わらべうた




771


その日は指先が痛むような厳しい寒さだった。
斉藤は目を覚ましゆっくりと身体を起こした。傷は塞がり痛みも随分鈍くなった。こんな時こそさらに療養してしっかり治すべきだと英なら言いつけるだろうが、今日はそうもいかない。
(今夜は…大きな節目になる)
昨夜遅く、斉藤は土方から作戦の決行を伝えられた。
伊東は近藤の誘いに応じて妾宅へやって来るそうだ。伊東は慎重に見極めて断るかもしれないと思っていたが、どんな狙いがあるのか大胆にも乗り込んでくるらしい。しかし思い返せば今年の正月の居続けも、薩摩や土佐に潜り込むための分離も、伊東の大胆さは土方の予想を超えていたのだから特別可笑しな行動というわけではないのかもしれない。
しかし、斉藤にとって自分の立てた策であってもすでに手を離れている。作戦には加わらず屯所に残りーーーある意味、土方にとっては伊東の暗殺以上に重要な任務を請け負うことになってしまったのだ。
『絶対に総司の耳に入れるな』
昨晩、皆が寝静まったあとに再び念押しされた。
『屯所には見張りの隊士数名と小姓だけが残り、ほぼ出払うことになるだろう。あいつは勘が良い…どうにか誤魔化してくれ』
『…承知しています』
『もし知られても絶対に屯所から出すな』
それは伊東の暗殺以上に難しい任務かもしれない。斉藤はそんなことを考え込んだせいで昨晩はあまり眠れなかった。
斉藤は襖を開けて縁側に出た。氷が身体中に張り付くような寒さにひゅっと喉が鳴ったが、そのおかげで一気に目が冴える。
そして同時に「コンコン」と小さく咳き込む声が聞こえてきて、斉藤は足を向けた。
「入るぞ」
と了解も得ずに開けると、やはり総司が咳き込んでいた。彼の枕元に膝を折り、肩を摩る。
「さい…ゲホッ」
「無理をするな。…山野を呼んで来るか?」
斉藤が尋ねると総司は首を横に振った。まだ朝早い時間で起こすには忍びないと部下を慮ったのだろう。そのうちに落ち着いてきた。
「…すみません、もしかして起こしましたか?」
「いや、ちょうど起きていた」
「そうですか…そんな薄着じゃ、風邪をひきますよ。羽織を着てください」
自分の顔色の方がよほど悪いというのに、総司は弱々しい声で斉藤を気遣うので苦笑するしかない。
「ここは暖かいから心配するな。それに…羽織は月真院に置いてきた」
「ああ…そうだ、あの時に斉藤さんに借りた羽織を返そうと思っていたんです…」
総司はまた無理をして身体を起こそうとしたので、斉藤は引き止めて「どこだ?」と尋ねる。総司が指差した行李を開けると綺麗に折り畳まれた、見慣れた羽織が出てきたので袖を通すことにする。
「ちゃんと返せて良かった…」
総司は安堵した笑みを浮かべたが、斉藤はそのぎこちない表情にすぐに気がつき、額に手を当てた。
「…酷い熱がある」
「そう、ですか?」
「誤魔化すな。すぐに山野を呼んで来る」
すぐに斉藤は起床前の山野の元へ向かった。山野は総司の名前を出すとすぐに目を覚まし、寝間着のままドタバタと駆け込んで来て、熱が上がったと確認するとすぐに医者を呼ぶように小者に伝えた。
「大騒ぎにしないでください」
総司は山野へ頼み込む。山野は「分かってます」と言いながら額に冷たい手拭いを乗せた。
斉藤はその光景を黙ってみていた。自分が御陵衛士として離れている間、想像以上に悪化していたのだと見せつけられているような、苦々しい心地だった。
そうしていると裏口から迎え入れられたのは英だった。斉藤の姿を一目見て「おはよう」と淡々と口にしたあとはすぐに総司の傍に座り、聴診器を当てて診察を始めた。山野は弟子として、また部下としてはらはらと様子を見守っていたが、英の表情はなかなか読めない。
しばらく重たい沈黙が流れた後、英は聴診器を置いた。
「…少しタチの悪い風邪だろう。肺の音は悪くはないが無理は禁物だよ」
「ああ、良かったです…」
山野は力が抜けたように安堵する。総司はそんな部下を愛おしげに眺めた後は目を閉じてうとうとと浅い眠りにつき始めた。
英は熱冷ましといくつかの漢方薬を渡して診療を終える。山野は「副長へ報告に行きます」と部屋を出て行ったので必然的に斉藤と英のみが残った。
「…本当のところはどうなんだ?」
斉藤が尋ねると英は少し微笑んだ。
「本当のところなんて俺が知りたいよ。小さな風邪が命取りになるような所まで来ている…肺炎なんか起こしたら大事だ」
「そうか…」
英の所見を聞いて斉藤は土方が今夜の襲撃を伏せておくことについてようやく納得ができた気がした。こんな状態の彼に非情な作戦のことなど伝えられるものか。
「とにかく落ち着いても安静にさせてよ、いつも床を離れて出歩く。…もし悪化するようなら姐さんを呼ぶから」
英は帰り支度を始めようとする。まだ弟子でも一人で往診ができる彼は何かと重宝されて忙しいのだろう。
「じゃあ」
「ああ…」
英は手を振って部屋を出ていく。斉藤は一度は見送ったが、「待ってくれ」と縁側で引き止めた。
「何?」
「頼みがある」
「頼み?」
「今日一日、ここにいて欲しい」
英は怪訝な顔をした。
「…いまのところ肺の音もいつもと同じだし、熱が下がれば問題ないよ。山野は悲壮にしてたけど、すぐに大袈裟に考えるほどじゃ…」
「いや、大袈裟にして欲しい」
「はあ?」
英はさらに眉間に皺を寄せたが、斉藤は冗談で引き留めたわけではない。
「今夜、どうしても彼に知られたくない、巻き込みたくないことが起こる。だが俺が四六時中見張れば不審に思うだろうし、小姓たちは状況がわかっていないから任せられない。…お前なら医者としてずっと付き添っていても変だと思われないだろう」
「…」
「頼む」
斉藤は頭を下げた。変なところで勘の良い総司はきっと気がついてしまうだろうが、英がいれば自分の身体のことだけに目を向けるだろう。
英はすこし黙った後、
「巻き込みたくないことって何?」
と尋ねた。斉藤は「言えない」と答えるしかなかった。
まだ数人しか知らない作戦を英に漏らすわけにはいかない。それは彼を信用していないのではなく、彼を巻き込みたくないというだけだ。
英も教えて貰えるとは思っていなかったのだろう。「はあ」と芝居じみた大きなため息をついた。
「わかった。南部先生の許可を取って戻ってくるよ」
「…恩に着る」
「今度何か奢って。…それから、忘れているだろうけれど斉藤さんも安静にしててよ」
英は釘を刺して去って行った。



痺れるような寒さで目を覚ます。火の消えた火鉢の近くで横になっていた伊東は、すぐ隣に内海がいないことに気が付いた。一瞬肝が冷えたが、早朝に出発する鈴木に同行するように頼んだので急いで準備に取り掛かっているのだろう…さすがに鈴木と内海が自分に声を掛けずに出かけるはずはない。
けれど昨夜の甘い余韻がプツリと消えてしまったようで、寂しさを感じてしまった。
(勝手だな、私は…)
自分一人で決断して、嫌がる内海をどうにか言いくるめたのに…勝手に後悔している。今更翻すつもりはなくともせめて彼には本心を悟られないように笑顔で見送らねばならないだろう。
伊東は掛布団となっていた上着を肩に掛け着衣の乱れを正し、襖を開けた。整然とした美しい庭に雪が薄く積もり、自然に「ああ」と感嘆のため息が漏れるような情景を見てしばらく見惚れた。この場所を屯所としたのは様々理由があったが、一番は庭の景色を気に入ったからだ。ここに越してきたのは初夏、青々と茂る木々が秋になると見事に色づき、そしていまは白く化粧をしている。この雪が溶け、春になればどれほど美しい景色を見ることができるだろうか…憧憬に似た感傷に何度も浸ったものだ。
伊東は無意識に呟いた。
「水を渡り 復水を渡り 花を看 還花を看る…」
「春風 江上の路 覚えず 君が家に到る」
いつの間にかやってきた内海が諳んじて、旅姿でそこにいた。伊東は微笑んだ。
「…私と内海の『家』がここであるならば、素晴らしいな」
「俺はそう思っている」
内海は躊躇いなく肯定する。少し前までの他人行儀な内海はもうどこにもいない。互いに忘れ去られたかのように。
「ハハ、君はまるで人が変わったかのようだな」
「大蔵君、ひとつ約束をしてほしい」
「ああ、なんでも良いよ」
「俺がここに帰ってきたときに、必ず君がここにいてくれ。もし君がいなければ…俺は自分がどうなってしまうのかわからない」
内海の正直な言葉に伊東の胸は少し痛んだ。嘘をつくなら何度ついたとしても同じことだと思い約束を交わすつもりが、安請け合いしたのを後悔するくらい重たい約束を強いられてしまった。
「…ああ、もちろんだ。愚弟をよろしく頼む」
「わかった」
伊東は抱きしめたい衝動に駆られたが、それではまるで永遠の別れのような気がして気が引けた。そのかわり右手を差し出し握手を求める。そういう形式ばった作法の方がまたこうして会えるような気がしたのだ。内海もそう思ったのだろう、唇を噛みながら耐えるようにして手を差し出し、二人はしっかりと握りあった。
そうしていると同じ旅姿の鈴木がやってきた。もしかしたらこれが永久の別れかもしれないと思うと、どれだけ手を焼いて愚かな弟だと蔑んできたとしても、無性に惜しくなるものだ。
「…前にも話した通り、水野に必ず上京させる約束を取り付けさせるんだ。それが我々の命運を左右するだろう」
「は、はい!」
「頼んだ」
気負いすぎて強張っていた鈴木の表情が伊東の「頼む」という言葉に絆されるように緩む…しかしすぐにハッと引き締めて誤魔化すように大きく頷いた。伊東は弟の喜怒哀楽が手に取るようにわかるようになった…それは伊東にとって悪くない進歩だった。
そして伊東はほかの衛士とともに二人を見送った。
何か気の利いた言葉がないのかと自分で思ったけれど
「気を付けて」
とその背中が見えなくなるまで見つめることしかできなかった。























解説
なし


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