わらべうた




779 ー桜蕊2ー


伊東が来たーーー。
戦の狼煙が上がったような緊張感は一気に伝播して、近藤局長の妾宅に潜む全隊士が感じ取っただろう。
俺はこの作戦を率いる立場として会談が行われる客間へ一番近い土間に身を潜めていた。俺の存在は妾であるお孝殿も気づいていないはずだが、北辰一刀流と神道無念流を修めた剣豪である伊東なら気がついてしまうかもしれない。そう思うとその気配だけで無意識にごくり、と息を飲み込んでいた。
俺は薄目でお孝殿に導かれ客間に入っていく伊東の姿を確認した。新撰組に在籍していた時と同じ、涼しげで麗しい整った顔立ちだ。しかし我々ほど構えているというわけではなくごく自然で、お孝殿にも丁寧に接し穏やかな様子だった。
(まさか本気で、ただの会談だと思っているわけはないだろうが…)
伊東の真意を図りかねつつ、俺は二人の会話に耳をすませた。
「お寒い中、おこしやす。近藤はすぐに参ります、ゆっくり待っとぉくれやす」
「お気遣いなく。…そういえばお子がお生まれになったそうですね、めでたいことです」
「おおきに。旦那様に似て活発な子で…今日は親戚の家に預けとります」
「そうですか」
…伊東とお孝殿の会話はまるで世間話のように安穏としている。伊東が突然刀を抜き、お孝殿を人質にする…ような野蛮な展開にはならないだろう。
俺は土方副長から今回の作戦を任されて以来、ずっと様々な可能性を考えていた。絶対に失敗できない暗殺…遂行しなければならないという重圧は大きかったが、こうして現場に立ち会って今更ながら、何故こんなことをしているのかという疑問が浮かんだ。
(俺は新撰組に…俺の人生に愛想を尽かしたはずだった…)
弟を新撰組隊士に殺され、戻る家も守るべき家族も失い、何もかもどうでも良くなった。いっそ敵を討ち、命を絶って楽になる方が良いーーーしかしそんな選択を引き止めたのは近藤局長と当時俺の組頭だった原田組長だった。
いま死ぬくらいなら、もう少し先延ばししても同じだろう。
そんな漠然とした結論を受け入れて、俺は惰性で生きてきた。副長の指示で監察へ異動になってから人と接する機会が減って気が楽になったが、仕事を懸命にやらなければならないという気概はない。しかし実際暇でいると悪いことばかりに囚われてしまい、やはり死んで弟の元へ向かった方が楽になれるのではないかと考えてしまうのだ。
その繰り返しは…酷く疲れる。
(何もやらないでいるくらいなら、何かしている方がマシだ)
異動してしばらくすると何故か土方副長に重宝され、暇を持て余すことはなかった。
ひとまず与えられた任務を最低限の労力でこなす。与えられた仕事は最後まで全うする。新撰組隊士ではない別人を演じる…そんな風に過ごしていたけれど、いつの間にか再びこの場所で生き始めている自分がいた。
(死なないように生きるというのは、案外難しい)
「大石」
俺はハッとした。
監察には指折りの隊士がそろっているが、やはり抜きんでているのは元監察である山崎組長だ。今は第一線を退いているが、それでも近づいてくる気配には気づけなかった。
「皆配置についた。伊東は一人や、護衛はおらん」
山崎組長の耳打ちに俺が頷くと、組長はまた暗闇に紛れるように足音なく去っていく。
伊東が一人で来るのは意外だった。緊迫した新撰組と御陵衛士の関係のなか、誘いに応じることすら予想外だったのだが、伊東は素直に一人でやってきた。
(死ぬかもしれないとは思わないのか)
むしろ死んでも良いと思っているのか。
ここに来て伊東にどんな利があるというのか。和解でもするのか、一騎討でも企んでいるのか…結局、なんだかんだと言いながら無駄死にするのが嫌で、新撰組を抜けたのだろうに。
俺は監察に移動になって、様々な死を見てきた。任務よりも情を優先した浅野薫、自論に溺れ破滅した田中寅蔵、道を見失い道化となった武田観柳斎…そして伊東に捨てられた茨木たち。
傍観者として彼らを見送ってきた俺は、だんだんと怒りにも似たふつふつとした疑問が浮かび上がる。
(なぜ死んだ?死ぬことはそんなに尊いのか?)
弟は死にたくなかったはずだ。不本意だったはずだ。
そしてその感情はいつも自分に跳ね返ってくるのだ。
―――死にたかったのはお前だろう?
あてのない堂々巡りは俺の人生のように、続いていく。こんな風に惰性で生きた先に何か答えは見つかるのだろうか。
その時、ギシギシという足音が伊東の待つ客間に近づいていく。俺は再び耳を澄ませた。
「…やぁ、お待たせして済まない」
近藤局長の声が聞こえてきた。






日が暮れた。
俺と内海さんは懸命に駆け続け都にたどり着き、人波をかき分けて月真院を目指していた。
朝から美濃へ向けて歩いた分を早足で引き返す。内海さんの背中だけひたすら追いかけ続けながら、俺は戦国の備中大返しとはこのようなものだったのだろうかと、少し現実逃避のようなことを思っていたが、きっと内海さんはそんな悠長な考えすら浮かばないだろう、とても深刻な顔をしていた。
賑やかな河原町の大通りに差し掛かり、内海さんは急に足を止める。俺は息切れしながら
「内海さ、ん…月真院はこっちの、道で…」
と指さしたが、内海さんはふらりと別の方向に足を向けた。すると急に方向転換したので歩いていた若い娘にぶつかってしまう。小さな悲鳴を上げつつ身体を避けた娘へ、内海さんは「すまない」と謝りつつ
「今は何時だ?」
と訊ねる。その表情は鬼気迫るものがあり、娘はさらに顔色を悪くしながら答えた。
「と、酉の刻…やと」
「そうか…」
内海さんのただならぬ様子を察したのか、娘は逃げるように去っていきその姿はすぐに見えなくなった。
酉の刻は会談の約束の時刻だ。残念ながら兄の出立を止めることはできなかった。内海さんは青ざめている。
「…内海さん、ひとまず月真院で状況を確認した方が…」
「会談の場所は…新撰組の屯所か?それともどこかの旅籠か?」
内海さんは虚ろな表情で呟くと、南へ向かうはずの道を西へ歩き始める。俺は思わずその腕を取って引き止めた。
「内海さん、無謀です!いくらなんでも一人で屯所に乗り込むなど…!」
「大蔵君に何かあったらどうする?!」
…俺は内海さんがこんなにも大きな声で怒鳴るのを初めて耳にした。周囲にいた人々も何事かとじろじろとこちらを見ながら避けるように通り過ぎていく。
俺は内海さんに触れて初めてその腕が小刻みに震えていることに気が付いた。怒りなのか苛立ちなのか恐怖なのか…普段は淡白で感情を顕さない人なので、酷く取り乱していることがわかる。その動揺が俺にも伝わってきたせいか急に兄の身に迫る危険を実感し始め、俺も何とも言えぬ恐怖を覚え始めてしまう。
けれどそんなときに、兄の『頼む』という言葉が鼓膜を揺らした。
「…先日、兄とともに尾張へ向かった際に『回天詩史』を渡されました。自分と同じように熟読して暗唱できるようにと」
「…」
「ご存じでしょうが、冒頭は『三たび死を決して 而も死せず』とあります。死を覚悟しても死ななかった…きっと兄上は同じ気持ちで会談に臨んでいる、そして藤田東湖先生と同じようにまだ遂げていない志があるはずです。兄上はこんなところで…折れるようなことはきっとありません」
内海さんはまだ口を閉ざしていたが、表情には生気が戻り始めているように見えた。
「俺も兄上は心配ですが、まず状況を確かめましょう。もしかしたら他の衛士たちに説得されて月真院に留まっているかもしれない。それに会談の場所も知らないのですから、無暗に動くのは得策ではありません。皆と話し合いましょう」
内海さんの動揺に気が付くと、不思議と頭がさえて冷静になった。そうならなければならないと思ったのかもしれない。
すると内海さんはようやく俺を見て「ふっ」と薄く笑った。
「…こういう時には、君たちが兄弟なのだとわかる」
「え?」
「わかった、ひとまずは戻ろう」
内海さんは俺の提案を受け入れてくれた。俺たちは再び南に向けて歩き始める。
人込みのなかをはらはらと雪が舞い続けていた。









解説
なし


目次へ 次へ