わらべうた




781 -桜蕊4-



俺は近藤先生と伊東の会話を壁を隔てた隣室で聞いていた。
ひりひりと焼き付くような激論と譲らぬ主張、ぶつかり合う本音を耳にして、彼らの覚悟を感じていた。考え方は違っていても、二人の熱量は本物だ。国のために、誰かのために命を散らすという覚悟―――それは正直羨ましくもあった。
けれど、たとえ伊東が土下座して謝罪したとしてももう引き返せない場所にいる。だからこの二人の会談は無意味な芝居に過ぎないのだが、たとえ芝居だったとしても近藤先生は伊東の考えに一切賛同はせず口約束もせず本音で接した…それは近藤先生なりの餞だっただろう。伊東が気が付いているのかどうかはわからないが、俺は伊東を滑稽だと笑うことはできない。
(俺はお前のことが最初から気に入らなかった)
だからいつかこんな日が来ると思っていたし、やっと来たのかという思いもある。新撰組を散々かき回して去った挙句、仲間を連れて去り、恩を仇で返すような真似をした代償を今払わせる―――ただ、それだけ。
芹沢を殺した時と同じだ。
伊東を殺す大義などない。
だだ、伊東は、御陵衛士はいつか新撰組の障りとなる。
だから俺は新撰組を守る……俺たちの家を守るだけだなのだ。
再びお孝が呼ばれ、会談はこれでお開きとなる。俺は再び息をひそめて伊東が別宅を出るのを待った。お孝が玄関先まで見送り、「またおこしやす」と気さくに声をかける。すると伊東は
「ええ、また」
と穏やかに告げた。それがあまりに穏やかで静かな去り際で、薄く積もった雪を踏みしめる音だけが小さくなっていった。
すると大石が足音もなく俺の元へやってきた。大石は妾宅の中で俺と同じように様子を見守っていたはずだ。黒猫のように闇夜に光る瞳に、俺は重々しく告げた。
「やれ」
と。







私は局長の妾宅を出て凍りかけた地面を歩きながら夜空を見上げた。厚い雪雲の間からほんのひと時の夢のように月が眩しく照らしている。刹那の美しい景色との偶然の邂逅を喜びたかったが、そうのんびりはしていられないだろう。
私は耳を澄まし、鞘に手を添えた。ほんの少しの酔いと、身体中を駆け巡る緊張感と興奮を押さえつけて今か今かと待ちわびる。どこに敵が潜んでいるのか探りながら歩を進める。
(私はどうかしているな)
殺されるかもしれない恐怖を楽しんでいる。私の中にある奔放な部分がそうさせるのだろうか。
そして醒ヶ井通から左折し、月真院方面の細道に差し掛かった時だった。
暗闇のなか、右手から襲い掛かる刀槍に気が付き私は身を翻して刀を抜き、払い抜けるように避けた。しかし当然それだけにとどまらず、左手、背後、と二方向から刃は続き私はいくらかの切り傷を負い、足元がもたつきながら振り返った。
そこにいたのは、宮川、横倉、そして大石…近藤直門の隊士たちだ。彼らはここで私を仕留めるつもりなのだろう、顔を隠すことなく堂々と私を待ち構えていた。その面子を見て
「ハハ、確かに…」
私は刀を構えながら苦笑する。
人を信用はできない…近藤の言ったとおり、こういう時に結局は同門の隊士を使うのか。
簡単に人を信用するお人よしだと思っていたのに、心の奥底では自分の弟子たちしか大事を託すことはない。
(私はお前に勝手に期待していたのだろう)
私の憂いも知らず、彼らは次々と襲い掛かってくる。右へ左へと薙ぎ払い、何度もやり過ごす。
さすがに手練れを集めている。私の一太刀が三人のうちの誰かを貫いたが、それで楽になったということはなく、月明かりだけの薄暗闇のなか三人掛かりの襲撃を長く持ちこたえることはできそうにない。
隙を見て逃げ出そうと駆けだすたびに、痛めつけられ足元は血だらけとなり、傷口から血を吹き出しながら私はただ無我夢中で刀を振るうだけだった。
いつまで持ちこたえたとしても、助太刀が来るわけでもないのに。
そしてついに、
「ぐっ!」
私は寺社の前で脇腹を刺され、その場に片膝をついてしまった。力が入らず立ち上がることができない…それでも必死に刀を振り回し致命傷を避けようと奮闘するが、身体中の痛みは次第に強く、広くなっていき、身体のあちこちが力尽きていく。言うことを聞かなくなってしまう。
そんな私の目の前に大石が悠然と立った。
「この…奸賊めが…!」
私は憎々しく蔑む。
大石がまるで私のことを見ていない無表情のままその手を振り上げた時、「待て」と声がかかった。大石たちが道を開けてやってきたのは…原田と土方だった。彼らは厳しい顔でその場にうずくまる私を見下ろしていた。憎悪を込めた眼差しを隠すことなく。
私は息も絶え絶えだったが、少し安堵した。平隊士にすぎない大石ごときに殺されるよりもましだと思ったのだ。
すると原田が槍を構えた。
「…俺ァ、普段から自分のことは快活だって思ってるんだがな、やってもないことをやったと言われるのは我慢ならねぇし、俺の家族を狙ったのなら許さねぇよ」
原田は苛立ちながら吐き捨てる。なるほど、彼には私を殺す理由があるのだと妙に納得した。
(やはり近藤を狙わなかったのが悪手だった)
私は後悔ではなくまるで他人事のように自分のことを俯瞰し、薄く笑いながら「土方」と隣にいた彼を呼んだ。彼は返事すらしなかった。
「私を…好きに、殺せば良い。ただ…衛士、たち…手を出すな…」
こうなることが分かってのこのこやってきた私は、殺されても仕方がない。近藤に一筋の望みを持ち、期待して、説得できるはずだと過信した故の過ちであり、この結末を予期していなかったわけでもないのだ。避けることができた運命だったが、避けない道を選んだのだ。
だから賭けに負けたのは私だけ。屯所に残った衛士たちに何の罪があるというのだろうか。
土方は何も答えなかった。その代わり、「原田」と彼の背中を押してその手に握る槍が躊躇なく振りあげられた。
私は目を閉じた。ゆっくりと首を垂れてせめて穏やかに逝きたいものだと思った。

母は私が死んだと知れば発狂するだろうか…いや、もう私に執着などないはずだ。
父は少しは驚くだろうか。あの無表情で寡黙な父と今度こそ深く話をしてみたいものだ。
弟は…また路頭に迷ってしまうのだろうか。世渡りが下手な弟がどうにか幸運に恵まれるように願うだけだ。
そして
(内海…)
と呼んだ。
彼のことを思い出さないようにしていたのに、こんな土壇場になると彼の顔しか浮かばない。
瞼を閉じればそこにいる彼へ、私は呼びかけた。





―――やはり、私は君の恋人にはふさわしくないな。
君のために生きられなかった、君を怒らせてしまった、そして今から君を泣かせてしまうだろう。なんて不甲斐なくて情けないのだろうか。
でも、申し訳ない。
こんなことになるのなら、思いを通わせなければよかった…なんて微塵も思わないのだ。
君を苦しませるだろうけれど、少しの間でも君の特別な存在になれたことを嬉しく、誇らしく思う。
有難う。
君が与えてくれるものは、いつも私には得難いものばかりだった。

だから、頼む。
衛士たちを頼む。
これが私の最後の頼みだ。


でも願わくば…。







俺は大蔵君の残した文を読んで絶句していた。

鈴木君とともに月真院に駆け込むと、戦支度を終えた兵のように俺たちを待ち構え、大蔵君を案じる衛士たちがいた。彼らに事情を聴き、(なぜこんなことになった)と頭が沸騰するような気持ちで
「すぐに醒ヶ井へ行く!」
と宣言した。衛士たちも覚悟を決めて身支度を整えるなか服部君が「待ってください」と俺の元へ文を持ってきた。大蔵君の部屋で見つけたという文には『内海へ』と書いてあった。
「これが一輪挿しの下に…!」
「…一輪挿し…」
「伊東先生のことです、何らかのご指示があるのかもしれません!」
数日前、鈴木君からもらったという一輪の菊を飾っていたものだろう、と察する。衛士たちは何らかの期待を込めて注目したが、俺は何だか嫌な予感がして仕方ない。恐る恐る文を開くと、命を賭して戦場に向かうという熱が、まるで冷や水を掛けられたかのように沈んだ。それは命令でも指示でもない、そこに書かれていたのは紛れもない遺書だったのだ。
近藤局長から会談に招かれたこと、何かの罠だとわかっているが応じることにしたこと、美濃へ行かせたのは俺と鈴木君を守りたかったのだということ、そして…俺を思う言葉が最後に記されていた。
俺は徐々に身体の力が抜け、その場に崩れ落ちた。
衛士を頼む。
その言葉で俺は立ち止まり、何もできなくなってしまう。彼らと死を覚悟して醒ヶ井に襲撃したところで、きっと大勢が待ち構えているだろう、返り討ちにあっておしまいだ。そんなことを大蔵君は微塵も望んでいない。
彼の最後の願いを無碍にできない。
「……皆、待機だ…」
「内海!」
「どういうことです?!」
事情が分からずに殺気立つ衛士たちに俺は
「言うことを聞け!!」
と怒鳴る。普段、無口な俺が突然声を荒げたので彼らは一気に怯んだ。
俺は困惑する衛士たちを残して広間を離れ、大蔵君の部屋に足を踏み入れた。そして一輪挿しが置かれている机の前でもう一度文に視線を落とした。
決して口にすることはない、大蔵君の素直な思いが書き連ねてあり目に涙が滲み、俺はその場で項垂れた。
「…君は、大馬鹿者だな…大蔵君…」





でも願わくば…。

私も、君の待つ春の日差しのような家に帰りたい。


















解説
なし

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