わらべうた




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朝の乾いた空気で喉が枯れて、総司はゆっくりと目を覚ました。
不動堂村の屯所は流石に新築の雰囲気はなくなったものの、真新しい建材は傷ひとつなく、いまだに自分だけの部屋だという意識はない。しかし今までのどの住処よりも長く過ごしている気がする。
山野が用意してくれた白湯を口にして、羽織に袖を通して部屋を出た。ひんやりと冷たい庭先の渡り廊下に出てみると、そこに斉藤がいた。
「驚いた」
「…朝から随分な挨拶だな」
「すみません。斉藤さんが出て行ったのは西本願寺の時でしたから、なんだか見慣れなくて」
「そうか」
彼は日課である刀の手入れをしていたようだ。その姿はずっと変わりなく真剣なもので、新鮮さと懐かしさを感じながら総司はその隣に腰を下ろした。
「傷の具合はどうですか?」
「多少痛むが、平気だ。床に伏せるのは性に合わない」
「私もです」
総司は笑ったが、斉藤は手入れの手を止めて神妙な顔をして「すまない」と謝った。床に伏すしかない総司を慮ったのだろう。
「…斉藤さんは謝らないでください。こういう生き方を選んだのは私自身で、それを誰かに背負わせるつもりも、謝られるつもりもありませんから」
「…そうか」
斉藤は短く返答して再び手を動かし始めた。そしてしばらく沈黙した後、
「俺はもうどこにも行かない」
と口を開いた。
「幕府や会津、御陵衛士…仕事のために色々と渡り歩いたが、いい加減疲れた。隊のためになる縁はそのままにするが、身の置き場は一つで良い」
「…それは良い考えですね」
斉藤は淡々と話していたが、彼は新撰組をその最後の場所と定めてここで生きると決めたのだ。それは並々ならぬ決意であり、その最後の場所が新撰組だということは総司にとっても喜ばしいことでもあった。
「斉藤さんが帰ってきてくれて心強いです。きっと皆んなもそう思ってます」
「…不思議と、帰ってきてもさほど驚かれなかった」
「はは、皆ちょっと遠くへ出掛けていた、くらいにしか思っていないのかもしれませんね」
斉藤は「そうかもしれない」と苦笑して、手入れを終えた。
降り始めた雪がハラハラと落ちて、地面で溶けた。そのうちこの屯所の庭を白く染めることだろう。
しばらくそれを無言で眺めた後、
「…斉藤さん、藤堂君は…」
総司は口を開いた。
寝ても覚めても、脳裏のどこかに彼の笑顔があった。澄み切ったこの真っ白な雪のように曇りない純粋さが消えてしまうのが惜しい。
御陵衛士との対立や伊東の敵意を目の前にしてしまうと土方が正しいのだとわかるけれど、近藤のように諦められない。
しかし斉藤は首を横に振った。
「何も聞かない方が良い。聞いたところで…何も変わらない」
「…」
総司は斉藤の横顔を見た。いつもの彼ならあっさりと敵だと見做し『見捨てろ』と言い放つだろう。けれど今の彼には少しだけ迷いがありそれを自覚しているからこそ何も話したくないのだと訴えているようだった。
するとそこにこちらにやってくる足音が聞こえてきた。
「斉藤、話がある」
「土方さん?」
彼が珍しく朝早くから起きていたことは知っていたが、その表情は不機嫌を通り越して苛立っていた。慣れた幹部はまだしも新入隊士ならば怖がって近づくことすらできないだろうという雰囲気だ。
「総司、お前は寝てろ」
「…わかりました」
今の土方には誰も抗えない。総司を残して土方と斉藤は人気のない裏手に回った。
そして土方は口を開いた。
「昨晩才谷梅太郎が暗殺された。中岡慎太郎は重傷だ」
端的な内容だが、斉藤はすぐに顔色を変えた。
「…刺客は?」
「わからない。だが、新撰組が疑われている。いま近藤先生が永井様に呼び出されたところだ」
「言いがかりをつけられたということですか」
「いや…伊東がそう言い回っているらしい」
「伊東が…」
斉藤は苦々しい顔をした。
「中岡慎太郎は瀕死の重傷だが意識があり、刺客については心当たりのない者だと話しているそうだ。俺は見廻組あたりじゃねえかと思うが…そんなことはどうでも良い。問題は陸援隊や海援隊の奴らが躍起になって犯人探しをしていることと、伊東が新撰組を名指しで刺客に仕立て上げたことだ。奴は弁が立つ…噂は瞬く間に広まっている」
土方は腕を組み、壁を背にしてもたれかかる。そして息を吐いた。
「伊東は完全に裏切り、敵対するつもりだ。来るべき時が来た」
「…俺が斬ります」
斉藤には躊躇いはなかった。いくら伊東が有能な人物であったとしても、総司を狙うように命令を下した時点で完全に切り捨てられる対象になったからだ。むしろ一刻も早く葬りたいとすら思う。
しかし土方は小さく首を横に振った。
「伊東だけを殺しても一時的なものだ。内海や加納、篠原…手練れが再起しては厄介なことになる。それに伊東は腕が立つしお前も万全じゃない、今回は前線に出なくて良い」
「…しかし」
「やるなら一気に片付けたい。御陵衛士に潜伏していたお前なら良い方法がわかるだろう」
「…わかりました、考えてみます」
「それから…」
土方は一度視線を外した。そして迷いを飲み込むようにまた斉藤を見据えた。
「このことは…絶対に総司の耳に入らないようにしてくれ。全て終わった後に話す」
「…」
「不服か?」
土方は苦笑した。斉藤の考えていることなど想定済みに違いない。だが敢えて口にして尋ねた。
「あの人は…疎外されることを厭います。今でさえ藤堂を気にしているのに、何も話さずに事を終えれば必ず落胆するでしょう」
「…あいつは山南さんを介錯した後、人前では平気なふりをしたが随分引きずった。今はその痛みを忘れているだけで、時折悪夢のようにその感触を思い出しているはずだ」
「…」
「もし藤堂を目の前で殺すことになればまた同じことを繰り返す。それは必ず体に障る…それくらいなら最後まで隠し通して、終わった後に納得させる方が良い」
土方は
「お前ならわかるだろう」
と付け足した。
斉藤は「わかる」とは言わなかったが、土方の選択を尊重する事を決めた。



月真院に戻ってきた伊東は門前で鈴木と鉢合わせた。
「兄上、お戻りですか」
「ああ…少し休む」
言葉少なくすれ違い、衛士たちにも声をかけずに伊東は部屋に戻った。すぐに休みたいと思っていたのだが、部屋には内海が待ち構えていた。深夜に出ていってから朝まで待っていたようだ。
「…すまないが、出ていってくれ」
腹心とはいえ相手にする余裕がなく、伊東は冷たく言い放ちながら羽織を脱いだ。しかし内海は動かなかった。
「様子はどうだった?」
まるで伊東の拒絶など耳に入っていないかのように淡々としている。伊東は諦めてため息をついた。
「…『新撰組に伊予者がいる』と話すと活気が沸いたよ。余程新撰組は疎まれているようだ。ついでに現場に落ちていた鞘に心当たりはないかと尋ねられたから見覚えがあると話しておいた」
「これで…完全に敵に回した」
「わかっていたことだ」
「…」
伊東は雪で濡れた羽織を掛け、刀を置いた。すると背後で内海が立ち上がったのがわかった。
(呆れて出ていくのだろう…)
内海を納得させず、衛士たちに説明もなく新撰組と敵対する道を選んだ。その事自体に後悔はないが、内海が憤るのは仕方ないと思っていた。
しかし彼はいつまでも伊東の背後に立ち尽くしていた。
「…少し寝るから出ていってくれ」
「話を聞いてくれ」
「話は起きてから聞くから」
「大蔵君」
伊東が振り返るよりも早く、背中に内海の体温を感じた。彼はぎこちなく、しかし強い力で離さないように抱きしめていた。
「…内海、何の真似だ。離してくれ」
「これ以上は危険だ。敵を増やすべきではないとわかっているはずた!」
「だからこれは何の真似だと聞いているんだ、内海!」
伊東は強い力を込めて絡みついた腕を離し、彼から逃れた。
内海は拒まれると思っていなかったのか唖然としていたが次第に固く口を閉ざし、視線を落とした。彼は釈明も言い訳すらしようとしない…伊東はそんな内海の様子を見て、困惑と疲労とどうしようもない苛立ちを抑えることができなかった。
「お前はいつもそうだ!重要なことは何も口にせず、勝手な真似ばかりをする!」
「…俺がいつ…」
「私が婿養子に入るか相談した時だ。あの時もお前は…っ!」
酒に任せて口付けた。なにも知らないふりをしたのは弟の二の舞になりたくはなかったからだ。
内海も身に覚えがあったのかサッと青ざめた。
「覚えていたのか…?」
「そんなことはどうでも良い!お前は私について行くと散々口にするが、大切なことは言わない。言わなければ伝わらないなんて子供みたいな説法をさせる気か?そんなこともわからないのか?!」
「俺は…!」
内海は何かを言いかけて、けれど容易には口にできないことだったのか、そのまま飲み込んでしまう。
伊東は「出て行け」と内海の背中を押した。 
「今は何を聞いても…答えられない」
「…わかった」
内海はそのまま部屋を出て行き、伊東は苛立ちながら袴を脱ぎ捨て身軽な格好で布団に横になった。
いつまでも背中が熱くて仕方なかった。






解説
なし


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