わらべうた




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ついに土方が明日、帰営するという知らせが届き総司は安堵しながら巡察へ向かった。このところは体調が良い日だけ顔を出して、伍長の島田に任せることが多かったが、今日からは本格的に復帰することにしたのだ。
「沖田先生、先日付で一番隊に配属になった隊士をご紹介します」
島田が手招きして一人の隊士が総司の目の前で背筋伸ばしてやってきた。
「山崎先生にご推挙いただきまして光栄にも一番隊に配属されました、相馬肇です」
明言されてはいないが、一番隊の隊士は局長の親兵隊であるため礼儀正しく精悍な隊士が多いが、特に相馬は背が高く目鼻立ちがはっきりとして整い、それでいて育ちの良さが滲み出るような爽やかさに溢れていた。
しかし総司はその見た目よりも
「肇?」
という彼の名前の方に気がついた。相馬は「え?」と戸惑う。まさか名前について反応があると思わなかったのだろう。だが新入隊士が御陵衛士のことまで頭に入っていなかったようでピンとくる様子はない。
「ああ、いえ…なんでもありません。これからよろしくお願いします。何かわからないことがあれば私でも構いませんが、島田伍長に聞いてください、彼は最古参ですから」
「はっ!」
機敏な動作で頭を下げた相馬は、緊張しているのか力が入っていた。
総司は「行きましょうか」と皆に声をかけて屯所を出ることにした。
季節が進み、あちこちが紅葉の見頃を迎えていた。巡察で毎日歩き回る隊士たちにとって特別な光景というわけではないだろうが、総司には目に焼き付けておきたい貴重なものに思えてならない。
隊士たちの一番隊後ろを歩いていると
「沖田先生、具合良さそうですね」
と山野が声をかけてきた。
「ええ、今日は目が覚めてから体が軽いんです。山野君の献身的な助けのおかげですかね」
「いえ、きっと違いますよ」
山野は「ふふ」と意味深に笑った。
「明日には土方副長がお帰りになられますもんね?」
「あ…ああ、そういうことか…」
山野に冷やかされ、総司は頭を搔いた。
昨日近藤のもとへ届いた知らせを聞き浮足立ったのは確かなので、山野の言葉を否定はできない。
「でも僕も一息つけます。副長が不在の間に先生のご容態が悪くなったら…と思うと気が休まりませんでした」
「そうだったんですか?なんだか申し訳ないなあ」
「そう思ってくださるならちゃんと養生してください。近所の猫を見に行くだとか、局長と甘いものを食べるだとかいろんな言い訳をして寝床を離れていらっしゃったでしょう?ちゃんと副長に報告しますからね?」
「えぇ…勘弁してください」
山野は「冗談です」と笑って、再び隊列に戻っていった。
しばらく歩くと河原町にたどり着き、いつものように方々分かれて改めに向かった。総司は新入りの相馬が含まれる島田の組に同行する。
「今日の死番は自分です」
「そうですか。私は後方に控えます。緊急の時以外は手出ししませんから」
「はい!」
新入りを前に張り切っている島田が「行くぞ」と数名と相馬を従えて旅籠を改めていく。いつもより島田の声が大きいこと以外は普段と変わらないが、改めを受ける側の態度はいつも以上に横柄だ。民衆は幕府が失われ権力を失ったことを感じ取っている。特に討幕派に肩入れする民はあからさまに非協力的になり、こちらを見る目が冷たい。
総司が後方で様子を見守っていると、強引に改めようとする島田を店の主人が「ちょいとお待ちを」となだめつつ、傍にいた女中に
「出雲殿に伝えてや、竹田様がくるってな」
と何の気なしの会話のように伝言すると女中は頷いて小走りに去る。島田も他の隊士も一体何のことかという反応だったが、総司はすぐに理解した。
目の前にいた相馬の背中を押し
「島田さんについて行きなさい」
と小声で指示を出す。相馬は意味が分からないまま頷くと、総司は島田に向かって叫ぶ。
「すぐに改めてください。大物がいます!」
「は!」
総司の命令を受け、島田は店の主人を押し倒して店の奥に突入した。隊士たちの足音と女中たちの小さな悲鳴が聞こえたのか、部屋の奥からガタガタと大きな物音が響き始める。総司はその場留まり抜刀しつつ出入口を守ると、俄かに騒がしくなっていった。
「曲者!追え追えー!」
「裏口から出て行ったぞ!裏へまわれ!」
総司の予想は当たり、この旅籠は討幕派の大物をかくまっていたのだろう。総司は青ざめた店の主人を捕縛し状況を見守ったが、その騒がしさが消えたころ、島田たちは落胆した様子で戻ってきた。
「申し訳ありません…逃げられました」
「そうですか。まあこのところ、見廻組の監視も厳しくなったと聞きますし、志士たちも警戒しているのでしょう。ひとまずご主人に屯所に同行していただいて事情を聴きましょう」
「はっ!」
島田はほかの隊士に「連れていけ」と命令し、自分もそれに加わる。
総司は怯える店の者たちに「お邪魔しました」と一言だけ残して暖簾をくぐり、外に出た。夏を思わせるような日差しが眩しくて一瞬目が眩んだが、ぐいっと腕を掴まれて驚いた。
「…相馬君?」
「申し訳ありません、ふらつかれていたのでつい…」
「ああ、いえ…助かりました」
新入りでも総司の病については耳にしているはずなので安心させようと微笑むと、彼は少しだけ頬を赤く染めた。しかしそれをごまかすように姿勢を正して「あの」と切り出した。
「お聞きしたいことがあります」
「先ほどの?」
「はい。なぜ先生はこの旅籠に志士が匿われているとわかったのですか?」
「…歩きながら話しましょうか」
一番隊の隊士たちが総司を待っていたので、相馬と並んで屯所に向けて歩き出すことにした。
「相馬君は仮名手本忠臣蔵をご存じですか?」
「勿論です。人形浄瑠璃を何度か見に行ったこともあります」
「その仮名手本忠臣蔵を書いたのが竹田出雲という作者です。先ほど店のご主人が女中に伝えていたでしょう?新撰組の隊服は赤穂浪士を模倣しています。最近はあまりに目立つから着る機会はありませんが、都の民にとっては新撰組といえばだんだらの羽織ですからね。わかりやすく新撰組が来たと伝えようとしたのでしょう」
「なるほど…」
素直に感心して考え込む相馬に、総司は苦笑した。
「まあ私も最初は気が付かなかったんですが、土方さんにそういう隠語のようなものだと教えてもらいました。まだ壬生にいた頃でしたから…今回はずいぶん久しぶりに耳にしましたけどね」
「でも…とても考えられた隠語です。沖田先生、仮名手本の意味は文字通り『いろは』ですが、いろはうたには暗号めいた仕掛けがあるのはご存じですか?」
「…なんだか聞いたことがあるような」
「いろはうたの末字を横に読むと『咎なくて死す』と読めます。新撰組を厭い、討幕派に肩入れする主人が志士たちを案じてそう伝える取り決めにしていたのかもしれません」
総司の横に並ぶ相馬は新入隊士とは思えないほど堂々としている。その整った顔立ちにさらに賢さが足され、総司には眩しく見えた。
「先生、何か?」
「ああ…いえ。そのあたりも店のご主人に聞いてみたら良いかもしれません」
「そうしてみます。大変勉強になりました」
相馬はそう頭を下げて再び隊列に戻っていく。一番隊は優秀な隊士が多いが、その中でも相馬は際立っていてこれから有能な隊士として重宝されることだろう。
(楽しみだな)
彼の背中を眺めながら、総司には自然と笑みが浮かんだ。


屯所に帰営し、連行した主人の取り調べを島田に任せた。島田は挽回のために張り切っていたが、おそらく店の主人からは情報は得られないだろう。
(今はもう幕府はない…)
当然、存在しない権威者に諂うよりも、力を持つ薩長や土佐に味方したいと思う民は多いだろう。総司は大政奉還という言葉の重みを最初は深く受け取らなかったが、外に出ると新撰組を見る民の目が変わったのは確かだ。舵取りをしなくなった船頭のもとで誰が命を預けるだろうか。
総司は休憩をとるために部屋に戻ることにした。すると部屋には人影があった。
(近藤先生かな)
帰りました、と言いかけて総司は「えっ?」と声をあげて驚いた。そこにいたのは不在のはずの土方だったのだ。
「吃驚した!帰りは明日だって聞いてましたけど…」
「ああ」
驚く総司とは対照的に、深刻な顔をした土方は短く返答すると、立ったままの総司を引き寄せて抱きしめた。
「…歳三さん」
「源さんに任せて先に帰ってきた。一日でも早く、お前の無事を確かめたかった…」
「…っ」
土方の大きな手のひらが背中を包み、彼の肩口に顔を寄せると、久しぶりの温もりと少しだけ残る故郷の香りが総司の鼻腔を掠めた。何故かそれだけで目頭がツンと熱くなって感情が昂った。
総司は土方の頬に両手で触れて、口付けた。舌先が痺れるほど絡み合い、互いに言葉にならない感情をぶつけ合うようなそれは、幻でも夢でもないのだと感じさせてくれた。
「…大変だったんですよ。薩長が攻めてくるだとか、土佐が蜂起するだとか、大政奉還だとか…私には門外漢のことばかりでどれだけ歳三さんに帰ってきて欲しかったか」
「わかってる。このあとかっちゃんの別宅に行くつもりだ。でも今は…」
今は、今だけは。
(この人が帰ってきたことをもっと実感したい…)
そう思いながら、総司は再び土方の後頭部に手を伸ばしたのだった。








解説
なし


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