わらべうた




731


「武装蜂起…」
物物しい言葉に斉藤は(いよいよか)と覚悟する。土佐が幕府へ大政の奉還を強く求める建白書を出し緊張は高まっている。西国は「慶喜公は突っぱねるだろう」とたかを括って戦を前提として兵を都へ集めているが、土佐がその先鋒を切るとなればさらに勢いが増す。
と、そこまで思い至ったところで
「まあ、嘘なんですけどね」
水野があっさりと手のひらを返したので、流石に苛立った。
「お前…」
「そう怒らないでくださいよ。中岡隊長はそういう偽情報を流して間者を炙り出すつもりのようです」
「間者…」
「身分出身を問わない陸援隊なら、他所から間者が紛れ込んだっておかしくはないでしょ」
水野は自分のことを棚に上げて語り、「もらいますよ」と空いた盃に手酌で酒を注いだ。酒に強いのか水のように飲み干した。
「だから、伊東先生にはくれぐれもそのような噂話に踊らされませんようにお伝えください。むしろそんな話を持ちかけてきた奴がいたら、それは間者です」
「…了解した」
ようやく水野がまともな間者らしい働きを見せたので、疑り深い内海も少しは安堵するだろう。しかし土佐蜂起の予告など、現実味がありすぎて誰もが斉藤のように身構えてしまう。間者を炙り出す以前にまことしやかに流れそうな噂だ。
水野は二杯目の酒を飲んで
「新撰組にも伝えますか?」
と飄々と尋ねてきた。彼が斉藤のことをどう思っているのかは以前匂わされたので理解しているが、彼と馴れ合うつもりはない。
「新撰組とは縁が切れている」
「…じゃあ斉藤先生はどこの間者なんですか?」
「…」
あまりに馬鹿げた質問で、斉藤は答える気すら起きずに酒を飲み干した。けれど水野は冗談めかす風でもなく、今度はちびちびと酒を含みながら口を開いた。
「…俺はねぇ故郷を出て、水戸天狗党に傾倒した。でもあっという間に身が危険になって顔見知りだった伊東先生を頼って新撰組に入ったんですよ。でも合わなかった…なんていうか別の所に住んで、水が合わないとか言うでしょ?あんな感じで、漠然としてますけど入隊した途端に自分の居場所じゃないと分かった…でももちろん抜けられない。だったらひっそりと身を潜めてせめて死なないように、平凡であろうと心掛けて、脱退の機会を待っていたんです」
「…それで御陵衛士に?」
「倒幕だろうと開国だろうと、墓守だろうと何でも良い。新撰組を抜けられれば良かった。…だからまた同じ失敗を繰り返して、御陵衛士にも馴染めなかった」
伊東の元で集まった御陵衛士は特に結束力の強い集団だ。そのなかで新撰組を抜けるためだけに加わった水野にはまた『水が合わなかった』のだろう。
彼は自嘲するように薄く笑った。
「だから陸援隊に行けと言われた時は、正直『良かった』と思ったんですよ。今度こそ自分の居場所を見つけられる…まあ、そんな甘い世界じゃないですけど、でも今は…親しい奴もできて悪くないんですよ」
「…」
「だから正直…人を試す立場ってのは気が進まない。俺は間者は向いてないな…そう思いません?」
水野の胸の内を聞いて、どうやら同じ立場同士で愚痴りたいのだろうと察し、斉藤は心底呆れてため息をついた。
「…そう思う、お前は間者に向いていない……そう答えたら満足か?」
「…」
「それを聞いて己への慰めとしたいなら、言ってやらないでもないが」
己の罪悪感を無くしたいためなら、なんてくだらない慰めなのだろう。ただ手のひらから溢れていくだけで、なんの意味もないのに。
水野は「ふっ」と口元だけで笑った。
「手厳しいですね」
「嘆くのは勝手だが、それが命取りになることを忘れるな。使い捨てにされたくないのなら」
目の前の男が間者だと知っているならなおのこと、本音など話すべきではない。
斉藤は多めの勘定を置いて、刀を持って立ち上がる。
そして
「お前は間者には向いてない」
と慰めではなく、冷たく突き放す言葉を残して部屋を出たのだった。



総司は困っていた。
「土佐が大政奉還の建白書を出しただと!背後では武力をチラつかせるなんて脅しではないか!これでは万が一、公方様が奉還されても戦になる。内戦をしている場合ではないと俺を諭した後藤様は何を考えておられるのか!」
顔を真っ赤にした近藤が憤りながら矢継ぎ早に文句を並べるが、総司には良い返答が思いつかない。隣にいた山崎に視線で助けを求めるが、彼も困り顔で共に土方がいないことを嘆くしかなかった。
腕を組み苛立つ近藤に、総司はおそるおそる尋ねた。
「…ご、後藤様とはいまだに?」
「お忙しいのだろうな!」
「せめてどういう建白書だったのか、拝見したいものですね」
「写しを見せてくれるように頼んでいるが、返答がない!」
「…お忙しいのでしょうねぇ…」
…どうにか慰めるために発した言葉が、全て近藤の怒りの炎に薪をくべていく。
すると山崎が口を開いた。
「陸援隊の村山に探らせましょう」
「そうだ、そうだったな。村山君はどうしているのだろうか」
「銃の調練については詳しく知らせてきています。陸援隊は異国から軍人を招き、何もかもやり方が違うとか…」
「…それは確かに、有用な情報ではあるが」
大政奉還の建白書に関するものではないのか、と近藤は少し残念そうにする。けれどちょうどその時、総司が軽く咳き込んだので「すまん、昂りすぎたな」と少し冷静になった。すると突然、
「失礼します」
と手拭いを肩に掛けた町人風の男…監察方の大石が目の前に現れた。不動堂村の屯所には監察しか知らない人目につかない裏口があるそうで、こうして突然やってくるのは不自然ではない。
近藤は「ちょうど良かった」と期待を込めて少し口角を上げた。
「今、村山君の話をしていた所だ。君が手助けしているのだろう?何か知らせは?」
「…陸援隊が蜂起する話があります」
「なに?!」
ようやく鎮まっていた近藤の感情が別の意味でまた昂まったが、流石に山﨑も表情を変えた。
「いつや?」
「三日後。中岡慎太郎が軍備を進めていると」
「三日後…!」
あまりの急展開に近藤は立ち上がった。
「会津に知らせる。総司、隊を頼む」
「わかりました」
近藤の表情は一気に臨戦態勢となり、早速羽織に袖を通し刀を携えて出て行き、山﨑もそれに従った。彼らの緊張感のある慌ただしさの目の前すると総司も気が急いてまた咳を繰り返した。するとその場に残っていた大石は去ろうとした足を止めた。
励ますでも、助けるでもなく、咳き込む総司を見ていた。彼に手を差し伸べてほしいわけではなかったが、息苦しいなかで微かに見える大石の表情は…はっきりと憐んでいた。
「先生!」
山崎が呼んだのか、咳の音を聞きつけたのか、山野が飛び込んできた。喀血はしなかったが身体中に悪寒が走ってどんどん自分の具合が悪くなるのがわかる。
山野に言われるがままに横になり、息を整えているといつのまにか大石はいなくなっていた。
(いつかあんな風に歳三さんに見つめられたら…僕は身を引こう)
役に立つためにここにいる。山野や部下に煩わしい思いをさせているかもしれないが、それでも彼らに頼りにされているうちはまだ働きたいと思う。
けれど大石のように、あからさまな憐みと同情を向けられるようになったら…この無謀な旅は、きっとそこで終わりとなるだろう。






解説
なし


目次へ 次へ