わらべうた




778 ー桜蕊1ー


出立の時間になった。
近藤との面会を告げ、意見のある者は自室へ来るようにと話すと藤堂君の後しばらくして篠原がやってきた。柔術を極めた彼は体格が良く、その来歴も豪胆で江戸にいた頃は異国人相手に騒ぎを起こしていた。彼と私はその頃に友誼を結んでいるので彼の性質はよく知っていた。
皆の前では敬語を使うが二人きりになると彼は強気に意見する。
「皆は反対だ。近藤局長は根っからの徳川の家臣…今更、こちらの説得に応じて勤王に鞍替えするなどあり得ぬ」
「…そうかもしれない。しかし今の徳川の長は一橋慶喜だ。近藤は一橋公の手腕には疑問を持っていた。…私は話が通じると思うが」
「絶対に無理だ」
篠原は腕を組み、私を強く見据えた。
慣れない者は怯んでしまうような威圧感を覚えるだろうが、私は慣れている。
「…無理でも応じねばならないんだ」
「では何故一人で行くのだ」
「そういう約束だからだ。互いに一人で秘密裏に会う」
「新撰組がその約束を守ると?数人で待ち伏せされているに違いない。美濃からの援軍を待つためにも今回は断るべきだ」
「断ればかえって争いを招くと言っただろう?」
篠原は矢継ぎ早に強気な意見を投げかけるが、私は応じなかった。篠原は皆の総意だと言わんばかりだったが私を論破できていない。
すると篠原は私の頑固さに盛大なため息をついた。
「やはり、内海を呼び戻して正解だ」
「…呼び戻した?」
「服部と相談して小者をやって引き返すように伝えさせた。もうそろそろ帰路についているだろう。代わりに阿部を美濃へ行かせた」
「…」
予想外の展開に私は驚く。それでも内海は間に合わないはずだが一気に気が急いた。
「…篠原、そろそろ出立の時間だ」
「本当に行くのか?伊東、分かっているのだろう?危険な賭けだ」
「そうでもない。私はうまく行くと思う」
私は敢えて微笑んで余裕を見せると、篠原はもう言葉がないのか舌打ちする。
「…皆で力づくで止めることもできるんだぞ」
「約束を反故にするわけにはいかない。…篠原、皆の心配はありがたく思っているよ。私に何かあったら、皆と薩摩藩邸に逃げ込んでくれ」
「薩摩?まさかそんな話がついているのか?」
「…万が一の時だ」
そこまで周到に立ち回っているわけではなかったが、立場の曖昧な土佐よりも新撰組を厭い手出しさせない薩摩の方が身の安全は確保できるだろうと踏んでいた。
篠原は身の安全を確保できているとわかると、一応は納得したようだった。
「…危険を感じたら引き返す。そう約束してくれ」
「分かった」
私は即答した。そのくらいの約束で了承してくれるのなら簡単だと思ったのだ。
篠原は眉間に皺を寄せて
「俺は戦支度をする」
と厳しい表情のまま去って行った。
私は小さく深呼吸し、改めて文机に向き合った。書き終えた文を丁寧にたたんで花挿しの下に敷いた。
これは文であり、残し置く伝言でもあり、遺言でもある。
菊の花が花弁を散らした。
(不思議と、心が静かだ…)
敵を前に波打つものが何一つない。
篠原たちが言うように危険で勝率の低い賭けに違いないのに、私はまるで少しだけ外出するような心持ちだ。
(内海…どうか、間に合ってくれるな)
私はそう思いながら衣紋掛けの羽織に袖を通して身支度を整える。刀を差して外に出ると身震いがするほど冷たい風が吹き、地面は一部凍っていた。私の吐く息は白い風となって天へ舞っていく。
「先生」
「…藤堂君」
彼はいつからそこで待っていたのか、頬が赤く染まっていた。
「先生、俺もお供します」
「…そういうわけにはいかない」
「近藤先生は俺なら許してくれますし、無茶はしないはずです」
「…」
それは確かに悪くない手かもしれない。私は愚かではない、きっと妾宅には近藤だけでなく少なくとも土方は控えているはずだし、藤堂君を連れて行っても同じ食客なのだからさほど非難されないだろう。
しかし私は首を横に振った。
「君は皆と待っていてくれ。必ず良い知らせを持ち帰る」
「…わかりました」
藤堂君は聞き分け良く頷く。私がそう答えることをわかっていたかのようだった。
そして彼は言った。
「先生、必ずお帰りください。俺、まだ先生に教えてもらいたいことがたくさんあります」
寒さの中で少しだけぎこちなかったけれど、彼は笑った。朗らかな笑みだった。
私は彼の笑顔にいつも罪悪感を覚えていた。心酔する山南総長を陥れ、都合よく利用し、騙してきたのに、それでも信じると言った彼が眩しくて仕方なかったからだ。
この期に及んで、彼に懺悔してしまったのは私の弱さだろう。
けれど今は違う。彼の信頼が嬉しく彼の期待に応えたいと思う―――同志として、君を頼りにしている。
「ああ、必ず」
私は頷いて歩き出す。
月真院の門では衛士たちが揃って見送ってくれた。篠原はいまだに厳しい顔をしていて他の衛士にその緊張が伝わっているようだった。
「行ってくるよ」
私は努めていつも通りに気軽に手を振った。
もうここには戻らないかもしれないなんて、そんなことは微塵も思わなかった。私には私についていくと決めて命の危険を冒してまでともに歩んできた同志がいる。彼らを置いてどこへ行くというのか。
(君達のために私は行く)
月真院を出て踏み出した。凍り始めた土には私の足跡がはっきりと刻まれたのだった。





醒ヶ井にも雪が降っていた。
「伊東さんは来るだろうか」
約束の刻限が迫り、俺は別室で控える歳に声をかけた。歳も手持無沙汰なのか、いつもは気にも留めない細かな刀の手入れを続けていた。
「来ると言ったからには来るだろう。監察からもう月真院を出たと報告が上がっている」
「…気が変わって引き返すかもしれないだろう」
「そうかもな」
歳は聞き流すように適当に相槌を打った。
伊東さんを招くことは孝に伝えているが、当然その内容は伏せている。ただの宴会だと思っている孝は(何故そんなに落ち着かないのか)と言わんばかりに不審がっていたので、ボロを出す前にこうやって歳に吐き出しているのに、相手にしてもらえないと余計に気が急いてしまう。
俺は腰を据えて歳の前に座った。
「…なあ、伊東さんがきたらお孝にはおみねさんとお勇のいる隠れ家に戻ってもらうのはどうだ?」
「ダメだ。お孝には酌をさせる。警戒している伊東を良い気分にして飲ませねえと」
「しかし…」
「安心しろ。伊東が抜かない限りは、この妾宅が修羅場になることはない」
「なら良いのだが…」
俺は深く深呼吸する。
妾宅では数名の監察方と山崎君が目を光らせている。当事者の俺ですら彼らがどこへ配置されているのかわからないが、知りたいとは思わない。歳の采配なら万事上手くいく。気がかりと言えば屯所のほうだけだ。
「…総司には勘づかれなかったか?」
不動堂村の屯所には僅かな隊士と小姓たち、斉藤君と総司を残している。まだ事情のわからぬ小姓たちにはやや大袈裟に「敵襲に備えておきなさい」と伝えたが、総司だけは一切今晩のことを知らせていない。それは総司の体調のことを思えば当然のことだった。きっと耳に入れば刀を携えて現場に駆け込んでくるに違いないのだ。歳も同じ気持ちだ。
「ああ。昔の夢を見たと話していた。襲名披露だとかなんとか…」
「襲名披露か。懐かしいな」
「太鼓役のことをいまだに根に持っていた」
「はは、あの時も随分駄々をこねて嫌がっていたなぁ…」
随分と懐かしい話に俺の気持ちは緩む。
あの時はまさか幕臣にまで出世するなんて思わず、何者でもない自分が何かになりたくて、どう足掻いても何も掴むことができなくて…毎日を懸命に生きていた気がする。
(でもそれは今も変わらないな…)
未踏の地を歩むような緊張感…そして出世し配下を持つ身としての責任感。
(俺はどうしても新撰組を守りたい。たとえ一度友誼を結んだ相手であっても…許せぬことは許せぬ)
長州処分への建白、別宅への襲撃、土佐要人暗殺の冤罪…御陵衛士が新撰組に害をなすのならどんな情もかなぐり捨てて彼らを排除すべきだ。
…俺が少し黙り込んでいると、歳が呟くように言った。
「新撰組は総司にとって『家』だそうだ」
「…家、か…」
それは存外暖かな響きを持っていた。都にやってきて五年ほど、その間総司は一度も帰郷することなく過ごしてきたのだ。総司には帰る場所はそこにしかない。
「俺にとっても同じだ」
俺が応えると、歳は頷いた。
「…とにかく、総司のことは心配ない。英がよく眠れるように漢方を含ませた薬を飲ませているそうだし、いざとなれば斉藤がうまくやるだろう」
「そうか。英君か…彼には世話になったなぁ。もともとお前とは因縁の相手だし、一時は間者の真似事までしていたのに、今や総司の立派な主治医だ。人ってのは変わるよな…?」
俺は暗に平助のことを滲ませつつ、歳に問いかけた。左之助や永倉君には万が一の時は彼を逃がすようにと伝えているが、歳は表面上は約束してくれたもののその気はなさそうだと思っていた。
俺の言葉の意図を察しきっと「馬鹿を言うな」と叱られると思ったのだが、歳は
「そうだな」
と嫌味のない返答をした。
「そうだなって…」
「この計画を遂行する条件は平助を逃がす約束だろう?絶対に上手くいくとは言えないが」
「いや、その…歳は気が進まないのだろうと思っていた」
「まあな…」
歳が何か言いかけたところで、玄関の方から物音がしてお孝が顔を出した。
「旦那様、伊東様がいらっしゃいました」
「…ああ、ご案内してくれ」
そう返答しながら俺は俄かに緊張する。しかし歳は「しっかりやれ」と言わんばかりに俺を見据えた。
俺は重たい腰を持ち上げて部屋を出る。また深い深呼吸をして決意を新たにするのだった。


















解説
なし


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