わらべうた




777 ー春隣6ー


夏の終わり。
僕は太鼓のバチを持って、つまらなそうにそのフチをカッカッと叩いていた。少し甲高い音は周囲の騒がしさに紛れて消えてしまう―――近藤先生の襲名披露は互いの額につけた『かわらけ』を割りあう試合が行われ、盛り上がりも最高潮を迎えていた。
塾頭として太鼓役を言い渡されていた僕は、ため息をつきながら試合の経過を見守っていた。始まりを告げる最初の音くらいまでは皆注目していたが、いまや太鼓の音など雑音と同じで誰の耳にも入っていない。子どものように拗ねてしまった僕に近藤先生は
「おい、総司」
と、太鼓を叩くように促したけれど「だって」とこれじゃあ叩いても意味がないと言い返すと、苦笑するだけだった。
僕はバチさえ手放して近藤先生の隣で見物することにした。天然理心流の門弟が集まり、試衛館の食客たちが率いる…普段は各々が勝手気ままに稽古をするだけで、食客たちの本気の表情を見たことがなかったので、とても新鮮だった。
「やっぱり山南さんと永倉さんは剣筋が整っているなぁ。原田さんは我流だけど皆んなを蹴散らしてる」
流派にこだわらず集まった剣客たちはなぜこんな田舎剣法の貧乏道場に集まってしまったのだろう。
まるで運命に引き寄せられたみたいだ。
「あ、藤堂くんだ」
魁先生の気合が聞こえる。小柄な体のどこからそんな声が出てくるのだろう。竹刀を手にとても楽しそうに駆けまわっていた。

(…ああ、これは夢だ)
僕は気が付いている。これは過去であり、夢であり、幻であり、記憶でもある。まるで死に際の走馬灯のようではあるけれど、恐ろしさよりも懐かしさが勝り、僕は身を委ねることにした。

場面はがらりと変わり、漆黒の夜…懐かしい八木邸の庭に雨が降っていた。鼻腔を掠める血の匂い―――この場所では何人か死んでいるけれど、やはりこれは芹沢先生とお梅さんの血だろう。雨と一緒に僕の腕に伝い、流れていく。
(僕は殺したくなかった)
横暴で、乱暴で、手が付けられないほど我がままで…でも武士として強く振舞う姿が凛々しくもあり頼もしくもあった。嫌がらせも散々受けて憎いと思ったこともあったというのに、殺した後も「殺したくなかった」と思える自分が不思議だった。
でも一方で、僕が殺すべきだという気持ちもあった。芹沢先生もそう望んでいて、僕が選んだのだから後悔はしなかった。
その日から、何もかも始まった気がする。
僕は自分の選択を信じて何人もの敵と同志を殺してきた。
苦しかったこともある。悲しかったこともある。迷ったこともある。
でも太鼓役だった襲名披露の時みたいに、無関係な立場で日和見することはできなかった。僕は先生や土方さんの役に立ちたかったから。

―――にゃぁん
猫の鳴き声がする。
そうだ、芹沢さんを暗殺する前に黒猫が屯所にやってきた。時間を持て余していた時に猫じゃらしで遊んだっけ?それから…そうだ、山南さんの時にも同じ猫が目の前に現れた。黒猫は不吉だとかそんな迷信を信じるつもりはないけれど、あの猫は誰かの死とともにやってきたのだ。
本当は…山南さんを介錯したことだけはまだうまく呑み込めない。藤堂君の前では『自分が殺した』『自分が救えなかった』と毅然と言ったけれど、本当は『僕は殺していない』『介錯なんて引き受けたかったわけじゃない』とどれだけ叫びたかったことか。
でもそんなことは言えない。これは僕が背負うと決めたことだから。
僕が引き受けたことだから。

―――にゃぁん
また猫は僕の前に現れるのだろうか。
運命は、いつも偶然と必然が重なっている。
だからきっとこの先も―――僕らは猫みたいに、気まぐれな偶然に翻弄されるのだろう。





俺が総司の自室に足を向けると、部屋の前に英がいた。英は柱を背にしてもたれかかり書物を手に目を閉じている―――朝早くから呼び出して見張りの真似事をさせているのだ、疲れていて当然だろう。眠る姿にはかつて色香が纏う売れっ子の陰間だった面影は確かにあるけれど、健全な麗しさへ昇華された気がする。
すると彼はすぐに目を開けて俺に気が付いた。
「…ごめん、寝てた」
「謝ることはない。お前は隊士じゃない」
「まあ、そうなんだけど…なんだ、もうこんな時間か」
英は空を見上げて大体の時間を察する。雲に隠れた日の光は薄暗く辺りを照らしている。
「総司は?」
「そろそろ起きる頃だと思う」
「そうか…」
もうすぐ出立の時間だ。俺は総司の顔を見て行こうと思ったのだが、起こすのは本意ではない。躊躇っていると
「腹が減っているだろうから、粥を準備してくるよ」
と英が気を利かせて去っていく。相変わらず察しが良い、賢い男だ。
俺はそれでも部屋に入るのを迷ったが、ここで立ち寄らなければ後悔する気がしてゆっくりと襖をあけて中に入った。火鉢が焚かれた温かい部屋で総司はまだ目を閉じている。俺は起こさないように衣擦れの音まで気を使って、彼の傍に膝を折りその寝顔をのぞき込むと、寝顔は穏やかだったがちょうど目尻から一筋の涙が零れた。
(悪夢でも見ているのか?)
無意識に総司の頬へ伸びた指先を、咄嗟に引っ込めた。そして再び総司の寝顔を眺めることにする。
(俺も悪夢を見ている気分だ)
この数日、事態は急変し続けた。
きっかけはやはり別宅への襲撃で、頭が沸騰したかのように怒りに支配された。そして近藤先生がいまだに狙われていることで早く手を打たなければならないと決意した。そして土佐要人の暗殺犯に名指しされ、美濃へ援軍を求めている…悠長にしている暇はなく、この作戦の決行を決めた。
食客たちが藤堂のことを気にかけているのはわかっていた。けれど、私情に囚われて迷うことは命取りになる。歯向かうものは切り捨てる…それがたとえ昔なじみの藤堂だとしても敵であるのだとそれ以上、考えるのをやめた。
それなのに。
『局長に感謝し、皆には宜しくと言って笑って別れました』
斉藤の話を聞いて
(…俺はまた同じことを繰り返すのだろう)
と愕然とした。
山南さんもそうだった。自分が切腹を言いつけられても、仲間を責めることなく自分の運命を受け入れて微笑みながら去った。藤堂はその場にいなかったが、きっと同じ境地にたどり着いているはずだ。
山南さんの死は皆に痛みを遺した―――また同じ痛みを繰り返すことになるのだろうか。
繰り返しても良いのだろうか?
またあの悪夢を…。
「…あれ…」
「起きたのか?」
総司は目をこすりながら「どれくらい寝てました?」と訊ねる。
「もう夕刻だ」
「そんなに寝ましたか。でも、なんだか…長い夢を見ていた気がします」
総司は体を起こし軽く背伸びをした。また瘦せたが顔色は良い。しかし目は虚ろでぼんやりとした顔をしていた。
「でも不思議なことに、まだ眠たいんです。お腹はすいてますけど」
「英が粥を作りに行った。もうそろそろ戻るだろう」
「さすがお医者様だなぁ、患者の腹の具合まで、なんでもわかるのかな」
総司は屈託なく笑い、俺もつられて口元が緩んだ。
「どんな夢を見ていたんだ?」
「えぇ?そんなことを歳三さんが聞くなんて意外だな。…でもあんまり覚えていないんです、襲名披露の時のことだと思うんですけど」
「襲名披露?」
まさかそんな昔のことだとは。しかし総司は「懐かしかったな」と嬉しそうだ。
「皆は額にかわらけをつけて本気で戦っていたのに、太鼓役だったから参戦できなくてつまらなくて…実は未練が残っているのかも」
「塾頭の役目だったんだから仕方ないだろう。お前もくどいな」
「だって皆、楽しそうだったから」
俺の頭の中にあの時の記憶が鮮明によみがえる。襲名披露という一生に一度の晴れの舞台、誇らしげに中心に立つ近藤先生と、祝いの席に花を添えるべく門下生を引っ張る食客たち…
「…確かに、楽しかったな」
素直に認めるしかない。もしかしたらあの時、あの瞬間は幕臣に昇進した時に勝る、無垢の喜びに満ちていたような気がするのだ。
(これだから、過去を振り返るのは嫌いだ)
仲間を失った…今よりも楽しかった、と思うのは当たり前なのだから。
「あ、降ってきた」
総司が声を漏らす。その視線は庭へ向いていて、降り始めた雪に気が付いたらしい。寒くては体に障るだろうと思うのだが、総司は童心に帰るように「明日には積もりますね」と嬉しそうだ。そしてついでのように
「それで、何かお話があったんですか?」
と訊ねてきた。
「いや…様子を見に来ただけだ」
「そんな深刻な顔で?」
「…」
そんなつもりはなかったのだが、無意識に表情が強張っていたらしい。俺は「もともとだ」と誤魔化すと、総司は「そうですけど」と否定はしなかった。
俺は総司の手を自分のそれと重ねた。温かいが薄く骨ばった指先が病の深刻さを顕しているようで少し胸が痛む。
「…土方さん、ここのツボ知ってます?この間、お加也さんに教えてもらったんですけど、気持ちが楽になるそうです」
「楽に?」
「疲れているでしょ?…きっと御陵衛士のことで大変なんじゃないですか?」
「…」
総司の柔らかな物言いでは詳細まで把握しているとは思えなかったが、俺は罪悪感を覚える。総司は斉藤に『藤堂を助けてほしい』と頼んでいたのだ。
「…お前は気にしなくて良い。明日の朝まで英には付き添ってもらうように頼んでいる…何かあったらすぐに言え」
「土方さんは何か用事でも?」
「ああ…今晩は近藤先生の妾宅に行く」
「わかりました」
総司は何の疑いもなく微笑んだ。俺が近藤先生の妾宅で話し合いをするのは珍しくはないが、この部屋を出れば隊士の多くが出動して屯所が閑散としていることに気が付くだろう。そうなれば勘の良い総司は察するに違いない。
「…お前は新撰組が好きか?」
俺は総司の手を握りながら訊ねた。総司は呆けた顔をしてなぜそんなことを聞くのかと首を傾げた。
「当たり前です。好きじゃなきゃ残りたいなんて言いませんよ」
「試衛館で太鼓を叩いている方が気楽だったはずだ」
「気楽だけどきっと面白くはないですよ。大変なことは多いけど、新撰組は近藤先生と土方さんが作った家ですから」
「…家、か…」
そこまで穏やかな場所だとは思わなかったが、幼い頃に家を出た総司にとっては『家』という響きは大切なはずだ。
(ここがお前の家だとしたら、守るのは当然だな…)
「…お前の傍は温かいな」
総司の隣にいると、どんなに外が寒くても雪が降っていても温かい春の陽気のようなものを感じる。
俺は総司の指を絡ませながら、そのまま首筋に手を伸ばして軽く口づけた。柔らかで火照った唇から伝わる愛しさが、冷たく凍った心を溶かしていくようだ。
(俺は…もう少し、人に戻っても良いのかもしれない)
怒りや憤りはある。けれどそれ以上に情がある…それは人として仕方ないことだ。そんな自分を少しは許しても良いのかもしれない。
そんなことを思っていると英が粥を乗せた盆を持って帰ってきた。俺は「じゃあな」と総司に別れを告げて、英では視線で頼むと伝えた。英は軽く頷いてすぐに医者の顔に戻る。
俺は部屋を出た。するとすぐ近くに斉藤が控えていた。
「斉藤、俺が見届けるから安心しろ」
斉藤は虚を突かれたように一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにいつもの無表情に戻って
「わかりました」
と言った。
俺は彼らに背を向けて、近藤先生の妾宅へ向かったのだった。




















解説
なし


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