わらべうた




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―――水戸にいた頃、伊東は常に難しい本を難しい顔をして読んでいた。内海が遊びに来ても彼は適当に相手をしながら、その本から目を逸らすことはなかった。
内海はそれで構わなかった。真剣で熱心な彼の美しい横顔を眺めているのが好きだったからだ。初対面では女子と間違えるほどに可憐であったが成長してさらに凛々しさが加わり、彼はまるで調度品のように整っていた。内海は彼以上に美しいものをみたことがなかったせいか、釘付けだった。
そして伊東はとても優秀で、道場の中でも頭一つ抜けているほど賢く、彼が褒められていると友人として誇らしい気持ちでいっぱいだった。剣術を修め名門の伊東道場に塾頭として招かれたのも当然であるし、婿養子にと臨んだ師匠の気持ちもわかる。
彼のことを友人以上に想っていた。それは早々に自覚していたことである。
しかし内海は何かを変えたかったわけではなく、ただただ彼の傍にいたかった。世情に疎く、成し遂げたい野望なんてものはない。けれど伊東と同じ道さえ歩くことができたならば、きっと自分の人生は満たされるのだろうと思っていた。
当時、伊東はしきりに藤田東湖の『回天詩史』を口にしていた。何度も死を覚悟しながらも己の道を邁進し、忠義を尽くす…その志は己のそれと通じるものがあったのだろう。当時の攘夷派の若者たちも皆諳んじていたが、内海は彼らのような激情に触れるたびに自分の内面にはそれがないのだと自覚していった。冷めているのではなく確かにこの国を憂う気持ちはあったが、それを言葉にして行動するほどの熱量がなかったのだ。
だから伊東の傍にいたかった。彼を助けることが自分の使命なのだと決め込んでいた。
それ故にあの夜は――あの口づけは――間違いを犯したとあとで酷く後悔した。
自分のような半人前が、出世の道を進む伊東と少しでも友人以上の関係を…と望んでしまった。妻を得て婿養子となり道場主という確約された未来に進もうとする彼が、自分の傍から離れて行ってしまうような気がして手を伸ばしてしまった。子供っぽい独占欲だったと今ならわかる。
幸いにも互いに酒に酔った故の過ちとしてそのことに触れることはなかった。そうして彼はあっさりと婿養子となってしまい、きっと忘れてしまったのだろうと思っていたけれど、それは内海のただの願望だったのだろう。
心を、気持ちを、言葉にしなかったことで伊東のなかに消化しきれないものを刻み付けてしまったのだ。
内海は知らなかった。順風満帆な伊東の人生に自分が痛みを与えていたことなど、思いもよらなかったのだ。


深夜、内海は蝋燭を手に伊東の部屋を訪ねた。拒まれたら引き下がるつもりだったが、彼がいつもと同じように「入れ」と言ったので少しだけ安堵しながら足を踏み入れた。
伊東は手にしていた文から目を逸らすことなく、
「何の用だ?」
と冷たく問いかけてくる。
今朝、月真院に戻ってきた時以来の会話だった。今日だけで新撰組が坂本龍馬を暗殺したという話はたちまちあちこちに広がって、陸援隊や海援隊は殺気立っているようだ。それも伊東の思惑通りなのだろうが、彼はまだ体に緊張感を漲らせているように見えた。それが衛士たちにも伝わり、皆どこか落ちつかない。
内海は
「…少し、歩かないか?」
と誘った。
「こんな夜中に?」
伊東は怪訝な顔をしてようやく振り返った。
「ここでするような話ではないだろう」
「…わかった」
内海は硬い表情のままの伊東を連れ出し、月真院を出た。ここ連日続いていた痺れるような寒さは和らぎ、頭が冴えるような心地良いひんやりとした夜だった。
二人の前に二つの提灯がゆらゆらと揺れている。行く宛はなく北へと上り、厳かで静かな寺院の道を抜けていく。
伊東は「どこへ行くのか」とも問わずに内海に付き合った。彼としては早朝に言いたいことはすべて打ち明けていて、内海の返答を待ち続けていたのだろう。内海もまたこの半日ずっとどういう言葉なら伝わるのかと考え込んでいた。
冷たい澄んだ空気が二人の間を満たす中、内海はようやく口を開いた。
「俺は、大蔵君とともに在りたいだけなんだ」
内海の結論はいつもの言葉にすべて集約されていたが、それまで並んでいた提灯の一つがそこで止まった。伊東が坂道で足を止めたのだ。内海は少し先で振り返ったが、
「……内海のことは理解しているつもりだが、今夜ばかりはよくわからないな。ちゃんと話せと言ったのに、なんの前置きもない」
伊東は困惑しているようだった。まだ伝わってないのかと落胆している様子でもある。
しかし内海には飾らずに伝えるしかなかった。
「その言葉通りの意味だ」
「内海は昔からそれを口にするが…私は水戸にいた時とは変わってしまったのだから、その意味も変わるだろう。今の私とともに在るというのは崇高な理想を目指すだけではなく、目的のためには手段を択ばず、理不尽なことにも手を染め、信頼している同志さえも騙す…そんな私でさえ受け入れるということだ」
「そうだ。…けれど俺から見ると、君は変わらない。冷静で慎重なようでいて、相変わらず無茶をする。今回のことも、桜田門外の時もそうだった」
まだそんな昔話を、と伊東は嫌そうな顔をしたが内海は続けた。
「しかし、君とともに在りたいというのはただ君の考えに従いたいということだけではない。君の目指す場所へ俺もともに歩きたいという意味で、その道があまりに危険ならそれを留まらせることだってする。でも君の行きたい場所を否定するわけじゃない」
「…」
伊東が何も答えず再び歩き始めたので、内海は再び彼の隣を歩いた。
「…今夜はよく喋るな」
「君が重要なことは話せと言ったのだろう」
「はぁ…内海の言いたいことは理解している。確かに今回の件であまりに新撰組を刺激しすぎた自覚はある。彼らも警戒しているし、どう転ぶかはわからない。…でもこれは勝負を賭ける好機だと思う。多少の荒療治かもしれないが、そうしなければ…俺たちは前へ進めない」
「いや、君はわかってない」
「何?」
たいてい伊東の話すことには唯々諾々の内海が、きっぱりと否定したことが少し気に障った。伊東がムッとして内海を見ると、
「難しいことはどうでも良い、君に任せる。俺はただ君のことが好きだから、引き止めたいだけなんだ」
と、とても無口で寡黙な彼から発せられたとは思えない言葉が鼓膜を揺らした。あまりの不意打ちに伊東の思考は止まり、何も言い返せなくなる。
再び足を止めた。
「俺は君に出会った時からずっと君のことが好きだった。男であるとかそんなことが気になったのは一瞬で…今もその気持ちは変わらないし、君とともにこれから先も生きていきたいと思っている。君とともに在りたいというのはそういう意味だ、決して怠慢じゃない」
「…」
「昔、君に口づけたのも酒の勢いというのもあるが…俺の身勝手な行動だったと反省している。君が責めないのを良いことにずるずると誤魔化していたのは良くないよな」
「…」
「大蔵君?」
伊東は呆然として力が抜けて提灯を持っていた手を下げ、夜風によってその灯を消してしまった。けれどそんなことはどうでも良かった。
「そんな饒舌に…何を言うのかと思えば…」
「君が話せと言ったから。…それに君だって本当は気づいていたのだろう。俺が言わなかったのが一番悪いが、君だって知らぬふりをしたのも良くない」
「私のせいか」
「ああ、君のせいだ」
内海はゆっくりと伊東に近づいた。そして片手を伊東の後頭部に回して引き寄せた。
「…俺は君とともに在りたいんだ」
それまで、怠慢だとか思考の放棄だと聞き流していた言葉の意味がまるで変ってしまった。内海にとってその言葉が伊東への告白なのだとしたら、それを受け止めなかったのは自分自身なのだ。
そう思えば、その言葉の意味は「好きだ」とか「愛している」という言葉よりも重く、深く…強いのだとようやく理解することができた。
(確かに、私のせいだ)
弟の二の舞になるまいと彼の真意から逃げ、忘れることで友人関係を維持しようと考えた。線引きするために婿養子に入ったことで内海はその感情を押し殺すしかなかったのだ。
伊東は顔を上げて少し背の高い内海の両頬を掌で挟んだ。何年もずっと傍にいるのにこんなに近くで彼の顔を見たのは初めてのような気がした。
彼の真摯な眼差しを受け、伊東もまたそれに応えねばと思った。ずっと隠し続けてきた本心を語ることが、彼への返答となるのだと思ったからだ。
「…私は、ずっと私を縛り付ける家から逃れたかった。逃れた先で見た光景はすべてが新鮮で、輝きに溢れ…そしていつも内海がいた。それが当たり前で、だからこの先もお前と一緒に進んでいくために、一度の過ちを忘れ…婿養子になる道を選んだ」
「まだ、過ちだと言うか?」
「いや…もう過ちじゃない」
伊東は背を伸ばして口づけた。すると加減を知らない内海が噛みつくように貪り、彼の手からも提灯は落ちて消えた。
けれど必要はなかった。月明かりは十分に明るく、距離のない二人は見つめあうことができる。違うことなくその視線は重なった。
息を切らすような口づけの後、内海は
「…一度だけ、言いたいことがある」
と呟いて再び伊東を強く抱きしめた。そして絞り出すような小さな声で「このまま遠くへ行きたい」と言った。
伊東の胸は高鳴ると同時に酷く締め付けられた。細く危険な道を歩み、まさに背水の陣である自分たちの目的地が一体どこにあるのかはわからない。もしかしたら最悪のシナリオを選ぶことになっているかもしれない。
―――そんな場所から逃れたい。このまま幸せなままでいたい。
それは内海の弱さではない。伊東の中にもある当然の願いだ。
だから、この道を選んで志を貫きたいと思うのは、伊東のわがままなのだろう。
「すまない…」
伊東はそう返すしかできなかった。内海もそのつもりだったようで「忘れてくれ」とすぐに首を横に振った。
そしてゆっくりと体を離して大きく息を吐いた。
「…話は終わった。帰ろう」
堅物な内海らしい申し出だ。屯所を抜け出し、だれもいない小道で大胆な告白をしたくせにもう正気に戻ろうとしている。
伊東は苦笑した。
「情緒がないな。普通はこのまま茶屋に傾れ込む流れだろうに」
「…それは…」
「良いから、行こう」
伊東は消え落ちてしまった二つの提灯を拾い、堅物の内海の腕を強引にひいて坂を下り始めた。
このまま日常に戻るのは惜しい。
(もう…この先の道が途切れているかもしれないのに)
このまま何もなく言葉だけで通じ合うだけでは物足らない。互いに想い合いながらもすれ違い、過ぎてしまった時間を取り戻すにはのんびりしていられない。
伊東は内海を茶屋に押し込んで、部屋に入るなり彼を求めた。戸惑う内海を組み敷いて、決して慣れているわけではないが感情のままに彼と繋がった。そうすると頭が真っ白になって、どうしようもない現実も成し遂げるべき志もどうでも良くなって、ただ彼とこのままでいたいと思ってしまった。
「…大蔵君、泣いているのか?痛いのか?」
内海の指先が伊東の目尻に触れた。自覚はなかったが、言われてみると涙が頬を伝っている。
「痛く、ない…」
伊東はそう答えるので精いっぱいだった。心の悲鳴だと内海に悟られたくなくて、ますます没頭していった。

―――十一月十七日の朝がやってきた。
伊東は内海の腕の中にいた。
「水を渡り 復水を渡り 花を看 還花を看る 春風 江上の路 覚えず 君が家に到る」
「…『胡隠君を尋ぬ』か?」
内海は睦言かと思えば聞き慣れた漢詩を呟いていた。水戸にいた頃から、彼は回天史詩を高らかに叫ぶ若人の中で、穏やかなこの詩を好んで口にしていたのだ。
「ああ…俺の至上の望みだ」
何度も何度も川を渡る道で、花を眺める。春風を感じながらほとりの道を行くといつの間にか君の家にたどり着いてしまった。
「いつか大蔵君とそんな暮らしがしたいんだ…」
穏やかで優しくて、何の変哲もない普通の暮らしの中で、無意識に思い人の家にたどり着いてしまう。
彼はいつからそんなことを願っていたのだろう。そう思うと無性に愛しさが込み上げる。
「悪くないな…」
と伊東は頷いた。

















解説
なし


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