わらべうた




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三度目の江戸での隊士募集では、二十名ほどを入隊させることとなり、世情の変化も著しいため早速都に向かうことになった。
試衛館に戻り、隊士を集めて出立の準備を進める。
「案外、少なかったな」
井上が集まった顔ぶれを眺めながら腕を組んだ。土方は名簿に目を通しながら頷いた。
「ああ…だが近藤先生からの文では、京で入隊希望者が何人か集まっているらしい。それと合わせれば御陵衛士が抜けた分は充分埋まるだろう」
「…あれが田村の弟たちか?よく似ている兄弟だな」
井上が視線で土方に尋ねた。その先には二人の若い青年がいる。
「ああ、田村録五郎と銀之助だ」
すでに新撰組に入隊している長兄の田村一郎の弟である二人は利発そうな顔立ちのよく似た兄弟だ。しかし末弟の銀之助は十二歳で最年少だ。土方は一抹の不安を覚えるが、井上は
「賢そうな子じゃねぇか。将来有望だ」
と楽観的に笑うので何も言えなかった。面倒見の良い井上に任せたら良いのだろう。
土方は名簿を井上に預けて「大先生に挨拶してくる」と出立の挨拶へ向かった。
奥の間の静かな部屋で寝たきりの周斎は土方や井上が来ると目を覚まして反応を見せるが、それ以外はずっと眠っている。食事も喉を通らず痩せ細る姿を目にするのは心が痛む。
(もう長くはないだろう…)
そう思うとこれが永久の別れになるかもしれない。試衛館を離れることが気がかりで後ろ髪をひかれる思いだったが、ふでとつねに背中を押されて予定通りに出立することに決めたのだ。
土方は眠る周斎に呼びかけた。
「大先生、土方です」
「…ああ…」
「これから都に戻ります」
周斎の目が薄く開く。天井を見つめたまま「そうかそうか」と噛み締めるように何度か繰り返した。
そしてゆっくりと視線を土方へ向けた。かつて厳しく稽古をつけた勇猛な姿は何処にもないが、落語を好み食客たちを受け入れた穏やかさは滲み出ているようだった。
そしてまた
「歳三、勝太を…頼むな…」
と以前と同じことを繰り返した。いまは遺していく息子のことで頭の中がいっぱいなのだろう。
「もちろんです。勝太は近藤家の跡取りで天然理心流の四代目です」
「…ああ、それで良い…」
周斎はそれ以上は望まないという顔をしていた。血の繋がりのない養子である息子が、どれほど出世しても、周斎にとっては家と道場を守ることが最上の望みだったのかもしれない。
土方が周斎との別れを感じていると、その静寂を破るように急にバタバタと騒がしい足音が聞こえてきた。
「何事だ?」
「すまん、歳!」
駆け込んできたのは井上と少年…件の井上泰助だった。
泰助はやはり親の井上松五郎の許可が下りずに入隊を却下していたのだが、彼は眉を吊り上げて目を見開いて土方を見据える。そして正座して頭を下げた。
「俺も連れて行ってください!必ずお役に立ちます!」
「馬鹿野郎、兄貴の許しを得てない奴はダメだとあれほど言っただろう!」
「親父は『勝手にしろ』と言いました!だったら入隊しても良いってことです」
「泰助!」
聞き分けのない甥を井上が叱り、「すみません、大先生」と言いながら首根っこを捕まえて引っ張るが、泰助は抗い続けた。
「おじさん!若けえって理由なら俺は納得できねえ!さっき俺より幼ねぇ奴だっていたじゃねえか!」
「お前とは話が別だ!あれの兄貴がすでに入隊してる」
「別なもんか!だったらおじさんの甥の俺だって…!」
「ああうるせえ!大先生にご迷惑だろう!」
井上はパシッと泰助の頭を叩き、今度こそ引き下がろうと渾身の力で引っ張るが泰助は耐え続ける。
そのやりとりに土方は呆れていたが、寝床の周斎が「フフ」と笑っているのが聞こえた。
「大先生…?」
「歳…連れて行ってやれ…」
「しかし泰助はまだ若く、松五郎さんも反対しています」
土方は夢現の周斎が状況を理解しているのかわからなかったが、周斎は焦点が合わないまま微笑んでいた。
「若くて、生きが良い。…昔の勝太の、ようだ…きっと役に立つ…」
懐かしそうにする周斎を見て土方は改めて泰助を見た。融通の気がなさそうな頑固者は、鬼副長を前にしても怯まず、
「俺も連れて行ってください!」
と懇願する。確かにその諦めの悪さは若い勝太に重なるものはある。
出立を前にして泰助を追い返すのはとにかく、周斎の申し出を却下することができるはずもない。土方は深いため息をついた。
「…雑用係からだ。見込みがなさそうなら帰らせる」
「あっありがとうございます!」
泰助は満面の笑みで喜んだ。後ろにいた井上は複雑そうにしていたが、「やれやれ」と肩をすくめるだけでもう何も言わなかった。近藤の兄弟子である井上は周斎の愛弟子なので、大先生の言うことは絶対だ。
土方は二人を追い出してようやく静かになり、再び周斎へと向き直った。
「…大先生、落ち着いたら勝太をこちらに戻らせます。それまでどうかお元気で」
「ああ……皆に、宜しくな…」
「はい」
土方は深々と頭を下げた。
若い頃、薬売りをしながら道場に通い、いつまでもふらふらと腰を据えない土方を、周斎は急かすことなくいつも受け入れてくれていた。その日々があるからこそ覚悟ができて、幕臣まで出世することができた。
(ありがとうございます)
面と向かって口にするのは憚られて、心の中で深い感謝を捧げた。


「いってらっしゃいませ」
ふでとつね、そして近藤の娘であるたまに見送られて試衛館を出立し、都を目指す。
張り切って参加した泰助は早速、隊士たちに溶け込み年の近い田村銀之助と並び歩き旅を楽しんでいる。あまりに緊張感のない様子で
(京見物にでも行くつもりか?)
と、土方は喉まで出かかったが、京につけば否が応でも厳しい現実を突きつけられるのだから今のうちだろう。
そして泰助以外にも隊士たちの中に一人、目立つ青年がいた。
「ちびっ子たち、腹減ってるだろう?菓子はどうだ??」
「野村さん!俺たち『ちびっ子』って年じゃないっすよ!」
「じゃあ菓子はいらないんだな?」
懐から飴玉を取り出して泰助をからかっているのは、野村利三郎。美濃出身の若者で剣の腕はそこそこだが、井上に対して引けを取らずに果敢に攻め込む姿勢が目に留まり、入隊を許された。齢は総司と同じくらいで、持ち前の明るさですっかり新入隊士たちの中心となっていた。やや強引な距離の詰め方は原田に似たところもあるので、新撰組でもすぐに馴染むだろう。
「歳…じゃあなかった、土方副長。もうすぐ日が暮れる、この先の宿に泊まっていくか?」
試衛館を離れ、再び部下になった井上が尋ねたが
「いや、もう一つ先の宿まで行くつもりだ」
と足を速めた。長い付き合いである井上は土方が先を急ぐ理由を理解していた。
「総司の奴はもう良くなったのか?」
「…ああ。近藤先生からの知らせには小康状態だと書いてあった」
「季節の変わり目だ、仕方ねえ。それに討幕の密勅だとか土佐の蜂起だとか…落ち着かなかったんだろう」
「そうかもな…」
総司からの文が途絶えた時、自分でも驚くくらい落ち着かなかった。以前は総司を江戸へ帰すつもりだったことが信じられないくらい、離れていると妙な想像が働いてしまうのだ。
ようやく帰京することになり、少しでも早く戻りたいという気持ちが止められなかった。
井上もそんな土方の心情を感じ取っていた。
「…土方副長、総司をいつまで前線に出すつもりだ?」
「…」
「俺は血を吐くたび、寝込むたび…見ていられねぇ。小さい頃から知っているからな…」
井上は振り返り、野村とじゃれあう泰助に目を細める。井上にとって縁戚に当たる総司は泰助と同じ甥のような存在なのだろう。
しかし土方は明確に答えられなかった。
「総司が自分で身を引くまで、待つつもりだ。もしくは近藤先生が判断する」
「そうか…」
井上はまだ何か言いたいことがあるようだったが、あえてそれを飲み込んだ。
その時だった。土方たちの背後からパカッパカッパカッパカッと馬の蹄の音が近づいてきたのだ。それはとても急いでいるようで勢いに押され隊士たちが道を開けると、あっという間に土方の近くまでやってきて、「ヒヒ―ン!」という嘶きとともに止まった。馬上の人物は手慣れたように手綱を引いて捌き、その姿は役者絵のようにあまりに様になっている。隊士たちも突然現れた彼に釘付けだ。
「土方さん!」
「伊庭?」
馬上の伊庭はいつも達観して余裕のある表情をしているが、いまはそれも歪み穏やかではない。土方の姿を見つけるや飛び降りて駆け寄ってきた。
「探しましたよ!試衛館に行ったらもう出立したと聞いて…!」
「急用か?」
「大政奉還ですよ!」
「は…?」
「公方様が容堂公の建白を受け入れられ、大政奉還が成立したんです。十四日に!先ほど養父のところへ知らせが…!」
伊庭の必死な様子を見ると冗談ではないとわかるが、土方には現実味がなかった。慶喜公は何があっても政権だけは手放さないだろうというのが大方の見方で、近藤からの知らせにも悲壮感はなかったのだ。
呆然とする土方の腕を掴んで、伊庭は叫ぶ。
「幕府が終わったんですよ!」
一体何の騒ぎだと困惑していた隊士たちは、伊庭の一言で顔色を変えた。話の意味が分からないのは泰助くらいで「まさか」「そんな」と動揺が走る。
土方も頭の中では理解していた。これは慶喜公の奇策で討幕へ動こうとする西国を先制するために政権を手放したのだろう。そうすれば徳川家を守ることができ、一時的に内戦を止めることができるのだ。江戸にいた隊士たちは急転直下の展開に思えるだろうが、幕府はすでに弱体化してとても戦に勝てる状況ではないのだから間違った判断だとは思えない。
けれど、どこかでぽっかりと穴が開いた気持ちなのは否定できなかった。
(これから…どうなるのか)
暗雲が立ち込めるとはまさにこのことなのだろう。
しばらく言葉が出てこなかった。









解説
なし


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