わらべうた





71
 文久三年、七月。哀しい運命の幕が上がろうとしていることに誰も気がつくことはなかった。

「相撲力士との乱闘、角屋での営業停止処分、あちこちの多額の借金…芹沢の乱暴狼藉は会津さまのお耳にも届いているだろうぜ」
羅列するほどに腹立たしい、という様子で土方が毒づき、近藤は頭を抱えた。
「それから大坂新町での吉田屋でも…。私たちの手に負えなくなってきましたね」
山南もさすがに大きなため息を漏らしてしまった。
 七月の初め、芹沢、近藤は大坂巡邏のため下坂していた。その際立ち寄った大坂新町、吉田屋でまたも芹沢の乱交振りが発揮されてしまう。遊女の小寅が言うことを聞かない、といって仲居のお鹿とともに髪を切り捨ててしまったのだ。
「…良いように使うつもりが、良いように遊ばれてるぜ」
「歳っ!」
土方が本音を漏らすと、近藤は叱咤した。だがあながちそれは近藤の本音でもなさそうだ、と土方は思った。

そんな深刻な話などどこ吹く風、というぐあいに、八木邸の隣の壬生寺では子供たちのはしゃぎまわる声が鳴り響いていた。最近は良い遊び相手ができたらしい、と近所ではもっぱらの噂だ。
「おにーちゃん、今度はおにーちゃんが鬼やからねー」
「わかった、わかった。三十数える間に逃げるんだよ」
壬生寺の境内で五、六人ほどの子供に囲まれて、総司は額に流れる汗を手でぬぐった。七月とはいえ、京は江戸と比べて気温が高い。京は夏は暑く、冬は寒い。噂は本当だったようだ、と苦笑いした。
 暇つぶしにやってきた壬生寺で「いつものおにーちゃんやー」と顔見知りの子供の言葉が発端で、もう一刻ほど遊び相手になっている。軽い運動のはずが、隊務よりも厳しい重労働。流れてくる汗はなかなか止まらなかった。
「にじゅーぅ、にじゅういちー、にじゅうー…」
「沖田様?」
「わっ?!…あ、」
 鬼ごっこの鬼役を務めるべく、目を手で覆っていた総司は、声を掛けた人物に驚いた。日傘から見える女には見覚えがある。
「お梅さんですか?」
「へぇ。お久しぶりどす」
 花のように微笑んだ梅は、総司に頭を下げた。総司も慌てて頭を下げる。傘を持ち、水色の涼しい着物を身に纏った梅はどこまでも清楚で可憐だ。総司はいつも直視できないでいた。
「…あの、沖田様。これを」
「え?…ああ、すみません」
梅がその細い指で差し出したのは手ぬぐいだった。汗だくの総司に気を使ったのだろう。総司も遠慮なく受け取った。
「どうしたんです、こんなところに。その……あんまり近寄らないほうが良いと思いますよ、ホント」
総司にとってはかけがえのない場所で無くせない場所ではあるが、梅にとっては違うはずだ。手篭めにされそうになり間一髪で助けに入ったものの、あまり良い記憶ではないはずだ。
 だが梅はいっそう顔を綻ばせた。
「本当にお優しい方やなぁ」
「え?」
「ご自分こそ、あないな目ぇに合ったのに。うちの気遣いやなんて」
「ああ…、芹沢先生のあれは冗談みたいなものですから」
 ははは…と薄ら笑いを浮かべ総司は頭をかく。芹沢にはいろいろな目にあっているし、周囲から何度も「気をつけろ」と
言われている。さすがに自覚はしてきたのだが、それでもこの触れたら折れてしまいそうな梅とは違うはずだ。
 だが梅はその長い睫を伏せた。
「そうやろか。…あの時、芹沢先生の目ぇは、うちに向けられたものと沖田様に向けられたものは、違う気がしましたんやけど」
「え?」
「うちよりも強い、怖い目ぇやった…」
「……」
 あの時、というのは梅が菱屋の妾として芹沢に集金に来たときのことだ。芹沢は梅を手篭めにしようとし、その寸前で
総司がとめることができたのだが…。梅を助けることに必死だった総司は、そんな細かなところにまで目がいかなかった。
「せやからうち、少し心配になって…」
「お梅さん…」
 か弱い人だな、と思った。総司の周りにいる女性といえば、一家の大黒柱だった姉と、総司をしかりつけてばかりいた試衛館のふでくらいのものだ。梅ほど、人形のように気高く、可憐で綺麗なものに出会ったことはなかったと思い返す。
「おにーちゃーん、もう三十になったで」
「はよう、追いかけてえな」
 背後から子供たちの不満の声が聞こえた。
「あ、そうだった!すみません、少し待っていただけますか?お送りしますから」
「え?そないなこと、ええのに」
「危ないですよ。綺麗な人が一人でこんなところにいるのは。ちょっと待ってくださいね。直ぐ捕まえますから」
「へ、へぇ…」
総司はくるりと踵を返し、駆け出した。子供たちのはしゃぎまわる声が、壬生寺に響いていた。
「…綺麗な人、やなんて」
 梅は顔を赤らめ、駆け出していった総司の背中を眼で追った。二本ざしの、立派な武士であるはずなのに、子供を追い掛け回す様子が妙に子供っぽくて、梅には微笑ましく映った。そしてそれは胸の高まりと共に訪れる。新鮮な感情だった。

「総司に惚れたか?」
「…え?」
日傘越しに聞こえた男の声に、梅はびくっと肩を震わせた。恐る恐る振り返るとそこには土方がいた。
「ここには近づかないように言ったはずだが」
「へぇ…すんまへん」
土方の厳しい口調に、梅は視線を落とした。なぜか抑圧的な態度を取る土方が、梅は苦手だった。芹沢とは違う威圧感と恐ろしさを感じていた。
「あ、土方さーん」
境内の向こうで、子供を捕まえた総司が手を振った。子供たちは一気に萎縮したようだが、気にする土方ではない。
「ちょうど良かった。お梅さんを送っていってあげてください」
「え?」
「ああ、わかった」
土方はあっさりと了承し、歩き始めた。梅は困ったように眉を寄せたが、「また」と総司に頭を下げ、土方に従うしかなかった。総司の背中に小さく「いけず」と呟いた。


一方、土方は不機嫌の頂点にいた。
会津公用方から呼び出され黒谷へ向かうと、予想通りお叱りを受けた。くどくど文句を言うさまは、土方が昔奉公に行っていた先の主人に似ていて、何となく嫌な気分になった。さらにその帰り道、近藤に「あからさまな顔をするな」と叱られ、山南の同意まで得てしまう。原因はすべて芹沢であるのに、なぜか自分が責め立てられたようだった。
そのため、気分転換に散歩に出かけたのだが、その先でみた光景は総司とお梅が話し込んでいるもの。あれほど近づくな、と言ったのに。と土方は舌打ちをし、二人を眺めていたのだ。
壬生寺を出て、坊城通りに差し掛かった。土方に二,三歩遅れて梅は付いてきていた。
 土方も梅を綺麗な女だと思っている。江戸にはいない繊細で、簡単に手折られそうな儚さがいっそう男心を擽るのだろう。言葉遣いも丁寧で、典型的な京美人だ。だが、なぜか土方にとってはそうは映らなかった。
「もう一度言っておく。もう壬生には来るんじゃない」
「……」
後ろにしたがっていた梅がふと足を止めた。
「あんさんの沖田先生に近づくのが、そんなにあかんの?」
「別にそんなんじゃねぇ。あんたが足を運んでいてはこっちも気を張る。特に今は良くない時期だ。変に芹沢を刺激されたくない」
「そうやない。うちは沖田先生に会いたいだけや」
土方が振り返ると、そこには土方を睨みつける梅がいた。それは今にも泣き出しそうな、子供っぽい怒り方だった。
「うちは沖田先生が好きや。あんさんに邪魔される言われはあらへん」
きっぱりと言い切った梅は、鬼の土方、と恐れられる彼を睨み続けていた。恋をした女は怖い。それは土方自身が一番知っていたとはいえ、こんなにも激しく敵意を向けられたのは初めてのように思う。
「…とにかく、変に芹沢を刺激するな」
「芹沢先生やなんて怖わない。沖田先生の代わりにうちが先生の犠牲になっても、構わへん」
「……」
その言葉に土方のほうが驚いた。見た目は虫も殺さないような顔をしているくせに、言うことは激情的で強さが滲み出ている。とても妾には納まりきらない、気の強い女だ。
「…ここまでで結構です。お気遣いおおきに」
梅は小さく頭を下げると踵を返して土方から去っていく。強気な背中は最初見た女らしいそれとは違い、強い意志を感じた。

「ちっ…。厄介ごと増やしやがって」
土方が毒づいたのは梅だったのか、壬生寺で暢気に遊ぶ総司だったのか。それは土方にもわからなかった。


72
文久三年、またここに幼き恋が、その結末を知らず生まれた。


「総司ー!」
稽古を終えた総司が手ぬぐいでその汗を拭うと、遠くから呼ぶ声が聞こえた。
「原田さん」
「暇か?暇だよなー?」
「暇といえば暇ですけど。あ、佐々木君もどこか遊びに行くんですか?」
「ええ、原田先生がお誘いくださって…」
上機嫌な原田につれられるようにやってきたのは新入隊士の佐々木愛次郎だった。
「これからおまさちゃんのところに行くんだ。お前もいかねぇか?まだおまさちゃんに会ったことないだろ?」
「そうですね。噂は聞いていたんですが」
「じゃあ決定だ。着替えたらすぐにこいよ。門で待ってる」
「はい」
二人の背中を見送りながら、なるほどな、と総司は笑った。
原田が上機嫌なのはこれから愛するまさの所に向かうかららしい。快濶な彼は上機嫌だとえくぼができる。総司は手ぬぐいを持って部屋へと向かった。
正直、原田の隣に佐々木がいたことが意外だった。つい二ヶ月前、入隊した彼は寡黙で大人しい性格だった。まだ19歳ということもあって、若々しく瑞瑞しい。大坂浪人という出自だが、礼儀正しく溌剌としていて評判も良い。
また彼は美男であることでも知られていた。のちに永倉が「古今、美男なり」と評しているように、「隊中美男五人衆の」一人として数えられている。彼に言い寄るものも多かったが、それは総司のあずかり知らぬところでもあった。

総司は身支度を整えて、約束の門へと向かおうと草履を履いていた。だが 「おい」と、そこに不遜な声が掛かった。
「…なんですか、土方さん」
「どこにいくんだ」
総司が振り返ると仁王立ちした土方が待ち構えていた。総司はため息を漏らした。
「どこでもいいでしょう。原田さんと一緒におまささんの所に行くんです」
「本当か」
「本当にきまっているでしょう」
総司は草履を履き終えると立ち上がった。
「じゃあ、いってきますっ」
「ああ」
やや怒りを滲ませて総司は玄関を出た。
最近土方が妙に小言を言うようになった。芹沢のことはまだしも、お梅の事までも「近づくな」と無遠慮に言う。 反抗期はとうにすぎた総司だが、彼に言葉一つ一つに納得がいかない。説明を求めても答えてもくれない。
「……はぁ」
妙に疲れる。

門で待ち構えていたのは原田と佐々木、そして藤堂だった。
「あれ。藤堂さんも?」
「ええ、まだ俺もおまささんに会ったことないんです」
「永倉さんは?」
「…さぁ…」
藤堂は苦笑交じりに相槌を交わした。

四人で連れ立って門を出て、仏光寺通りにあるというおまさの家に向かった。上機嫌の原田が先頭を歩き、鼻歌交じりに藤堂と雑談を交わす。ほとんどのろけのようなものだったが。総司は佐々木と隣になった。
「どうですか、隊は。慣れましたか」
「はい。先生方がお優しいので」
総司は朗らかに笑う彼を見て、本当に綺麗な子だなと思った。
彼に言えば怒るだろうが、笑えば大輪の花のようだ。それに真面目で利発そうな顔立ちをしている。
「稽古、厳しくないですか」
「そんな、厳しい稽古ではありますが、貴重な体験です。先生方みたいにすばらしい技術を持った方々にご教授いただけるなんて…」
「はは…そんな、畏まらなくても」
総司が苦笑すると「すみません」とまた彼は畏まった。
「でも本当に嬉しいです。僕はまだまだ未熟者で…。学ぶことが多くて」
「そんなことないですよ。土方さんが入隊を認めたんだから、君の才能を見込んでのことだから。だからもうちょっと自信を持ってもいいよ」
「そ、そうなのでしょうか…」
「うん、だってあの人、自分が認めた人以外はものすごく毛嫌いする人だからね」
総司の言葉を聴いた佐々木が、また朗らかに笑った。
「そうだと嬉しいです」
素直に表情をころころ変える彼が、総司は幼い子供のように見えた。


仏光寺通りのおまさの店は、それなりに繁盛しているらしく客入りも多い。原田が慣れた風に暖簾をくぐると
「なんや、またきたん?」
と嫌そうにいう女の声が聞こえた。きっとまさだろうと苦笑して総司も暖簾をくぐる。 そこにいたのは小柄な可愛い女性だった。彼女は総司たちを見るなり表情を変えた。
「あら、いらっしゃい」
「俺の連れ。あんみつ四つ頼むよ」
「へい。お客はん。こっちへどうぞ」
まさが総司たちを案内したのは一番奥の座敷席だった。すぐにお冷を差し出したあたり、手際のよい女性のようだ。
「今日の方々も、まあ可愛らしいなぁ」
「おいおい、侍に向かって可愛いはねぇよなぁ、総司」
「何で私に振るんですか。佐々木君に振ってくださいよ」
総司が唇を尖らせると、その隣に座っていた佐々木が顔を赤くした。
「あ、照れてる」
「な、そ、そういうわけじゃありません!」
藤堂の指摘に佐々木はますます赤くなり、俯いてしまった。
「なあ、原田センセ。永倉はんは?今日はおらへんの?」
「へーいへい、俺より永倉かよ。おりまへん、おりまへーん」
原田のふざけた答えに、まさは「なんや」とガッカリした風に肩を落とした。傍から見れば夫婦漫才のようだった。
「ほな、少々お待ちくださいませ」
まさはくるり、と背中を向け奥へと帰っていった。

「ね、どうして永倉さんなんですか」
総司は身を乗り出した。
「それがさぁ。永倉のやつをここに連れてきてやったら、おまさちゃん、惚れちゃってさ」
「今は永倉さんにゾッコンなんですよね」
藤堂の付け足しに、今度は原田が不機嫌になった。
「なんだよー、へーすけまで馬鹿にすんのかぁ?そういや、お前はどうなんだよ、こっちのほうは」
こっち、といって原田が藤堂に示したのは左手の小指だ。それは隠語で「恋人」ということを指すらしいと、総司は昔、原田に教わっていた。
「残念ながら、俺これでも結構モテるんですよ?」
「かーっ!やだねえ、色男は!」
藤堂が茶化していうと、原田が彼の背中を強く叩いた。
藤堂は藤堂和泉守ご落胤だ、と自称している。それは半分冗談めいた言い方だが、品があって礼儀正しく 高貴な雰囲気を醸し出している辺り、あながち嘘ではない、と皆は思っている。実際には冗談でも何でもなく、本当のことなのだが。
「沖田さんはどうなんです」
「へっ?」
総司は突然話を振られ、驚いた。
「どうって」
「あー、平助。あのときも言っただろう?総司は土方さんとそういう仲なんだって」
「はぁ?!」
原田がいう「あのとき」の意味がいまいちわからなかったが、総司は別の言葉に驚いていた。
「そういう…って」
「そうだったんですか?先生」
総司の隣で尋ねたのは佐々木だった。だが佐々木は原田たちのようにからかった風ではなく、本気で真面目に尋ねているようだ。なお、タチが悪いのだが。
「あ、あの、佐々木君。皆の勘違いだから」
総司は必死に彼に弁明しようとしたのだが。
「間違いじゃねぇだろー?土方さんにあんなことや、こんなことも~?」
「原田さん!」
原田の好奇心いっぱいの顔に、総司は怒鳴りつけた。
古株の試衛館門人たちの前ならとにかく、まだ出合って間もない純朴な青年に間違った知識を植えつけられるのは、冗談じゃない。
「もー!そうじゃないっていってるじゃないですか!土方さんは兄弟子!副長!」
「いーや、違うね。お前は気づいてないかもしれないけど、土方さんのお前を見る目はなぁ、明らかだ!」
「はぁ?」
「芹沢や菱屋の妾がお前にとってどういう存在か、わかった上で過保護に立ち回ってる!その過保護さは尋常じゃないぜ。愛だ、愛!」
「もー!うちんとこの店で騒がんといてくれる?!」
ふっと人影が迫ったと思うと、バンッという音とともにお盆に乗せたあんみつが頭上から降って来た。 乱暴に置いたのはもちろんまさだ。不機嫌を顔にそのまま出している。
「原田センセ、あんさんの声が一番大きいんやけど」
「あー、すまんすまん、おまさちゃん。許して」
いつものように原田が頭をかきながら、軽く謝る。だがまさの不機嫌は直りそうもなくて
「いやや。今度騒いだら出て行ってもらうからね」
「そんなぁー」
とばっさり、切られてしまったのだった。

「じゃあ、佐々木君の話をしましょうよ」
あんみつをつつきながら、藤堂が切り出した。総司の話は打ち切りになったようだ。
「え?僕の話ですか」
「うん、大坂から来たんだって?都に来て、いい女はいた?」
「いえ…別に」
佐々木は俯いた。
「まあ、うちも金があれば廓を貸しきって女を買わせてやれるんだろうけどさあ。山南さん財布が硬いからなー」
原田が不満げに言った。
現在、隊の財政面を管理しているのは山南だった。無骨で真面目な山南は廓にいくことに余り気が進まないようで、なかなか金を出さない。総司にとってはそっちのほうが有難いのだが。
「あ、つかぬことを聞くけど、まだ女を抱いたことないとか?」
「え…っ?!」
佐々木が持っていた箸を落とした。慌ててそれを拾う仕草は、鈍感だと揶揄される総司にも余りに不自然に映った。もちろん目敏い原田や藤堂は察したようで
「あー、そうかそうだよねぇ」
一番歳の近い藤堂が同情し
「筆下ろしがまだかぁ」
と原田がからかうように言った。
佐々木は見る見るうちに頬を真っ赤に染め、視線を落としていく。総司はそれに気が付き 「佐々木君?」 と声を掛けるが、彼は慌てて立ち上がった。
「ちょ、ちょっと厠に行って参ります!」
総司たちに背中を向け、小走りに外へ走っていく。耳まで真っ赤になっていた彼はすぐに見えなくなった。
総司は食べかけのあんみつに手をつけた。女を抱いたことがない、という意味では彼と同じなのだが。だが、またそんなことを言うと話のネタになるだけなので、謹んでおこうと心に決めた。


一方。
佐々木はもちろん厠へは向かわず、仏光寺通りの人ごみに紛れた。火照った顔を冷まそうと思ったからだ。尊敬する先生方に囲まれるだけでも佐々木にとっては大事件で、それなりに緊張していたというのに、隠していた弱みを露呈されたことはとても恥ずかしかった。十九にもなって、いまさらだろうと言われても、佐々木は女性が苦手だった。もちろん、だからといって男が良いのではない。女性と話すのが苦手なのだ。
「…ふぅ」
佐々木の頭が冷静になってきた。厠に立つといって出てきたのだからそろそろ帰らなくては。そう思い立って踵を返す。
「きゃ…っ!」
「あ!」
佐々木の肩が大きな衝撃で揺れた。ドサッという音が聞こえ、慌てて閉じていた目を開けると一人の女性が、地面に座り込んでいた。
「す、すみません!大丈夫ですか」
「へ、へぇ。こちらこそ、えろうすみませ……いたっ」
佐々木が差し出した手を取って立ち上がろうとした女性は声を上げた。
「血が…」
女性の小さな手には擦り傷と共に、血が滲み出ていた。
佐々木は迷わず、懐から手ぬぐいを出し適当な大きさに歯で契った。それを素早く彼女の手に巻く。
「すみません。こちらの不注意で。家に帰ったら水で洗ってください」
「へ、へえ…おおきに」
佐々木はそのとき初めて女性の顔を見た。
女性というには幼い、少女だった。少なくとも佐々木よりは若いようで、派手すぎない若々しい明るい色の着物が良く似合っていた。髪には綺麗な飾りをいくつもつけ、それなりに金持ちのお嬢様らしい、と察した。色白で目が大きくくりっとしている。その瞳で見つめられ、佐々木はうろたえた。先ほど冷ましたはずの熱さが、戻ってくるかのように。
「ぼ、僕は壬生浪士組隊士の佐々木愛次郎といいます。もし、なにかあれば壬生に…では!」
「あ、あの…!」
佐々木は彼女の声を振り切って、また人ごみに紛れた。 彼女に火照った顔を見られたくない、と。ただそれだけを思った。


73
「なんやの。こないなとこに呼び出して」
梅は不機嫌な顔を隠そうともせず、目の前にいる男をにらみつけた。 何段あるか定かでない傾斜の大きい階段を上り、境内に待っていた男は予想していた人間ではなかった。
「そう怒るな。……いい女が台無しだ」
「あんさんに言われても、嬉しくないわ」
大柄で恰幅のいい男……芹沢鴨は何が楽しいのか「そうか」と大声で笑った。その声は境内に響く。
「うち、沖田先生に言われてここに来たんやけど」
「そうだろうな。うちの新見にそう言う様に言っておいたんだから」
悪気は全くない、という風に暴露する芹沢を見て梅はどうしようもなく怒りが湧き上がった。今日着て来た着物は新しく誂えて貰ったもので、涼しい青のそれを誰よりも彼に見て欲しかったというのに。
「総司が来ると期待したのか」
「……」
不躾な質問に、梅は表情を強張らせる。だが芹沢はさらに梅に近づいた。
「あいつが好きなんだろ?もう抱いてもらったのか?」
「……」
ゴツゴツとした凹凸のある手が、梅の顎を取った。無理矢理向かせるようにされ、梅は咄嗟に唇を噛む。
「菱屋の妾なんだろう?主人を落とした色香で総司を落としてしまえ」
「……あんさん、なんやの。何がしたいん?」
梅は震える身体を堪えることはできなかった。そんな梅をみて、芹沢はせせら笑う。
「俺はな、あいつがどこまで落ちていくかが見たいんだよ。初めて会ったときのあいつは、腹立たしいほど純粋で無垢なやつだった。それを俺の色に染めてやりたいと思ったんだよ」
「……っなんやの、異常や…っ」
梅は逃れるように芹沢の胸板を押し、二、三歩下がった。声が震えていた。目の前にいる男に一気に恐怖心が芽生えた。
「異常?……なるほど、異常か」
怒鳴るかと思った芹沢はくくっと笑った。だがそれが梅にはかえって不気味に映った。
「あいつはまだ女との情事も知らない餓鬼だ。俺は餓鬼を抱く趣味はない。だからさっさとお前があれこれ教えてやれよ」
乱暴な言い草は傲慢な主張だった。
「お前を抱いたあとの奴の顔が見たいんだよ。お前がそうしないんなら、仕方ない。俺が抱くしかない」
「…あんさん、なんで沖田先生をそない、扱うん?」
「さあ…。惚れてるからかな」

蝉の声がいやにうるさい、七月。 京での初めての夏が訪れようとしていた。

京の夏は暑い。口々に江戸組が不満を漏らし、一人、また一人と暑さに負けていった。 水あめを口にした総司は、土方と共に町を散策していた。散策、といっても総司が土方を無理矢理連れ出したのだが。
「なんでお前とこんな暑い中散歩しなきゃならねぇんだ」
「仕事ですよ。みんな暑いからってだれちゃって、使い物にならないんですよ。巡察くらい付き合ってください」
「その巡察ついでになんで水あめなんて買わされなきゃならねぇんだよ」
「だって財布忘れちゃったんです」
土方は不機嫌そう腕を組みなおした。
実は巡察の人数が足りないのは本当だが、総司は土方を外に連れ出したいと思っていた。というのも暑さからか、ストレスからか 土方の機嫌は暑さに比例して悪くなっていたからだ。そんな土方の周りにはぴりぴりとしたオーラがいつも流れていて 試衛館の面々でさえも近寄りがたい存在になっていた。そんな彼の気晴らしになれば、と思ったのだ。
「こんな暑さじゃ、長州の奴らも動かねぇよ。帰るぞ」
「何言ってるんですか」
総司は踵を返そうとした土方の袖を掴む。と、そこに目に入ったのは見たことのある男の顔だった。
「あ、佐々木くん!」
「…おい、馬鹿っ!」
彼は佐々木愛次郎といって、先月入隊したばかりの新入隊士だ。見た目は利発で整った顔をしていながら、礼儀正しいので誰からも好かれている。
だが、土方は総司の行動をみるなりぎょっとして、総司の腕をぐいっと引っ張ると物陰に移動した。
「もう、なにするんですか」
「馬鹿。女と一緒じゃねぇかよ。気を使えよ」
「えぇ?」
総司は物陰から佐々木を窺った。
確かに佐々木の隣には女…というにはまだ幼い少女が歩いていた。明るい着物に身を包み、綺麗に鬢付けされた髪は可愛らしく彩られている。佐々木となにやら楽しそうに会話を弾ませていた。
「へえ…知らなかったな」
「お前が知ってるわけねぇだろ。俺は山崎からは聞いてるけどな」
「え?」
山崎というのは監察方として佐々木と同時期に入隊した男だ。大坂弁を話す彼は気前がよく、土方に重用されている。
「大店の一人娘らしい。名前はあぐり、まだ14だそうだ」
「へぇ…」
ちょうど総司たち横を通り抜けた二人はまるで恋人のように寄り添っていた。あぐりという少女のほうは頬を赤く染め、潤んだ瞳で佐々木を見ていた。その瞳の奥に隠れた思いは総司でさえ察することができるほどあからさまで。思わず微笑んでしまう。
「お似合いじゃないですか。よかったなあ」
「よくねぇよ。俺たちはまだ浪人の身分だ。大店の娘なんて嫁に貰うことはできねぇさ、だいたい親が許さねぇ」
「…ずいぶん話は飛躍しますね」
呆れ顔で総司がみると土方は顔を逸らした。自分が面白くないらしい。
「…土方さんも、遊郭とかにいけばいいじゃないですか。屯所で鬱憤をためると皆が迷惑します」
「そんな金、どこにあるのか教えて欲しいな」
「……」
総司は黙り込む。
「…つうか、そんなことしている場合じゃねえんだよ。芹沢の奴、いつ暴走するかわかんねぇんだからな」
「まあ…そうですね」
総司は何となく空を見上げた。澄み切った青い空は、いつかみた空となんら変わりないのに。

それからすぐ、総司は土方と別れた。というのも総司が甘味屋に誘うと「これ以上は付き合いきれない」と踵を返してしまったからだ。 結局土方の不機嫌を加速させてしまったようだ。 総司はため息をついた。
ここのところ、土方とろくに話をしていない。土方が多忙なのもあるが、彼と話していると大体芹沢や梅の話題になってしまうのだ。
異常なほど過保護に「近づくな」「会うな」といわれるとかえって苛立ちを感じてしまう。その理由を土方が語ってくれないからだ。
(特に、梅さんなんて何の害もないのに…)
あれだけ女好きの土方が梅に目もくれないのが総司には不思議でならなかった。
「あ」
逡巡しながら歩いていると、目の前にその人物がいた。
「お梅さん」
涼やかな青に染め抜かれた着物を纏い、彼女は川べりを歩いていた。総司の声に酷く驚いた様子だった。
「……沖田センセ」
「どうしたんです?こんなところで会うとは思わなかったなぁ」
二人が歩いていたのは川べりに続く畦道だ。子供が河に遊びに来ているくらいで人もいない。その先の道は山奥へと繋がっている。
「少し…用があって」
「そうですか。…どうしたんです?顔色が悪いですよ」
総司は彼女の顔を覗き込んだ。真っ白な肌が少し青ざめているように見えた。
だが梅はぱっと顔を逸らし首を振った。
「いえ、いえ。なんでもおまへん」
「本当に大丈夫ですか…?少し休憩されたほうが…」
「……」
総司はふと、彼女の着物に目を落とした。遠くからなら鮮やかな青に映ったその着物だが、どこか汚れている。砂埃に塗れたような、所々には破れた様な箇所があった。小奇麗に身なりを整えている梅には似つかわしくない姿だった。
「――…やっぱりなにかあったんですね?」
「……」
「とにかく、この近くに茶屋がありましたから、行きましょう」
総司は梅の肩を押すようにして並んで歩き始めた。俯いたままの梅は総司と一度も目を合わせようとはしなかった。


「何があったんです?」
茶屋につき、奥座敷に通してもらうと総司は早速問い詰めた。向かい合った先に座る梅はなおも目を逸らし続けていた。よく見れば彼女のふっくらとした唇からは鮮血も見られた。殴られたような腫れもある。
「……あの、こういうのはお聞きしてもいいのかわかりませんけど」
「犯されたかって…?」
梅は微笑を浮かべた。嘲笑うかのように。
「お梅さん…?」
「心配することはおまへん。……うちは妾やし、慣れとるんどす」
口調は強気だが、彼女の瞳には光るものが見えた。
「お梅さん、相手の男は誰なんです?なんだったら捕まえて町奉行に引き渡すことくらい、できるかもしれません」
「そないなことできません。だって…相手は芹沢先生なんやし」
「…え?」
総司は目を見張った。
「芹沢先生が…?」
「……ほんまに、知らへんのや…」
梅が呟く。その表情は和らいだように見えた。そして緊張が解れたのか、その目から涙が一筋流れた。
それは総司にとっても扇情的な姿だった。
「あの…」
「うちに俺の妾になれって……」
「そんな…」
総司は彼女を慰める言葉が上手く出てこなかった。目の前で涙を流す梅を励ますこともできず、歯がゆい気持ちになる。
「あの、芹沢先生には私から言っておきますから、…その、土方さんにも話を通して、いいように計らってもらいます」
その言葉にも梅の反応はない。どうすればいいのかわからず、総司は彼女を見る。
「そんな痛みに、慣れちゃ駄目ですよ。哀しいことに慣れてしまうことなんて、そのほうがもっと哀しい…」
いつか、昔、姉のミツに言い聞かされたことだった。哀しいときには哀しい、と涙を流し、いつだって感情に素直であること。
それが一番自分らしいのだとミツはいっていた。
すると、梅は涙をぬぐい、総司のほうに向き直った。その黒い瞳が総司の瞳を捉える。
「やっぱり、……うち、沖田先生が好き」
「――…え?」
「こんなのはしたないって思われるかもしれへんけど、……うちは、できるなら沖田先生の妾になりたい」
あまりにもはっきり告げられ、総司は二の句が告げなかった。上手く言葉の意味が理解できない。
「あ、あの…お梅、さん?」
「沖田先生は白や。何にも染まっておらん絹みたいに純白。それがいつもまぶしくて綺麗で美しおして…。うちはその色にいつも憧れてた。……だから、うちもその色に染まりたい」
梅がその細い腕を総司の首に絡ませた。寄りかかるように身体を寄せられる。総司は思わず顔を赤らめた。
「軽蔑されても構へん。……うちを抱いてください。それだけで、もうええから…」
「ちょ…っ」
寄り添われるだけで高鳴った胸が、梅が総司の素肌に触れたことによって加速した。梅が総司の首筋に顔を埋めそこを吸った。女の匂い。化粧の匂い。温かいぬくもり… 初めての体験に総司は息を呑んだ。
「あの、お梅さん!」
「…その白を守るためならなんでも出来る。そやし、思い出でええの。この夜だけを抱いて、死んでもええ…」
「…お梅、さん?」
梅が悩ましげにその眉をひそめていた。大粒の涙を流しながらいう抽象的な言葉は、総司にはよく理解ができなかった。
ただ、梅がやりきれない思いを抱いていることはわかった。
すると梅が完全に総司に寄りかかり、彼女が上になる形でバランスを崩した。だが、畳に倒れこんだ傷みはすぐに消えた。 下から見上げた梅は、壮絶的に美しかった。乱れた髪が欲情を誘い、涙を流した姿は絶世の美女でも敵わない。
「お梅さん…」
「はしたないでしょう…?うちはこんな女なんや…」
彼女は帯を解くと、その素肌を空気に晒した。顔よりも白い透き通った肌には、痛々しい傷もあったが神秘的なまでに
その姿は華麗としかいいようがない。 だが、総司は耳まで真っ赤にして目を逸らした。
「先生、みて。こっち、みて」
「だめ、ですって…。お梅さん、正気に戻ってください…」
「お願いやから……うちのこと、抱いて。今だけで、いいから…」
聞いたこともない涸れそうな彼女の声が、鼓膜で木霊する。 梅に何があったのか、総司には想像できなかった。


「もう痺れを切らしておってな。そろそろ土方から完全に奪い取って総司を組み伏せてやろうかと思っている」
「そんなん…っ!」
「嫌だろう?嫌なら、はやく抱かれておけよ」
境内で聞いた芹沢の言葉は宣告に近く、妙に現実感があった。 目の前にいる男は本当に人間だろうか。そんなことを疑ってしまうほど、芹沢は不気味な微笑を浮かべていた。
「梅。お前は総司と似ている。瞳の強さ、肌の白さ……お前が妾になるというなら、あいつを諦められるのかもしれないな」
「!」
「どうする?」


74
夏の太陽が襲ってくるように暑い。

「おい。どうしたんだ?」
八木邸の立派な門を走りぬけ、夏の暑さとあがっていた自分の体温で汗だくになったまま、駆け込むように玄関になだれ込んだ。そんな総司をちょうどそこを通りかかった土方が怪訝そうにこちらをみて驚いた。それほどまでに慌てていたのだろう。総司はままならない息のまま、彼を見上げた。
「ひじ…かた、さん」
「どうした?なにかあったのか?」
土方の表情がだんだんと真摯なものに変わり、総司はなぜかほっとして「水…」と呟いた。 いつもなら不機嫌そうな顔をする土方だが「わかった」と返事をすると台所へ早足で向かっていった。

総司は土方が持ってきた水を飲み干した。呼吸は落ち着き、噴出していた汗も止まったが、どくどくと高鳴る胸が
まるで病気になったかのように止まらない。目を閉じればあの卑猥な光景が焼きついていた。隣で総司を眺めていた土方が、
「お前、おかしいぞ」
と総司の顔を覗き込んだ。
「おかしい…って、なにがですか」
「顔色が悪い。お前も暑さにやられたのか?」
土方がその大きな手を総司の額に当てた。ひんやりとした彼の手が気持ちよかったが、一瞬肌が強張るほど緊張した。その様子に気がついたのだろう、土方がそのまなざしを鋭くさせた。
「まさか…芹沢と、何かあったんじゃないだろうな?」
「芹沢…先生…」
総司は目を逸らした。
今まで湧き上がってこなかった芹沢への嫌悪感が一気に噴きあがった。
梅を強姦したこともそうだが、あの綺麗なまなざしが芹沢によって汚されてしまったのかと思うとやりきれなさを感じた。
……彼女は変わってしまった。
総司は自然と拳を握り締めていた。
「土方さん、お願いがあります」
「なんだ」
「お梅さんを…どこかに逃がしてやってください、この京から追い出してください…!」
「総司…?」
首を傾げる土方に、総司は土方の襟につかみかかった。
「お願いです!はやく、はやくそうしてください…っ」
「おい、待てって。総司、ちょっと落ち着け」
逸る気持ちを抑え切れそうもなかった。
梅に嫌悪を感じるのではない。もっと、深い闇まで、彼女が落ちていってしまうことが何よりも恐ろしかった。あの男の手によって。
総司の脳裏に浮かんだのは、芹沢と始めてあった童のときのこと。

『…汚してやりてぇな…その目』

あのときの芹沢こそが、彼の本質なのだ。人を陥れて、その様子を楽しんで、嘲笑う。なんて、最低な男なのだろう…。

「それは困るなあ、総司」
土方につかみかかった総司の後ろで、野太い男の声がした。その声を聴いた瞬間、体中で鳥肌が立った。
「…芹沢先生」
ふてぶてしくも何事もなかったかのように悠然と立つ芹沢は、今日は酔っていない様子だった。だが、酔ってないからこそ、総司の嫌悪感はさらに増した。
「梅は俺の妾になるんだぞ、追い出されちゃあ困る」
「芹沢先生、何をおっしゃているんです。相手は菱屋の妾でしょう」
土方が言い返すと、芹沢は不機嫌そうに眉をひそめ、「ふん」と鼻で笑った。
「土方君には関係ない。あの女はとっくに菱屋から追い出されておる」
「え…」
総司は驚いた。彼女は一言もそんなことを言わなかったのだ。
『うちは、できるなら沖田先生の妾になりたい』
あれは現実逃避の言葉ではなく、彼女の本心であり、願いだった――総司は唇を噛み締めた。
芹沢は一、二歩近づく。総司は思わず、土方に縋りつくように抱きついていた。
「総司。……梅を抱いたか?」
「…は?」
驚いたのは土方だった。総司は土方の腕の中で小さくなるだけで、芹沢のほうを見もしなかった。
「どういう、ことですか。なぜ」
「…抱かなかったのか?総司」
土方の言葉を無視し、芹沢は総司に問いかける。その視線はまっすぐ総司へ向いていて、それは背中を向けていながらも感じた。
それと同時に土方の視線も感じ、総司はどうしようもなく目をギュッと閉じた。
「……ふん、じゃあ賭けは俺の勝ちだな」
芹沢が独り言のように呟く。総司はハッとして芹沢のほうへ振り返った。
「芹沢先生!お梅さんに、何をしたんですか…っ、賭けって…!」
「お前には関係ない。とにかく賭けは俺の勝ち。あの女は俺の妾になる。――…生け贄みたいなもんだ、あの女も哀れだな」
総司が何も言い返せないでいると、芹沢が踵を返して去っていった。その背中は大きくて、総司はただ、眺めることしかできなかった。


「総司。どういうことか、説明してもらおうか」
玄関先での大声の会話は筒抜けだったようで、周りの隊士の注目を浴びてしまった。そのため土方が引きずるように総司を自室に連れ込み全部話せ、と迫った。
だが、状況がわかっていないのは総司も同じだった。芹沢が最後に呟いた「賭け」という言葉が頭の中で反芻しているだけだ。
「…どういう、ことって…」
「いろいろ気になることはあるが、……お前、梅を抱いたのか?」
その言葉に、少し沈黙して総司は首を振った。
「……芹沢先生に、お梅さんが強姦されたって…そのことでいろいろ話をしているうちに…その、お梅さんがいきなり…」
「…ちっ。やっぱりあの女、淫婦だったか」
「違うっ!そうじゃない…っ」
土方が毒づいたのに、総司は異常に反応した。
「あの人は、本当に、本気で……抱いて欲しいって。泣きながら縋ってきたんですよ?」
「総司…」
「一度だけでいいから、思い出にするからって。……でも、できなかった。私は逃げ出したんです」
痴態を晒してまで懇願した彼女を、総司は押し切って逃げ出した。哀しげに「先生!」と叫ぶ声を無視し、ただひたすらに逃げた。
恐ろしかったのだ。
いつも澄んだ瞳で微笑み彼女が、霞んで見えた。まるで別人のように。
「…なるほど。もしかしたら、梅を菱屋から追い出したのも芹沢が画策したのかもしれねぇな。逃げ場所をなくして、女を丸ごと飲み込むつもりなんだろう」
吐き気がする。
一度でも芹沢を「優しい人かもしれない」と思った自分を疑ってしまうほど。……こんなにも、誰かを憎むのは初めてかもしれない。
「土方さん」
「ん?」
「…もし、彼女をあんな風にしてしまったのが芹沢先生だとしたら…」
「おい」
「私はいつ、あの人を殺すか、わからない」


「…なあ、総司。お前はあの女が好きなのか?」
「え?」
「一瞬でも、抱いてもいいと思わなかったのか?」
土方の問いに総司は俯いた。
「…なんでだろう。全然思わなかった。……きっとそういう感情でお梅さんを見てないから。あの人は…少し、姉さんに似てるからかな」
「そうか?」
総司の姉を幾度となく見たことがある土方は首を傾げたが、外見の問題ではない。
儚げで折れそうなのに、雨が降っても嵐に吹かれても枯れたりしない。高潔で、可憐で。 ――だからこそ、あのときに梅の恐ろしいほどの情欲が信じられない。
「でも、だからこそ、守ってあげたかった…」
本当に勝手な感情だと思う。彼女が自分に向ける気持ちとは明らかに違うのに。総司は自嘲した。なんて中途半端なのだろう、と。
「総司」  
強く、はっきりとした口調で目の前の男が名前を呼んだ。そして無遠慮にも彼は強引に総司の腕を引き寄せる。
「土方さん?」
「私怨で人を殺めるな。…わかっているな?その先に待っているのは一生続く闇だ」
「……はい」
真摯な土方の表情に総司は頷くしかなかった。
その言葉は一番身に沁みた。思わず、感情的になって芹沢への殺意を口にしたが、それは自分が弱いからだ。
そう、土方に指摘されたような気がした。
「芹沢のことは俺に任せろ。お前はこれ以上関わるんじゃない。わかったな?」
「…はい」
耳元で囁くように言い聞かされ、まるで親のようだと総司は苦笑した。そしてそのまま土方は総司の肩に額を落とし、ため息をつく。
「土方さん、暑いですよ。離れてくださいって」
「ったく…色気がねえな。しばらくこうしてろよ」
まるで抱き合っているように身体が重なり、総司は既視感を感じた。だが、梅を目の間にしたときのような嫌悪感が沸かないのは何故なのだろう。梅が触れれば強張った場所が、彼になら簡単に許していく。
それどころか、むしろ酷く安心する。
「本当、焦った。……お前が、女を抱いたんじゃないかって」
「…どういう意味ですか」
総司が憮然と反論するが、土方は顔を埋めたままだ、表情が見えなかった。
「なんか……安心した」
「嫌味ですか?」
「自分で考えろ」
すると突然、土方がそのまま総司の首筋に噛み付いた。小さな痛みを感じ「いたっ!」と思わず土方を押しのける。
「もう、なにするんですかっ!噛み付かないでくださいよ」
「……ガキ」
土方は深いため息をつく。総司はその意味がわからず、噛み付かれた痕を擦りながら首をかしげた。


75
「ああ…やっぱり似合うな」
見上げた芹沢の瞳に映るのは本当に自分の姿なのだろうか。 同じ赤に身を染めた、違う姿なのではないだろうか。
「これを貰う」
「へえ」
芹沢の言葉に、店のものはあまりいい顔をしなかった。当然だろう、踏み倒されるに違いないとわかっているからだ。
足元に広がる着物の数々を見て、梅はため息をついた。
この男は病気なのではないだろうか。
店のものが去ると、梅は言った。
「…沖田センセに着て欲しかったんやろ…?」
赤い着物は似合わない。
菱屋の旦那にも、世話になった遊女屋でも言われたことだ。だが目の前の男は苦笑した。
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないな」
曖昧な返事をしながら酒を啜るこの男が、少し寂しく見えた。この男は決定的にどこかが堕落している。


壬生、八木邸。
「ほら、見ろよ。あの女…」
「やっぱり妾になったんだなー…」
若い、いろんな意味で血気盛んな平隊士たちが梅に向ける視線は、好奇めいたものか、批判めいたものかそのどちらかだった。
芹沢の妾ということで手を出してくるような男はいないが、まるで目で犯されているような錯覚を覚えた。
「菱屋の妾だったんだろう?」
「ああ。離縁されて芹沢先生に頼ってきたそうだが…。さすが、世渡り上手、床上手ってとこか?」
隊士たちの嘲笑が聞こえ、廊下を歩く梅は知らず知らずのうちにため息をついていた。
この壬生に来て3日目。自分で決断したとはいえ、慣れることはできそうもなかった。
(どうして、うち、こないなとこおるんやろ…)
菱屋から離縁され、行く場所がなくなったとはいえ、ここが最良の場所とは思えない。それに、ここにいるだけで胸が苦しい。
「……あ…」
ふと顔を上げると目の前に総司がいた。総司のほうも刹那驚いた顔するが、すぐにもとの表情に戻った。
(…軽蔑、してはる)
総司の目が完全に冷め切っていた。目が合うだけで、どうしてここにいるかと尋問されているような気がした。
芹沢に陵辱される痛みよりも、その瞳で見つめられる痛みのほうが鋭く突き刺さる。以前のように名前を呼んで、笑ってくれることさえもないのだろうか。突き刺さるその事実は、何よりも耐え切れそうもない。梅は目を逸らし、総司とすれ違った。


「芹沢先生。会津公用方広沢様がいらっしゃってます」
総司は芹沢のいる離れを訪れた。以前は八木家の人々が使っていた場所だが、芹沢の風通しがいいという我侭でこちらに移ったのだ。そこにはやはり、昼間にも関わらず酒を飲みながら横になる芹沢がいた。既に鼻の頭が赤く染まっている。
「ああ。わかった」
「では…」
「待て」
去ろうとした総司を、芹沢が鋭く呼び止めた。だるそうに身体を起こし、総司を見る。
「…梅のことをどう思っている?」
「どう、とは?」
「梅を抱いてやらなかったそうじゃないか。お前も顔に似合わず、可哀想なことをする」
総司は居住まいを正した。真正面から芹沢と向き合う。
「何の気持ちもないまま、そんなことはできません」
「…お人よしだな」
「そういわれても構いません」
きっぱりと断言した総司に、芹沢は尋ねた。
「…憎いか?俺のことを恨めしく思っているのか?」
言葉とは裏腹に、芹沢の表情は明るいものだった。常人が聞けば、頭が狂っているのかと問いただしたくなるだろう。
しかし、総司はまっすぐ芹沢を見た。
「はい」
「………」
芹沢の酒を呑んでいた手が止まった。少し、芹沢の目に動揺が現れていた。
「お梅さんをあんなにしてしまったのはあなたです。私は貴方が許せない」
「…あんなに、とはどういうことだ。あの女はもともとああいう女だ。所帯持ちの男に縋って生きていた。それを俺が引き取ってやったんだ」
「違います。私はお梅さんの気持ちはわかりません……けど、あの人の目は澄み切っていた。あの人の目を淀ませたのは貴方です」
「……ははは」
少しの沈黙のあと、芹沢が噴出すように笑った。
「ははは…。そうか…なるほど、淀んでいるか。……総司」
「…はい」
「淀んでいるのはお前も同じだぞ」
「……」
芹沢が酒を置いて、総司に近づいた。頬を鷲掴みするようにして持ち上げ、そちらに向かせる。
「随分、お前も汚れてきたじゃないか。お前は俺に反発しているつもりかもしれないが、俺の言ったとおりにお前は変わっている。どう足掻いても、俺の思うとおりになってきているってことだ」
「……私は…」
「憎しみ、憎悪、恨み、殺意…どれも江戸にいたお前にはなかったものだ。だが、それが今は表情に表れている。…総司、俺を殺したいだろう?」
総司は息を呑んだ。
芹沢の表情がまるで愉快犯のように笑っていたからだ。それが底抜けのない微笑だった。
「総司、真実を教えてやる。あの女はお前の代わりに俺の妾になったのさ」
「え?」
「わからないのか?俺はお前が欲しい」
芹沢は総司をさらに引き寄せた。口付けされると思い、総司がぎゅっと目を閉じる。
しかし、触れられた場所は頬だった。厚い舌が頬をべろりと舐める。じっとりと感じた生暖かい感触に、背筋が震えた。
「…っ、失礼します」
芹沢の腕を払いのけ、総司は早足で芹沢のもとを離れた。触れられた場所が、蝕まれていくように感じた。

「さっき総司が来たぞ」
芹沢が何のことでもないように梅に投げかけた。会津公用方に会う準備を手伝ってくれ、といわれた梅は芹沢の身支度を手伝っていた。
「…そう」
「本当におかしな奴だ。お前の目が澄んでいたといっていた…淀ませたのは俺だとよ」
「そう…」
芹沢の言葉を聞いても、とても信じられなかった。梅の脳裏に刻まれていたのは、あの軽蔑をこめた総司の瞳。金に目がくらんで、芹沢の妾になったと、そういう意味をこめた侮蔑の感情。
「梅」
唸るように呼んだ言葉に、顔を上げる。
「淀んでしまった水は、元には戻らない。……でも総司は違うだろう。あいつはきっと汚れない」
芹沢は笑っていた。
「…ええね、羨ましい」
「ああ、そうだな」
ふと、梅は目の前の男が自分に似ているのではないかと思った。
誰かに向ける愛情を持て余しすぎて、何かを見失っている。それが狂気とも言える感情に変わっていることに気づかず、同じ人を見ている。
「芹沢センセは、なんで沖田センセが好きなん…?」
「惚れてるとは思うが、好きだとは思わねぇな」
「…よぉわからん」
「俺にとってあいつは御仏みたいなもんさ。傍にいればまるで自分が許されるように感じる。だが、その高貴さが疎ましくも思う。 だから、はやく俺みたいに汚れてしまえばいい…」
異常だと罵った先日よりも、梅はその言葉がすとん、と胸に落ちた。
そうだ。あの人は白すぎる。純白よりも白い。
だからこそ、その色に染まりたいと思い、また自分の色に染めたいという欲情に駆られる。誰もが捨ててしまった白さが羨ましくて、憧れて……けれども、妬ましい。
芹沢が背中を向けて、刀を持った。梅は身だしなみを整えた芹沢の姿を見るのは初めてだった。戸惑うほど憮然と立ちつくす姿は武者絵のそれに等しい。梅はそれまで芹沢を酒に溺れただらしない人間だと思っていた。そしてそんな男を頭領に据えるこの浪士組がどれだけ愚かかと思った。
しかし、納得した。彼の地に足をつけた立ち姿は、組長そのものだと。
「しゃべりすぎた」
「……そうやね」
梅はこの男が始めて人間に見えた。そしてなんて不器用な人間だろうと笑った。背中にそっと額を当てた。
「おい。…どういう風の吹き回しだ?」
「うちのこと、沖田センセに似とるから囲うてくれるてゆうたけど、どこが似とるん?こんな女…誰も欲しがらへんよ」
「…どこも似てないさ。お前を抱いて、心底そう思った」
少し、少し、愛おしいと思った。


「本当に、居ついちまったなあ…」
不機嫌そうに離れを見ながら、土方がぼやいた。会津公用方が去り、やっと落ち着いた頃だ。
「…でも、お梅さんに赤い着物は似合わないですよね…」
総司もつられて呟く。季節柄ということもあるが、梅にはあまり似合わない気がした。
「…へえ、お前でもそういうこと感じるんだな」
「あ、失礼ですね」
総司の中では梅のことは整理がついていた。
いつか芹沢への憎悪が頂点に達したとき、土方によって何らかの行動が あり、梅が解放されるのだと。 そのために彼女への特別な配慮は捨てなければならない。いつか笑って話ができるあの澄んだ瞳が見られるのだと信じて。

けれども
『俺はお前が欲しい』
あのときの芹沢の顔が、哀しく切ない瞳が、脳裏に焼きついて離れないのは、どうしてなのだろうか……。
総司には何の結論も見出すことはできなかった。


76
文久三年、七月末。暑い京の夏はまだまだ続くようだった。


土方に呼ばれ、彼の部屋に赴いていた総司は彼からの意外な言葉に目を見張った。
「佐々木くんですか?」
「ああ。呼んできてくれ」
相変らず不機嫌そうに筆を滑らせながら通達されたのは「佐々木を呼び出せ」の一言だった。総司はしばらく沈黙して、首をかしげながらもう一度尋ねた。
「……佐々木くん?」
「しつこいな。佐々木だよ、佐々木愛次郎!」
とある大店への借用書を書き終えた土方は、乱暴に筆を置いて総司に向き直った。そこにはいまだきょとん、と呆けたままの総司がいた。
「なんだよ、何か不満でもあるのか?」
「それはこっちの台詞ですよ。佐々木くんに何か不満でもあるんですか?」
土方はまた不思議そうな顔をした。
「まだ何も言っていないだろ?」
「だって土方さんからの呼び出しなんて、皆良い顔はしませんよ。大体何かやらかした人ばかりだし」
土方からの呼び出しは平隊士にとって、一番の恐怖らしい。特に今は不機嫌の絶頂で、皆気に障らないように、と知らないところで気を使っているのだ。
「佐々木くんは特に真面目な人ですよ。何かあったんですか?」
「…いいから、呼べって。俺が直接行くより、お前のほうがいいだろ。別にあいつに問題があるんじゃねえから」
「じゃあなにが?」
「いいから」
総司はため息をついた。
「……最近、土方さん不機嫌すぎますよ。皆怖がってるし」
「怖がられているほうがいいさ。そういう役どころだからな」
「…そりゃ、そうかもしれませんけど」
土方は眉間にしわを寄せて、ため息混じりに総司に背中を向けた。また筆を握り、借用書を書き始める。
「…ちょっと、寂しいです」
総司は立ち上がり、部屋を去った。


佐々木が訪れたのはそれから少しあとだった。稽古をしていたらしく、上気し、少し赤みががかった顔で部屋を訪れる。 やや緊張した面持ちで頭を下げた後、土方に向き直った。
土方は改めて彼が精悍な顔立ちをしていることを確認した。美丈夫ではなく、年齢からも美少年という言葉がよく当てはまる。彼に言い寄る隊士も多いと聞くが、庇護欲がそそられるのだろう。土方も納得がいった。
「あの…どのようなお話でしょうか」
呼び出したものの、口を開こうとしない土方に痺れを切らしたのか、佐々木が躊躇いがちに尋ねた。
「あ、ああ…。実は俺の私情が混じった話なんだが」
「…え?」
相当構えていたのだろう、土方の切り出し方に佐々木の緊張が少し解れたようだ。
「私情…とは?」
「お前の女のことなんだが」
土方が、佐々木の顔を窺う。案の定、真剣なまなざしをした。こいつは監察には仕えないな、と苦笑しつつ、言葉を紡いだ。
「悪いが調べさせてもらった。隊で噂になっていることは把握しておかないと後で面倒だからな」
「それは構いませんが…」
彼は言葉を濁した。大体のことに察しが着いていたのだろう。
「あぐりといったな。年頃の大店の娘だそうじゃないか」
「ええ、一人娘だそうです」
「親とは会ったのか?」
「はい。…お優しいご両親でした」
ほう、と土方は少し驚いた。新撰組の悪評があぐりの親に届かないわけはないだろう。それでも佐々木のことを認めたのは、よほど佐々木のことを気に入ったということだ。
「…で、相手は町人だが名字帯刀を許された身分だ。お前の生まれは武士だから別に不釣合いではないだろう」
「そこまで…。さすが、監察方の皆さんですね」
「ああ。それで、どうするつもりなんだ?」
土方は佐々木を見た。
「別に所帯を持つことを禁止しているわけじゃねえが…まだ平隊士の身分だ。手当てもたいした額じゃねえし、所帯を持つには まだ早いと考えるが。まあ…こっちにも不安要素が多いし、できるなら目立つ真似は避けたほうがいい。だが、逆に考えれば所帯を持って妻とすれば、法度上、手を出されることもないし、安心かもな」
土方が言葉をにごらせたのは芹沢のことがあるからだった。
今、芹沢には梅という対象がいるが、その目がいつあぐりや総司に向けられるのかというのは土方には予想がつかない。 佐々木とあぐりが所帯を持てばある程度、芹沢の行動も制限されるだろうが、逆に佐々木をねたみ、疎ましく思うかもしれない。
だが実際、芹沢のことだから、人妻に手を出してもおかしくはないのだが。
「一応お前の意思を確認しておきたいんだ」
最近の土方の悩みの種の一つはこれだった。
これを危惧して、佐々木とあぐりを別れさせることもできたかもしれないが、それを総司は許しはしないだろう。一番安全な手段だが、周囲が祝賀ムードなので、踏み切れないでいた。 しかし、佐々木は意外にも驚いた顔をした。
「先生。お待ちください、私はまだそんなつもりはありません」
「そうなのか?」
「私も…彼女もまだ若いですし、会って一月も経たないんです。それに私はまだ自分の両親にもなにも…」
「俺が後見人になってもいいんだが。まあ、近藤さんのほうがいいか」
「そんな!」
佐々木は驚いたのか、大声を上げた。
「まだ私は修行中の身分です。こんな若輩者の私が所帯を持って、彼女を幸せにすることなんて、できません」
「……」
素直な青年だ、と土方は思った。そしてその素直さは総司に似ている。
『お梅さんを……どこかに逃がしてやってください、この京から追い出してください…!』
必死に叫んだあのときの形相は、総司らしくなかった。感情のままに叫ぶ総司を見て、心底土方はまだまだ子供だと思ったのだ。
そしてその発想も。
「……土方副長?」
「あ?ああ、いや。なんでもない」
自然に顔が綻んでいたらしい。土方は咳払いを挟み、再び佐々木と向き直った。
「とにかく、縁談を進めるときはまず俺に相談してくれ。その女との関係に口出しするつもりはないが、いろいろ手回しがいるからな」
「…はい、色々とありがとうございます」
佐々木は小さく頭を下げた。


土方の部屋を出た佐々木は小さくため息をついた。安堵のため息だった。
総司から呼び出しを受けたときはてっきり何かしでかしてしまったと思い込んだ。周囲からも「大丈夫か?」と心配され見送られた。まるで痛ましいものを見るかのように、皆が合掌していたのだ。
「よかった…」
しかし、あぐりのことを持ち出されたときはさすがにドキドキした。 てっきり大店の娘との関係を絶てとばかり言われるものだと思っていた。そのときは、この隊を辞す覚悟をしなければならないと 思った。
親に反対されて、勘当覚悟で家を飛び出した。この混乱の世の中で自分が何かできるのではないだろうかと志を持った。 だが現実はあまりにも厳しく、どうやって生活していこうか、そのことで頭がいっぱいだったとき聞いたのが浪士組のことだった。新しい隊士を募集していると聞き、飛びついた。
平凡だった自分の才能を認められ、採用されたときは本当に嬉しかった。
そしてその喜びはあぐりとであったことで、さらに大きくなった。
彼女の天真爛漫でおおらかな性格は、佐々木にとって心のよりどころとなっていた。暑い夏でも厳しい稽古にも立ち向かっていけた。彼女の存在で自分は支えられている。繋いだ手を二度と離したくないと思うほど。

だから、まさかこんなことになるなんて、思わなかった。


「佐々木くん」
「あ、…佐伯さん」
佐々木は声を掛けた人物を見ると、顔が強張りながらも笑顔で会釈した。そこには芹沢の取り巻きの一人である佐伯又三郎がいた。 大柄で太り気
味の彼は新入隊士試験以前に入隊した男で佐々木にとっても先輩に当たる。
だが、芹沢の取り巻きとして大きな顔をし、最近は土方や山南に意見することもある、と聞いていた。佐々木にとっても 苦手な人物だった。
「皆を飲みに誘うおうと思ったんだが、佐々木くんはどうだ?」
「え、あ、すみません、酒は苦手で…」
「そうか」
佐伯は残念そうな顔を作ったが、それが偽ものであることは佐々木でさえもわかる。
めったに飲みになど誘わない彼は、たまたま見かけた佐々木に仕方なく声を掛けたのだろう。だが、佐伯は「うーん」と唸りながら言葉を紡いだ。
「こういうのはあんまり言わないほうがいいかもしれないんだがね、君、女がいるだろう?」
「え…」
「芹沢先生が狙っているみたいだから、気をつけたほうがいいんじゃないかな」
にやり、と笑ったその顔に、佐々木はぞくりと背筋が凍ったように思った。「芹沢」。何よりも恐れていた名前に、佐々木は何も言えず、ほくそ笑みながら通り過ぎていく佐伯をただ黙ってみていた。


77
「やぁっぱり、何か言ったんでしょう?佐々木くんに」
少し怒った様子で土方の部屋を訪れたのは総司だった。文久三年の夏、真っ盛り。


「……何の話だ?」
「どうしたんですか?沖田君」
土方が不機嫌そうに総司を見る隣で、同席していた山南が不思議そうに尋ねた。金工面の話をしていたのか、山南の手には算盤が握られていた。土方の、意外にも繊細な文字が並べられた借用書を下敷きにしている。
「あ、すいません…お邪魔でしたか?」
「いやいや、もう終わったところだから」
「お前、俺に聞けよ」
土方が呆れ顔で総司を見上げていると、山南が「じゃあ」と何枚かの書物を持って部屋を立ち去った。
その背中が疲れて見えたのは、間違いではないだろう。土方も頭を抱えていた。
「…また、芹沢先生の借用書ですか?」
「梅が来てからまた激しくなった。呉服屋ばっかりだ」
うんざりした様子で土方が書きかけの借用書を片付ける。「お前に見せても無駄だろ」と言わんばかりに詳しい説明はしてくれない。
梅が妾として居座るようになってから、もう二週間が過ぎていた。おかげで廓で大騒ぎをすることはなくなったが、新たな悩みの種は増え続けているようで、土方の眉間のしわは多くなっていくばかりだ。そして比例するように土方の口数も減っていた。
「…それで、何だって?」
「あ、…そうだ、佐々木くんのことですよ。何か言ったんでしょう?」
「別にたいしたことは言ってないけどな」
「嘘ばっかり。じゃあ佐々木くんのあの落ち込み様はなんです?」
総司が口を尖ら、鼻息を荒くしたが、土方にはまったく心当たりがなかった。
佐々木にはあぐりの件について「相談しろ」と持ちかけただけだ。彼にどう聞こえたのかはわからないが、土方には二人を別れさせるつもりは毛頭なかった。そんなことをすれば隊の不興を買うだけで、何の意味もない。
「知らねえっていったら、知らねえ」
「またそうやって邪険に扱うんですね?最近稽古にも身が入っていない様なんです。やっぱり土方さんがなにか…!」
「だから、知らねえって!」
土方は大声を上げていた。総司はビクッと肩を揺らし、驚いたように土方を見ていた。
「お前も大概にしろよっ!俺はお前みたいに暇じゃねえんだ、いちいち隊士のことなんて構ってられねえんだよ! お前はあっちにいってろっ!」
完全なる八つ当たりだった。芹沢との確執、隊の編成、増えていく借金。そのどれもが土方の頭を悩ませていた。その苛々が蓄積している上に、総司に怒鳴られて、爆発した。
…俺が、どんな思いで手回ししているのか、わかってんのか。
そんな気持ちもあった。
だが、すぐに土方は我にかえった。さすがに言い過ぎたかと思い、総司を見た。」 
そこには、まるで母に叱られた子供のように、目に涙をいっぱいためた総司がいた。
「そうやって、人を蚊帳の外にして…っ!何でも一人で抱え込んで、不機嫌になって、怒って、あっちにいけって…。こっちだっていい迷惑ですっ!」
総司はぐいっと袖で目を拭うと、傍に重ねてあった書物を土方に投げつけた。
喧嘩は試衛館でもよくしたが、総司が手加減なしで物を投げつけてくることはほとんどなく、土方にとっては痛みよりも驚きのほうが大きかった。
総司は手当たり次第の書物を投げつけると、「歳三さんの馬鹿っ!」と叫んで、走り去っていった。
土方は書物の角が当たった頭部を擦りながら、総司が去っていく姿を見る。
「…あいつ、本気だな…」
唇が切れたのか、口の中で苦い鉄の味が充満していった。
ふとそういえば、総司と喧嘩するのは久々だな…と思った。最近は忙しくてまともな会話さえしていない。いつもは湧き上がってくるはずの怒りが、沸き起こってこなかった。歳三さん、と呼ばれそのあまりの懐かしさに口元には微笑さえ浮かべてしまう。
さて、実は癇癪持ちのあの我侭な弟分をどう宥めようか。
土方の悩みの種が、もう一つできた。だがそれは、久々に楽しそうなことだとも思った。


 太陽の香りだと思った。傍にいるだけで、笑顔になれる、元気になれる。彼女はそういう存在だと思った。

「まあ、愛次郎さま。また来てくだはったん?」
可愛らしい花の髪飾りをつけ、華やかな桃色の着物に身を包んだあぐりが弾けんばかりの笑顔で、佐々木に微笑んだ。
佐々木よりも頭一つ分ほど小柄で二つほど年下の彼女は、明るく天真爛漫で、いつも遊びまわる蝶のような印象だった。 感情に素直で、ころころと表情を変える。佐々木はそれを見ているのが一番好きだった。
彼女の笑顔が見たいと思い、そのためなら何だってできると思った。若さゆえの突発的な感情だと笑うかもしれない。だが、佐々木はこの感情の正体に気がついていた。
「…愛次郎さま?」
あぐりが不安そうな顔をした。あぐりはいつだって鏡だ。佐々木が不安そうな顔をすれば彼女もそうなる。
佐々木は無理矢理にでも笑顔を浮かべなければならなかった。
「ちょっと、話があるんだ」
やがて告げる別れまでに、少しでも多く彼女の笑顔が見たいから。


あぐりの家から少し先の神社にたどり着くと、二人は並んで境内に座った。いつも二人で訪れていたこの場所はあぐりが教えてくれたとっておきの場所だった。涼しい風が差し込み、誰の声も聞こえない。二人だけの時間が流れる場所。
「…あの、」
「ひまわり」
「え?」
話を切り出そうとした佐々木の声が聞こえなかったかのように、彼女の凛とした声が遮った。
「ひまわりがこの先にえろうたくさん咲いてるんよ」
「……」
「見渡す限りの黄色で…輝いてて、綺麗」
「あぐり」
「まるでお天道様みたいに、大きくて見てるだけで元気が出る。また愛次郎さまと見に行き…」
「あぐり」
今度は佐々木があぐりの言葉を遮った。彼女の白い手を取ると、既に涙に濡れていた。
「…まだ、何も言っていないよ」
「わからんわけあらへん。うち捨てられるんやろ…?」
ぽろぽろと涙を流しながらも微笑む彼女を見て、酷く胸が痛んだ。こういう結果に陥ってしまったのは、すべて自分の責任なのだ。
「捨てるんじゃない。……ただ、君にとって僕が不適切な人間だったということだけだよ」
「そんな!」
あぐりは佐々木の袖にしがみついた。
「そんなん、うちのほうや…!こんな、礼儀知らずで世間知らずな女…愛次郎さまに相応しくない…」
「違うよ、あぐり」
「うちはどんな愛次郎さまでも、好きやのに……っ」
子供のような泣き方をして、すがり付いてくるあぐりを愛しいと思った。こんなどうしようもない男を好きだといってくれる彼女をどうやって突き放すことができるのだろう。
だが、佐々木は被りを振った。
「ごめん。……こうするしか方法がないんだ」
「…え…?」
佐伯から忠告…あるいは警告を受けてから、三日。悩みぬいて出した結論があぐりとの別れだった。
「僕じゃ、君を守り通すことができそうにないんだ。事情は詳しくはいえないけれど、君はご両親と相談してしばらく京を離れたほうがいい」
「そんな…なんで?」
芹沢はあぐりに目をつけている。その理由はあぐりの容貌を気に入ってなのかもしれないが、佐々木のことを疎ましく思っているというのも理由の一端にあるはずだと思った。あぐりと所帯を持てばさらに芹沢は自分のことを疎ましく思うだろう。
ならば、あぐりを遠ざけるしかない。
「…僕にもう少し力があれば、良かったんだ…」
「愛次郎さま…」
悔しかった。何もできない自分が、悔しくて、腹立たしくて、でもどうしようもなくて。
「君には笑っていて欲しい。君が幸せであることが、僕にとって一番の幸せなんだ。だから、言う通りにして欲しい」
「愛次郎…さま…」
理不尽だと怒ってくれればいい。嫌ってくれればいい、忘れて…くれればいい。
けれど、きっと自分は彼女のことを忘れられないだろう。あぐりに心を奪われたまま、一生を過ごすのだろう。
だがそれも自分の未熟さが引き起こしたことだ。
一生守ってみせる。
そう彼女に誓いたてることができない、自分のどうしようもなさに嫌気が差す。だから、せめてあぐりに愛された男として、立派な男になりたい稽古を重ねていつか彼女が誇りに思うような男になりたい。今の願いはそれだけなのだ。
「…話は、それだけなんだ。……帰ろう」
共に過ごす最後の時間は、笑っていて欲しい。
勝手な願いだろうが、そう思った。佐々木は感情を押し殺し微笑んだそして、彼女に手を差し出した。
しかし、あぐりは涙を流したままその手をとろうとはしなかった。
「…あぐり」
名前を呼んだ。するとゆっくりと顔を上げる。
「愛次郎さま。一つ…間違ってる」
「え…?」
あぐりは微笑んだ。佐々木の好きな笑顔で、微笑んだ。
「うちは、愛次郎さまなしで幸せになれないんよ…」

愛しくて、愛しくて。この感情に到着点があるのだろうか。そんなことを考えたことがある。 これ以上ないほど、虜にして虜にされて。
お互いがお互いのもので、もう自分ひとりでは生きていけないのだと確信する。狂っているといわれても、愛している。
 一度抱いたこの激しい情熱を、どうやったら捨てることができるのだろうか。


それから数日後の、文久三年八月二日。 朱雀千本通にて、佐々木愛次郎、あぐりの亡骸が見つかった。


78
文久三年八月初旬。佐々木愛次郎、あぐりの亡骸が見つかった。


「……ひでぇな」
誰もが思った言葉をまず口にしたのは原田だった。いつも明るい彼でさえ、顔色を失っていた。

朝方。まず、現場に駆けつけたのは総司と原田だった。ちょうど朝の巡察を控えていたところに、奉行所から知らせが届いたのだ。
『死体を引き取るように』
と。奉行所としてはこれ以上は預かり知らぬこと、としたかったのだろう。浪士組に押し付ける形だった。
そして、すぐに駆けつけた総司と原田は絶句した。
雑木林に投げ捨てられるように横たわっていたのは、見るも無残な佐々木の姿だった。何度かにわたって後ろ傷を浴びたようで刺殺というよりも惨殺に近い。彼の精悍な美貌を窺うことができないほど血に染まっていた。
「なんて惨い…」
総司は佐々木の死体に近寄ると、手を合わせ、開いていた目を閉じた。開ききった瞳孔に最後に映ったのは何だったのだろうか。死への絶望だろうか。
「…あれ…」
総司はふと、つん、とした独特の匂いが鼻についたのを感じた。死体の腐臭ではなく、懐かしいような匂いは頭の片隅に記憶されているものの、その名称が浮かばない。不思議な既視感に戸惑いつつ、総司は自らの隊服を彼に被せた。こんな姿を晒すのは、耐え難いだろう。
彼の遺体は痛ましいとしか言いようがなかった。まるで恨みでも買ったかのように必要以上に傷跡が多い。そして彼は暇がなかったのか、抜刀さえもしていない状態だった。
「いったい、何があったんだ…。畜生、誰がやったんだよ…っ!」
原田は愛用の槍を悔しそうに地面に叩き付けた。
佐々木は誰からも好かれる青年だったが、原田も例外ではなくよく面倒を見てやっていた。まさか、まさの店に行ったとき、彼にこんな結末が訪れると誰が予想しただろう。そして、総司も彼と同じ憤りと怒りを感じていた。不信感も。
「先生!」
平隊士の島田が、息を切らして駆け寄った。
「こちらに女の死体が…!」
「何だって?!」
こんな結末を誰が予想したというのだろう。まるで泡のように、二人は急に消えてしまった。


それから少し後、検分のため近藤と土方が訪れた。近藤は唇を噛み「残念だ」と彼の死体に手を合わせた。そしてその隣にあるあぐりの死体にも。
「佐々木くんは後ろ傷を浴びたようです。それが致命傷なのですが、ほかにも数箇所傷を負っています。彼は剣はまだまだでしたが、こんなにも無抵抗のまま殺されたことを考えると顔見知りであった可能性もあります」
総司の言葉に、土方が頷いた。
「…そうだろうな、こんなに惨いんだ、誰かに恨みを買ったのか…。だが佐々木は評判も悪くねえはずだ」
「ええ。むしろ皆には可愛がられていました」
「と、なると原因は…」
土方が目を向けたのは、隣のあぐりの姿だった。
「女の死因は?」
「はっ。舌を噛み切って自害したようです」
島田が報告すると土方は考え込むようにして顎に手をした。
「女関係のいざこざか…。とにかく話を聞く必要があるな。島田、数人の隊士を引き連れて話を聞いて来い」
「はっ」
島田は一礼すると、駆け足で数名とともに現場を立ち去っていった。
「…原田、佐々木がいなくなったのはいつだ?」
「そうだな…。おととい、くらいだったか。姿が見えねえから心配はしたが、野暮ったい真似もできねえから、特に探したりもしなかった」
「そうか…」
「畜生」と滲み出た涙を拭い、原田は悔しそうに唇を噛む。やりきれない気持ちはみな一緒だった。
だが、総司には少し違う感情が混じっていた。
「土方さん…」
「なんだ」
総司が土方の袖を引いた。
「あの時、佐々木くんに何を言ったんですか?」
「……」
土方は頭を抱えた。総司との喧嘩はまだ続いていたが、あの時も確か「佐々木くんの様子が変だ」「何を言ったのか」としつこく聞いてきたのだ。
「思えばあのときから佐々木くんの様子はおかしかったんです。それに佐々木くんとあぐりさんは旅装をしてます。きっと二人は京を抜け出すつもりだったのでしょう」
総司の目は射抜くように鋭かった。睨み付ける様に土方を見上げている。
「土方さんが何かを言ったんじゃないんですか?そのせいで、佐々木くんが追い詰められたんじゃないんですか?」
総司の言葉で、その場全員の視線が土方に集まった。
「そうなのか、歳」
「本当かよ…?」
まるで犯人扱いでもされているかのように、疑惑の目を突き蹴られた土方は思わず舌打ちをしていた。
「ったく…どうしてそうなるんだ」
「どうしてもこうしても、土方さんが何も話してくれないからじゃないですか!」
総司は怒鳴った。そして土方の胸倉につかみかかり続けて大声を上げた。
「そうやって格好つけて楽しいですかっ!?」
「ふざけんな!お前、いい加減にしろよっ」
土方が総司を引き剥がそうとしたが、しつこく総司はつかみかかったままで、二人はもつれ合った。
「お、おい、歳、総司!」
皆の注目が集まる中、近藤が慌てて仲裁に入るも総司の耳には入っていないようで、激昂したまま土方を何度も叩いていた。
だが、ふと、その手が止まった。
「…痛…っ!」
突然、土方が総司に体重を預け、倒れこむようにして総司を押し倒した。尻餅をつくようにして、地面に座り込んだ総司だが、そんな痛みはすぐに忘れた。
「土方さん…?土方さん!」
「おい、歳!」
土方がぐったりと目を閉じたまま、意識を失っていたのだ。
「土方さん…っ!歳三さん!」


「土方くんが倒れたそうじゃないか」
「ええ…。まあ、夏の暑さにやられたのと、過労のようです」
「俺のせいだろうな」
芹沢の言葉に、近藤は「そんな」と苦笑した。あながち間違っていないような気もするが、総司は肯定することもできず、近藤の隣に控えていた。
芹沢は寝起きだったようで、上半身を露にしたまま大きなあくびをしていた。そしてその後ろで乱れた着物を直す
梅のしなやかな背中が覗いていた。汗に濡れた長い髪が酷く扇情的だった。
「…で、佐々木くんか。まだ若かっただろう」
「ええ。二人ともまだ十代でした」
「そうか」と適当な相槌を打って、芹沢は総司に目を向けながら
「俺を疑っているのか?」
と尋ねた。総司に緊張が走ったが、それは近藤も同じだったようで
「な、何をいいます。佐々木くんは物取りの可能性もありますし、何も内部の犯行だというわけではありません」
と口早に答えた。芹沢は苦笑しながら「そうか」という。
「残念ながら、俺はずっと梅と一緒だった。……そうだろ?」
「…へえ」
部屋の奥から梅のか細い声が聞こえた。
「うちは、ずぅとセンセと一緒やった」
「…ほら、な。それに俺はそのあぐりとかいう女の顔も知らねえよ。ガキに興味はないんだ」
芹沢の言い分は本当のようだと総司は感じた。芹沢はあまり嘘をつかない、行動は直接的で大胆だ。
二人は「では」と頭を下げて、芹沢のいる離れから出て行った。

「…梅」
「へえ?」
「なんで嘘をついた。ずっと一緒だったわけでもねえだろ」
「…うちの勝手やろ」


土方が目を覚ましたのはそれからすぐだった。
「土方さん…よかった、大丈夫ですか」
最初に土方の視界に入ったのは総司だった。その表情が酷く安堵したように微笑んでいたので、土方は苦笑した。
「お前、俺と喧嘩したんじゃなかったのか?」
「…喧嘩、したいんですか?」
「いや」と答えながら身体を持ち上げようとすると、総司に止められた。
「お医者さまはあと三日は静養するようにって。駄目ですよ」
「三日か…長げえな…」
土方は毒を吐きつつも、少しほっとしていた。
身体の不調は何となく感じていた。何をしてもダルく寝不足気味だった。だがそれは夏の暑さのせいだろう、と誤魔化して仕事を続けていたが、こうして横になっていると酷く自分が疲れていたことを思い知らされた。
「仕事は山南さんが請け負ってくれるそうです。だから、大丈夫です」
総司が濡れた手ぬぐいを絞り、土方の額に乗せた。冷たいそれは上がった熱を冷ますようで気持ちが良い。
「…あと、ごめんなさい」
「あ…?」
総司がその長いまつげを伏せた。
「山南さんから聞きました。佐々木くんのこと、土方さんは縁談を進めようとしていたんでしょう?てっきり別れさせようとしていたんだと思ったから…勘違いしちゃって」
「ああ…」
総司が素直に謝るものだから、土方は居心地悪くなった。
むしろ、このまま悪者扱いでも何の不便もなかったのだが、山南のお節介が働いたようだ。
「でも、土方さんも悪いんですよ?何も話してくれないし、蚊帳の外にやるばっかりで。そういうのが過労になった原因でもあるんですから。これからは何でも相談してください」
「…ああ、わかった」
返事をしておきながら、土方にはまったくその気はなかった。
今まで自分が何もかもを抱え込んできたのは、その苦悩を誰にも味合わせたくなかったからだ。
お前は、お前たちは前を向いて歩いていればいい。
そして一点の曇りもない空の下を堂々としていればいい。
たとえ自分ひとりが犠牲になろうとも、その後姿を見守るだけで十分だ。
だが、きっとそんな独りよがりな考えを総司は許してはくれないのだろう。なら、黙っていればいい。
こんなことを、誰かに話す必要はない――。
「それにしても、土方さんが倒れるなんて初めてじゃないですか?私はよく看病してもらいましたけど。あ、土方さんお腹すいてないですか?今、永倉さんがお粥を作ってくれているんですけど」
「ああ…そうだな」
何が嬉しいのか、総司は子供のように笑顔を浮かべていた。末っ子の総司は今まで誰かを看病したことはないのだろう。まるで飯事のように楽しんでいるようだ。無邪気な微笑を見上げながら、ふと、土方は思い出した。
「…そういやあ、お前、殴ったろ?」
「へ?」
「俺が倒れる直前。何度も何度も」
「そ、それは謝ったじゃないですか…」
総司がごもごもと言い訳を口にしていたとき、土方は総司の腕を引いた。
「え?……――うわっ」
バランスを崩した総司は、土方の上に覆いかぶさった。そして生暖かい体温に触れた。
「んぅ…っ」
いつもより体温が高い土方の唇が触れる。加えて、歯列に土方の舌が食い込み侵入を許してしまう。口の中で絡まる舌は巧みで、口端から唾液が零れそうになる。
「…ん、…!」
「…仕返しだ」
呼吸ギリギリまでのキスに総司の息が荒くなる。そして唇が離れた瞬間に囁かれた土方の言葉が熱っぽく、総司の鼓膜に響いた。総司が顔を赤面させ、
「土方さんの馬鹿っ!」
と、再び土方の頬を平手打ちしたのは言うまでもない。


79
「あの大店の娘さん、亡くなったんやてなあ。まだ若かったのに、可哀想。心中やったの?」
総司が原田、土方と共にまさがいる甘味屋を訪れたのは、二人の死から十日ほど経った頃だった。
二人のことは町では大きな噂になっていた。というのも、良家の娘であり評判も良いあぐりが美男子佐々木と心中したと、いう悲劇として人々に伝わっていたからだ。
「心中、ねえ…」
土方は苦笑した。佐々木は惨殺、あぐりは自害。あの壮絶な現場を見れば、誰もが言葉を失うだろう。噂されているような綺麗なロマンス劇ではないのだ。
「ですけど、佐々木くんのことはあぐりさんのご両親も認めていたんでしょう?二人が心中する必要なんてなかったんですよね」
総司は餡蜜を口にしながら土方を見た。程よい甘みが美味しい。
「ああ。それにわからねぇのが、二人が旅装をしていたことだ。どこかに出かけるつもりだったのか…」
「でも佐々木のことだから、無断で隊務を放り出すようなことはしねぇと思うけどな。あいつ、真面目だったし」
原田がイラついたように頭を抱えた。佐々木を一番可愛がっていたのは原田だった。暇を見てはこの店に連れ出して、餡蜜を一緒に食べていたようだ。
「畜生…っ やっぱり、夜盗かなんかにやられちまったのかよ…っ」
机を拳で殴り、怒りを露にする原田は少し感傷的になり、涙目だった。
「原田センセ。ええやないの、現世やったら一緒になれへんかった二人が、あの世で一緒になれとるんやから。最期は酷いことになってしもうたけど、うちは二人は幸せやったと思うよ」
「まさちゃん…!」
原田がまさを抱きしめた。突然のことに、総司は驚いた。しかし、意外にもまさが「はいはい」とまるで子供をあやすように、原田を慰めていた。
いつもは「なにすんの!」と一発ビンタを食らわせるような彼女なのに。
(もしかして、いい方向に行っているのかな…)
「おい。あんこついてるぞ」
「ふぇ?あ、ホントだ…」
不意に土方の手が総司の唇に伸びた。指先であんこを拭うと、彼の口に含まれる。
「…甘…」
「だってあんこですからね」
眉間にしわを寄せる土方に苦笑した。こういうところはあまり変わっていないようだ。すると原田をあやしていたまさが、なぜか肩を震わせて笑い出した。
「なんや、そういうことやったん?原田センセの言うとおりやったんやなあ」
「え?」
「ええのええの、気にせんといて」
まさが乱暴に総司の肩を叩く。総司は首をかしげながら、餡蜜をまた口にした。

「じゃあ、また来るからさ」
「へえ…。あ、そうや」
原田から金を受け取ると、まさが思いしたように土方に向き直った。
「さっきの話。うちが聞いた話やったら、芹沢センセが横恋慕したって聞いたんやけど」
「…芹沢が?」
「へえ。それで、芹沢センセから逃れるために二人で逃げたゆうて…」
まさは本当かどうかわからへんのやけど、と付け足した。
「じゃあ芹沢が殺ったことじゃねえかよ…!」
原田はまた激昂した。総司もまさかと思いつつ、土方の顔を窺った。しかし、土方の顔は冴えなかった。


「芹沢を問いただして、聞き出そうぜ!あんな残忍なこと芹沢がやったに決まってる!」
三人は再び二人の死体が見つかった雑木林を訪れていた。激しく散った佐々木の血痕はいまだ雑草の色を変えたままだ。独特の血なまぐささはいまだ残っているようだった。
「原田さん、ちょっと落ち着きましょうよ」
「総司!お前もそう思うだろ?芹沢はあぐりに横恋慕して、佐々木を殺したんだよ!」
単純に考えればそうだが、総司は梅が芹沢と「一緒にいた」と言っていたことを知っていた。
梅は芹沢をかばう理由はないはずだから、嘘をつく必要もない。そうなると、芹沢は犯人ではないはずだ。
(でも…芹沢先生ならやりかねない)
少しだけ、芹沢を疑っている自分がいる。
「いや、芹沢じゃないさ」
「土方さん…?」
「芹沢のやり方なら、佐々木を殺すようなことはしない。あぐりを奪っておいて、佐々木の反応をみて楽しむ。……そういう男だ。それに佐々木には無駄な傷跡が多かった。芹沢ほどの剣の使い手があんな無様なことはしないだろう」
土方の考えは的を射ているような気がした。総司も佐々木の傷跡については不思議に思っていた。武士としての誇りを持っているものなら、あんなことはしないはずだ。
「……誰が、何のために二人を…」
総司は空を見上げた。すっかり夏色に変わった空はどこまでも遠く、どこまでも高い。澄み切ったその色に 手を伸ばす。届かない。
「あ…ひまわりだ」
目をやった先に、一面黄色に染めるひまわり畑があった。


三人が屯所に戻ると、ちょうど芹沢の取り巻きたちと鉢合わせた。どこかに出かける途中だったようだが、そこに芹沢の姿は無かった。
「…やあやあ、これは。忙しいようだね」
声を掛けてきたのは新見だった。芹沢の右腕としてそれなりの地位を得ている新見だが、酒癖が悪く、金遣いも荒いことからあまり隊内でも好かれていない。
「ええ。……新見先生は今からどこへ」
「気晴らしに飲みに行くんだ。どうも芹沢先生にあてられたようでね。……君たちもどうかな」
新見の誘いを土方はやんわりと断った。
「いえ。仕事がありますから」
「そうか」
新見の合図でぞろぞろと芹沢の取り巻きたちが出かけていった。総司は軽く会釈しながら彼らと通り縋る。
「……ん?」
一瞬、覚えのある香りが総司の鼻を付いた。咄嗟に頭を起こし振り向くと、そこに佐伯の背中があった。
この独特の匂いはひまわりの匂いだった。小さい頃、庭に咲いていたからよく覚えている。そしてこの匂いは佐々木の死体からもかすかに匂った。
「まさか…」
「ん?どうした?」
二人を殺したのは…。


 夏の夜は真っ暗な闇に、不規則に並ぶ星が輝く。そして昼には煩くも感じる蝉の鳴き声が、なぜか涼しく聞こえてくる。
夏は嫌いではない。冬よりも星が輝いて見えて、昔はスイカを食べながらその輝きに目を細めていた。
一番大きい星が近藤先生。
その後ろにいるのが歳三さん。
そしてその隣にいるのが小さな自分。
歳三さんは、近藤先生を輝かせるために後ろで輝くのだといっていた。 それならば、私はうんと小さな存在になって、近藤先生が大きい星なのだと皆に教えてやる。

そう誓ったあの空と繋がっているはずなのに、今宵の空は真っ黒だった。
墨で塗りつぶされたかのような黒さは己の心に潜む闇か。
いったい、この闇はどこに潜んでいたのだろう。
生きてきて気がついたのはごく最近だ。芹沢に憎しみと恨みを感じ、またここにやってくるだろう男に制裁を与えてやりたいと願っている。
憎しみが憎しみを呼ぶ。
その言葉の意味はこういうことなのだろうか。
まるで枷がなくなってしまった川の流れのように、溢れ出す憎悪を、どうやったら断ち切れるのだろうか。

「…沖田君」
「わざわざこんなところまで来ていただいて、すみません」
場所は雑木林。二人の命が尽きた場所。
「佐伯さん」
沸きあがったのは屈折した正義感。この男を殺したいという率直な感情。
「いや。君に呼び出されるなんて思わなかったよ。どうしたんですかね」
かすかな月の光に照らされた佐伯の表情は、飄々としたものだった。総司はなぜか口元が綻んだ。
「…ここ、佐々木くんとあぐりさんが殺された場所なんですよ」
「へえ……そうだったのか」
知っているくせに。
口から零れそうになった言葉を飲み込んで、総司は努めて微笑んだ。佐伯が続けた。
「二人のことは残念だよ。特に佐々木くんは酷い殺され方だったそうじゃないか。それに女のほうは舌を噛み切って死んだなんて、まるで芝居のようじゃないか。物取りにあったか、心中なのか…」
得意げに語る佐伯に向かって、総司は一瞬で抜刀した。月光に照らされた加賀清光が佐伯の首を捕らえた。
「ひぃ!」
佐伯は素っ頓狂な声を上げて、身を竦ませた。後ずさり、尻餅をつく。先程まで余裕を持っていた表情が、急に青ざめた。
「な、何をするんだ!」
「佐伯さん。貴方が二人を殺したんですね」
見下ろすようにして構えた総司の刀が、彼の首の皮一枚を斬っていた。血が流れる。
「何を…!何の言いがかりだ!証拠もないのによくそんなことを…!」
「証拠ですか。今貴方が言ったんですよ」
「なに…?」
「『女のほうは舌を噛み切って』……このことは実際に死体を見た者しか知らないんです。あまりも残酷な話ですからね」
総司は柄に両手を添えた。
「そ、それは…町人たちの噂を聞いていただけだ…!」
「見苦しいですよ、佐伯さん」
カチャリ、と刀が動く。そのたびに佐伯が顔色を失っていった。
「ま、待ってくれ…」
「いいですよ、待ちましょうか。理由を聞かせていただきたいのです。その答えによっては私も考えを改めましょう」
「本当か…!」
「ただし、真実だけを聞かせていただきます」
総司が釘を刺すと、佐伯はぐっと唇を噛み締めた。
価値すらない人間だと思った。潔く死を覚悟するかと思えば、命乞いしまた罪を重ねようとする。考えを改める気などさらさらなかった。佐々木が受けたように少しずつ急所を外しながら殺せばいい。
彼が味わった苦痛を味わえばいい。
「貴方が欲しかったのは、女ですか。それだけのために二人を殺したのですか?」
「ち、違う!……俺は、俺は…」
佐伯が口ごもる。総司は苛立ちを感じた。
「答えてください…!」
「総司!!」
総司が思わず刀に力をこめる。すると背後から足音共に総司を呼ぶ声がした。
声の主はわかっていた。
だが、あえて振り向かず「さあ!」と佐伯に答えを促した。
近づいてくる足音、震える佐伯の唇。
「答えろ…っ!」
「総司…っ!」
「俺は佐々木が欲しかったんだ…!」
佐伯の言葉が鼓膜を揺らす。それと同時に土方が総司の肩を引いた。強引に土方のほうを振り向かされ、思っていた通り頬を強く打たれた。
「馬鹿野郎…っ!あれだけ私怨を交えるなと言っただろう!」
「邪魔をしないでくださいっ!私は、私は…!」
「憎しみに心を囚われるな!」
もう一度土方に反対の頬を打たれる。その痛みに涙が滲んだ。
「どうしてですか…っ!私は佐々木くんの無念を…!」
「違うだろう!今のお前は、誰かを殺したい執念に駆られたただの人殺しだ!」
「…違う、違う、違う…っ!」
間違ったことはしていないはずだ。いずれわかる彼の罪を、ここで明らかにしただけのこと。
駄々をこねる子供のように総司は土方の胸板を何度も叩いた。
「私は…っ!」
「もう黙れっ!」
これ以上ないほど強引に長い髪を引かれ、後ろ頭に手を回され、口付けされた。深く捻じ込まれる土方の舌は、生暖かいが乱暴に口内を支配していく。こんな荒々しい口づけをされたのは初めてで、口の端から押さえきれない唾液が零れた。
「ん…ぅ、ひじ……っ」
総司は土方の胸板を押した。息苦しさから自然とそうしていた。すると土方はすぐに理解して、総司を解放する。
「…いいから、しばらく黙ってろ」
「……」
「あのさー。いいか?」
佐々木を拘束した原田がうんざりした様子で、こちらに声を掛ける。目のやり場に困る、と言った具合に顔をそらしていた。
土方と共にやってきたのは原田だけではなくほかにも数人いた。ちなみに島田もその場にいて、彼の誤解に拍車をかけたのは言うまでもない。だが、土方はいたって気にしていない様子で佐伯に向き直った。
「…佐伯。お前が佐々木をそそのかしていたことは証言が取れた。もう言い逃れはできない」
「……」
佐伯はぐったりしていた。総司からの殺意からは解放されたものの、言い返す言葉はないらしい。
「それと、さっきの言葉だ。……どういうことだ」
「…女が邪魔だった」
佐伯がぽつりとその言葉の続きを漏らした。
「俺は佐々木が入隊してからずっと欲しいと思っていた。だが、あの女が現れて、憎らしく思うようになった」
「んじゃあ、何故あんなに惨たらしい殺し方をしたんだよ!」
原田が佐伯の胸倉を掴んだ。
「好きだったんじゃねぇのかよ!だから奪いたかったんじゃねえのかよ…っ!」
だったらせめて、一発で仕留めてやれよ。原田は叫んだが、この男にはまるで通じない。
「…苦痛に苦しむ佐々木の顔が、最高に綺麗だった」
「…この、下衆野郎…っ!」
原田の拳が佐伯の頬に命中する。さらに振り上げられた拳を土方も、誰も、とめようとはしなかった。
佐伯が殴られている様子を見ながら、ふと、自分の中にあった闇が薄れていくように感じた。
最初から、こうすればよかった。殺す必要など、ないのに。
『憎しみに心を囚われるな』
土方が怒鳴った言葉が頭をよぎる。その言葉が一番的を射ているように思った。

それから、近藤、芹沢立会いの下で佐伯が切腹した。


80
ずっとこのままでいられると思っていた。
ずっとこのままでいるのが良いと思っていた。
 
けれど、それが偽りだと思った。


「うわぁっちーなあ…」
文久三年八月中旬。相変らずの暑さに皆閉口しつつ、日々は過ぎていった。
佐々木の事件は解決したものの、やりきれなさを残した。だがそれを誰も口に出さないでいる。
「あ、原田さん」
縁側で団扇を仰ぐ原田に藤堂が明るい声で話しかけた。すっかり着くずし、上半身を晒している原田と対照的に藤堂はきっちりと着こなしていて、見るだけで暑い。
「なんだよ。へーすけ。つまんねぇ用事だったら相手できねえぞ」
「つまんないことじゃないですよ。ほら、見てください」
藤堂は両手に持った書物を原田の前に広げた。
「ん…?」
「春画本。見るでしょ?」
「見る」
即答し、早速表紙を開いた原田に、藤堂は苦笑した。
悲しみも、後悔も、いつか断ち切らなければならない。若年でありながら、藤堂はそう悟っていた。
(たとえこんな方法であったとしても……かな)
彼なりの気遣いに、原田が気がつくわけもなかった。

「そういやぁ、この間のさ。総司と土方さんの濃厚接吻には驚いたよな…」
開いたページがちょうどそういう内容だったのか、原田が思い出すように呟いた。隣にいた藤堂が茶を啜りながら「そんなことがあったんですか?」と尋ねる。
「ああ。そうそう…おーい、島田ーっ!」
春画本を持ったまま、原田が大声で島田を呼び寄せる。稽古終わりだったのだろう、道着のまま島田が駆け寄ってきた。「何事ですか!」といわんばかりの迫力に、藤堂は苦笑する。
「お前も見たよな?この間の総司と土方さんのアレ」
「あれ…?ああ!…アレですか…!」
島田はきょとん、とした顔をしたが次第に顔が赤らみ、耳まで真っ赤に染まった。
「そんなにすごかったんですか?」
「え、あ、はぁ…」
「なんせ、ベロチューだからな」
こんな感じ、と春画本の一ページを開く。藤堂はまるで辞書を見たかのように「へえ」と感心し、島田は 素直に顔から熱を出す。
「総司なんか腰砕けって感じ?まあ、土方さんは上手いんだろうけどさあ」
「あ、あの、自分、聞きたいことがあるんですが…」
「ん?」
「お、お二人は…いつから、そういう仲に?」
島田の赤面質問に、原田と藤堂は顔を見合わせた。
「いつからなんでしょうね。俺が食客に来たときは既に…?原田さんが一番食客暦長いんですよね?」
「いやー記憶にないんだよな。まあ、俺からすれば、何であの二人が衆道関係じゃないのかって思うけどなあ」
「え?!じ、自分はすでのにあの二人はそういう仲なのではと…!」
「ん?いや、そうじゃないんだよな。ちゅーちゅーするくせに、そういう仲じゃないんだよな」
原田が藤堂に振ると、彼も頷いた。
「そうなんですよね。まだなんだーって思いますけど」
入隊して約二ヶ月。島田の誤解がようやく解けた瞬間だった。


一方、噂の片割れである総司は無期限の謹慎を言いつけられていた。
佐伯のことでの勝手な行動は、とても見過ごせるものではなく近藤もやむなく言いつけたようだったが、総司も仕方ないと思っていた。
(あの日は…本当にどうにかしていた)
自分が自分でなくなると思ったほど、殺意を持っていた。
総司は自分の右手を見た。
勝手に動いたかのように、佐伯の首に刀を切りつけていた。完全なる殺意を持って。
「…本当に、どうかしてた」
「本当だ」
総司が呟くと同時に障子が開いた。同室の斉藤が稽古から帰ってきたのだ。道着を着て汗を流した彼が眩しく映った。
「ったく…。あんたがいないからこっちは二倍稽古をやらされる。はやく謹慎を解いてほしいもんだ」
「…もー。謹慎を解いてほしい理由がそんなことなんて」
斉藤は憎まれ口を叩きながらも顔は苦笑気味で、道着を脱ぎ着替え始めた。
「そういえば、縁側のほうであんたの噂で盛り上がってたぞ」
「噂?」
「また副長とのいちゃいちゃぶりを見せ付けたんだって?」
斉藤が挑戦的な目で総司を見遣る。その表情はからかっているようだった。
「いちゃいちゃって……そんな」
総司は口ごもった。
「まあ、いいけど。どうかしてるよ、あんたたち。……さっきだって、稽古に副長が来たし」
「え?」
総司は驚いた。近藤や山南は腕が鈍るからとよく来るのだが、土方はほとんど顔を見せない。稽古も総司や斉藤に一任していて、何の口出しもしないのだ。
「な、なんで…?」
「さあ。憂さ晴らしだかなんだか知らないが、俺がずっと相手になってた。向こうが本気だから疲れたよ」
着替えを済ませた斉藤が、深くため息をついた。
「…前まではあんたが副長に縛られているんだと思っていたけど、本当は逆なんだな」
「え?」
「よほどあんたのことが大切なんだ。最後の砦みたいに必死に守っている感じがする」
斉藤は苦笑した。
「だからあんまり副長に心配かけるようなことをしないことだ。隊務にも支障が出るし、俺にも迷惑が掛かる」
「……斉藤さん、結局そういうオチなんですね…」
斉藤が慰めてくれているのは何となくわかった。
斉藤はいまだ周囲には寡黙で無口だが、総司とはよく話をするようになった。隊内での信頼も厚い。剣術も総司に並ぶほどの腕前で、隊内では双璧と呼ばれている。だが、総司にはこの年下の斉藤が、いつだって上に立っているように思う。
「斉藤さん。……斉藤さんは私怨で人を斬ったことがありますか?」
「…あるさ。誰しも一度や二度、自分の欲のために斬ったことがあるだろう」
「……」
斉藤は以前、芹沢の命令で人を斬った。その罪をなすりつけた芹沢をずっと恨んでいる、と総司は聞いた。
「…土方さんに、私怨で人を斬るなといわれました。私もわかっていたんです、土方さんにも誓ったはずなのに。けれど、佐伯さんを見たあの瞬間、どうしても…どうしても殺したいと思ったんです」
かつて好きだった男を、いたぶって、いたぶって、殺した。己の欲を満たすだけのために、若い二人を傷つけた。
そしてそんな残虐なことをしておいて、平然と過ごしていた。
憎いと思った。生きている価値さえないと、決め付けた。
「…随分感傷的だな」
斉藤はいたって冷静に呟いた。
「斉藤さん…」
「俺に相談することじゃない。……と、思うが?」
顔を見上げると、いたずらぽく笑った斉藤と目が合った。障子を開き「行って来い」と目で合図する。
「謹慎は休憩だ」
「…土方さんに怒られますよ?」
「あんたが逃げ出したってことにするから大丈夫だ」
「もう。…斉藤さんってやっぱり、お兄さんみたい」
「あんたみたいな出来の悪い弟なら願い下げだ」
酷いなあと笑いながら総司は部屋を出た。久々に浴びた太陽の光は、眩しすぎるほどで、総司は目を細めた。


突然、土方の部屋にやってきた総司を、土方は何も言わず迎えた。相変らず不機嫌そうな顔をしていたが、ため息をついて呟く。
「…斉藤はお前に甘い」
「そんなことないですよ。意外と毒舌なんです」
土方に向き合って微笑むと、彼は目を逸らした。途中やめになっていた書物に目を通し始める。
「…土方さんが言っていたように、この間の佐伯さんの件は私の私怨が混じってました」
総司が呟くと、土方が持っていた書物を置いた。
「佐伯さんを呼び出して、待っている間…私は佐伯さんを斬ることしか考えていませんでした。たとえどんな理由があっても、絶対に殺してやりたいって思ったんです」
「総司」
「…ここ最近、この辺がもやもやして落ち着かないんです」
総司は自分の胸辺りに触れた。
「お梅さんの一件から…芹沢さんに持ってしまった感情に歯止めが利かないんです。あの時は…佐々木くんのことはあったにしろ、その感情が佐伯さんの向いただけだった」
随分残虐な気分だった。本当は誰でもいいからこの憎しみをぶつけたいと思っていた。
「やっぱり…まだまだ、弱いなぁ…って。自分の感情を制御できないなんて」
自分の情けなさに涙が滲んできた。それを土方に見られたくなくて俯く。
「だから、あの時止めてくれて、ありがとうございました」
「…総司」
「今度からは、ちゃんと…ちゃんと、しますから」
涙が零れそうになって、慌てて拭った。こんな顔を見られたくないと思って無理矢理笑って見せた。
だが、そんな茶番は土方には通じなくて。強引に引き寄せられ、頭から抱えられるように抱きしめられる。何度目の抱擁だろうか。けれども、酷く安心する。
「…いいんだ。お前が感情を止める必要はない。危なくなったら俺が止めてやるから」
「でも…」
「感情のないまま、誰かを斬るような人間にはさせない」
土方の物言いは力強く、言い聞かせるようだった。誓った相手は、総司なのかそれとも自分自身なのかはわからない。


けれども、しばらくこの体温に守られていたい。不意にそう思い、総司は抱きしめられた彼の背中に自分の腕を回した。



解説
なし
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