わらべうた




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橋本皆助が水野八郎として陸援隊に入隊した数日後、村山が同じ門を叩いた。彼は中岡慎太郎直々の招きで入隊した水野という存在と同じくらい、土佐と水戸の隊士たちに注目された。
(長州者か…)
身分出自を問わない陸援隊において、彼が長州出身であるということは足枷にはならないが、噂の的にはなる。今でこそ長州と土佐は倒幕の密約を交わすほど距離を縮めているが、数年前までは真っ向から対立する藩同士であったのだ。
そしてその見た目も浮いていた。年齢の割には童顔で小柄、漆黒の黒髪と同じ丸く大きな黒い瞳はまるで宝石のように光を放ち見ているだけで吸い込まれそうだった。そんな可愛らしい見た目をしているのに、いつも勝ち気で負けず嫌いで不器用で…まるで毛を逆立てて威嚇する子犬のような。それがまた田川のような者の歪んだ庇護欲を誘っているのだが、本人には自覚がなくただ「舐められている」といっそう自分を追い詰める。
(俺のように賢く生き延びなきゃ、あれはいつか壊れちまう)
周囲の視線の意味に気づかず、ただがむしゃらに喧嘩を買う村山と違い、水野は心得ていた。
昔から人の機微を察するのは得意だった。周囲の人間が自分に何を求めているのか…わかるからこそ、自分を貫くのが面倒で当たり障りなく過ごしてきた。…だから敵だと思われるなら懐柔してしまえば良い。
色眼鏡で水野を遠巻きに眺める者のなかに数人紛れ込む羨望と期待の視線…それに応え、望むように抱いた。毎夜相手を変えて関係を持ったところ、なにかと融通されるようになり一目置かれることとなった。そして自然と隊の内情や土佐の実情、水戸の噂話などを耳にするようになり、御陵衛士の間者としても都合の良い立場になっていったのだ。
(何事もうまく立ち回るべきだ)
陸援隊においても、御陵衛士においても、自分の果たすべき役割を演じることか長生きのコツだ。我を通して短命など無意味だ…水野は悟っていた。
土佐白河藩邸は広く、空き部屋も多い。秘密のことに及ぶには都合も良い。
(月真院で気の合わぬ奴らと顔を合わせるより余程気が楽だ)
「あ、あん!」
「…静かに」
やたらと嬌声を上げる今日の相手の口を塞いだ。水戸脱藩の若い隊士は初めて会った時から水野に熱っぽい視線を向けていた。すぐに関係を持つと先輩の愚痴や故郷の話を軽々しく話し、良い情報源となっているのだが、やたら束縛が強く他の者を相手にしていると嫉妬するので面倒になってきたところだ。
背後から彼の手を掴み、乱暴に抱くーーーそうしている時の自分はただただ性欲に支配された身体を持つ“無”である。
「あ、ぁ…もっと」
相手にせがまれて仕方なく壁に押し付けると、ちょうど部屋の外から誰かの声が聞こえてきた。
「あの長州者、まっこと生意気で目障りや!」
訛りは土佐、声は低い口調も荒い…土佐の田川だろう。彼はいつも数人の取り巻きを連れているので彼らのやりとりだ。
「ことあるごとに楯突いて、自分の立場をわかっちょらん」
「一度懲らしめたらどうぜよ?」
「そうやそうや」
取り巻きたちは田川を持ち上げる。田川はその大柄な身体で威圧感がある上に家柄でも上士の部類に入るそうでいつも偉そうだ。取り巻きたちも心から心酔しているというわけではないが、体に染みた上下関係のせいか田川に逆らうことはない。
「誰っちゃあ手を出しなさんなや、ありゃわしの獲物や」
下卑た言葉と嘲笑が耳に障って、水野の手が止まった。行為に耽る若者は物足りなさそうにして振り向いて
「どうがした…?」
と尋ねた。一気に熱が冷めたのが伝わっただろう。
「…堪忍、ちょっと疲れたみたいや。今日はおしまいにしてもええか?」
若い隊士はムッとして唇を噛んだので「またな」と約束をし取り繕ってその場はお開きになった。相方が去っていき、水野は衣服を整えつつ考える。
(村山に忠告…いや、そんなこと言って聞くようなタマじゃないな…)
気が強い村山なら田川に刃向かって先制して噛み付くだろう。それは田川を悦ばせるだけだ。
自分でもどうして村山のことが気になるのかわからなかったが、あの陰湿な田川が村山を犯すのかと思うと無性に腹立たしかったのだ。
水野が考え込みながら自分の部屋に戻ろうとするとちょうど村山に居合わせた。彼は廊下に何故か立ち止まり、ジッとある方向を見つめていた。
(なんだ、一体…)
水野が気になって彼の視線の先を覗くと、そこでは水戸の隊士たちが集まって碁盤を囲んでいた。それを見つめる村山の視線はまるで子どものように羨望している。
「囲碁、好きなんか?」
水野は思わず村山に話しかけてしまった。彼はハッと我にかえって少しだけ頬を赤らめると「何でもない」とそのまま逃げるように去っていってしまった。
(聞いただけなのに…)
あのリアクションでは肯定しているだけではないか。たかが囲碁が好きだということを口にするだけで彼はあんなに虚勢を張って、
(いじらしいな)
水野はフッと笑ってしまった。


まさかあの時は、その後に村山と偽りとはいえ念者の関係になるとは思わなかった。
村山を囲碁に誘い距離を縮めると、ただ彼は不器用で人見知りなだけで、誰かと揉めたいと思っている訳ではないとわかった。むしろ『長州者』と指を指されて居場所がなく孤独だっただけで、水野が他の隊士との間を取り持って仲介すると嬉しそうにしていた。気を許した途端、向けられる笑みが人懐っこくて
(これは…確かに庇護欲を唆る)
と思ってしまったくらいだ。それ故にその後、湯屋での事件が起こり『偽りの念者に』と申し出てしまったのだ。
当然、田川の機嫌を損ねることになった。それまで表立って彼と対立したことはなかったが、
「人のものを横取りするがは気分がええか?」
と田川に呼び出され、強く睨まれた。
湯屋の一件で良いところで助けにきた水野を恨めしく思っていたところに、彼らが念者だという噂になって苛立ったのだろう。水野を睨みつけ怒気を孕んだ声だった。
しかし水野は怯まず微笑んだ。
「人のものもなんも、村山君はもともと俺のものだし、彼もそう思てくれてる。むしろ君が強引に横取りしようとしただけや」
「なんやと?!」
「フラれた腹いせに怒鳴りつけるなんて格好が悪いんやないか?」
涼しい表情を崩さない水野に、田川はさらに怒りその拳を振り上げる。悔しさに目が血走り、眉は吊り上がり、まるで鬼のように顔を真っ赤にして振り下ろした拳は、水野の耳元で掠った。
「…そうやな、俺に手ぇ出せへんほうがええ。中岡隊長とは懇意にさせてもうているし、君も目ぇつけられたないやろう」
「くっ…」
田川もそれがわかっていたからこそ、確実に殴れなかったのだろう。
しかし手は止まっても口は止まらなかった。
「わしゃ知っちゅーぞ!われは土佐や水戸、若い隊士に見境のう手を出いちゅーやろう。隊長へ伝えたらわれはどうなるろうな?」
田川は勝ち誇ったように水野を指差して嘲笑ったが、水野は「ふふ」と腕を組んだまま笑った。
「なにがおかしい?」
「そういうなら俺と関係があるちゅう彼らに聞いてみるとええ。皆、別れを切り出され昨日今日と枕を涙で濡らしてるはずだ」
「なんだと?!」
「俺はもう村山君に本気や。隊長に告げ口をしてもかまへんが、素行の悪い君と懇意にしてる俺…どちらの話を隊長が信用されるか、考えたほうがええ」
「……!」
遂に反論する言葉を失ったのか、田川は悔しそうに顔を顰めると「ふん!」と背を向けてわざとらしい大きな足音を立てて去っていった。
その場に残された水野はふうとため息をつきながら、口元に手を当てた。
(今の言葉にどれくらいの本音があっただろう…)
田川の喧嘩を買ってやるつもりではいた。湯屋での一件は未遂とはいえ村山に恐怖を植え付けたのだ、これくらいでは仕返しにならないだろう。
けれど自分が彼に本気だと告げたあの言葉は、決して彼を苛つかせるために言ったものではなく、自分の願望ではなかったか?田川を牽制する言葉は全て嘘だったか?
自問自答しながら歩いていると、バシャバシャと水の音が聞こえて視線を向けると、村山が洗濯板を片手に羽織を洗っていた。まるで土の上で踏まれたかのような汚れっぷりは、きっと嫌がらせなのだろうが、村山は水野に助けを求めるどころかまるで何もなかったかのように淡々としている。
水野はしばらく離れた場所でその横顔を見ていた。少し気難しそうな眉毛に、凛として大きな黒い瞳、高い鼻梁に強く惹き結んだ唇…。
(ああ…笑わせてみたいな…)
ツンと冷たく強いあの顔が、自分の前だけで綻び、悦び、笑い、泣いたならーーー彼の特別になれるのではないだろうか。
水野は足を踏み出して、懸命に汚れを落とす村山の元へ向かった。
「これは酷いなぁ…派手にすっ転んだか?」
「…そうじゃ、ものの見事にな」
彼は弱みを見せようともせず、水野の冗談に乗って少しだけ笑った。強気なだけではない、どんな時にも彼は自分を見失わない芯がある。
(俺にはない…)
ゆらゆらと時勢という風に乗って、立場と主張を変えてきた。尊王攘夷に傾倒し天狗党に関わり、命からがら逃げ延びて伊東を頼りに新撰組に入隊し、肌に合わないと感じ脱退した。今は身分を偽り陸援隊に潜入している。もし彼が同じ人生を歩んでいたなら『恥ずかしい』と感じ腹を切っていたかもしれない。
(綺麗な目だな…)
残暑の日差しと、洗濯板で舞う水飛沫が彼の瞳を輝かせる。それは光を吸い込む宝石のように見えた。


ーーー竹林を前に口づけを交わすと、村山は抵抗せずに受け入れた。水野にとってそれは意外な反応であったが、彼にそのつもりがあるのなら、と後頭部に手を回し逃げられないように抱きしめて、もっと強く重ねると流石に身じろぎして
「苦しい…」
と村山は漏らした。水野が離れると彼は頬を赤らめて苦しそうに呼吸をした。
「息継ぎが下手やな」
揶揄うと村山は「うるさい」とさらに恥ずかしそうにして背を向けた。そして
「君だって、下手な言葉遣いやめたらどうじゃ」
と反抗して水野を置いて歩き出した。水野はしばらく立ち尽くす。
(驚いたな…)
離れて久しい故郷の言葉を使っていたのは自分ではない『水野八郎』を演じるための、スイッチのようなものだった。そうすることで別人になることができ、そのおかげで誰にも気づかれることはなかったのに。
水野は村山を追いかけた。
「村山君」
「…な、なんじゃ」
「俺たちは本当の念者になったんだよね?」
「し…知らん」
そう言いつつも水野が繋いだ手を村山は拒まなかった。
水野は自分でもどうかと思うくらい急いた気持ちが止まらず、「証が欲しい」と村山を誘って近くの茶屋に雪崩れ込んだ。
口付けだけでは物足りず、襟に手をかけて肌を晒す。小柄な白い肌は一瞬女人のそれのように弱々しいが、固くしなやかな筋肉を纏う。水野は上等な調度品に触れるような緊張を感じた。
「村山君、いいのか?」
「きっ…君が誘ったくせに今更…」
顔を真っ赤にした村山はたどたどしく水野の首に手を回して「良いから」と応えた。
「良いから…早く、抱いてくれ。後悔する前に」
「後悔などさせるものか」
うぶなはずの村山があっさりと受け入れてくれるのは意外だったが、すぐに疑問は消え失せ悦びへと変わった。
そうして過ごした一夜は水野にとって特別なものだった。心の底から求めた人と指先から足先まで重なるーー何もかもが満たされるような気がした。
初めて幸福というものを味わった。
だからそれが全ての始まりで、同時に終わりになるとは思わなかった。





解説
なし


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