わらべうた




721


残暑が厳しい。
「今日の調練は散々やな!」
水野は銃調練が終わると、うんざりした様子で汗だくの髪をかき上げた。彼以上に汗をかいていた村山も大きく頷く。
「…まさか銃を担いで走らされるなんて…あの隊列も覚えるので精一杯じゃ」
新撰組でも銃の訓練は積極的に取り入れられていたが、本格的な『兵隊』としての訓練ではなかったため隊列を組んだり一斉に構えたり…そういった経験は初めてだった。個人技である剣の道に慣れていたので隊士たちは戸惑い、終わるとぐったりしていた。しかし水野は少し楽しそうだった。
「でも興味深い。幕府でも本格的な仏式の軍隊ができたって聞いたし」
「…俺たちも負けちゃおれんな」
村山はこっそりと水野の表情を伺った。囲碁の以来すっかり距離が縮まって数日、彼は強く自分の意見を主張することなく、土佐者の視線を意に介さず、水戸者の嫌味を聞き流し、常に客観的であった。いつも微笑みを絶やさずにいるので周囲も認め始め、親しげに声を掛けてくる者もいる。村山もその友人として周囲に溶け込み始めたので水野には感謝しているくらいだ。
(あまり親しくするのも…)
土方からの指示で距離を取るようにと言われたのもあるが、村山も御陵衛士の間者と新撰組の間者が友人として接していることへの違和感がつきまとう。
しかし、
「よし、湯屋に行こう。その後に碁を打つのはどうや?」
「…ええな」
水野が村山の肩を抱き、誘う。いちいち距離の近い彼を今更どうやって冷たくあしらえば良いのか…人付き合いの下手な村山にはわからなかった。
村山は彼に言われるがままに行李から着替えを準備し、人が少ない時間を狙って近くにある湯屋へ向かおうとしたのだが。
「水野君、ちょっと」
と隊長の中岡自らが顔を出し、水野を呼んだ。中岡は人望があり隊士皆からの羨望の眼差しが注がれている…そんな彼の『お気に入り』と言われている水野へあからさまな嫉妬ややっかみの視線が送られるが、彼はやはり意に介さなかった。
「村山君、先に行っていてくれ」
「…わかった」
水野が中岡に手招きされるがままに去って行くと、ひそひそと「贔屓だ」とか「媚を売っている」などと陰口を叩き始めたので、村山は気分が悪くなって、彼に言われた通り先に藩邸を出た。
(陸援隊と御陵衛士は繋がっちょる。きっと伊東先生への伝言か何かだろう…)
どんな些細なことも土方へ報告しなければ。
そんなことを考えつつ、村山はふと周囲を見渡した。
故郷の田舎にいた頃、京はきっと広くて煌びやかでどこを見ても輝いているように美しいのだろうと思っていた。けれど実際は狭い場所に整然と並んだ家屋がひしめき合っているせいか空が狭く、開けた場所も少ない盆地のため窮屈だと感じた。それはもしかしたらこの美しい都から拒絶された長州人であるという勝手な枷のせいかもしれないけれど。
(いや…この卑屈な性格のせいじゃ)
そうしていると湯屋にたどり着いた。湯屋は混浴が多い(幕府から禁じられている)が、ここは時間別に男湯と女湯が分けられているので、村山は安心して中に入った。
女が苦手なのは故郷にいた時も、京にきた今も変わらない。自分が男兄弟の中で育ったせいかその耐性がなく、女子を見るや逃げ出していたので子供の頃はよく揶揄われた。その苦手意識が今も残っていて、村山にとってこんな湯屋で見知らぬ女子の裸体をみるなどとんでもないことだ。
村山は湯屋の暖簾をくぐり、耳の遠い年老いた女将に十文渡した。
(水野はまだ来ないな…)
彼を待とうとも思ったが、客が少ない好機であり、自分は長湯であるので先に入ることにした。
中は体の汚れを落とす「洗い場」と「湯槽」に分かれていてその間には湯が冷めないための戸板がある。洗い場は明るいが湯槽が薄暗いのは当たり前で、湯槽に浸かると互いの顔が見えないくらいなのだ。(それ故に混浴が多い)
洗い場には誰もいない。村山は不快な汗をようやく流せることに喜んだ…しかしそれは束の間だった。
「っ?!」
急に背後から口を塞がれたのだ。
湯槽から誰かが出てくる気配はあったが、互いに何も纏わぬ姿で警戒するはずもない。
(誰じゃ…っ?)
大きな掌はゴツゴツしていて力強い。加えて村山の背中から感じる気持ち悪い胸毛や肌の感触で寒気がした。
村山が必死に振り返ると、そこにいたのは田川だった。
「長州もんが、なにしとる」
「…!」
田川はいつも村山を見ると罵声を浴びせた。それはもう習慣のようなもので村山自身だけでなく、周囲も「またか」と呆れさせるような繰り返しだった。
けれど今は違う。田川はジロジロと頭から爪先まで舐めるような視線を浴びせている。村山は寒気が悪寒に変わったのをはっきりと感じた。
けれど体格でも腕力でも上回る田川から逃れることはできない。
田川は女のように胸を鷲掴みにし、乱暴に力を込めた。
「っ、やめ…っやめろ!」
「こがな細い腕で何ができるがよ。ええき、されるがままになっちょけ」
「さ、触るな!やめんか!」
田川は逃れようと暴れる村山を仰向けに押し倒した。
不運にも湯槽にいたのは田川だけだったらしく、村山の悲鳴は虚しく響くだけだ。入り口にいた老婆も耳が遠そうだったので異変に気がつかないだろう。
田川は村山の両腕を背後で掴み、自由を奪う。そして耳元で囁いた。
「土佐では珍しゅうない。むしろ一人前になるための儀式や」
「俺は…っ、土佐もんじゃねぇ!」
「男ばっかりでむさ苦しいろう。溜まっちゅーんだ、手伝え」
「誰が…!」
村山は口では応戦できたが、実際は自分よりも一回り以上大きな体格の田川に完全に組み敷かれ、腕の自由もなく、逃げ場がなかった。そしてまた経験もなかった。
「ここは女のようにええ塩梅や」
顔を見なくとも田川のにやけた顔が目に浮かんだ。
(俺はどうなるんじゃ…っ?)
寒気から悪寒になった身体の拒否反応が、やがて動悸に変わる。田川が乱雑に触れる場所全てがまるで自分のものではなくなったかのように、感覚を失う。
「あっ…、あ、あぁ…いやだ…」
自然に漏れる声さえも自分のものだと思えなかった。ただ、後ろから被さった田川の身体が重石のようだ。
目がチカチカする。けれど熱い。
(駄目だ…意識が…)
村山はそのまま目を閉じた。


熱いと思っていた体が、いつのまにか涼しい風に包まれていた。誰かが団扇で仰いでくれているような…。
「あ…あ、れ…?」
村山が目を覚ますと、
「起きたんか?」
と目の前に水野の顔が視界に入った。村山はハッと意識が鮮明になり、身体を起こした。
「ここは…!」
「落ち着け、ここは銭湯の婆さんに借りた部屋や」
「…銭湯…」
その言葉にゾクっと体が震えた。目の前に田川が現れて何が何やらわからないうちに組み敷かれ、意識を失った。やけに濃い湯気とその熱さにやられたのだろう。
「た、田川は…」
「…やっぱりそうか。湯から出てきた田川からなんや嫌な視線を感じたから、慌てて洗い場に入ったら…村山君が倒れてたんや」
「お、俺は…」
(俺は田川に…襲われたのか?)
困惑と怒りと…恐怖で身体が震えた。けれどそれを水野に気づかれたくなくて必死に平気を装い拳を握って隠した。
「たぶん未遂やけどな、誰かが来たのに気づいて急いで出てきたようやったし…」
「…未遂でも…な、情けないな。あねーな奴にあっさり押し倒されて意識失うて…ほんと、情けない…」
「村山君、無理をするな」
村山が強がっていることに水野はすぐに気がついた。村山を引き寄せて抱きしめ「俺が悪かった」と謝ったのだ。
「な、なんで…お前が」
「俺が村山君に先に行けと言うたやろ。そもそも湯屋に遅れなきゃこんなことにはならなかった。それに…田川がそういう意味でお前にちょっかい出してるのには気づいてたんや」
「そ、そうなんか?」
「君に忠告しておくべきやった」
水野は強く村山を抱きしめた。彼もまた小柄な村山よりは良い体躯をしているが、田川のような恐ろしさはなく、包み込まれるような抱擁とふわふわの長い髪が鼻をくすぐって何だか心地が良い。
(それにええ匂いがするし落ち着くな…)
「村山君」
「あ、ああ…!」
村山は慌てて水野と距離を取った。男同士どころか誰かと抱き合う経験が少ないせいで、村山はぎこちない。
しかし水野は真剣な面持ちで村山を見つめていた。
「な…なに?」
「自覚はないかもしれへんけど、君は小柄やし色白で目ぇも大きくて可愛らしい。村山君は自分が長州ものやから浮いてるって思うてるかもしれへんけど、実際はそうやない。皆、君を気にしてるんや」
「は、はあ?」
水野が話すことが、村山にとって自分の話だとは思えなかった。確かに小柄で童顔でいつも揶揄われていたが、可愛いと言われたことなどなく、水野と違い自分の容姿に自信を持ったことなど一度もない。それ故に男色の標的になるなんて想像したこともなかったのだ。
水野は続けた。
「土佐は男同士で関係を持つのが習慣みたいなところがあってな…だから田川みたいな考えのやつが少なからずおるし、君はまた餌食になるかもしれへん。そんなん嫌やろ?」
「も、もちろんじゃ!」
慰み者になるなどとんでもない、と声を上げる。すると水野が「よし」と村山の手を握った。
「せやったら、俺の念者、ゆうことにしとこ」
「…は?」
「知ってるやろうけど、俺は中岡隊長とは懇意にさけてもろうてる。せやから土佐や水戸も俺には手出しせん…村山君が俺の念者となれば君も安全や」
「それは…」
村山は困惑した。目の前の水野はいつもの飄々とした様子がなく真摯だ。まるで何の魂胆もない親切心のように見えるが、しかし彼は御陵衛士の間者であり、村山とは敵対する間柄だ。
けれど田川に襲われた時の恐ろしさがまだ身体に残っているのも事実だ。
(仮の念者なら…問題ないんか…?)
「ふ、ふりなら良い…けど、良いの?」
「ええよ。何なら本当の念者になってくれてもええけど」
「は?」
「冗談や。さあ、帰って囲碁でもしよか」
水野はふふっと笑った。その笑みを見ただけで不思議と村山の心は晴れていく。それはまるで
(開けた空を見た気分じゃ…)














解説
なし


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