わらべうた




772 ー春隣1ー


寒さの厳しい朝を迎えた。
俺は座禅を組み目を閉じながら伊東大蔵という人について考えていた。

初めて出会ったのは隊士募集のため江戸に向かった時だ。平助の居た道場の塾頭で、まさに『文武両道』、神道無念流と北辰一刀流を修め、学もあり歌を嗜むという文化人でもある…そう文で知らせが来た時、俺は身分問わず無頼の輩が集う新撰組にはそぐわないのではないかと思った。何よりも歳が気に入らないという顔をしていたので、実際に江戸へ向かって平助に確認したが
「一度会ってみてください!きっと良い出会いになるはずです!」
ということだったので、会うだけは会うことにした。
そうして実際に顔を合わせてみると、彼は見惚れるほどに麗しい、誰もが一目見て振り返るような美男だったのでとても驚いた。加えてその形の良い唇から流れるように紡がれる言葉は、まるですべてが歌のような言い回しで趣があり心地よい。俺には礼儀正しく高貴な人物に見えた。
しかし、今までで一度も関わったことがないような雰囲気に気が引けて、
(やはり…)
俺は彼に新撰組は合わぬと思った。
それに彼は水戸で学び、異国を毛嫌いしていると同時に幕府を完全に信頼しているわけではない。徳川へ忠誠を誓う会津のお預かりである新撰組とは考え方が違うのではないかと危惧したのだ。
平助も同席していたが、俺は伊東先生の目を見て伝えた。
「新撰組は会津お抱えであり、私は天領の民…世間がどうあれ、決して公方様以外には仕えようとは思いません。水戸で学ばれた伊東先生とはお考えが違うようですが」
俺の飾らない問いかけに、飾り立てた言葉を口にしていた彼は虚を突かれたようだった。歳がここにいたら互いにまだどういった人物か探りあっている最中に先に素を晒すなどと呆れるだろうが、俺は腹の探り合いは苦手だ。疑問に思ったことは本人に聞く。
すると伊東先生はまるで花のように微笑んだ。
「正直な方ですね。…私もその点は気がかりでした。しかし、いま公方様は帝と良好な縁戚関係を結ばれています。幕府が帝のもとで政を行っている…でしたら幕府に仕えることは帝の手足となるのと同じこと。藤堂君の誘いを聞き、これは良い機会を頂いたのではないかと思ったのです」
「…新撰組は都では悪評が流れていますが」
「噂話は好きません。…いま目の前の近藤殿がお話しいただけることがすべてだと思っています。藤堂君から聞いていた通り実直で正直なお人柄のようだ。是非ともお仲間に加えていただきたく思っております」
伊東先生は真っすぐ背筋を伸ばして頭を下げた。まるで所作の見本のような卒のなさだった。
…ここに歳がいたら。
『芝居じみたクサイ台詞を真に受けるなんて』
と鼻で笑っただろう。しかし俺は彼が嘘をついているようには見えなかったし、彼の眼差しは強く勇敢で頼もしく見えたのだ。俺は自分が抱いていた疑念が消えて、気が付けば
「こちらこそ是非、伊東先生のような方に力になってもらいたい」
と頭を下げていた。俺たちのような浪人と比べて彼は毛並みが違うが、新撰組はいつまでも野蛮ではいけない。彼が新しい風となってくれるだろうと信じたのだ。

…伊東さんがいつから分離を考えていたのか、愚鈍な俺にはわからない。けれど初めて会ったこの日はそうでなかったように思う。彼と同じ場所を見ていたと感じたのだ。

「近藤先生」
やって来たのは歳だった。総司の具合が悪く早朝から忙しかったようだ。
「…どうだ、総司は?」
「英は風邪だろうと。悪化しないためにも今日は一日中看ると言っていた」
「そうか…こう言ってはなんだが、ちょうど良かったな」
「ああ。俺もそう思う」
今日は長い一日になる。病に伏せる総司の心労になってはならぬと一連の策は耳に入れていない。どう隠し通すべきかと思っていたが、医者の目があれば総司は部屋を出られないだろう。
坐禅を組む俺の隣に、歳は腰を下ろした。
「…迷っているのか?」
歳は俺に問いかける。
俺はずっと考えていた。
御陵衛士として彼らが分離して、一度はそれも悪くないと思った。新撰組が幕臣となりますます西国と対立するなか、薩摩や土佐の情報を得るために遊軍となる…平助が橋渡しとなるなら、互いに良好な関係を築けるかもしれないとわずかな希望を見出していた。
けれど先に裏切ったのは伊東さんの方だ。大政奉還が成った途端、徳川を追放し新たな政を始めるべきだと建白し、会津と我々に牙を剥いた。それだけならまだしも新撰組幹部の襲撃を企て、土佐要人の暗殺犯さえなすりつけた…見過ごせない裏切りを繰り返したのは彼らに違いない。
しかし実際、それを裏切りだと感じるのは俺の勝手なのだろう。俺は伊東さんを信じていたが、彼が俺を信じているとは限らない。入隊した時から虎視眈々と画策していたことだったのかもしれないのだ。
そう思うと胸に押し寄せるのは怒りでも憤りでもなく、虚しさだ。
「迷ってないよ」
俺は答えた。
「迷うことなんて何も無い。俺はただ平助のことが心配なだけだ」
「…安心しろ、なんとかする。近藤先生は伊東に勘付かれないように話をすることだけに集中してくれ」
「ああ」
俺は敢えて、永倉君と左之助に平助を助けるよう告げていることを歳には話さなかった。勝手なことをして、と叱られることは分かっていたし、実際のところ歳が安易に平助を助けるとは思えなかったからだ。
(伊東さんの『嘘』はわからないが、歳はわかる)
きっと俺を納得させるために平助のことを持ち出したのだろう。そのことに俺も気がついているのだから…歳を責めるつもりはなかった。
俺は再び目を閉じた。歳は短い会話を切り上げて去って行った。







伊東大蔵という人は、最後まで掴めない男だった。

かっちゃんと共に江戸からやって来た伊東は、涼しげな目元と色白の肌、形の良い唇が全て美しく整った、まさに完璧な人物だった。連れている数名の同志たちもそんな彼を心酔しているのが一目で分かり、入隊しても金魚の糞のように付き従う…隊士の中にはそれに追随する者もいて、俺は辟易とした。
(ややこしいことになる)
芹沢が死に、池田屋で名を上げ、ようやく近藤先生が日の目を見るというところでこんな目立つ男に参謀として君臨されては全てが霞む。
俺はその日から心が休まることがなかったように思う。賢い伊東とどうやって渡り合っていくか…俺には彼が敵だとしか思えなかった。
そしてそれは山南さんが死んだ時に決定的となった。
『春風に吹きさそわれて山桜ちりてそ人におしまるるかな』
俺は山南さんの切腹に伊東が関わっていることを確信していた。弁の立つ伊東が気落ちする山南さんを唆した…全てでは無いにせよそれが一因となって脱走したはずだ。
それなのに、皆の前で嘆き哀しみ美しく涙を誘う歌を詠む…伊東の内面には一体何枚の仮面があるのだろうか。俺は内心ゾッとした。
(俺だけは絶対に騙されない)
…そして伊東は結局、分離という曖昧な言葉を掲げて平助を連れて新撰組を出て行った。悠々自適にあちこちで弁舌を披露し、信頼を得て…最後には古巣へ狙いを定めた。
(貴様の思い通りにはさせない)
俺は伊東を殺すことへ何の迷いもなかった。

「今朝方、内海と鈴木が月真院を出て西へ向かったと知らせが」
自室で約束の刻限を待っていると、山崎がやってきた。彼は監察方から離れても人脈が広くあちこちに監視の目を持つ。
「西…美濃か?」
「おそらく。…せやけど、藤堂先生が同行せえへんのは意外でした。都から離れてくれれば楽やったのにな…」
山崎には明確に『藤堂を助けるように』と指示をしたわけではないが、賢い彼は俺の気持ちを汲み取っているようだ。
(平助は殺したくない。殺したくないが…)
殺したくないという気持ちが、隙を生む。
俺は幾度となく、勝負の場で予測を外している。芹沢の時も、池田屋の時も…総司の病も。肝心な時に違う道を選んでしまうという自覚があり、今回の件にはいつもよりも慎重だった。
「他の衛士は?」
「阿部十郎は身なりを整えて外出したと小者から知らせが…行先は追わせてます。他の者は留まっているようです。この頃は衛士たちは不用意に出歩かずに屯所へ詰めてているようやと」
「土佐の暗殺が新撰組によるものだと密告している。報復を恐れているのだろう」
「…ほんまに、伊東がやってくるんですか?」
山崎は懐疑的な様子だったが、それは俺も同じだった。新撰組の報復を恐れて屯所に引きこもっているくせに誘いには応じる…実際に伊東の顔を見るまでは俺も疑いが消えそうもない。
「不穏な動きがあればすぐに知らせるように伝えろ」
「はい。…醒ヶ井も準備ができてます」
会合の場所は伊東を油断させるために、醒ヶ井の近藤さんの妾宅にした。お孝や世話役のおみねにはもちろん今回の計画は告げずに、ただもてなしてほしいと伝えている。彼女たちを危険に晒すわけにはいかないので監察方にはしっかりと警備をさせ、万一に備えるように指示を出していた。
「ああ…わかった」
あとは約束の刻限が来るのを待つだけだ。
あと一度、伊東の顔を見ることがあれば…それが永久の別れとなるだろう。












解説
なし


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