わらべうた




725

「いってらっしゃい」
なんて事のない普段の日常のように、総司は江戸へ向かう土方を見送った。仰々しい見送りは苦手だと言うので、早朝に出かけて行く姿を近藤と共に二人で見送る。
離れ離れになる寂しさはあったが、これが永遠の別れではないとわかっていたし、そうしなければならないという気持ちの方が大きかった。
「…さて、俺は朝の調練に行ってくるぞ」
「え?先生自らですか?」
「歳がいると嫌な顔をするからな。ここのところ鈍っているし、久しぶりに隊士に稽古をつけてやる」
「はは、みんな喜びます」
「ああ。総司はどうする?」
「…私も先生に稽古をつけていただきたいです。無理はしませんから」
「わかった」
二人は頷きあって、「あとでな」と自室に戻っていく。
総司は一人残されてもう土方が去って見えなくなってしまったのに、その姿を探すように目を細めた。
残暑は長引いているが、朝夕は秋の風が吹いている。
(僕はあと何度、季節を移り目を感じられるのだろう)
ふとそんなことを考えたのは、やはり寂しさがまさったからなのだろうか。



同じ頃、月真院を出立した鈴木は先を歩く兄の後ろ姿を見ていた。
伊東は九州から戻るやすぐに尾張に旅立つこととなり、その同行者に鈴木が指名された。兄はその理由について語らなかったが、片腕の内海から
『君の働きを認めているからですよ』
と励まされた。普段は伊東と親友である内海のことを疎ましく思う鈴木であったが、その時ばかりは内心喜んだ。そして他の衛士たちも
(兄弟の確執がようやく雪解けか!)
と期待して二人の尾張行きを見送ってくれた。
しかし見送りの時こそ穏やかに微笑んでいた伊東だが、鈴木と二人きりになった途端表情はいつもの冷たいそれになってしまい、話すことも並んで歩くこともなかった。
中山道を歩き、琵琶湖を通り過ぎた頃、雨が降り始めた。空を見上げると雲行きが怪しくにわか雨では済まなさそうだ。
「…兄上、宿に入りましょう」
「そうだな」
短い会話を交わし、近くの宿場で足を止めた。そこで声をかけてきた飯盛女に誘われるがままに宿に入ることにする。突然の雨で客も多く一部屋借りるだけで精一杯だったのだが、
「私は部屋で本を読む。お前は好きにしろ」
伊東はそう告げてさっさと去ってしまい、鈴木が残される。兄が自分を拒んでいるのを感じていたので一緒の部屋に足を踏み入れても良いのかどうか思い悩む。
(どうしたものか…)
兄の機嫌を損ねたくはなかったが、雨は強く降って嵐に変わりつつあり野宿できそうもない。考え込んでいると
「おにいさん、遊んでく?」
客引きをしていた女中が鈴木の腕に体を密着させ甘く誘った。
「いや、俺は…」
飯盛女はその名の通り宿で食事の世話をする下女であるが、宿場町では女郎の役割も果たしている。この女中は年増ではあるが色気があって、誘うのに慣れていた。
「ほんまなら六百文なんやけど、おにいさん若いし素敵やから五百文でええよ」
「そんなつもりは」
「酒と肴もつけたるし、なぁ?」
「だから…その…」
体をより密着させ胸を強調する女中に、鈴木は困惑するが、野宿もできなければ兄の邪魔もできない。一瞬この女の誘いに乗った方が良いのかとも思ったのだが、
「失礼」
と鈴木の肩を引いたのは、戻ってきた伊東だった。
「兄上…」
「申し訳ない、弟は野暮な田舎者。到底貴方のような手練れの相手など務まりますまい。…またの機会に、是非」
伊東はそう微笑みながら女に金を握らせた。女は伊東の整った顔立ちに見惚れながらも言いようもない圧を感じたのか、
「ああん、残念やわぁ」
と言いながら金を懐に入れてあっさり引き下がり、別の客の元へ駆けて行った。
鈴木は内心ほっとしながらも手だれの女郎に言いくるめられそうになってしまったところを伊東に見られ、一層居心地が悪い。
「…兄上、申し訳ありません」
「一緒に来い」
伊東は面倒は御免だと言わんばかりに部屋に戻り、鈴木も後について入った。三畳ほどの部屋は物置のように狭い。雨宿りのために入ったとはいえ、ここは下級の宿だったようだが今更別の宿に移っても同じだろう。
「窮屈だから、朝早く出る」
「わかりました」
雨漏りしそうな頼りない屋根から、パンパンと雨粒の音が直接的に響いてくる。鈴木は邪魔をしないように身を潜めるように横になったが、伊東は一本の蝋燭の灯りを頼りに持参した本を読んでいた。まるで鈴木のことなど意識しないほど集中している。
(昔にもこの光景を見た…)
父は家老と揉め脱藩し、一家が移り住んだ先で私塾を始めた。兄は既に水戸遊学のため家を出ていたので、鈴木は不器用ながら父を手伝った。その父が亡くなり、水戸で学んでいた兄は一時的な父の代役として私塾で教鞭を取ったが、父を凌ぐ弁舌ぶりで評判を呼んだ。遊学に出る前のおとなしく優秀な兄とは違い、難しい話を優しく説き、人を導こうとする姿は鈴木にとって新鮮なものだった。
兄の帰郷により久方ぶりの家族の時間となるはずだったが、兄はそれを拒むようにこうして一人、蝋燭の明かりを頼りに本を読んでいた。兄は読み終えた本を積み上げていき、それが日に日に高くなって行く…それが自分と兄との歴然とした差のように思えた。
(兄上は遠い人になってしまった)
家というしがらみから解き放たれた兄は、まるで人生を謳歌するように自らの信じる道を切り開いて行った。
鈴木はそれを変わらぬ同じ場所から眺めていた。幼少から母の顔もわからず、義母に疎まれ続けた自分にとって『鈴木家』は唯一の居場所であり、兄が帰ってくる場所だと信じていた。
だから内海から手紙が届いて、それに飛びつくように兄が家を出ていくと言った時、
(でももう兄上は帰ってこないのだ)
とはっきりとわかった。
兄にとってこの家は不要で、むしろ足枷にしかならないのだ。そしてきっと弟という存在も同じ…。
そう思った途端、無性に哀しくなった。自分の人生とは、存在意義とは、いったいどこにあるのかーーー。
幼少の頃、気が向いた時だけだったのかもしれないが、兄は優しく接してくれた。その記憶さえもいらないと打ち捨てられるのではないか…。
「…なんだ?」
鈴木はハッと我に返った。きっと長い時間、伊東のことを見つめていたのだろう、訝しむようにしていた。
「な、なんでもありません」
「…もう消す」
伊東は蝋燭の火を吹き消した。そして鈴木に背を向けて横になった。
薄暗闇のなか、鈴木は目を閉じた。
兄が水戸に帰ると行った時、自分は置いていかれるのだと思った。幼い時から近くて遠い兄はもうどこかへ行ってしまう…そう思った時に突然自分のなかにどうしようもない独占欲が沸き上がった。兄は自分だけの兄であり、家族であり、それは一生続く…そんな身勝手な感傷に突き動かされて、忘れてほしくなくて、寝入る兄に口付けた。それが今日まで続く禍根の火種になるなんて思わずに。
(子どもだった…)
自分だけの秘密の感情にしておけば良かったのに、結局自分本位の行為は兄に気づかれてしまった。
『何も…聞きたくない。お前の言うことは、何も…!』
そう突き放して去って行った兄は、嫌悪ではなく怒りでもなく、傷ついているように見えた。そんな風に送り出してしまったのは紛れもなく自分だった。
そんな兄が自分と距離を取るのは当然で、自業自得だ。
「…兄上…」
半畳ほど向こうで眠る伊東の背中に鈴木は声をかける。それは譫言のように小さかったはずだが
「なんだ?」
とすぐに返答があった。
「…なぜ、俺を連れてきてくれたのですか?」
もう二度とこんなふうに兄弟の時間など過ごせるわけがないと覚悟していたのに。
すると伊東は少しの沈黙の後に答えた。
「内海にそうすべきだと言われたからだ。留守中の働きぶりに報いるべきだと」
「…内海さんですか…」
いつも兄に影響を与えるのは内海だ。水戸遊学で親しくなり、伊東道場への入門も同じ時期だったと聞く。兄は家族を捨てて内海を選んだ…新撰組に入ってからもずっとそう思っていた。
けれど。
「…そうしても良いと思った」
聞き間違いかと思ったがはっきりと聞こえた。
「兄上…」
「もう寝る」
暗闇のなかで衣擦れの音がして、兄が今度こそ寝るのだとわかる。話を切り上げたのはこれ以上の会話を拒んだのか、本当に眠たかったのかわからない。
けれど短い会話だったが、寝所を共にし兄弟として語らった…それは幼き頃には叶わなかった光景でもある。
(俺はずっと…こうしていたかった)
血の繋がりはないのかもしれない。同じ家に住んでも実母に可愛がられた伊東と乳母に育てられた鈴木とは住んでいる世界が違うのかもしれない。
けれどずっと、誰よりも近くにいて共に生きてきた。たとえ遠ざけられても互いの存在を感じていた。
(捨てられたくなかった)
別れの時は悲観していたけれど、今ならわかる。
いつも面倒そうで冷たそうで、決して表には出さない兄の冷酷な対応に心を痛めていたけれど、それでも見捨てはしなかった。御陵衛士として脱退する時も、新撰組に置き去りにはしなかった。
鈴木は再び目を閉じた。
狭い物置のような部屋できっと緊張して眠れないと思っていたのに、いつの間にか健やかな寝息を立てていた。










解説
なし


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