わらべうた




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土佐藩が幕府への大政奉還を促す建白書を出したことが世の中に広まり民衆の不安を煽るなか、中岡は水野を呼び出した。
「村山君は無罪放免となったそうや。新撰組から身元を照会したいと問い合わせがあって、今日中には戻ってくるろう」
「そうですか…」
昨日、新撰組によって村山が捕縛されたという報せが隊内で話題となった。数人の隊士に囲まれて連行される姿を見た者は
「ありゃ助からん」
「殺されるに決まっちゅー」
「村山も不安じゃのう」
と口々に噂したので水野は気が気ではなく、生きた心地はしなかった。かつて所属していた新撰組が敵だと見做せば残酷だとよく知っていたため、いまは心のなかで安堵していた。しかし目の前の中岡は予想が外れて不満そうだったので、機嫌を損ねぬように表情には出すまいと思った。
「…どうやら間者は村山君ではなかったようや。高田という隊士がおったろう?彼が見廻組と通じちょった」
「高田…?彼には何も話していませんが」
「…土佐蜂起の誤報を広めるようにと伝えたのはおんしだけじゃない」
中岡は困惑する水野を不敵に笑った。
水野は自分だけが中岡の懐にいて信用を得ていると思っていたのだが、そうではなく彼にとって手駒の一つでしかないらしいとようやく気がついた。水野は自分以外に間者などいないとたかを括っていた。
(中岡のなかでは、御陵衛士も伊東先生も信用できぬのだろう…)
伊東は中岡の後ろ盾を得たいようだが、元新撰組という肩書きはなかなか消えるものではない。利用されるだけされて、そのあとはあっさり捨てるつもりなのかもしれない。
(まあいい…御陵衛士も、新撰組も、陸援隊も…どうでも)
水野は不安が取り除かれ、かえってさっぱりしたような心地になって、中岡の部屋を後にした。
見廻組へ情報を流した高田は昨日、理由もなく放逐されていた。正体が露見した間者には悲惨な末路しか訪れない…高田は陸援隊かもしくは見廻組によってそのうち処分されることだろう。水野はそれが村山ではなかったということに心底安心していた。
(やはり村山君に間者など務まるはずがない)
彼にほんの少しの疑いを持ったことさえ申し訳ない。自分の立場を棚に上げて「君も同じはずだ」という安易な思考に囚われていたのだと自覚した。
部屋に戻ろうとすると、足をむけた先が騒がしいことに気がついた。
「えらい目にあったねや」
「新撰組ではひどい尋問やったんやないのか?」
「どーたごどやらがしたんだ?」
水野は足を早めて部屋に駆け込んだ。
「村山君…!」
そこには新撰組から解放された村山が、数名の隊士に囲まれていた。皆は水野の顔を見ると「邪魔せられんな」と少し揶揄するようにしながらも退散していくが、水野は構わずに村山の手を握った。
「怪我はないんか?まさか新撰組に捕まるなんて、一体何を…」
水野は村山がじっと自分を見ていたことに気がついた。その大きく光を吸い込む黒い瞳に、いまは深い影がさす。
「村山君?」
「…心配をかけてすまなかった。この通り、怪我もないし酷い尋問を受けてもおらん」
淡々として他人行儀な物言いだった。そして水野の手を払い、目を逸らす。
(人前で手など握ったから怒ったのか?)
水野は困惑したが、村山は立ち上がると
「話がある」
と誘い、そのまま部屋を出て行ってしまった。


水野に教えてもらった人気のない部屋は、もっぱら二人の逢瀬に使う物だったのだが今は違う。
村山は水野と対峙して、意を決した。彼を問い詰める台詞は不動堂村からの帰り道に決めていた。
「君は、俺を間者じゃと疑うちょるのか?」
村山の突然の脈絡のない問いかけに、しかし水野は動じなかった。
「…何を言い出すかと思えば。村山君、新撰組で何か吹き込まれたのか?」
「誤魔化さんと答えてくれ」
「君が間者だなんて疑っていないよ」
水野は本心でそう思っていた。確かに一時心は揺れたが、土佐蜂起を誤報を漏らしたのは別の隊士だと証明されて、いまは水野自身の勘違いだとわかったところだ。
しかし村山はさらに続けた。
「じゃあなして土佐が蜂起するなんて誤った話を俺に話した?」
「…それは中岡隊長からそう聞かされたんだ。まさか誤った話だなんて思いも寄らなかったよ」
「俺を試したんじゃないのか?誰かに漏らすんじゃないかと監視しちょったんじゃ?」 「なぜそんなことをする必要がある?君が長州出身だから?」
「…そうじゃ」
「まさか。君を騙そうと思ったことなんてない」
問い詰め続ける村山と、はぐらかす水野の間にはひりひりとした緊張感があった。間者としては一枚上手の水野はこのまま知らぬ存ぜぬを貫く自信があったが、なぜ村山が頑なに疑うのかはわからなかった。
すると村山は少し沈黙した後に、思わぬことを口にした。
「君の方が間者じゃろう?」
水野は一瞬、息を飲んだ。
「…ハハ、面白いことをいう。村山君、やはり新撰組で妙なことを吹き込まれたのだろう?それを信じてしまうなんてどんな酷い尋問を受けたんだ?」
水野は笑って聞き流そうとしたが、
「君は元新撰組隊士で、橋本皆助という。今は御陵衛士の一員で陸援隊に潜入しちょる…違っとるか?」
「…」
流石に水野は返答できなかった。村山にその名前で呼ばれるなんて思いもよらなかったし、彼の言葉が何も間違っていないことに頭がついていかなかったのだ。
「…村山君、何を言ってるんだ。俺は…」
「君は嘘つきじゃ。そうして涼しい顔をして平気で嘘をつく。…君は俺を好きじゃと言うたけれどそれも俺のことを疑うて、近づくためじゃったんじゃないのか?」
「それは違う!」
水野は村山に近づき、両肩を強く掴んだ。
「君への気持ちに嘘なんか…」
「じゃあ他のことは嘘か?その一つだけが本当で、あとが全部嘘ならば、その気持ちにどんな意味がある?君は俺を疑うちょるのに、俺が好きじゃと?」
「村山君、少し落ち着いて…」
「俺は新撰組の間者じや」
村山があまりにはっきりと口にしたので、水野は聞き間違いだと思った。けれど目の前の村山は目にいっぱいの涙を溜めていて、その黒い瞳がゆらゆらと揺れていた。
「…むら…」
「そう、君の思う通り俺は間者じゃ。新撰組に入隊したのは御陵衛士の分離したあとのことで君のことは知らん。じゃけど君が御陵衛士の間者だということは最初から聞かされとった。本当は君との関わりを持つつもりはなかったが…結果的にはこうなった。だから俺に君を責める資格はない」
「ま、待ってくれ。少し…整理させてほしい…」
水野は村山から離れ、ふらふらと後ずさった。額に手を当て、混乱のあまりに熱を出す頭をどうにか冷静にさせようとする。けれど村山は構わず話を続けた。
「じゃけど、俺は…君を好きになってから、君を信じることに決めた。間者としちゃ失格でも、君が好きだと言うてくれる限りは君を裏切らんと。俺は融通が効かん、だから土佐の蜂起は君が内密の話だ、と言うたから誰にも漏らしちょらん」
「…」
「蜂起の話が漏れたのは、高田という陸援隊の隊士が見廻組に知らせ誤報だと判明した、それがおそらく中岡が間者を炙り出す偽りの情報じゃと…ここに帰る前に新撰組から聞かされた」
水野はすっかり青ざめて言葉を失っていた。
そして村山の目から我慢していた大粒の涙がこぼれた。子供のように涙を拭ったが、なぜ泣いているのかわからなかった。
悲しみか、苦しみか…一番近いのは『嘆き』だろう。
(君を信じていたかった…)
せめて隠さずに「疑った」「すまない」と認めてくれれば、良かったのに。一度の過ちくらいすぐに忘れてこの関係はもう少し続けることができただろう。
(でも…そんなのは俺の勝手じゃ)
続いたとて、すぐに終わる。
悪いのは水野ではなく、さっさと彼の手を振り払わなかった自分だ。
「どねな綺麗事を言うても、君に隠し事をしたのは俺が先で、卑怯なのも俺のほうじゃ。君を責める資格なんてない」
どこかに、間者という立場を超えた絆があって、それが愛なのだと信じていたかった。
でもそれを願っていたのは村山だけだ。水野は村山の正体を知らずにこんな関係を結んでしまったのだ。きっと知っていたら、こんなことにはなっていない。
それは狼狽する水野の様子を見ているとわかる。彼は青ざめて、文字通り頭を抱えていたのだから。
「…俺が間者じゃと中岡に告げりゃあええ。君には俺を責める権利がある、だから…ここに戻ってきた」
自分はとっくに新撰組隊士としても間者としても失格で、ここに戻ってくればいずれ死ぬとわかっていた。だったらせめて資格のある水野に殺された方が良いと半ば覚悟を決めていたのだ。
そして
「でも…本当に、君のことが好きじゃった…」
ただそれだけを伝えたかったのだ。
村山は袖で涙を強く拭い、少し息を吸い込んだ。
「水野君…俺を殺すか、中岡に引き渡すかどちらかにしてくれ。君が選べないなら自分で上官に進言する」
「…」
「一度疑われた者は永くは生きん。死ぬなら己の心情に則って潔く…」
「村山君」
黙り込んでいた水野が村山の言葉を遮った。その目には絶望と悲嘆の色が滲む。
「君は残酷だ。自分の生き死にを俺に選ばせるなんて…俺が君を殺せるわけがないのに」
「…」
「…少し、考えさせてくれ」
水野はそう言って背中を向けて去って行った。








解説
なし


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