わらべうた




775 ー春隣4ー


俺のような部外者でも新撰組の広い屯所に流れるピリピリとした雰囲気は感じていた。
一度戻って南部先生に許可を取って引き返すと、歳さんは局長さんと難しそうに話し込み、斉藤さんはいつも以上に表情が固い。日が南へ昇る頃になると、広間には隊士達が集まり何となく落ち着かない様子なのだが、この部屋の周りだけが妙に静まり返っていた。
(まるで戦でも起こるみたいだ…)
何かと察してしまう俺へ斉藤さんが何も言わないのは正しい判断だろう。
無関係だと思っていた世の中の『流れ』というものに身を置いているのが何だか不思議だ。けれど、御典医や会津藩医の元で学んでいるのだからこんなこともあると改めて覚悟を決める良い機会になったのかもしれない。
俺は再び目を閉じた沖田さんをしばらく眺めてよく眠っているのを確認し、腰を浮かせた。部屋を出るとすぐそばの縁側に斉藤さんがいた。偶然ではなく、この部屋を監視しているのだ。彼は俺の顔を見ると視線で「こちらに来い」と伝えてきたので、俺は素直に歩み寄る。
「話し声が聞こえたが」
「一度目が覚めたけど、白湯を…漢方を含ませたものを飲ませたら、また眠ったよ」
「そうか」
彼は少し安堵したように息を吐いた。部外者の俺でも何かを感じ取ってしまうような物々しさ…沖田さんなら部屋を出た途端に気がつくだろう。本人の許可なく睡魔を誘う薬を飲ませたのは罪悪感があったが、きっと彼自身のためになる。
俺は斉藤さんの隣に腰を下ろした。
「痛みは?」
「ない」
「そう」
…無いはずはないのだが、言い切ってしまうのは斉藤さんらしい。そう言われてしまうと俺の出番はなくなるのだが、今の彼にとって自分の身体のことなど優先順位のなかで最も下なのだ。
(いじらしいというか、一途というか)
「…なんだ?」
俺の視線を感じたのか、斉藤さんが尋ねる。いつもより鋭い眼光に見つめられ、俺は少し視線を逸らし、漂わせながら
「帰って来られて良かったね」
と口にした。斉藤さんは怪訝な顔をした。
「…どういう意味だ?」
「深い意味はないよ。墓守をしていた時より表情がすっきりしているし、やはりこっちが居心地が良いんだろう?」
「それは…」
「それに沖田さんの傍にいられるじゃないか」
俺は本当に深い意味はなかった。墓守なんて彼には似合わないと思っていたし、病に伏せる沖田さんを大切に思っているなら新撰組に戻りたいと思うはずだ。けれど斉藤さんは重く受け止めたようで
「…間に合った、という意味か?」
と訊ねてきた。俺は最初は意味が分からなかったが、彼には長く離れている間に沖田さんの病は酷く進行したように見えたのだろう。本音では帰還した喜びよりも、突き付けられた彼の死病という現実を目の当たりにして打ちのめされているのかもしれない。きっと何もかも悪いようにしか捉えられないのだろう。
俺はふっと笑った。
「…考えすぎだよ、風邪だって言ったじゃないか。血を吐いて昏倒したわけじゃないし、眠っているだけだよ」
「…」
「先のことを考える過ぎるのは良くないよ。具合が悪くなる。…ほら、よく言うだろう?『足るを知る者は富む』って。…今、沖田さんは生きていて、斉藤さんはまた会うことができた。とりあえずは明日も、明後日もそれを繰り返すことができる…それをただ喜ぶ、そういう心持ちでいないと」
「…老子か」
斉藤さんは少し肩の力を抜いたように息を吐くと、自然と鞘に巻き付いた組紐に指先を這わせた。無意識の癖になっているのだろう、墓守をしている間にも何度かその光景を見た。
そして遠くへ視線をやりながら、その寡黙な口を開く。
「俺は…子供の時から、人というものは生まれた時から、死ぬために生きているのだと悟っていた。死ぬことへ向かって歩き続ける…そんな人生に何の意味があるのかと父に訊ねた記憶がある」
「はは、可愛くない子供だ」
「ああ。さぞ可愛くなかっただろう。だが、父は幼い俺へ真っ当に答えた。…人が生きた先にたどり着くのは死に違いないが、それは苦しみの死ではなく自然へ還るためのものだ。それはまるで母の懐に還るようなものなのだから、死を厭わず生を貴ぶべきだ、と」
「…」
「同じ老子だ。お前の話を聞いて久しぶりに思い出した」
俺には親はいない。それ故に物心ついたばかりの幼子と父親の会話としては随分堅苦しいと思ったのだが、斉藤さんにとっては大切な思い出なのかもしれない。
「お父上は、幼い息子が怖がっていることをわかっていたんだな」
「ああ。それ以来自分が死ぬことに未練はないが…他人が死にゆくのを見ているのは、歯がゆいものだな」
「…気持ちはわかる」
医者として自分の無力さを実感する機会は何度もあった。いっそ自分の身に降りかかるのならその方がマシだと思えるくらいに心の中が澱み、腐り、最後には消えていく。忘れ去られていく…その繰り返しでこの世界は成り立っている。
「でも見届けるべきなんだよ。見届けすらされない死は、きっとこの世で一番虚しいんだ」
「…」
斉藤さんは何も答えなかった。
俺は曇り空から気まぐれのように降ってくる雪を眺めていた。
地面に薄く積もった雪はこのまま溶けることなく夜を迎えることだろう。





山崎組長の声掛けで広間に集まった俺たちは、近藤局長と土方副長がお出ましになるまで待つように伝えられた。それがいつになるのか分からず、隊士達は身構えていたが、入隊して間もない俺たちは特に落ち着かなかった。
「なぁ、相馬。ついに戦か?」
同じ一番隊の野村が声を抑えつつ興奮気味に尋ねてくる。俺は「黙っていろ」と言いつけて周囲の顔色を窺った。組頭は皆硬い表情で居並び、お喋りな原田先生でさえ口を摘んでいる。その次に揃う島田伍長をはじめとした古株の隊士たちはこの緊張感に覚えがあるのか、表情が引き締まりただ無心に局長たちを待っていた。そわそわと視線を漂わせるのは俺たちのような平隊士だ。
俺は深呼吸し、その時を待つ。時間が経つのがこれほど遅いのかと感じるほどに空気が重たいなか、野村は「なあなあ」とまだ黙らずに俺に囁く。
「お小姓のお子様たちは?」
「…今回の作戦には加わらないと聞いている」
「へえ、お留守番か。武功を挙げられなくて残念だな」
「彼らは仮同志、つまり非戦闘要員だ。たとえ戦が起こっても前線には出ない」
「ふうん、実際戦になってもそんなこと言ってられんのか?」
「…知らぬ」
俺は話を切り上げた。野村は遠慮のないお調子者で気が合わないが、妙に冴えたことを口にすることがあってなかなか放っておけないやつだ。先日の副長の別宅襲撃の時も持ち前の勘を働かせて活躍したことで見どころのある隊士として一目置かれているが、本人はそれを鼻にかけることなく気楽な態度だ。
それが羨ましいような、疎ましいような…俺は複雑だった。
そんなことを考えていると近藤局長と土方副長が広間にやってきて、隊士たちは揃って頭を下げた。局長は普段は柔和だが、今日は迫力のある表情を浮かべており自然と皆も力が入る。
そんな局長の傍らへ控えた土方副長が口を開いた。
「本日、暮れ六ツ、酉の刻。近藤局長の醒ヶ井妾宅にて御陵衛士、伊東大蔵を招き酒宴を催すこととなった。万一に備え、妾宅及びその道中の警備を行う」
野村が「ただの警備か」と聞き流す一方で、ごくり、と誰かの喉が鳴った気がした。野村の言う通りただの警備の任務ならこれほどまでの緊張感が漂うはずはない。それは他ならぬ副長が一番の殺気を漲らせているせいだろう。
副長は強い口調で続けた。
「御陵衛士は我々と協力関係にありながら、薩摩と内通し、土佐の坂本竜馬、中岡慎太郎暗殺犯として新撰組を名指しした。挙句の果てには局長襲撃を計画し新撰組を敵とみなしている。…今宵の酒宴はあくまで時勢を語らうためのものだが相手が何を企てているのかわからぬ。ゆめゆめ油断なきように務めを果たせ」
「ハッ!」
俺は周囲に倣って頭を下げた。近藤局長が「よろしく頼む」と重々しく告げて二人は再び去っていく。
その場はようやく緊張感から解き放たれ、数名の隊士たちが山崎組長に呼ばれた。その者たちは抜きんでて優秀な先輩隊士で、(あの人たちが妾宅の警備に付くのだろう)と思った。俺たちは道中の警備にあたることになるのだろうか。
「なんだか迫力があったな」
そう声をかけてきたのは二番隊隊士の柴岡さんだった。彼は同じ頃に入隊したが、剣の腕に優れ早く昇格していた。総髪が多い新撰組の中で月代を奇麗に反り上げている。
「すでに協力関係が破綻していると聞きます。衛士たちが弓引く可能性は大いにあるのでしょう」
「武功を挙げる良い機会だ」
話に割り込んできたのは、同じく入隊したばかりの三浦さんだ。俺よりも一回り年上の壮年の隊士で、槍をよく使う。柴岡さんとは正反対に乱れた白髪を適当に纏めている。
「武功…ですか。しかしいま、新撰組にとって争いになるのはあまり賢明なこととは…」
「難しいことはわからん。ただ生き延びるまでよ」
「はあ…」
割り込んできたのに俺の話を遮って三浦さんは去っていく。不都合なことに耳を貸さないのは彼の年齢なら仕方ないことだが、柴岡さんとともに顔を見合わせてため息をつくしかない。しかし実際、三浦さんのように入隊したばかりの隊士たちが、ついに見せ場が来たと意気込んでいる姿がちらほら見えた。
(そう簡単なことではないと思うのだが)
俺は野村に視線をやった。彼も三浦さんのように乗り気なのかと思ったのだが、柱を背にして物憂げに考え込んでいるだけだった。その表情はみたことがないほど真摯で様になっていて、俺はしばらくじっと見つめてしまう。
(掴めない男だ…)








解説
なし


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