わらべうた




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一日中肌寒く、雪が舞う曇天が空を覆う。
「藤堂君、行こうか」
伊東に誘われ、藤堂はすぐに「はい!」と返事をした。伊東は少し疲れている様子だったが、もともとこの時刻に外出することは告げられていた。
二人で月真院を出て
「どちらへ?」
と訊ねる。伊東が「近江屋だよ」と答えたので驚いた。それは以前、藤堂とともに訪れた中岡らの住処だ。
「えっと…また石川先生のところへ行かれるのですか?」
「今日は才谷先生もいらっしゃると良いのだが…我々を警戒しているのだからお会いできないだろうな。念のため他の者ではなくて君を連れてきたが…それでも今一度、話をしておきたくてね」
「…先生…」
藤堂は目の前で伊東がこっ酷く拒絶された光景を見ている。中岡の様子から藤堂はこれ以上の関係を望めないのだろうと諦めていた。けれど伊東は首を横に振る。
「ここで引き下がっては中岡先生たちのお疑いを認めるようなもの。我らの献身は誠なのだと信じていただけるまで続けるつもりだよ」
「…」
それは御陵衛士にとって必要なことであり、伊東にとっても彼らに認められるということが特別なのかもしれない。
伊東は足を止めた。少し寝不足で疲れた様子だったが、深刻な表情をして藤堂を見て切り出した。
「…藤堂君、一つ君に言っておきたいことがあるんだ」
「何でしょうか…?」
「新撰組との橋渡し役はもう終わりで良い」
伊東の眼差しには覚悟があった。藤堂は突然のことに驚きはしたが、いつか伊東がそんな風に言うのではないかと想像していた。
その意味はわかっている。新撰組との情報交換を一方的に取りやめて、関係を断つ…これは分離前の取り決めを破る、裏切りだ。
(俺だってもう…御陵衛士の藤堂平助だ…)
「わかりました」
「…理由を聞かないのかい?」
「はい。もう彼らとは考え方が違います。仲間ではありません」
藤堂は強い語調で言い切った。
先日の土方とのやり取りで、昔の仲間にこだわり続けているのは自分だけで、すでに切り捨てられたのだと思い知った。もちろんそれは彼らのせいではなく、伊東と共に歩むことを決めた自分の決断が発端なのだから、責めるわけにはいかないのだろう。けれど人として最低限の情さえも必要ないと拒まれてしまい、心の中で何かが折れた。
そして彼らへの情を捨てた途端、物事が単純に考えられるようになったのだ。
(俺は御陵衛士として伊東先生のためだけに尽くせば良い)
「先日、石川先生に厳しく忠告されて思い知りました。今は土佐の信用を得るために、御陵衛士として尽力するのが肝心です。この重要な時期に新撰組に接触していると知られたら我々の信用は地に落ちます。慎重に行動すべきです」
「…そうだ。今はどんな綻びも許されない。君が理解してくれてありがたいよ」
伊東の口元は微笑んでいたが、目は笑っていなかった。伊東の覚悟と決断を感じ、藤堂は改めて己を奮起した。
(もう迷わない)
後ろ髪引かれる思いは確かにあるが、過去よりも未来を見据えるべきだ。これは前進だと信じる…そんな藤堂の横顔を、一方で伊東は複雑な気持ちで眺めていた。
(私が既に沖田を襲い、近藤の暗殺を目論んでいると知っても同じことを言うのだろうか)
あるいは山南を裏で操り、追い詰めたと知ったらこの純粋な青年はどうなるのだろうか。そして斉藤はすでに死んだと口にしてもまだ共に歩むと言うのだろうか。
藤堂が伊東へと近づき、共鳴し、信用を得れば得るほど…伊東は彼の純粋さが己の邪悪な側面をさらに引き立たせるような気がしてしまう。
伊東はハラハラと舞う雪を見上げた。
後に桜田門外の変と呼ばれたあの日も、雪が降っていた。内海が駆け込んできた時のことを鮮明に覚えている。
(私の姑息さを…君はどう思っているのだろうか)
「…さあ、急ごうか」
伊東は歩調を早め、藤堂はそれに続いた。足元に落ちる雪はすぐに消えていった。



総司が目を覚ますと屯所の自室に移動していた。陽は傾いている。
「あれ…」
「あ、目を覚まされましたか?」
山野が総司の額に冷たい手拭いを差し出しながら、声をかけた。
「山野君、いつの間にここに?」
「島田先輩が背中に負ってお運びしました。先生は深く眠られていて」
「全然気が付かなかったな…斉藤さんは?」
「客間です。今頃は原田先生たちが帰営をお祝いしていると思います」
「へえ…」
総司が耳を澄ますと、確かに原田や永倉たちの賑やかな話し声が聞こえてきた。思わぬ帰還に喜ぶ彼らの歓待を受け、斉藤が無表情で受け答えする光景が目に浮かぶようだ。
山野は総司の額に手を当てて「お熱は下がりましたね」と安堵した。
「じゃあ僕は副長のところへ。先生が目を覚まされたとご報告に行きますね」
「ええ」
山野は桶を抱えて部屋を出ていくと途端に部屋はしん、と静かになった。
総司はいつもの喀血の後とは違う目覚めだと気がついていた。全身が気怠く重く、斉藤との激闘で負った手足の痺れや傷がヒリヒリと痛む。南部と加也によってあちこち傷薬が塗られているが、それでも節々が悲鳴をあげているようだった。
こうして屯所に戻り、一人になって改めて自分の不甲斐なさを思い知った。
少年二人かいたからこそ諦めずに身体を動かすことができたが、彼らがいなかったらどうか。斉藤はそうしなかっただろうが彼の前にあっさりと斬り伏せられていたかもしれない。
総司はゆっくりと身体を起こし、自分の手のひらを広げた。紫に変色するほど食い込んだ刀の痕がくっきりと残っている。斉藤の刀を受け止めた時のものだ。
(いつの間にかこんなに細くなった…)
剣ダコは無くなり、もう女子の手のように細い。加えて指先が痺れてうまく動かせない…気がついていたけれど、気がつかないふりをしていた事実を突きつけられたようだった。
(不甲斐ない…)
ずっと自分には剣だけだと思ってきた。試衛館に口減しとてやってきて、剣の才能を認められた日からずっと近藤のためにこの才を生かすのだとそれだけを思って鍛え続けてきた。
いつか近藤の剣となり、盾となって死ぬなら本望だと…本気で思っていたのにこんなことになるなんて、誰を何を憎んだら良いのかわからない。盾としてすら使い物にならずにこのまま朽ちていくのだろう。
「…っ…」
頬に涙が伝った。それを自覚するとさらに目頭が熱くなって止めどなく流れた。誰もいなくなった途端まるで壊れたように歯止めが効かなくなってしまい膝を抱えて身体を丸め、心の中で溢れ出す叫び出しそうなくらいに痛い悲しみや悔しさをどうにか堪えた。
そうしているとこちらに近づいてくる足音が聞こえた。誰のものかなんてそんなわかりきったことを考えなくても良い。
彼の大きく温かい手のひらが総司の頭を撫でた。
「…総司」
「と…」
「もう無理をするな」
総司は顔を上げた。土方は穏やかに微笑んでいる。総司の考えていることなんて彼にはお見通しで、慰めてくれているのだとわかる。そして彼の指先が総司の頰に流れる涙を拭い、そのまま抱き寄せられる。
尖った氷の角が取れるように溶けていく。自分の弱さが消え失せてしまう。
総司は土方の首元に腕を回し口づけを求めた。
「もう、なにも…なにも考えたくない…」
「ああ…考えられないようにしてやる」
互いの鼓動が重なり合うほど強く抱きしめ、自制が効かなくなった唇が貪り合う。
(わかっているから、もう…)
「歳三さん…」
ただ涙が止まるまで彼の胸の中に身体を預けたのだった。






解説
なし
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