わらべうた




774 -春隣3-


兄から託された美濃行き…都を出て田舎道に入っても、俺の心は高揚したままだった。
俺が不出来なせいで、兄には故郷にいた頃から散々迷惑をかけた。父が脱藩後に作った私塾は生活が困らない程度の収入となり俺も手伝っていたが、父が亡くなり兄が一時期講師として滞在したときはまさに盛況であった。朴訥な俺と違い、兄は麗しい顔立ちで学を披露しながら時に尊王攘夷を熱く語る。感化された田舎の青年たちは活気づき、女子たちは兄を一目見ようと生け垣の向こうから眺めていることもあったくらいだ。俺は鼻が高く、兄がいつまでもここにいてくれるのだと錯覚したが、そんな優秀な兄がいつまでも田舎に留まるはずはなかった。
兄がいなくなるとあっという間に私塾は廃れ、そのまま畳むことになった。母は親戚の家に身を寄せ、俺は養子として鈴木家に迎え入れられたものの、私塾を潰してしまった不甲斐なさと兄と別れた苦しさに悲観し、酒に溺れた。あっという間に勘当されることとなり、俺は行く当てもなく知人の家に身を寄せる日々だった。
…そんなある日、突然俺の窮状を耳にした兄が俺の前にやってきた。いったいどうして居場所が分かったのかはいまだにわからないが、昼間から酒を飲み腐っていた俺をやや蔑むように見下ろしてため息をついた。
兄がそうやって俺のことを厄介に思っていることは重々承知していたが、この時ほどはっきりとした苛立ちを向けられたのは初めてだった気がする。
「お前は散々迷惑をかけて、家名を汚した。伊東ではなく鈴木を名乗れ。私を兄だと思うのは勝手だが、私は弟だとは思わない」
当然だと項垂れた俺に、しかし兄はそれでも手を差し伸べてくれた。
「近いうちに都へ向かうことになった。人数が必要だ、お前も人様に迷惑をかけるくらいなら一緒に来たらどうだ?」
「え…?」
「嫌なのか?」
兄の問いかけに俺は必死に首を横に振った。
兄とともに居られるならそれがどこであろうと、人数合わせだろうと構わない。行き過ぎた兄弟愛だとしても、兄に認められたい―――今までその一心で生きてきたのだ。
それが実ったのか、兄は御陵衛士として分離してからは他人ではなく弟として扱い、ついには出掛けに『頼む』とまで言われた。これを喜ばないはずがない。
けれど俺の隣を歩く内海さんの顔色は優れなかった。
俺は内海さんに対して一時嫉妬のようなものを感じていた。水戸へ遊学した兄の友人であり、誰よりも長く兄上と過ごし、互いに信頼しあっている。俺は父が亡くなった後、私塾にいた兄を連れ戻すために文を寄越してきたことがずっと引っかかり、ずっと素っ気なく接してしまった。しかし新撰組にいた頃はわからなかったが、御陵衛士となり兄にとって内海さんは欠かせない存在であり、心の拠り所だったのだと気が付いた。家族から離れ、弟と決別し、一人で生きてきた兄にとって寂しさを埋めた大切な友人なのだ。
そう気が付いてからは態度を改めたので、内海さんは俺との旅路を嫌がってはいないと思うのだが。
「あ、」
俺は声を漏らし、山道を抜けて見晴らしの良いところで足を止めた。海とも見違える琵琶湖が良く見えたのだ。
内海さんも足を止めてしばらく無言で絶景を眺め、「少し休もう」と声をかけてきた。早朝に月真院を出て昼前の今までろくに休まずにひたすら歩いてきたのだ。
木陰に腰を下ろし、竹筒の水を飲む。寒さでカラカラに乾いていた喉が潤うが、内海さんは大きなため息をついた。
「…あの、何か?」
内海さんがあまりにぴりぴりして強張っていたので俺は何も問うことができなかったのだが、さすがにこの先もこのままだと気が重い。勇気を出して訊ねてみると、内海さんは硬い表情のまま「すまない」と謝った。空気が張り詰めていた自覚はあったようだ。
「少し…考え事を」
「美濃の件ですか?水野某という男は確かに手強そうですが…」
「いや、大蔵君のことだ」
…少し前から、内海さんは兄への敬語をやめて、昔のように堂々と『大蔵君』と呼び始めた。俺にとっても『甲子太郎』よりも馴染みのある名前だったが、思えば新撰組にいた頃から内海さんは何かと『大蔵君』と呼んでは兄に叱られていた。それにはおそらく一貫した考えや思いがあったのだろう。
「…兄上が何か?」
「様子が変だった。隠し事をしているような…」
「…」
俺は兄にはいつも通り、少し突き放すような対応をされたと思い特に気に留めなかったが、そういわれると『頼む』と言われたのは兄らしくはない気がする。
考え込む内海さんは懐から手拭いを出してジワリと滲む汗を拭こうとする。するとその懐から小さな紙が俺の足元に落ちた。そこには繊細な小さい文字で漢詩が書き留められていた。
「…これ、」
「ああ、すまない。落としたのか」
「もしや『胡隠君を尋ぬ』ですか?」
「知っているのか?」
俺はその漢詩を一目見ただけで、今まで思い出すこともなかった数年前の記憶が蘇った。
「兄上がお好きな漢詩ですよね?」
「…大蔵君が?」
「違いましたか?確かあれは…父上が随分衰弱し、俺が兄上とともに帰郷した時です。亡くなるまで数日間、兄上は父上の傍らでずっと父上の蔵書を読まれていました。父上は寡黙で、書物を読むのが好きで蔵書も多かった。父上は意識が朦朧としながら途切れ途切れに兄上と会話を交わしていましたが、俺には父上は兄上に最後の指南をしているように見えました」
父は兄が帰郷してから意識がある時は昼夜問わず話をしていた。話と言っても意識が混濁して、書物の一節や物語の一部、果てはおとぎ話まで取り留めのないものばかりで俺にはついていけなかったが、父が語るのを兄はずっと辛抱強く耳を傾けていた。今思えば父は遺言代わりに自分の培った知識を託したかったのだろうし、兄もそのつもりだったのだ。
「そのなかで、この『胡隠君を尋ぬ』の話をしていました。父上の話に頷くだけだった兄上が、その時だけは微笑まれていた。『自分も好きだ』と言って『友人が好んでいるのです』とも。父上は『そうか』と喜ばれ、その友人を連れてこいと譫言を言っていました、きっと話が合うと」
「…お父君が…」
「ああ、内海さんのことだったんですか…」
俺は懐かしさで胸がいっぱいになる。
最期の語らいを交わす父と兄の姿は、まるで離れていた時間を取り戻すように穏やかなものだった。あの後四十九日を過ぎても私塾で子弟に指導していたのも父のためだったのだろう。
内海さんは強張った表情を少し緩ませた。
「そうか…ちょうど昨日、大蔵君にお父君のことを聞いた。家族とは距離があったと言っていた…まるで別の場所で生きているようだとも」
「ああ、兄上のおっしゃるとおりかもしれません。生前は寡黙で何を考えているのかわからず…でも優しい父上でしたし、晩年はしきりに兄上が自慢だと言っていました」
父は兄のことを話す時だけは饒舌だった気がする。それは心から誇りに思い、無口でも兄の飛躍を願っていたからだ。
「…そのことを大蔵君には?」
「そういえば機会を逃して、伝えたことはありません」
「伝えてやってくれ。父上は自分には関心がないと寂しげに言っていた…今の話を聞いたらきっと喜ぶ」
内海さんは「そろそろ行こう」と立ち上がって歩き始めた。心なしか、その足取りが軽くなったようで俺は安堵したのだった。






僕が目を覚ますと陽が昇って冬の柔らかな日差しが差し込んでいた。ぼんやりと視線を漂わせると見慣れない人物がいて一気に眠気が飛んだ。
「英さん?」
「…起きた?随分よく寝ていた」
「今朝方、来てくれましたよね?それからずっと?」
「まあね」
英さんはさらりと返答したけれど、彼はまだ助手とはいえ忙しいはずだ。僕は身体を起こした。
「お手を煩わせました。もう具合も良いし、戻っても…」
「こら、横になって。誰が具合が良いって?まだ微熱がある、大人しく医者の言うことを聞くものだよ」
「はあ…」
英さんはやや強引に僕を床に戻し、ため息をついた。
「軽い風邪でも肺を悪くするんだ。今日一日は床を抜け出さないように見張るからそのつもりで」
「でもお忙しいでしょう?」
「忙しい。だから大人しくしてよ」
英さんは頑なに僕の申し出を断り、額の手拭いを替えた。ひんやりとして冷たいがすぐに体温が混じる…確かにまだ微熱があるようだ。
彼は僕の真新しい(使う用事のない)文机に書物を並べて目を通していたようだ。医学書と思われるそれは見たことのない文字や絵図で埋めつくされている。僕が以前、お加也さんから借りたものはまさに入門書であり、彼の難解な書物とは比べ物にならない。
僕がまじまじと文机を眺めていたことに気がついたのだろう。英さんは苦笑した。
「…大変だし、難しいし、疲れるけど、医学を学ぶのは案外悪くない。陰間をやっていた頃には考えられなかったけど、性に合っていたみたいだ」
「松本先生も…そうおっしゃってましたよね」
「そう、あのおっさん、人を聖母だとか何とか囃し立てたくせに南部先生に押し付けやがってさ。…でもこうやってこの世界に身を置くとおっさんの凄さはわかるよ」
英さんははまるで親戚のように松本先生を語るが、その言葉の裏には信頼と尊敬がある。僕はあの日、彼を生かしたことを心底良かったと思いつつ、それがこんな形での再会に繋がる縁を再び実感していた。
英さんは薬を煎じ、それを白湯に溶かした。
「…この薬を飲んで、休んで」
「はい」
僕は少し苦い白湯を受け取ってゆっくりと飲み干した。十分睡眠をとったはずなのにまた瞼が重たくなってウトウトし始める。
「おやすみ」
僕は背中を押されるように、彼の一言で眠りの先へと誘われた。
(聖母って、こういうことかな)
そんなことを漠然と思いながら、僕はまた眠ったのだった。


















解説
なし


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