わらべうた




723


翌日。
碁盤の向こうに座る水野は、村山の様子を窺っていた。
「…村山君、昨日君に押し付けられた羽織は今日の良い天気できっと乾いているんやないかな」
「…」
「それから君に嫌がらせをしてる奴らには一言言うておいたから、安心してな」
「…」
「村山君…怒ってるんか?」
水野に問いかけられ、村山はパチン!と碁石を目的の場所に打ちつけた。
「…『奴ら』ってことは、何人もおるんか?」
村山は水野を見据えて尋ねた。傍目には睨みつけているように見えたかもしれないが、水野は気にせず「うーん」と指を折数える。片手だったものが両手になって
「七、八、…十人かな。いや、もうちょい…」
「…」
水野は恥ずかしげもなく答えるので、村山は絶句した。
昨日、あまりの事態に混乱しつつ一晩考えて(水野の言う通り仕方なかったんじゃろう)と同じ除け者として気苦労があるのは理解していたため、同情を込めて彼のことを理解しようと思ったのだが、それでは色欲に塗れた痴れ者ではないか!
そういった経験の少ない村山はたちまち顔を真っ赤に染めて視線を逸らした。
しかし水野はそれを大事とも思わない表情で碁石を指先で弄ぶ。
「純朴な村山君に呆れられるのは仕方ないけど、俺だけ責められるのは心外やなぁ。あいつらは俺が隊長と懇意なのを知ってて近づいて来たのに」
「そ…そうなんか」
「なかには本気になったのもおるけど」
「…」
水野は黒の碁石をさして、「どうぞ」と村山を見つめた。日中から穏やかで人目を惹く容姿を持つ彼と碁盤を挟んだ近距離で顔を合わせている…それはもしかしたら本気になった彼等にとって羨ましくて仕方ない光景なのかもしれない。
水野はフフ、と微笑した。
「でも、村山君に怒られたしあんな陰湿な行動を起こされちゃ面倒やから、全部切ってきたわ」
「…切ってきたって?」
「もう終わりなーって」
「は…」
村山は碁石をポロリと落とした。
「なに?」
「お、俺とは仮じゃろ?そんな…本気の奴が可哀想じゃねえか」
「沢山関係を持ってたら君が俺の念者ゆうても説得力がないやろ?それに俺は本気やないし、可哀想なのはほんまの念者やないのに嫌がらせ受けてた君の方や」
「…は…」
村山は言葉が紡げなかった。水野はごく自然な理屈でこれまでの関係を切って村山の念者として振る舞う、ということらしい。理屈が正しくともそうはいかないのが人間関係というものだが水野にはその躊躇いがないらしい。
「なんで、そこまで…」
「…大事な囲碁仲間の為や」
村山はぼんやりしたまま碁石を置く。難しい局面だったはずだが頭は真っ白だ。
目の前の水野は盤面に視線を落とし、「うーん」と頬杖をつきながら考え込み始めた。そこに生ぬるい風が吹いて彼の髪が靡く。
(全部切ったって、その恨みは全部俺に向くってことじゃ…)
不意にその懸念が過ぎったが、何故だか不安は感じなかった。水野が彼等に言い聞かせたというのならそうなのだろうし、理由はどうであれ仮の念者であるだけなのに居心地の良い環境を捨ててまで村山の立場を守ろうとしてくれたのは確かなのだ。
(お前は御陵衛士の間者で…俺は敵対する新撰組の間者なのに)
彼の友人としての誠意を見て、何故だかとても自分が不誠実なような気がして胸が痛んだ。
「村山君」
「な…なに?」
「勝負がついたら出かけよか。今日はもう訓練もないし」
「…なんで?」
水野は「ふっ」と少し噴き出しながら次の一手を繰り出した。絶妙な場所に置かれた黒の碁石よりも村山は水野の返答が気になっていた。
すると彼は小声で
「村山君は女子と懇ろになったことはないんか?」
と尋ねてきた。村山は「…なくはない」と答えたが実のところそれは思春期の話で、子供のままごとのような出来事だ。それを素直に水野に白状するのは憚られたのだが、そんな躊躇いは彼には見破られていたようだ。
「念者というからにはこうやって囲碁ばかりしているわけにはいくまい。二人きりで出かけよてゆうてるんや」
「あ…ああ、そうか…わかった」
村山は内心動揺しつつ、頷いた。


陸援隊の拠点である土佐白河藩邸は賑わう街から少し離れた静かな場所にある。土佐藩の本拠地である藩邸は祇園に程近い場所にあり、不便な白河藩邸は長らく空いていたそうだ。
その静かな場所からさらに北へとぶらぶらと歩く。
「村山君はこの先に行ったことがあるか?」
「ないよ。そもそも都にきてすぐ…」
新撰組に入隊してずっと忙しかったし、この辺りも管轄外で足を踏み入れたことすらない。
…と、答えるわけにはいかない。
「…陸援隊に入って大してどこにも行ってない」
「そうか、それは可哀想にな。せやったらついてきてな」
水野が目的地を持って歩き出したので村山はそれについて行くことにした。
今日は日差しが和らぎ、季節の変わり目を感じる天気だった。まだこめかみあたりにじんわりと汗をかくが、それでも涼しい風がすぐに乾かしてくれる。
水野は鼻歌混じりに歩き、上機嫌な様子なので
「一つ聞いても?」
と村山が切り出した。
「なに?村山君の質問ならなんでも答えるで」
「いつも中岡隊長と親しくしているじゃろう?なんの話を?」
「ああ…」
世間話のような気軽さで尋ねたつもりだったが、水野はもっとラフな雑談を望んでいたのだろう。しかしそれでも答えてくれた。
「中岡隊長とは…縁があって可愛がってもろうてるんや。話ゆうても大したことやのうて…土佐はいつ戦を仕掛けるんやとか、そういう話や」
「大した話じゃないか!」
村山は身を乗り出すように水野の話に興味を持つ。陸援隊に参加したものの土佐動向については大した情報が掴めないままだったのだ。
水野は苦笑した。
「なんや、村山君はこういう話興味があるんか?」
「あ、あるに決まってる!そうじゃなきゃ陸援隊に入るものか!」
「まあ確かにな。…中岡隊長は武力による蜂起が必要やと固い決意を持って陸援隊を作った。せやけど土佐のご隠居は徳川宗家への恩顧を忘れられず、戦には慎重らしい。中岡隊長は強く訴えておられるが……まあ、そう近くない日に陸援隊が前線に立つ日が来るやろな」
「…そうか」
水野が語ったのは村山も承知の内容だった。中岡慎太郎は武力による変革を必要と訴えているが、土佐は穏便に幕府へ大政奉還を進めようとしている。
新撰組や幕臣は大政奉還を阻止したいと考えているが、村山は長州で混乱した情勢を見守ってきたせいか『幕府に国を治める力がない』ことはよくよく理解していた。そのため大政奉還が為っても仕方ないと思っていた。
水野はこれ以上追及されたくないと思ったのか、
「村山君は尊王攘夷を志して陸援隊に?」
と露骨に話を変えた。その質問に対する答えは誰から尋ねられても良いように準備している。
「…そうじゃ。故郷のやり方は肌に合わんかった。噂で中岡隊長のお人柄を聞いてここなら、と思うたんや」
「確かに隊長は少々気が短いが懐が深い。そして大胆で豪胆や」
ハハ、と笑っていた水野は「ここや」と西へ曲がり緩やかな坂を登り始めた。ますます静かになっていきそのうちがサヤサヤと音を立て風によって揺れる竹林が見えてきた。真っ直ぐ天へ伸びる竹林は青々として見上げても頂上まで見えないほど高い。
村山は自然と足を止めて空高く続く竹を見つめていた。竹林なんてどこにでもあるはずなのに、ここには全く違う空気が流れていて何故か見惚れてしまったのだ。
「…村山君」
「あ、ごめん、つい…」
「いや、俺も初めてここにした時はそうしてた」
水野は少し嬉しそうに微笑んだ。そして坂の先を指差す。
「この先には、有名な画家さんの庵みたいなのがあるんやけど」
「いや…ここで十分じゃ。むしろかしこまった場所じゃのうて落ち着く」
「俺もそう思った。村山君とは気が合うなぁ」
水野と村山は並んでしばらく竹林をぼんやりと眺めた。
風によって撓っても、必ず真っ直ぐ立つ。他と交わらずそこに在り、整然と並ぶ。
「村山君をここに連れてきたんは、きっと気にいるだろうと思ったんや」
「…なんで?」
「君は陸援隊に入隊した時から人とは目が違ってた。なんてゆうか…活力に満ちて、この竹みたいに真っ直ぐで、凛々しくて…いまも澱みがない」
前触れなく水野がそんなことを言うので、村山はなんだか恥ずかしくなって「そうかな」と自分の瞼を揉んでみる。昔、故郷で村八分にされていた頃は「生意気」「睨んでいる」と散々言われていたので褒められ慣れていない。
「君みたいな人に見つめられたら、みんな意識してしまうんや。ちょっかい出してきた田川や水戸の隊士も…どういう感情であれ、君にとらわれて見過ごすことができなかったんやと思う」
「…」
村山は竹林から水野へ視線を移した。
彼は揶揄っている様子はなく、過剰な賞賛でもなく心から思ったことを口にしているように見えた。
(俺はこの男がようわからんけど…いま嘘をついていないのがわかる。わかるからこそ…どう答えたらええのか、わからん)
「み…水野君だって、この竹みたいじゃ」
「え?」
「ほら、しなやかで、吹いてきた風に身を任せられる。…俺は確かに融通きかんところがあるから、故郷でも浮いてたし土佐や水戸とも仲良くなれん。けど君は違う、器用に生きられる」
この美しい竹林のようだ、と互いが互いのことを褒める。それがなんだが可笑しくて二人は顔を見合わせて笑った。
「…ふふ、じゃあ俺たちは二人ともおんなじか」
「はは、そうかも」
くだらない会話だとわかっていた。けれどそのどうでも良い雑談を交わすことができる相手が初めてで、村山はただそれだけで十分だったのに。
無性に切なくなる。
(なんで君は御陵衛士の間者なんじゃ…)
どれだけ距離が縮まっても、二人の立つ場所は異なり、その場所を離れれば必ず奈落に落ちる。
そのことを知っているのは村山だけで、水野は何も知らない。不公平だが、本当のことを告げたら何もかもを失う。
「村山君?」
「…あ、あぁ。なんでも…」
何でもない、という言葉は突然の彼からの口付けによって塞がれた。無防備な唇が彼のそれによって重なった時、村山は不思議な感覚に陥った。
(君はそこにいるんじゃな)
触れそうで触れられない。近そうで近くない。
彼と一緒にいてもとても遠い場所にいる気がしていたのに。
…村山は何故だか目を閉じた。目を閉じてより感覚を研ぎ澄ますことで、一層彼のことを知りたいと思ってしまったのだ。
さやさやと風が流れていった。










解説
なし


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