わらべうた




749


翌日は明け方から小雨が降っていた。
総司が肌寒く感じ目を覚ますと、傍らで土方が熟睡していた。総司が眠ってからも酒を飲み続けたのか、買い求めた酒はすべて飲み干していた。赤ら顔で寝ているのは珍しい。
総司は昨日の会話を思い出した。
(…藤堂君か…)
新撰組と御陵衛士の間に、近藤や土方が藤堂に手を掛けるかもしれないと考えるくらいの亀裂が起こった。それは起こるべくした起こるものだったのかもしれないが、これから土方が抱えるであろう心痛は計り知れない。
試衛館の仲間はこぞって藤堂に味方するだろうし、土方の本音は手を出したくないのだろうが、それでも土方は『藤堂を許さない』と主張し続けなければならないのだ。御陵衛士が兵を挙げて歯向かうなら、こちらもそうする…鬼の副長は藤堂を贔屓せず、非情な決断を下すべきだと判断するだろう。
後々それがどれほどの痛みとなるのか―――山南の時のことを考えれば歴然としている。
けれども、せめて彼とは憎みあったまま別れたくはない。
(山南さんとは最後は和解できたのだから…藤堂君ともそうあってほしいと思うけれど、無理なのかな…)
「…起きたのか?」
総司が考え込んでいると、気配に気が付いた土方がゆっくりと体を起こした。寝起きの悪さと昨晩の酒が残っているせいで体が重そうで顔色が酷く悪い。けれど気怠そうにしながら総司の額に掌を当てて「熱はないな」と確かめた。
「吐き気も落ち着きましたし、大丈夫です。…今日は巡察は休みだけど朝は稽古なんです。だから帰らなきゃ」
「今日はこのまま休め」
「そうはいきません。新入隊士の腕も見ておきたいし…ちょっと口出しするだけですから」
「だったら…一緒に帰る」
「それこそ駄目ですよ、そんな二日酔い丸出しで帰ったら、隊士の士気が下がります」
土方は「大袈裟だ」と鬱陶しい髪をかき上げたが、飲みなれていない酒がまだ回っているのか、すぐに諦めて
「稽古は眺めるだけだからな」
と念を押した。総司は過保護な土方に「はいはい」と苦笑しつつ、布団を彼の肩に掛けて身支度を始めた。髪を束ね、羽織に袖を通し、刀を帯び…袱紗に包まれた銃を懐に忍ばせた。
「それ…持っているんだな」
その様子を肩肘を文机につきながらぼんやりとみていた土方が、総司の銃を指さした。以前、土方から命綱のように『持っておけ』と言われて渡されたものだ。それでも抵抗があってしばらくは行李の中で眠っていたのだが、このところ出歩くときは持ち歩いていた。
「…ええ。物騒ですからね」
「そうだな」
「じゃあ先に戻ります」
総司は短い返答で話を切り上げたが、土方もそれ以上は訊ねなかった。
傘を持って外に出ると、小雨だが長く降っている雨で地面が泥濘となり、あちこちに水たまりができていた。次第に痺れるような寒さを感じ、もう冬なのだと実感した。しかしそんな呑気なことを考えていられたのは少しだけで、身体に満たされていた熱はあっという間に消え失せて、指先が冷たくなっていく。
(早く帰ろう…)
そう思うが、泥濘が邪魔をしてなかなか前へ進まない。そうしているうちに昨晩の胸の痛みがぶり返してきて、総司は足を止めた。嫌な予感がして(いっそ別宅に戻ろう)と思ったが、そうすることさえできないほど動悸が激しくなっていく。近くの塀に片手を付きどうにか重心を取りながら、身体の奥から聞こえてくる悲鳴のような荒い呼吸をどうにか鎮めようと体を丸めたけれど寒さのせいかどんどん酷くなっていく。
「ゲホッゲホッ!」
ついに喉が痛む咳が出た。雨が降り傘を差していたおかげで人出があっても目立たないで済んでいるが、このまま喀血して倒れれば騒ぎになってしまうだろう。総司はひたすらに耐え忍ぼうと格闘したが、咳はどんどん酷くなっていく。
(とにかく…目立たないところに…)
今にも倒れそうな鉛の体を引きずって、道幅の狭い脇道に移動したが、その無理がまた悪化させた。このまま意識を失ったら大事になると己を奮い立たせるが、それもいつまで続くかわからない。他人には一瞬のことが、総司には永遠に感じられて途方もない気持ちになった…時。
突然身を隠すようにしていた傘が取り上げられてしまった。
「やっぱり…!」
そして、目の前に現れたのは藤堂だった。
「なん…」
「沖田さんのような気がして駆けつけたら当たりでした。大丈夫ですか?顔、真っ青じゃないですか!」
藤堂は何の迷いもなく総司を心配する。彼のそんな顔を見ていると、互いの立場だとか状況だとかそんなものはすべて消え去り、気が緩んだ。そのせいだろう、体を折り曲げた「ゲホッ!」という一際大きく激しい咳のあとに喀血していた。指の合間から零れる真っ赤な血に藤堂は驚いていたが、すぐに邪魔な傘を放り投げると、血で汚れることなんかお構いなしに総司を担いだ。
「えっと、南部先生でしたっけ?でも遠いですね、屯所も…どうしよう」
「…藤堂、く…このまま…」
「このまま置いて行けなんて馬鹿なこと言わないでくださいよ!このご時世に正体が知れたら危ないし、だいたい血を吐いているくせに何強がっているんですか!」
魁先生の容赦ない文句に、総司は反論することはできない。藤堂はしばらく「どうしよう」と考えていたが、
「仕方ない」
と呟いて総司を背負ったまま速足で歩きだした。
総司はその背中で少しずつ意識が遠のき始めていた。けれどはっきりしていたのは藤堂が駆けつけた時、総司は「助かった」と思ったことだ。そしてこうして背負われて、どこへ向かうのかわからないけれど何も心配はしていなかった。
(僕は…ああ言ったけれど…)
昨晩土方に尋ねられて、敵対するのなら彼を失っても仕方ないと、病で蚊帳の外だからこそ割り切って勝手なことを言ったけれど。
藤堂を目の前にすると、あの言葉はただの強がりだったのだとわかった。
(…僕も、君を失いたくはない…)
理性よりも感情を優先してしまう、屈託のない君がどうしても嫌いになれない。
「ありがとう…」
蚊の鳴くような声は藤堂の耳に届いたのかどうかはわからない。総司はそのまま意識を手放してしまったのだ。


ドンドンドンッと激しく門を叩き、
「誰か―!」
と藤堂は叫んだ。背負った総司は意識を失ったが荒い息遣いは続いている。早く休ませて医者を呼んだ方が良いと思った藤堂は、自分なりに最善の選択をしてここにやってきた。
すると扉が開く音が聞こえて、門が開く。気怠そうな家の主が迎え出るが、びしょ濡れの藤堂と総司の顔を見て驚き混乱していた。
「…藤堂?」
「早く中に入れてください。沖田さんが…!」
「入れ」
状況を察した土方は別宅の中に二人を通し、玄関でぐったりした総司を受け取るとその場に横たえた。呼吸が楽になるように態勢を整えるが、依然として苦しそうだ。
「すぐそこで、たまたま苦しそうなのを見かけたんです。最初はだれかわからなかったけれど、沖田さんのような気がして…あっという間に血を吐いて眠ってしまいました」
藤堂の肩口には総司の喀血による汚れがあり、彼が語ることが本当なのだとわかる。土方はひとまず自分の上着を総司に掛けて、雨を拭き取った。そして藤堂にも手拭いを渡した。
「…世話になった」
「そんなことは良いんです。俺、ひとっ走りにして医者を呼んできましょうか?主治医は南部先生ですか?」
「もう良い、お前は帰れ」
病人を前に熱くなる藤堂に対して、土方は淡々としていた。
「帰れません!とても苦しそうだったんです、人通りがあるなかで耐えていたみたいで…!俺にできることがあれば…」
「苦しむのはいつものことだ。喀血して苦しくないわけがない」
「そんな…!」
「医者には診せるが、落ち着いてからで良い。…お前には関りがない」
土方に冷たく拒まれて、藤堂は
「俺だって仲間です!」
とほとんど無意識に叫んだ。けれどそれは部屋に響くだけで、むなしく雨の音に混ざって消えていく。
藤堂は何一つ間違っていないという顔をして睨みつけていたけれど、土方は相手にしなかった。彼以上に鋭い眼差しで見据え、重く告げた。
「一時的な情に流されるのは、お前の悪いところだ」
「な…っ」
「新撰組を出て行ったお前に何がわかる。これが何度目の喀血か知っているのか?そのたびに『仲間』がどれほど心配して苦しんでいるのか、お前は知っているのか?お前も同じだと?」
「…!」
「知らないなら、何もいうな。命取りになるぞ」
藤堂は言葉が出なかった。
決して自分が御陵衛士として出て行った立場だということを忘れていたわけではない。けれど昔なじみの仲間が倒れていて手を差し伸べるのは当然だと思ったし、気が進まなてもこの別宅に駆け込んだのだ。だから、感謝されたいと思っていたわけではないが、ここまで強く否定されるとは思ってもみなかった。
冷たく突きつけられる現実に対して怒りや憤りを通り越し…藤堂は呆然としていた。
雨に濡れた衣服がずっしりと重たく感じ、途端に身体が冷えていく。
(わかった…)
そしてある境地にたどり着いた。
「…わかったなら、帰れ。今日のことは有難く思っているが、今後は手出し無用だ」
土方は呼吸が落ち着いた総司を抱きかかえたが、藤堂はそれまでの勢いを無くしたように項垂れた。そして感情を無くしたように呟いた。
「とても…とてもよくわかりました。確かに俺は皆と別の道を歩くことに決めた裏切り者です。新撰組との橋渡しだとかそんなこじ付けで納得させてきたけれど…もうあのまま新撰組に残ることはできなかったから、逃げるために出て行ったことに間違いはありません」
「…」
「俺はもう仲間じゃない。…それがわかってすっきりしました」
藤堂は手拭いを「返します」と玄関に置き、背中を向けた。
「それに…やっとわかりました。山南さんもこうやって死んだんですね」
「…とう…」
「失礼します」
藤堂は土方の言葉をさえぎってそのまま去っていった。雨は強くなってあたりは霧に包まれている。
土方は総司を抱きかかえて部屋に入った。幸いにも総司はさほど雨に濡れておらず、体温を取り戻しつつあった。それは藤堂がここに駆け込んでくれたおかげだ。
(言いすぎたな…)
土方はそう思ったが、早くこの場を去らせたいという気持ちが言葉に表れてしまったのだ。もし何処かに御陵衛士や倒幕派の監視の目があって新撰組の、しかも土方の別宅に立ち寄ったなど知れれば彼の今後に関わる。これは土方なりの配慮だったのだが、そんなことは言い訳に過ぎないのだろう。
(俺は…あいつをもう殺してしまったのかもしれない…)
明るく素直な魁先生は、まるで心を失ってしまった人形のように表情を凍らせて去ってしまったのだ。






解説
なし


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