わらべうた





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二人は不在の間の話をした。
「そうか…大先生が…」
江戸からの知らせは土方を追い抜かして近藤に届いたようで、土方は周斎が亡くなったことを知らなかった。
「食客の皆もですけど、近藤先生は相当気落ちされています。知らせがあった日は人目を憚らず嘆かれて…大政奉還が成った時は屯所から離れず備えられていましたが、大先生が亡くなられてから別宅で休まれています」
「周斎先生を実の親よりも慕っていたからな…死に目にあえなかったのはさぞ悔しかろう。それに恩があるのは俺たちも同じだ。大先生が勝太の才能を見出さなかったら、今の俺たちはなかった」
「そうですね…」
周斎は稽古の時には厳しく指導したが、道場を離れると皆に慕われる好々爺だった。伊庭も随分懐いていて時々小遣いをもらっていたくらいだ。
長くはないとわかっていても、遠く離れた都からでは別れの実感がなく、余計悲しみが募る。
「大先生はなにかおっしゃっていましたか?」
「…勝太を頼む、とそれだけだ。何度も何度も念を押して言われた…大先生なりに時勢を理解されていたのだろう。俺の知る限りの大先生の様子は伝えるが、いまは落ち着くのを待つべきだ…近藤先生には時間が薬だからな」
幼馴染は近藤のことをよくわかっている。余計な慰めや助けは彼には必要なく、自分で再び気力を取り戻すはずだと理解していて、総司もその通りだと思ったので頷いた。
「それから…近藤先生からの手紙で耳にしたが、陸援隊に潜入させていた村山との連絡が途絶えたって?」
「はい。監察の大石さんから彼が捕縛されたと知らせが入りました。でも陸援隊からそのような通告もないので確証はなく、村山君が新撰組の間者であることを自白はしていないのでしょう。未だに投獄されていると思われます」
「…残念だが、村山のことはどうにもならない。下手に手をだせばあいつの立場が悪くなるし、今は構っている暇はない。大政奉還が成ってから都の治安が悪くなって暗殺や誅殺の類が増えていると聞いた」
「確かに今日も旅籠で志士が匿われているようでしたが…」
「これから一層忙しくなる」
総司はチラリと土方の表情を伺った。近藤は大政奉還から喜怒哀楽が目まぐるしく余裕がない様子だったが、反対に土方には焦りはなく冷静に状況を見つめているようだ。
総司の視線に気がついた土方が「どうした」と尋ねる。
「いえ…私は順風満帆の晴れ模様だったところに、突然大政奉還という嵐に巻き込まれたような心地ですけど、土方さんはそうでもないのかなって…」
「嵐か…」
土方は苦笑して答えた。
「嵐だろうと雷だろうと…将軍が空席でも、帝が立たれようとも、どうせ答えは決まっている。俺たちの船頭は近藤先生であり、それ以外にはいない。それは江戸を出た時から変わらないし、迷う必要はないだろう」
土方は特別なことを口にしたつもりはないのだろう。それは今までやってきたことと何ら変わりない…土方が断言できたのは、江戸からの長い帰りの道中にそう結論したのだろう、総司は土方の言葉を聞き、少し心の靄が晴れたような気がした。
「…早く近藤先生にそう言ってあげてください。きっと今か今かとお待ちですよ」
総司は土方を近藤の別宅へ行くように促すと、「わかった」と土方は膝を立てたのだった。



伊東は藤堂を引き連れて中岡のもとを訪ねた。陸援隊を部下に任せ、一時的に身を隠している彼と顔を合わせることは慎重さが必要だったが、何度か手紙を出しようやく機会を得ることができたのだ。
「なか…いえ、石川先生とは九州遊説の際に知り合われたのですか?」
その道中、藤堂が訊ねた。往来で中岡の名前を出すことは憚られ変名を口にすると、伊東は微笑んだ。
「そう。初めて九州へ向かった時だ。もちろん私は新撰組の参謀であったから誰一人、私の話を聞くどころか門前払いが当たり前のなかで石川先生だけが耳を傾けてくださった。懐が広く表情も豊かで好感が持てるが、いざとなれば豪胆に動かれる御方だ。このたびの大政奉還についても薩摩と土佐を結ぶ懸け橋となられ、今は岩倉卿とともに王政復古のために動かれている」
「王政復古…それは伊東先生のお考えと同じですね!」
「藤堂君、声が大きいよ」
伊東に諫められ、藤堂は「すみません」と両手で口を塞いだ。大政奉還後も政権を握る徳川と、戦に持ち込みその立場を狙う西国という形勢のなか、伊東のように帝を中心とした王政への移行を唱える者は少ない。往来で誰かの耳に入れば面倒なことになるだろう。
「…とにかく石川先生、そしてご友人の才谷先生のお考えはとても私と近いのだ。行動力も統率力もある。きっとこれから先も政権の中心を担われる…是非ともこのご縁を続けていきたい」
「そうですね」
そうして到着したのは土佐藩の御用を務める河原町近くの醬油屋、近江屋の二階であった。待ち構えていたのは中岡だけだ。
「中岡先生、ご無沙汰をしております。こちらは同志の藤堂です」
「すまん、才谷は留守だ。話を聞こう」
火鉢の傍に誘われ、伊東と藤堂は部屋に入った。
藤堂は先ほどまで話に聞いていた中岡よりも淡白な様子に少し困惑していたが、伊東は構わず話し始めた。
「橋本から報告を受けております。陸援隊にはほとんど戻らずに身を隠されているとか…正しいご判断かと思います。いまお二人の命を狙うような風聞が巷に流れておりますし、市中ではあちこちで暗殺や謀殺が起こっています」
「…橋本君か…。まあ、彼のことはえい。市中でそがな噂が流れちゅーのは知っちゅう。そのせいで三条の酢屋からここに移ることになった」
「王政復古の勅命さえ下れば、不自由な生活も終わるはずです。もう少しのご辛抱かと」
「噂では君の古巣である新撰組がわしらの命を狙うちゅーと聞いた。いや…古巣ではのう、ただの分離やったか?君たちは新撰組の手先いうことか?」
「違います!」
中岡が問い詰めるので藤堂は思わず声を上げた。
「俺たちは確かにもとは新撰組の隊士ですが、今は分離し完全に袂を別っています!敵対関係ではありませんが新撰組とは別の組織です。先生がご心配なさるようなことは何もありません!」
「藤堂君、落ち着いて」
伊東に宥められ、藤堂は「申し訳ありません」と頭を下げた。しかし中岡はいまだに冷たい表情のままだったが、伊東は微笑んだ。
「…中岡先生、前にもお話した通り分離というのは手段としてそのようにしたまでであり、我々はいま帝の僕であると自負しております。もちろん市中では新撰組の一部であると思われているのは確かですが…私の目指すところは先生と同じはずです」
「…」
いまだに顔色の冴えない中岡に、伊東は話の矛先を変えるように微笑んだ。
「今日はご報告に参ったのです。この藤堂君が先日美濃に行き、水野弥三郎と話を取り付けました。水野は美濃三人衆のひとり…有事の際には農兵五百人余りを率いて戦に加わると約束しました」
「博徒か。君たちと同じで信用できるがやろうかな」
「…!」
二度目だったので藤堂は堪えたが、伊東から聞いていた『好感の持てる男』であるようには見えない。危険を顧みずにやってきた伊東に対して冷遇し、突き放しているようにしか見えなかったのだ。
伊東もさすがに不審に思ったのか、
「…水野の懐柔は中岡先生のご希望だったはずです。我々が何か気に障ることでも?」
と訊ねた。中岡はしばらく沈黙して、火箸を持って炭を突いた。重たい沈黙のなか、伊東が引かずに答えを待つ姿勢を続けると、観念したように中岡が口を開いた。
「新撰組の間者が陸援隊に紛れ込んじょったというがは知らしたねや?」
「…はい。我々が橋本君を潜入させていることは、会津と新撰組に知らせていましたが…おそらく我々の監視を含めて忍び込ませたのでしょう」
「橋本君はえろうその新撰組の間者を気にかけちょった。彼は間者じゃないとなんべんも訴えた」
「それは…初耳です」
寝耳に水、伊東はちらりと藤堂を見たが、藤堂がそんなことを知る由もなく首を横に振る。
けれど中岡の不審はそこから始まったようだ。
「わしゃ御陵衛士を信用しちょったが…もしかしたらいまだに新撰組の手先として動きゆーだけじゃないかと才谷に聞かれたがじゃ。今日、才谷がこの場におらんのは君たちを信用しちゃあせんきだ。うちにも散々、新撰組の一味に会うがよと止められた」
「…」
「たとえ君たちにそのつもりがのうとも、そう見えるということや。…伊東先生、おまさんのお考えは確かに我々と近い。初めて会うた時も危険を顧みず弁舌を止めん姿に好感を持ったし、先日提出いた建白書も目を通し広い視野を持った優秀な人材だということはわかっちゅー。だが…結局は君が新撰組の参謀であったという事実だけは揺るぎないがじゃ。おまさんに騙されちゅーのじゃないのか、今晩その刀を抜いて襲い掛かるのじゃないのか…そったらっかりを考えてしまう」
「それは…わかります。私も新撰組に在籍していたという過去を何度恨んだことか」
伊東は表情こそ穏やかに返答していたが、その拳が強く握られていた。藤堂は、いつも冷静で感情の片鱗すら見せない伊東がそうして感情を堪えているのを見るのが初めてだった。
しかし中岡はそれくらいで同情するはずはない。むしろ彼ははっきりと釘を刺しているのだ。
「申し訳ないが、いまのままでは君たちを信用することはもちろん、これ以上の友誼は結べんろう」
「…いまのままでは…」
「君は志士たちの信用を得たり、朝廷に近づくよりも何よりもやるべきことがある思う」
中岡が示唆することは、藤堂でも理解できた。
伊東は深々と頭を下げて
「わかりました」
と答えるとそのまま部屋を出ていく。いつも礼儀を尽くす伊東らしくない去り方で、藤堂は慌ててあとを追った。
二人は店を出て河原町の騒がしさに紛れ込む。来る時とは全く違う表情だった。
「…先生、な…石川先生のおっしゃることはもっともかもしれませんが、あまりに干渉が過ぎませんか。あんなに冷たく…」
「藤堂君、すまない。一人にしてもらえるか?」
伊東が無表情のまま申し出る。藤堂は戸惑ったが「わかりました」と答えるしかなく、立ち止まって伊東の背中を見送った。
(新撰組と御陵衛士は考え方とやり方が違う…でも協力できる部分があるから、裏切ったわけじゃない…)
藤堂は苦々しい気持ちだった。
最初はそう信じていたけれど、いまはそれが建前でしかないお飾りの言葉だということがまざまざとわかる。伊東についていくことに迷いはないが、その道がどんどんかつての仲間の道とは外れていっている自覚はあるのだ。
(今こそ…決別しなくちゃいけない時期なのかな…)
決別した先に伊東の望む希望があるのだろうか。
自分はそれに従うだけで良いのだろうか…藤堂が迷いを感じた時。
「あ…雨だ」
パラパラと夜空から零れるように雨が降り始めたのだ。














解説
なし


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