わらべうた




739


大政奉還とは、平和裏に政の形を変える手段であった。土佐藩隠居でありながら絶大な影響力を持つ山内容堂は、幕府に恩義を感じながらもその弱体化を止めることはできず、後藤象二郎らの提案を受け政権を朝廷に返還する旨の大政奉還の建白書を提出した。政権を返上し帝の元に集う新しい政を模索する。しかし薩摩や長州などは徳川慶喜がこの案を突っぱねるに違いないと見越し兵を都へ集結させ、この建白書が却下されるのを皮切りに戦へ突き進むつもりだったのだ。
「肥後守」
「…はっ」
二条城へ出仕した会津公は頭を下げた。人払いされたためこの広い部屋には二人きりであり、内密の話だということはわかっていた。
「余は愚か者ではない。容堂の案は踏み絵で、これを踏まなければこれ幸いと薩長が戦を仕掛けてくるのだろうし、土佐もそれに加わる。いや、おそらく土佐だけではない…内戦が起こるだろう」
「…」
「このたびの討幕の勅は偽勅かも知れぬが、どうせ近々同じような勅が下される。死んだ原も大政奉還を勧めていた…政権を返上すれば戦の口実はなくなる。その場しのぎかも知れぬが戦は避けられるのだ」
大樹公の言葉に迷いはない。
「…余は、最後の将軍となりこの幕府を終わらせる、その為に生まれたのかも知れぬ。…ひとつ心残りなのは将軍として城に足を踏み入れることができなかったことだな」
大樹公は苦笑したが、会津公は何も言わずに耳を傾けた。
「…ただ、簡単には終わらせぬ。この二百余年の重みは例え終えたとしても消えぬもの。政権などくれてやるが、どれほど難しい舵取りか…それを薩長の奴等にわからせねばならぬ」
簡単に取って代わるものか。
その言葉には威厳と誇りが滲む。徳川宗家を継いでおきながら将軍職を辞退しようとしたとは思えぬほど力強い決断だった。
会津公は今まで距離を感じていた主人の、本質に触れた気がした。
(誰がなんと言おうと…この御方は大樹公なのだ)
幕引きの為の将軍だとしても、会津にとって裏切れぬ存在なのだ。どれだけ不遇の扱いを受けていたとしても。
「とにかく、戦だと息巻いている奴らの鼻を明かす。肥後守、良いな?」
「…鼻を明かすというのは、いかがなものかと」
「余はお前のそういう堅物さが気に入らぬ」
ふん、と主人は不服そうだが、会津公の口元は緩んだ。
そして改めて姿勢を正し、頭を下げた。
「上様のご英断に従います。万一、戦となったとしても我々は上様の盾となるべく、兵を率いて馳せ参じることをお約束いたします」



慶応四年十月十四日。
「大政奉還…」
近藤の顔色は悪かった。山崎も難しい顔をして、永倉と原田も唖然とする。そして総司は詳しいことはわからなくても(大変なことになった)ということだけをひしひしと感じていた。
昨日、二条城に出仕した多くの大名の前で、大樹公は幕府の大政奉還の意向を示され、そして本日十四日に朝廷へ正式に提出されたのだ。政権だけは手放すまいという下馬票を覆す大きな決断となり、幕府の存続を求めていた近藤にとっては、まさかの展開であった。
状況の飲み込めない原田は「あのさ」とおずおずと手を上げる。
「俺たちは幕臣であり武士だよな?」
「…幕府がなくなったのだから幕臣ではないが、徳川の家臣であることは変わりない。それに公方様は将軍職辞任までは言及されていない。家臣が納得しないと」
「でもそれも時間の問題ですね…政権を保持しない将軍など意味を為さない」
永倉の冷静な指摘に近藤は力無く頷く。重苦しい空気のなか
「ま、まあ、すぐに薩長の奴等が攻めてくる理由は無くなったよな?奴らの希望通りに政権を返上してやったんだ。この隙に俺たちは兵を集めて軍備を整えて、薩長に勝てばまた元通りになる…なぁ、そういうことだよな、ぱっつぁん」
原田が永倉を肘でつつく。流石に永倉も言葉を紡げなかったようで、押し黙るしかない。
部屋に重たい沈黙が流れるが、山崎は腕を組んだまま
「上様はとても知恵の回る御方です」
とぽつりと呟いた。
「どういうことだ?」
「徳川家は三百年近く政権を担ってきました。突然、返上されたかて幼い帝と長く政から遠かった朝廷には手に負えず、薩長が取り仕切るにはまだ時間がかかるでしょう。それに徳川家は八百万石の大大名…薩長が目指す合議制の政において不可欠な支配力がある。政権が朝廷に移行したとて、徳川家は今ならその中心で絶大な力を持つでしょう」
今度も徳川家の立場は守られる…近藤は山崎の言葉に光明を見出したのか、青ざめた顔に表情が戻った。
「その通りだ!上様はそのおつもりで政権を返上なさったのだろう。我々は幕臣ではなくなってしまったが、徳川の家臣として忠誠をつくす、それだけだな!」
近藤はどうにか正気を取り戻したが、総司はどこか遠い国の話のように想像ができなかった。
一先ず解散となるなか、総司は山崎を引き止めた。
「山崎さん、ありがとうございます」
「…はは、土方副長のようにはうまく立ち回れまへん」
総司は山崎がどうにか理由をつけて近藤を慰めようとしたのだと感じた。彼は少し照れくさそうにしたが、その表情もすぐに引き締まって緊張した。
「せやけど…そう上手くいきますまい。薩長の幕府への憎しみは例え政権を手放したとて消えぬもの。それに政権を返上すれば手のひらを返して薩長につく藩も出てくるやろうし…会津のようにはいかん。たとえほんの数ヶ月猶予が生まれても、戦になる運命は避けられへん」
「…」
「…まあ、今は早う副長に戻ってきてもらいたいものです。近藤局長にとって一番の慰めになるでしょ」
「本当、その通りですよね。こんな時にいないなんて困った人です」
総司は山崎と共に苦笑した。
そうしていると物陰から気配がして、二人同時にそちらへ視線を向けた。現れたのは傘を深く被った大石だった。
「どうした?」
「…村山が投獄されました」
「なんやて?」
山崎の表情が再び歪む。
「間者であることが露見したようです」
「…またボロを出したか」
「わかりませんが、本人は頑なに認めてはいないようです。しかし、他から確かな進言があり近々斬首になるだろうと」
「捨て置け」
山崎は吐き捨てた。あまりにとりつく島もない言い方だったので、いつも淡々としている大石の方が「しかし」と食い下がったが
「戻って露見したら見捨てる…そうゆう約束や。村山も弁えてるやろ」
と今回ばかりは厳しい態度を崩さなかった。二度目の失態を擁護することはできず、大石は視線を落とし「承知しました」と頷いた。
「それより、誰が進言したかが問題や。御陵衛士の橋本か…それ以外に思い当たる者は?」
「…調べます」
大石は短く返答し、背中を向けた。監察に異動になって以来、何の感情もなく淡々とやり過ごしているように見えたが、彼なりに思うことがあったのだろう。
やり取りを黙って聞いていた総司はため息をつく。
(こうなってしまったか…)
「…風向きが悪いなあ」



突然、村山が陸援隊屯所内の獄舎に繋がれることになったのは、水野に正体を告げてから数日後のことだった。
まさに討幕の密勅の知らせがもたらされ、陸援隊内でも戦へ向けて機運が高まっていた時だ。
「おんしが新撰組の間者だという進言があった」
ひとりで詰碁をしていたところで数人の土佐者に囲まれ、村山は詰問に遭った。ちょうど水野は不在だったため誰も助け船を出すことはなかった。
「長州者のふりをして騙そうという腹やったのか」
「先日の捕縛は芝居やろう」
「いったいどんな情報を漏らした?中岡先生の所在か?」
そのどれも返答せず、
「俺は正真正銘の長州人じゃ。憎き新撰組の間者であるはずがない。何かの間違いじゃ」
村山は総司との約束を守る為に頑なに認めようとしなかったが、一度疑われた者の言い分が簡単に通るはずがないとわかっていた。そのため投獄されることには抵抗せず素直に応じた。
彼らに縄をかけられて、衆人環視のなか家畜のように強引に引っ張られていると、水野と鉢合わせた。村山の姿を見て青ざめて
「一体何の真似や!!」
と激昂し、土佐者の一人の胸ぐらを掴む。しかし流石に一人ではどうすることもできずに彼らに囲まれて揉めて突き倒されてしまった。
「水野君…!」
「こいつはあの新撰組と通じちょったがじゃ!」
「…何かの間違いや!」
「文句があるなら中岡先生に言え」
村山は強く縄を引っ張られ、足をもたつかせながらどうにか振り返る。水野は顔色が悪いまま呆然としていた。
そうして連行されのは、獄舎と言っても家畜が飼われるような造りで、長年使われていないせいで埃っぽい場所だった。しかし檻だけは頑丈で見張りがいなくても逃げ出せそうになく、檻の中に数人がかりでゴミのように投げ込まれたが、村山はこれだけは尋ねなければならないと
「いったいだれがそねな根拠のない話をしたんじゃ?」
と尋ねた。すると見張り役になった土佐者が
「知らん」と一蹴した。
村山は力無くその場に座り込みながら、
(…水野じゃないんか…)
と少しだけ安堵した。
もし水野なら、彼らは二人の関係を嘲笑い「そらみたことか」と皆が口汚く罵るだろうし、彼らの詰問に水野の名前は全く出てこなかった。それに先ほど必死に引き留めようとした姿は上手な芝居などではなく、本心だったぢろう。
村山は膝を抱えて、背中を丸めた。
突然のことで驚いたが、混乱することなく平静を保っていられた。
(結局…結末は決まってたんじゃな)
水野でも、他の誰でも、自分の正体が露見した時点でもう間者の命運は決まっている。山崎が言っていた通り生き延びたいならここに戻ってくるべきではなかった。その覚悟をしていたけれど、技術と経験のなさがこの結末を導いてしまったのだろう。すべては自分の招いたことでだれも悪くはない。
不思議なことにこの先のことへの不安はなかった。ただ心残りがあった。
(それなのに…あいつに引き際を託したのは、卑怯じゃったな)
『君は残酷だ』
水野は哀しそうに顔を歪めていた。恋人の告白と裏切りは何よりも彼を傷つけたのに、その上、殺してくれなどと頼むのは彼に一生癒えない罪悪感を与えるだろう。正体を隠していたことへの村山なりのケジメだったが、彼にとっては苦痛でしかない。
(だからこれでよかった…)
このタイミングで間者だと疑わられれば、いくら村山が正体を認めずとも内側からの情報漏洩と裏切りを防ぐ為に確実に処刑されるだろう。これで総司との約束を守れるし、水野の手を汚さずに済む。
(阿呆じゃのぉ。守るべきは自分でも新撰組でものうて…あいつだけじゃったのに)
そんなことに今更気がつくなんて。










解説
なし


目次へ 次へ