わらべうた




711


私の心の憂いは、その後の慌ただしさでどうにか紛れていった。
殿は蛤御門の変にて、御所へ発砲した長州へ厳しい処分を課すことを主張されたが、幕府の中枢はあまりにも動きが鈍く、殿の発破にもなかなか応じなかった。それに加えて帝が再三、長州征討の勅命を下しているのに幕府にその様子がないとお怒りになり、殿は板挟みになりながらもどうにか長州出兵を実現させた。(第一次長州征討)
軍勢の多さで降伏させたものの、幕軍の士気は低く危機感のなさを露呈した。さらに朝廷は長州処置のため、毛利敬親父子の上洛を求めたが、幕府は「必要なし」として蟠りを残し勅に反したため、公武合体を目指す殿は厳しく咎めた。
「旧態の権威に依存し得意になっている幕府には直に帝の真意と前線の状況を諭さねばならぬ」
殿は江戸へ出向く姿勢を見せたが、結局は幕府より使者が上京したため、都の情勢や長州征討の重要性を説くことで実現はしなかった。
この年の春頃になると、殿のご体調も落ち着き以前よりも精力的に政に携わるようになられた。安堵する反面、ご無理をされないかと心配だったが相変わらず身の回りの世話は別の小姓が務めていたので、私は私的な会話を殿と交わす機会が減っていた。
(これで良い)
殿が私を拒んでいらっしゃることを知った以上、どんな顔をしてお側に侍ることができるだろうか。私の勘違いも甚だしく不相応で不毛な想いなどいつか消えてしまう方が良い、その方が殿のためなのだ。
そう思い込むように務めて、夏が過ぎ、秋がやってきたある日。
「浅羽、居るか!?」
殿が突然、私を訪ねて小姓の部屋にまでやって来られたのだ。いつも冷静沈着な殿が焦っておられた。
「は…はっ、ここに…」
「一緒に来てくれ」
お急ぎの様子の殿はその一言だけでさっさと去ってしまい、私は慌ててその後を追った。すると殿は身支度もそこそこに外に出られ、馬に跨られた。
「事情を話している暇はない、伏見へ行く」
「はっ!」
有無を言わせない殿に圧倒されながら、私も馬に乗り後を追うしかできなかった。
伏見に到着すると、殿は小笠原老中らが朝廷へ「兵庫港開港の勅許、将軍職を一橋慶喜に譲ることを奉請する」と聞き愕然となった。大樹公の突然のご決断は殿も名指しされた一橋慶喜公も聞かされていない突然のものだったのだ。
伏見まで駆けつけたものの、既に将軍家から上奏されておりできることは何もなく帰路に着く。夜の道を馬を歩かせながら進みつつ、失意の殿はようやく事情を私にお話しくださった。
「兵庫開港を決定した老中が、朝廷より処罰を受けたのだ。異人嫌いの帝は都に近い兵庫開港には断固として反対されておられるが、大樹公は幕府の人事まで朝廷に指示を受ける謂れはないと珍しく憤っていらっしゃった。宥めたつもりが…まさかこんなことになるとは」
「…大樹公は本気でいらっしゃるのでしょうか…?」
私はまだ二十歳の大樹公が何処まで本気なのかと疑ったが、殿は首を横に振られた。
「あの御方は普段から穏やかで臣下を思う心もお持ちだ。それ故に処罰を受けた老中を気に病み、ご決断されたのだろう…ハッタリを口にされるような方では無い」
帝と大樹公に信任を受ける殿のご心情は複雑だろう。悩まれているご様子だったので
「少し休みましょう」
と馬の足を止め、もう店を閉めた茶屋の軒先を借りて腰を下ろした。
「浅羽、急に付き合わせて悪かった」
「いえ…しかし、何故私を?」
「? 小姓頭ではないか」
「ええ、その…」
この頃、私を遠ざけていらっしゃったではありませんか。
そう口にすると殿を批判しているように聞こえるのではないか…そう思い私は迷うが、聡い殿は察せられた。
「…ああ…実は、浅羽と親密すぎるのではないかと指摘を受けたのだ。身の回りの世話や小姓の仕事と呼ぶものは全て任せてきただろう?それに加えて事情があったとはいえ寝所を共にするなど、小姓としての示しがつかないと言われてしまった」
「そうでしたか…」
私の知らないところでそんな話が挙がっていたとは。しかし他の家臣から見ればたかが小姓が殿の寵愛を受けていると勘違いしてもおかしくはない状況だろう。殿は続けられた。
「私も八月十八日の時にお前に怪我をさせてしまったこともあって、少し距離をおいた方が良いかと思ったのだ。もしいらぬ心配をかけていたのならすまなかった」
「そんな…」
殿のお言葉に私は驚いた。
(私は嫌われた訳ではなかったのか…)
殿の穏やかな表情を見ていると、指先が触れたあの時のご反応はただの勘違いだったのかもしれない。私は心底安堵した。
殿はお話を続けられた。
「今回は…一報が届き、気が急いていた。無意識に浅羽を連れて行かねばならないと思った。…何故だろうか」
「…」
私はどうお答えしたら良いのかわからなかった。長年の信頼関係がそうさせるのなら、光栄なことだ。
するとポツポツと小雨が降ってきた。
「すぐに止むだろう」
殿はそうおっしゃったが、まだまだご快癒とは言い難いお身体を冷やすわけにはいかない。しかし慌てて出てきたため持ち合わせの良いものが見つからず、私は自分の羽織を「ご無礼をお許しください」と殿の肩にお掛けした。
「寒くない、浅羽が着ていたら良い」
「私は頑丈です故、お気になさらず…」
「だったらこうしよう」
殿は「近こう寄れ」と仰り隣に並ばれた。そして羽織を目一杯広げて私の肩に伸ばし、一枚の羽織を共有する。
「と、殿…」
「家臣に見られたらまた勘違いされる。しかしどうせ誰の目も無いのだから良いだろう」
殿は悪戯っぽくおっしゃり、微笑んだ。
出会った時、書架の書物を運び終えた後もこうして笑われた。あれから数年経っているのに殿はお変わりない。苦労されたはずなのに老いというものがない。
(近くで見れば見るほど…麗しい方だ)
そしてその麗しさの中に強さがある。どんな荒波でも折れないしなやかな竹のような芯が、私を魅了する。
触れた肩、共有する温もり、吐息さえ聞こえる距離が私を狂わせていく。
私はこの手を伸ばしたくはないのに…触れてしまいたくなる。泥中の蓮のような殿は、私には眩しすぎて。
「…浅羽?何故泣いている?」
感情が昂った私は無意識に涙を流していた。
私は殿をお慕いしている。
けれどそれは叶ってほしいとはさらさら思わぬものだ。
(私は混乱している…)
主人としてこれほど尊敬できる御方に出会った喜びとともに、どうして出会ってしまったのかという葛藤を抱えてきた。そしてようやく忘れられると思っていた想いを、またこうして自覚することになってしまう。
私は一体どうすれば良いのか。
「…泣いてなどおりません。これは雨です」
「本当か…?」
「勿論です」
「浅羽、私に何か隠しているのではないのか?」
「隠し事など…」
ございません、というには気持ちの整理がついておらず濁すしかない。すると殿は「もしや…」と何か言い掛けた。
私はその先を聞くのが恐ろしかった。
「雨が上がってきました、そろそろ参りましょう」
私は上着を殿に渡し、馬の準備を始めた。殿はもう何も仰らなかった。

そして翌日、大樹公が大坂から東帰すると報告が入り、私は殿とともに再び馬を走らせることとなる。
「今、大樹公が江戸に戻られれば全てが水の泡。必ず引き止める!」
陸路か、海路か、情報が錯綜するなか淀橋まで駆け回り、その日の深夜に伏見にて大樹公への拝謁が叶った。
「公方様、どうか留まりください!」
平伏して懇願する殿に大樹公は首を横に振られた。いつも穏やかな大樹公が聞く耳を持たずに頑なでいらっしゃった。
「帝は私を蔑ろにし老中に罰を与えた。加えて一橋公は朝廷での発言力が増し、もはや政を動かしている。であるなら私は必要なく、将軍職も一橋殿なら卒なくこなされるであろう」
大樹公の言い分は少し子どものような皮肉が混じっていたが、それも悔しさからくるものなのだろう。
殿は
「決してそのようなことはございません!」
とはっきり否定したが、大樹公は問い返す。
「容保は今の政に私が必要だと思うか?お飾りのように扱われるなら江戸にいても変わらぬ」
「公方様は公武合体の象徴です。形のない絆を結ぶためには策略を巡らすのではなく、志を貫かれるお姿を示し続けることが肝要です。いま江戸に戻ればどうなりましょう。征長を投げ出した幕府へ帝は失望し、民は不信感を抱き、二度と人心は戻りません」
殿の説得に大樹公はグッと唇を噛まれた。
本当のところは大樹公も理解していたが、引くに引けない状況となっておられたのだろう。
大樹公は少し考えこまれるように視線を逸らしたので、殿は穏やかに語りかける。
「…公方様、帝には私から人事の件は取り下げるように申し上げます。帝も公方様を大変信頼しておられます…ですからこれは何かの行き違いなのです」
「…約束できるのか?」
「勿論です。兵庫開港の件も直々にご説明申し上げれば必ずご理解いただけましょう」
殿はどうにか宥めて両者の間を取り持つ姿勢を崩さなかった。
殿はまさに『志を貫かれる』お姿を示されたのだ。
「わかった。…容保に任せる」
大樹公はようやく心を開かれ、辞職を撤回されたことで事態は解決したのだった。
その一部始終を末席から見守った私は殿のご苦労を垣間見るとともに、やはり清廉潔白な殿に私は小姓頭に相応しくないのだと思った。
(殿が何か勘付かれているのだとしたら尚のこと…)
そしてその夜、殿の元を訪ねて私は辞意を申し上げた。殿は大変驚かれた。
「浅羽、何があった?何故突然そのような…」
「申し訳ございません。どうか…どうか、何も尋ねず私を罷免してください」
「理由もわからず辞めさせるわけにはいかぬ」
殿はお疲れにも関わらず頑なに理由をお尋ねになり、私は頭を下げ続けた。
「私は小姓頭に相応しくありません」
「相応しいかどうかは私が決めることだ。浅羽はよくやっている。激務に疲れたのか?昨日今日と突然連れ回して怒っているのか?」
「滅相もございません」
「だったら理由を言いなさい」
殿は毅然とした態度で私の申し出を拒む。持ち前の頑固さを発揮され、こうなってしまうと私が折れるしかないのだが…。
(いっそ何もかも話して嫌われてしまう方が良いのかもしれない…)
私は簡単で自分が楽な方へと揺らぎかけたが、そうすれば真面目で公正な殿がどれほど悩まれるのかと思うと、そうすべきではないとわかっていた。
私が言葉に迷っていると、「近こう寄れ」と手招きされて、視線を落としながら殿の前で再び頭を下げる。
しかし殿はそんな私の手にご自分のそれを重ねられた。
「浅羽、私たちは一蓮托生だと言っただろう」
「……」
その言葉の意味を今この時ほど重く受け止めた
ことはない。殿は生きるも死ぬも共に、と望んでおられるのに、私はそれをちゃんと受け止めていなかったのか。
(このお言葉に嘘はない)
私は殿の手を握り返した。殿は少し戸惑われたようだったが、何も言わずに待ってくださった。
(細く、温かい手だ…)
私はこの温もりを忘れない。
そして、これ以上は求めずに忠信を尽くす。
私は辞意を撤回した。理由だけはと固辞したため殿は少しご不満そうだったが、
「お前が傍にいてくれるならそれで良い」
とおっしゃってようやく納得くださり、寝所へ向かうまで見送った。
私は部屋を出て別の小姓に託した。
空を見上げると眩い月がこちらを照らしている。昼間ほど明るくはないのに、妙に自分を曝け出されているような気がして私は背を向けて自分の寝所に戻った。


…それから数日後。
私は殿から突然珊瑚の根付を頂いた。帝から賜ったという珊瑚を殿が朝顔の形に彫らせて私に贈ってくださったのだ。
しっかりしたツルを伸ばす朝顔には『固い絆』という意味と、もう一つ…『はかない恋』という意味がある。朝に咲いて昼には萎んでしまうからだ。
私は殿がどういう意図を持って贈ってくださったのか尋ねることはできなかった。もし私の邪なお気持ちに気付いていらっしゃるとするならば、それが殿の答えなのだと悟ったのだ。







712


土方は別宅に山崎を呼び出した。ここが新撰組の鬼副長の別宅であると知る者はごく限られており、屯所よりも人の目も耳も少なく一番内密の話をするのに適した場所だからだ。
山崎に事の経緯を話すと「まさか」と最初は苦笑したが、情報源が斉藤であることを告げると次第に神妙な顔になった。
「…麻呂殿が公方様ならありえへん話ではないかと。今のところ公方様から会津は遠ざけられ、飼い殺し…。会津公も心身ともに疲れ果てておられるご様子とか。忠誠心の強い御小姓が己の身ィも顧みずことをしでかしてもおかしゅうはない…」
「俺もそう思う。浅羽はまさに忠誠心の厚い会津藩士だ」
「せやったら、お引き止めしたほうが良いのでは…?」
山崎は土方にその気がないのを見抜いていたようで、少し困惑していた。
土方は肘掛けに片肘をつき体を預けながら思案する。ここが別宅であり相手が山崎であるが故に遠慮なく思うことを口にできた。
「…公方様が死んだらどうなる?」
近藤なら不敬極まりないと怒鳴られそうだが、山崎は眉を顰めただけだった。
「それは…別の方が擁立されるでしょう。公方様には御子がおられまへんので、弟の昭武様でしょうか…せやけどまだ十三かそこらでお若すぎる。もしくは養子で一橋家を継がれた茂栄(もちはる)様は先代の家茂公が信頼されていたとか」
山崎は唸りながら考える。土方はフッと笑った。
「茂栄様は会津公の実の兄にあたる」
「…まさか、それを見越して?」
「さあな。天下取りのことはいつも予測不明だ。…ただ、そうなれば会津にとって悪くない展開だと思っただけだ」
(いつもこの世は予想外のことばかりだ)
戦国、もしくはそれより以前から筋書きのない世の中で、誰もがその座を奪い合い続けてきた。
土方は続けた。
「それに、このまま公方様…慶喜公が将軍職に就いていては大政奉還が成るかもしれない。戦を避ける究極の選択肢は責任を放棄することだ。政から手を引けば攻められる謂れはない…しかし今まで弾圧されていた長州の憎しみは必ず何処かへ向けられる…それはきっと会津だ。忠義者ばかりの会津は家訓によって将軍家を支えることを使命としているから、逃れられない。会津はいま危機感を持っている」
「…」
「…まあ、俺の妄想だ。本気にするな」
山崎は唖然としていたので、土方は敢えて茶化した。何の根拠もない、けれどどこか漠然とした不安がある…その気持ちを浅羽も抱えているのだろう。
「ただ…俺は会津に恩を感じている。近藤先生を幕臣にまで引き上げてくれたのは確実に会津のおかげだ。だからこそ…浅羽を引き止めることに躊躇いがある」
「見て見ぬフリをすると?」
山崎は驚いていた。当然引き止めると思っていたのだろう。
「副長、あきまへん。もし浅羽が公方様を暗殺しそれが明らかになった時に我々の名前が出たらおしまいです、一生拭えぬ汚名です」
「浅羽は誰にも話さないと言っていた」
「信じられるのですか!すでに我々は片足を突っ込んでしまっておるというのに…!」
山崎は悲鳴のように声を上げた。土方の片腕として機敏に状況を察し、尽くしてきた彼にとって勝算のない賭けだと思ったのだろう。
「…山崎、落ち着け。まだ何も決めてない」
「…」
「ただ、浅羽を引き止められるかどうか。あの目はすでに殺すことを決めていた」
穏やかに雑談を交わしながらも時折暗い陰が差していた。誇らしい郷里を思い出し
『それが会津の精神であり…我々の足枷です』
と憂いを秘めた表情で呟いた浅羽は、まるで何かを悟ったかのように達観していたようにも見える。
手を下すこととを決め、そして自分自身もその役目を終える。全ては会津藩、そして会津公のために。
「…とにかく早まったことはなさらぬように。それから…ひとつ、疑問があるのですが」
「なぜ浅羽が俺に協力させたか、だろう?」
山崎は頷いた。当然辿り着く疑問なのだろう。しかし
「あいにく、俺にもわからない」
土方はまた肘掛けに身体を預けて、晴れ渡った夏空に視線を向けた。密談にしては爽やかな夏日だった。


同じ頃、総司は南部診療所で浅羽に出会った。
「沖田君、偶然ですね」
相変わらず町医者の診療所にはあちこち患者が溢れ、南部だけでなく加也や英、弟子たちは忙しそうに働いている。この頃は夏風邪が流行り来院する患者の対応や往診に忙しいそうだ。総司はいつもの薬を受け取りに来たのだが、急いでいるわけではなかったので近所の子供たちの遊び相手になっていた。
そうしているところへ浅羽が声をかけてきたのだ。
「浅羽さん。どうしてここへ?」
「はは、南部先生は会津お抱えの町医者ですよ。常備している薬が切れたので補充のために足を運びました」
「ああ、なるほど。でも今は手が離せないそうですから少し時間がかかるかも」
「構いません。…良い機会ですから少し付き合っていただいても?」
「もちろん」
総司は残念がる子どもたちに別れを告げて浅羽と共に少し離れた木陰に移動した。
「…悪いことをしましたね。まだ遊び足りないようですよ」
一緒に遊んでいた子どもたちが物寂しそうに指を咥えながら総司の様子を伺っていた。
「また今度一緒に遊ぶときに埋め合わせしますから、大丈夫ですよ。ここに来たときは大抵遊び相手になってもらっている子たちなんです」
「はは、遊び相手になってもらっている、ですか」
「土方さんによく言われるんです。お前は遊んであげているんじゃない、遊んでもらっているんだって」
「お二人は同じ道場の食客だったとか?」
「はい」
浅羽の質問が新鮮で、総司の口元は自然と緩んだ。
「近藤先生と土方さんは旧知の中ですが、入門は私の方が先です。土方さんは…行商に出たり自己流で道場を周ったり…紆余曲折あって入門したのが遅かったんです。だから私の方が兄弟子なんですよ、本人に言うと怒りますけどね」
それからあっという間に仲間が増えて、大所帯になった試衛館はまるで同世代の溜まり場のようだった。
「土方さんは吉原では有名で毎日のように朝帰りをして近藤先生によく叱られていました。でも誰よりも近藤先生を想っていて、時には敵わない相手に喧嘩を売ってボロボロになって帰ってきたり…そうしたら食客の皆がやり返しにいったりして…ああ、あの頃は楽しかったなあ…」
総司は思い出を語りながら、最後には無意識に呟いていた。あの場には山南がいて、藤堂がいた…懐かしむ気持ちは否定できない。
浅羽もそれを微笑ましく聞いていたが、
「…土方さんは昔から『鬼副長』と呼ばれるような素養があったのですか?」
と突然思わぬことを尋ねてきたので、総司は少し驚いた。
「すみません、不躾に。ただ今の話を聞く限り…私の知っている土方副長とは違う気がしました。とても寡黙で無駄がなく、冷静で…昔からあのように落ち着いた方なのかと」
「あはは、それは浅羽さん、騙されていますよ」
「騙されている?」
「ああ見えてあの人が一番喧嘩っ早いし、すぐに怒るし…。世間が言う冷淡な『鬼副長』は京に来てから土方さんが造り上げたもので、本人は真逆です」
いまでは土方自身はひた隠しにしているかもしれないが、本当は熱情を秘めていて仲間思いなのだ。
総司の話に浅羽は少し考え込むようにしながらも口を開いた。
「…私は、壬生浪士組の頃から土方さんを知っていました。しかし新撰組の活躍は耳に挟んでいても、個人的には言葉を交わしたことすらありませんでした。ですが…一ヶ月前ほどに興味が沸きました」
「一ヶ月前ですか?」
「新撰組を脱退した隊士が仲裁を求めてやってきた時です」
「ああ…」
総司はその時は現場に居合わせなかったが、思い出しただけで複雑な心境になる出来事だった。
「私は事の成り行きを観察するようにと殿から指示を受けました。彼らは一旦は和解したように見受けられましたが…結局は四人が切腹しました。近藤局長は酷く動揺されていましたが、土方副長は表情ひとつかえず淡々としていました。的確に指示を出し、場を収め…瀕死だった一人を絶命させました」
「え?」
それは聞いていない話だったので、総司は驚いた。浅羽は「あれはもう助からなかった」と付け足したが、まさか土方が手を下していたとは。
「私はその時の土方さんの顔をよく覚えています。何の躊躇いもなく怜悧で…しかし迷いなく己のやるべきことをはっきりと見定めている表情でした」
「…」
「私は柄にもなく触発されたのかもしれません。ほんの少しの私情さえ交えず、『やるべきことをやる』…この混乱した世情だからこそそうすべきだと教えてもらったような気がしました」
浅羽の記憶にある土方の表情を、総司は容易く想像ができた。感情を消し、冷たく振る舞う土方は人を寄せ付けない雰囲気を出す。それが『鬼』と呼ばれる所以なのだろうが、浅羽のように別の解釈をする人もいるのだろう。
「…ですから、土方さんのことが知りたくて少し無理やり酒の席にお誘いしたんです。けれどなかなか胸襟を開いてもらえず…本当は迷惑しているでしょう?」
「はは、まさか…」
浅羽の言う通り連日の呼び出しにうんざりしていたので、嘘がつけない総司は言葉を濁す。しかし聡い浅羽にはお見通しだったのだ。
浅羽は額の汗を拭いながら「暑いですね」と空を見上げた。雲ひとつない、まさに快晴と呼べる夏の日差しはあまねく降り注いでいる。
けれど浅羽の横顔には少し憂いが見えた。口元を引き結び感情を押し殺すように何かに耐えるような一瞬があった。
総司は何となく浅羽に手を伸ばしていた。
「…なにか?」
「ああ…いえ、大丈夫ですか?」
浅羽は虚をつかれたように驚いたが、すぐに笑みを浮かべた。
「こちらの台詞です。こんな暑い中、長々と立ち話をして申し訳ない。…ああ、診療所の方がお呼びのようですよ」
浅羽の視線の向こうには英が手招きしている姿があった。ようやく手が空いたのだろう。
「ああ…そうですね」
「沖田君、またお会いしましょう」
「はい。あの…」
「何か?」
総司は自分の中にある漠然とした感情をどう伝えれば良いのかわからなかった。ただの懐かしい雑談を交わしただけなのにどうして胸騒ぎがしてしまうのか。
「…土方さんは、案外、浅羽さんのことを気に入っています。そんなに酒は得意じゃないのに毎回酔って帰って…」
「え?酒は苦手でしたか?」
「ええ、飲めるはずですけどこちらに来てからはそんなには。だから…その、これからも仲良くしてあげてください」
総司は「失礼します」と軽く頭を下げて別れを告げた。








713


殿はこのところ、庭木の手入れに凝っていらっしゃるようで職人とともに毎朝鋏を入れていた。
『時間ができた』
とおっしゃって今までの忙しさが嘘のように隠居のような生活を送っている。
殿は相変わらず京の治安維持に努められたが、家茂公が薨去されたことで潮目が変わった。二度目の長州征討の陣頭指揮をとった一橋公は喪に服すことを理由にすぐに休戦に持ち込んでしまい、殿は大いに反対した。尻込みする老中たちへ戦に勝つため前線に立つと宣言されたにも関わらず、都に留まるように押さえつけられ、叶わなかった。
『今まで粉骨砕身働いてきた者たちの犠牲は一体なんだったのだ!これでは今後の義賊の区別も曖昧となり、天下は乱れる。先の将軍に対する非礼であり、長州をさらに勢い付けるではないか!』
一橋公と争ったが、結局老中を含めて耳を貸すことはなかった。
そして殿がおっしゃったように、世間では幕府が負けたと囁かれ権威は失墜、朝廷では長州を支援する過激派公家が力を持ち、落ち延びた七卿を復権しようという話さえ上ったのだが、帝がその話を引き受けなかったため実現はしなかった。帝の存在は殿の唯一の希望だ。
『天子様さえ御意志を曲げなければ公武合体は為る。志半ばで逝去された家茂公のためにも屈するわけにはいかぬ』
奮起された殿だったが、しかしその年の暮れ、帝さえも薨去されてしまった。
体を傷めてまでも忠義を尽くしてきたお二人が亡くなり、殿は言葉を失った。呆然と何も手につかないまま新年を迎えたのだ。
(あれから殿は変わられた…)
殿は庭木の手入れだけではなく、茶を立てたり、読書に没頭される時間も増えた。政にも口をださずに静観する…それは仕方ないことだった。
何度も辞意を申し出ては却下され、政では遠ざけられ、ただの京の砦のように立ち止まるしかない。忠義を尽くすべき主君もいないなか、殿は、我々は一体何のために働くべきなのか。その意味を見出せないのは当然だ。
(もう潮時ではないか…)
諦めにも似た気運は確かに藩邸に流れていて、殿もそれにお気づきに違いない。何かきっかけがあれば溢れてしまいそうな不満の塊は幕府及び一橋公に向けられていた。
(何もかも一橋公の思惑ではないか…!)
上洛した当時から何かとソリが合わない一橋公は、将軍として相応しいとは言い難い方だ。徳川宗家だけを継ぎ将軍職は放棄すると宣言され、周囲を困惑させた。優秀でおられるが先を見越すが故に、何を考えているのかわからず、周りは振り回されてばかりなのだ。
『臭い豚を食すから、豚一公だ』
臣下はそう揶揄する。しかし私は揶揄することすらできない。
…かの方さえいなければ。
私の中にかつてない邪な考えが過り始めた。
そんな時。
「殿、大変です!」
駆け込んできたのは別の小姓だった。青ざめた表情で慌てて届いたばかりの文を差し出すと、殿も剪定の手を止めて足速に縁側に近づき、神妙な顔つきをされた。
「どうした?」
「会津城下で大きな火事が起きたようです!家を追われた民が行き場を失っていると…!」
「何…!」
殿も私も絶句するしかない。殿は詳細が書かれた文を開きすぐに目を通した。
「…随分広く、焼けてしまったようだ…城下の過半数と書かれている…」
「家臣たちも今こそ国に帰るべきだと話し合っているようです」
「皆を集めてくれ」
殿の指示を受け小姓は戻っていく。殿は縁側に腰掛け、頭を抱えられた。
「ただでさえ戦で消耗し、凶作による飢饉で苦しい所に…」
「殿、皆が言うように今こそ守護職を辞し国に帰るべきです。一橋公も引き止めはしないでしょう」
「公方様だ」
殿に訂正されてしまったが、私は一橋公を『公方様』だと呼ぶことさえ避けていたのだ。
私の強気の進言に、殿は深いため息をつかれた。
「…帰りたい気持ちは山々だ。しかし…ここで国元に戻れば私は役目を途中で投げ出したと後ろ指を指されるであろう。私自身はそれでも構わぬが、藩祖公の遺訓に背くことにならないだろうか…」
「殿!」
弱気におっしゃる殿に私は頭を下げた。
「小姓の分際で失礼を申し上げるようですが、殿はこれまで誰よりも熱心にお役目を全うされました!都の治安を維持したのは紛れもなく殿のお力あってのこと。そして殿は病のお身体に鞭を打って何度参内されたでしょう。その献身があってこそ、帝と家茂公の信頼を得たのです。殿は一切手を抜かずここまで尽くされたのです」
私はそう断言することができた。小姓頭として努力を絶やさぬ殿のお姿を誰よりも近くで拝見してきたのだ。
「浅羽…」
「殿は会津藩主として立派に務めを果たされました。藩祖公も褒め称えこそすれけなすことなど決してありませぬ。そして会津の民も殿を誇らしく思うはずです。…もし『逃げ出した』などと口にする者がいれば、たとえ為政者であったとしても私がその口を必ず塞ぎます」
私の思いは溢れていた。
京に留まったところで、独断ばかりの一橋公や役に立たない老中を相手に苦労されるのは殿だ。忠義を尽くすべき帝と家茂公がいなくなった今、殿の居場所はここではないのではないか。
(殿のお力を発揮されるべき場所は別にあるはずだ…!)
殿は真摯な私の言葉に少し呆然とされたが、その後に苦笑された。
「…物騒なことを口にするな」
「は…っ、失礼いたしました」
「だが気持ちはよくわかった。…私もこの数年は自分なりに懸命にやったと思う。家臣たちが許してくれるなら国に帰ろう」
殿は穏やかに微笑まれたので私は安堵した。
その後、殿は重臣たちを集めて国へ帰る決意を口にされた。誰一人異論はなかったが、案の定、京都所司代の松平越中守や老中たちに引き止められてしまった。
「中将(容保)がいなくなってしまっては必ずや京の治安は乱れる!」
「これまでの積み重ねを無に帰すつもりか」
強く引き留められた殿は困り果て、私的に一橋公…公方様に面会された。
国許の凶作による困窮や城下の過半数を失った火災について切々と語り、「どうか老中らに口添えを」と頼まれたのだが
「私の意見も老中と同じだ」
と一蹴されてしまった。
一橋公はあまりに取り付く島のないご様子で、殿にお情けをかけず冷たい目をされていた。きっと殿が何を訴えたところで同じことの繰り返しなのだろう。僅かながら殿の無力感や虚無感を私も感じ取ることができた。
同行していた私は憤りを覚え、握った拳を収めるので精一杯だったのだが、殿は淡々とされていた。
「…公方様は、私を厭われておられるのではないのですか?」
「…私情で言っているのではない」
「では、都に残るべきとおっしゃるのなら、会津を捨てよとおっしゃってください。そして明確にお役目をお与えを。…それが会津を捨てるに値する理由ならば私は従いましょう」
殿の強気な姿勢に、公方様は少し目を逸らしつつムッとされ「考える」と答えられた。そして厄介払いをするようにすぐに下がるように命じられた。
私はほんの少しだけ溜飲が下がる心地であったが、殿も同じであられたのだろう、
「言いたいことを言ってスッとした」
と満足げに微笑まれた。
「藩邸に戻ろう。禍根を残さぬように帰国を少し延ばし、公方様のお言葉をお待ちしよう」
「かしこまりました」
「やれ、また家老たちの説得が大変そうだ」


その日の夜。
私はある花街を歩いていた。そこ目的があったわけでは無く通り道に過ぎなかったのだが、行き交う人々の中で意外な人物を見つけた。
(あれはまさか…一橋公?)
顔を隠すことなくお一人で、あまりに堂々と歩いていらっしゃったため私の見間違いかと思ったが、まじまじと見ると間違いないと確信できた。ただその服装は着流しに洒落た羽織を掛け、高下駄を履くという気軽なものでこの花街にすっかり馴染んでいる。そのせいで誰も気に留めない。
(お忍びでお遊びか…)
会津の窮状を耳にしていながらご自身は女遊び…その理不尽さに私は昼間の憤りを思い出し、思わず後を追った。
一橋公は建ち並ぶ店には目もくれず、ある料亭に入った。すると店の中は
「麻呂様!」
「麻呂様のお越しだよ!!」
と俄に騒がしくなって活気付いた。私がちらりと中を覗くと女将に「鴨を頼む」と声を掛けて二階へ上がるお姿が見えた。その声もやはり一橋公のものだ。
(一橋公の幼名は七郎麻呂だ…)
変名で身分を偽っているのだろう。私は確信をもちつつ、店に入り素知らぬふりで客を装った。女将は貸切にするつもりだったようだが、私が「少しだけだ」と金を積んで頼むと部屋を準備してくれた。
私は同じ二階の角部屋を陣取りこっそりと様子を伺った。どうやら店の者も『麻呂殿』の正体は気づいていないようで、金払いの良い上客の扱いだ。次々と料理や酒が運ばれ、注文の鴨鍋もその中にあった。美しい芸妓たちも何人もやってきて大騒ぎだ。
すると一橋公のもとへ老中や重臣が数名お忍びで訪ねてきた。女も呼んでいるので傍目には酒宴に過ぎないが、密談だったのだろうか。
(妙なことになる前に退散すべきか…)
殿のお供としてお会いしたことのある人物が居合わせているので、鉢合わせた際に面倒なことになるかもしれない。間者の真似事をするにはあまりにも危険だ。
「…冷静さを欠いていたな…」
私は呟き、大いに反省した。
普段は取り乱すことはないのに、どうしても殿に関わると歯止めが効かなくなる。冷静に考えれば一橋公を追って店に入り込み、聞き耳を立てるなんて無礼極まりない。
私は物音を立てぬようにこっそり部屋を出た。一橋公と重臣たちが集まる部屋からは賑やかな音が漏れ聞こえてくる。私は足音を立てぬよう慎重に去ろうとしたのだが、
「中将殿の辞意など聞き流せば宜しい!」
という言葉に引き止められるように身体が止まった。
「凶作はどの藩でも同じ!長州征討の戦費で苦しいのは会津だけではないのですぞ」
「今更戻ったとて火事が治るわけでもない。家臣たちに帰郷を請われたのだろう」
「この戦況で帰国など身勝手な話だ!」
重臣たちから次々と揶揄の混じった暴言が耳に入る。私は憤りを通り越して呆れ、脱力してしまった。
(殿はこの状況で忠実に職務をこなされてきたのか…)
口ばかりで足を引っ張り続ける能無しに陰口を叩かれながらも、帝と大樹公のために勤めを果たしてきた殿の苦労が伺われた。
(やはりここにいるべきではない)
不快な気持ちはもう十分だ。
私は再び足を踏み出そうとしたのだが、一橋公の
「あまり陰口を叩くな。誰が聞いているかわからないのだ」
と、どきりとすることを口にされた。私は一瞬にして身が凍りつく思いだったが、一橋公は続けた。
「真面目で融通の利かない中将とは反りが合わぬが、ひとつだけ信用しているところがある」
「ほう!是非伺いたいものですな!」
「皆も同じ筈だ。…もし今、西国との交渉が決裂し戦になった場合、どの藩が真っ先に徳川家を守る?…老中、貴殿はどうだ?」
一橋公の問いかけに、それまでると威勢が良かった部下たちはたちまち答えに詰まる。
「はは…まあ、そうですなぁ…」
「薩長の戦力を考えるとなかなか…」
「お前は?」
「…も、もちろん兵は出すはずですが…」
老中たちは茶を濁して顔を見合わせたことだろう、誰も明確には答えずに尻込みした。
けれど一橋公は鼻で笑うだけだった。
「その程度だ。…しかし会津は違う、玉砕覚悟で前線に出るはずだ。会津の家訓とやらは絶対…どんな貧乏籤でも進んで引くに違いない」
私の心臓は震えた。
「徳川家を守るために中将にはここに残ってもらわなければ困る。会津は我々の砦ぞ!」
一橋公の声に、「その通り!」と家臣たちの高笑いが続く。
家訓
玉砕

頭の良い一橋公の言う通りだ。会津は幕府への忠義を家訓という形で守り続けてきた。傍らから見れば愚かなほど真っ直ぐに。
けれどそれを、一橋公が簡単な言葉で揶揄しながら口にすることへの嫌悪で、私の胸は潰れそうだった。
(誰が貴様に…!)
我々の、殿の忠義は先帝と先の大樹公へ捧げられたものであり、軽々しく扱われるべきではない。ましてや殿を蔑ろにする一橋公の砦など真っ平御免!
私の手は刀の鞘に伸びる。
(ここで斬り捨てれば……)
「お客はん?」
「!」
幸か不幸か、酒を運ぶ女中と居合わせた。私はよほど恐ろしい顔をしていたのか女中は強張っていた。それを見てハッと我に帰り「御免!」とそのまま慌てて階段を降りて店を出た。
夜の冷たい風に晒されて幾分か頭は冷静になったが、心に秘めた決意は揺らがなかった。
(私は、一橋公を許せぬ)










714



不動堂村の屯所はどこもかしこも新築らしい木の清々しい匂いが充満している。最初は鼻につくと思っていたが、この頃は慣れてきた。
土方は銃の修練に励む隊士たちを遠目に見ていた。あまり近くに寄ると無駄に隊士たちを緊張させて的を外す、と総司に言われてしまったので多少距離を置くことにしているのだが、この遠さでもパーン、パーン、と鼓膜を弾くような銃声がが聞こえる。木の匂いと一緒で既に慣れているが、隊士たちが銃を構える姿を見るといつもさまざまな考えが過ぎる。
(いま、俺たちは時代の境目に在るのかもしれない…)
刀が銃へ代わるように、何もかもが移り変わろうとしている。諸外国に囲まれ権威を失いつつある幕府がその変化に飲み込まれていくのも仕方ない。耐え忍ぶのか、変化を受け入れずに倒れるのか…。
(もし浅羽が公方様を殺したら…)
土方は幾度も同じことを考えて、いまだに煮え切らないままでいた。
斉藤に会ったときは率直に浅羽を止めるべきだと思っていたし、山崎の言う通りこれ以上関わるべきではないとわかっていたのに、考えれば考えるほど迷っていた。
浅羽にとって主君への忠誠心故の行動なのだろうが、一橋公を葬ればもっと大きな変化をもたらすはずだ。
(俺が浅羽の立場なら…殺すだろうか)
主君とは違うが、盟友である近藤を蔑ろにされて黙っていられない。そして今までも実際に手を下してきたのだ。近藤のためなら手段を厭わない…そんな自分が浅羽をどうやって止めると言うのか。
そんな資格があるのか。
「土方さん」
考え込む土方の元へ総司がやってきた。今日は非番なので寛いだ様子だ。
「どうした?」
「ぼんやりしているからどうしたのかと思って。…ここから銃の調練がよく見えますね」
総司は土方の隣に並び、同じように調練を眺め始めた。
「そういえば、昨日浅羽さんに会いましたよ」
不意に総司が浅羽の名前を出したので土方は「何か言っていたか?」と目の色を変えた。
「…何かって、南部先生のところでお会いして世間話をしただけです」
「それだけか?」
「昔話を少し…だめでしたか?」
総司が怪訝な顔を浮かべたので、土方は「いや」と言葉を濁す。誰彼構わず話すようなことではなく、総司が勘付くはずもないのだからムキになっても仕方ない。土方は一呼吸置いて再び調練へと視線を向けた。
総司は首を傾げつつも話を続けた。
「土方さんがいつから『鬼副長』だったのか、とかそういうお話です」
「どうせお前のことだから面白おかしく話したんだろう?」
「面白おかしくしたつもりはないですけど、今の『鬼副長』は京に来てからの呼び名で、昔は吉原で遊んで朝帰りばかりしていたって伝えておきました」
「余計なことを…」
土方は小さくため息をついた。浅羽の前ではそれなりに取り繕っていたのに、総司のせいで台無しだ。しかし彼は変わらず笑っていた。
「余計なことでも事実だから仕方ないでしょう。ああ、それから…この間、茨木くんたちが切腹したでしょう?その件で土方さんに興味を持ったんだって言ってました」
「浅羽が?」
「何ていうか…感銘を受けた、と」
総司の曖昧な話のせいで、土方はよく理解ができなかったがあの時の話を蒸し返すのは億劫だった。総司も同じだったのかそれ以上は口にせず、
「浅羽さん、少し思い詰めているような気がしました」
とぼやいた。気楽なやりとりのなかで時々総司の感性は鋭い。だが土方は「そうか」としか返さなかった。手に余る大きな話に総司や近藤を巻き込むつもりはなかったのだ。けれど、
「…土方さん、何かあったら浅羽さんのこと助けてあげてくださいね」
「何故?」
「だって数少ないお友達でしょう?」
「…『数少ない』は余計だ」
土方は総司の頭を軽く叩いた。
「いた…」
「結論が出た」
「…そうですか、良かったですね」
総司は何も聞かずに笑い、土方もその顔を見て気が紛れた。
そしてそのまま真っ直ぐに近藤の元へ向かったのだった。



ーーー私は、あれから自分自身の心に棲む憎しみを切り離せないでいた。
会津の窮状を訴えてもう数ヶ月、幕府からも一橋公からも何の音沙汰もなく、我々会津はいまだに彼らの砦となっている。
私はどうにか必死に忘れようと思うのに、思えば思うほど嘲笑にも似た一橋公の言葉が鼓膜に響いて離れず、それが昼夜問わずに蘇る。それが繰り返されるとやがて『必ず報いを』という気持ちが固まっていくものだ。
しかしそれでもその決意を揺るがせたのは、やはり会津の掟と殿への信愛の気持ちだった。
「ならぬことは、ならぬ」
殿もその思いでここまで耐え忍んで来られたのだ…一介の小姓に過ぎぬ私が公方様に手を下すなど恐れ多い。
(けれど…いや、だからこそ…!)
殿をこれ以上苦しませぬように、私が命を賭してお守りするのだ。どんな汚名も厭わずにやるべきことをやる…それが私の為すべきこと。
もう覚悟は決まっている。
…そんな折、土方殿から文が届いた。
『今宵、麻呂殿が登楼する知らせがあった』
絶好の機会だ…私は身震いした。興奮か恐怖か…自分でもよくわからなかったが、身体は動揺して指先の力がうまく入らなかった。
(私は大事を成す…覚悟はできている…)
しかしそんな時に限って殿からのお呼び出しを受けた。殿の顔を見ると躊躇ってしまいそうで気が進まなかったが、断る理由はない。
「浅羽」
「…はい」
私は殿のお側に寄って頭を下げた。しかし殿は何も仰らずに互いにしばらく沈黙する。
「…何か…?」
「…いや。この頃、浅羽は私の顔を見ぬな」
私はドキッとした。
もちろん邪な考えを持つ私は殿のお顔を拝見することが憚られ、この頃は目を合わせぬどころかこうやって顔を伏せたままで御用聞をしていた。当然、聡い殿はお気づきだったのだ。
「申し訳ございません…」
「…家臣に聞いたのだが、この頃花街の女に入れ上げているというのは本当か?」
「は…?」
私は驚いて顔を上げた。心当たりがなかったのだが、
「名も聞いた、芳雲という聡明な太夫だそうだな」
「ご、誤解です!太夫は…酒の席に付き合ってもらっているだけで、懸想など…とんでもない…!」
土方から酒の席に女がいないのは悪目立ちする、と聞いて以来、太夫には世話になっていた。確かに同じ太夫ばかりを呼び寄せているので傍目には入れ上げているように見えるだろうが、私は殿に伺うまでそのような発想すらなかった。
すると慌てふためく私を見て、殿が「ふっ」と微笑まれた。
「ようやく、私の顔を見たな」
「…殿…」
「しかし、やはりただの噂であったか。浅羽のような堅物が芸妓に入れ上げるなど信じられなかったが…しかし花街で飲み歩くとはお前らしくない」
「…」
殿はその理由を遠回しにお尋ねになっているようだったが、私は答えることができなかった。聡明な殿に何もかも露見してしまいそうで、何かを口にすることすら憚られたのだ。
すると殿は少しため息をつかれた。
「…やはり、荷が重いか?」
「殿…?」
「この不安定な世情で、会津へ戻ることも叶わず…不甲斐ない私に『一蓮托生』などと言われて、さぞ荷が重かろう。酒を飲んで気を紛らわせたい気持ちはわかる」
「違います!」
殿が寂しそうにおっしゃるので、私は反射的にそう叫んでいた。
「そのお言葉は、私にとって何より…何よりのお言葉です…!」
「しかし、お前は私に同じようには返さぬではないか。胸の内を明かさず、一人で抱え…そのように思い詰めた顔をしている」
殿は私の頬に触れた。
私はどれほど酷い顔をしているのだろう。殿はいつも凛とされているのに、今は眉間に皺を寄せ唇を強く噛んでいらっしゃる。
「殿…私は…わたしは…」
「浅羽、私に言いたいことはないのか?」
幾度となく、殿は私に尋ねられた。
その度に私は「なにもございません」とお断りしそのお心遣いを無碍にしてきた。そうすることが殿のためであると信じていたからだ。
けれどそれが殿の『一蓮托生』の思いを踏み躙っていたと気づかなかった。
「浅羽…答えてくれ」
私は迷った。
殿のために、私は生きてきた。だからこそ殿のために大事を成すことを決めた。
(全てが終わった後に、わかってくださるだろうか…)
全ては会津のため、殿のためだと。
これが私の一蓮托生なのだと。
いつかわかってくださるはずだ。
「……何も、ございません…」
私は声を絞り出した。
殿に初めてお会いした時、白鷺のように凛とした横顔に目を奪われそれから私の気持ちは寸分たりとも揺らいでいない。
けれどそれは殿へ伝えなくても良い。
私がわかっていれば、それで良い。
「…強情な奴め」
殿は苦々しく言って、私の頬から手を離し「もう下がれ」とおっしゃった。
私は心の中で別れを告げた。








715


その日の夜は久しぶりに雨が降り、肌寒かった。
浅羽が土方からの文に書かれていた料亭へ向かうと女将は浅羽の顔を見るや「こちらへ」とすぐに部屋に案内する。するとその部屋では土方が一人ですでに待っていた。
「…土方さん」
「どうぞ」
浅羽が土方に言われるがままに上座に座ると、彼は酒を勧めてきた。浅羽はぎこちなく断る。
「土方さん、今宵は飲む気分ではなく…」
「飲んでおいた方が良い。酔った勢いがなければ刀を抜くことすらできないかもしれない」
「…」
浅羽は少しの沈黙の後に自分の盃を取り、土方の酒を受け取った。そして一気に煽ると、カラカラに乾いた喉がカッと熱くなるようだった。
真顔のままの土方に、浅羽は苦笑した。
「やはり…気づかれてしまいましたか」
「仇討ちの類だろうということは最初からわかっていました。そういう殺気のようなものには慣れています。ただ…相手が公方様だと知ったのは最近です」
浅羽は盃を置き、改めて土方に向き合った。
「…会津の苦境はご存じでしょう。これまで数年、辛酸を舐めながら身を削って京都守護を務めてきましたが、いまの公方様の御代となってからは会津は蔑ろにされています。何度殿が辞職を申し出ても無視され、国元への帰郷も叶わず…何もかも、一橋公の妨害のせいです。このままでは我が藩はさらに追い詰められることになる」
その前に手を打つのだ、と浅羽は淀みなく話したが、
「それだけですか?」
と土方は真っ直ぐに浅羽を見据え、表情ひとつ変えずに問うた。冷静であり冷淡でもあるその眼差しは、『鬼副長』そのものだ。浅羽の建前の先にある真実を見定めようとしていた。
けれど浅羽は怯まない。そして中身を成してすらいないお題目を口にするつもりはなかった。
「…私は一人の会津藩士として、成すべきことを為すだけです。言い訳はしたくありません。…公方様に手を掛けて、生きつづけるほど無恥でもない。ですからこれは私だけの罪であり、理由は黄泉まで持っていくつもりです」
「暗殺は必ず露見するものです。現に俺はあなたが手を下しすことを知っている。そうなれば会津藩の名誉にも関わり、会津公の落ち度として責任を問われるのではないですか?」
「だから、私はあなたに話しました。あなたは会津への恩義がある、近藤局長もそうです。殿を貶めるようなことは決してなさらない……巻き込んでしまったのは申し訳ないが、私はあなたの殿への忠誠を信じています」
「…」
雨が激しく降り注ぎ始めた。これから嵐がやってくるのではないかと思うほどガタガタと戸板を揺らしている。
けれど二人の間には静寂と緊張が流れ続けていた。
「…土方さんは私を引き止めるつもりですか?もしや今宵の公方様の登楼は嘘だと?」
「いや…もう少しすればやってくるはずだ。その前にどれほど本気なのか訊ねたかっただけだが…残念ながら俺には引き止められないらしい」
土方は口調を緩めつつ少し息を吐いて盃を取り、酒を煽った。そして緊張を解いたかのように足を崩して胡座をかく。
「…結局、俺には正論を翳すことでしか引き止めることはできない。邪魔だから排除する、脅かされるから先に手を打つ…あなたが言うように俺もそうやって何人も直接的にも間接的にも殺してきた。そんな俺はあなたを引き止める資格はないし、秘密を口外するほど薄情でもなく、会津への恩を感じている。…それに豚一公が死んだら混乱した幕府は案外うまく行くのかもしれない…そんな変革も悪くはないだろう」
「…意外です、必死に引き止められるのだと思っていました」
「引き止めたい気持ちはあるが…短い間でも親しくした友人としてあなたを助けるべきだと覚悟しました」
「友人ですか…」
浅羽も正座をやめて胡座で座った。そして空になった土方の盃に今度は浅羽が酒をそそぐ。
「…あなたを巻き込んでしまったことは本当に申し訳なく思っています。でも私の気持ちを理解してくださると思っていました」
「どうですかね…本当に理解できたわけではないのかもしれない。それに積極的に背中を押すつもりはない」
「私を引き止めないでくださるのなら、それで十分です」
浅羽は自分の盃にも酒を注ぎ、乾杯を交わした。二度目の酒は程よく身体に流し込まれ、緊張でこわばっていた指先にもほんのり熱を与える。
ちょうどその時、階下が騒がしくなり数人がギシ、ギシと階段を登ってくる音が聞こえた。店の者が「こちらへ」と案内する声も耳に入ったので、どうやら客が来たようだと察することができた。そして土方の表情も変わった。
(ついにこの時が来た…)
「…土方さん、片棒を担いでくださるついでにもうひとつよろしいですか?」
「ふ…これ以上、何を?」
「これを預かっていただきたい」
浅羽は懐から取り出した珊瑚の朝顔の根付を土方へ渡した。
「…今の私には、これを身につける資格はありません」
「…」
「では」
浅羽は刀を手にとって立ち上がった。
土方の言った通り、ほんの少しの酒のおかげで身体に熱が通ってこわばっていた神経が解されたように感じた。
「まだ、引き返せますよ」
土方はそう声をかけた。立ち上がることも、腕を取って強引に止めることもなく淡々と問いかける。しかしそれに対する浅羽の返答は
「いいえ…もう引き返せません」
というほんの少しの揺らぎもないものだった。
浅羽は廊下に出ると脇差を抜いて、鞘を置いた。一橋公が通されたと思われる奥の部屋にゆっくりと近づき、中の様子を伺った。静かだが衣擦れの音が聞こえてくる…人の気配はあるが他にはいないようでやはり、絶好の機会だった。
大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐く。
早鐘のように鳴り響く心臓の音が聞こえてしまいそうで、落ち着さなければと目を閉じた。すると脳裏には自然と会津公の横顔が浮かんだ。
(殿…私は間違っています。でも…ならぬことはならぬのです)
わかっていても、踏み出さずにはいられない。
殿を蔑ろにして我々を砦だと揶揄する者を生かすわけにはいかない。
あの憤りを飲み込むことができなかった自分は、幼くて浅はかで愚かなのだろう。
けれどそれを恥だとは思わなかった。
(私は殿のために…!)
生きて死ぬのだ。
浅羽はカッと目を見開き、襖の引手に指をかけ弾くように開けた。
「一橋公、御覚悟ーーーッ!」
振りかざした刀は、しかしその次の瞬間には手のひらから離れてカランと畳に打ちつけられた。全身の血の巡りが止まってしまったかのように、悪寒に似た震えが止まらない。
ガタガタと建物を揺らしていた嵐が全く耳に入らないほど…頭は真っ白になっていた。
「…な…ぜ…!」
目の前にいたのは会津公だったのだ。
凛とした姿で正座した会津公は浅羽の刃先が向けられたのに恐る素振りは一切なく、ただ澄み切った眼差しを浅羽に向けていた。
浅羽は全身の力が抜けて、その場に崩れ落ちた。
「殿…何故…!」
「…浅羽、すべて土方に聞いている。お前が何をしようとしていたのかもわかっている…なんと愚かな真似を。ここに公方様がおられたら決して許されぬ罪だろう」
「…!」
土方に対してあれほど強気に返答したのに、会津公を目の前にすると言葉すら出てこなくなった。会津公からの断罪は何よりも浅羽の心を抉ったのだ。
浅羽はサッと顔色を変えて、落とした脇差を拾うと首へ押し当てた。全てが露見したいま、選ぶべき道は一つしかない。
「私は殿のご信頼を裏切りました!死してお詫びを…!」
「馬鹿者!」
会津公は浅羽の押し当てた脇差を素手で掴み、強い力で放り投げた。当然、その手のひらには血が滲む。
「殿…!なんて真似を…!」
「私の台詞だ。お前が死ぬのなら私に責任がある。会津藩主として不甲斐ないどころかお前を追い詰めた…家臣一人、守れないのなら私には藩主たる資格がない」
「そんな…」
「浅羽、私は何度も言ったはずだ…一蓮托生だと。この言葉を受け入れてくれるのなら、お前の気持ちを包み隠さず話してほしい。お前の考えに納得できたなら…公方様は私が手にかける。そして共に果てよう」
「殿、それは!」
「臣下を持つとはそう言うことだ!」
浅羽は声を上げて怒鳴る会津公をみたことがなかったため、自分でも驚くほど動揺した。そのせいか、脇差はあっさりと会津公に取り上げられて浅羽は首を垂れるしか無くなってしまう。
会津公は一息つくと、再び穏やかに語りかけた。
「…浅羽は会津のためにこんな危険なことをしたのだろう?たしかに我々は苦しい立場に立たされている…だが、そうであったとしてもこのような非道な行いは許されぬ。…本当はわかっているのだろう?」
「…いかようにも…ご処分ください」
「賢いお前が会津の不遇を嘆いたとしても、こんな無茶をするはずがない。…何か他に理由があったのではないか?」
「…いえ…私、は…」
声が震えた。
意を決して刀を振り上げた時よりも、緊張していた。
浅羽は自覚していた。
会津の苦境や一橋公のぞんざいな扱いに対する不服など表向きの理由でしかない。そんなことで会津藩すら危険に晒す真似はできない。けれどそれより上回ったのは、自分の感情なのだ。
(私は、あなたをお慕いしている。だからこそ許せなかったのだ…)
邪険に扱われる主君をどうしても守りたかったーーーけれど、そんなことを口にしてどうなる。困らせるだけだ。
浅羽が迷っていると、
「浅羽殿は誰よりも会津公をご尊敬申し上げているのです」
と、土方の声が聞こえた。振り返ると、彼はいつの間にか背後に控えていて成り行きを見守っていた。
「…土方」
「主君を蔑ろにされ、浅羽殿は憤り…思い詰めたのでしょう。そうでなければ生真面目な浅羽殿が公方様を殺めようなどという考えすら思い浮かばないはず。…そうでしょう?」
土方がまるで助け舟を出すように口添えしたので、浅羽は頷いた。
「…すべては、融通の利かぬ私の過ちです。申し訳ございません。ただ…」
「ただ?」
「私は…殿には、お健やかでいていただきたかったのです…」
深々と頭を下げる。
会津公はしばらく黙り込んでいたが、「わかった」と頷いた。
「…帝が崩御されてから、私が気落ちしているのを慮ったのだろう。会津に戻りたい気持ちは山々だが…私は先帝や家茂公から受けた御恩を忘れることはできぬ。それを心の拠り所として、公方様がどんなに私を邪険に扱っても耐え忍ぶ覚悟はある」
「殿…」
「すまぬがもう少し付き合ってくれ。我々にとって最善の道を皆で探そう」
会津公は浅羽の肩を励ますように軽く叩き、今度は土方へ視線を向けた。
「土方、手間を取らせた。知らせを受けた時は信じられなかったが…大切な家臣を失わずに済んだのはお前のおかげだ」
「いえ…」
「殿、これを」
浅羽は会津公の左掌を取り、血の滲む傷に手ぬぐいで手当てした。
「…紙で切った程度の浅手だ、気にするな」
「そういうわけには」
「こんな些細な傷が気になるくらいなら、最初から私の傍を離れようとするな」
「はい…おっしゃる通りです」
会津公は和ませようと冗談っぽく口にしたのだが、言い分は尤もで浅羽はただ頷くことしかできなかった。
「土方、この件は誰にも、近藤にも内密に頼む。…浅羽、お前には追って処分を伝える故、藩邸で謹慎をするように」
「はっ…!」
会津公は外に供を待たせていると言って、帰営すべく立ち上がった。
「浅羽、ともに帰るか」
「殿…先にお戻りください。私は土方さんに少しお話が」
「そうか…。必ず、戻ってくるな?」
会津公は離れ難いのか不安そうにおっしゃったが、浅羽が「すぐに追いかけます」と頷くと少し安堵したように微笑んで
「汾水のほとりに行くには、まだ早い」
と呟いた。
「殿…?」
「…なんでもない。…見送りはいらぬ」
そう言って二人を残して去って行った。その頃には何故か嵐も止んで静かな夜が戻ってきていた。


「…全て、お見通しでしたか」
土方と再び二人きりになり、浅羽は苦笑するしかないが彼は眉ひとつ動かさなかった。
「引き止められるのは会津公だけだと思い、失礼ながらご足労をいただきました。勝手な真似をしたことはお詫びします」
言葉ほど悪く思っていなさそうだったので、浅羽は(結局彼の掌で踊らされていたのか)と、なんだか気が抜けてしまう。それに心のどこかが安堵しているのも事実だったのだ。
(やはり私の身の丈に沿わぬ大事だったのだろう…)
「…土方さんは、私が何故こんな真似をしたのか…わかっていて、先ほど口を挟んだのでしょう?」
「…余計なお世話でしたか」
「いいえ、ありがたく思っています。…私は殿をお慕いしていますが、それを一生殿にお伝えするつもりはないのです。ただあの方のおそばで務めを全うできればそれで良い…殿の足枷になるのは一番望まぬことです」
全てが杞憂に終わって気が抜けたのか、浅羽は土方の前で何もかもを晒すことにもはや躊躇いがなかった。
「色恋など無用です。彼の方との間には尊敬と親愛さえあれば良い…今日改めてそれを感じました」
「会津公は…あなたのことを特別に思っているようでしたが」
「…まさか。殿はお優しい方です、家臣皆のことを常に気にかけておられます。ですから私のことに構わずこのまま…穏やかに幸福に生きていただきたい。それをお側でお支えするだけで十分です」
まるで連日続いた霧が晴れるかのようだ。
刀を手に取るところまで思い詰めていたのが嘘のように清々しい。そんな自分の変わり身の速さに、浅羽は苦笑してしまうが土方は笑わなかった。
「…それは、わからないでもない」
「え?」
「いや…謹慎が明けたら、仕切り直して酒でも飲みますか」
と初めて土方から誘った。
「…土方さんから誘ってくれるなら、応じないわけにはいきませんね」
浅羽は笑った。そして彼に預かった根付を返すとやはり愛おしそうに触れたのだった。








716


長かった夏がようやく終わろうとしている。その兆しが見えた頃、土方は風の噂で浅羽が半月の謹慎になったと伝え聞いた。事情を明かせぬ故にその理由は会津公以外誰もわからないのだが、彼の実直な働きぶりを知っている藩士たちは、まさか彼が謀反を企てていたとは思いもよらないらしい。曖昧な噂はあっという間に消えて、浅羽が再び会津公の傍に仕えることになるのだろう。
「土方さん、ハッカの飴は好きですか?」
具合の良さそうな総司は非番なので土方の部屋で過ごしていた。組長以上には個室が与えられているが、試衛館にいた頃から大人数で暮らしてきた総司には無用の長物だったようで、近藤や土方の部屋で過ごすことが多かった。土方としても目が届くのでそうしてくれた方が安心だったのだが。
「ハッカか…嫌いじゃない」
「ではお一つどうぞ。山野君が買ってきてくれたんですけど、喉がスッとして心地良いです」
総司は笑っていたが、労咳による咳で喉を痛めることを察して山野が準備したのだろう。
「…つくづく、お前は部下に恵まれているな」
土方は飴を一つ口に放り投げて再び文に目を落とす。
陸援隊に潜入させた村上謙吉はやはりその出身のおかげか上手く溶け込み、順調に情報を送っていた。土佐はあくまで佐幕派として政府に大政奉還を働きかけつつ、討幕を目論む薩摩や長州ともつながる複雑な立場だ。今のところ幕府は土佐を敵視していないが今後の形勢によって如何様にも変わるだろう。
(食えない奴らだ…)
「ゲホッ!」
急に総司が咳き込んだので、土方はハッと我に返った。総司は身体を折りたたむようにしながら両手で口を覆っていた。
「大丈夫か?」
「…はい、ちょっと…咽せて」
「無理をするな」
総司がいう通り咽せただけなのか、それとも労咳によるものなのか…土方にはわからないが吐血しなかったので軽いものだったのだろう。
(痩せたな…)
色白でもともと骨が細いせいか、筋力が落ちるとすぐにわかる。本人も自覚があるのか夏の終わりかけとはいえ薄手の羽織を欠かさずに着込んでいる。誰にも弱音を漏らすことなく、周囲を心配させないようにそうしているのが痛ましい。
落ち着いた総司は土方の顔を見て微笑んだ。
「…土方さん、そろそろ江戸へ行くんですよね?」
「ああ」
御陵衛士の分離、そしてその後の脱退騒動で随分兵士の数が減ってしまった。戦の影がちらつくいま、兵力の増強が求められているため土方が再び江戸へ向かい、入隊希望者を募ることになっているのだ。
「義兄さんのところにも何人か入隊希望の者が名乗りを挙げているそうだ」
「へぇ…たくさん入隊してくれると良いですけど」
「天領の民は幕府の危機感を感じ取っている。威勢の良いのが入ってくるだろうが…」
土方は総司の髪に手を伸ばし、指で梳かした。滑らかな毛先が頬に触れ「くすぐったいな」と総司は少し身を捩ったが、土方は別のことを考えていた。
「…やはり、お前を置いていくのは気が進まない」
たった数ヶ月とはいえ離れ離れとなることへの心配が尽きない。病状の進行は待ってくれず、土方が不在の間に悪化してしまうかもしれない。
そんな土方の心配を知ってか知らずか、
「大丈夫ですよ、ちゃんと良い子で待ってますから」
と総司は茶化しつつ「そうだ」と思い出したように懐から手紙を取り出した。
「これ、彦五郎さん宛の手紙です。江戸へ行ったら渡してもらえますか?」
「手紙?お前が書いたのか?」
「私だって手紙くらい書けます。…彦五郎さんは病のことを知っているし、姉もおのぶさんに相談に乗っていただいているんですよね。土方さんから報告があるよりも私から直接心配ないとお伝えした方が良いかと思ってしたためたんです」
「へえ…」
総司は年賀状以外、滅多に手紙など書かない。土方は少し訝しむように顔を顰めたので、総司は苦笑した。
「『本当は江戸に帰りたかったけど病のために帰れません。皆さんにお会いしたかったですが、日に日に良くなっているから心配しないでください』って書いてるだけです。あんまり余計なことを言わないでくださいよ?」
日に日に良くなっている…そう言って気丈に振る舞いたいという総司のはっきりとした意志を感じ、土方は「わかったよ」と頷いて受け取った。
そうしていると聞き慣れた足音が聞こえてきた。
「入るぞ」
近藤は遠慮なく部屋に入ると、「お前もいたのか」と総司は微笑んだ。
「はい。…大切なお話ですか?お暇しますけど」
「隠すような話じゃないが、お前には眠くなるような話かも知れぬな」
「じゃあお暇します」
総司はそう笑って「では」と出て行った。
近藤は総司が座っていた場所に腰を下ろし、早速
「土佐の後藤象二郎殿にお会いしたぞ」
と告げた。土方は名前だけは浅羽から耳にしていた。
「…後藤殿か。土佐の大物で大政奉還を推し進めているらしいな」
「ああ、大目付の永井様のご紹介でな。もともと永井様に招かれた席に後藤殿もお越しになった故の偶然の対面だった。…俺も身構えていたのだが、実直な御方だった。挨拶もほどほどにまず『私は貴殿のお腰の長いものが大嫌いである』と揶揄されてしまった」
「…で、なんと答えたんだ?」
「何だが気が抜けて笑った」
「おい…」
「もちろん刀を置いたさ。彼のいう通り政を議論する場に刀による威圧は不要であるし、実直にものをおっしゃる方だと感じた。それに後藤殿のお話はとても参考になったんだ」
近藤の表情は満たされている。土佐藩の先鋒として大政奉還を唱える後藤の存在は、近藤とは立場が異なるがいち政治家として良い出会いだと思ったのだろう。
「俺は長州寛典論を否定したが、後藤殿は一蹴した。神武天皇以来の危機に瀕しているいま、幕府の面目のために長州一国がいかに反省するかで揉めるなど馬鹿らしい、幼稚だと…俺はぐうの音も出なかった」
「ほだされちまったのか?」
「そうは言っていない。だが、長州への処分にこだわり、それ以上の議論が進まず…自分の視野を狭くしていたのは事実だ。それに気づいたおかげで大政奉還論についても柔軟に考えるべきだと悟った」
「大政奉還を認めるって?」
土方は驚いたが、近藤は苦笑した。
「永井様はそもそも大政奉還に賛成されている。政を手放せば薩長が戦を仕掛ける理由はなく、ひとまずは幕府の戦力を温存できるだろう。それに突然、三百年続いてきた幕府に成り代わるのは難しいだろうと土佐はちゃんとわかっていて、大政奉還後は慶喜公を中心とした新しい政を議論しているそうだ」
「…信じるのか?」
噂では土佐は長州や薩摩と密約を結び戦力を蓄えつつあると言われている。土方としては簡単に信じることはできず、いつ手のひら返しに合うかと疑ってしまうのだ。
土方の問いに、近藤は曖昧に頷いた。
「少なくとも…後藤殿が偽りを述べているようには感じられなかった。これから後藤殿とは親交を深めて真意を探りつつ、議論を重ねるつもりだ」
「そうか…」
後藤の話の真偽はともかく、土方としては易々と受け入れられる話ではなかったが、近藤はどこか気が晴れたかのように見えた。幕臣として、また新撰組としての行く末を案じている近藤としては正反対の立場とはいえ後藤との議論によって、目の前に新しい道が開かれたかのような心地なのかもしれない。
土方としては感情に揺らぎはなかった。
(どの道を行くとしても…俺はかっちゃんに従うと決めている)
その気持ちは今後、たとえそれがどんな悪路であったとしても変わらないだろう。
そうしていると、遠くから総司の咳が聞こえてきた。近藤が表情を曇らせ少し寂しそうに呟く。
「…世の中の移り変わりが、総司の心労にならないと良いのだが」
土方は何も答えなかった。







717


伊東不在の御陵衛士の屯所月真院は、若人が集い時論を語らう片田舎の道場のようだった。
「聞いたか?幕府の重鎮は大政を帝へお返しし、徳川宗家と御三家を守ろうという腹らしい」
「馬鹿な!あの一橋慶喜が簡単に政を手放すものか!」
「いま戦になっても幕府は勝てぬ、それは重々わかっているであろう」
「しかし」「いや」「待て」…堂々巡りの議論はいつも「伊東先生のお帰りを待つ」という結論に至り、彼らの真ん中にはその伊東から送られてきた文が広がっている。伊東は太宰府や下関に足を運び倒幕派の大物に面会を果たし、持論を展開しているようだが具体的な成果は都にとどまる彼らには理解しづらい。そんな残留組をまとめるのは当然内海だ。
「我々は伊東先生のお考えに従う。それが御陵衛士の志です」
彼は熱り立つ彼らをいつも決まった文句で宥めるが、斉藤は(洗脳のようだ)と思っていた。内海は刷り込みのように、繰り返される同調を促す言葉をわざと口にしているのだろうし、不在だからこそその存在が際立つ。
そしてそんな内海の隣で藤堂は一際目を輝かせている。
「その通りです!来る時にはきっと伊東先生が立たれます!」
新撰組組長として距離があったはずの藤堂も今やその明るさと素直さで御陵衛士の精神的支柱となりつつあった。
魁先生ーーー本人はあまり好んでいなかったようだが、そのあだ名は何よりも彼を著わしている。心の赴くままに、ただ突き進む。その先の道が途切れ崖に繋がっていても。
「…斉藤君」
議論が終わり解散になると、珍しく内海が斉藤を呼んで人気のない場所に連れ出した。
月真院の美しい庭は季節を先取りし、青々とした葉を色づかせ秋へと向かおうとしている。
「頼みたいことがあります」
内海は斉藤のことを好んでいないが、伊東のように雑談を挟まずに用件を述べるのでその点は悪くない相手だ。
「何でしょう」
「秘密裏に陸援隊へ入隊した橋本君のことです」
内海の顔色があまり良くない。陸援隊に入り込んだ橋本皆助の身に何かあったのだろうの察することができる。
「問題でも?」
「…この月真院にいてもそれなりに情報が入ってくるが、彼は時折手紙を寄越すだけでその内容も密偵として相応しい価値のあるものではありません。この頃は特に巷でも耳に入るような噂話ばかり」
「…」
「大蔵さんは彼を評価していました。無能だとは思いたくないが…真偽を確かめてもらえませんか」
確かに気掛かりではあるが、斉藤は気が進まなかった。
陸援隊は土佐藩の組織であるがその出身を問わずに入隊できるため潜入は容易いだろうし、橋本の働きぶりを確認することもできる…ただ内海の真意が掴めなかったのだ。すると斉藤の様子を察したのか、
「君の間者としての経歴を利用したいだけです」
と言い放って続けた。
「土佐は佐幕の態度を取りつつ背後では陸援隊のような武力増強を進めている。大蔵さんは土佐との繋がりを得たいようですが、信用ならない藩です。間者を忍ばせるとしても慎重にせねば…一度橋本の働きを確認して、間者として相応しいか見定めてもらいたい」
「相応しくないとしたら?」
「…伊東先生に報告します」
土方なら『殺せ』と言っただろう。頭を支える立ち位置としては同じはずだが、内海はそこまで非情にはなれないらしい。
(それは大きな違いだ…)
補佐役としての力量の差を感じつつ、斉藤は内海の話を断る理由を探したが、もはやこれは命令に等しいのだという彼の圧を感じ、仕方なく受けることにした。
それに先日の『麻呂殿』の警護兼監視役は、『命を狙う者が巷にいるようだ』と雇い主に伝えると公方様は城から出なくなったそうでお役御免となり手すきではあったのだ。
(確か伊東は…)
橋本のことを『真面目で約束を違えぬ』と言っていた。そして『邪心なく務めを全うするだろう』と期待していたが…それは期待外れだったのだろうか。


口のなかでコロコロと飴玉を転がしながら、総司は安定の手入れをしていた。
ハッカの飴は苦手だったが、山野に勧められて食すうちに心地良く感じられるようになり、このところは暇さえあれば口にしている。
(美しい刃紋だな…)
斉藤から餞に受け取った『大和守安定』はほぼ実戦で使用してしないため、未だ芸術品のように美しい。おそらく刀好きの斉藤は銘だけでなく細部に拘って探して渡してくれたのだろうが、手に馴染むかどうかだけでしか刀を見ない総司には宝の持ち腐れであり、最初は病身の自分には相応しくないと思っていた。
けれど今は少し変わった。
たとえ使用することがなくともこの刀に似合う主人であるように努めなくては…と己を奮い立たせることができるようになったのだ。
(少しずつ…無意識に僕は自分を納得させているのだろう)
少し寂しくはあるが、前向きな進歩だろう。
そんなことを考えながら鞘に戻すと、
「おう、どうだ?」
と軽い挨拶で井上源三郎がやってきた。稽古を終えたところだったのか汗ばんでいる。
「このとおり元気ですよ」
「はは、そりゃあ良い。だったら道場に顔を出して厳しく指導してやってくれ。『稽古の鬼』がいなくなって隊士たちが弛んでる」
「『稽古の鬼』って私のことですか?」
「知らなかったのか?あだ名だよ、お前は普段は愛想が良いくせに稽古だけは別人になるから隊士たちはビビってる。…もっとも、稽古に厳しいのは昔からだが」
遠縁の親戚にあたる井上は総司を試衛館に導いた恩人でもあるが、面倒見が良く感情豊かで分け隔てない性格のため、皆の心の拠り所のような存在だ。
井上は総司の隣にドカッと腰を下ろし、肩に掛けた手拭いで額の汗を拭った。
「もう夏も終わるなァ。暑いのは苦手だろう?過ごしやすい良い季節になる」
「そうだと良いんですね」
「夏が終われば、俺は江戸へ行くことになった。歳と、隊士募集にな」
総司の代わりに井上が選ばれたらしい。気心が知れた仲であるし、試衛館の古参であるから久々の再会で弟子たちは喜ぶだろう。
けれど井上は小さいため息をついた。
「近藤先生に聞いたんだが…周斎先生の具合が宜しくないようだ。ずっと床に伏せって、言葉も儘ならぬそうで…長くはない。今は譫言のように道場の行く末を心配されているらしい」
「そうだったんですか…」
総司は近藤の義父である周斎がそれほど寝込んでいるとは知らなかった。きっと近藤や土方が気を利かせて黙っていたのだろうが、素直に吐露してしまうのは井上の『らしさ』だろう。
「…大先生は近藤先生の活躍を心からお喜びになられ、誇りに感じられている。それに俺ァうだつの上がらぬ弟子だったが、お前のような優秀な弟子を近藤先生が育てたことが何より喜しいと思っておられるだろう」
「…」
「だから、お前の病は伝えぬつもりだが…構わないか?」
井上の用件はその確認だったのだろう。総司は頷いた。
「もちろんです、私も大先生に落胆してもらいたくありませんから…」
きっと江戸を出た時のあどけない青年のまま記憶に残っていることだろう。
井上は「そうだな」とか細い声で呟いた後、また話しにくそうに続けた。
「それから…天然理心流のことだ。近藤先生には女のお子様だけで、養子縁組も解消した。近藤家はおたまに婿養子を貰えば良いが…俺は跡継ぎに相応しい腕を持っているのはお前だけだとおもっている」
「…近藤先生も同じようにお考えだったみたいです」
長州へ向かう前、近藤は決死の覚悟で遺書のような手紙を故郷に送っていてそのなかで天然理心流は総司へ継がせたいと書き記していたのだ。嬉しくもあり、身の引き締まる光栄だったが…いまはそれも難しいとわかっていた。
総司は小さくなったハッカの飴を噛み潰して飲み込んだ。スッと冷たい喉越しがいくらか昂りそうな感情を抑えてくれる。
「…おじさん、私はあくまで近藤先生に何かあった時のためにお受けしただけで、他の誰か相応しい人がいるのならそれでも構いません。江戸で有望な門下生がいたら私に遠慮なく推挙してください。それが道場のためです」
「ああ…そうだな、わかっているさ。悔しいのはお前だよ」
井上はいつのまにか目頭に涙を溜めていて、「クソ」と言いながら乱暴に拭った。情に厚く涙もろいのは知っているが、このところは涙腺がやけに壊れやすい。
総司は笑った。
「おじさん、年とったんじゃないですか?」
「当たりめえだろ。みんな年を取るんだ」
同情と悲嘆と無念を隠さない井上の涙は、まるで自分の代わりに泣いてくれているようで、だからこそなんだか照れくさかった。







718


陸援隊は白川の土佐藩邸に拠点を持ち、遊軍として組織された。七十名ほどの隊士たちは身分出身を問わずに入隊できるが、尊王攘夷の志を持つ土佐藩士と水戸脱藩の浪士がほとんどを占めている。
(橋本は水戸天狗党の挙兵に参加した経歴がある。馴染みやすいのも間者に選ばれた理由だろうが…)
斉藤は藩邸近くの茶屋で橋本…変名、水野八郎を待った。旅装で出向き陸援隊の門番へ水野の従兄弟だと名乗り、大和郡山から出てきたから会いたいと手紙を渡した。水野の家族構成まではわからないが、素知らぬ顔でやって来なければ間者など務まるはずはない。
斉藤は茶を口にする。残暑を引きずる季節に相応しい温い茶だ。昼間閑古鳥が鳴く茶屋には少しだけ冷たくなった風が入ってくる。
内海に偵察を頼まれ、橋本のことを少し探った。彼が新撰組に入隊したのは昨年のこと、背がひょろりと高く細身で、剣の腕では少し劣ったが伊東に推挙され仮隊士となった。それからは真面目に働きあまり目立たなかったが、三条制札事件の際に功績を上げて正式な隊士となり、伍長へ昇進。スピード出世を果たし新撰組に恩義があるはずだが、しかし伊東と共に脱退し御陵衛士となった。改めると節操のない経歴だ。
そんなことを考えていると、遠くから足音が聞こえてきた。だから客のいない茶屋でよく響く足音が斉藤の前で止まった。
「…どうも」
目の前にいたのは斉藤の知る『橋本皆助』ではなかった。真面目でおとなしく地味な印象はガラリと変わり、乱れた髪の毛と着崩した派手な着物、適当に差した刀に高い下駄…遊び人のような雰囲気だ。
「俺の従兄弟はこんな顔だったかな」
そう言って少し笑いながら斉藤の隣に座り、暇そうな老店主に酒を頼んだ。斉藤はストレートに尋ねた。
「様子が違うな」
「そりゃ、真面目で朴訥な『橋本皆助』のままじゃ支障があるでしょ。この方がやりやすい」
「…隊長は何も言わないのか?」
橋本の潜入を陸援隊の隊長、中岡慎太郎は知っている。御陵衛士の真面目な隊士だと伊東から紹介されたはずだが
「変装だと理解しているんじゃないですかね」
と橋本は適当に答えた。斉藤は彼に接する機会は少なかったがその少ない機会を思い出しても、別人のように感じた。しかし一方で人格すら変わったと思えるほどになりきっているなら間者として有能とも言える。
「それで、何の用事で?」
「…内海さんが心配していた」
「ああ、情報が少ないってことですか。ちゃんと働いているかって?」
身も蓋もない言い方だが、内海の本意を察していた。
(頭も悪くない)
斉藤はそう思ったのだが、
「いま伊東先生は九州でしょ。だったら使えない居残り組に貴重な情報を伝えたって評価してもらえるわけじゃない。無駄に働いて危険を冒す理由がないんでね…まあ重大なことがあればちゃんと伝えますよ」
(仕事熱心ではないらしい)
とやや困惑した。見た目だけではなく中身も正反対で、一見涼しげに見える色男のような顔立ちさえ本当に彼のものだったかどうか、自分の記憶を疑いたくなるくらいだ。
老店主が酒を持ってきた。昼間だというのに遠慮なく水のように飲んだ。
「当たり前だが、土佐者ばっかりでね」
橋本はフッと笑って話し始めた。
「土佐ってのは北は山々、南は海、閉鎖的な土地で昔は流人が送られる場所だ。御仏を敬う者も少なくどこか即物的…それ故に上下がはっきりとしている。話には聞いちゃいたが想像以上だ」
斉藤は黙って耳を傾け、彼は盃を手で弄びながら続けた。
「男しかいない環境で、隙を見せたら食い物にされる。抵抗しても数人で手篭めにされるなんて珍しい話じゃない…もちろんここじゃ表立って騒ぎがあるわけじゃないが、俺はヤられるのは御免なんでね。こうやって遊び人を装って牽制しておく方が身を守るためになる」
橋本は軽薄な言動も見た目も自衛だと語るが、あまりに堂に入っているので、本人の素養もあるのだろう。
身を守るための術を身につけているのは、処世術に長けているということだ。斉藤は間者として適した人材だと思ったが、頼りになるとまでは思わなかった。
橋本はまだ話を続けた。
「…それなのに、ひとり馬鹿正直なのがいるんですよ。いちいち突っかかって不器用で…あれは長州者だと思うんですがね」
「長州か…」
斉藤には心当たりがあった。
御陵衛士が橋本を間者として潜入させているように、新撰組もまた村上謙吉という長州出身の隊士を間者として入隊させている。御陵衛士創設後の入隊なので橋本はもちろん斉藤さえも顔を知らない。
同じ組織にいて二人が関わりを持つのは仕方ないことだが、深い付き合いになるのは警戒すべきだろう。
「…ま、そういうわけで内海さんにはうまく伝えてくださいよ。これからもちゃんと御陵衛士のために働きますんで」
橋本は酒を飲み干して「ご馳走様」と当然支払いもせずに席を立つ。少し猫背の背中はまるで祇園を渡り歩く優男のようだったが
「ああ、そうだ」
と、橋本は振り返る。
「斉藤さん、俺はあんただけは使えない居残り組だとは思ってないよ」
「…」
「同じ立場になればわかるものだなぁ」
橋本はそういうと手をひらひら振って去って行った。空の徳利と盃だけを残してあっという間に消えてしまったかのように。
「…厄介な男だな」
斉藤はため息をついた。



季節の変わり目を実感するように、総司は高熱を出した。
「先生、お薬です」
部下の山野が医学方見習いとして世話を焼いてくれるのでずいぶん助かっていた。
「…苦い」
「お薬ですから仕方ありません。こちらに甘い菓子がありますからもう少し水を飲んでください」
総司の子供のようなぼやきも、菓子の報酬をちらつかせて聞き流してしまう。彼の熱心さに押されて医学方へ推挙したが、適材適所だったのかもしれない。
彼に言われたとおり薬を飲み込んで甘い菓子で誤魔化しつつ、横になる。いつもとは違う身体の消耗を感じていた。
「先生、枕の位置を変えましたがどうですか?」
「…楽になりました」
「良かったです。また額の手拭いを替えに参りますから、ゆっくり寝てください」
山野が去っていき、与えられた個室に一人残される。
まだ外は明るい昼間だろうか。遠くで隊士たちが稽古に励む声が聞こえてくるのに、自分だけ別の場所にいるみたいだ。
山野は「他の隊士も寝込んでいますから」と教えてくれたが、それでも役立たずを実感せずにはいられない。
(今日は…夜番だけど…山野君は何も言っていなかったな…)
組長が不在でも、誉ある一番隊はしっかり働ける。頼もしくもあるが、寂しくもあり、表には出さないが気持ちは複雑だ。
「…ダメだなぁ」
こういう時はどうしても気持ちが落ちる。仕方ないと割り切っていても、こうなるのがわかっていても、ここに残りたいと言ったのは自分なのだからやりきれない気持ちは飲み込むしかないけれど、どうしようもないことを考えて堂々巡りだ。
熱のせいで視界が滲む。無性に虚しくなって、そんな気持ちと向き合うのが嫌で目を閉じると、ちょうど薬が効いてきたのか眠りに落ちた。
けれど、悪夢を見た。
具体的な状況はわからなかったが、『役立たずだ』と信頼していた仲間から見放され、『もう必要ない』と近藤から見捨てられる。最後に土方だけが酷く思い詰めた顔をして言った。
『もう、ここまでだ』
非現実的な言葉ばかりが投げかけられるなか、土方の最後通牒だけはリアリティがあって胸に突き刺さった。その痛みのせいかハッと目が覚める。
すると目の前にはまるで夢のつづきのように、土方がいた。固く絞った手拭いを畳んでいるところだった。
「…起こしたか?」
「あ…」
「悪い、山野に部屋の前で会ってお前の世話をするというから請け負った。暑苦しそうだったから…」
「歳三さん!」
総司は体を起こした勢いでそのまま土方に正面から抱きついた。あまりに突然のことに土方も受け止めきれずにそのまま畳に倒れ込む。
「どうした?」
「…」
悪夢を見た、とさえ言えずに総司は土方の胸に顔を埋める。夢だとわかっていても、いつか土方にそう言って終わりを告げられるはずだ…わかっていても、覚悟をしていても寂しさは尽きない。
土方も何かを察したようで何も言わずに背中に手を回した。彼の温もりに触れたおかげで悪寒に似た動悸が治まる。
「すみません…」
「…熱は下がったな」
土方の手のひらが額に触れる。そして何も聞かずに
「もう日が暮れた、このまま休んでいたら良い」
と横になるように誘導し、改めて手拭いを取り汗を拭いた。
あれは夢だったのだと心と身体が理解しても、どこか鈍痛が残っているような気がしてしまう。
「…歳三さん、これを見てください」
「どうした?」
総司は土方に手のひらを開いてみせた。
「タコが薄くなってきたんです。いつも木刀を振っていたのに、この頃は休んでばかりいるから…」
「…別に良いだろう。また出来る」
「そうかな…」
十数年積み重なってできた剣ダコは常にそこにあるものだったのに、たった数ヶ月で薄くなりつつあった。
「…もう、元に戻れないのかな…」
両手の平を広げてぼやく。土方は「ふっ」と少し笑ってその手のひらに自分のものを重ねた。
「つまらないことを考えるな。俺なんてこの通り、タコなんてなくなっちまった」
「…本当だ。稽古が足らないんじゃないです?」
「そうかもな」
互いに目を合わせて笑った。
なんとなく離れ難くて総司が土方の手のひらに指先を添わせると、彼はもっと強く絡ませた。簡単には解けない。
「…しばらく、こうしていてください」
「ああ」
夏の終わりの静かな夜。確かな熱を感じて目を閉じた。










719


不器用な生き方だと揶揄されたことが何度もある。
その自覚はあったし、曲げられない性格のせいだとわかっていたけれど生まれ持った性なのだから仕方ない。
「い…ってぇ…」
土佐藩白河藩邸。土佐藩の実質的な別働隊であり、急先鋒となる陸援隊は、ほとんどが土佐藩士と水戸脱藩浪士で構成されているためそれ以外の者は自然と爪弾き者となった。長州出身と名乗り入隊した村山もその一人である。
その日は何かと大きい顔をする土佐藩士のリーダー格の男…田川が稽古を終えたあと突然村山を蹴り飛ばした。油断していた村山は相撲取りに匹敵するような体躯の田川の威力に押され、腰を強か打ったが、すぐに立ち上がり
「何するんじゃ!」
と歯向かった。自分に非がなく、田川がストレスを発散するためにそうしたのだとわかっていたからこそ、我慢ならなかったのだ。
けれど田川は小柄で細身の村山をあからさまに見下した。
「あしは長州もんは好かん!」
「もっかい、言うてみぃ!」
「長州もんは無駄に世をかき乱す愚か者よ。おんなじ空気吸うかと思うと反吐が出る!」
「じゃったらこっち見んさんな!」
理不尽に屈しない村山は威勢よく言い返す。田川はさらに腹を立てて片方の手で村山の胸ぐらを掴み、もう片方の拳を振り上げた。
ここが新撰組なら『私闘を禁じる』の法度でとっくに互いに身を引いているだろうが、この陸援隊で土佐藩士と長州浪人では味方の数が異なり、外野の野次馬は手出しせず意気がる村山を嘲笑しているだけだった。
(殴られても構わん!)
理不尽な仕打ちは慣れていても、許容するほど寛容な性格ではない。村山は覚悟を決めて目を閉じたのだが
「まあまあ、この辺で」
と緊迫した場に不似合いな妙にふわふわした声が聞こえてきた。細く目を開いてみると、振り上げた拳を掴んで引き止める一人の姿が見えた。
「水野…!」
「田川さん、もうすぐ中岡隊長がお見えになりますし、このへんにしときましょ。村山には俺から言うとくし」
切迫した状況にそぐわない飄々とした語り口で男…水野八郎は間に入った。陸援隊の隊長である中岡直々に入隊を許可された水野は土佐藩士でも水戸脱藩でもないが、一目置かれている稀有な存在だ。それ故に田川もそれ以上は言わずに
「…覚えちょけよ」
と悪態をついて村山を投げ捨てて去ると、野次馬たちも散っていく。
村山は怒りが収まらなかったが、水野に手を差し出され仕方なく立ち上がった。
「…ありがとうございました」
村山としては決着がつくまで殴り合っても構わなかったので、頼んでないのに仲裁した水野に礼をいう気分ではなくぞんざいな言い方になってしまった。しかし彼は気にする様子はない。村山の袴の土埃を払いつつ
「もう少し要領良く振る舞いや」
と苦笑した。
水野は入隊の経緯もそうだが、その見た目の風貌も浮いている。無骨な志士が集まる陸援隊で派手で洒落た着物に身を包みいつも着崩しているのは水野だけだ。纏め上げた髪の毛は癖っ毛なのかふわふわとうねっていてそれが妙に似合っていて…つまりは、人目を引く容貌なのだ。
水野に引け目はないものの、村山は
「…要領良くできたらこんなとこおらん…」
と呟いた。
昔からそうだった。
何かと幕府に牙を向ける若き故郷の志士たちと相いれず、恭順を主張すると「お前は生まれる場所を間違っちょる」と後ろ指を刺された。そして居場所をなくしてやってきた京で、身分を問わずに入隊できる新撰組の一員となっても「長州者が」と影で蔑まれることとなってしまった。間者に違いないと疑われるのが癪で誰よりも懸命に任務に励んだが、追い出されるように陸援隊への潜入を命じられることとなり、いまに至る。
水野の言う通り要領良く生きられたら転々とすることもないはずなのに。
黙り込んだ村山に、水野はため息をついた。
「…とりあえず、田川に目つけられたら面倒や。今後は気をつけや」
「わかった…」
水野は「じゃあ」とあっさり去っていくが、村山はその後ろ姿を苦々しく見送った。
(よりによって、あいつに助けられるなんて…)

水野八郎が御陵衛士の間者であることは事前に聞かされていた。村山が入隊する前に分離した御陵衛士は新撰組の別働隊という建前ではあるが、思想は異なっている。
『御陵衛士とは表向きは情報を共有することになっているが、信頼できる相手ではない。陸援隊の情報を得ることも重要だが、橋本皆助…水野八郎の動きには注意しておけ』
土方にそう命じられていたのだ。
新参者の村山は御陵衛士に顔が知られていないこと、長州出身であることを買われて間者に抜擢されたようだ。何かと要領の悪い自分にとって功をあげる絶好の機会だと意気込んで入隊して数十日…新撰組以上に居心地の悪さを感じ、また事前に聞いていた水野八郎の印象とは異なる姿に困惑していた。
水野八郎…新撰組にいた頃は橋本皆助と名乗っていたが、とても真面目で目立たない人物だったらしい。仮隊士として入隊して諸々の雑事を引き受ける下男のような扱いを受けていた時期もあるそうだが…それが今の飄々とした水野八郎の姿とはまるで一致せず、思わず監察方の大石に同一人物かどうか確かめてもらったくらいだ。
けれど水野八郎は橋本皆助に違いなく、遊び人のような風態で陸援隊では地位を築いている。敵も味方も作らず、孤高で群れないが侮られることもない。
(正直…間者として、俺よりも上出来だ)
昼間、田川に蹴られた時に破れた袴の裾を繕いながら、村山は周囲を見渡した。同じ陸援隊の同志とは言えども自然と土佐、水戸、十津川に分かれて皆食事を取っている。
陸援隊では衣食住は土佐藩から支給されるが、薩摩から軍学者が派遣され洋式の調練が日々行われている。この点からも薩摩と土佐の関係が深いことが窺えるが、第二次長州征討の結果によりいかに早く銃を中心とした軍隊を鍛えることができるかが、勝敗の分かれ目となることが明らかになった。新撰組でもそうであるように、皆が刀を銃へ持ち替えつつあるのだ。
「村山君、飯は?」
「…まだです」
「では一緒にどう?」
声をかけてきたのはまた水野だった。村山は警戒しつつ
「腹が減ってない」
と冷たく断ったのだが、水野は「強がるな」と苦笑した。
「怒りは確かに腹を満たすが、そのうち絶対に腹が減るんや」
「…」
「まあまあ、はい、握り飯」
水野がやや無理矢理、握り飯を渡してきたので村山は仕方なく針仕事をやめて受け取った。水野は村山の隣を陣取り、同じ握り飯を食べ始める。
「昼間ので、破れたんか?」
「…そうです」
「針仕事が得意なんは羨ましい。今度、俺のも頼んでええか?」
「嫌です」
「ははは、そういわんと」
水野は自然と笑っていたが、村山は彼の真意が分からなかった。隊内で爪弾き者になっている自分に近づいたとしても大した情報など持っていないのに。
(まさか俺が新撰組やと気づいとるんか…?)
村山は一層警戒心を込めて水野を見ると、彼は
「そんな尻尾を丸めた子犬みたいな目ぇで見んと」
と笑った。
「こ、子犬…?」
「警戒せんでも。お互い余所者やんか」
水野はそう言ってまた握り飯を頬張った。小柄で童顔の自分とは正反対に、水野は長身で無駄な筋肉のない体躯は適当に崩した胡座でも様になっている。高い鼻梁と薄い唇には田舎者にはない色気があり一見近寄り難いが、それでも周囲を引き寄せる独特の雰囲気がある。
「…何?」
村山の視線に気がついたのか、水野が尋ねる。
「その…髪」
「髪?ああ、これ?」
「地毛ですか」
「そりゃ地毛や。昔から癖っ毛で…一度嫌なって坊主にしたこともある」
「へえ…」
「村山君は直毛だろう。それにそのまん丸で大きい黒目…子供んとき近所で餌やってた犬に似てると思ってたんや」
「…」
どうしても、犬扱いをしたいらしい。
(何なんだ、この男…)
個人的には遠ざけたい人種だが、彼を見張ることも任務の一環だ。
村山は握り飯を口にした。水野の隣はどこか身体に力が入り、まともに味わうことができなかった。








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小さな小さな紙に見聞きしたこと全てを書き記すことが日課になり、厠にこっそり矢立を持ち込んで爪楊枝の先で書いたような細い字を書き連ねることにもようやく慣れた。
三日に一度、これを監察の大石へどうにかして渡すことになっている。大石はその時々によって姿を変えていて、商人、物乞い、老人…全く違う役柄でも卒なくこなし、いつまで経ってもぎこちない村山とは大違いだ。
村山は今日も厠に篭り、報告すべきことを練る。土方は土佐藩の動きだけでなく陸援隊での銃の訓練にも興味を持っていて、どのようなことを学んだのか逐一知らせるようにと言われていた。
(言葉にするのは難しい…そうだ、絵図に起こしてわかりやすくした方が…)
などと思案していると、ドンドンドン!と激しく厠の扉が叩かれたので慌てて矢立と報告書を懐に仕舞い、外に出た。
(げっ…)
目の前にいたのは巨漢の田川だ。相変わらず村山を見下すように睨み、
「また長州もんが!」
と怒鳴り、押し退けて厠に入った。
彼はいつも村山を見つけると執拗に長州者への嫌悪をぶつける。あまりに理不尽なので個人的な恨みなのではないかと勘繰るが、思い当たる理由もなくただ不快感だけが募る。
(考えても無駄じゃ…)
村山は気持ちを切り替えて厠を離れたのだが、今日という日が災難な日なのか、次は水野と鉢合わせた。
「田川には気をつけた方が良いな」
水野はやりとりを見ていたのだろうか、妙に真剣な表情だ。
「…長州嫌いなど、珍しゅうない。ほっとけば良い」
「それで済めば良いが」
「相手にせんのが一番じゃ」
村山は水野を振り切って歩き出したのだが、彼は後ろをついてくる。
「なんじゃ!」
「いやぁ囲碁でもどうかと思うて」
「…い、囲碁?」
「訓練もおわって暇やろ?」
水野は人の良い笑みを浮かべた。彼は御陵衛士の間者であり注意すべき人物なのだが、実は村山は囲碁が趣味でそれなりに自信がある。陸援隊に入隊してからはご無沙汰であったので彼の誘いには正直そそられた。
「でも碁盤も碁石もない…」
村山の期待が表情に出ていたのだろうか、水野は
「大丈夫、あてはある。さあやろう」
と、強引に肩を抱いて近くの部屋に入った。そこはいつも土佐者が集まっていて、除け者の二人にとって居心地の悪い場所だ。
「ちょっと…」
「碁盤、貸してもらえるか?あ、もちろん碁石もな、白と黒の」
水野は冗談を交えながら話しかけると、困惑しながらも「しょうがない」とそのなかの一人が碁盤と碁石を差し出してくれた。水野は「おおきに」と受け取り、そのまま部屋を出る。
水野は土佐者からの冷たい視線を意に介せず飄々と立ち回っている。
「嫌にならんのか?」
村山は思わず尋ねてしまった。どんなに鈍感であってもあの視線に気づかないわけがない。しかし水野は微笑んだまま
「嫌に?」
「あいつらじゃ。身分出身問わぬと言いながら、土佐と水戸が蔓延って…感じ悪いじゃろ」
「はは、感じ悪いかな」
水野は笑い飛ばすだけで話を切り上げ、日当たりの良い縁側に碁盤を置いた。そして二人は向き合ってあぐらをかく。水野は躊躇いなく黒の碁石の入った碁笥(碁石の入った入れ物)に手を伸ばした。
「村山君、俺は黒の碁石でええか?打つのは後手で良いし」
「…黒の碁石なら先手が決まりじゃ、先手で構わん」
「そう?じゃ、遠慮なく」
水野は定石から攻め始める。村山は内心、久しぶりの囲碁に興奮しつつ碁石を手にした。
水野はなかなか手強かった。打ち慣れているのか一手一手にスピード感がありミスが少ないのだ、長考を挟みつつ慎重な村山とは正反対だ。
「なんで、黒の碁石?」
他愛のない雑談のなかで村山は尋ねた。大抵、白の碁石は上級者が選び、先手で有利である黒の碁石を譲る。水野は相当な腕を持っているようなので、彼が白の碁石を譲ったのは皮肉な謙遜だったのだろうか。
しかし水野の返答は
「ああ、黒の方が好きなんや」
という安易なものだった。
「好きって…」
「見易いし、打ち慣れてるし。…知ってるか?白は永遠の時を包み込む天の色で、黒は万物の輪廻の元となる大地の色を表してるて」
「へえ…」
水野は碁石を手のひらで弄ぶ。
「白の碁石は俺には…すこし、眩しいわ」
「…」
村山は水野のことがまたわからなくなった。
御陵衛士の間者として送り込まれ、土佐と水戸の隊士たちに臆せず悠然と存在し、飄々としているようで囲碁の戦法は大胆で隙がない。そのくせ碁石の色程度のことで遠慮がある。
残暑の日差しが柔らかく降り注ぐ。彼の波打つ髪が少し茶色がかって見えた。気怠げな体勢で表情は真剣に盤面を見つめる姿は、近寄りがたいほど麗しい。
「村山君の番やで」
「あ、あぁ」
見惚れていたのを悟られたくなくてすぐに視線を外し、村山は碁石を手にした。
その後はくだらない雑談を交わしながら時は過ぎて、盤面が完全に水野の優勢となる頃には夕方になっていた。
「ああ、楽しかった」
水野は満足そうに笑う。負けた村山は悔しさよりも久々に囲碁をして、さらに好敵手と良い打ち合いができたという満足感に満たされていた。
「村山君、またやろう」
「…うん」
「除け者同士、これからもよろしくな」
理性は決して交わらないで在るべきだとわかっていたのに、感情が勝った。
「よろしく…」
(近づけばわかることもある)
村山は自分を納得させた。


夜。
報告書を読み終えた土方はそれをすぐに蝋燭の炎で燃やした。
「大石」
監察方の一員として有能な働きを見せる彼は、土方の一言で足音もさせずにやってきた。
「一つ確認だが…水野八郎は本当に橋本皆助か?」
村山の報告書で語られる水野の姿が、土方の知っている新撰組にいた頃の橋本と合致しなかったのだ。
しかし大石は頷いた。
「橋本に間違いありません」
「…橋本は仮隊士だったよな」
「そうです。剣の腕では劣り不採用になるところを、伊東の推挙で仮隊士に」
「…」
土方は考え込む。
村山が報告書で語るように、明るく飄々として土佐や水戸を相手に上手く立ち回っているような度胸があるなら、土方の印象に残っているはずだ。けれど新撰組隊士の橋本は無口で印象が薄く特筆した特技もないので、御陵衛士としての脱退を許したときも数合わせとしか思わなかった。
(ここにいた間、わざと根暗な隊士を装っていたのだとすれば、村山の手に負えるような相手じゃない)
どんな策略があるのかわからないが、間者としてまだまだ拙い村山の正体を見破るかもしれない。
「大石、村山に水野とは関わるなと伝えておけ」
「わかりました」
土方の命令を受け取ると、大石はそのまま出ていった。不本意な異動で監察方の一員となった大石だが、いまでは山崎のいなくなった穴をしっかりと埋めていた。
「土方さん」
大石と入れ替わるようにやってきたのは総司だった。高熱を出して数日伏せっていた。
「具合はどうだ?」
「もうすっかり。山野君の許可とお加也さんの太鼓判も貰いましたから、明日から復帰します」
「わかった」
主治医がそう言うのなら、と土方は承諾した。総司は嬉しそうに笑って頷く。
「土方さんは江戸はいつ行く予定ですか?」
「…近々の予定だったが…少し後になるかもしれない」
隊士不足は深刻な課題だが、いま京を離れるのは不安要素の方が多い。
「何かあったんですか?」
「…これから何かあるかもしれないからな。先に源さんに出立してもらって、入隊希望者の選別を頼もうかと思っている」
「そうですね、周斎先生のことも気がかりですし」
「…源さんに聞いたのか」
大師匠である近藤周斎の容体については気にするだろうと伏せてきたが、総司に甘い井上が漏らしてしまったのだろう、と土方は察する。
「土方さん、私は大丈夫ですからちゃんと教えてください。後から知らされるのは嫌です」
「…わかったよ」
ただでさえ床に伏せって遠ざけられていると感じているだろうに、隠し事までされたら気に病むはずだ。
土方の返答に安心したのか、総司は微笑んで「休みます」と部屋を出て行ったのだった。


















解説
なし


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