わらべうた




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気を利かせたつねはたまとともに別の部屋に移り、土方は来訪した総司の姉、みつに向かい合った。
みつは土方が帰郷していることを知らなかったようでたまたま居合わせることになったのだが、それでも予感があったのか土方の顔を見ても取り乱しはしなかった。
土方は深々と頭を下げた。
「…おみつさん、申し訳ありません」
謝るべきではないし、謝って欲しいとすらみつは思っていないだろうが、土方はそうせずにはいられなかった。
「ご両親の労咳の話を耳にしていたにも関わらず…気配りが足りなかった。総司が発症を隠していたことにも気づかずに…」
「頭をお上げください」
みつの凛とした声が聞こえ、土方はゆっくりと頭を上げた。
「…労咳は血脈の病とも聞きます。総司が労咳に冒されたのは運命として決まっていたからに違いありません。もしくは私が土方様に託してしまった嫌な予感が当たってしまった…ただそういうことなのでしょう」
みつはきっぱりと土方の後悔を否定した。姉として、親代わりとして、武士の娘としての誇り高い横顔はどんなに地味な衣服に身を包んでいたとしても、何よりも強く麗しく見えた。
感情を見せずに固く引き結んだ口元を見ると総司が言っていた通り、みつは覚悟を決めて返事をしたためたのだろうのわかる。食い下がったところで無意味な禅問答になるだろうと思い、土方は「申し訳ありません」と言ってそれ以上は謝罪しなかった。
みつは表情を変えずに土方を見据えていた。
「それで…あの子からこのままお役目を続けて、新撰組に残ると伺いましたが」
「あちらでは幕府や会津の名医に診察してもらえます。こちらほど静かな環境とは言えませんが、本人の意思も固く…いまは様子を見て支障ない範囲で隊務を続けさせています」
「『支障ない』とはお役目のことですか?それとも総司の病のことですか?」
みつは土方を整然と問い詰める。総司が時々『姉は厳しかった』とぼやいていたが、なるほどこうやって叱られていたのだろうと思った。
「…どちらもです。おみつさんならご存知でしょうが、頑固な総司は自分の身体に障りを感じても、役目を果たそうとする。ですが逆に自分の役目に己自身が支障をきたすようになれば、ちゃんと自分で退くでしょう。その日まで…客観的に見て、続けさせるつもりです」
それはそう遠くない未来なのかもしれない。誰にもわからない先ばかりを想像するのは気が進まないが、江戸で待つみつにとって末弟の行く末を毎日気に病んでいるだろう。土方の曖昧な言葉は、彼女にとって満足のいく返答ではなかろうと土方は思ったのだが、
「安心しました」
とみつはようやく微笑んだ。
「武士として、きっとあの子はお役目をまっとうしたいと思っているでしょう。でも病は移るとも言われています…残ることで新撰組や近藤先生のご迷惑になってしまっては本末転倒だと危ぶんでいたのです。でも土方様は総司の想いを汲んで、見守ってくださっている…有難いことです」
みつは両手をつき、土方のように深々と頭を下げた。
「隊の重荷となっていることでしょうが、どうか武士として務めを果たさせてやってください。そして、身を引くべきだと思ったら…近藤先生から引導を渡してください。そうしたらきっと、あの子は納得します」
「…」
「私は…いつかその日が来たら、よくやったと褒めてやりますから…」
顔を伏せたみつが、ようやく泣いているような気がした。
みつは表面上の言葉では総司の選択を後押ししているが、本音は真逆なのだろう。帰ってきて欲しい、養生させて今まで離れていた分を甘やかしてやりたい…そんなふうに叫んでいる気がした。
けれど土方はなにも聞かなかった。
たとえそう思っていたとしても、凛とした眼差しで告げた言葉こそが彼女の選んだ『伝言』なのだ。総司の言う通りその選択を尊重することこそがみつを思いやるということなのだ。
「わかりました。必ず…そうします」
土方はみつと約束した。今度こそその約束を守ると誓った。
時がうつろい、ひっそりと静かになった試衛館には誰はもう誰もいない。輝かしい未来を祈ったあの日々はとっくに去り、時が経ったのだ。


伊東は浮かない顔で尾張を後にすることになった。
御三家筆頭である尾張藩は、やはり佐幕思想が強いため、『御陵衛士』の肩書では話さえさせてもらえず仕方なく『元新撰組参謀』だと名乗ると幾分か態度を軟化させた。しかし前藩主である徳川慶勝に面会することはできず、託されていた長州の野口という者からの文を託し、伝言するに留まった。実際のところ、慶勝公が現在の幕府への不信感から薩長へ靡きつつあることを臣下たちは警戒しており、伊東のように幕藩体制から帝の元での合議制を訴えるような者を会わせなかったのだ。きっと文も届かず破り捨てられるに違いない。
「このまま尾張に居ても埒が開かない。…最低限の務めは果たした、都に戻る」
「わかりました」
鈴木も同意し、来たときと同じ道を辿る。しかし伊東は歩調を緩め、少し後ろで歩いていた鈴木と並んだ。
「兄上…?」
「これを読め」
「これは…」
「藤田東湖先生の『回天詩史』だ」
「東湖先生の…」
鈴木は伊東から手渡された『回天詩史』を受け取った。伊東ほど熱心に勉学に勤しまなくとも、藤田東湖の名前を鈴木は知っていた。
「私は誦じて覚えるほど読んだ。先生の志こそが私の礎となり、その無念の死を遂げた先生のために命を賭して国のために働くことを、私と内海、そして…小四郎は誓った」
「小四郎…藤田小四郎殿ですか?」
伊東は頷いた。藤田小四郎は藤田東湖の子であり、天狗党の挙兵で処刑された。
「小四郎とは旧知の仲で私が知りうる中で一番賢く、行動力のある男だった。東湖先生の気質を継いでいて、少し気が短いところはあったが、自然と皆を従わせ…人を惹きつけるような。伊東の婿養子になった後に再会したが、そのとき小四郎は横浜鎖港のために挙兵を目指し、同志を集めていた」
「天狗党の…」
「天狗党という名前を小四郎が名乗ったわけではないが、自然とそういう風に呼ばれるようになった。小四郎は私と内海を挙兵に誘いに来たが…断った。既に藤堂くんから新撰組加入の誘いを受けていたからだ。もし藤堂くんが来ていなければ、私は小四郎との友情に駆られて天狗党に参加していただろう」
「…」
鈴木はサァッと血の気が引くような気持ちになって絶句した。それは伊東にとって人生の分岐点であり、一歩間違えれば天狗党のひとりとして処刑されていたのだ。だが伊東はそれを「幸運だった」と言いたいのではない。
「小四郎の死に際がどれほど屈辱的なものだったのか…それを思い出すだけで幕府や一橋公に対する憎しみを覚える。だが、いまは倒幕だ開国だなどと議論する暇はない。新しい政を始め、諸外国と対等に渡り合わねばこの国で戦争が起こるのだから」
「戦争…」
「その話はまた今度する。…だが、一つだけお前に言っておかなければならないと思っていた」
「…はい」
伊東は足を止めた。鈴木は本題だろう、と背筋を伸ばして兄と向き合い身構えた。
「…お前は不器用すぎる。そして愚かだ。直情的で目の前のことしか見えていない。無駄に敵を作り、周囲を信用せずに孤立するのはただ命を縮めるだけだ」
いつもの罵倒ではなく淡々と事実を並べられ、鈴木は俯いた。これまでの振る舞いはたしかに兄のいうとおり短絡的で短慮だっただろう。
「お前は人望のある小四郎とは違うが、向こう見ずなところは少し似ている」
「え?」
「だから…」
伊東はそこまで言いかけて急に口を噤んだ。そして周囲に視線を向けて警戒するように刀を抜いた。鈴木も同じように従い刀を抜いて構えた時、ガサガサッと草木が揺れて目の前に四、五人ほどの顔を隠した刺客が現れた。彼らは二人を囲み一気に斬りかかる。鈴木は刺客の正体に気取られたが、
「集中しろ!」
と伊東に一喝されて無駄な思考を止めた。そしてただ目の前に敵に集中し、兄と背中合わせになるようにして刺客に相対した。兄を傷つけられるわけにはいかない、といつにも増して剣が冴え渡り相手の急所を突くには至らずとも追い払うことができた。伊東はさらにその上をいき、二人殺して刀を鞘に戻す。
「兄上、お怪我は…!」
「ない」
「この者共は一体…」
「考えるまでもない」
伊東はそう言うと「行くぞ」と早足で歩き始めた。この場に残っていてはさらに追加の刺客に狙われる。この尾張にいる限り、身の危険があるのだ。
しかし鈴木は尋ねずにはいられなかった。
「あ、兄上…先ほどのお話の続きは…」
「…」
そんな悠長なことを言う鈴木に苛立ったのか、それとも興が削がれたのか、伊東はしばらく黙っていたが、
「兄上、このような機会はまたとありません。お聞かせください」
と鈴木が食い下がるとようやく口を開いた。
「…小四郎が死んだことを思い出すと、お前も死ぬような気がする。小四郎より愚かで単純なお前はきっと早死にする」
「は…」
「お前が私の弟であると言うのなら、お前は年長の私よりも長生きするのが当然だ。だからお前は自省し、行動を改めろ。『回天詩記』を暗記して東湖先生の辛抱強さを学べ」
伊東は「それだけだ」と話を切り上げてより早く歩き出した。
鈴木はしばらくその場に立ち尽くし、兄の言葉を頭の中で噛み砕く。
(兄上は…自分よりも長生きしろと、おっしゃった…?)
俄には信じられずに何度も反芻するが間違いない。疎まれ遠ざけられていたのに…まさか兄の方から歩み寄るなんて。そして何よりも
(俺は兄上にとって弟だったのか…)
『お前』『あれ』などと抽象的に呼ばれ存在すら疎ましく思われている自分のことなど、『弟』などと認識していないのだろうと思っていたのに。
鈴木は小さくなってしまった伊東の背中を追いかけた。
幼い頃、兄とは同じ家に住んでいながらもたまにしか会えなかった。父から身に覚えのない子だと遠慮され、母からは血の繋がらない他人だと蔑まれるのは、幼い自分には切なく寂しかったが、心の穴を埋めてくれたのは気が向いた時に遊んでくれる兄だけだった。その時間が特別嬉しかったことを覚えている。
あの時の記憶が蘇り、無性に
『兄上!』
と無邪気に呼んでみたい気がした。











解説
尾張行きは篠原泰之進が同行したそうですが、変更しています。


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