わらべうた




780 ー桜蕊3ー



半年ぶりに見る近藤局長の表情は、いつもの穏やかさと多少の緊張感、そして幕臣に取り立てられたという誇りと貫禄が滲み出ているように見えた。
夫人との挨拶代わりの雑談を終えた頃にやってきた局長は、「酒を頼む」と一旦夫人を下がらせ私の前に腰を下ろした。その距離は一間…新撰組にいた頃と変わらない距離感だった。
客人として招かれた私は畳に手をつき、折り目正しく頭を下げた。
「御無沙汰をしております」
「…半年ぶりだ。招きに応じていただき感謝する。伊東先生のご活躍は私の耳にも入ってきている」
「とんでもございません。新撰組はご立派な屯所に引っ越されたと伺いました。今後もますます飛躍されることでしょう」
私の感情のない空虚な世辞は静かな部屋に流れるただの音でしかないが、近藤局長は微笑んで頷いていた。
そうしていると夫人が酒と肴を準備して膝を折る。大坂の新町で評判の芸妓だった夫人は酌には慣れているようだったが、今夜の宴の意味合いを聞かされていなかったのか私と局長の間に流れる妙な緊迫感にはすぐに気が付いたようだ。けれどそこはやはり一流の芸妓であった彼女は、酌を終えると美しい笑みを浮かべて
「うちはこれで」
と去っていく。近藤局長も「ありがとう」と一言だけ告げて下がらせて、再び部屋には二人だけとなった。
私たちは視線を合わせ、盃を掲げた後に口をつける。毒が盛られているかもしれないと思ったが、近藤局長も同じ酒を飲んでいるのだからその心配はないだろう。私は乾いた喉を潤すためにも飲み干した。
近藤局長は盃を置くと、早速
「伊東先生の考えをお聞きしたい」
と切りだした。
相変わらず率直な人だ。しかし私もその問いに対する答えはすでに準備していた。
「…私はすでに徳川による治世の時代は終わったと考えています。異国の脅威が迫る中で政権争いをしている暇はなく、政権を返上した今こそ速やかに帝、朝廷を中心とした政を始めるべきです。これは上洛前から変わらぬ私の考えです」
「勤皇のお考えは知っている。しかし…薩摩や長州、土佐と親密にされているようだが」
「確かに彼らは脅威です。一度爆発すれば民を二分し、国を焦土にしてしまう爆弾のような軍事力と憎しみを抱えている。ですから彼らを押さえつけるのは武力ではなく、言語であるべきです。私は彼らの考えを知り、それを良い方向に導きたい…そのために彼らと繋がりを得ています。影響力のある志士に帝のもとで団結して国を動かすべきだと説くことが最善だと考えます。決して世に混乱をもたらそうとするものではありません」
「なるほど…美しい話だ」
近藤局長は私の言葉に耳を貸しながらも、距離を置き客観的に眺めているようなそんな表情だった。まるで私の言葉など届いていないかのように。
私はさらに口を開いた。
「いま、都へ向かって西国の兵が集まりつつあります。一橋公の政権返上によって一旦は興が削がれたように見えますが、戦の火蓋は必ず切られるでしょう。…戦になって喜ぶのは西国だけではありません、この国を狙う異国だけです」
「それには同意する。西国に武器を売る武器商人が儲け、異国はこの国を飲み込んでしまう。…しかし、今の帝は幼い。数百年政から離れていた公家が今更舵を取ることができるだろうか?薩長の思うままになるのではないか?」
「公家だけではなく、諸藩の合議制を取るべきです」
「徳川はどうする?排除するのか?」
「徳川がいまだに力を持ち、実権を主張するのならそうすべきです。…しかしそもそも一橋公は政の一切を手放したのですから、そのおつもりだと皆は解釈します」
「それは一理あるが、徳川の領地の民は納得するだろうか?いまだに俺のように徳川の家臣であることを自負している者もいる。会津のような国もある。…安易に徳川を排除すると、結局は伊東先生の危惧する戦が起こるのではないか?」
「…ですから戦を避けるために徳川は全面降伏すべきです。威厳を捨て領地を返納し、諸大名と肩を並べるのが妥当です」
「臣下は納得しない」
私と局長の議論は熱を帯びるが、決してその主張が交わることがない。そもそも幕府を否定する私と、肯定する局長では考え方が違うのだ。しかし局長はどこか楽しそうに表情を緩めていた。
「…なにか?」
「いや…こういう話を新撰組にいた頃に貴方とすれば良かったのかもしれないな。俺は目の前のことばかりが肝要で先のことを見通せなかった…そうしているうちに貴方とは眺める場所が異なっていたのだろう」
「…そうかもしれません。私は理想を掲げすぎたのでしょう」
私は初めて頷いた。入隊時に、ほんの少しでも「分かり合えるかもしれない」と思ったのに、日々の任務に忙殺されて議論を忘れたまますれ違ったのは確かだ。私は参謀というお飾りのまま、何も成しえずに去った。
しかし私にはもう新撰組への情はない。早々に見切りをつけていたのもまた事実なのだ。
近藤局長は酒を口に含み、一息つくと腕を組んだ。そして私を見据えた。
「それで、伊東先生。俺を殺そうと思ったのではないのか?」
「…まさか」
突然の問いかけに私は心のなかで動揺したが、しかしそれも想定していた質問であった。
「総司の居た別宅が襲撃されたが、御陵衛士だったのでは?」
「ああ…斉藤君が死んだと聞きましたからお疑いになるのは当然です。しかし我々の仕業ではありません。彼は幕府や会津、他の仕事も請け負う立場であると聞いていましたから、その筋を探られた方が良いのではないですか?」
私の他人事のような返答に対して、近藤局長は「そうか」と一言口にしただけであっさりと切り上げて
「では、土佐要人暗殺の件はどうだ?」
と話を変えた。
「…新撰組が関わっているのではありませんか?現場では見覚えのある鞘を見かけましたし、刺客は伊予言葉を話していたそうです。私は可能性があると思い、進言したまでのこと」
「残念ながら我々が手を下してはいない。彼らは徳川家の存続に前向きな考えを示していた。殺すわけがない」
「そうでしたか」
私も当然、彼らが暗殺したとは思っていない。ただ新撰組の悪評が巷の噂を後押ししているのだから自業自得でもあるだろう。
そこで突然会話が途切れ、私たちの間に沈黙が訪れた。重たくもない、軽くもない…互いの心の内を探るような張り詰めた雰囲気のなか、口を開いたのはやはり局長の方だった。
「聞きたいことはもう聞いた。…伊東先生、何故今日、ここに来た?」
「…お招きを頂きましたので」
「己の身が危ないとは思わなかったのか?」
「思いましたが、局長とお話ができる貴重な機会だと思いました。…局長は聡い方です、そして広い視野をお持ちだ。今の情勢のなかで本心から、徳川に付くことが有利だと思っているわけではないでしょう」
「…どういう意味だ?」
「貴方には百名ほどの隊士という部下がいる。貴方のさじ加減一つで生きるも死ぬも左右される…慎重にこの先に進む道を見極めるべきです。…近藤局長、もう幕府はありません。大樹公もいない、公方様もいない…貴方がその素晴らしい忠義を尽くすべき相手はもういない。新しい世の中が来るというのに、何故もう無くなったものに執着するのですか?」
「…」
「私は…一度、貴方を信用しました。だからまた信用することもできる。…その忠誠心は国のために、ともに帝のために尽くそうではありませんか」





熱くなる議論の中で伊東先生の目の色が変わる瞬間が何度かあった。
彼のもともとの気質なのだろう、自分の中に曲げられない確固たる信念があり、それを貫く意思と強い姿勢を感じた。そんな彼と対等に議論を交わすことに俺は喜びを感じていた。
もう少し早くこうしてぶつかっていれば。
それは山南さんの切腹が決まった時もそう思っていたが、また同じような感情を抱いていた。この人を失っても良いのか…まだ戻れるのではないか?そうすれば平助だって助かる。
…しかし俺は伊東先生の望みを叶えられそうもない。上辺だけでさえ、同意できない。
「…私も貴方を信用した。無骨な輩が多い新撰組にとって新しい風となってくれるのではないかと、そう期待した。…貴方はとても有能だ。人を導く才があり、先を見通せる学もある。私にないものをたくさん持っている」
俺の本心だった。農民の生まれの俺にはどうしても手の届かない、生まれながらの品のようなものがあって彼は人を惹きつけるのだろうし、知識に基づく実感のある言葉は心を揺さぶる。だから武力に頼るしかなかった新撰組が変わるきっかけになるのではないかと思っていた。
けれどそうではなかった。失望した、とまでは言えないが、俺たちは力を合わせるどころか袂を別つことになってしまったのだ。
「だが…やはり、一度失った信頼を取り戻すのは難しい。また手を取り合ったところで互いを疑い続けてしまうだろう…それでは同じことの繰り返しだ。それは…虚しい」
俺は伊東先生が差し出した手を振り払うように、首を横に振った。
すると伊東先生は少し驚いたような表情を浮かべたが、やがて苦笑した。
「…意外です。近藤局長は再び共に歩みたいと言ってくださると思っていました」
「ハハ、それは私を買いかぶっている。私は…そう心の広い人間ではない。人を信じられないことも、疑うこともある」
「そうでしょうか。私は局長ほど寛大な方を知りませんが…しかし、残念です。徳川と命運を共にしたとしても決して良い道には進みませんよ」
伊東先生は眉を顰めてきっぱりと断言しながら食い下がる。
確かに彼の言う通り、徳川が長州一国相手の戦に勝てず、数百年続いた政権を返上し、一大名となったが、しかしそれですべての責任を放棄して逃げ出すことはできないだろう。薩摩や長州は今にも戦を仕掛けようとしているなか、逃げ腰の徳川に何ができる?
たしかに俺もそう思っている。俺たちの乗る船は大きな荒波のなかに飛び込んで、その行き先をいったいどこへすればよいのかと舵を切りかねている。下船したいと思う者もいるだろう、この船はもう沈没するのだと嘆く者もいるだろう。
しかし俺はこの船の船頭であり、降りることはできない。それは責任感ではない。
俺はゆっくりと盃に手を伸ばした。
「伊東先生。もう、言うも詮無い事だが…公方様は私を側用人として取り立ててくださろうとしたらしい」
「…側用人に…」
「公方様が政権を返上しあっという間に無くなった話だ。だが、私はもともと農民で刀を腰に差すことを馬鹿にされる立場…それなのに一度でもそのような話があった。これは私にとって誉れ高く、無上の喜びだ。こんな喜びと幸福を与えてくださるのは公方様しかいない、私は恩に報いたい」
「…」
「伊東先生のおっしゃる通り、この先は泥沼…忠義を尽くすべき相手の居ない戦いは、命を散らすだけとなってしまうだろうな」
「でしたら」
「しかし、それでも良いのだ。私は公方様に感謝されたくて忠義を尽くすのではない。私が、私のために忠義を尽くすだけだ。…たとえ死んだとしても、それを後の世となった時に惜しい忠義だったと、誰か一人でも思ってもらえるなら、それで良い」
「…」
「そう思えない者は脱退しても仕方ないと思っている。この情勢なら仕方ないことだ。…しかし、だからこそ新撰組には不退転の忠誠心を持つ者だけが残るだろう。そんな我々の行く道を阻む者を俺は許せんのだ」







近藤局長の強い眼差しは、直視できないほどに眩しくて清々しい。

現状を打開するために再び手を結ぶ。
それはこの会談に臨んだ私の唯一の策であった。本心では一度決別したのだから互いをを信用できないが、それも美濃からの兵が来るまでの我慢だと思えば些細な事だ。それに上手くいって彼らが考えを変えて徳川を見限るのならそれもそれで良いだろうと踏んでいた。
けれど、それは私の見通しの甘い希望でしかなかったのだろう。彼らは私の上辺だけの言葉ごときで絆されたりはしない。柳の大木のように風には流されるけれど、そこに在って離れないのだ。例え周囲が焼け、地面が腐り、枯れ果てたとしても。
『惜しい忠義』…まさにその通りだろう。
私はため息をついた。失望のため息でもあり、感嘆のため息でもある。
(ここまでだ)
私の言葉は局長の心には届かない。私がどれほどの大風を起こしたところで、柳の枝を揺らすことしかできないのだ。
「…わかりました。これ以上は申し上げません。やはり新撰組と御陵衛士では考え方が異なります…これからは別の道を行くべきでしょう」
「ああ、そうだな…」
「私はもう行きます」
私は別れを告げようとしたが、近藤局長は
「伊東先生、もう一杯だけ飲んでいってくれ」
と引き止めた。
「別の道を行くのなら、これが別れの酒になるだろう」
「…わかりました」
私は再び腰を下ろし、局長は「お孝!」と夫人を呼んだ。夫人はすでに酒を準備していたらしく、すぐに顔を出してにこやかに微笑んだ。
局長は私の方にやってきて一間の間を埋め膝を突き合せると、自ら徳利を持ち私に酌をする。その姿にほんの少しの憐れみと別離の悲しみを感じ、私は(やはり)と思った。
きっとこれは私の最後の酒になるのだろう。
ほんの少し強い酒を私は一気に煽った。








解説
なし

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