わらべうた




740


中岡は相変わらず姿を眩ませていた。戦への機運が高まったところで、慶喜公が政権返上を受諾するという奇策で頓挫してしまった…その苛立ちと困惑は隊内に充満しており、そんななかで村山が新撰組間者として投獄されたことは、彼らの感情の吐き出し口としてうってつけのタイミングであった。満足な食事はもちろん、暴言や暴力を振るわれながら村山は中岡自身の裁断を待つ日々を過ごしていた。
「この先に通すわけにはいかん」
「…頼む、少し話がしたいだけや」
居ても立っても居られない水野は何度も懇願していた。
村山が監禁され、中岡の判断を待つと知らされた時から何度も足を運んでは断られていた。最初は「間者を庇うつもりか?」「おんしも村山の仲間か?」と疑われ相手にされなかったが、日に日に憔悴していく水野にやがて彼らも同情し始めた。
「村山のことは忘れた方がえい。おんしも騙されちょったんや」
二人が念者同士だと知って疎ましく思っていた隊士すら水野を慰めるが、本当のことを誰も知らない。
村山は確かに新撰組の間者で、水野もまた御陵衛士の間者。それを互いに知っていて皆を騙していたのだ。
(いったい誰が村山君をこんな目に…)
水野は斉藤に断罪され、数日頭を冷やしようやく覚悟を決めたところだった。この秘密を抱えて彼と生きていくーーーそれが間者として失格であっても水野の選んだ道だった。頑固な村山をどう説得するか悩んで帰営すると彼は捕縛されていたのだ。
村山は尋問にはまったく答えずに処断を待っているらしい。自分の口から絶対に正体を明かさないのは、間者としてそして新撰組隊士としての矜持なのかもしれない。
(それでも、俺には話してくれた…)
真面目な村山が水野にはルールを破ってまで正体を明かした。そして土佐蜂起という絶好の知らせを『内密だと言ったから』という個人的な理由で新撰組へ伝えずに、水野を信じた。
水野を本気で好きになったから。
村山は任務よりも私情を優先し、彼はその正体を隠していたこと以外では、一度も裏切らなかったのだ。
(それなのに俺は…疑って、試した)
好きだったから、信じたくて…疑いたくないから確かめずにいられなかった。でもそんなのは村山の前では言い訳にしかならないだろう。
水野は身体の力が入らぬまま、ふらふらと縁側に腰を下ろす。秋の涼しい風が乱れた髪を揺らした。
(いつもここで囲碁をしたな…)
あの大きくて曇りのない瞳が碁盤を一心不乱に見つめていたことを思い出す。戦況に一喜一憂し、時に喜び時に悩み時に悔しがる…水野はコロコロと表情が変わる村山を碁盤を挟んで眺めているのが好きだった。白と黒の二人だけの世界を共有する…静かで穏やかな時間が何よりも大切だった。
目を閉じるとあの竹林の笹鳴りが聞こえてくる。
(今この時でさえも…あの竹のように君は真っ直ぐに生きているのだろう)
君はあの竹林のように光に向かって突き進み、誰にも折れることなく伸び続ける。だから、
(だから好きになったんだ)
儘ならぬ現状を思い出し水野の指先に力が入った時、遠くがワッと騒がしくなった。
「中岡先生がお戻りちや!」
誰かが叫んだのが聞こえ、水野はハッと立ち上がり駆け出した。隊士たちを押し退け足を止めることなく部屋に駆け込んだのだところ帰営した中岡が羽織を脱いでいた。
「驚いたな、君か」
「話を聞いていただけませんか!?」
「…良かろう、聞いちゃる」
中岡は既に察したようで、すぐに人払いをして障子を閉めた。
「長居はできん。土佐がついに幕府を見捨てて戦へ向かうことが表沙汰になって、幕吏に追われちゅーきな」
「構いません!お話ししたいのは…村山のことです。あいつは新撰組の隊士のはずがない、長州の生まれです。間者などありえません!」
「そう単純じゃない。生まれた国が同じでも考え方は人それぞれや…それは土佐で嫌というほど見てきた。それに…村山君の件は確かな筋からの情報や」
「確かな筋とは!」
「言えるわけがあるまい」
必死な水野に対して、中岡は取り合うつもりはなくせせら笑うだけだった。おそらく御陵衛士よりも信頼のおける相手なのだろう。
「水野君…いや、橋本君、正気に戻りや。君たちが念者の関係だとしても、これ以上彼を庇うというのなら君の立場も危うい。村山君が新撰組の間者であることは間違いないし、御陵衛士とは関係を悪うはしたくない」
「しかし…!」
「それとも…共に心中でもする気か?」
中岡の眼光が鋭くなった。土佐の一隊をまとめる凄みに水野は少し視線を外してたじろいだが
(何を躊躇う必要がある)
と自分を奮い立たせでもう一度中岡へ視線を戻した。
「…はい。村山が死ぬことになるのなら、俺も共に逝きます」
彼と共に生きる道以外に行きたい場所なんてもうない。散々探し求めて見つけた…それが失われるくらいならあの世で暮らす方がまだマシだ。
すると中岡は沈黙した。水野がそこまでの覚悟を決めているとは思わなかったのだろう。しかし理解は示さなかった。
「この天下の大事に…大局を見んで些細なことに囚われるなどつまらん男や」
中岡はほとほと呆れたようだった。そして脱いだものとは別の羽織に袖を通して紐を結び、腰に刀を帯びる。再び外出するようだ。
「勝手にしろ。おんしらに構うちゅー暇はない。村山は何があっても斬首や、おんしもそうしたいちょいうのならそうしろ」
中岡はそう言い捨てて水野を部屋に置いて出て行った。


村山が閉じ込められている場所はおよそ人が閉じ込められるべき場所とは言えず、おんぼろの狭いウサギ小屋に、不似合いの頑丈な鉄檻が刺さっているようなところだった。逸る気持ちを抑えきれない水野に二人の見張りが立ち塞がる。今度はどちらも水戸者だった。
「人払いを頼む。隊長には許可はもろうてる」
「貴様、何企んでる?中岡先生まで言いぐるめで」
「この者は間者だぞ」
彼らが陸援隊のなかで水野と村山の関係をよく思っていないことを知っていたので、水野は薄く笑った。
「なんや…念者同士の睦言に興味でもあるんか?」
「なっ ありえねえ!」
「ええからあっちに行ってろ!隊長の許可は得てるんや!」
水野は強く睨みつけると、二人は不承不承ながらも「少しだけだ!」と言いつけて離れていきようやく、村山に会うことができた。村山は背中を向けて倒れていた。
「村山君…!村山君、無事か?!」
「…みず…の?」
鉄檻越しに水野が呼ぶ。村山は気を失ってきたのか、水野がきたことに気がついていなかったようで、顔だけ動かせてしばらくぼんやりとしていた。そして呻き声をあげながらまるで鉛の体を持ち上げるようにして上半身を起こした。頬はこけ手足を拘束され、乱暴な仕打ちを受けあちこちに傷を負っていて、見ていられない姿に成り果てていた。
水野は檻の間に腕を差し込み、彼の手を握った。その小指はあらぬ方向に折れ曲がっていて、村山の受けている酷い仕打ちに頭が沸騰しそうになった。
「…村山君…!無事か?怪我は…」
「ああ…夢じゃないのか…本物じゃ」
「そうだ、本物だ。遅くなってすまない…!」
水野は村山を強く引き寄せて抱きしめた。二人の間には鉄の檻があったが、それでも温もりを感じることはできた。
抱き寄せられた村山は「ふっ」と笑った。
「なんだ…水野君が告げ口したんじゃないんやな」
「当たり前だろう、まさか疑っていたのか?」
「疑ってない。君を本気で疑ったことなんて…一度もないよ。君とは違う」
村山は笑みを浮かべ心配する水野へ茶化すように言ったが、
「そうだ…村山君のいう通りだ。俺は一度だけ疑った。悪かった…俺が悪かった、君は怒って良い」
と真剣に返した。すると村山は罰が悪かったのか「怒らないよ」と微笑んだ。
「俺が不甲斐ない間者なのは間違いないんじゃ。賢い君はただそれに気づいて、不安で本当のことを確かめたかったんじゃろう。信じたいと思ったから、試したんじゃろう?」
「それは…」
「俺はこの通り、鈍感じゃからわからんかったけど…この檻に入れられてようやく気が付いた。俺が君の立場なら同じことをしていたかもしれないし、信じられなかったはずじゃ。君を責められる立場じゃないのにひどい言い方をしてすまなかった。…ましてや最期を託すなんて無責任じゃった」
「村山君…」
水野はさらに強く抱きしめると、身体を痛めつけられている村山は「痛いよ」と苦笑した。
「ありがとう…」
ようやく分かち合えたというのに、どうしてこんなに冷たくて無機質な檻が、二人を阻むのだろう。水野はもどかしくて仕方なかった。
互いの熱を共有できたあと、村山は一息ついた。
「…水野君、どうやら俺の正体はバレてしまったようじゃ」
「ああ…中岡は『確かな筋』からの知らせだと、取りつく島もなかった」
「そうか…仕方ない。俺はこうなることを覚悟して隊から戻ったんじゃ…それに全部本当のことじゃ。ただ認めるわけにはいかない」
村山はもう諦めていていっそ清々しい表情を浮かべて、水野の胸を押して離れた。
「水野君、これ以上俺に関わると君の立場が悪うなる。俺に騙されたことにして、このまま任務を全うした方が君のためじゃ」
「残念ながら…もう俺には無理だ」
「なんで」
「さっき見放されたところだ。俺には間者の才も覚悟もない…こうならなくてもどうせ伊東先生の顔に泥を塗ることになるだろう。だったら君と死ぬ」
水野はできるだけ深刻にならないように軽い調子で話したが、村山は唖然としていた。
「…水野君…」
「そうだな、その辺でひと暴れして何人か殺して、君と同じこの檻のなかに入ろうかな。それとも俺も御陵衛士の間者だと明かすほうが簡単か?一緒に斬首してくれと頼めば聞いてくれるだろうか…村山君も頼んでくれよ」
水野は村山に再び手を伸ばす。けれど彼は硬い表情のままその手を取ることもなく、腰を引いて逃れて、ただ首を横に振るだけだった。
「駄目じゃ…そんなこと、俺は望んでない」
「俺はそれで良いんだ」
「俺は嫌じゃ。君を道連れに死ぬつもりはない」
「村山君…」
村山にきっぱりと拒まれ、今度は水野の方が言葉に迷った。
戸惑うにしても理解して受け入れてくれると思っていたのに、村山は水野が伸ばした手すら取る素振りもないのだ。水野はゆっくりと手を降ろすしかなかった。
土埃だらけになって痛めつけられ、頬が腫れているのに、彼の真っ黒な瞳だけは相変わらず光を吸収し川面のように反射し、輝いている。
「俺は間者として失敗したんじゃ。故郷を捨てて皆んなとは別の生き方をした…その選択は後悔してないし、責任は俺自身がとりたい。だからここで殺されることに何の不満もないんじゃ。…ただ君が俺に騙されたと後ろ指をさされてしまうのは申し訳ないけれど」
「そんなことはどうでも良い…!」
「うん…なんでかな、君ならきっと大丈夫と思うんじゃ。無責任じゃけどな。…だから、気持ちは嬉しいけど一緒に死ななくて良い。君はきっと任務を全うできる」
村山はこんな時でさえ、水野の行く末を案じ自分のことは達観しているように見えた。
脇目も振らずに真っすぐに生きてきた…村山の生き方はまさに不器用そのものだ。彼は斬首されるその瞬間でさえ後悔せず、嘆くことなく受け入れてしまうのだろう。
けれど水野は違う。
「…村山君…俺は大した人間じゃない。天狗党から逃れ、新撰組を投げ出し、御陵衛士にすら居れずにこんなところにいて…君のように真っ直ぐ生きられない。そんな自分を恥じていたけど、君を好きになってようやく自分のことを受け入れることができた。今はこういうどうしようもない生き方をしてきたから君に出会えたのだと、過去の自分を褒めてやりたいくらいだ。だから…君を失うのなら、もう生きている意味はないんだ」
全然、大丈夫なんてことない。
村山と出会ってしまった、だから君がいない世界なんて忘れてしまった。
(君を好きになってしまった)
だからもう一人では生きられなくなってしまったんだ。
「村山君…俺を連れて行ってくれ」
水野の頬に涙が流れた。子どものころに泣いてからずっと枯れていたはずなのに、まるで湧き出る泉のように絶え間なく頬を伝っていく。悲しさと孤独と…言いようもない虚しさが押し寄せてくる。なぜこんなことになってしまったのか…嘆きの涙でもある。
すると離れていた村山が近づいてきて、水野の頬を掌で包んだ。そして小さな子を慰めるように指先で涙を拭い、コツンと額を重ねた。
「…真っ直ぐ生きるだけが全てじゃない。早く死ぬより、生き延びることの方が立派なことだってある。君はよっぽど俺より器用じゃし、だれとでも打ち解けられるじゃろう。俺は君には…生き延びてほしいんじゃ」
「嫌だ…村山君、だったら君もここを出てくれ」
「はは、俺にはもう無理じゃ。でも…本当はもっと生きて、この世がどうなるのか見届けてみたかった。それを君が叶えてくれ」
村山は水野に口づけた。血の味が混じる口づけは、けれど今までで一番熱く、甘く…切なかった。
そして指先でうねった水野の髪に愛おしそうに触れた。
「陸援隊でも、御陵衛士でも…それ以外の場所でもどこでも良い。俺は君の傍にいるから、長く長く生き延びて…この先を見せてくれよ」
村山は笑った。今までで最も穏やかで優しい笑顔だった。
そして懐から黒と白の碁石を取り出した。捕縛される際にどうにか掴んで持ち出したものだ。
「この檻に入れられて気が狂いそうな時は君との囲碁をしていることを思い出していた。ああすれば勝てたとか、こうしたから負けたとか、そんなことを考えたら、あいつらに何をされても平気じゃった」
村山は手の指を絡めた。そして続けた。
「水野君…君は、いつも黒の石を選んでたな。白は天の色、黒は大地の色なんだっけ?君の言っていることはようわからんかったけど…君と碁盤を囲んだ時間は一番楽しくて幸せじゃった。そんな君と念者になれたことは俺の誇りでもあった…それは紛れもなく本当のことだ」
村山は折れた指をどうにか駆使して、水野に碁石を握らせた。白と黒が一つずつ…まるで自分たちのように。
「これは君に…今度は君を支えてくれる」
黒の石は、何の信条もない真っ暗な自分のようだと思っていた。けれど白の石は村山そのものだ。真っ白で曇りない心を持つ彼は天の色をしている。
「水野君、君が好きじゃ。好きな人にはいつまでも幸せに長生きしてほしい…それは当たり前じゃろう?」
「…村山君…君は本当に…頑固者だな」
二人は改めて碁石を包むように手を握った。
そうしていると見張りの水戸者が「いつまで話し込んでいるつもりだ!」と遠くで怒鳴っているのが聞こえてきた。もう時間がない、と二人は意識する。
水野は「わかった」と彼の決意を受け入れ、そしてこれだけは、と囁いた。
「村山君、同じ言葉を俺も君に返す。強情で頑固で…真っ直ぐな君が、俺も好きだ」
「うん…ありがとう」
「だから、また会えると信じてる」
「ああ」
二人は離れがたい気持ちを押し殺しその手を解いた。
この手を離すことが、彼への愛情だと信じるしかなかったのだ。


そして二人は二度と会うことなかった。

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解説
なし


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