わらべうた




748


別宅に移動すると土方が珍しく「酒が飲みたい」と言うので総司は肴を買い求め晩酌をすることにした。
総司はほんの少しだけ酒を口にして甘い団子を頬張りながら静かな夜空を見上げる。
「今日は星がよく見えますね」
「寒いだろう、閉めておけ」
「少しだけ」
「じゃあこれを着ろ」
土方に厚い綿入れを渡されて総司は袖を通した。火鉢の向こうにいる土方は既に熱燗を二本、飲み干していた。顔が赤らんでいるが、理性を無くすほどの酔いではないようで苦悩は見て取れた。
「…近藤先生と何かあったんですか?」
「…」
「お酒が飲みたいだなんて、土方さんらしくない。よほどの喧嘩ですか?」
「いや…喧嘩じゃない」
土方は否定したが、その先を話そうとはしなかった。
近藤と土方の喧嘩は珍しいことではないか、たいてい感情と理屈のぶつかり合いで、最後は近藤が折れて終わる。二人なりの終着点があって、土方はそれを見据えていて近藤の興奮が収まるのを待っているのだ。だから土方には迷いがなかった。
けれどいまは様子が違う。土方には答えがなく、あまりに苦しいからこそ酒に逃げたくなったのだ。
総司は深く訊ねることを避けて、土方に串に刺した茹で蛸を渡した。
「これ、試衛館でみんなよく食べましたよね」
「…そうだったか?」
「大先生の好物だったけど、歯を悪くされたでしょ?だから柔らかいところは大先生が召しあがって、他を食客たちで頂いてました。そういえば藤堂君が好きで良く食べてたなぁ」
「…そうだったな」
土方は苦い顔をしつつ、串に刺さった蛸を眺めた。そして気が進まなくなったのか串を皿に下ろす。
「…総司、もし…藤堂を殺せと言ったら、殺せるか?」
突然の問いかけに、総司は素直に驚いた。けれど同時に(そういうことか)と納得もした。
「…御陵衛士との間に何かがありましたか?」
「奴らは完全に新撰組と手を切るつもりだ。それだけならまだしも…倒幕派と組み、兵を集めている。こちらを潰すつもりかもしれない」
「…最初からそのつもりでしたよね?」
「そうだろうな」
土方は不快そうに吐き捨てたが、総司は自分でも意外なほど冷静だった。入隊当初から感じていた伊東の異物感がやがて敵意へと昇華しただけのような気がしたのだ。土方も御陵衛士に対して信頼はしていなかったのだろうけれど、伊東の側には藤堂がいる。
「近藤先生に藤堂だけは助けるように言われた」
「…先生はそうおっしゃるでしょうね」
「お前はどう思う?」
総司は土方から視線を外し、手元の盃を揺らした。ほんの少しだけ残った薄い酒を飲み干して喉を潤す。
そして総司は偽りない本音を吐露した。
「私は…殺せないかもしれません」
「…それは命令を聞けないということか?」
「そういうことではなくて…受諾する自信がありません。今の私には…」
技量的にも、能力的にも、今は満たされているとは言い難い。そんな自分が精神的にも苦しい思いをする死に物狂いの魁先生を相手に出来るのか、正直に言ってわからなかった。
「仲間を…仲間だった人を斬るのは、大変なことです。いまだに山南さんのことを忘れることでしか乗り越えられない私には…できないかもしれない」
一度経験したからこそ、怖気付いてしまう…その気持ちがあることは否定できないし、近藤もも同じだったのかもしれない。あの喪失感を知っているからこそ、もう二度と繰り返したくないと思う。
そして土方も本当はーーー。
「…ゲホッ、ゲホッ」
こんな時に、と思いながら胸が少し痛むような咳が出た。土方は酔いが覚めたように肩を寄せて、夜風の入る障子を閉めた。
「もう良いから休め」
「…歳三さん、私は…きっと、お役には、立てませんが…」
「喋るな」
「もしそうなっても…誰も責めません…」
これだけは、と息を切らしながら縋るように告げると、土方は一瞬戸惑った顔をしたがすぐに「わかったから」と話を切り上げた。そして土方に誘導されるままに身体を横にして息が整うまで目を閉じた。
すると背中をさすり続けていた土方がポツリと呟いたのは、
「…俺は、藤堂を殺せないな…」
という本音だった。


同じ頃、鈴木は伊東の部屋の前にいた。
正しくは兄の部屋の前でうろうろと何周か歩き回り、入るべきか入らざるべきかを悩んでいた。
(斉藤に嗾けられたというのも癪だ…)
伊東の真意がわからないと嘆くと、「兄弟なら直接確かめろ」と言われて、何故だかそれを挑発のように受け取った鈴木は言われるがままの勢いで足を向けたのだが、実際この部屋の先で兄が何を話してくれるのかはわからないし、自信はない。
(和解した…なんて思っているのは俺だけかもしれない)
兄は冷たくはないが、相変わらず淡々としていた。鈴木としても今更兄弟のようにふるまうのも調子が良い気がして、あくまで上司と部下として立場を守ってきたのだ。
(やはり…やめよう。兄上には考えがあるに違いないのだから、待っていれば良い)
そう思いなおし、去ろうとしたところ障子が開いて伊東が気難しい顔のまま鈴木を見据えた。
「…気が散る。なにか用があるのならさっさと入れ」
「は…はい、すみません…」
伊東に言われるがままに、鈴木は部屋に足を踏み入れた。
月真院の一室は数本の蠟燭が灯され、大量の本と文が積みあがった机の周りに散乱していっぱいになっている。部屋は二人入れば狭く感じるような広さだが、不思議と居心地が良いのはかつて実家で暮らした時と似ているからだろうか。
伊東は鈴木に背を向けて文机に向かい、筆を手にした。
「それで…一体何の用だ?」
「…兄上が、思い詰めていらっしゃるようだったので…」
「そのわけを知りたいのか?」
伊東は鼻で笑い、鈴木は(やはり)と肩を落とした。兄弟だと口にしてくれたのはただの慰めで、これから簡単に関係が修復されるわけではないのだろう。
鈴木が口をつぐむと、伊東は深くため息をついた。
「…土佐の御仁に、お前は信用ならないと釘を刺されただけだ。博徒の輩と変わらぬと」
「え…」
「元新撰組の参謀だ。西国遊説でも何度も同じ目に遭ったが…このところ、思い通りに物事が進み、すっかり失念していたようだ。この土壇場で…梯子を外されたとはまさにこのことかもしれない」
鈴木は唖然としていた。愚痴のような内容よりも、兄が偽りない心の内を自分に吐露してくれている…自分を信用して、気を許してくれている。
けれどそのことに恍惚と喜んではいられない。伊東は落胆し、肩を落としているのだ。
「は…腹立たしいことです。土佐とて時に幕府にすり寄り、時に長州や薩摩に手を貸してきたはず。兄上がそのような誹りを受ける謂れはありません!」
「…はは、お前にしては良くできた慰めだ」
伊東は愚弟が時勢を理解していると思っておらず、冴えた言葉を口にしたことを素直に驚いているようだった。
「だが…私の立場も土佐と変わらないだろう。だから元新撰組という肩書は消そうとしても消せない、咎のようなものだ。この罪を贖うことから始めるべきだった」
「それは…どういう意味ですか?」
「お前は知らなくても良い」
それは非情な拒絶ではなく、これ以上は踏み込まなくて良いという警告のような言い分だった。鈴木が「わかりました」と素直に引き下がると、伊東はそれで良いと言わんばかりに小さく頷いた。
「お前は小難しいことには関わらず、このまま周囲の警戒を怠らず見回りをしていれば良い」
端正な兄の口元が微笑んだように見えて、鈴木は思わず
「兄上は何故俺を許してくださったのですか?」
と訊ねた。これまでまるでそこにいないもののように冷遇されていたのに、いまは衛士の一人としてまた弟として認められているような口ぶりだ。鈴木にとって夢見ていた兄との会話だが、現実のような気がしなかった。
すると伊東は「ああ…」と視線をそらし、手にしていた筆を置いた。
「…もし自分に何かあったら、後悔するだろうということがいくつかある。そのうちの一つがお前のことだ」
「俺の…」
「いつまでも過去のことに囚われ続けるのは子供だ。お前は都度反省しているようだし、内海にも今のお前を見るように促された。…家を出るときのことはずっと引っかかっていたが…思えば、長兄で跡継ぎである私の無責任な振る舞いにも問題があるのだろう。父が死んでも無関心で、母を置いて家を捨て、自分を優先した。お前がすべてしりぬぐいをしてくれたことをわかっていたのに、知らないふりをした」
「兄上…」
「だったらもう、おあいこで良いだろう。…異論はあるか?」
「あっありません!」
鈴木は即答した。そして同時に目頭が熱くなっていた。
伊東は新撰組にいたことが咎だと話したが、鈴木にとっては兄と別れるときの身勝手な行動がすべての亀裂を生んだと思っていた。どう贖っても贖いきれない傷は、きっと瘡蓋のように取れては繰り返し膿続けるのだろうと。
けれど兄は長い時間をかけて和解を口にした。傷を忘れることで治す…鈴木にとってこれ以上ない望みをかなえてくれたのだ。
鈴木が俯き、涙を流すと
「泣くな、鬱陶しい」
と伊東は口にした。
それは突き放す棘のある言葉ではなく、ただの兄弟の戯れだった。





解説
なし


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