わらべうた




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討幕の密勅は撤回されたが、戦への緊張感は続いていた。
「やはり公方様は将軍職を辞職されたが、江戸の幕臣たちへ上京命令を出したようだ。来るべき戦に備えているのかもしれない…」
近藤は目まぐるしく情勢に疲労しているようで顔色が悪い。ついつい吐くため息も日に日に深くなっているようだった。
総司は「別宅に行かれては?」と提案したが首を横に振る。
「別宅に行っても心休まらぬ」
「でも…」
「そうだ、もう少ししたら歳が帰ってくるんだ。飛脚から手紙が届いた。歳が帰ってきたら休ませてもらうよ」
近藤は手紙を総司に差し出した。二十名を連れて尾張を過ぎているそうだ。そして大政奉還についても詳細は触れずに「戻ったら話し合おう」と書き記してあった。
「さすがに土方さんの耳にも入ったんですね」
「ああ。歳のことだからあれこれと策を弄しているだろう。きっと良い考えが思いついているはずだ…」
近藤の言葉には覇気がない。積もり積もった疲労と、先の見えない現実に鬱屈しているのがわかる。
掛ける言葉が見つからない総司だったが、代わりに手紙に添えてあった新入隊士の名簿を見つけた。
「…あれ?井上泰助って…松五郎さんのところの二番目の?」
見覚えのある名前に驚くと、近藤が「ああ」と少し表情が和らいだ。
「泰助を覚えているか?子供の頃は何度か試衛館に遊びに来ていて、お前も相手をしてやっただろう?本人だっての希望で入隊したようだ」
「へえ!あの泰助が…でもまだ子供でしょう?土方さんが良く許しましたね」
「手紙によると義父上の口添えがあったようだ」
総司の記憶にある泰助は元気で負けん気が強く手のかかる子供だった。まだ十二、三のはずなのでまさか新入隊士として再会するとは夢にも思わなかった。
そうしていると「邪魔するぜ」と原田と永倉がやってきて、原田は両手に籠を抱え山盛りになった柿を見せた。
「壬生に行ったらさ、八木さんに偶然会って柿の差し入れをもらったんだ。今年は豊作で出来がいいってさ」
「おお、もうそんな時期か。隊士たちにも分けてやってくれ」
「もう持って行ったところです。早速食べませんか?」
橙色に実った好物の柿を見て、近藤の顔が綻ぶ。永倉が慣れた手つきで皮をむき切り分けると、原田が爪楊枝をさしていく。自然と輪のように集った試衛館食客たちは柿を肴に泰助の話で盛り上がった。
「へえ、あの鼻水小僧が!こっちに来たらビシビシしごいて一人前にしてやらねぇと」
「そういえば昔は源さんに叱られてこっそり泣いてたよ」
「名簿には他にも若いのがいるみたいだな。子守は総司の仕事だからな」
「そうだな、総司は子守が得意だからな」
「ええ?聞いてませんよ!」
「土方さんもそのつもりかもしれないな」
ハハハと互いに顔を見合わせて笑いあう。きっと永倉と原田は近藤が気落ちしていることに気が付いて励ましにやってきたのだろう。
総司は言葉にしなくても分かり合える絆を感じたつつ、ほんのり甘く歯切れの良い柿に舌鼓をうつ。幕府が政権を返上しても、将軍がいなくなっても、互いを理解しあえる仲間がいる。
山盛りの柿は干し柿にしようと妙案がまとまったところに、山野が顔を出した。
「ご歓談中に失礼いたします。…近藤先生、早飛脚が文を」
「早飛脚?歳かな」
「噂をすればですかね」
近藤が山野から文を受け取ると、はっと顔色を変えて「おつねだ」と呟いた。江戸で主人が留守の試衛館を守り続けるつねは、多忙の近藤を気遣い頻繁に文は送って来ない。そんなつねから急ぎの内容なのだとわかると、近藤でなくともは文を開くよりも内容を察してしまった。ゆっくりと目を通した近藤が、重い言葉を口にした。
「……義父上が、亡くなった」
「大先生が…」
それまでの穏やかな空気が一変した。永倉は視線を落とし、原田は口を開いたままだ。
周斎が臥せっていることは皆が知っていた。総司も出立前に井上が『長くはない』と言っていたのでそれなりに覚悟をしていたが、遠く離れていることもあって亡くなったという実感はない。けれど近藤は目を充血させ、文を握りしめる。当然、この場にいる誰よりも長く過ごし、実の親よりも『義父上』と呼んできた近藤にとっては悲しい知らせだ。目を伏せ肩を震わせて
「すまん…部屋に戻る」
言葉少なく去っていく近藤に、皆が何を言ったらよいのかわからずに黙って見送った。しばらくすると近藤の部屋から嗚咽に似た声が聞こえてきて、さらに胸が痛む。
原田ももらい泣きして目尻を拭いながら
「大先生…こんな時にさぁ…ひでぇよ」
と呟いて部屋を去り、永倉も「またお会いしたかったな」と口にして後に続いた。
部屋にひとり残された総司は遠くから聞こえてくる近藤の嗚咽に耳を傾けながら目を閉じた。
賑やかな試衛館の日々の光景のどこかに、いつも周斎という大師匠であり皆の親代わりのような存在があった。稽古は厳しく、たまに遊び歩くときは落語に足を運び、皆に小遣いをやるのも日常だった。絶対的に揺らがない大黒柱がいて、だから皆が安心して時に羽目を外しながら青春をあの貧乏道場で過ごすことができたのだ。
(大先生…ありがとうございます)
行く当てのない若者たちを引き受け、帰る場所を守り続けてくれた。だからこそいま、総司の胸に去来するのは感謝と寂しさだった。そして心労が重なり、義父の死を突き付けられた近藤のことが心配だ。
「…なんでこんな時に、いないかなあ…」
幼馴染であり、大半の時間を共に過ごしてきた土方がここにいれば、ともに泣くことだってできたのに。
恨みがましく思いながら、土方の早い帰還を願った。


秋の夜長に、伊東は内海とともに茶を飲んでいた。
「一橋公は狡賢いな。薩摩や土佐の筋から話を聞くと、いま朝廷は混乱しているそうだ。三百年ほど手放していた政権を返されても幼い帝のもとですぐに機能できるはずがない。それに経済的な基盤が必要だが、一橋公は四百万石に及ぶ天領を手放さず、この後にどのような権力構造となったとしても絶大な権力を誇ることができるという算段だ」
「実質的な返還ではなく、名目的に返還することで戦を避けた…ということでしょうか」
内海の見解に伊東は頷いた。
「大政奉還後には諸大名による会議が開かれるはずだ。その時にはお得意の弁舌を駆使して権力を握ることもできる…そういう考えなのだろうし、幕府に忠義を尽くす会津や桑名、西国に与さない東の藩は徳川に従うだろう。そうなればただ強い権力を持つ徳川を中心とする新体制に移行するだけだ」
伊東は湯飲みを手にして物思いに耽る。
「…大政奉還を推し進めて一橋公を戦に導き、主導権を握ろうとした土佐は暗澹たる思いだろう。これでまた政局は混乱する…この隙に幕府が兵力を蓄えれば情勢はまた傾くだろう。幕府の打倒を目指していた薩摩や長州は焦るだろうな…」
「大蔵さんのお考えは?」
内海か尋ねると伊東はその長いまつ毛を伏せて微笑んだ。
「…私は昔、水戸にいた時に味わった黒船来航の時の気持ちを忘れられない。このままあの黒鉄の塊がこの国を蹂躙するのではないか…無知故に恐ろしかった」
「…」
「だからこの混乱の時期に内戦が起こり、国が弱体化して異国に喰われるのだけは避けたい。…しかし、これは佐幕、倒幕関係なく皆が思うことだろう。だから我々はやり方が違うだけで本当は分かり合える。…その為には帝の元で団結するのが正当であり一番だ…私はそう考えている」
リーン、リーン、リーン…鈴虫の鳴く声が響いている。整然とした庭のどこかに隠れて響く命の瞬きは、草莽の志士の叫びだろうか。
伊東が思いを馳せていると、
「それは…わかる」
と内海が口にした。伊東は「ん?」と聞き間違いかと思い、彼へ視線を向けると内海は居心地悪そうにしていた。
「俺も黒船来航の時の熱気は覚えている」
「いや、そうではなくて…」
「…二人きりの時くらいは、努力をすることにした…。俺たちは主従ではなく、友人だ」
「は…はは、突然どうした?」
「俺の望みを聞いて鈴木君に、歩み寄ってくれたんだろう?その…だったら今度は…俺が
、君の望みを聞く番だ、と…」
内海はまるで初めて話すカタコトの言葉のようにぎこちない。だが彼なりに伊東の申し出を飲み込んで努力してくれているのだろう。
伊東の右腕として如才なく振る舞う内海の、こんな罰の悪そうな顔を誰が見たことがあるのだろうか。
けれど
「なんだか…くすぐったいな」
と内心照れ臭く思いながら笑ってしまった。









解説
なし


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