わらべうた




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夕方から薄暗い空から雪が舞い始めた。しかし積もるような類のものではなく、地面に混ざり泥となって履き物を汚してしまうような雪だ。
「ご無理なさるからですよ」
山野は怒りを通り越して呆れたようだった。朝稽古を終えてしばらくは平気だったが、この時間になってどっと疲れが押し寄せてきたのか、総司は床に伏せってしまった。少年たちとの稽古が楽しくて張り切りすぎたのだろう。
「少し微熱があるようです。これから上がるようでしたら英先生をお呼びしましょう」
「はあ、また小言を頂戴しますね」
「お嫌ならちゃんと休んでください」
山野は硬く絞った手拭いを総司の額に乗せて枕元に白湯を準備した。元々素養があったのだろうが、この頃の彼の甲斐甲斐しさは磨きがかかったかのように思える。
しかし、本来であれば精鋭部隊の一員である彼の仕事を増やしてしまっているのだ。
「すみません」
と総司は謝った。彼が謝られたくないのはわかっていたが、それでも手を煩わせているのは間違いないのだ。
すると山野は少し黙り込んでから口を開いた。
「…先生、僕は平凡で、手先は器用ですが小柄で剣術では何の取り柄もありません。でも一番隊に入れて頂いて、どうにか仲間の足を引っ張りたくないという気持ちで精いっぱいでした」
「…」
「そんな僕を先生はいつも優しく見守ってくださいました。だからこうしてお側でお世話ができるのは僕なりの恩返しであり、病に気が付かなかった愚かな僕の償いでもあります。これは自分の為です。先生の看病をしてお役に立っているということが、僕にとって一番安心できることなんです。だから先生は謝らないでください」
通常の任務と医学方の両立は、総司のためでもあり、そうすることで自分を安心させたいという慰めでもある。山野にとってどれだけ大変で寝る間がなくとも何の苦労もないのだろう。
「貧乏籤を嬉しそうに引くなんて、山野君だけです」
総司はそんな山野の献身には感謝していたが、
「でも…一つだけ、お願いがあります」
と口にした。
「もし…例えば、いまここに敵が攻め入って近藤先生や土方さんの身が危ないときは、君は医学方ではなく、一番隊の一人として働いてください」
「…先生…」
「戦場に赴くとしても同じです。例え私が瀕死であったとしても…君は私のために居残るのではなく、一番隊隊士として立派に戦うのです。私の望みであり、きっとそれが君にとって一番後悔のない道です」
「…」
山野は眉間に皺を寄せて唇を噛んでいた。どう答えたら良いのかわからなかったのだろう。
総司は苦笑した。
「今はわからなくても構いません。…でももし、そんなことになったら…私がそう思っていることを知っておいてください」
「…わかりました」
山野は約束できる、とは言わなかったがそれが彼の誠実さだということは良く知っていた。
すると土方がやってきた。山野は顔を見るなり低頭し「それでは」と去っていき、土方は彼がいたところに腰を下ろした。
「…また聞き耳立てていたんでしょう?」
「さあな」
「まあいいや。それよりどこへ行っていたんですか?皆には屯所から出るなって言っていたくせに」
「野暮用だ」
土方は短く答え、それ以上は言うつもりがなさそうだったので、総司も尋ねなかった。
「また無理をしたのか?それともガキ共に手を焼いたのか?」
「自分では無理をしたつもりはないんですけど、加減が難しいです。自分のことなのにな…」
頭では「これくらいは大丈夫だ」と思っていても、身体は伴わない。無理をすると微熱が出て、運が悪ければ喀血してしまう。そんな自分の身体には辟易してしまうが、
「仕方ないですよね」
と総司は笑って誤魔化した。
土方はしばらく何も口にしなかった。部屋から外を眺めていたがハラハラと舞う雪を目で追うこともなく、焦点は遠い。
「…どうしました?」
総司は悩んだが、尋ねることにした。土方が何も言わないのはわかっていた。
「さっき…山野に言っていたことは、お前の本心か?」
「…やっぱり聞き耳を立てていたんですね。でもあれは本心です。あの子は私に恩義を感じてくれていても、本音では一番隊で戦うことが誇りであるに違いないんですから、いざとなればそうさせてあげるべきです」
「俺にも同じことを言うか?瀕死のお前を置いて、戦えと」
総司は「勿論」と答えるつもりだったのに、なぜか喉の奥につっかえたように出てこなかった。
戦に赴く土方を、近藤を、仲間を…見送る自分。手を伸ばしても届かず這いつくばるしかない虚しさ。鮮明なイメージと共に押し寄せた悔しさに唇を噛む。
(僕はその時に…『仕方ない』と思えるのだろうか…)
総司は余程難しい顔をしていたのだろう、土方は「もう良い」と苦笑して総司の眉間の皺に指を這わせた。
「また今度考えれば良い。寝込んでいる時に余計なことを言った。…とにかく休め」
「…はい」
総司は目を閉じた。眠気はすぐにやってきたが、微熱のせいか考えがまとまらずあれこれと嫌な夢を見た。
けれど近くに土方の存在を常に感じていた。


陽が落ちた頃。
伊東は内海を部屋に誘い、好物の肴を囲い酒を飲んだ。あれこれと他愛のない会話を交わした後、
「あれは?」
と内海が文机の一輪の菊を指差した。無造作に重ねられた書物や文の中に、小さな一輪挿しを借りて飾っていたのだ。
「ああ…今日は父の命日だ。愚弟から一輪、貰った」
「…そうだったのか」
「私も忘れていた。ここ数年は墓参りすら足を運ばない、親不孝者だ」
伊東は自分に呆れつつ苦笑するしかないが、内海の表情は真剣なまま
「父君はどういう方だった?」
と尋ねてきた。母の過干渉には愚痴をこぼしたことはあるが、父については誰かに話す機会はなかった。何故なら自分でも記憶に乏しいからだ。
「…寡黙だった気がする。関心がなかったのか、褒められた記憶も叱られた思い出もない。それ故に母が厳しかったのだろうが…ある日家老と揉めて隠居させられたあとも、借財がわかって領外への追放となっても…父は何も言わなかったな」
伊東がいくら思い出そうとしても、父の顔がぼんやりとしか浮かばず、その背中ばかりが目に焼きついている。
寡黙だった父が抱えていた借財のほとんどは、先代かその前から受け継がれた負の遺産であり父自身のものではなかったが、父は粛々とその事実を受け入れ、返済しつつも困っている者にはそっと手を貸した。一度だけ遊んだ女の子どもも自分の子だと受け入れてしまった。
「父は手の届かない…自分とは違う場所で生活しているような、そんな存在だった。私がお喋りなのはきっと母に似たのだろう」
「…そうか」
「そういう意味では愚弟は父に似ている。血が繋がっているのか、いないのか、本当のところはもう誰にもわからないが、共に暮らせば似てくるものなのだろう」
伊東は内海の空になった盃に酒を注いだ。そして
「…ひとつ、頼みがある」
と切り出した。
「なんだ?」
「美濃行きの件、愚弟だけに任せるのは心許ない。私の弟だと言うのは確かに意味があるのだろうがあれは口数が少ないし頼りない…お前も一緒に行ってやってくれないか?」
「…」
内海はなみなみと注がれた酒に視線を落とした。伊東は彼がそういう反応をするとわかっていたので、動ぜずに答えを待つ。
重たい沈黙の後に内海は口を開いた。
「いま…ここを離れるのは気が進まない」
「それはわかっている。今日明日にもどう転ぶかわからない時期だ。しかし、美濃からの援軍を呼ぶことも重要なことだ」
「…君が『わかっている』と言う時は大抵なにもわかっていない」
内海は少しだけ苛立ったように酒を飲み干すと、空になった盃を乱暴に置いて伊東の腕を強く引いた。
「無理をしそうで離れたくないんだ。君はいつも俺の考えの及ばぬことを平気でする」
「…私は年端のいかぬ子どもか?」
伊東は苦笑するしかないが、内海は真剣だった。
「子どもよりもタチが悪い。君は理性的であると装っているが、本当は感情的で無謀なところがある…目を離せない」
「子どもどころか、赤子のような扱いだ。つくづく失礼な奴だ」
伊東は内海に引っ張られていた腕をほどいて、逆に彼の襟を掴んで引き寄せて口付けた。そうすると彼の頑なな表情が崩れて、慣れないせいかすぐに腰が抜ける。
「大蔵君!」
「内海はなかなか本音を言わない。…本当は、晴れてこういう関係になったのに美濃に行くのは離れ難い…そうなのだろう?」
「…」
図星だったのか、内海は視線を逸らす。伊東はそんな内海が愛おしくてもう一度唇を重ねて、彼の耳元に呟いた。
「今宵はお前の好きにして良い。だから、言うことを聞いてくれ」
ねだるような、甘えるような声色で囁くと彼は耳まで真っ赤に染めた。
「大蔵君…っここをどこだと思って…!」
「場所なんてどうでも良い。ほら、言うことを聞くだろう?それでも拒むなんて、私を恥知らずにしないでくれ」
うぶな内海に伊東が巧みに誘えば、彼は受け入れざるを得ない。
「まったく、君は…!」
嗾けられた獰猛な獣は、もう歯止めの効かぬ姿となって伊東を見下ろし始める。そんな彼を抱きしめながら
(すまない)
と伊東は内心、呟いた。
彼を騙して遠ざけるのは、きっと近藤との面会を許してはもらえないだろうと思ったからだ。明日の朝、鈴木と共に立てばしばらくは帰ってこないに違いない。
(君を…仲間を守るためだ)
賭けに勝てるのか、負けるのか、それはわからない。けれど少なくとも不在の二人は巻き込まれないで済むだろう。
上手くいったら、『勝手なことをしてすまない』と謝れば良い。上手くいかなかったら…。
(お前を愛していると、三途の川で叫ぶよ)
























解説
なし


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