わらべうた




765


冷え切った朝。近藤は不動堂村屯所の自室で迎えた。
昨晩は目が冴えて眠れなかったせいか、瞼が重い。遠くから聞こえてくる稽古の声で目が覚めたのだ。
(顔を洗おう…)
近藤は着替えを済ませて障子を開ける。ヒヤッとした風が部屋に入り込んだが、おかげでようやく眼が開いたような気がした。
ふと足元に目をやると桶と手拭いが用意されている。近藤の小姓となった銀之助はよく気が利き、いつも起きる時間になると温かいお湯を持参してくるのだが今朝は近藤が起きて来なかったのでここに置いて去ったようだ。湯だったものは冷たくなってしまったが、今朝の目覚めには冷たい水の方が沁みてちょうど良い。近藤は部屋に引き入れて顔を洗い、手拭いでさっぱりとした。
「…やってるな…」
朝の稽古は総司が少年たちを指導することになっていたので、銀之助もそちらに合流しているのだろう。時々総司の檄が飛び、少年たちの甲高い気合いが響いてくる。それを聞いているだけで口元が綻んだ。
試衛館でも同じ年頃の子を指導することがあった。総司と同い年くらいの子たちだったが、実力は雲泥の差があり近所の子供達は僻んで次第に足を運ばなくなった。総司は気にも留めなかったが、近藤は友達ができないのではないかと気を揉んだものだ。しかし、そんなことを考えている間にあっという間に食客が増えて大所帯になってしまったのだ。兄貴分だけでなく、年の近い永倉や藤堂との出会いは総司にとって大きな出来事だっただろう。
「…」
過去に思いを馳せると去って行った者のことばかり浮かんでしまうのは、皆同じなのだろうか。土方は藤堂を助けると約束したが彼がそれを良しとするのか…近藤にはわからなかった。
伊東への報復のような惨いやり方にも賛同しかねたが、土方から聞いた側用人の話を耳にして気持ちが変わった。
自分は所詮、農民であり田舎道場の跡継ぎ。浪士にすぎなかった自分が幸運にも押し上げられて旗本格まで出世しただけだと思い込み、自分の価値を低く見積もっていた。しかし天はちゃんと見ていて、働きを評価して将軍の側用人に名前を挙げてもらえた…叶わなかったとしても誇れる話だ。
だからこそ、自分の身に降りかかる危機はどんなやり方であれ避けるべきだ。惨めで格好の付かない最期を迎えることになっては、『旗本近藤勇』の名折れだ…強く、堂々と振る舞うべきだと覚悟したのだ。
「近藤先生」
「歳、おはよう」
土方が『近藤先生』と呼ぶ時は大抵、隊に関わる深刻な話をする時であり、親友ではなく、局長副長として話をしようと持ちかけているのだ。彼は早速切り出した。
「伊東を呼び出す策だが…金の話をしようと思う。御陵衛士は軍資金のため商家に金策を持ちかけているようだ。俺が呼び出して…」
「俺が行く」
「駄目だ。伊東が一人で来るとは限らない」
「伊東さんはお前相手の金策の話には乗らないだろう。俺が彼の興味を引くように誘う。…心配するな、一対一では負けぬ」
「…」
土方は難しい顔をして腕を組んだ。彼も頭ではわかっているだろうが、なかなか承諾しようとしないので近藤は続けた。
「こんな事態となったが、彼の話をじっくり聞いてみたいんだ。この国の行く末と御陵衛士の展望を…伊東さんがなにを目指しているのか」
「…聞いてみて、納得したら計画を取りやめるのか?」
「いや」
近藤にはもうそのつもりはなかった。
「伊東さんは新撰組と敵対する覚悟で総司を強襲させたはずだ。彼の目指す先がどんなに尊く崇高でも、新撰組が邪魔になるから手を出したに違いない。だったらこちらも手加減すべきではない」
「…随分、物分かりが良くなったな」
土方は近藤の説得に梃子摺ると思っていたが、近藤は
「俺はお前を信用しているからな」
と覚悟を決めた様子だ。土方は仕方なく頷いて
「伊東を呼び出す文を書いてくれ。…決行は明日の夜だ」
「ああ」
遠くの道場から若い隊士の気合が響いてきた。



月真院に戻った伊東と内海は、市中を探らせていた篠原から
「中岡先生が亡くなったそうです」
と知らせを受けた。刺客に襲われ重傷を負い、何とか生き長らえていたがその命も尽きてしまったのだ。
伊東は長いまつ毛を伏せた。
「…そうか。残念な知らせだ」
「陸援隊は統制が取れていない状況だそうです。これから指揮官不在で混乱するでしょう…橋本君を連れ戻しますか?」
「そうしよう。今は一人でも人手が欲しい」
「では早速」
篠原が席を立ち、部屋には伊東と内海だけが残る。今朝までは友人を超えた関係に浸っていた二人だが、ここに戻るとそんな雰囲気は一切なくなった。
「…中岡先生が亡くなったなら陸援隊はますます躍起になって刺客を探すだろう。新撰組と衝突する日も近い」
「大蔵君、美濃から兵を呼び寄せては?」
「ああ…私もそれを考えていた」
文机に肘をつき、伊東は物憂げに考え込む。
美濃の水野弥太郎という侠客はそもそも新撰組と関係を持っていたが、藤堂が説得して御陵衛士の配下となった。素行が悪いが、二百名もの農兵を従え上洛させれば大きな戦力となり、新撰組も手が出せないだろう。
(とはいえ、信用できるというわけではないが…このままでは丸腰も同然だ)
「…美濃に飛脚を出す。直々に藤堂君も遣って呼び寄せよう」
「それは良い」
博徒の輩ではあるが十数人の無防備な状態よりはマシだろう。内海は安堵した表情を見せた。
伊東は考え込みながら内海の顔を見ていた。彼は普段と変わりなく淡々と事務的で、昨晩の出来事なんてまるでなかったかのように振舞っている。伊東もそうした方が良いのかと思い、彼に付き合っているのだが、なんだか釈然としない。
すると内海が
「あまり見ないでくれ」
と言った。
「何故?」
「…君は、自分ですでに分かっているくせに人を試そうとする。それは良くない」
伊東の戯れに対し、内海は説教じみた返答をしたので「堅物め」と呟く。そうしていると藤堂が
「先生、お戻りですか?」
と顔を出したので、伊東は微笑んで招き入れた。
「藤堂君、ちょうど君に話があったんだ。明日、美濃へ発ってくれないか?例の水野某を呼び寄せてほしいんだ。できれば兵を引き連れて」
「美濃…ですか…」
いつも喜んで伊東の命令を受け入れる藤堂が、珍しく戸惑いを見せた。伊東は首を傾げる。
「新撰組と対立している今、少しでも兵力が必要なんだ。君は水野殿と約束を取り付けた張本人であるし、信用もある。話が早いと思うのだが」
「それは…そうなのですが、その…」
「どうした?何か事情があるのなら聞くが」
藤堂は少し言いづらそうにしながら
「あの…実は腰を痛めまして、長旅に耐えれそうにないのです。できれば別の方にお願いしたいのですが」
頭を掻き「お役に立てず」と謝った。
「腰を?それは診てもらった方が良い。腕の良い鍼医を知っている、すぐに行ってみなさい」
「は、はい。ありがとうございます。…先生は顔色が良くなられましたね、まるで憑き物が落ちたようです」
「…そうだね、たぶん長年抱えていた憑き物が落ちたんだ」
「へぇ、そうなんですか」
伊東が頷く隣で、居た堪れなくなった内海が咳き込む。そしてそのまま「失礼する」と部屋を出て行ってしまった。
(事情を知らぬ藤堂君が気付いているわけでもないのに…うぶな奴だ)
伊東は内心苦笑しながら、茶に手を伸ばした。
すると藤堂が「あの」と口を開く。
「先生、僭越ながら俺の代わりに鈴木さんにお願いしても宜しいでしょうか?」
「…鈴木に?」
「はい。あの水野という男は気難しい面があり、俺も手を焼きました。でも伊東先生の実弟である鈴木さんが足を運べば、重要な要請だということが伝わって話が進むのではないでしょうか」
「…」
伊東は少し考えたが、最近落ち着きのない愚弟に任務を与えるのは良い考えかもしれない。
「そうしてみよう」
「はい!」
藤堂が屈託なく笑うので、伊東もつられて微笑んだのだった。




















解説
なし


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