わらべうた




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井上が客だと言うので土方が出迎に向かうと、そこには伊庭がいた。
「ご無沙汰してます」
そう言って彼らしくなく丁重に頭を下げてしおらしくしているのは、なんだか居心地が悪い。土方は苦笑した。
「…お前、わざとやってるだろう」
「ハハ、バレましたか。だっていまは同じ幕臣ですし、齢は土方さんのほうが上だし。敬うべきかなと」
「今更だな」
土方が「上がれよ」と誘い、二人は客間に移動した。途中からのぶに会って悲鳴のような歓迎を受けたのは、彼が相変わらず目立つ涼しげで端正な顔立ちをしていたからだろう。
「二年ぶり…くらいですかね」
「そんなに経つか?」
「ここ数年はあっという間ですよね」
伊庭は土方の前に膝を折り、庭の方へ目をやった。秋の涼しい風が彼の髪を靡かせる。
「…日野は静かですね。いまは都も江戸も騒がしくてなんだか疲れます」
「幕府が政権を返上するって?」
「話は伝わってます。こちらではあまりに唐突な話で、何としても公方様をお引き止めしたいという機運の方が強いですがね。万が一戦になった時に備えてフランスの軍師を招いて銃や大砲の調練に急に力を入れてます。…と言っても、幕臣の多くは嫌厭して、幕府の兵だというのにまるで無頼の徒の寄せ集めのようですが」
伊庭の話を聞いて土方は内心ため息をついた。
江戸ではまだまだ危機意識が薄い。長州一国に敗戦した反省もなく新しい武器を受け入れず、古い体制を固辞し続けている。きっと戦場に出れば使い物にならない幕兵ばかりなのだろう。
「そういうお前は?」
「ふふ…それが、さて自分に扱えるものかと試してみたら案外簡単でしたね。弾をこめる、引き金を引く…それだけです。延々と木刀を振り、剣を修行してた頃の自分が可哀想になるくらい楽でした。…まあ、楽だから良い、という話しじゃありませんけどね。いっそ両刀使いになろうかと利き手とは逆の左で鍛錬しているところですよ」
新しい物好きの伊庭は嬉々としていた。心形刀流後継の彼のことだから剣を疎かにはしないだろうけれど。
そして伊庭は
「それで、戦になりますか?」
とはっきりと尋ねた。
伊庭はむしろ戦に尻込みする幕臣よりも現地の土方の意見を求めていたのだ。
「どうだかな…公方様次第だが、長州や薩摩はやる気だ。土佐は…大政を返還するように建白書を出したようだが、それも建前だろう」
「建前?」
「公方様に建白書を却下させて、大義名分を得た後に戦に持ち込むつもり…かもしれない」
「勝てると思います?」
「…勝てると思わない戦には、出たくないものだな」
土方の曖昧な返答を聞いて、伊庭は「そうですか」と憂いを帯びる。江戸にいては信憑性のない話に聞こえるかもしれないが、伊庭は周りの幕臣よりは危機感を覚えているのだろう。
伊庭はしばらく考え込んだ後に、突然「ふっ」と笑った。
「それにしても、かつて何者でもなかった歳さんが当事者となって政を語るなんて」
「こんな田舎の道場でな」
「まったく、世の中はわからない。いくら考えたって机上の空論だ」
伊庭は深く考え込むのをやめたようだった。彼の切り替えの速さは賢さとも言えるだろうが、彼の目は少し泳いでいる。
土方には伊庭が今まで話していたことがただの世間話で、本題ではないのだとわかっていた。だから自分の方から切り出すことにした。
「…伊庭、悪かったな。こうして結局、お前に会う機会があるのなら、総司の病のことをわざわざ文で知らせなくても良かった」
「…」
「お前を悩ませているのだと、返事が来ないことで気がついた。俺はあいつの病のことになると…どうもうまく立ち回れない」
覚悟はしていても、感情は揺れる。これからのことを考えると何も手につかない日もある。だから普段ならもっと冷静になれることを見過ごしてしまう。
伊庭は目を伏せた。
「謝らないで下さい。俺だって気の利いた返事ができず…今だって、なんて言ったら良いのかわかりません。歳さんがどんなに苦しみ、沖田さんがどれほど悔しい思いをしているか…そのことと比べれば俺が遠い場所から悩んでいることなんて、大したことじゃない。…沖田さんは一線を退くつもりは?」
「そのつもりはないようだが…この頃は伏せる日も増えた」
「そうですか…」
伊庭の気質は、総司と近い。歩んできた道は違っても、互いに剣の天才としてその道で生き、死ぬことを覚悟している。それ故に総司が頑なに養生せず命を縮めても隊士として刀を取る気持ちはわかるのだろう。
「歳さん、昔のことですけどね。浪士組に参加することが決まって、俺は沖田さんを引き止めたじゃないですか。武士の身分があるのだから江戸で別の道を開くことができると」
「…そんなこともあったな」
土方は朧げに思い出した。浪士組に加わらずとも総司の腕で生きていける…だから伊庭の話を『悪くない』と思ったのだが、総司はあっさりと断ってしまった。
伊庭は遠い目をした。
「あの時、沖田さんはまだ全然先が見えないのに、歳さんと共に行くことが後悔しない道だとはっきり言っていました。あれは…寒い夜の日で互いの顔すらはっきりと見えなかったけど、沖田さんの目は一片の曇りなく俺を見据えていた。何も寄せ付けないほど強く揺らがなかった…きっと今でもあの覚悟は変わらないはずです」
「…」
「…だからこの先、刀を置くことがあっても、できるだけ長く沖田さんを側に置いてあげてください。危険だからとか体に障るとかそんな理由で遠ざけないで、ずっと共に生きてください。それが…何よりも薬になるでしょう」
「ああ…わかった」
秋の少しだけ冷たい風が木の葉を揺らし、あるいはそれをひらひらと落とす。
別の道を歩むべきだった…土方のどうしようもない後悔は、伊庭の言葉で消えた。きっと総司は何があっても共に上洛しただろうし、同じ道を歩んだだろう。だから労咳になってしまったという結果は変わらないのだ。


大きなくしゃみが二回出た。
「…絶対、江戸で土方さんが噂しているんだ。もしくは彦五郎さんやおのぶさんが源さんと思い出話をしているのかもしれないし、伊庭くんが遊びにきてるのかも」
「はいはい、先生。風邪かもしれませんからゆっくり休んでください」
総司の愚痴を聞き流し、山野は掛け布団を一枚増やした。
「今は暑くても夜は冷えますからね」
「…山野君、近藤先生は?」
「局長は二条城へ行かれて、まだお帰りではありません。もしかしたら別宅でお休みかもしれませんが…山崎組長に聞いてきましょうか」
「…いいえ、皆さんが忙しいのはわかりますから」
山野は「わかりました」と手ぬぐいを絞り総司の頭に乗せる。ひんやりした感覚が身体の熱さを冷ませていくようで心地良い。
山野が去っていき、総司は目を閉じた。
近藤はきっと別宅にいて、隣室の山崎も不在。永倉と原田は岩倉邸に詰めているようでどの部屋もしんと静まっている。
(人恋しい…なんて思うことはなかったのに)
いつも誰かがいて、騒がしくて眠気が飛ぶことはあっても静かで眠れないなかった。
無性に湧き上がる寂しさを感じながら、総司はふと近くにある文机に視線をやった。
(四、五日…文が書けてないな…)
近頃伏せっていることは近藤から知らせがいくだろうが、土方は心配しているだろう。
「約束…したのになぁ…」
寂しさと虚しさと…悔しさが折り重なって心が重く感じた。
何も失ってないと分かっているのに。












解説
なし


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