わらべうた




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朝から急に冷え込み、寒い一日を予感させた。
総司は薄く目を開いてしばらくぼんやりとしていた。普段は身体が重くあちこち軋むようだったが、今日は何故かすっきりとしている。
身体を起こし背伸びをする。綿入りの半纏に袖を通して障子を開けるとひんやりとした朝の風が吹き込んできた。
総司は息を吸い込んでゆっくりと吐き出した。冷たい空気が気管を通り過ぎていくのが心地良い。
するとタイミングを見計らったかのように、こちらにやってくる足音が聞こえてきた。
「先生、おはようございます」
「おはよう、山野君」
湯の入った桶を片手にやってきた山野は早朝から医学方(見習い)として総司の様子を診に来たようだ。
「先生、今日は顔色がとても良いですね」
「…そうですね、今日は気分が良いかな」
「はい!でしたら早速朝餉をご準備します。このところ粥ばかりでしたけど、今日はお元気そうなので握り飯にしましょう」
「嬉しいなぁ、粥に飽きていたところです」
総司は喜んだが、それ以上に嬉しそうに山野は顔を綻ばせる。昔は隊の中で『美男衆』の一人としてその可憐さが目立っていたが、今や一番隊の隊士、そして医学方の一人として精悍に成長した。
(彼らも山野君みたいになると良いけど)
総司は今日から見習いとして入隊している若い隊士たちの指導を行うことになっていた。役目を与えられ自然と浮き足立ち気分が高揚するせいか、今日は調子が良いのだろう。つくづく自分は剣術馬鹿なのだと思う。
山野は続けてさらに奥の客間で養生する斉藤の様子を診に行ったのだが、「あ!」という声が聞こえてきた。総司が山野の元へ向かい様子を伺うと斉藤の姿がない。
山野は頰を膨らませた。
「もう!英先生から横になるように言い付けられていたのに!何処へ行ったのでしょう?僕、探してきます!」
山野は桶を置いて早速駆け出していく。出歩いてばかりでちっとも床に寝ない二人の患者を抱え、彼の気苦労は絶えない。
「…」
総司は空になった彼の寝床を眺めながら、なんとなく彼の行き先を察していた。


藤堂は日課である正門の掃除をしていた。枯葉を集めて小石を落とし、今日も新しい一日を迎えるべく『禁裏御陵衛士』の看板を隅々まで磨く。
(伊東先生と内海さん、まだ帰っていないな…)
新撰組と表立って対立したことでいつ新撰組の襲撃に遭うのか…衛士たちの緊張感は続いていた。そんななかで二人揃っての不在は何か緊急の用件でもあったのかと皆を動揺させたが、彼らは不在でも今日の朝も変わりなく静かにやってきた。
(嵐の前の静けさ…なんて、まさか)
根拠のない悪い予感を払いながら、藤堂が再び箒を手に取ったとき、突然背後に気配を感じた。物音も足音のひとつもなく、藤堂の手を後ろへ回して掴み、声を上げないようにと口を塞がれる。
(敵襲…っ!)
咄嗟に藤堂が箒を振り回すと、顔の見えぬ敵の脇腹を捉えたようで
「く…っ」
という小さな声が漏れた。その声に聞き覚えがあり「え?」と力を抜くと強く締め付けられてしまう。
藤堂は背後から捕らわれるように引き摺られ、物陰まで移動させられた。必死に抵抗すれば逃げられたかもしれないが、その声の主を確かめたくて素直に従うことにする。
周囲に誰もいないことを確認すると彼は拘束の手を緩めた。藤堂が振り返ると彼は頭巾を深く被りすぐには確信できなかったが、
「…斉藤さん?」
と尋ねると頷いた。
斉藤は死んだ、新撰組によって殺されたと耳にしていた藤堂は夢でも見ている気持ちだった。彼は脇腹を痛そうに抑えていたが、目の前にいることに間違いない。
「一体どういうことですか?!幽霊?いや、足がある!じゃあ…?!」
「静かにしてくれ、時間がない」
斉藤は少し呆れたようだったが、その口調を聞いて藤堂はさらに感極まった。
「信じられなかったんですよ…!伊東先生は斉藤さんには重要な任務を任せていると言っていたのに、新撰組に殺されたと噂が流れて!ああ良かった、ただの噂話か!」
「…そうか、伊東はそう言ったのか…」
再会に喜び泣く藤堂とは正反対に、斉藤の表情は強張り感情が見えなくなっていく。その温度差を感じ、藤堂は首を傾げた。
「…斉藤さん?」
「俺の話を信じるか、信じないかは任せる。だが、事実を伝えておく」
「事実?」
「伊東は数日前、俺にある任務を命じた。内海、服部、篠原が同行し…俺はそこで命を落としたことになっている」
「…なっている、って…?」
「俺は命令に従い、土方副長の別宅を襲撃した。狙いは沖田だった」
急転直下の話の内容に藤堂は困惑する。
「…何かの間違いでは?沖田さんが病に伏していることは伊東先生もご存知のはず…」
「そうだ。それでも襲撃を命じた。続けざまに原田、永倉の別宅を狙うことになっていた」
「…」
斉藤があまりに淡々と話すため、藤堂はそれを全て信じることはできなかった。全てが突然で、理解が追いつかなかったのだ。
しかし斉藤には藤堂を説得する時間はなかった。自らが生きていることが他の御陵衛士に露見すれば計画は全て水の泡になる。
「俺は沖田に殺されたことにした。伊東の命令を承諾できなかったからだ。そして沖田襲撃に失敗した伊東はその事実を伏せ、別の方法を取ることにしたのだろう。それが土佐の要人を新撰組が殺したと濡れ衣を着せることだった…それは今のところ成功しているが、事実ではない。いずれ本当の刺客が明るみになるだろう」
「…斉藤さんは、今どこに…」
「新撰組に匿われている」
「それは…えっと、何故…」
藤堂はぐしゃぐしゃと髪を掻き回し、顔を顰めた。混乱し困惑しているが、彼は愚かではない。その事実には容易に辿り着くだろう。
「ああ…俺は最初から御陵衛士へ間者として潜入していた」
「…」
藤堂は言葉を失い、唖然と斉藤を見る。しかし目の前にいるのは紛れもなく生きている斉藤で、その話には齟齬がない。むしろ伊東に感じていた違和感は彼が死んだという捻じ曲がった嘘のせいだったのだろう。
斉藤は全てを偽り加入し、伊東は事実を捻じ曲げている。信頼していた者に騙されていた立場の藤堂だが、不思議と何の感情も湧かなかった。
「…謝りはしない。これは任務だ」
「わざわざそれを知らせに来たんですか?こんな危険を犯して」
「毎朝、掃除を欠かさないだろうと思っていた」
「そうではなくて…斉藤さんに何の得が?新撰組だって斉藤さんが死んだことにした方が都合が良いのに、何の企みが?」
これ以上何の目的があるのか、と藤堂は身構えるが、斉藤は少し沈黙して
「…俺の判断だ」
と答えて続けた。
「新撰組は御陵衛士を壊滅させるために近日中に動くことになる。近藤局長はあんただけは助けたいという意向だ…原田や永倉も同じことを考えている」
「…じゃああの文は…」
「文?」
藤堂が原田から文が届いたことを話すと、斉藤は呆れた顔をしていたが、
「俺も同じか」
と呟いた。食客たちは藤堂の身を案じてあれこれと気を回しているらしい。
「…とにかく、この数日は何か都合をつけて姿を眩ませてくれ。新撰組に戻れとは言わないがどうにか生き延びて、それから…」
「何言ってるんですか。一人だけ逃げるなんて、そんなことするわけないでしょう?」
藤堂はまるで冗談でも聞かされたかのような気持ちだった。どんなに厳しく惨い事実を聞いても、少しも揺らがなかったのだ。
「近藤先生やみんなの気持ちは有難いと思ってます。まだ俺のことを仲間だと思ってくれている…それを知れただけでとても嬉しかった。…でも、これは俺の生き方ですから曲げるつもりもありません。伊東先生に最後までお供します」
「…死ぬことになる」
「構いません。…斉藤さん、俺はね、ご落胤だとか言われて武芸を身につけましたが、実のところは武士ではない、士農工商の最下層、つまり何でもない下僕と同じ存在なんです。それを試衛館の皆んなが俺を引き上げて形にして武士にしてくれた…幕臣ではないけど、そういう存在になれたのは間違いなく近藤先生のおかげだと今でも感謝しているんです」
藤堂は屈託なく話す。
「だからこそ、伊東先生を裏切れません。俺は恥じない生き方をして死にます。今日、斉藤さんに聞いたことは決して誰にも漏らしません。…皆んなにはありがとうと伝えてください」
「…わかった」
「あと、斉藤さんも…偽りとはいえ一緒に脱退してくれて心強かったのも本当です。…あなたはあなたの居るべき場所で戦ってください。…それに俺たちだって負けちゃいません。御陵衛士の底力を見せてやりますからね、覚悟しておいてくださいよ」
深刻な斉藤に対して、藤堂は茶化して笑う。
斉藤はふっと息を吐いて
「…そう言うと思っていた」
と頷いて諦めた。藤堂がどれほどの決意で新撰組を脱退したのか…近くにいた斉藤は理解していたのだ。この程度のことで揺らぐようでは魁先生の名が廃るだろう。
そして藤堂は伊東がそうするように右手を差し出して握手を求めた。
「…本当のことを教えてくれてありがとうございました」
斉藤は右手を差し出し、彼のそれと重ねた。これが今生の別になるのは互いにわかっていた。
「…もうひとつ、聞いても良いですか?」
「何だ?」
「こうやってお忍びで来てくれたのは…本当に斉藤さんの独断ですか?俺が思うに斉藤さんは自分の判断だけでそんな危険を冒すような人じゃないですけど?」
「…」
藤堂はよく周りを見ているので、斉藤は白状するしかない。彼は察しているようだし、最後の別れになるのだから隠し事をしても仕方ないだろう。
「…沖田さんに頼まれたからだ。どうにか助けてやってくれと」
「そんなことだろうと思いました。本当…沖田さんが羨ましいな」
藤堂は微笑みながら手を離し、斉藤と距離を取った。
「俺は戻ります。…沖田さんにはどうかお元気でとお伝え下さい」
「…ああ」
斉藤の短い返答を聞いて、藤堂は満足げに頷き背中を向けて去っていく。斉藤はここから一歩、前に踏み出して彼の腕を取り引き止めたい衝動に駆られていた。けれどそうしたところできっと藤堂はその手を振り払い、また別れを告げるはずだ。たとえ行先が崖であったとしても真っすぐに突き進む…魁先生なのだから。











解説
なし


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