わらべうた




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「新ぱっつぁん、お公家さんの住まいってのはこんなにも質素でボロ屋なんだなぁ」
近藤から厳命され、岩倉卿の住まいで監視を続ける原田は、相方の永倉にしみじみと漏らした。監察の様に身を隠す形ではなく、あえて新撰組がこの辺りの警備を務めることを宣言し屯するようにしたのは、岩倉卿をはじめとした倒幕派の公家を威圧するためだ。
「岩倉卿は蟄居処分を受けて、一度都を追われてる。昔は幕府に近い公家だったが、それが理由で先帝に冷遇されたそうだ。尊王の浪士に命を狙われる羽目になったが、いまは立場を変えて倒幕派の公家の一員だ」
「…詳しいなぁ」
「岩倉卿は一時は近習として仕えたが、そこから追放した先帝に恨みを持ち、毒を盛った…という噂もある」
「げぇ、本当かよ」
「さあな」
永倉はサッと話を切り上げた。岩倉邸から誰かが出てくる気配を感じたからだ。原田も槍を持つ手に力が入ったが、やってきたのは岩倉に仕える小間使いの少年だった。
「ご苦労さまです」
少年は愛想良く微笑むと、そのまま去っていった。二人は「ふう」と警戒を解く。
「近藤先生は戦だなんだと騒いでいたがここ数日は嘘みたいに静かだぜ。でまかせじゃねえのか」
「だが、土佐の陸援隊だけでなく、続々と倒幕の兵が集まっている。…何かは起こる」
「何かって?」
「…少しは自分で考えろ」
永倉は白い目で原田を見たが、彼は途端に鼻歌を歌い出して聞き流した。
彼らが感じているのはただの嵐の前の静けさに過ぎない。


山崎が近藤の元へ駆け込んで来た時、ちょうど総司も朝の巡察を終えて報告にやってきていた。
いつになく山崎は顔色が悪く、こめかみに汗をかいている。彼は「すんません」と話に割り込み、そして二条城からの知らせだと言った。
「…討幕の勅が下っただと…?!」
「はい…!岩倉卿が主謀者となり、正親町三条家、中山家が連署した密勅が、薩摩と長州へ」
「摂政の二条殿は?!」
「知らぬものだと。秘された非公式の勅でしょう」
「偽勅に違いない!」
近藤は半ば悲鳴の様に叫んだ。先帝の孝明天皇の時代から偽勅が横行したが、今の帝は幼く岩倉卿の思いのままだ。摂政二条斉敬は公武合体派であり、秘された密勅なら尚のこと間違いないと近藤は確信した。
しかし山崎は首を横に振った。
「討幕の勅だけでなく、長州藩主父子の官位復旧の勅も下ったとか。偽勅であってももうことは動いてます。これで薩長は兵を動かし、攻め込む理由ができたのです…!」
いつも冷静な山崎が息も継げぬほど早口に巻くしたてる。近藤は少し苛立った。
「…岩倉卿に張り付かせていたはずだ!静かでなんの動きもないと言っていただろう?!」
「わかりません。ただ、討幕の勅には、この密勅と同時に、会津公と桑名公を誅戮を命ずる勅書が…!」
サッと青ざめた近藤は「こうしてはおれぬ」と立ち上がり羽織を手にして忙しなく支度を始めた。総司もそれを手伝おうとするが
「総司、具合が良いならお前も来てくれ」
「私ですか?」
「山崎君もだ」
「かしこまりました」
近藤の焦った表情を見て、総司は拒むことはできずに頷いた。話の半分も理解できていなかったが、近藤はそう言う意味で共を命じたわけではないだろう。
さっさと支度をしてやってきたのは会津黒谷本陣だった。すぐに会津公の前に通されると傍には浅羽が控えていて、総司を見て少しだけ微笑んだが、厳しい顔に戻った。
「近藤、話は聞いたか?」
「は…っ!これは偽勅でしょう」
「偽勅かも知れぬが、帝のご意志かもしれぬ。来るべき時が来たということだな」
血が上った近藤とは対称的に、会津公は相変わらず凛とされてこの場にいる誰よりも淡々としていた。その様子に近藤も少しだけ冷静になる。
「公方様はなんと…?」
「『考える』とおっしゃって人払いをされた。私も一旦、戻ってきたところだ」
「殿、徳川の威信にかけて公方様は政権返上など一蹴されるはず!戦であるなら我々が前線に立ちましょう!新撰組はこの時のために刀を鍛え、銃を揃えてきたのです!」
「近藤、先走るな。まだ戦の狼煙は上がってはおらぬ」
会津公は逸る気持ちを抑えきれない近藤に苦笑したが、すぐに引き締めた。
「…だが、その言葉は有難い。長州征討の二の舞にならぬよう我々も戦の支度をするが、何か知らせがあればすぐに伝えよ。御陵衛士の伊東にも同じ様に伝えておけ」
「ははっ!」
近藤は深く頭を下げて退出する会津公を見送った。そして早速、
「山崎君、御陵衛士へ知らせを。情報があるならすぐに共有せよと伝えろ」
「かしこまりました」
山崎は近藤に従い、足早に出ていく。するとその場に残っていた浅羽がこちらにやってきた。
「近藤局長、土方さんは?」
「土方は隊士を募るため江戸に向かっておりまして…そろそろ切り上げる頃かと思いますが、まさかこの様なことになろうとは」
「…そうですか。近藤局長、殿はあのように臣下の前では冷静でいらっしゃいますが、話し相手を欲していらっしゃるかと思います」
「私で宜しければ喜んで!」
近藤は勇んで、別の小姓の案内で去っていく。
浅羽は総司に体を向けて微笑んだ。
「沖田君、具合はいかがですか?」
「平気です。それより大変なことになりましたね」
「ええ…殿はああおっしゃっていらっしゃいましたが、おそらく戦になるだろうと。公方様が万一政権を返上されるなどありえませんが、もう動き出したものを止めることはできません…」
「戦…ですか…」
この後に及んでも総司には実感がなかったが、まるで見えない敵に追い詰められているような不快さだけはあった。
「是非、土方さんの見解をお聞きしたかったのですが、江戸でしたか…残念です」
「この知らせを聞けば飛んで帰ってくると思いますよ。浅羽さんがお待ちだと伝えておきます」
「よろしくお願いします。…君は、しっかり養生して、来るべき時に備えてください」
「…わかりました」
浅羽が語る『来るべき時』が目前に迫っているのだと、総司は感じていた。


山崎が御陵衛士に知らせるまでもなく、密勅の知らせは伊東の新しい西国の伝手によってもたらされていた。
「先生!我々は当然、朝廷のお味方として立つのですよね?!」
「討幕軍の一員となりましょう!」
衛士たちはそう信じて疑わなかったが、伊東は明言を避けた。
「…まずは状況を確認する。我々は表向きはあくまで新撰組の分派組織だ。彼らと情報を共有し出方をうかがおう」
伊東の言葉に少なからず衛士たちは落胆したが、藤堂が
「仕方ありません。先生のお考えに従います」
と誰よりも早く宣言したので、衛士たちも納得せざるを得なかった。
そして斉藤は、伊東から陸援隊の橋本と接触し情報を得るように命令を受け、屯所近くに赴いていた。いつものように従兄弟を名乗り橋本…水野を近くの飲み屋に呼び出したのだ。
水野を待つ間、先に酒を頼んだがあまり進まない。
(時期が悪い…)
そのつもりがなくても斉藤の眉間に皺が寄っていた。
討幕の密勅については斉藤の耳にも入ってきていたが、これほど性急に戦へ向かうとは思わず、自分らしくない焦りを感じていた。正直、陸援隊の動きなどは眼中になく二条城にいる将軍がどのような判断を下すのか…戦へ突き進むのか、それとも違う方法で収めるのか、そればかりが気になっていたが、伊東の命令を無視するわけにはいかず仕方なく足を運んでいたのだ。
(戦となれば…御陵衛士は討幕派として戦う。新撰組は当然、幕府につく)
分離という手段で別れた組織が、はっきりと対立する。それはいつか訪れるであろう結末ではあったが、まだ半年だ。
せめて土方と連絡を取りたいとも思うが、江戸にいることは当然知っている。これからの判断に迷った。
斉藤が肘を机につき、考え込んでいると目の前にふらりと人影が現れて、座った。水野だろうと思ったが、
「…何かあったのか?」
斉藤は思わずそう訊ねていた。水野は顔色が悪く表情がない。いつものような調子のよさは消え失せて、まるで別人のようだったのだ。
「酒、もらっていいですか」
「ああ…」
水野は斉藤の盃をとると、あっという間に飲み干してさらに次を注いだ。また飲み干して、継ぎ足して…を繰り返し、しまいには銚子ごと手にしてあっという間に空にする。
「酔えねえな…おい、徳利で持ってきてくれ!」
水野が怒鳴り、女中が怪訝な顔をする。斉藤は「おい」と厳しく諫めるが、水野は苛立っていた。今まで自分のペースを崩さなかった水野がここまで荒れている理由が斉藤にはわからなかった。
「何があった?密勅のことで陸援隊に動きは?」
「…討幕の勅は陸援隊皆が知っています。遂に戦だと息巻いて、次々と武器弾薬が運ばれてきますよ」
水野は投げやりな物言いだが、斉藤は「ほかには?」と問い詰める。
「中岡は陸援隊を他の者に任せ姿を隠しました。幕吏に命を狙われているとかなんとか…居場所は知りません」
「それから?」
斉藤は先を促すが、水野はふっと言葉を止めて今度は斉藤を睨んだ。
「…斉藤先生、本当は知っていたんじゃありませんか?」
「何を?」
「陸援隊に新撰組の間者がいたことです」
「…新撰組の?まさか」
斉藤は動揺しなかった。これくらいのことで眉一つ動かすはずがないが、水野は完全に「知らないはずがない」と決めつける。
「俺は…俺にとって陸援隊が悪くないと思ったのは村山がいたからです。何度も逃げまわって、やっと居場所を見つけた。それなのにあいつは…新撰組の間者だと自分で明かして、正体がバレた以上逃げ場はないのだから俺に殺せと」
「…その村山という者が自分で正体を明かしたのか?」
「あいつは長州者で真面目で短気で…そんなことを疑うやつなんで誰一人いなかった。それなのに…黙っておけば、良いのに…!」
水野は「くそ!」と机を叩き、その揺れで並々と注がれた酒が零れた。
「信じてやれば良かったのに…そんなはずないって思っていれば良かった。なんで俺が…あいつを追い詰めなきゃならないんだ…」
机に突っ伏した水野は肩を震わせる。
飄々としていた彼のその動揺を見る限り、村山は特別な友人かそれ以上の関係だったのだろう。間者の立場を忘れて「まさか」「そんなはずはない」と一切疑わずに信頼した代償がいま返ってきた。
(どいつもこいつも…間者に向いていない)
斉藤はため息をついた。
「足元を掬われると忠告したはずだ」
「…」
「その村山という者はお前よりよほど肝が据わっている。どういう間柄か知らないがいっそ望み通り殺してやったらどうだ。新撰組はお前が間者として入隊したことを聞きつけて、その監視を含めて村山を忍び込ませたのだろう。舐められたものだな」
「…俺はどう思われたって構わない。だが…俺は、あいつを殺したくはない」
「ではそうすれば良い」
斉藤の言葉で、水野はようやく顔を上げた。
「この一大事に新撰組の間者などに構っている暇はない。お前が守り通せるのなら、守り通せば良い。…ただしその責任はお前自身で負うことだ」
斉藤は席を立ち、
「前は俺が払った。勘定はお前が持て、貸し借りはしない主義だ」
と言い放った。酔ってまともな判断力を失った者に付き合う時間はない。そして
「つくづく、お前は間者に相応しくない」
そう再び言い残して、去っていった。








解説
なし


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