わらべうた




701



殿が微睡んでいる。
浅羽忠之助はその肩に羽織をゆっくりと掛けた。
日々の公務だけでなく、心の内を明かさぬ上司や堅物ばかりが集まる部下を持ちさぞかし日々お疲れだろう。加えて倒幕を企む薩長は戦力を蓄え、口八丁の土佐に翻弄され…心休まる時間がないはずだ。
まだお若いのに重責を担うその横顔を眺めながら、浅羽は幾度となく決意を新たにするのだ。
(私がお守りします…)
この命に換えても。



慶応三年、夏。
銃を構えた沖田総司は合図に合わせて指を引いた。パァン!という豪快な音と共に放たれた弾丸は的の真ん中を打ち抜いた。
労咳で倒れて半年、徐々に病は身体を蝕み体力の衰えは感じているが勘を鈍らせないために剣や銃の稽古には出来る限り参加していた。日々の巡察はともかく、もしもの時に病人だろうと関係なく出陣するためだ。
「精が出るな」
「近藤先生」
見物にやってきたのは局長の近藤勇だった。幕臣に昇進し御目見格となった彼はますます威厳が増し、隊士からの尊敬を集めている。局長がやってきた、と修練に励む隊士たちはピンと背筋を伸ばしたが、
「そのまま続けてくれ」
とにこやかに言ったので、隊士たちは安心して再び銃を構えた。鬼副長だとこうはならない。
西本願寺から不動堂村の新しい屯所に移り一番の変化は銃の調練に力を入れ始めたことだろう。倒幕を目論む薩長は外国から最新鋭の銃を仕入れ戦に備えている…それを聞きつけた副長の土方歳三はこのところ剣と同じ比重で銃の調練を隊士たちに課していた。それを不満に思う者も多少はいるが、誰もが時代の移り変わりを感じていたのだため口に出す者はいなかった。
「総司の的はあれか?全部的中しているじゃないか」
剣の腕だけではなく、銃のセンスもあったのか総司はさほど苦労することはなかった。
「一度身体に馴染めば難しいことではありません。…先生も一度、試されますか?」
「興味深いが、これから二条城なんだ。会津公のお呼び出しでな」
「そうですか。…土方さんは?」
先ほどまで二人で話し込んでいたはずだ。近藤は「ああ」の笑う。
「今日もお呼び出しだよ。大層気に入られたらしい」
「…浅羽様ですか?本当に物好きですねぇ」
総司は目を丸くした。
三日に一度は会津藩小姓頭の浅羽から名指しで呼び出しがくる。一度巡察で関わっただけの土方がよほど気に入ったのだろうか。そしてそれに応じる土方も面倒そうにしているがさほど嫌そうではない。
「俺も浅羽殿とは何度か話をしたことがある。いつも親しげだが卒がなくてとても真面目な御方だよ。会津公も重用して何かと良い相談相手になっていると伺ったことがある」
「だったら尚のこと不思議です。愛想笑いも億劫そうな土方さんを連日誘うなんて」
「ハハ…総司、歳は今こそ仏頂面が板についている『鬼副長』に違いないが、元々は行商もこなす愛想の良い男だぞ。外面が良いに決まっている」
「…ああ、そうでした。なんだか懐かしいなぁ」
そういえば薬の行商であちこちを飛び回っていた時は家伝の薬で山盛りにした薬箱を背負い、全て売り切って空にして帰ってきたと豪語していた。吉原でもモテて困ると自慢するほどで人当たりは良く、今では考えられないくらい饒舌だったはずだ。
「案外、話が合って意気投合しているのかもしれないぞ」
「ハハ、そうかも」
と、笑いかけたところで「ゴホッ」と小さな咳が出る。それが続いたので近藤はすぐに心配して近くの腰掛けになりそうな庭石へ「少し休め」と座らせた。そこに様子を察した配下の山野八十八が駆け込んでくる。彼は医学方の見習いとして総司の身の回りの世話をしているのだ。
「先生、大事ありませんか?」
「…勿論です。先生、二条城へ行かれるところだったのでは?」
「ああ、そうだったな。しっかり休めよ…山野君、あとは頼む」
「はい!」
近藤は少し後ろ髪を引かれつつも去っていった。山野は総司の脈を取りながら
「先生、お部屋で休まれますか?」
と尋ねた。
「いえ…もうこのままで大丈夫です。少し息切れがしただけですから」
「そうですか…」
心配性の山野はまだ不安そうにしていたが、喀血するほどの動悸ではない。ここ半年でいくらか病との付き合い方を覚えたようで、一定以上の無理をしなければ波が引いていくように治まっていくのだ。
「ここで休みますから、山野君は調練に戻って良いですよ」
「いいえ、僕もお付き合いします。これは僕の仕事でもありますから」
本当に平気だったのだが、頑固な彼を説得する方がよほど大変だ。総司は苦笑しながら「仕方ないな」と受け入れた。
パァン!パァン!と飛び交う音はもう聴き慣れた。隊士たちは弾込めの手順も身について実践でも不自由なく使えるだろう。
(そんな日は来ない方が良いと思っているけれど…)
このところの近藤の忙しなさを見る限り諸藩から幕府や会津への風当たりは強く混乱しているようだ。倒幕派も土佐を味方につけ臨戦体制だという噂も耳にしてすぐそこまで戦の足音が聞こえてくるような心地だ。無関心な総司でさえをそれを感じているのだから、隊士たちも同じ空気を感じ取っているのだろう、いつも以上に銃の調練に力が入っているように見えた。
総司は空を見上げる。雲一つない快晴のおかげで日差しが強く、眩しい。その強い光を遮りながらいつまでこの日々が続くのだろうと漠然とした不安を感じていた。



夏の夜。明るい灯りを求めてあちこちの提灯に虫が集う。
「ではお先に。土方さん、またお会いしましょう」
浅羽は微笑みを浮かべて別れの挨拶を告げ、持参した提灯を携えて帰路に着いた。『土方殿』という呼び方が『土方さん』と親しげに変化する程度には距離を縮めたが、それでも彼の本心は見えて来ない。
「ご苦労だったな」
土方は見送りを終え、同席した太夫を労う。
男二人で廓で飲むのも目立つ、と指摘すると真面目な浅羽は毎回同じ女を呼ぶようになった。唄と踊りを楽しんで拍手を送り、いつも決まった時間に帰っていく。
土方が揚代とは別に金を渡すと「おおきに」と懐にしまった。彼女は新撰組に協力的な置屋から遣わされる芳雲太夫だ。切長の目元と真っ黒の美しい髪が印象的な美人で、さすが太夫の品格が漂っているがどこか不満そうにしていた。
「どうした?」
「…あの御方、いつも穏やかに微笑まれて人が良さそうやけど、うちには指一本触れやしません。すこぉし色目使っても歯牙にも掛けへんような顔で…なんや自信なくします」
プライドを傷つけられた芳雲太夫は落胆していた。
土方も気がついていた。太夫ともなれば男であれば誰もが浮き足立ち、その目に留まろうと必死になるものだが浅羽にはそれはない。決して冷たいわけではないのだが折り目正しく太夫を歓迎して気遣うが、ある一定以上は踏み込ませない、近寄りがたさがあるのだ。
「小姓頭という役職柄仕方ないことだ。お前のせいではない」
「そうやろか。…でもそういうとこ、土方様も同じやと思いますえ?」
「そうか?」
彼女のチクリとした指摘に対して土方はわざととぼけた。当然、芳雲太夫の美しさと品格は飛び抜けていると思うが、色恋の対象ではない。自分にとってそういう目を向けるのは一人しかいないのだ。
太夫は「まあ宜しいどす」と話を切り上げた。自分を相手にしない男たちにはほとほと呆れたという様子だ。
「それで麻呂殿のことやけど…」
「何か分かったか?」
芳雲太夫に金を渡したのは、浅羽からの依頼である『麻呂殿探し』のためでもある。浅羽から月に一度、もしくは二月に一度程度しか顔を出さないが、足を運べば豪遊する麻呂殿を探し出すことを請け負っていた。
「いいえ、どこの女将も麻呂様については不思議なほど口が硬とうて…。ただ、どこの芸妓がお気に入りだとかそういうのもなく、一人でふらりと現れて何人もの芸妓を呼んで豪遊したあと、迎えの者が数人、来はるんやて」
「迎えの者…か…」
身分の高い者が屋敷を抜け出してフラフラと遊びに来ているのを、お目付役が慌てて迎えにくるのだろうか。有力御家人の子息か、豪商の後継か…そんなことを土方が考え込んでいると、太夫は「そうや」と思い出したように付け足した。
「神出鬼没やけど、いつも鴨を取り寄せるように女中に言いつけるらしいわ」
「鴨?」
「好物なんやろうねぇ」
料理に注文をつける客は少なくはない。太夫は何の気もなしに伝えたが、土方にとってはここ最近で一番の有力な情報だ。
(鴨ならそう数はない。監察に調べさせるか)
「わかった。また頼む」
土方は紗の羽織に袖を通し、屯所への帰営の準備を始める。まだ夜更け前だ…総司も起きているだろう。
すると芳雲太夫が深いため息をついて
「もう嫌になるわぁ」
とぼやいた。花街の夜はまだこれからだというのに、と。
「悪いな」
土方はそれをかわしつつ身支度を整えると、畳に何か落ちているのに気がついた。拾い上げるとそれは珊瑚の根付だった。
「あら、浅羽様のお忘れ物かしら?」
根付が落ちていたのは浅羽が腰を下ろしていた辺りだ。土方も見覚えがなく、太夫のものでもないのなら彼の持ち物なのだろう。
珊瑚は身分の高い武士か裕福な商人くらいにしか出回らない高価で貴重なものだ。よく見ると細微な彫刻がされている。
(これは…朝顔か?)
珊瑚で作られた朝顔の根付。土方はまじまじと見た後に手拭いに包んで懐へしまったのだった。







702


長かった真夏の暑さにようやく翳りが見え始めていた。
「橋本君はうまくやっているようだね」
御陵衛士の屯所・月真院では伊東甲子太郎が満足げに送られてきた文を読み終えて折りたたんだ。傍に控えていた内海次郎も頷く。
「大蔵さんの目論見通り、陸援隊に在籍させれば土佐の形勢が迅速に伝わりますね」
「橋本君は律儀に何枚にも渡って事細かく知らせてきたよ。…ほら、良い人選だっただろう?」
「…はい」
内海は少し躊躇いながら返事をした。彼は分離直前に仲間となった斉藤一をいまだに警戒しており、彼を遠ざけるために今回の陸援隊への潜入について橋本よりも斉藤を推していたのだが、伊東の意向により叶わなかった。
伊東は「それより」と話を切り上げて内海の前に文机を移動した。
「前々から話していた建白書の件、草案が出来上がった。一度確認してくれないか?」
伊東がしたためたのは、『長州寛大処分』の建白だ。
近藤は長州へ更なる厳罰を求めていたが、伊東はもともと正反対の考えだった。今は内戦で揉めている暇はなく、兵庫港を開港することに合わさって出た長州寛大の勅命に従い彼らの官位を復帰させ、今こそ諸藩が団結し異国からの脅威に備えるべきだ。そういった内容の建白の提出を御陵衛士全員の連名で考えているのだ。
「私が西国を遊説した時と内容はさほど変わらない。もちろんこの建白一つで何かが変わるとは思えないが、我々が新撰組とは別組織であり、私が遊説した内容が本意であるという証明なるだろう」
「はい。新撰組を分離した今だからこそ声高に訴えるべきです。そしてそれが御陵衛士にとって西国からの信頼を得るきっかけになるでしょう」
一通り目を通して内海は「ここですが」と指差す。
「我々が幕府と距離を置いている組織であるとはいえ、長州厳罰は幕府の私怨というあたり、少し過激過ぎませんか?」
「そうかな…中川宮と慶喜公は四侯から詰め寄られても長州の官位復帰については否定的だ。これくらいの言葉でもびくともしないさ」
「そうですか。…良いと思います、皆にも読んでもらいますか?」
「改めて清書するよ」
伊東は内海から下書きを受け取りつつ、「そういえば」と続けた。
「会津は随分、政に対して消極的なようだね。会津公は慶喜公と折り合いが悪いのか、出仕要請を断り続けてご機嫌を損ねているとか。兵庫港の開港や長州の処分についても関わっていないらしい」
「今年の初めに京都守護職を辞すると申し出たそうですが…慶喜公に固辞され、それから政から手を引いていると」
「新撰組が幕臣になったのもその一環かもしれないな…しかし倒幕派からの憎しみからは逃れられまい。これから先、幕府が一体どうなっていくのか…見ものだな」
伊東が指先で顎に触れながら少し微笑んだ。どんな時でも様になる美形だが、この所は生き生きとしてむしろ若返ったかのように楽しそうだ。
「…では、失礼します」
内海は部屋を出た。
新しい屯所、新しい生活、新しい道、新しい目的ーーー新撰組という狭小な組織を抜けてこんなにも清々しいはずなのに、時折何故か足元がおぼつかなく感じる。
(大蔵さんには感じないのだろうか…)
本音を尋ねてみたい。御陵衛士の行く末にどれほどの希望を見出しているのか。
(だが…それはできない…)
彼の本心を尋ねることに内海は躊躇してしまう。
ずっとあの日からーーー何も聞けないでいる。




同じ夜。
元監察の山崎烝が土方の部屋を訪ねていた。
「麻呂殿の件ですが、少し難しいかもしれません」
彼にしては珍しく弱気な物言いだった。
山崎は普段は組長職と医学方をこなすがやはり未だに隊で一番の情報通でツテが多く、一線は退いたものの何かと重用していた。
「お前でも難しいのか」
「麻呂殿の件は緘口令というか、正体を探らへんことが暗黙の了解のような感じで…あんまりに高貴な御方やという噂だけで、いつ登楼するかなんて誰にもわからへん。そもそも客の素性を詳しく知ろうとするのは廓の掟に背くこと、口堅とうなるのは当然かと」
「そうか」
「あとは都中の鴨屋に張り付くしか」
「そこまでしなくても良い」
ただでさえ多忙な上、新撰組はいま人手不足だ。浅羽の私情の依頼のために監察を上げて動くほどのことではない。
「その麻呂殿と浅羽を引き合わせれば良いだけだ。麻呂殿の正体には深入りせずに、有用な情報が入れば知らせてくれ」
「わかりました」
山崎が頷くと、部屋の外から「失礼します」と総司の声が聞こえた。
「…あれ、山﨑さん。相変わらず気配がないから気づかなかったな。…お邪魔ですか?」
「いえいえ、もうお話は終わったところで。…それよりもう一枚、羽織を召してください。夏とはいえ夜は冷えます」
山崎の表情が医者のそれに変わり、総司は苦笑する。
「毎晩寝苦しいくらいですよ、勘弁してください」
「あきまへん」
「かえって汗をかいて冷えるかも」
「あきまへん。…患者は医者の言うことを聞くのが約束では?」
「総司、これでも着ておけ」
土方が薄手の羽織を差し出したので、総司が渋々袖を通すと山崎は満足そうに頷いた。
「そうや、また非番の日に一度山野を診療所へ連れて行っても?改めて医学方に加わったご挨拶に」
「勿論。土方さんもかまいませんよね?」
「ああ」
山野は課されていた医学書の読破に成功し山崎を納得させた。総司の口添えと土方の了承を得て晴れて正式に松本と南部の元で学ぶことになったのだ。
「では、この辺りで。…沖田せんせも早めにお休みください」
「わかりました」
去り際に山崎に釘を刺され、総司は苦笑する。会話の節々に小言を挟むので、まるで総司の主治医である加也に叱られているようだ。彼らの下に弟子入りすると先々、山野も同じようになるのだろうか。
山崎が部屋を出て行き、総司は簡単につつがなく終えた巡察の報告をした。
「…ご苦労だった。山崎の言う通り、早く休め」
「勿論そうします。でも土方さんの方こそ疲れているんじゃありませんか?このところ浅羽様から頻繁にお呼び出しされているじゃないですか」
「まあな…明日も会う予定だ。渡したいものがある」
「渡したいもの?」
土方はふと文机の上に置いてあった根付を総司に見せた。
「これは…随分高価なものに見えますが…」
「浅羽様の忘れ物。珊瑚の根付だ」
「…これは、朝顔ですかね?」
総司はまじまじと丁寧に細工された朝顔を見る。こういった服飾品に興味がないので、珊瑚だと言われてもピンと来なかった。
「朝顔は陽の光を吸収して運気を蓄えて咲く縁起の良い花だ。珊瑚は高価で貴重だからきっと探されているだろう…お前も来るか?」
「え?良いんですか?」
「非番だろう?それに、浅羽様もお前の話をすると会いたがっていた」
「…」
総司は少し驚いて土方を見た。総司がそのまま何のリアクションもしないので、土方は怪訝な顔をする。
「…何だ、行きたくないのか?病のことは話してある」
「いえ…そう言うわけじゃなくて、何だか新鮮で。土方さんから友人との親しい席に誘われるなんて」
「友人だなんて恐れ多い。それに伊庭とだって何度も会っているだろう」
「伊庭君は試衛館みんなと仲良しだし、また別ですよ。…でも親しくされているんでしょう?友人とまでいかなくても、なんだか土方さんにそういう人がいるのは不思議です」
近藤が言っていたように本来は外面がよく人に好かれるはずの土方が、『鬼副長』と呼ばれ出してから人を寄せ付けなくなった。近藤との幼馴染の関係以外に『友人』と言えるのは伊庭くらいで、都に来てからはいつも孤独を選んでいるように見える。
だからこそ少し嬉しかったのだ。拠り所は多い方が助かる場面は多いだろう。
しかし土方は複雑そうに「そう単純な話じゃないが…」と何か奥歯に物が挟まったように言ったが、
「…まあいい。とにかく明日は時間を空けておけよ」
「わかりました」
総司は笑顔で頷いた。









703


十八歳で会津藩主松平容敬の養子として迎えられた殿は、雪深い田舎に突然舞い降りた白鷺のようだと言われた。女子はその端正な横顔に色めき立ちキャアキャアと騒ぎ、しばらくは落ち着かなかった。
「確かに紅顔の美青年さ。儚げで色白で整ってて…この辺じゃみない顔立ちだがそれだけじゃァ駄目だろう、この乱世に頼りないなァ」
同僚の小姓はやっかみなのか立場を弁えずそんなことを言うが、多くの者がそう思っていたのだろう。『雪に白鷺』…どちらも白く見分けがつかないために、目立たないと揶揄する言葉だ。
かくいう私も遠くから殿の姿を拝見した時に「お若い」と思った。年齢は私よりも少し下だと存じ上げていたがそのお顔立ちのせいかもっとお若く感じたのだ。
私は殿の叔父にあたる先代の容敬様より小姓を務めていたが、そのまま殿にお仕えすることになった。手始めに
「ここの書物を届けなさい」
容敬様にそう言われて殿の元へ書蔵のすべての書物を運ぶ。学問の書物の中でも会津に関するしきたりや歴史を書き連ねたものを山のように抱えて何往復も繰り返した。そうしていると
「私も手伝う」
と殿が仰った。勿論私の仕事だったのでお断りしたのだが
「私が読む物であるし、二人で運ぶ方が早い」
と強情に仰るので負けてしまった。
殿はご自身の顔ほどまでに書物を積み上げ悠々とお歩きになった。線の細い身体だと思っていたが、胆力をお持ちのようで楽々と運んでしまったのだ。
「ほら、早かっただろう?」
殿は微笑まれた。大人びた白鷺だけではない、無邪気な少年のような表情に私の心が沸き立った。
(この方は決して雪の中に埋もれる白鷺などではない…!)
その予感は確信へと変わっていく。
殿は勉学に励まれ、運んだ書物を一気に読んでしまわれすぐに誦じた。優秀さもあったがわからないことはすぐに尋ねる素直さもあったので側近たちの心を絆すこととなった。そして会津藩に脈々と受け継がれてきた幕府への忠義を理解し、己の指針とされた。
周囲の視線もやがて『会津の若殿様』として認められていく。会津の人間ではないはずなのに、殿は誰よりも会津の人間として振る舞っていたことが藩士や民衆の心を砕いたのだろう。
凛とされた殿のお姿を私は近くで拝見し続けた。剣術の修練のお相手となり、たまに追鳥狩りのお供を務めた。それはこの上なく幸福なことであり、できるならこのままお傍でお仕えしたいと心から願った。
そして養子に入られてから六年後、容敬様の死去に伴い殿が九代目会津藩主及び肥後守を任じられた時、
「浅羽、これからは小姓頭となって私を支えて欲しい」
殿のお言葉に当然私はすぐに応じた。粉骨砕身、仕えると誓った。
その後始まった激動の時代に、殿が真正面から立ち向かわれることになるとは知る由もなかった。



今日は廓ではなく、新撰組が懇意にしている宿で浅羽と待ち合わせた。
「お噂はかねがね、新撰組で一番の遣い手にお会いできるとは光栄です。是非とも機会があればお手合わせを願いたい」
浅羽は総司に対しても折り目正しく挨拶をして微笑んだ。品行方正さはさすが小姓頭という雰囲気だが、取っ付きにくさはなくやや身構えていた総司は安堵した。
「本日はありがとうございます。私まで突然お邪魔してしまって…」
「構いません。一度お会いしてみたいと言ったのは私の方で、土方さんはその通りにしてくださった。さすが有言実行ですね」
「沖田は非番でしたし、早急にお会いする用事もありましたから」
土方はそう言いながら、懐から丁寧に折り畳まれた懐紙から例の根付けを取り出した。いつも涼しげな目元がハッと開き
「ああ!これは私のものです」
と喜び受け取った。
「ずっと探していました。先日お会いした時に落としたのですね…誰かに拾われて質にでも入れられたらどうしようかと思いました」
「珊瑚ですよね?とても美しい細工ですね」
総司が尋ねると、浅羽は「ええ」と愛おしそうに根付けを手にして頷いた。
「これは殿に頂いた物なのです。珊瑚はなかなか出回らない貴重なものなのに、興味がないと仰って…殿は昔からそういったことに無頓着なのです」
「浅羽様は昔から会津公の御小姓を勤めていらっしゃるのですか?」
「ええ、殿が会津に養子に入られた十八の時から。私は先代より同じ職を務めておりました」
浅羽は穏やかに語り、今度は無くさないようにと自分の懐へ戻した。
「会津公は普段はどういう御方なのですか?」
「おい、総司…」
浅羽は総司より十ほど年上だが、総司の何気ない会話にも丁寧に返答しとても落ち着いている。近藤や土方と違い、数えるほどしか会津公に会ったことのない総司は興味本位で尋ねたのだが、(弁えろ)と土方に視線で止められてしまった。
浅羽は笑った。
「土方さん、構いませんよ。根付けを拾っていただいた御礼に何でもお答えします。…ですが殿はあの通りのお方です。穏やかで聡明で、お優しい…周囲の者の意見にもちゃんと耳を傾けられる。たまに頑固で、負けず嫌いな面もありますが」
「へえ、負けず嫌いですか。そんな風には」
「剣術の稽古では私が何度もお相手しましたが、打ち負かしてしまうと勝つまで続けられますし、狩りに出掛けても誰よりも多く獲物を仕留めようと本気で取り組まれ、日が暮れても続けようとなさいます」
会津公は身元の保証ができない浪人に過ぎなかった壬生浪士組を会津お預かりにしてくれた恩人であり、近藤が深く崇め敬愛する主人だ。その会津公の意外な一面を聞き、総司は一気に親しみを感じた。浅羽も嬉しそうに語る。
「殿は人を見る目に長けていらっしゃいます。若く優秀な藩士を登用し、信頼できるとなればすぐに仕事を任せる…こちらに来てからあなた方を会津お預かりとしたのも殿一人のご判断です」
「…我々は流浪の浪人、反対される方も多かったのでは?」
土方が尋ねると浅羽は「ええ」と苦笑して否定はしなかった。
「ただ京都守護職として、治安の安定を図るために我が藩には人員が必要でした。殿は近藤局長にお会いし、信用に足ると判断したのです。…それは間違っていなかった、いまはそう思っています」
「ありがとうございます。会津公のおかげで今の我々があります」
総司は土方が浅羽に会う理由を何となく察した。浅羽は穏やかだか理知的で、決して人を不快にさせない。分け隔てなく接するのはまるで山南のようで、総司も安心できるのだ。
それからは気軽な雑談から総司が口を挟めないような難しい政談まで話が及んだ。少しの酒と美味い料理に舌鼓をうちながら、あっという間に時間が過ぎていく。
「ではそろそろ」
宴もたけなわ、浅羽が帰り支度を始める。夜更けと呼ぶには早いがいつも彼が帰る時間だった。
すると土方がそれを見計らうように
「総司、俺は少し話がある。先に出ていろ」
と総司に促した。
「…わかりました。浅羽さん、今日はありがとうございました」
「私こそとても楽しい時間でした。また是非」
浅羽さん、と気軽に呼ぶ程度には親しくなり、総司は先に部屋を出た。
土方は早速、「例の件ですが」と切り出した。
「相変わらず情報は少ないのですが…麻呂殿が登楼した際には必ず鴨を頼む、という話を聞きました」
「鴨…」
「好物なのでしょう。今後は鴨を出す店をいくつか回らせるつもりです」
「それでしたら、いくつか心当たりの店があります」
浅羽は矢立てを取り出し、小さな紙に二、三軒の店名を書き連ねた。
「都中の鴨屋を探すのは骨が折れるでしょう。こちらは有名どころですからもしかしたら料理を請け負っているかもしれません」
「…助かります」
土方はその紙を受け取りつつ、
「ご存じでしたか?」
と尋ねた。浅羽は少し首を傾げた。
「…何です?」
「麻呂殿が鴨が好物だということです」
「なぜそう思うのですか?」
「…ただの勘です」
鴨が好物かもしれない、と伝えてから店名を書き出すまであまりに卒がなかった。それはまるで知っていたかのように。
「…我が殿も鴨がお好きなのです」
「そうでしたか。偶然ですね」
「土方さん、以前も申し上げましたが、私は麻呂殿とお会いできればそれで良いのです。あなた方は私の事情や麻呂殿の正体について深く探らぬ方が良い」
浅羽は諌めるようにピシャリと撥ねつけた。急に緊張感が増し、しばらく土方は彼と睨み合う。歪みあって敵対しているのではなく、踏み込むなという牽制を感じたが、土方は敢えて口を開いた。
「…朝顔は、縁起の良い花だと言われていますが、ツルが強く育つため『固い絆』という意味があるそうです。会津公はそういう意味であなたに贈られたのでは?」
「…」
浅羽は答えなかった。しかしその表情は少しだけ動揺しているようにも見えた。
(何もかも、会津公のためならば…)
麻呂殿に会うのも、会津公の為なのではないか。
「…また何かあれば報告します。総司が待っているので失礼します」
「宜しく頼みます。…沖田君に身体を大事にと伝えてください」
土方は軽く頭を下げて部屋を出た。
軋む階段を降り、女将に一声かけて店を出ると総司が待ちかねていた。
「早かったですね」
「ああ…行こう」
夏の夜空には雲ひとつなく、燦々と星が煌めいている。
おそらく浅羽は『麻呂殿』が何者かわかっている。表立って会うことができないため引き合わせを依頼し、何かを画策しているのだ。相手は得体の知れない高い立場の者で、だとしたら彼のいう通りこれ以上の詮索は無用であり、最低限の情報提供で済ませるべきなのだろう。
(たが…放っておくわけにもいかない)
彼らの間にある『固い絆』…それが何かの引き金にならなければ良いのだが。
「今日は楽しかったですね」
隣を歩く総司は何も知らずに無邪気に笑っていた。土方は「そうだな」と答えて今日のところはそれ以上を考えるのをやめたのだった。








704


翌日。
「総司が寝込んでいるらしいな?」
土方との難しい話の最中に近藤が尋ねてきた。
「ああ…少し無理をさせたかもしれない」
浅羽との食事はつつがなく終え総司も楽しそうに帰営したが、やはり多少は緊張していたようで今朝は疲れが出て寝込んでいた。
近藤が気を揉む。
「稽古や任務の負担は減らしたんだろう?」
「ああ、できる限り安静にさせて本人もそれで納得している」
「だが無自覚で無理をしてしまうところがある。ちゃんと見てやらねばならんな…」
近藤が腕を組みつつ少し考え込む。土方は彼が何を考えているのかわかっていた。
「…もう少し様子を見よう。任務に支障が出る時は俺からもちゃんと話す」
土方は総司のことに関してはあまり先のことを考えたくはなかった。病は決して楽観視できるものではなく、悪い方は悪い方へと考え込んで悩んでしまっては何も手につかなくなるからだ。「それより」と話を変えた。
「会津公はどうされているんだ?」
近藤はこのところ頻繁に黒谷へ顔を出していた。
「…そうだなあ、少し考え込まれているご様子だ。家茂公が亡くなり将軍職をようやく慶喜公が継がれたことでご自身の役割は終わったとおっしゃっている。会津に戻る旨を何度も申し出られているそうだが、慶喜公は全く受け入れられないそうだ。残留するように直々にお話があったとか」
そもそも会津公こと松平容保は先代の家茂公や孝明天皇からの信任が厚かったのだ。方向性の異なる新しい将軍が据えられたのだから辞意を示しても仕方ないのだが、慶喜公はそれを保留にしている。
土方はため息をつく。
「今更、会津に抜けられたら困るのさ。長州との戦に負け幕府の求心力は弱まっている。土佐や薩摩が力をつけ、それに兵庫港まで開港する勅許が出てますます異国が介入してくるかも知れない」
「だから、今こそ戦犯である長州を厳罰に処して幕府の威厳を取り戻すべきだ。官位を復帰させれば幕府の立つ瀬がない!」
近藤が熱く主張するが、土方は冷静だった。
(長州や薩摩憎しみは幕府と会津に向いている。いざとなれば会津は矢面に立たねばならないだろう…)
慶喜公はいざという時に盾にしようとしているのではないか。
そんな邪な考えさえ浮かんでは消えていくが、結局慶喜公の考えなど、土方にとって及ぶべくもなく遠いのだ。
「…会津公は鴨は好きか?」
「な、何だ、突然。鴨だと?」
熱い議論が始まると思っていたのか、近藤は肩透かしを食らったような顔だ。しかし土方が冗談を言っている風ではないので真剣に取り合った。
「…何度かお食事を共にしたが、鴨が出たことはないな。それがどうした?」
「いや…なんでもない」
やはり、と土方は確証を得る。浅羽は会津公が鴨が好物だから店を知っていると言っていたがそうではない。彼自身が土方より先に調べていたから『知っていた』のだ。
(相手の素性も知らず引き合わせるわけにはいかねぇな…)
「まったく…お前の考えていることはよくわからないな…」
近藤が不満そうにしながら茶に手を伸ばすと、こちらに騒がしく近づいてくる足音が聞こえた。それがあまりにらしくないので彼のものだとは顔を見るまでわからなかった。
「大変です」
「山崎君、どうした?君らしくない…」
「原市之進様が殺されました」
「なに?!」
近藤は手にしていた湯呑みを落としたが、気にすることなく山崎に詰め寄る。
「一体誰に殺された?倒幕派か?薩摩か、長州か、まさか土佐か?」
「…いえ、下手人はいずれも幕臣です」
「なっ…」
近藤は青ざめた。
原市之進は慶喜公腹心の部下だ。優秀な人材として取り立てられ目付に抜擢されると、将軍職就任の助言や兵庫開港の勅許など重要な機密に携わり、慶喜公の補佐を務めていた。いわばブレーンである。
近藤は頭を抱えた。
「ああ、これでまた政局が混乱する…朝廷や四侯からの圧力に幕府が対抗できたのは、原様の尽力あってこそなのだぞ…!」
「まさか仲間割れとはな…」
近藤は憤り、土方は唖然とする。憎まれるべき倒幕派に殺されたのならまだしも身内に殺されるとは。
山崎も少し項垂れた。
「結髪中に背後から襲われ、首を斬られたそうです。下手人の二人は殺され、もう一人は自首し捕縛したとのこと」
「聞くに耐えぬ…!」
苛立った近藤は拳を叩きつける。政策の方向性はとにかく緊張状態が続く幕府内で、白昼堂々の暗殺が罷り通るなど近藤にとって受け入れ難い暴挙だ。
土方は冷静に努めた。
「…近藤先生、とにかく会津へ行って状況を確認しよう。その下手人のうち一人が捕縛されているなら誰の指示を受けたものなのか、わかるかも知れない。それに今後のことも…」
「そうだな。お前も来るか?」
「ああ」
怒りのあまり頭が沸騰してしまった近藤を一人で行かせるわけにもいかない。土方は山崎に引き続き情報収集を命じ、近藤と共に屯所を出ることにした。


同じ頃、御陵衛士にも知らせが届いた。
「…原様が…痛ましいな」
伊東は呟いた。
原市之進は水戸で秀才の名を馳せ昌平坂学問所で学んだのち、徳川斉昭に招かれ水戸の弘道館で教鞭をとった。その後も順調に出世し遂に目付となった時は誰もその抜擢を非難する者はいなかったほどの英才な人物だ。
しかし彼が尊王攘夷の志を持ちながら、兵庫港開港に動いたことがその信条を転向したものではないかという声もあり、結局は身内である幕臣に殺されてしまったということだ。
「出発を遅らせますか?」
内海が心配そうに尋ねた。ちょうど太宰府行き目前の知らせだったのだ。
長州官位復帰に関する建白書を提出し、揚々と西国に向かう予定に気掛かりができてしまったが、
「いや、新井君も準備ができているし、幕府のことは我々には関係がない。何かあれば文で知らせてくれ」
「わかりました」
伊東は内海の手を借りながら羽織に袖を通した。
二度目の太宰府行きは、新撰組参謀としてではなく御陵衛士として向かう。伊東はようやく己の本望が果たせると意気揚々だった。
「ありがとう」
「大蔵さん、これをお返しします」
内海が懐から取り出したのはあの『回天詩史』だった。先日部屋を整理した時に内海が「読み直したい」と言ったので貸していたのだ。
「久しぶりに読み返すと心に沁みました。東湖先生がご存命ならどれだけの志士に影響を与えたのか…今とは違う世になっていたはずです」
「ああ、あの地震で亡くなったと知った時は愕然とした。けれど先生らしくもある」
内海は深く頷いた。
藤田東湖は安政の大地震で己の身を犠牲にして母を助けたあと逃げ遅れて亡くなった。その知らせを受けた時のことを二人はよく覚えていたのだ。
内海は少し目を伏せた。
「…この数日、昔のことを思い出していました」
「…」
昔のこと。
内海がそんな風に過去のことを持ち出すことはない。そのせいか伊東はドキリとした。ウメとの婚約を勧められた『あの夜』のことを言っているのではないかと思ったのだ。
すると彼は一呼吸置いて口を開いた。
「…『嗚呼正氣は 畢竟誠の字に在り 呶呶何ぞ必ずしも 多言を要せんや 誠なるかな誠なるかな 斃れて已まず 七たび人間に生まれて 國恩に報ぜん』」
「それは、東湖先生の『正気の歌』だ…」
国を憂う志を持つ若者なら、誰もが諳んじることができる。もちろん伊東や内海もそれに含まれるが、彼がなぜそれを口にしたのか意図はわからず伊東は内海の言葉を待った。
「…私は、己の足で歩み続けるあなたとは違い、昔から成長がありません。相変わらず策を弄するのは不得手であなたの考えについていくだけで精一杯です」
「内海…」
「しかし…それで良いと思っています。大蔵さんの考えは常に私と同じであると信じている。あなたと共に在れば良い。ですから、私の正気の在処はあなたなのでしょう」
いつも難しいことを言って煙に巻くのは伊東の方なのに、今ばかりは内海の言葉に混乱していた。
「内海、何が言いたい?」
「……無事に帰ってきてほしいと、そう言いたいのです」
内海は話を切り上げたように見えた。
きっとそれだけではない。何が言葉にできない曖昧なものを差し出されたように思えたのに。
(いや…私の思い違いかもしれない)
この数年、目を逸らし続けたことへの報いなのか…互いに踏み込むことができないのだ。
伊東は返された『回天詩史』を荷物の中に入れた。
「…私も読み返すよ。きっとあの頃のことが甦って新鮮な気持ちで遊説に出かけられるだろう」
「そうしてください」
「内海、一つ頼みがある」
「何でしょうか」
「知っていると思うが、私は妻とは離縁して今は独り身だ。伊東道場の跡継ぎでもなければ、兄弟子でもない。御陵衛士は皆等しく同じ立場であるから、私と内海に上下関係はないだろう?」
「はあ…」
一体何を言っているのだ、と内海は怪訝そうにした。伊東も今更だとわかっているがこの石頭にはこれくらいの前置きが必要だと思ったのだ。
「もう敬語はやめても良いんじゃないか?実はずっと耳慣れないんだよ」
「…」
「私が戻るまでに練習しておいてくれ」
内海が呆然としていた。伊東は返答を待たずに荷物をまとめ「じゃあ」と部屋を出る。
またここに戻る時、彼はどんな顔をしているのだろうか。どんな困った顔でぎこちない言葉で話すのだろう。
伊東はそれを想像するだけでとても楽しかった。








705


殿は藩主に就任したのち、幕府から様々な役職へ抜擢された。私は安房、上総、品川、蝦夷地などお供したがやはり一番の大仕事は桜田門外の変の後、幕府と水戸藩との調停だろう。一歩間違えば御三家同士の争いとなるであろう難しい仲裁を引き受け、見事に解決された。このことで大樹公(家茂公)の信任を得て、殿は幕府参与を命じられたのだ。
…と、そこまでは良かったのだが、大樹公は殿に京都守護職という更なる試練をお与えになった。
そして殿はこの時、疫病で床に臥され小姓の私は殿の看病をしていた。
「今日は…どなたが来られた?」
床に臥されて顔色の悪い殿の問いに私は戸惑いながら答える。
「越前守様がいらっしゃいました」
「…そうか…」
連日殿の元には京都守護職への打診のために様々な客人が訪れるが、政事総裁職に就かれている松平春嶽様は特に強く殿を説得されていた。幕府への忠義に厚く、若く聡明な殿は適任かもしれないが、治安の乱れる都での危険なお役目を簡単に引き受けることはできない。
それに殿は病に臥されているのだ。
(何故、こんな時に誰も彼も無理を言うのか…)
小姓頭として日々殿の御心を思い、苦心しているのだが、世間は尊王攘夷へと傾き騒がしく誰も殿を休ませてくれない。私は殿の額を冷やす手拭いを取り替えながら、世の無情さに思わずため息が漏れた。殿はめざとく気づかれた。
「…どうした?疲れているのか?」
「い、いえ…申し訳ありません」
病身の殿に心配をかけてどうする。私は己を叱咤しながら笑みを浮かべた。
「医者の話ではもう少し養生すればじきに良くなるとのことでした。客人の用件は他の者が引き受けますので殿はどうかご自愛を」
「だったら、余計今のうちに考えておかねばならぬことがたくさんある。…浅羽、京都守護職への打診の話、どう思う?」
「…私は小姓です。そのようなお話は…」
「良い。聞かせてくれ」
頑固な殿は一度口にされたことをなかなか撤回されないことは、小姓として近くに侍る私が一番よくわかっていた。私は言葉を選びながら答えるしかない。
「…私なら…お断りいたします。京では尊王攘夷を高らかに叫び、天誅や強盗が横行していると聞きます。田舎者の会津が乗り込んで何ができましょう…」
これが大方の藩士たちの考えであった。ただでさえ浦賀や蝦夷地の警備任務を務め、藩政の財政が厳しい中でこれ以上の負担を負うことはできない、というのが家臣一致の意見であり、殿に近い立場である私は何度も「殿を説得せよ」と詰め寄られていたのだ。
しかし私のそんな現状など、殿はお見通しで
「浅羽の意見を聞きたい」
とおっしゃった。
「…私は、殿の御心のままにされるのが良いと思っております。受けるにせよ、断るにせよ…殿がお決めになったことに従います」
「それは考えることをやめたのではないのか?」
「違います。…私の本心です。殿に従うことが私のすべてなのです」
私は頭を深く下げた。
殿はつまらないと思うだろうか。けれどそれが私の心からの願いであるのだから仕方ない。
すると殿は少し微笑まれた。
「…だったら、浅羽は私の本心を知っておいた方が良い。命を賭けるというのなら尚のことだ」
殿がそんなふうにおっしゃるのは初めてで、自然と私の身に緊張が走るが、殿は穏やかなままだった。
殿は天井に視線を向けてどこか遠くを見ながら語る。
「私は…再三、この話を断ってきた。己を顧みても病に臥し、経験が浅く、所詮田舎者である私には荷が重い。万が一失策してしまったら若輩の私には何の責任も取れず迷惑をかけるだろう。死を持って償うとしても足りぬ大役だ。しかし…断ったところで一つだけ、気がかりがあるのだ」
「気がかり?」
「大樹公のことだ。桜田門外の折り、まだお若い大樹公は御三家の間に挟まれて大変苦心されていた。困惑され動揺され…苦しまれている姿を見て私は失礼ながら、この方には手を差し伸べなければならないと感じた。その思いは今も変わらないのだ」
殿が天井から私へ視線を向けた。
「大樹公はそのうち京へ上洛されるだろう。殺伐とした京へ向かう大樹公を、果たして私は傍観者として見送ることができるだろうか。そんな私を、私は許せるだろうか。それは…会津の生き方に反するのではないだろうか…」
「…」
「つい先日、そんな私の迷いを見抜かれたのか、越前守様に言われてしまった。『土津公ならばお受けしただろう』と。…浅羽、どう思う?」
「…」
断る理由は様々ある。藩政や財政、己の度量、技量、経験…けれどそれを上回るのは己の信条だという殿のお考えは、ある意味でとても会津らしいものだった。ならぬことはならぬーー譲れぬものが言葉にできなくてもあるということ。
そして越前守様のお言葉は最後の一押しとなったのではないか。
「…殿、既にお答えが出ているのではありませんか?」
私が尋ねると「フッ」と殿は悪戯っぽく笑った。
「私はこの頃、この職を受けるべきかということよりも、家臣たちをどう説得すべきかで悩んでいる。…浅羽、手助けをしてくれぬか?」
「勿論です」
この先にある苦労は目に見えている。もし一歩間違えば全てを失うようなそんな暗闇を進むことになるだろう。しかしそれでも敢えて前に進まれるという。
私は殿と一蓮托生だ。何の躊躇いがあろうか。
この方はたとえ泥水の中でも凛と咲く蓮のように清らかで美しいのだ。傍に居られるだけで何と幸運なことか。
私は心の底からこの幸福に感謝したのだった。



黒谷に赴くと既に会津公は二条城へ出立されており、不在だった。近藤は公用人である広沢に呼ばれて向かうが土方は浅羽に引き留められた。
「突然のことに驚きました」
いつも涼しげな浅羽も少し疲れているように見えた。
「下手人の詳細は?」
「首を切って持ち去ろうとした二人は殺されました。鈴木豊次郎、依田雄太郎という者で、依田は鉄砲与力の息子です。そして二条城に程近い板倉老中の屋敷に鈴木豊次郎の弟で鈴木恒太郎という者が自首しています」
山崎が話していた内容とさほど齟齬はない。下手人が殺され、事情を知る者が捕縛されているのなら新撰組が出る幕はないだろう。
しかし単純な恨みによる暗殺だとは思えなかった。
「下手人の背後には誰か関わっているのでは?」
土方が尋ねると浅羽は難しい顔をして腕を組んだ。
「…それが、自首した鈴木恒太郎は詳しいことを知らないそうで憶測ばかりが流れています。旗本の山岡鉄舟殿が裏で関わっているだとか、高橋泥舟殿を目付に押し上げたい壮士の暴走、もしくは水戸尊攘派が焚きつけたという話も…」
浅羽が話す内容はどれも大物ばかりだ。
功績が大きい分、妬みも多かったのだろう。慶喜公の側近が殺されるのも三人目であり、幕府の混乱が伺えた。
「…会津が幕政に関わるつもりは?」
土方はこの混乱を収めるべきは、会津だと思っていた。しかし浅羽の返答は鈍い。
「それは…殿次第です。私からは何も」
「会津公はこのまま政から手を引かれるおつもりですか?」
このところ会津は消極的だ。土方が問い詰めると、浅羽は少し息を吐いた。
「…殿が家茂公と孝明帝が薨去されたことで意欲を無くされたのは確かなことです。そして長州征討を休戦した慶喜公との折り合いも悪く、何度も守護職の辞任を申し出ましたが受け入れられなかった。しかし大政に参与させておきながら進言は採用されず、大事の決定にも相談はない。そして会津では凶作が続き困窮し、家臣からも不満が出ている…殿は板挟みとなり、飼い殺しのようにここに留まらせようとする幕府に失望しているのです」
「…」
「殿が…会津が矢面に立つ必要はありますか?今の慶喜公のために殿が命を賭けるべきだと?」
浅羽の眼差しは冷たかった。既に彼の心は幕府を見限っているように聞こえた。
しかし土方は怯まなかった。
「差し出がましいことを申し上げますが…我々の知る会津公がここで手を引かれるとは思えません」
「…」
「あなたもそう思っているのでは?」
浅羽は土方の問いかけに答えなかった。そのかわり少し微笑んで
「それが会津の精神であり…我々の足枷です」
その声が虚しく響いたところで浅羽に「殿のお帰りです!」と遠くから声がかかった。
「…土方さん、また何かあればお知らせします。私はここで」
小姓頭として浅羽は出迎えに行くのだろう。土方は彼の凛とした背中を見送ったのだった。








706


文久二年、年末。京都守護職として上洛を果たした殿のご活躍は目覚しいものがあった。
まず殿は上洛前に家臣を数名、都に送り情勢視察をさせたのち幕府への建議書を提出した。公武合体を目指し、夷狄を遠ざけ、朝廷の使者には礼節を持って対応する…その整然とした中立な内容を幕府ですぐに実行させたことで帝を喜ばせ信任を得、上洛時には天杯と緋の御衣を賜うこととなった。これは武士としては異例の歓待だった。また会津が都入りした際、礼儀を尽くして折り目正しく振る舞ったことも評判を呼んだ。
私は殿が「陣羽織にせよ」と帝から賜った緋の御衣を身につけていらっしゃる姿を拝見するたびに心躍るような喜びと誇らしさで満たされた。
しかし悠長にはしていられない。都の治安は目も当てられないほどに乱れ、日々何処かで暗殺、天誅、脅迫が続く異常事態だったのだ。ほとんどが攘夷派による過激な暴走であったが、殿は力による取り締まりを良しとはしなかった。
「過激派といえども国を憂う志が宿る同じ人間だ。主張に耳を傾けることが彼らの暴走を止めることに繋がる。その言い分が良いとなれば私が幕府や朝廷に働きかけよう」
と布告を出した。この頃から殿とは考え方の違う一橋慶喜公は「全て聞いていたらキリがない」と一蹴されたが、殿は愚直なまでに「まず会話を」と攘夷派からの面談や手紙を拒まず受け取り、一部は建議した。その過程で慶喜公は影響力の大きい志士を逮捕しようと画策したが殿は寛容に対応された。
勿論、それだけで治安は回復しなかったが、会津が矢面に立ち過激派と立ち向かうこと、殿自らが積極的に中立的な正しさを追求しそれを外れた者は厳罰を処したことで、帝から更なる信任を得ることに繋がっていった。
しかしそれをよく思わない者もいた。公家の過激攘夷派が殿と会津を都から追い出すべく「会津を東下させるべし」という偽勅を出し会津を混乱させたのだ。殿は困惑されたが、結局は帝から「東下させるなどもっての外」そして「会津をもっとも頼りにしている」という真勅を涙ながらに受け取ったのだった。
…紆余曲折を経て上洛から半年、慌ただしい日々はあっという間に過ぎ季節は夏を迎えようとしていた。
「今日も雨ですね…」
私は不安を抱えながら空を見上げた。帝の天覧にて会津の馬揃え(操練)を披露する予定が雨のせいで三日順延しているのだ。梅雨時期で仕方ないとはいえ、帝が楽しみにされているとおっしゃったので気が急いてしまう。
「雨は天の采配ゆえ、仕方あるまい」
殿は緋の陣羽織を身につけていらっしゃった。普段よりも一層背筋が伸び整った精悍な顔付きが引き締まり、人目を惹いた。
「…この分では、今日も難しいでしょうか…。『雨天順延』の命も出ていますし、今日は兵を引き上げますか?」
私の視線の限りでは遠くまで暗い雲で覆われている。残念ながら延期となるだろうと誰もが思っていた。
しかし殿は
「いや、陽が落ちるまではいつでもご覧頂けるように待機を続けるべきだ」
と頑なに仰り、家臣にいつでも出立できるよう待機する指示を出した。
殿は雨を眺めておられる。小姓頭の私は傍に控え続けていた。
この頃、私は殿から忌憚なく意見を述べるように命令を受けていた。殿と一番近い存在であるからこそ気になったことはなんでも話すことが、会津のためだとおっしゃっていたのだ。
私は「殿」と切り出した。雨が止むまでは時間がありそうだった。
「どうした?」
「…先日取り立てた壬生の浪人たちですが、良い噂を耳にしません。威圧的な態度で民からも恐れられており、一部は商家への金の取り立てなど横暴な振る舞いをしているそうです」
正直、私は壬生浪士組に良い印象はなかった。尊大な雰囲気を漂わせた芹沢鴨、その半歩後ろに控える近藤勇…烏合の衆である彼らを幕府の命令とはいえ会津お預かりとするなど、気が進まなかったが殿はあっさりと受け入れてしまった。
すると壬生浪士組は案の定あちこちで悪評が立ち苦情も寄せられていた。
「活動費が足りぬのだろうか…幕府に掛け合ってみよう」
「…殿、彼らは横暴に商家から金を取り立て、苦情が上がっているようです。彼らが『会津お預かり』を名乗るのは、我らにとって…」
「浅羽、彼らは我らに代わり実際の現場で命を張って取り締まりを行っているのだ。多少の悪評は仕方あるまい」
「…」
たしかに彼らは我々の目の届かぬ歓楽街の取り締まりを担当している。尊攘派が手段を選ばずに襲撃するなか、壬生浪士組もそれに応じなければならないのだから多少手荒になってしまうのだろう。
「それに…私は気に入っているのだ」
「は…?」
「あの近藤勇という者…芹沢の影に控えているように見えてその眼は曇りなく賢明に見えた。きっとそのうち頭角を現すだろう」
「…」
私は殿の楽しそうな横顔を見て言葉を噤んだ。殿は綱渡りのような政務を務めながら、時々この忙しなさを楽しんでおられるように見えた。
(全く…私などは到底及ばぬ御方だ)
私よりも年若くおられるのに、ずっと先を歩かれているようだ。そのお姿は凛々しく、麗しく、清々しく…私の心は常に波打つ。
すると殿は突然立ち上がり外を眺めたーーー雲間から光が差し雨が上がっていたのだ。
「殿、叡覧の命が出ました!」
今すぐ馬揃えを披露しろという命令だ。
「参ろう」
その光は殿をさらに凛々しく照らしているように見えた。緋色の陣羽織の美しさに負けない麗しさであった。
突然の命にも会津は動揺なく、万端の準備を怠らなかったため見事な馬揃えを披露して見せた。帝から『実に頼もしい』とのお褒めのお言葉を頂戴することとなり、殿はまた信任を得た。
…実は『雨天順延の命』はまたもや過激派公家による嫌がらせであり、会津を油断させたところで『叡覧の命』を出し準備に手間取る醜態を帝の前で晒すつもりだったらしいのだが、目算が外れてしまった、という裏があった。殿は「そうか」と一言仰り相手にされなかった。


夜。
「…そんなことがあったんですか…」
寝込んでいた総司が目を覚ますと周囲が騒がしく、何があったのかと土方の部屋に向かうとちょうど近藤が帰営したところだった。原市之進暗殺とその経緯を耳にし思わずため息が溢れた。
「会津公はなんとおっしゃった?」
先に戻った土方が尋ねると、近藤は渋い顔をした。
「…原様はそもそも政権を朝廷へ返上するべく、将軍職と徳川宗家を分離する策を立てていたそうだ。そうすることで徳川家の体裁は守られるだろう。今回の件は原様の功績に嫉妬した、もしくは慶喜公を操る奸臣だと揶揄する者たちによる凶行とも言われているが、結局はその分離策を拒む幕臣たちが彼らを焚き付けたのだろうと」
「政権を、返上…?幕府が無くなるということですか?」
総司は近藤の言葉に首を傾げた。幕府の元て生まれ、暮らしてきた総司にとって俄には信じられない話だったのだ。
土方が不安そうな総司に補足した。
「まだ『そういう話がある』というだけだ。慶喜公は変わり者だがそう簡単にできる決断じゃない」
「…しかし、容保様は『それも良い』と投げやりなご様子だ。原様のような優秀な英才さえ死んでしまうような幕府には、この国を統治することはできないと嘆かれていた」
近藤は堅苦しい紋付の羽織を脱ぎながら、深いため息をつく。
「…政権を返上すれば血を流すことなく一丸となり団結できると思っていたが…おそらく難しい。慶喜公に不信感を持つ幕臣たちの争いが必ず起こる…そして倒幕を目論む薩長が徳川家に取って代わるだろう。すでに軍備を整え、今か今かと戦を待ち侘びているのだからな…」
「だったらこちらも戦支度をするだけだ。銃の調練の成果を見せるのに丁度良い」
好戦的な土方に対し、近藤は苦笑したものの
「今日は疲れた。別宅で休むよ」
と言って去っていってしまった。
土方は「やれやれ」と言わんばかりに肩を竦ませた。
「会津を離れて旗本になったんだ、もう容保様の顔色を伺う必要はないだろう」
「でも…会津公は我々の恩人です。たとえ支配下を離れても近藤先生が気にされるのは当たり前じゃないですか」
「お前も人が良いな」
土方はそう言って話を切り上げ、「もう寝ろ」と促されるが眠気はない。
「一緒に横になっても良いですか?今晩は…眠れそうにないので」
土方は「好きにしろ」と言ったので、疲れてすぐに寝てしまった彼の傍に横になる。
近藤と土方の話はいつも難しく自分には関係のないことだと思っていたのに、今日の話には心が騒ついた。政権を返上するーーーその変革に伴う痛みは確実に自分達の側にあって、きっと無関係ではいられない。
(僕はその時に役立てるのだろうか…)
せめて皆の足を引っ張らないようにしなければ。
そんなどうしようもない不安に駆られて、結局うまく寝られなかった。








707


のちに、八月十八日の政変と呼ばれることになったその時も、殿は最前線で任務にあたられた。
討幕のための偽勅により蜂起した長州藩と会津をはじめとした諸藩の睨み合いは御所を取り囲むように夜半まで続いていた。戦に慣れない朝廷は恐怖に慄いたが、帝は殿を信用し、「すべて容保に任せる」とのお言葉まで頂戴した。殿もそれに答え、
「会津の精鋭が必ず殲滅します」
と伝えると帝は大いに感激し安心された。
結果として三条実美ら過激派公家は都を追われ、大きな戦は避けられたのだ。
殿は休まず働き続けた。決して壮健なお身体とは言えず、これまでも何度か床に臥されたこともあった。それを帝がご存知だったのか、「黒谷は遠いだろう」と御所の近くに休息所をあてがってくださったので、殿は久しぶりに体を休める事ができた。
「お身体をお拭きします」
私は小姓としての職務を果たすべく、疲れ切った殿の体をぬるま湯で温めた手拭いで拭いた。この非常時では湯浴みは叶わなかったが、殿は十分息抜きになったらしく着替えた後は微睡まれた。しかしまだ気の抜けない戦の最中、深く眠るわけにはいかなかったので
「浅羽、何か話をしてくれ」
と頼まれ、困ってしまった。小姓は話を聞くのが仕事であり雑談をすることに慣れていなかったのだ。
私が悩んでいると
「浅羽のことを聞きたい。どんな父と母で…どんな暮らしをしていた?」
「…ごく普通の、会津の武家です。父は厳格な会津藩士で母は穏やかでした。暮らしは質素でしたが食うに困らず感謝しています」
…話してみると面白みのない昔話だ。殿と出会い過ごしてきた激動の日々が目まぐるしくて、もう昔のことなんて忘れてしまったようにも思う。
しかし殿は興味を持たれ、
「子供の頃は?」
と促した。
「…厳しい父で、跡継ぎでしたし会津藩士の子として模範となるようにと口を酸っぱくして言われました。しかしその反動で隠れて父の本に落書きをしたり、大切にしている筆を隠したり…そういう悪戯をしてよく叱られました」
「浅羽が?信じられない」
「酷く叱られた日には、外に出されて一晩過ごしたこともあります」
「ハハ、よほどやらかしたのだろう」
殿は楽しそうに笑った。確かに今の私からは想像できないだろうが、やんちゃな少年時代があってこそいま落ち着けることができたのだろうと思う。
すると殿は「私も同じだ」とおっしゃった。
「私は六男で、もともと藩主になる見込みなどなかった。兄たちが勉学に勤しむ間に一通りの悪戯をして楽しんでいたが、それもつまらなくなってようやく真面目に勉強を始めた。まさか義父の跡継ぎになんて声がかかるとは思わなかったから、もう少し学んでおけば良かったと思うこともある」
「しかし殿は誰よりも会津藩主としてふさわしい振る舞いをしていらっしゃいます」
誰よりも会津の精神を理解し、身を粉にして働いている。最初は京都守護職就任に反対していた家臣たちもいまや熱心に支えているのは、殿の献身的な働きぶりを見ているからだ。
しかし殿は穏やかに笑った。
「私は会津の人間ではない。だからこそ誰よりも会津の精神に忠実でなければならないと自覚している。まだまだ足りないくらいだ」
「…」
殿は「暑いな」とおっしゃったので、私が団扇で仰ぐことにする。
手近な脇息に肘をつかれ殿は再び目を閉じた。
「…浅羽、私は会津藩主に相応しいか?」
思わぬ問い掛けに私は即答した。
「何をおっしゃいますか。家臣は皆、殿に心酔しています」
「しかし、皆にはいらぬ苦労をさせているだろう。会津に留まっていれば政に巻き込まれることはなかった」
「苦労など…!」
と、言いかけたところで外が何やら騒しくなったのが聞こえてきた。長州との睨み合いは集結したといえ、まだ互いに警戒を怠っていない。私は「様子を見てきます」と部屋の外に出る。
すると途端に静寂が訪れていたが、逆に不穏に感じ私は刀に手を掛けつつ周囲を見渡す…しかし賊の姿はない。
(気のせいか…)
と、思ったその時、背後から気配を感じて振り向いた。
身体が咄嗟に動いた。私は左腕に鋭い痛みを感じたが、それは刀ではなく矢だった。
「曲者だッ!」
私は痛みを堪えつつ懸命に叫ぶ。するとバタバタと藩士たちが二、三人やってきて私が指差す方向へと走っていった。
「浅羽!」
「殿!部屋から出てはなりません!」
賊は一人とは限らない。私は左腕を抱えつつ駆け寄って来た殿を部屋に押し込んだ。
「斬られたのか?」
「いえ、弓矢です。かすっただけで大した痛みはございません」
私の左腕は出血していたが切り傷程度で見た目ほどの痛みはない。しかし殿は「見せてみろ」と強くおっしゃったので袖をたくしあげた。
「傷口は浅そうございます」
「毒が塗られていたらどうする」
殿はご自分の懐から懐紙を取り出すと血を拭い始めた。
「殿、これは自分で…!」
「私が狙われたのだ、これくらいはさせよ」
殿はご自身の手が汚れるのを厭わず止血し、「すまない」とおっしゃりながら突然私の左腕に口を当てて吸った。
「殿!」
私は慌て逃れようとしたが殿は離さずそのまま吸い出したものを懐紙に吐かれた。
「殿、これ以上はなりません!殿の御身に何かあれば…」
「構わぬ、何かあれば一蓮托生だ」
「そんな…」
殿は何の躊躇いもなく同じことを繰り返された。私はあまりの事態に頭が真っ白になってしまい、その場から動けなかった。
次第に血は止まり痛みも鈍くなって、ただ残ったのはやけに熱く火照った私の頬だけだった。
「…これで良かろう」
「殿…」
「すぐに医者を呼ぶ」
するとちょうど藩士が数名部屋を訪れたので、殿は医者を連れてくるように指示され、この部屋の周囲を取り囲むように警備がつく。
「浅羽、横になっていろ」
呆然とする私は殿の言葉に従うしかなく、畏れ多くも殿のお側で体を休めることになってしまう。
この非常時であっても殿は変わらず凛とされていた。その横顔を眺めながら私は少しずつ自分の心が沸騰するように熱くなるのを自覚した。
(いや…まさか…)
邪な気持ちを否定するように、私は自分の額に冷たい手の甲を押し当てて天を仰いだ。
けれどどうしようもない喜びが身体に満ちた。
『一蓮托生』
それは私が殿への忠誠を胸に誓った言葉だ。
それを殿が私に仰ってくださるとは…。
(私はこの御方のために生きよう)
何もいらない。
出世も、安寧も私にとっては無価値だ。
敬愛する殿のそばに侍ることだけが私の望みであり、生きる理由に違いないのだから。



「伊東先生、無事太宰府に到着されたようですよ!」
藤堂が嬉々として報告して来たのだが、刀の手入れをしていた斉藤は「そうか」と振り向きすらせずそれだけだった。しかし彼は気にすることなく
「船で行かれたそうですが、やはり兵庫港には異国船がちらほらいたみたいで気を揉んでいらっしゃるようです。俺もこんな近くに異人がいると思うと気が休まらないような…やはりこの状況だからこそ御所をお守りするのが我々の責務ですよね!」
「…そうだな」
相変わらず斉藤は起伏のない返答だったが、東堂はそれでも満足して「見回りに行って来ます!」と足取り軽く出ていった。
斉藤は手を止めた。
(伊東が京にいないいま、御陵衛士にできることはない)
長州処分に関する建白書の提出を終え、いま御陵衛士にはせいぜい土佐陸援隊から持たされる密偵の情報を伊東に伝える伝書鳩のような仕事しかない。藤堂は張り切って見回りなどに出ているが、他の御陵衛士は時間を持て余し気を抜いているように思う。
今なら自由に動けるだろう。
(幸い、やるべきことがある…)
先日幕臣の篠原から指示が届いていたので、そちらに注力できる。
斉藤は手入れを終えた刀を鞘にしまい、腰に帯びた。
夏の厳しさはまだ先にも続く。日差しを手で遮りながら斉藤は月真院を出たのだった。










708


夜になると蝉の声がやけに響く。
「今日も遅いお帰りですね」
黒谷に戻ると若い藩士に声をかけられて、浅羽は足を止めた。
「ええ…少し見回りを。この頃は倒幕派の浪士が京に集まりつつあるそうですからね」
「小姓頭自ら見回りなんてされなくとも。新撰組や見廻組に任せておきましょう」
「実際に外を見回るとわかることもありますよ」
浅羽は「では」と話を切り上げて小姓が寝泊まりする一室に足を踏み入れた。他の者は会津公の傍に仕えているのか、ちょうど誰もいなかった。
部屋に明かりを灯し、仄暗いなか浅羽は着替え始める。酒と女の香りがまとわりついているような気がした。
「見回り」と誤魔化したが、今夜も花街に足を伸ばしていた。麻呂殿の情報を得られないかあちこちの料亭に顔を出しているが、なかなか尻尾を掴むことができず歯痒い日々だ。
(悠長に構えていられぬのに…)
衣を脱ぐとたとえ暗くとも左腕にあの時の傷の痕がうっすらと残っているのがわかる。
幸いにも毒矢ではなかったようで浅羽が大事には至らずに済んだ。主君を守って付いた傷は誇りでしかないが、しかし同時にさまざまな感情が沸き上がってくる。
(私の思いはあの時から変わらぬ…殿のためならこの命を喜んで捨てられる…)
自分は既に十分すぎるものを与えられた。
秀でた主君に仕える喜びも、一連托生だという過分な言葉も…ただそれだけで生きて、死ねるような。
(…殿のためならば何でもできる)
浅羽は新しい衣に腕を通し、珊瑚の根付に触れた。
『朝顔』は土方の言った通り『固い絆』の表れであるが、浅羽にとっては別の意味も持つ。幸いにも土方には気づかれなかったようであるし、会津公がその意図を持って浅羽に渡したのかどうかもわからない。
(私の気持ちを殿がご存じかどうかなど…確かめようもない…)
「…このままで良い」
呟いた言葉はどこかへ消えていった。


屯所では難しい顔をして近藤と土方が向かい合っていた。
「長州寛典論を説く諸藩や公家には長州を厳罰に処するべきだという建白を持ち込んでいる。寛典論は先の帝や亡くなった家茂公の御意志に背くものだ」
近藤の言葉は熱を帯びる。先日まで『大政奉還が成れば血が流れずに済む』と呑気だったのに、実際に事が起こるかもしれないとなれば話は別だ。それに大政奉還を実現させようとしていた原が暗殺されたことで、幕府はさらに揺らいでいるのだ。
そんななか長州の官位復帰ーー寛典論が成れば倒幕派の勢いは増してしまう。それだけは避けたい思いは、土方も同じだ。
「長州の官位復帰に精力的な公家には見張りをつけている。万が一官位の復帰の宣旨が長州に授けられたらすぐに知らせが来るだろう」
「中川宮さまからはこの頃、土佐が討幕への動きが加速しているというお話を伺った。兵を集め軍備を整えている」
「密偵からも同じように聞いている。…慶喜公は本当に政を返上するおつもりなのか?」
「それがわからぬ」
近藤は困ったように腕を組み、唸る。
「原殿が亡くなってから、その御心を誰にもお話にならないそうだ。…腹心の部下が亡くなった、その本懐を叶えるべく『大政奉還』を承認されてしまうかもしれない」
「…幕臣に昇進したばかりだというのに、幕府自体がなくなったら笑うしかないな」
「笑い事じゃないぞ」
近藤は真面目な顔で叱るが、土方にはそれが冗談ではなく可能性の一つだという認識があった。もちろんそれを必死に幕臣として足掻き続ける近藤には話すことはできなかったのだが。
「土方副長」
ちょうど話が途切れたところで山﨑が顔を出した。おそらく声をかけるタイミングを見計らって待ち続けていたのだろう。
「なんだ」
「少しお話が…例の件で」
「俺は部屋に戻ろう」
山崎の言いづらそうな雰囲気を察したのか近藤は去っていき、代わりに山﨑が腰を下ろした。
「どうした?」
「浅羽殿により教えていただいた三軒の鴨屋のうち一軒に出入りしている密偵から知らせが来ました。今宵は良い鴨を仕入れるよう頼まれたとか…詳しゅう聞いてみると『上客が祇園に来る』と漏らしたそうで」
「…可能性はあるな」
「この二十日ほど『麻呂殿』の話は廓では聞きまへんし、そろそろお出ましの頃かと。…浅羽殿にお伝えしますか?」
「いや、待て」
ようやく巡ってきた絶好の機会だが、土方は止めた。
「…まず、その『麻呂殿』の正体を確かめる。そして浅羽と引き合わせて良いのか確認しなければ伝えられない」
「浅羽殿は新撰組は関わらへんようにとおっしゃったのでは?」
山崎の言う通り浅羽は土方が『麻呂殿』について調べることを強く牽制していた。よほど高貴な相手なのだろうが、土方は怯む気持ちはなかった。
「…浅羽は何か強い決心をしている。おそらく…その『麻呂殿』を殺すつもりなのだろう」
強い決意を秘めた眼差しの意味は、土方にはすでにわかっていた。恨みか憎しみか…二人の間に一体何があるのかはわからないが、浅羽はとうの昔に殺すことを決めているのだ。
それを山崎も薄々感じていたのか、否定はしなかった。
「…わかりました。では副長自ら祇園に?」
「ああ。近藤先生や総司には黙っていてくれ」
「わかりました」
山崎は詳しい店の名前とその付近の協力者を教えてそのまま下がっていった。
土方は早速、着替え始めた。浅羽の気迫を思い出し妙な緊張感を覚えながら支度を整えていると
「また浅羽さんとお出かけですか?」
と総司が顔を出した。
「そんなところだ。…具合は良いのか?」
「ええ、すっかり…と言いたいところですが本調子ではないので巡察は島田さんに任せて、稽古だけにしました。ちゃんと加減してるでしょ?」
子供のように誇る総司を見て何だか気が抜ける。
「稽古は口出しだけだろうな?」
「…少し竹刀を待ったくらいですよ」
「まったく…」
総司の『少し』がどの程度なのか、土方にはわかる。汗ばんで髪が濡れているので熱心に指導したのだろう。
「病み上がりのくせに。…まあいい、ちょうどよかった、お前に渡すものがある」
土方は三段ほどの引き出しの一つから小さく包まれた薬を何個か手渡した。
「俺が煎じた薬だ。漢方だから松本先生のところの薬ほど効果はないかもしれないが、気休めにはなる」
少し前に土方は実家から煎じ薬を作るために薬研や乳鉢などを送ってもらっていた。久方ぶりの商売道具に懐かしさを覚えながら、当時のことを思い出し煎じたのだ。
総司は目を丸くして驚いていたが、
「苦いんですか?」
と少し嫌そうにした。
「良薬口に苦しと言うだろう」
「嫌だなぁ、試衛館にいた時に飲んだのはとても苦くて一日中憂鬱で仕方なかった」
「口直しに菓子でも準備してちゃんと飲め」
「そうします」
総司は何包もの薬を懐紙に包んで懐に入れた。
「もう出られますよね?浅羽さんによろしくお伝えください」
「ああ…」
微笑んで見送る総司は、本人の言う通り調子が良いのか病を感じさせず朗らかだ。土方は背中を向けた総司を引き留めるように抱きしめた。
「わっ、どうしたんですか?」
突然のことに驚いて総司は立ち止まる。
「…理由はない。ただこうしたくなっただけど」
土方はそう言いながら少し汗ばんだ総司をさらに強く抱き寄せる。
(たまに確認したくなる…)
弱気なことは口には出せない。総司の負担にはなりたくはないし、自分でも言葉にするのは難しい。
ただこうしているだけで総司が目の前にちゃんと居ることを確認できる…それだけで随分と救われるのだ。
「…汗を流して寝ろよ」 
「はい」
土方は離れ難く思いながらも、腕を解いた。
総司もそんな土方の気持ちが伝わっていた。
「土方さんも飲みすぎないようにしてくださいよ」 
そう言って正面から軽く抱きついた後、「じゃあ」と言って去っていった。










709


元治元年。
殿は年初めより体調を崩されたが、病をおして将軍家茂公の参内に同行された。帝から家茂公へ公武合体を図る殿とともに協力しことを進めるようにと勅が下り、殿はますます幕府の中でも存在感を増すことになった。
公の場では毅然とした表情を崩さない殿だが、黒谷に戻るとすぐに倒れ込むように横になり身体を休める…いつも病気の身体を引きずって公務についているような苦難の日々が続いていた。
「殿の公務を減らすことはできないのですか?」
私は家老に問い詰めるが、会津はいつの間にか政の中心に在り、帝と将軍から信任を得ているため簡単に手を引くことはできない、そして殿ご自身がそれを望まれていないのだと告げられた。
(このままでは殿の御身に障る…)
私は常に医者を待機させ、滋養のある食事を用意し、火鉢の炎を切らさぬように昼夜問わず気にかけた。それでも殿のご体調は本復に向かわず、
「これでは、近いうちに帝や大樹公にご迷惑をおかけしてしまうな…」
と枕元で弱音を吐かれる日も増えてきた。
そんな時にどうお答えしたら良いのかいつも迷う。すでに十分尽くされてきたのにさらにと励ますわけにもいかず、「辞退された方が良い」と進言するのも殿は望まれていないような気がしていた。
「…殿、少し眠られてはいかがですか?明かりを消しましょう」
私は無力にも、言葉を濁すことしかできない。殿が頷かれたので、私は安堵しながら蝋燭の火を吹き消して殿の寝所を整える。
「浅羽」
「はい」
「今日は自分の寝所でゆっくりと休むが良い。このところまともに寝ていないのだろう?」
殿のおっしゃるようにこの数日、殿のお加減があまりに悪く私はずっと傍に控え続けていた。座ったまま目を閉じ、殿が寝返りを打つたびに大事ないかと気を配っては、また浅い眠りにつく…その繰り返しだったのだ。
「…いえ、私のことなど…。自分の床についたとてきっと眠れません」
殿のご様子が気になって結局は眠れないまま朝を迎えるだろう。だったらここにいる方が気が楽だ。
殿は「そうか」と少し考え込まれたあとに
「では、一緒に眠るか」
とそんなことをおっしゃった。私は「は…」と言葉に詰まりその意図を図りかねたのだが、殿は言葉通り幼い兄弟がそうするように一緒に眠ろうと誘われたのだ。
「い、いえ…そのような!狭もうございますし…」
「確かに狭いな…もう一組布団を用意させよう」
「ご冗談を…」
「冗談ではない。こんな寒い冬の夜に布団を掛けずうたた寝するなど、自殺行為だ。私が放っておけないと言うのなら従いなさい」
殿は狼狽する私を置いて、別の小姓に声をかけ布団を用意させた。小姓は「殿のお戯れ」だと少し笑いながらもすぐに準備をして殿の床と並べた。
「では眠ろう」
殿はいつもと変わらぬ様子で床に就くが私には大きな躊躇いがあった。殿の温情であることはわかっていても、臣下としてあまりにも不敬な行いであるし、私の心にも大きなうねりを覚えたのだ。
「と…殿、私は…」
「互いの立場は気にするな」
「は、…はい…」
私は迷いながらも殿のおっしゃる通りに床についた。身体と心はまだ拒んでいたのだが、これ以上病で伏せられている殿の手を煩わせてはならない、とどうにか自分を納得させた。
殿は安心されたのかすぐに目を閉じで寝息を立て始めた。隣で横になった私は少しの安堵を覚えながらぼんやりと殿のお顔を眺めていた。
常に麗しさと凛々しさを放ち続ける殿は、こうして眠る時だけは何もかもを忘れて、無防備な安息の時間を過ごされている。それを私にだけ見せてくださる。
(ああ…結局、眠れぬ)
こんな殿のお側でどうして眠る事ができるだろう。
私の胸は先ほどから早鐘を打つように高鳴って仕方ないと言うのに。この方さえ居れば良いと思えるほど狂おしい思いをずっと隠してきたのに。
「…どうした?」
「!」
殿が突然眼をあけられたので、私は驚いた。ずっと見つめていたせいで気配を感じられ起こしてしまったのだろうか。
「も…申し訳ございません。やはり私は…」
「浅羽、何か言いたいことでもあるのではないか?」
「そのようなことは何も…」
「遠慮せずに言ってくれ」
殿のお顔が至近距離にある。そして殿が詰め寄られるのでますます近くになってしまう。
私の顔は何を語らずとも悟られるほどに赤らんでいただろうから、仄暗い部屋の暗闇に隠れることができたことが唯一の救いだ。
「…殿がお休みになられたのか、確認していただけです」
私は嘘をついた。
けれど私の胸の内の『真実』を話したところで殿がお困りになるのはわかっていたのだから、これは仕方のない嘘だ。
殿はまだお疑いの様子だったが、
「…ちゃんと眠るから、心配するな」
とおっしゃって横になられ、そっぽを向くように反対の方向を向いてしまった。
(殿は怒っておられるのか…?)
私は落胆したが、元々は自分の行いが招いたことだ。しかし殿の一挙手一投足が私の心も体も全てを左右する。
(これがお慕いするということなのだろう)
私は床につき、目を閉じた。早鐘のように木霊していた胸の高鳴りは治まるのに時間がかかった。
翌朝、殿は「よく眠れなかった」とおっしゃいながらも体調は回復されたので、他の小姓から「時折ご一緒に眠られては」と揶揄されたのだった。



土方は山崎から教えられた祇園の料亭へ向かい、芳雲太夫を呼んだ。
「うちは暇潰しに呼ばれたのかしら?」
芳雲はそう苦笑した。今宵は浅羽がおらず土方に本命がいるとわかっている彼女は任務の一環で呼ばれたのだとすぐに理解していた。
「旨い鴨料理を馳走する。今日は良い鴨を仕入れているらしいからな」
「まあ、おおきに」
彼女は満足そうに微笑んで、それ以上は何も言わなかった。
土方は芳雲と雑談を交わしつつ、周囲の様子に気を配っていた。店に入る時には「今日は貸切だ」と拒まれたのだが「新撰組だ」と無理を通して一部屋開けさせた。その時の女将の表情は随分困惑しており他の女中たちもソワソワして落ち着かない様子だったので、貸切客にはよほど気を使わなければならないらしい。
(麻呂殿…か)
その正体についていくつか候補は挙げられたが、どれも確信はない。あの浅羽が殺したいほどの憎しみを持っている相手が一体何者なのか。
「太夫は誰かを殺したいほど憎んだことはあるか?」
土方が何の気なしに尋ねると、芳雲は穏やかな表情のまま
「勿論」
と頷いた。
「うちを廓に売った兄や厳しく仕込んだ年増の姐さん、無体なお客はんにはいつもそう思いますえ」
「…実際に小刀を手にしたか?」
「フフ、どうやったかなァ。…せやけど、やっぱり躊躇いは誰でもあるんやない?土方さまはお役目のためでも…誰かを心から憎んだことが?」
「…どうかな」
逆に尋ねられると、太夫のように答えをはぐらかしたくなる。
一番最初に『憎しみ』を感じたのは芹沢鴨だっただろう。偉ぶり、壊し、掻き回し、総司に手を出した…会津からの命令という建前はあったがそれがなかったとしてもいつか殺していたに違いない。それは土方の憎しみからくるだっただろう。
「もうやめましょ。こんな美味しそうな鴨鍋を前に辛気臭いお話は」
「…そうだな」
芳雲が鴨鍋を取り分けようとしていたとき、急に一階が騒がしくなった。客を歓待する女中たちの声が響き、ギシギシと階段が軋む音が聞こえる。
「…太夫、何も気にせず喋っていてくれ」
「へえ、かしこまりました」
芳雲も他の客が来たことに気がついていただろう。意図を汲み雑談を続け、土方は適当な相槌を打ちながら耳を澄ました。
階段の登ったあと遠ざかっていく足音からすると一番離れた大部屋へ通されたのだろうか、土方は山崎から聞いていた店の間取りを思い出した。
「お熱いうちにお召し上がりになっては?」
「…ああ、そうする」
土方は小鉢を受け取り、舌鼓を打つ。そうしていると『麻呂殿』のもとへも鴨鍋が運ばれたのだろうか、女中たちの複数の足音が聞こえてきた。
「…厠へ行ってくる。不慣れな店故に『少し迷うかもしれないが』」
「へえ、かしこまりました」
土方はそう言って部屋を出た。厠は一階にあるので一度降りてこっそり様子を伺うと女将が酒を女中に渡しながら
「これ、さっさと運び。麻呂様がお待ちかねや」
と急かしていた。
(当たりだな)
土方はその女中の後に続くように二階に戻り、少し間を置いて大部屋の様子を探ろうとした。物陰から女中が部屋の中に入って行くのを見届け、耳を澄ませると女中と『麻呂殿』が会話を交わしているのが聞こえてくる。一体何を話しているのかまでは遠くて聞こえないが、笑い声が聞こえてくるので他愛のない会話だろう。
(もう少し近づけば…)
そう足を伸ばしたところで、突然腕を掴まれた。
土方は驚いた。それは近づいてくる気配は一切なく、暗闇から突然現れたかのようだったからだ。反射的に払い除けようと身体を反転させるとそこに意外な顔があった。
「…!さい…」
斉藤だった。彼は硬い表情のまま何も言わずに首を振りつつ、そのまま土方が元いた部屋へ誘導した。
襖を開け二人は雪崩れ込むように中に入ったので芳雲は驚いていたが、それ以上に驚いていたのは土方だった。
「お前、なぜここに…」
「こちらの台詞です。何故副長自ら密偵のような真似事を?」
「事情がある。お前こそ麻呂殿に何の用だ?御陵衛士の仕事か?それとも…」
「別件です。…麻呂殿とは何者です?まさか慶喜公のことですか?」
「は?…いま、なんと言った?」
土方は唐突な事態に頭が混乱しているが故の、空耳だと思った。けれど斉藤はもう一度、相変わらず淡々とした物言いで、
「あの部屋にいらっしゃるのは慶喜公です」
と告げたのだった。







710


あまりの大物の名前に、土方は驚きを隠せなかった。
「慶喜公だって…?」
土方は身体の力が抜けて思わず座り込む。浅羽が恨みを持つ相手としてさまざまな想定はしていたがあまりにも常軌を逸していた。
一方斉藤はちらりと芳雲太夫に目を向けていた。部外者の前で口を開くことができなかったのだろう。土方は
「…太夫、すまないが少しの間席を外してくれ」
「へえ、畏まりました」
心得ている芳雲は斉藤に軽く頭を下げて部屋を出て行く。土方は太夫が協力者である旨を伝えると、少し緊張を解いたようで、土方の前に膝を折った。
「それで…何で麻呂…じゃねえな、公方様を追っている?」
「…先日、腹心の原市之進が殺されてから公方様は胸の内を近習にも明かさず独断で動くことが増えたそうです。時折周囲の目を盗んで花街へ足を運ばれるとのことでしたから護衛を含めて監視するように命じられました」
斉藤は誰からの命令だとは明かさないが、土方には大方察しがつくし、麻呂殿の正体が判明しただけで十分だった。
「それで副長は?」
「…さる御方から麻呂殿に会いたいという依頼があった。御仁がいつ登楼するのか調べてほしいと。まさか公方様だったとはな…」
「浅羽忠之助ですか」
斉藤からその名前が出たことで土方はもう苦笑するしかなくなる。
「…お前は何でも知っているな」
「浅羽は何のために公方様に?」
「さあな…」
何もかも話すのがなんだか癪で土方は曖昧に誤魔化すが、察しの良い斉藤ならすぐに気がつくだろう。
相変わらず淡々として口を開いた。
「…公方様と会津公の御関係は複雑です。元々の考え方の違いから会津公の言葉は公方様のお耳には入らず、この頃は特に蔑ろにされている。しかし辞意を伝えても京都守護職として留任させ、国元への帰国を許さずまさに飼い殺し。…会津では飢饉も重なり家臣たちの不満が溜まっていると聞きます」
「ああ…会津公も距離を置いているようだ。しかしいまは公方様の決断次第ですぐに戦になる。長州や薩摩、下手をしたら土佐も倒幕に加わるとなれば、最初の標的は会津だろう。…俺はまるで幕府が戦の盾にするために会津を引き留められているように感じる」
「でしたら答えは見えてきます」
斉藤は明言を避けつつ土方を見据えた。
(やはり浅羽は、殺すつもりだ)
腹心の原が殺された今なら、絶好の機会だろう。
しかし土方には現実味がなかった。多少なりとも彼の人柄を知ったいま、そんな大それたことをするだろうか…想像ができない。
「…極端すぎる。もし浅羽の本願が叶ったら会津はどうなる?会津公の責が問われることになる」
「秘密裏に手を下すのでしょう。廓には公方様はお一人ですし、その正体を知る者も少ない」
「なら、何故俺に協力を求めた?誰か一人に漏らせば必ず話は広まる。ましてや新撰組は幕臣で公方様の配下だ」
「…わかりません。副長を信頼してのことでしょうか…」
流石の斉藤でも土方の疑問への答えは持ち合わせていなかった。この件を知っているのは今のところ土方と山崎だけだが、浅羽にとって危険な賭けでもある。なぜ数回顔を合わせただけの土方に託したのか…。
(その答えを知っているのは浅羽だけだ)
土方は考えるのをやめた。
「…とにかく、浅羽を止める。お前はこの件は忘れろ…あまり多くに関わると足元を掬われる」
新撰組、御陵衛士、そして別の任務…あまりに抱えすぎると必ずどこかに綻びが出てくるだろう。斉藤もその自覚があるのか「わかりました」とすぐに応じた。
そうしていると俄に部屋の外が騒がしくなった。懇意の芸妓が数人、麻呂殿の元へ呼ばれたようでこれから豪勢な宴会が始まるのだろう。こうなってしまっては土方も斉藤も身動きが取れない。
土方は盃を斉藤へ渡した。
「少し付き合え」
「…はい」
土方は酒を注ぎつつ、
「総司に会ったんだろう?」
と尋ねた。巡察の途中に居合わせたことは総司から聞いていた。
「はい…危険な真似をして申し訳ありません」
「病のことを知らせなかったのは悪かった。総司から止められていたわけじゃないが、俺から知らせるのは違うと思っていた」
「…そうですね」
斉藤は受け取った盃を一気に飲み干した。まるで水か冷茶でも飲むようにあっという間だったが、表情は何一つ変わらなかった。
「しかし…俺が何を言ってもあの人は揺るがなかった。いつもそうです、結局は近藤局長と副長のために生きるのだとそれだけです」
「…本当に、頑固な奴だ」
土方は酒を口に含みながら総司と斉藤がどんな会話を交わしたのかと想像する。総司は聞き分けのつかない子どものように頑なだっただろう。
「…ただ、そう遠くない将来に養生に努めることになるだろうと自覚はしていました。いまは身体が動く残りの時間で自分を納得させているのだと」
「そうか…」
土方にはなかなか漏らさない弱音を、久々に再会した斉藤には話した…と思うと少しの嫉妬もあったが、しかし総司にとって友人と言える相手が少ないなかでやはり斉藤の存在は特別なのだろうと、土方は思う。
土方は空になった斉藤の盃に酒を注いだのだった。




殿は難しい顔をされていた。
足並みの揃わない幕府や偽勅が平然と出回る朝廷のなかで、帝からは「容保だけは信用する」と任せられ殿は誠意を尽くして任務にあたった。
そして配下の新撰組が功をあげた池田屋事件、それを発端としたとも言える蛤御門の変を経てようやく京に安寧を取り戻していた。
殿は相変わらず万全ではないご体調をおして公務を続けられていたが蛤御門の戦では連日御所に詰め野営での徹夜で、両肩を支えられなければ立ち上がれないほど身体を酷使し、病は悪化した。
「殿、少しお休みになられてはいかがですか」
筆を動かし続ける殿へ私は声をかけたが、殿は
「これだけは」
と手を止めようとしない。私が今か今かとお側で待っていると殿は苦笑された。
「まじまじと見られると手元が狂う」
「は…申し訳ございません」
「良い、もう書き終わった」
殿は深いため息をついた。
「浅羽、六角獄舎の話は聞いたか?戦の火の手が迫り牢から囚人を出すのを躊躇ったため、三十数名の囚人を次々と斬首に処したそうだ…奉行所が囚人が火事を利用して逃げ出そうとしたと報告を上げてきた」
蛤御門の戦が起因となった火事で、火の手が迫っているとして六角獄舎に収監されていた政治犯たち三十名以上を斬首としたという騒動があった。
私も耳にした時は気分が悪くなったものだ。
「…はい。しかし実際は堀川の手前で火事が止まり、獄舎までは火の手は回らなかったと…」
「結果的に死ぬ必要のない者が無惨に殺された。それ「獄舎は刑場ではないのにあちこちに首が落ち、民の目があるなかで次々と殺された。…火事が迫った際には囚人は解放される決まりのはずだ。ましてや彼らは無秩序な凶悪犯ではなく、未決の政治犯だ。これでは火事に乗じたただの弾圧だ…!」
殿は珍しく怒りを露わにされていた。かつて上洛の際に「話せばわかる」と過激な尊攘派に説いた殿からすれば考えれない惨劇だったのだ。
しかし本来であれば殿は彼らを罰する立場で、情けをかける相手でもないのに中立的な立場で己の正しさを貫かられようとされる殿へ、私の尊敬の心はますます高まる。
「奉行所には厳しく咎める文を書いた。少しは懲りると良いのだが…」
「すぐに届けさせます」
私は殿の文を受け取るために近くに腰を下ろし手を伸ばした。すると一瞬、殿の指先に自分のそれが触れた…その時、殿がすぐに手を引っ込められた。そのため私は少し驚いて文を落としてしまう。
「も、申し訳ございません!」
「いや…」
殿は少し目を逸らした。私は心の動揺を隠すように文を急いで懐に入れ
「行って参ります」
とそのまま慌ただしく部屋を出た。
私の身体は強張っていた。指先は冷たく、顔は血の気がひいていただろう。
(…殿は、私を拒まれたのではないか…?)
殿のご様子はまるで腫れ物に触れるかのようによそよそしいものだった。
私が過敏にそう思ってしまったのには他にも理由があった。殿はこのところ身の回りのお世話には別の小姓を呼びつけることが多く、私には外回りの仕事を託されることが増えていたのだ。激務の殿に付き添い続けた私を労うように「少し仕事を減らせ」とおっしゃったのでそういう意図かと思いきや、先ほどの殿のご対応を見るとそれだけではないように思う。
(まさか…私の邪な気持ちに気づかれたのではないか…?)
思い起こせば、殿が私を遠ざけるようになったのは半年前のあの夜以来だ。床を並べ一晩過ごすなどやはり心の奥ではご不快だったのではないか。それがましてや私のお気持ちに気づかれたのなら尚のこと!
(私は…小姓頭には相応しくない)
私は愕然とした。











解説
なし


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