わらべうた




724


伊東が九州から月真院に戻った。
「おかえりなさい!」
「先生、お待ちしておりました!」
歓待で待ち受けた衛士たちを伊東は丁寧に労った。
伊東は同行した新井とともに大宰府、下関と周り多くの倒幕派と面会を果たしていて、満ち足りた表情で旅の詳細を語った。
「薩摩や長州は刻々と兵を都へ差し向けている。特に薩摩兵は備後あたりまで兵を進めているようだ。倒幕の狼煙が上がるのも近い」
伊東の言葉にワッと衛士たちは活気付き、さらに話を聞かせてくれと沸いたが、
「実はすぐに尾張へ向かう用事があるんだ。皆んなにはまだ留守を頼む」
と言うことで早々に次の出立の準備に取り掛かることになった。
内海は長い旅路で増えた荷物を解き、新たに尾張への準備を手伝う。
「ご無事で何よりでした…しかし、何故尾張に?」
「下関に寄った時に尾張の慶勝様へ上京の周旋を頼まれたんだ。公武合体派だった慶勝様は、今は一橋慶喜に反旗を翻し、倒幕派へ靡いているらしい」
「御三家の尾張が倒幕に回るとなれば、大きな打撃になるでしょう」
「ああ。風向きも変わる…だが慶勝様は慎重な御方だ」
内海が思っていた以上に大仕事だ。伊東が数回の西国遊説で信頼を勝ち得た証拠なのだろう、彼自身も活力に漲り、長い旅を終えたばかりだというのに疲れた様子はない。
「失礼します」
準備を進めていたところにやってきたのは斉藤だった。伊東は「君か」と顔を綻ばせた。
「話を聞きたかったんだ。内海に頼まれて、陸援隊に入隊させた橋本君のことを調べてくれたのだろう?軍備を整えながらも、容堂公は大政奉還を進めていると噂に聞くが、彼からはあまり知らせがないらしいね」
「その件ですが、もう少し様子を見たほうが良いかと」
「どういうことです?」
内海は厳しい表情で斉藤に問い詰めた。彼が斉藤にだけ敵意を向けるのはいつものことなのでもう慣れた。
「橋本は間者としては上出来です。御陵衛士としての橋本皆助の姿はどこにもなく、全く違う人物として陸援隊に潜んでいます」
「へえ、君にそこまで言わせるとはね。突出した印象がなかった橋本君に間者の才能があったのか」
伊東も真面目で根暗な橋本の印象しかないようで驚いていた。斉藤はひとまずいま彼がどのような人物になりきっているのかは置いておくことにする。
「彼は伊東先生へ忠誠を誓っており、先生が九州からお戻りになるのを待って情報を伝えるつもりだったようです。先生が帰ったと伝えればまた有用な知らせが来るでしょう」
「そうか。だったら彼によろしく伝えておいてくれ。尾張はそう長い旅路にはならないはずだ」
「わかりました」
内海は少し納得できない表情だったが、伊東は気分を害した様子はなかった。
斉藤の前で橋本は居残りの御陵衛士へ情報を流すつもりはないと言い切り、不遜な態度だったのだが、彼のいうことにも一理あるし余計な火種を起こしても仕方ない、不必要な言葉を取り除いて伝言したのだ。
用件を終えた斉藤は部屋を去っていく。
「…内海、いい加減斉藤君のことを不必要に警戒するのはやめたらどうだ?」
「そういうわけには」
「彼はこちらの期待に応え続けている。優秀な同志だよ」
「…」
内海は同意することができなかったが、斉藤を疑う明確な理由を示すこともできなかった。
伊東は「よし」と準備を終えて内海が差し出した茶を飲んだ。
「新井君は大坂からの航路に詳しかったが、尾張方面はさっぱりだそうだ。同行者は他の者にしようと思う」
「それが良いと思います」
「内海、一緒に行くか?」
「…いいえ、私は…都に残り、御陵衛士たちをまとめる方が性に合っています」 
内海は躊躇いながら誘いを拒んだ。すると伊東は苦笑した。
「なんだ、練習しなかったのか?」
「…」
九州への出立の前、伊東は内海に敬語を止めるように言い残していた。もともと親しい友人であり、御陵衛士としても平等な同志だ。それに離縁によって道場主と門人という間柄すらなくなったのだから、友人に戻るのが相応しい。
しかし内海は難しい顔をした。
「…考えましたが、やはり…このままで良いのではないですか?大蔵さんは御陵衛士を束ねる立場ですし、皆がどう思うか…」
「では皆がいないところなら良いだろう?」
「…」
内海は口を閉ざした。
自分ができないことは口にはしない…内海らしい反応だが、伊東の期待に応えるものではなかった。
伊東は
「…もう良い。尾張へは他の者を連れて行く」
と冷たく話を切り上げようとしたのだが、内海は 
「でしたら…鈴木君はいかがですか?」
「何故?」
愚鈍な弟の名前を出され、さらに剣幕が鋭くなる。しかし内海は食い下がった。
「大蔵さんがおかえりになるまでの間、彼は誰に言われるでもなく熱心に周囲の警邏に努めていました。貴方の弟であるかどうかは関係なく、働きは認めるべきです」
「…わかった。お前がそういうのなら連れて行く。あれにも伝えておいてくれ」
伊東は当てつけのような気持ちで、その提案を了承した。いつになく突き放した言い方をしたので内海も居心地の悪さを感じたのか「わかりました」と去って行く。
その足音が聞こえなくなって、伊東はため息をついた。
(なかなか上手くいかないものだな…)
伊東は荷物の中に仕舞い込んでいた『回天詩史』を取り出した。旅中に何度か読み返したが若き日の青春の情熱と記憶が蘇ってくるようで、とても懐かしく、遠い昔の出来事のような気がしていた。
簡単には戻れない。わかっていたはずなのにまたあの頃のように向き合いたかった。
(お前はそうではないのだろうか…)
彼にとっては忘れたい過去なのだろうか。


総司が巡察から戻ると、近藤と土方が話し込んでいるところだった。難しい話かと思い出直そうとしたのだが、「もう終わったから」と近藤に手招きされたので中に入って膝を折った。
「巡察は滞りなく終わりました」
「そうか。ちょうど歳が留守の間の話をしていたんだ」
「明後日出立する」
井上は先に江戸に向かい、入隊希望者を吟味しているがやはり一人では忙しく新撰組としても迅速に隊士を増やす必要があったので土方も向かうのだという。
近藤は腕を組む。
「今、歳が京を離れるのも気がかりだが…ついに戦になると話が広がって西国から兵が集まりつつあると聞く。幕臣としてはやはり大政奉還を避けたいと思うが、すべては公方様がどう判断されるのか、それ次第だ…俺たちはいつ戦が起きても良いように準備を怠らないようにせねばならん。まずは兵力だ」
「わかってます。まずは隊士の数を増やさなければお役に立てません」
総司の返答に、近藤は大きく頷いた。
「後藤象二郎殿には会えたのか?」
「いや…」
土方が尋ねると近藤は苦い顔をした。
土佐藩の大物である後藤象二郎に面会を果たしてから、近藤は何度か彼の元を訪ねているがいつも「不在だった」と肩を落として帰っていた。
「お身体の具合が悪いとか、都合が付かぬとか、留守だとか…とにかく何かと理由があってお会いできぬ。後藤殿は大政奉還を進めている当事者だ、永井様が繋いでくださったご縁ゆえぜひお話をお聞きしたいと思っているのだが…」
近藤は会えないことが甚だ残念だと思っているようだ。
総司ですら
(それは避けられているということでは…)
と思い至り土方へ視線を向けたのだが、彼は首を横に振って(何もいうな)と言わんばかりだった。
「歳が出立したらますます忙しくなる。総司も心しておいてくれよ」
「わかりました」
その後、明日は非番なので総司は土方と共に別宅へ向かった。日は暮れて互いの持つ提灯の明かりを頼りに歩くのだが、
「あ、月がよく見えますよ」
総司は雲ひとつかからない見事な満月を指差した。星が霞むほど明るくて眩しいため、提灯は不要だったかもしれない。
「総司、ひとつ頼みがあるんだが」
「何ですか?」
「留守の間、何かあってもなくても文を出してくれ」
「…一番苦手なことを」
総司は思わず茶化して笑ったが、土方は真面目だ。
「政局の難しい話は近藤先生が知らせてくるだろうが、お前から見た隊の様子を教えて欲しい。今はどんな綻びも見逃せない」
「…わかりました、そういうことなら努力します」
「それに…文が届けば、お前が無事だとわかる」
土方は堅い口調のままだったが、彼の言いたかったことは後者なのだろう。
(まったく…格好付けな人だなぁ)
総司はなんだか可笑しくなって、返事の代わりに彼の空いている片方の手を握った。指先を絡ませると彼も同じようにして強く握り返す。
寂しい、とは言わなかった。
これ以上彼の足を引っ張るのは嫌だったし、自分もその言霊に引き摺られそうだったから。
淡い月明かりで照らされた道をいく。二つの影が寄り添って並んでいた。














解説
なし


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