わらべうた




745


藤堂が月真院に戻ると、まだ伊東は戻っていないようだった。衛士たちには話を聞きたがったが、事が事だけにあまり詳しい事情を話すわけにはいかず、内海にだけ経緯を説明した。
いつも冷静な内海だが、中岡の批判に対しては眉間に皺を寄せた。
「…いつもの先生とはまるでご様子が違いました。落胆とも怒りとも…なんとも言えない表情で」
「…」
「雨も降ってきました…大丈夫でしょうか?」
「迎えに行ってくる。皆には心配せず、先に休むように伝えてくれ」
と、血相を変えた内海が出て行った。
内海は傘を差し、門を出て坂道を下る。傘が役立たずになるような強い風のせいですぐにずぶ濡れになったが厭わずに速足で歩き続けた。こういう時に伊東の向かう先は何となく察しがついていたからだ。
清水をひたすら南に下り雨のせいで人出のなくなった道を駆け、小道に入った先にあるのは御寺…戒光寺だ。皇室の菩提所である泉涌寺の塔頭であり御陵衛士として分離する際に手助けしてもらった縁のある寺門の前で、傘も差さずに手を合わせる伊東の姿があった。
ずぶ濡れになりながら目を閉じて一心不乱に拝む姿は、寄せ付けがたい雰囲気を放っている。まるでその場に漂う神聖なものの一部になってしまったかのようで内海はしばらくその横顔を見つめていた。雨のせいで張り付いた黒髪や一切の感情を隠した長い睫は昔から変わらぬ色香が漂う。
けれどいつまでも雨に打たれていては風邪を引くだろう。
「大蔵君」
内海は敢て昔の名前で呼んだ。そうしなければ彼は内海の存在に気が付かない気がしたのだ。彼はゆっくりと瞼を開けて内海を見た。
「…内海、なんだ、来ていたのか?」
「藤堂君に事情は聞いている。君はここにきているだろうと思った」
「ああ…そうか…」
内海は自身の傘を差し出した。当然、伊東に差し出せば内海の肩は濡れてしまうので、彼は苦笑した。
「…もう一本持ってくれば良いじゃないか」
「すまない、気が回らなかった」
「まったく…」
気が利かない親友にため息をつき、「帰ろう」と二人は一つの傘の下で歩き始めた。雨は少しだけおさまったが、彼に漂う鬱々とした雰囲気は続いている。
しばらく歩くと
「…亡霊に取りつかれているようだ」
と呟いた。
伊東が曖昧な言い方をするときはたいてい話したいことがある合図だ。内海は伊東の言葉にひたすら耳を傾けることにするが、物言いは億劫そうだった。
「…私は判断を誤った。新撰組に入隊したときは、ここで名を上げることで足掛かりとなり、国を変えるために働くことができると過信していた。だが実際は、いつまでも新撰組の参謀であった自分の亡霊のようなものが付きまとい、今や私の足枷となって思うように身動きが取れない」
「…」
「新撰組にいたおかげで、幕府の官吏が何を考えているのかわかる。私は徳川でもない、朝廷でもない、薩長でもない…客観的に見えるんだ。いまは皆が中途半端な立場に置かれた。だからこそその隙を狙うように互いの粛清が始まり、名の知られた者には身の危険が生じるだろう。私は中岡先生にそう説いた…都から離れるべきだと、彼らはこれからの政府を背負う存在だと心から思っているからこそ、彼らには易々といなくなってほしくないし、協力したいと願っていたからだ。だが…彼らには所詮届かない。私の亡霊が私の真意を悉く邪魔するせいで、お前のことは信用できないのだと酷く蔑ろにされた気分だ。まさか中岡先生に博徒の類と同じだと嘲笑されるとは思わなかった…」
伊東は落胆していた。その表情は内海が初めて見るほどはっきりと項垂れていた。
「…何を弱気な…わかっていたことじゃないか」
内海はあえて突き放した。
分離した時から、この道のりが厳しいものだとわかっていたはずだ。だからこそ棟梁である伊東の弱気な発言は士気を下げるため、内海は発破をかけたのだが、「許してくれ」と伊東は苦笑した。
「彼らとは理想が同じなんだ。大政奉還が叶ったいまだからこそ、武門に政権を委ねず朝廷中心の合議制による政治体制を整えるべきだ。このままただ徳川から名前が変わるだけの薩長の世の中になってはまた同じことが繰り返される…いまは内戦は避け、外患に備えるべきだ。そんな私の考えを取り合う者はなかなかいないが、彼らは新しい世の中を見据えていた。実権を握ろうとする故郷とは一線を画し、己の考えを貫く姿勢は…尊敬に値する御仁だ。だから…彼らには信用されたかったのだ」
理想的な考えを持ち、新しい政を築こうとする者だったからこそ、伊東は悔しかった。元新撰組という肩書のせいで信用を得ることが叶わず、議論の場に立つこともできない。
「…どれだけ言葉を尽くしても届いていないのだと、それをはっきりと口にされて正直狼狽した。ここに来たのは私が御陵衛士としてなすべきことを見つめ直したいと思ったからだ」
御陵衛士が始まった、縁の深い場所で初心に帰る。
伊東の考えることは内海にもわかっていた。だから真っ直ぐここに来たのだ。
伊東は内海に身を寄せつつ、薄く笑った。
「…ハハ、私は先走ったのかもしれないな…言葉の通じる相手には必ず真心が伝わるのだと。…恐れずに行動して潔白を証明するのが先であるのに」
「潔白…か。君は…」
内海がその意味を尋ねようとしたとき、遮るようにゴロゴロと遠くから雷の音が聞こえてきた。内海は伊東の背中を押し「急ごう」とさらに歩調を速めたが、彼は立ち止った。
「内海。私は…勤皇志士のひとりとしてこの足で自分の道を歩む。だから…亡者を断ち切る」
「…」
「私は…新撰組を打倒する」
伊東の悲壮感の漂う決意を耳にして、内海は
「わかった」
と即答した。伊東は怪訝な顔をした。
「…本当にわかっているのか?」
「いつか君がそう言う気がしていた。元来、君はそういう性質だろう。井伊大老の時も本当は参加したかったと嘆いていた」
「懐かしいな」
血気盛んな若かれし頃の話を持ち出され、伊東には懐かしさが込み上げる。
するともう一度ゴロゴロと音が響いた。先程よりも近く聞こえたので
「帰ろう」
と内海は伊東の手を引いたのだった。




翌朝。
あちこちに大きな水たまりが残るなか、新入隊士を引き連れた井上が帰還した。
「近藤局長、無事に帰還いたしました。いやぁ、昨晩の突然の嵐には参りましたが、何とか一人も欠けることなく到着いたしました」
そう言いながら井上が近藤に頭を下げると、その後ろに控えていた二十名あまりの隊士たちもそれに従って頭を下げた。
「皆、長旅ご苦労だった。私が新撰組局長の近藤勇だ。この非常時にも関わらず、公方様に忠誠を尽くさんとする皆の入隊を心待ちにしていた、頼りにしている」
近藤は労をねぎらい、その隣の土方、総司たち幹部も彼らを出迎えた。
(近藤先生…お元気そうだ)
隊の規則や組み分けを告げる土方の隣で、総司は近藤の柔和な表情を見てほっと安堵していた。義父の周斎が亡くなって塞ぎこんでいたが、やはり幼馴染の励ましが心に響いたのか、疲れているもののすっきりとしているようだった。
早速入隊した二十名余りの配属が決まり、総司の配下にも数名加わったが、今までと違ったのは近藤と土方の直属として年少の隊士二名が配属されたことだ。近藤には田村兄弟の末っ子である銀之助、土方には井上の甥である泰助が充てられることとなった。さすがに実戦に出すには若すぎるので彼らは身の回りの世話をする小姓のような役割を果たすらしい。
そしてそれぞれ解散になって各部屋に案内されていく中、総司は後方に控えている泰助と銀之助のもとへ近づいた。彼らは皆が去っていくのに、正座したままだった。
「泰助、久しぶりですね」
「あ、…はい、お…おきた、せんせい…」
「う…」
彼らは膝を折ったまま正座で硬直していた。こめかみに冷や汗をかき、明らかに様子がおかしい。彼らの深刻な表情を見ていったい何があったのかと総司が首をかしげていると銀之助が申し訳なさそうに答えた。
「その…足の痺れが、切れてしまって…」
「俺もです…」
どうやら最年少の二人はあまりに緊張していていたのか、怖気づいたのか体中に力が入り足のしびれを切らして動けなくなってしまったらしい。二人とも青ざめて恥ずかしそうにしていたので、総司は噴き出して笑ってしまった。
「なんだ!てっきり鬼副長が恐ろしくて漏らしたのかと!だったらもう少しゆっくりしたら良いですよ。ああ、でもおかしいな、ハハハ、ハハハ…!」
「も、申し訳ありません…」
「…くそ、こんな体たらく…!」
ひたすら申し訳なさそうにする銀之助と悔しそうに顔をしかめる泰助は、良いコンビになりそうだ。総司は久しぶりに腹を抱えて笑ったが、そこにふらりと見慣れない顔の隊士がやってきて二人の背後に回るなり、「よっと」と言って痺れた足をつついた。
「ひぃ!」
「やめてください野村さん!」
「あ、本当に痺れてるみてぇだな!」
二人をからかうのは、総司の配属になった野村だった。一回り以上年は離れているが兄弟のように一通り二人を弄って、改めて総司の方へ頭を下げた。
「野村利三郎です!お世話になります!」
「ああ、野村君ですね、よろしくお願いします。一番隊は面倒見の良い隊士がたくさんいますからわからないことがあったら彼らに何でも聞いてください。それから先日新人が入りましたから、是非彼と切磋琢磨して…」
「先生、美人ですね」
唐突な野村の言葉に、総司は一瞬呆気にとられた。それは成り行きを聞いていた少年たちも同じだったようで(いったい初対面なのに何を言っているんだ)と言わんばかりの表情だった。しかし野村は構わずまじまじと品定めするように総司を眺めている。
「…は…あ、それはどうも」
「ここに来るまでの道中、井上先生から一番隊は花形部署で、顔の整った奴が入るんだと聞いていたんです。つまり俺が入れるってことは、それなりに俺も見れる顔だってことですかね?!」
「…ハハ、君も面白いなあ。でも一番隊は近藤局長の親衛隊です。見た目よりも、剣の腕を重視しますからね。見込みがなければ副長に言いつけて異動させますからそのつもりで」
「げえ!」
野村は総司に対しても物怖じせずあけすけな物言いで素直なリアクションを見せるが、不思議と嫌味はない。
泰助には「野村さんなんてすぐに異動でしょ」と揶揄われ、銀之助は堪えきれずに笑う。野村は
「痺れを切らしてるやつらに言われてもな!」
と言い返し、和気藹々としている。幕臣の立場が崩れ鬱憤した空気が漂う新撰組にとって、彼らは新しい風となるだろう。
しかし。
「…いい加減、痺れは治っただろう?」
その明るい雰囲気を低く戒める声が響いて、「ひっ」と三人は背筋を伸ばした。声の主は仁王立ちで腕を組み、成り行きを見守っていた土方だ。
「田村銀之助は局長へご挨拶を、野村利三郎は伍長の島田のもとでさっさと仕事を覚えろ。…泰助は一緒に来い」
「はっ…」
「ハイぃ!」
泰助と銀之助は痺れなどどこかに行ってしまったかのように立ち上がる。銀之助は引き締まった表情で局長のもとへ駆けていき、試衛館で土方と交流があったはずの泰助は、鬼副長の迫力に怖気づき足がもたついている始末だ。総司はそんな様子さえ面白くて、「ふふふ」と口を押えて笑うしかない。利発そうな銀之助は近藤の小姓にぴったりであるし、気が強い泰助は土方のもとで教育されていくのだろう。
「あーあ、面白かった。じゃあ野村さん、行きましょうか。一番隊の隊士を紹介します」
「はい!」
意気揚々と答える野村は、総司とともに部屋を出たのだった。











解説
新入隊士の配置については創作です。今回上京した隊士たちは幕臣となった近藤の家臣という側面が強く、近藤附きの隊士という形です。


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