わらべうた




768


陽の光は雪雲に隠れ、薄暗い昼間となった。
「土方さんはどこに?」
稽古を終えて部屋を訪ねたところもぬけの殻で、屯所にも気配がない。総司は土方の小姓である泰助に尋ねるが
「さあ…俺が稽古から戻った時にはいなかったです。行き先の書き置きもないし…」
と首を傾げた。小姓にすら行き先を告げずに出ていってしまうなんて、総司はため息をついた。
「まったく、非常事態だから皆には出歩くなと釘を刺しておいて…自分勝手な人だなぁ。帰って来たら文句の一つくらい言ってやらなきゃ」
「…」
「…何か?」
総司の顔をまじまじと見る泰助は呆然としている。鬼稽古の後で疲れているのかと思いきや、
「副長にそんなこと言うのは沖田先生くらいだなって。みんな怖がって、この部屋に近づくことさえ無いから」
と遠慮ない子供らしい率直な感想を口にした。
「ああ…鬼副長の住処ですからね。昔から用事がなければ助勤はとにかく、隊士は近寄りませんよ」
「…俺の知ってる土方さんとは別人みたいだ…」
泰助が入隊して半月足らず。彼なりに周囲の様子を察知し始めているが、当然試衛館にいた時の記憶の方が長い。幼少期に何度か井上の甥として足を運んできた泰助にとって、近藤は初々しい若先生、土方はその友人で気楽な食客の一人だっただろう。
しかし、彼の印象はここに来てガラリと一変したのだ。
総司には新鮮で、好奇心のまま尋ねた。
「じゃあ試衛館にいた頃の土方さんはどんな印象ですか?」
「…朝帰りをする遊び人、です。おじさんがいつも愚痴を言ってたから」
「ハハっ 確かに、井上のおじさんはよく叱ってたな」
泰助の素直な返答に、総司は懐かしさが込み上げる。あの頃の、何者でもない自分たちは、こんな未来を思い描いてはいなかった。
「じゃあ今の土方さんは怖い?」
鬼副長として君臨する、終始不機嫌な副長の小姓など投げ出したくなるだろうか。
しかし泰助は
「いえ、別に」
とケロッとして続けた。
「副長は散々拒んでいたのに、役立たずで無力な俺を結局は入隊させてくれたし…鬼のふりをしてるだけだって、わかってます」
「…鬼のふり、か」
土方のことをそんなふうに捉える存在が、隊の中にどれだけいるだろうか。
そしてこの少年が土方の小姓としていることが総司には何より嬉しくなって、頭一つ分背の低い彼の後頭部を、犬を撫で回すように撫でた。
「わっ!なんですか!」
「癖っ毛だなと思って」
「やめてくださいよ!気にしてるんだから!」
年頃らしく怒る泰助に、総司はますます口元を綻ばせたのだった。


伊東の手元に文が届いたのは同じ頃だった。小者が届けにきたところに居合わせて偶然受け取ったのだが、その筆跡をみてすぐに察した。
(近藤局長…!)
一方的に袂を分かったことは新撰組にも伝わっているだろうし、耳の早い彼らは土佐要人暗殺について伊東が彼らを名指しして犯人だと証言したことも知っているはずだ。
伊東の体に緊張が走る。それを懐に隠しながら周囲を確認した。衛士たちは土佐陸援隊から帰隊した橋本皆助を囲み、歓談しているようで姿はない。伊東は気配を消して自室に戻る。
そして強張った指先で身構えながらその文を開いた。どんな厳しい言葉で宣戦布告が書かれているのかと力が入る。
しかしーーー読み進めているうちに、『近藤勇』という人物のことを改めて思い起こすことになった。
彼はその無骨な面差しに反して美しい字を書く。彼の出自が農民であることを忘れるほど、長年藩校で学んだように理路整然に政を語り、己の思いを滾らせるように書き連ねている。伊東と考え方は違っていても天領の民として、幕臣として筋の通った耳を傾けるに値する内容なのだ。
(沖田の襲撃と暗殺の件には触れられていない…)
近藤の手紙には、昨今の情勢について二人きりで一度顔を合わせて語り合いたいとあった。藤堂からの定期連絡が絶え、近藤は状況を理解しているだろうに、あくまで新撰組から分離した同志であるという立場で伊東を誘い出そうとしていて、不思議と敵意や悪意は感じられなかった。
(これを…どう取るべきか…)
伊東は文机に肘をつき、考え込む。
普通は罠だと考えるだろう。伊東を呼び出した先に大勢の新撰組隊士たちが待ち構えている…もしくはその道中に命を狙われることだって考えられる。これは伊東を誘き寄せるための文だ。
しかし、一方で伊東は近藤が小細工ができない正直な男だということも知っていた。あまりに自分の揺らがぬ信条を貫くが故に、すでに屋台骨を失った幕府のために仕え、足掻き続けている。不器用で、融通の効かない…この流れるような筆跡から彼が本当に『語らいたい』と思っているのを感じ取ってしまう。
…しかし、既に茶と菓子を囲んで歓談する関係は終わった。
(…どうせ分かり合えない、私は徳川には決して追従しない。だったらこれを好機と捉えるべきなのか…?)
近藤と二人きりになれるなら、その命を狙うことができる。逆に斬られるかもしれないが、近藤さえ居なくなれば新撰組は崩壊するに違いない。
(例え刺し違えてでも…動くべきなのではないか?)
「大蔵君?いるのか?」
突然部屋の外から内海に呼ばれて伊東はハッとした。近藤の文を引き出しに隠し、「どうぞ」と内海を招き入れた。
「…どうした?」
「どうもしない…少し考え事をしていただけだ」
「そうか。…橋本君が話があると言っている。通しても良いか?」
「ああ」
内海の案内ですぐに橋本が顔を出した。
新撰組にいた頃は印象に薄くただ真面目なことが取り柄だと思っていたが、今の彼は表情がはっきりとして目を奪われるほど精悍で…まるで別人のようだ。伊東の前に膝を折ると背筋をピンと伸ばし、深々と頭を下げた。
「帰参致しました。これからも御陵衛士のため、尽くしたいと思っております」
「ご苦労だった。君には聞いておきたいことがある」
「何でしょうか」
「陸援隊には新撰組の間者がいたそうだが、君がその者とずいぶん親しくしていたと耳にした。本当のことか?」
伊東はつい責めるように言ってしまった。
中岡が伊東を信用できないと突き放したのは、橋本が新撰組の間者と親しく、最後まで庇っていたことがきっかけだった。もちろん中岡は他の理由でも御陵衛士を遠ざけたかったのだろうし、伊東が新撰組崩壊へ動くのは必然の流れであっただろうが、それでも尋ねておきたかったのだ。
すると橋本は少し考え込んで
「その通りです」
と認めた。隣に控えていた内海の視線が厳しく彼を見つめていたが、橋本は伊東が訊ねると予感があったのだろう、白状するように続けた。
「…最初は本当に何も気づきませんでした。今から思うとあいつは間者としては無能だったと思います。周囲と上手く馴染めずに孤立して…思わず手を貸し、親しくなりその後に間者だと判明したのです」
「その者は新撰組の間者として当然処刑されたのだろう?…中岡先生に君が彼の命乞いをしたと聞いたが」
「…情がありました」
「情?同情したのか?」
「同情ではありません」
橋本があまりにも素直に吐露するので、伊東の憤りはだんだんと削がれていく。しかし橋本は弁明はなく、ただ淡々と感情の波を感じさせずに話を続けた。
「自分がそうしたいと思ったから、そうしたまでです。俺はそのことを後悔していません」
「…」
「ただ、伊東先生のお考えに背いたことは認めます。俺が御陵衛士の一員として相応しくないと、信用できないとおっしゃるのなら切腹を命じてください」
橋本はむしろその方がせいせいすると言わんばかりに、あと腐れなく清々しく命を差し出そうとする。内海はそんな橋本を理解できないようで、眉を顰め伊東に視線をやって首を横に振った。
しかし伊東は、橋本がこれほどまでに言い切るのなら、彼らの関係は新撰組と御陵衛士という立場を超えた信愛があったのだろうと理解した。決して褒められたものではなくとも、侵されるべきでもない。何も知らない他人がとやかく口を出して『不誠実だ』と責めるのはお門違いなのだと感じ取った。それにもう終わった話だ。
伊東は少し間をおいて返答した。
「…我々は新撰組とは違う。間違いを犯せば切腹だという短絡的な輩と一緒にはしてほしくないな。それに今は有事、一人でも多くの人員が必要だ…君の力を借りたい」
「ご厚情に感謝いたします」
「しかし、これは純粋に、興味があるから訊ねたいのだが…君は我々の元から逃げるという選択肢はなかったのか?」
陸援隊での働きは伊東の耳に伝わっている。新撰組の間者と親しくしたことに後悔はなくとも、橋本が戻りづらいと思うのが当然だと思ったのだ。
橋本は答えた。
「今は為すべきことを為すのだと決意しました。逃げるばかりでは道は拓けず、逃げた先に幸運などあるはずがない。…その者のおかげで悟りました」
「…君は人が変わったな」
新撰組にいた頃の、個性を無くし存在を消したただ真面目なだけの取り柄のない男はもうここにはいない。陸援隊での経験がそうさせたのか、新撰組の間者の影響を受けたのか…伊東はもう訊ねなかった。
話を切り上げて橋本を皆の居る広間に戻し、内海だけを残した。
「…話の半分も理解できなかった。それほどまでにその間者に入れ込んでいるのなら、その者と道連れとなれば良かったのに」
「お前はそう思うかもしれないな」
伊東は苦笑した。
何せ、十数年も片思いをひた隠しにして友人面をしてきた男だ。橋本のように誰かの影響を受けて生き方を変えるような性格ではない。どちらが良いというわけではなく、それは個人の資質なのだろう。
曇天が今にも雪を降らせそうだ。伊東は文机に体を預けながら、近藤からの文のことを思い出した。内海に話せばきっと『行くべきではない』と断固として反対し、止めるに違いない。新撰組からの誘いに乗るなんて愚かでしかないと吐き捨てるだろう。
(しかし、この誘いを断った途端、彼らはきっとここに乗り込んでくるだろう…)
そしてこの美しい庭が血の海に染まる。せめて美濃からの兵がやってくるまでは時間を稼がなくてはならない。
「…為すべきことを、為すか…」
伊東は呟いた。
内海は
「何か言ったか?」
と訊ねてきたが、伊東は「何でもない」と首を横に振ったのだった。





















解説
なし


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