」
「ありません。散々考えて出した結論です。…でも心配してくださるのはとてもありがたいと思っています」
「土方副長も同じ考えか?」
「…土方さんは、きっと斉藤さんと同じように思っていたと思います。でも…私の意向を尊重して自分を納得させてくれたんだと思います」
土方の本心はもしかしたらまだ変わってないのかもしれない。任務から離れて療養すれば本当は安心させることができるのだろうけれど、それをおくびにも出さずにいてくれるのもまた、彼の選択だ。
「…そうか」
斉藤は小さくため息をついた。総司の答えはわかっていたのだろうが、改めてそれを聞いても受け入れがたかったのだろう。
「斉藤さんは…やはり、納得できませんか?」
「俺を納得させる必要なんてないだろう。あんただって…そのつもりで俺に何も言わずに、見送った」
「…」
斉藤の言い方は淡々としていたけれど、言葉には少しの憤りがあった。けれど総司は(その通りだ)と思った。
「…斉藤さんは私を信頼してくれているのに…私は何も言わなかったのは事実だし、謝ります。でも今更何を言っても言い訳になるのはわかっていますが、あなたの足枷になるのが嫌だったんです」
「聞いたところで御陵衛士として隊を脱けるのを取りやめることはなかった」
「でも苦しませたでしょう。それに…結局、こうして無理をして会っているじゃないですか。私たちは接触を禁じられた間柄です」
ゴロゴロと遠くで雷が鳴っていた。雨が強くなり、ポツポツと聞こえてくるのであちこちで水漏れがしているのだろう。
二人の間にはぎこちない沈黙があった。それを雨音が埋めているようだ。
「…斉藤さん、英さんにも伝言を預けましたが、私のことを心配しないでください。皆が助けてくれるし無茶はしません」
「心配するなと言われて、誰がすんなり受け入れるものか」
「それはそうかもしれませんが…他に言いようがありません」
「心配させないように療養すれば良い」
「だからそれは…」
まるで子供の喧嘩の応酬のようだ。けれど斉藤の表情は真剣で決して冗談を言っているわけではない。
総司は少し息を吐いた。
「…斉藤さん、私はこの生活がそんなに長く続くわけがないと分かっています」
「…」
「このところ、血を吐く間隔が短くなってきました。稽古だって口を出すだけで、任務も眺めているだけです。私は誰に言われなくとも療養せざるを得ない状況が近づいているとわかっているんです。だから今は…自分を納得させるための時間なのかな、もう使い物にならないって」
雨で閉ざされた場所のせいか、新撰組ではない斉藤だからこそなのか次々と本音が溢れてきた。どんなに明るく振る舞ってもどうしようもない現実は押し寄せてきて、気がついていないふりをしているだけで一番わかっているのは自分自身だ。
「…もしかしたら、斉藤さんに言わなかったのはあなたには知らないで欲しかったかもしれません。何も知らず、憐れまず、接してくれる方が気が楽だった…まあもう取り返しはつかないし非現実的ですけどね…」
誰もが病人として自分を見ている。それは当然のことだけれど、そうしないでいてくれる人がいるのもまた心の支えとなったのだ。
総司は思わず俯くと、斉藤がこちらに近づいてきた。何かを堪えるように強く組んでいた腕を解き、そのまま強く総司を抱き締める。
「さい…」
「こうやって会うのは最初で最後だ。俺はただ…伝えたかったことがある」
「伝えたかったこと…?」
「今、俺には何もできない。あんたの愚痴を聞くことも任務を助けることも…何もできることはない」
「…」
「だがいつか必ず隊に戻る。その時まで…生きていてくれ。その後は約束を果たす」
力強い言葉だった。
総司は斉藤に抱きしめられ、雨で冷えた身体が暖かく火照るのを感じた。少し懐かしいように感じたのは気のせいではない。
(やっぱり斉藤さんは…新撰組を裏切ったわけじゃない…)
信じていたけれど、彼の言葉で確信へと変わり安堵する。おそらく土方から御陵衛士に加わるように指示を受けたのだ…伏せておかなければならないその事実を伝えてくれたことが彼からの信頼の証なのだと感じた。
そして短くも飾らないストレートな『生きていてくれ』という願いが、少し折れかけた心を奮い起こさせる。
総司は斉藤の背中に手を回した。これは恋情の類ではなく、親愛なる友への回答だ。
「……わかりました、約束します。斉藤さんが戻るまでちゃんと生き延びます」
「ああ…」
斉藤が一層強く抱きしめる。そんな彼に総司は尋ねたいことがあった。
「斉藤さん、一つ聞いても良いですか?」
「なんだ?」
「鞘に結んだ組紐…邪魔じゃないですか?」
ここに入ってきた時から気になっていた。かつて見慣れた組紐は斉藤の鞘にまるで蔦のように絡みついていたのだ。
二人は自然と離れた。斉藤の表情は少し和らぎ、
「邪魔だと思ったことは一度もない」
と答えた。刀にはこだわりがあり寸分の狂いが生死を分けると手入れを欠かさなかった彼にとって、単なる装飾品は邪魔でしかないはずだ。しかしそれでも…たとえ足枷になっても必要としている…彼はそう言いたかったのだろう。
雨音が少し止んだ。外から聞き覚えのある隊士たちの声が聞こえ、その騒がしさから総司を探しているのだとわかった。斉藤は「裏から出る」と人目を避けるべく背中を向けたが、
「斉藤さん、羽織を…」
と総司が引き止めた。肩からかけられた彼の羽織がそのままだったのだ。脱ごうとすると
「そのまま着ていけ」
と止められた。
「でも返せなくなってしまうし…」
「次に会った時で良い」
次に会えるのが一体いつなのかわからない。けれどそれはさほど遠い未来ではないのではないかーーー二人の間には共通してそんな感情があった。
総司は受け取ることにした。
「会えて嬉しかったです。…無事に隊に戻るのを待ってますから」
「…ああ」
斉藤は裏口へと消えていく。彼の足音は雨音に混じってやがて聞こえなくなった。
総司は入ってきた表口から外に出ると、雨は小雨となり視界は開けていた。
「先生!こちらにいらっしゃったのですか!」
山野が総司を見つけて駆けつけた。どこかで血を吐いて昏倒していると思ったのか、青ざめていた。
「…すみません、すこしこちらで雨宿りをしていました」
「良かった!突然の雨でしたから心配していました」
「ええ…本当に、突然でしたねぇ…」
小雨さえも上がっていき、雲の合間から日差しが差し込んできた。
それは泡沫のような時間だった。






699


今日は夏の日差しが厳しい。
土方は団扇を手放さず、自分に向けて仰ぎ続ける。手元には監察からの報告書があった。
(陸援隊か…)
報告によると、御陵衛士は元隊士であった橋本皆助を潜入させ情報を得ることになったらしい。中岡慎太郎と伊東が顔見知りであったのは知っていたが、そこまでの仲だとは思いもよらなかった。
一方で、新撰組でも顔の知られている橋本を潜入させるということはこちらへ隠すつもりはないということだろう。いずれ伊東は陸援隊で得た情報を新撰組に流してくるのかもしれない。
(鵜呑みにはできないが…)
「大石」
「はい」
大石はまるでそこにいる家具の一つのように動かなかったが、土方が呼ぶと返事をした。以前は一隊士でしかなかったが今では監察として重宝している。
「伊東たちが分離した後に入隊した隊士で、監察として使えそうな奴はいるか?」
「…村上謙吉はどうでしょうか」
「ああ…」
大石が出した名前で、土方はすぐに彼のことを思い出す。入隊はついこの間で剣の腕にさほど優れているわけではないが、長州出身なのだ。本人は藩のやり方が気に入らないと脱藩して加わった変わり者で、間者を疑う背後もないことから平隊士として入隊させている。
「やはり、他の隊士から煙たがられているか?」
「疑う隊士はいるようです。本人も疑惑を払拭したいと功を焦っているところがありますから監察に回せばよく働くでしょう。素養はわかりませんが…」
「ちょうど良いな。呼んできてくれ」
「わかりました」
大石は監察がすっかり板についたのか足音も立てずに去っていった。
西国訛りがある村上は倒幕派や西国の連中のなかにうまく溶け込むことができるだろう。長州出身だと言えば、まさか仇敵の新撰組の隊士だと誰も思うわけがない。
(陸援隊に潜入させるのにうってつけだ)
土佐の動きを探らせるのも目的だが、御陵衛士の橋本を張らせるのも任務だ。彼らが伝えてくる情報が正しいのかそうでないのか…見極めることができるだろう。
「暑いな…」
土方は一層早く団扇で仰いだ。そうしていると足音が聞こえてきた。大石のものではない。
「土方副長、宜しいですか?」
顔を出したのは山野だった。
「なんだ?」
「文が届いています」
「…」
土方は少し嫌な予感を覚えながら受け取ったが、開く前に「あの」と山野が口を開いた。
「…その、医学方に弟子入りさせて頂ける件、沖田先生から伺いました。僕の我儘を聞いてくださってありがとうございます!」
山野は深々と頭を下げた。本人と総司からの申し出を受け、あくまで隊士の仕事を優先させつつ正式に山崎の弟子として南部診療所で指導を受けることになったのだ。
「いや…総司の身近に医学の知識がある者がいるのは良いことだ。助勤の山崎は忙しいし、近藤局長も喜んでいた。…一番隊の任務も怠るなよ」
「はい!」
一番隊と医学方の兼務は大変だろうが、本人はやる気を漲らせている。真面目で忠実な山野ならやり遂げるだろうと総司は太鼓判を押していたので、心配はしていなかった。
山野が去り、土方はようやく文を開くことにする。優雅で緻密な筆跡…このところよく届く手紙に土方は少しため息をついた。


賑やかな妓楼で浅羽はひとり酒を飲んでいた。
誰の視線もないというのにピンと背筋を伸ばし嗜む姿は武士の鏡というよりもやり過ぎなくらいの清らかさだ。
「供のものはいないのですか?」
呼び出された土方が尋ねると彼は「必要ありません」と笑った。
「こんなところに通っていると噂になるのは不本意ですから。あくまで目的を果たすために足を運んでいるのです」
見た目は持て囃されそうな涼しげな美男だが、会津藩士らしい堅物ぶりだ。
話によるとちょうど昨晩、浅羽の探す『麻呂殿』がここに登楼したらしい。もしかしたら連夜やってくるかもしれないと期待してやってきたが目論見は外れてしまったようだ。しかし世間知らずなのかそのまま踵を返すわけにいかず、店に上がることになり手持ち無沙汰故に事情を知る土方を呼び出したようだ。
「…女を呼ばなければ悪目立ちします」
「そういうものですか?じゃあ誰か呼ぼうかな…土方殿は懇意にしている女が…ああ、いやこういうところには来られないんでしたね」
素直な浅羽は困ったな、と首を傾げるので、土方は仕方なく新撰組が懇意にしている島村屋の芸妓を呼ぶことにした。口が固く、金を積んで情報を流させている協力者でもある。
「新撰組でも情報は掴めませんか」
「…申し訳ない。監察でも『麻呂殿』のことは噂程度にしか把握していないようです。祇園だけでなく、島原や上七軒にも足を運び、豪勢に遊んで暫くは来ない…その繰り返しだとか。懇意の女もいないそうです」
「そうですか…」
浅羽は残念そうに顔を顰めたので、土方は軽く頭を下げた。
「引き続き調べさせます」
「かたじけない。…頼み事ばかりをするのは申し訳ないので、なにか聞きたいことがあれば私に答えられる範囲ならなんでもお答えしましょう」
芸妓が来るまでの場繋ぎなのか、浅羽が提案する。気軽な雑談のつもりだったのだろうが、土方が
「…では、大政奉還の噂について」
と切り出すと少し沈黙した後に苦笑した。
「ハハ、その件ですか。我が藩でも最近はその話で持ちきりです。まさか薩摩と土佐が手を結ぶなんて」
「…薩摩と土佐が…?」
土方は驚いた。近藤からは怪しい動きがあると聞いただけで手を結んでいるとは知らなかったのだ。
浅羽は猪口を置いた。
「昨年の二度目の長州征討の失敗から家茂公が亡くなり、帝も崩御され…将軍職に就かれた慶喜公も舵取りに苦心され幕府の権威は失墜しています。加えて十二月には神戸港の開港が迫っている…英国、米国、仏国が圧力をかけていますが、朝廷は開港に反対しています。この混乱した状況で開港に踏み切れば、我が国は二分され混乱し、異国の意のままになってしまうでしょう。…我が殿もそれを憂いています」
これまで、土方は近藤から状況を耳にするだけであくまで自分とは遠い場所の話だったが、浅羽の物言いは切迫していた。会津藩の小姓頭の彼にとっては身近に迫る危機なのだろう。
浅羽は続けた。
「倒幕を迫る薩摩を宥め、土佐が間に入り平和的に政権を移行する…それが大政奉還であり、二藩の密約のようです。朝廷中心の政へ回帰するのだと」
「…実際、大政奉還は実現すると?」
土方の問いに浅羽は一層渋い顔をした。
「わかりません。幕府に与する諸藩にはなかなか理解されないでしょう…ですが殿は、それも悪くない手立てだとおっしゃいます。今の幕府には国をまとめ、異国に敵対しうる力などないと…」
「…まさか、慶喜公は本当に政権を返上すると?」
「どうでしょうか…慶喜公のお考えは、殿も図りかねているようです」
浅羽は明言を避けた。彼は客観的に私見を交えず話すように努めているようだったが、時折苛立ちのような憤りのような感情が見え隠れしていた。
(当然だ…いままで会津がどれほどの犠牲を払って幕府を守ってきたか…)
『京都守護職』という貧乏籤を引き、新撰組のような素性の知れぬ浪人集団をお抱えにしてまで尽力してきたのだ。もし慶喜公があっさりと政権を奉還したとすれば納得ができないだろう。
浅羽は一口、酒を含んだ。
「土方殿はどうお考えになりますか」
「…近藤は戦を回避するためならそれもやむなしと口にしていました。具体的には聞いていませんが…私は近藤に従います」
「それは近藤局長への忠誠心からのお考えですか?あなた個人のお考えは?」
浅羽は形式的な答えを望まず、純粋な興味として尋ねていた。
改めて問われると、自分に近藤への『忠誠心』というものが存在するのかーーー彼への信頼には上下関係はない。
「…近藤は、私にとって友人であり幼馴染です。彼の考えることと私の思いは一致していますが、それは『忠誠心』からではなく言うなれば『友情』に近いものです」
多少の意見の対立はあっても進む道が正反対だったことはない。近藤の考えや生き方は、土方に影響を与えてきたし、長い付き合いだからこそ何を考えているのかわかる。
「…羨ましいです。私には友人と呼べる者はいません。この身は殿に捧げ殿のために生き死ぬことこそが誇りだと思っています。だからこそ…」
浅羽は何かを言いかけて飲み込んだ。代わりに
「什の掟はご存じですか?」
とまた尋ねてきた。
「はい。会津では幼少から暗誦するとか」
「ええ、私も物心つく前から口にしていました。ならぬことはならぬ…そう言われれば今でも身が引き締まります。それ故に…どうしても、許し難きことを許すことはできぬのです」
「…それが、『麻呂殿』を探す理由ですか?」
土方は敢えて直球で尋ねた。浅羽が何かを言いかけて飲み込むのはそのせいだと思ったからだ。しかし彼は品の良い笑みを浮かべて
「それ以上は聞かないほうがあなたのためです」
と応じなかった。
そして呼び寄せた芸妓が顔を出したのだった。









700


都で続く酷暑とも呼べる夏に、二日酔いは最悪だった。昔は朝まで平気な顔をして飲んでいたものだが、齢のせいかもしくは飲み慣れていないせいか翌朝までぐったりだ。
そんな醜態を屯所で晒すわけにいかず、土方は別宅に戻ったのだが、居合わせた総司は少し呆れたように見ていた。
「このところ、よく酔い潰れていますけど」
「…ああ。仕方ないだろう…断れない誘いだ」
「浅羽様でしたっけ?柔和で愛想の良い近藤先生を飲みに誘うならともかく、鬼の副長を相方に選ぶなんて…変わってますよねぇ」
総司は冗談めかした言い方ではなく本気で疑問に思っているようだったが、傍から見れば当然の感想だろう。土方は本当の理由を総司へ説明しても良いのだが浅羽からの内密の頼みを打ち明けるわけにもいかず、ただ「誘われた」と言うしかなかった。
総司の膝枕を借りて微睡む。彼は少し暇そうにしていたが退屈くらいが身体に障りがなくて良いだろう。
「…英が来ていたのか?」
「よく分かりますね。今日はお加也さんも一緒でした」
「ああ、薬と女物の香の匂いがする。…それで?」
「良くも無く、悪くもなくです」
「それで良い」
簡単に好転する病ではない、悪くなっていないというのなら重畳だろう。
土方は天井を見上げるように体勢を変える。団扇をゆらゆらと動かし、穏やかな風を送り続ける時間はいつもよりゆっくり過ぎていく。
まるで試衛館にいた頃のように。
「…江戸に行く話、少しは考えたか?」
夏が終わる頃、土方は隊士募集のため江戸へ向かうことになっていた。病を知った姉に一目会わせるために総司も同行させるつもりだが、本人から色良い返事がない。別宅ならまた違う反応かと思い土方は尋ねるが、総司はまた首を横に振った。
「いえ…やはり気が進みません」
「おみつさんだけじゃない、周斉先生や日野の皆もお前に会いたいと思っているはずだ」
「私だって会いたくないわけではありません」
「何を意固地になっているんだ?」
いつもの師匠譲りの頑固な性分を発揮しているのかと思いきや、総司は目を伏せて寂しげに尋ねた。
「それは…もう会えなくなってしまうからですか?土方さんは最期の挨拶へ行けとそう言うつもりで言っているんですか?」
「違う!」
思わぬ言葉に土方は驚いて総司の膝枕から離れ、向き合った。総司は悔しそうに顔を顰めていた。
「でも、そういうつもりにしか聞こえません。姉だって私が会いに行けばそう思うはずです」
「俺や近藤先生にそんなつもりはない。おみつさんにお前の顔を見て安心して欲しいだけだ」
「安心なんて…姉さんはいままで一度も、安心なんてしたことはないはずです。梨の礫の弟は日頃から無事の知らせもなく、いざとなれば病に罹り…痩せた弟を見たいと思うでしょうか?もしかしたら情けなく思っているかもしれません」
「馬鹿を言うな」
土方は総司の手を握る。夏なのに少し冷たくなった指先を絡ませた。
総司は土方の鎖骨あたりに額をこつん、と乗せた。
「…近藤先生や歳三さんの配慮はありがたく思ってますし、自分でもわがままだと思います。でも…家を出て、道場を離れて、反対する家族を振り切って勝手をしてここまで来たのに、病で弱々しくなった自分を見せたくないんです。憐れまれるために故郷に戻るのは御免です。わかってください」
「…ああ、わかった。もう言わない」
土方は総司の後頭部に手を回し抱きしめた。良かれと思ったことでも、総司の受け止め方は違っていた…それが総司を傷つけるなら選ぶべき選択肢ではない。
(そんな理由ならかっちゃんも納得するだろう)
しばらくそうしていると、総司が「ふふ」と笑いながら離れた。
「やっぱり酒臭い。どれだけ飲まされたんですか?」
「勧められるのを断るわけにはいかない。物腰は柔らかいが頑固なお方だ。だが…悪い人じゃない」
「へえ、土方さんがそういう風にいうのは珍しいですね」
「お前も一度会ってみるが良い」
総司は「是非」と答えながら土方に白湯を渡した。それを一気飲みしても酒の匂いは消えずにもう一度総司の膝枕で横になることにする。
話を変えようと周囲を見渡す。
土方のものばかりが溢れ、総司の私物はあまりない。
「…総司、あれはお前の羽織じゃないだろう?」
ふと衣紋掛けが目に入り、そこにかかる薄い灰色の羽織が目に入った。総司のものではなく、使用感があるので新しく新調したというわけではないだろう。
総司は「めざといなぁ」と少し笑った。
「あれは斉藤さんの羽織です」
「斉藤?会ったのか?」
「ええ、偶然…いや、偶然だったのか、斉藤さんが探していたのかわかりませんが、とにかく少し前に会いました」
「聞いてない」
「言わなくても監察から伝わるかと思って」
以前、藤堂と立ち話しただけでも土方の耳に入ったのだから、わざわざ説明するまでもないと、少々の皮肉をこめて返した。土方は案の定不機嫌になって
「あいつは御陵衛士だぞ」
と指摘した。土方の芝居は堂に入っていて疑う余地もないほど斉藤を敵視している。総司もそれに乗ることにした。
「御陵衛士だろうと、何だろうと友人に変わりありません。でもちゃんと弁えてます、これが最後だと言って少し話をしただけです」
「…なんて言ってた?」
「身体の具合はどうかと。土方さんと同じように養生しろと熱心に勧められました」
「断ったんだろう?」
「そりゃそうです。斉藤さんの助言一つで受け入れたら近藤先生や土方さんの立つ瀬がないでしょう。斉藤さんの気持ちはありがたかったですけど…私の決意は変わりませんから」
「そうだな」
総司の表情に揺らぎはない。摩耗していく身体を抱えて葛藤はあるだろうが、それでもここに残るのを決意したのだから、姉であろうと斉藤であろうと、土方であろうと…それを覆すことはできない。
土方は身体を起こした。
「散歩に行くか」


夏の茹だるような暑さも夕刻には和らぐ。特に川辺なら涼しいくらいだ。
「山野君が驚いてましたよ、土方さんが優しくなったって」
鴨川のほとりをあてもなく歩き、小石を蹴りながら他愛もない雑談を交わす。
「山野は調子に乗ってるな。仕事を怠るようなら医学方はクビだと伝えておけよ」
「可哀想に。やっぱり優しくなったなんて嘘だと伝えておきますよ」
総司がなんの憂いも感じさせずに笑うので、土方も少しつられた。
何百年、もしくは何千年と流れるこの川から見る景色は一向に変わらないまま人々の営みとともにある。ほんの少し先には今まで続いた「当たり前」が覆るようなことが待っているかもしれないのに、そんな時ですらこの川の流れは変わらないのだろう。
「歳三さん」
総司は名前を呼ぶ。試衛館にいた頃の呼び方で。
「なんだ?」
「少し前に池田屋の話をしたでしょう?それで思い出したんです…私が暑気あたりで昏倒した時のことを」
総司は足元にある手頃な小石を拾った。手のひらで転がしながらいくつかを見極めるようにする。
「あの時、意識を失っていたけれど…夢を見ていたんです」
「夢?」
「ふわふわして、立つのも覚束ない場所で幼い私が取り残されているんです。どれだけ探しても誰もやって来ない、そんな場所で逃げ惑って…でも歳三さんの声が聞こえた。何度も何度も私を呼んで…それで、目が覚めた」
「…夢と現実が混ざったんだな。俺はあの時、お前が池田屋の二階で一人で闘ったと知って駆け込んだ。だがお前が見当たらずずっと探し回っていた」
「ええ…あの時、私は一度死んだと思ったんです。でも生き延びたのは…きっと歳三さんのおかげなんです。だから今更、離れられません。たとえ衆道関係でなくても良い、あなたの傍らにいられるならどんな努力も厭いません」
総司は平べったい石を一つ選んで、川面に素早く投げた。ポン、ポン、と飛び跳ねて消えていく。
「…下手くそ」
土方も同じように石を拾い投げると、総司のそれよりも二倍多く跳ねて、遠くへ飛んでいった。
「歳三さんは昔から上手でしたもんね」
「ああ、これだけはかっちゃんに負けたことがない」
「本当かなぁ、今度聞いてみますよ」
「聞いてみろよ」
ふん、と鼻で笑うとバサバサと鳥が飛んでいった。空は少し茜色に染まり、東から夜がやってくる…空の色が川面に溶けて混ざりキラキラと宝石のように輝いた。
いつか、こんなふうに今日を過去として振り返る時が来るだろう。
その時に思うはずだ、「あの時が幸せだった」と。
それでも良い。
そんな時間を重ねることが、悪い未来に繋がるはずがないのだから。






















解説
694 伊東の過去のお話は371付近です。
695 伊東の経歴については大筋あってますが、内海については創作です。



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