わらべうた




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寒い冬の朝だというのに道場は熱気で満たされ、彼らの吐く息は真っ白のまま昇っていく。
ようやく告げられた『休憩』の言葉で彼らはバタバタと屍のように倒れた。胸を上下させながらまるで全力疾走した後のようにぜえぜえと息を吐く。
「情けないなぁ、見習いとはいえ新撰組の隊士なんですからもっと自覚を持ちなさい。こんな為体では戦場でお荷物です」
竹刀を肩に担ぎ容赦なく叱る総司は、少年たちにとって鬼か般若のように見えるだろう。普段のギャップのせいもあるが、彼らは唖然として誰一人言い返せなかった。
総司の鬼稽古を知っているはずの泰助でさえ足に力が入らずに大の字で転がっている。総司は彼の元で片膝を折った。
「泰助、近藤先生が上洛してから手抜きの稽古をしていたでしょう。妙な癖が付いて進歩してませんよ。近藤先生に言いつけますからね」
「か、勘弁してください…」
泰助が非を認めたので総司は苦笑し、「冗談です」と言ったが、試衛館にいた頃の鬼稽古を知っている泰助はあまり信じてなさそうだった。
「ほら、皆、水を飲んで来なさい。まだ稽古は半分ですよ」
「ゲェッ!」
泰助が思わず声を上げたので、総司はコツン、と彼の頭を叩く。銀之助や他の若い隊士たちはもう指一本さえ力が入らないという体たらくだったが、一人だけよろよろと身体を起こした者がいた。
「…水、飲んで来ます…」
市村鉄之助だ。彼の家系は槍術に偏っていたようで剣術は齧った程度の真似事のような腕前だが、勝ち気な性格のおかげか誰よりも根性が据わっていた。
鉄之助は井戸の桶をようよう引っ張り上げて、そのままがぶ飲みする。他の少年たちもそれに続き始めたところに、野村が顔を出した。
「やってるな!」
少年たちを気に入っている野村は、よろよろの少年たちを揶揄いつつ総司の元にやってきた。
「おはようございます、俺も参加させてもらっても?」
「構いませんが…君にとっては退屈かもしれませんよ。基礎や型ばかりで」
「いやぁ俺も立派な武芸を身につけてるわけでもないんで、是非勉強させてください」
カラッと笑う野村は好奇心旺盛な眼差しだった。まだ入隊して間もないのに生来の人懐っこさですっかり打ち解けている。
しかし彼の欠点は、
「そういや、先生。土方副長と衆道関係だというのは本当ですか?」
と、ところ構わず遠慮がない点だろう。稽古に集中していた総司としては拍子抜けする質問だ。
「…野村君、今は稽古中ですが」
「あれ?雑談禁止ですか?休憩中なら良いかと思ったんすけど」
悪気のない野村を『弁えなさい』と説得するのはかえって面倒だと思い、
「…本当ですよ」
と認めることにする。同じ組の相馬は野村に随分と手を焼いていると島田に聞いていたが、こういう思ったことを口にしてしまう率直なところが災いの種となっているのだろう。
野村は「残念だなあ!」とやや大袈裟に嘆いた。
「ちょっと良いなぁって思ってたっすけど、さすがに鬼副長に怒られますよね?」
芝居がかったように額を押さえて残念がる野村が、一体どこまで本気なのかは分からなかったが、彼は初めて会った時からこの調子だったのだ。総司はだんだんと可笑しくなってきた。
「ハハ、野村君みたいな人は初めてですよ。怖いもの知らずですね」
「相馬にも言われます。いずれ切腹になるに違いないって」
あの真面目な相馬がそんなことまで口にするなんて余程だろう。総司は半ば呆れながら
「はいはい、稽古を始めますよ」
と手を叩いて、井戸周りで屯しまだクタクタの少年たちを呼んだ。彼らは休み足りない様子だったが重たい身体を引きずって道場に戻ってくる。
するとそこに不在であった斉藤が通りかかった。外出先から戻ったのだろう、笠を深く被り顔を隠していたため隊士でも直ぐには気が付かないだろうが、総司は違う。
「お帰りなさい」
総司が声をかけると少し先に歩いていた斉藤が足を止める。そしてようやく笠を脱ぎ「ああ」と短く答えた。
「山野君がカンカンに怒ってましたよ。早く寝床に戻ってください」
「わかった」
斉藤は淡々とした表情で少年たちを一瞥する。溌剌とした総司のまわりに屍のような少年たちがぐったりとしていたので状況はすぐに理解しただろう。
「少しは手を抜け」
と言って去っていった。



伊東が日課である朝の写経を終えて背伸びをし、部屋を出るとたまたま水差しに白い菊を飾って抱えた鈴木がいた。実弟が花を愛でるのを見たことがなかったので、
「なにをしている?」
伊東が尋ねると鈴木は
「今日は父上の命日です」
と答えた。途端に伊東は気まずい。
「ああ…そうだったか」
「墓参りには行けませんが、花くらいは…と」
伊東は鈴木の口からそう聞くまで思い出しもせず、弟が律儀に命日のたびに花を買い求めていることも知らなかった。
(親不孝者だな…)
伊東は初めて故郷の両親に対して不義理を感じたが、同時に弟が不憫にも思った。
「…お前は父の子ではないのだろう?」
血の繋がりがないのにまだ家族に縛られている…しかしそう思ったのは伊東だけのようだ。
「おそらく違うと思います…あまり似ていませんし。ですが、父はあの家に住まわせてくれました。本来ならばどこの馬の骨ともわからぬ女の子どもなど打ち捨てても良いはずなのに…母は俺を厭うてましたが父は同情して、可愛がることはなくとも世話をしてくれたのです。路頭に迷わずに済み恩義を感じています」
「…父はそういう人だった」
「はい」
愛着のある物は手放せず、頼って来た者を見捨てられない…そんな父だった。その性格故に家老と諍いを起こして降格したのだ。
ほとんど乳母に任せて育てられた鈴木だが、心根は伊東よりも随分と優しく家族思いだ。幼少の頃から母に求められるがままに『優等生』を演じてきた自分とはまるで違う。
(嫌になるな…)
伊東は会話を切り上げて「話がある」と部屋に誘った。鈴木は水差しを抱えたまま部屋に入り、美濃行きの話を聞く。
鈴木は不安そうに顔を顰めていた。
「俺に務まるのでしょうか…」
「やらぬうちから怯んでどうする。金は工面するから吹っ掛けてでも強引でも連れて来い」
「…しかし…」
煮え切らない返事を続ける鈴木はなかなか承服しなかった。人見知りで口も達者ではない弟にとっては過酷な任務だろう。しかし大きな仕事を任せることが本人の成長に繋がるに違いない。
伊東は
「これは重要な仕事だ。弟として必ずやり遂げろ」
と背中を押すと、鈴木はハッと表情を変えた。
仕事の面で兄と弟であるということを伊東が口にすることはなかった。伊東にとって鈴木は同じ家で育った他人に過ぎず、常に邪険に扱われてきた…信用に値しないのだとひしひしと感じていた鈴木にとって、伊東の後押しを拒む理由はない。
「わかりました、必ず…!」
「明日の朝には出立しろ。詳しくは藤堂君に」
「はい」
鈴木は猫背になっていた背を伸ばして水差しを抱えて出て行こうとしたので、伊東は「待て」と引き止める。
「何か…?」
「一本置いていけ」
鈴木は何のことがわからない、という顔をしたが伊東が水差しを指さしてようやく理解したようだ。
少しだけはにかんだ笑みを浮かべて「どうぞ」と白い寒菊を一輪渡して去っていった。
伊東はしばらくそれを眺めた。冬を越してまた花を咲かせる菊は小ぶりだったが、しかし強さを秘めているように見えた。






解説
なし


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