わらべうた




782 ー帰花1ー


―――誰かが泣いている。

「沖田君」
僕のことをそう呼ぶ人は少ない。柔らかく温かな声色は聞き馴染みがあって、親戚のような距離感…そんな人は一人しかいない。
「なんだ…山南さん、やっと夢に出てきてくれたんですか?」
僕が振り返ると、両手を袖に入れて悠然と佇む山南さんの姿があった。
彼が死んでから、幾度となく悪夢の欠片のように彼の最期の姿が見えたことがあったけれど、山南さん本来の姿と相対するのは初めてだった。
ここがどこだとか、今がいつだとか、そんなことはよくわからないし、今はとてもどうでも良い気がする。曖昧で、非現実的だがこうやって山南さんと再び会えたことが嬉しかったから。
「…ってことは、もしかして?」
「違うよ、君がこっちに来るにはまだ早い」
「はは、そうですか。…そちらはどうですか?」
「悪くないよ」
山南さんが微笑んだ。それが本音かどうかはわからないし、ただの願望に過ぎないのかもしれないけれど…僕はなんだか安心した。
けれど山南さんは次第に神妙な顔をした。
「…私は心配なんだよ。君のことも、藤堂君のことも」
「私は大丈夫ですよ」
「うん…君には仲間がいる。家族も、友人も、君を支えてくれる…でも藤堂君はどうだろうか?彼はずっと私の亡霊を追いかけているような気がする。だから申し訳ないと思うんだ、私が死を選んだせいで…」
「違います」
僕は山南さんの言葉を遮って否定した。
「山南さんが切腹したのは山南さんの選択だけではなく…皆が等しく、責任があると思っています。藤堂君が出て行ってしまったのも同じです。彼が望むように手を差し伸べられなかった…それは皆の責任です。本人や誰か一人のせいじゃない」
僕は本心からそう思っていた。
あれから数年がたち、山南さんを切腹させたという痛みをいまだに思い出すことはあるけれど一人で背負うのはやめた。一人で背負わなければならないと気負うのは傲慢な間違いで、皆で分かち合えばよかったのだと気が付いたのだ。
山南さんは少し呆気にとられた顔をしたが、その後に笑って
「君は大人になった」
と言った。
「そうですか?」
「うん。あ、もちろん褒めているよ。何もかも自分のせいだと思い込むのは私の悪い癖だ。…生きているときに君が今言ったことに気が付けたなら、私も違う運命を辿っていたのかもしれない。だから、藤堂君にも気が付いてほしいな。皆がまだ仲間だということを」
山南さんは僕から目を逸らし、遠くを見つめた。その視線を僕が追いその先には何もないことに気が付いて視線を戻すと山南さんはもういなくなっていた。








日が暮れた。
待機を命じられた隊士たちは屯所の広間に集まっていた。今か今かと姿勢を正し出陣を待っていたのは最初だけで、二刻経つ頃には次第に気が緩み、各々自由に武具の手入れや談笑、読書、碁、将棋に興じ始めた…のは仕方ない事だろう。何も隊列を組んで待っていろと命令されたわけではないのだから。
「相馬、せめて足崩したらどうだ?」
胡坐をかいて書物を読んでいた野村が俺を揶揄う。俺は刀の手入れに勤しんだ後は静かに瞑想していたのだ。
「…別に、俺は困っていない」
「こっちが困る。お前がそうやって優等生ぶってるせいで俺が何をしてても手を抜いているように見えちまうだろう?」
「そんなことは知らない。…お前は何を読んでいるんだ?」
「あ、これか?読むか?」
普段、書物を読む姿なんて見たことがなかったので野村がそうやって時間を潰すのは意外だった。いったい、どんな軍記物に熱中しているのか、と借りてみるとすぐにその中身を理解してカッと自分の頬が赤くなるのを感じながら手を離した。
「なっ!艶本じゃないか!」
「そうそう、原田先生に借りたおすすめのやつ」
「お前、こんな時に…!」
例え手持無沙汰だとしてもこんな時に艶本を読んでいるなんて、と俺は心底呆れた。しかし野村は「こんな時だからさ」と悪びれもなく本を拾い上げるとぺらぺらとめくる。刺激的な挿絵も彼は平気そうに眺めていた。
「今から何が起こるのか知らねぇけど、死ぬかもしれねぇんだろう?だったらこの世に未練なくやりたいことはやっておきたいじゃねえか」
「やりたいって、艶本を読むことが??」
俺はため息をつくと、野村は「ははん?」と目の色を変えて俺をまじまじと見つめた。
「…なんだ?」
「いやぁ、さては相馬は生息子だな?」
「…くだらない話をするなら話しかけるな」
「くだらなくねぇよ。さっきも言っただろう?死ぬかもしれねぇんだぞ、生息子のまま死んでいいのか?」
「いい加減に…!」
いい加減にしろ、と怒鳴りかけたところでバタバタと周囲が騒がしくなったことに気が付いた。それまで思い思いに暇をつぶしていた隊士たちが一気に集まり姿勢を正す。俺は野村の艶本を取り上げて隠し、(ついに)と興奮し胸が高鳴りながらこぶしを握り締めたのだが、そこに姿を現した原田組長の姿を見て一気に頭が冷えた。
原田組長は血塗れで、槍を持ったまま広間に現れたのだ。普段の明るく快活な姿とは異なり、獲物を仕留めた野獣のように熱り立っている―――その姿を見て隊士たちは皆息をのんだ。
続いてやってきた永倉組長が神妙な顔で口を開く。
「御陵衛士、伊東大蔵を殺した。その骸は油小路七条の辻に放置し、これを餌にやってくるであろう御陵衛士を殲滅する」
永倉組長の命令をすぐに飲み込める者はここにはいなかっただろう。伊東大蔵という人物を知らない俺でも、元新撰組の参謀で、御陵衛士の頭だということはわかっている。いがみ合っていたとしてもその者を殺し、残酷にも骸を路上に放置して餌とする…そんな非道な作戦だったなんて。
(あまりに惨い…)
俺は青ざめ、周囲の隊士も動揺を隠せていない。しかし永倉先生の淡々とした物言いや、実際に伊東大蔵に手を下したであろう原田先生の迫力を目の前にすると当然誰も何も言えるはずがない。皆が目を泳がせて、返答に困るなか
「戦だな」
俺は野村がそうつぶやいたのを耳にしてハッとした。彼の横顔を見ると、いつになく精悍な眼差しで前を見据えている。
(そうだ、野村は…ずっと、死ぬかもしれないと言っていた)
茶化しながら艶本を手にしていたせいでそちらに目が向いてしまっていたが、彼はずっと戦支度をしていた。誰よりもこの状況を理解して『死に支度』をしていたのではないか。それが艶本を読むことだったという点は感心できないが、彼の心構えはこの場にいる誰をも凌駕していたのではないか。
「ここにいる皆は上役の指示に従い、それぞれ近くに身を潜めその機会を待て…必ず、俺と原田、井上組長の指示に従え。良いな!」
「ハッ!」
永倉組長の発破に隊士たちが応じる。半分以上は「そう答えるしかない」という雰囲気だったが、やはり島田先輩のような古参隊士たちは眼差しが異なる。
(俺はまだまだだ)
そんなことを思いながら、鞘を強く握りしめたのだった。







日が暮れた。
「内海の奴、どういうつもりだ!」
苛立った篠原さんが声を荒げる。
伊東先生が屯所を出て二刻、内海さんが帰ってきて一刻…時間だけはあっという間に過ぎて行く。
衛士たちは内海さんが戻れば伊東先生の応援に向かうつもりだったが、その肝心の内海さんが待機を命じて部屋にこもってしまった。きっかけは伊東先生が残した文のようだが、衛士たちにはその内容は知らされないままだ。どんな命令が書いてあったのか…篠原さんのように期待を裏切られたと苛立つのは当然で、皆は「これからどうするべきか」と議論を重ねていた。
俺は腕を組み、いろいろなことに思いを巡らせる。
(斉藤さんがわざわざ教えてくれたのだから、伊東先生に何かあったのは間違いないだろう)
俺は伊東先生と最後に話した時に、すべて打ち明けるべきか少し悩んだ。斉藤さんの話は『聞かなかったことにする』と約束したものの、伊東先生の命が狙われているのだから約束を反故にして引き止めるべきではないのかと。
でも、先生はすでにすべてご存じのように思えた。新撰組が何を意図して先生を呼び出したのか…賢い先生なら気が付くのは当然で、それでもその道を選ばれたのだ。
(山南さんもそうだったのかなぁ・・・)
そう思うと、伊東先生を引き止められなかった自分と、山南さんの切腹を防げなかった皆は同じだったのではないか。
(いよいよ俺には、皆を糾弾する資格なんてなかったんだな)
と自分に呆れるしかない。
すると議論に加わっていた加納さんが重い口調で提案する。
「…ひとまず状況を知るべきだ。皆、どうだ?…橋本に様子を見に行かせるというのは?」
俺と同じように押し黙って輪に加わっていた橋本君に皆の視線が集まった。彼は表情一つ変えずに「構いませんが」と答える。間者として陸援隊に潜入し、混乱に乗じて御陵衛士に戻っている彼は、人が変わったように無口になっていた。
場を仕切る篠原さんと加納さんは伊東先生と出会う前からの知り合いで互いの考えを熟知している。加納さんは篠原さんを宥めるために提案したのだろう、篠原さんは「そうすべきだ!」と強く同意したため、橋本君が様子を見に行くことになった。
俺は咄嗟に
「俺も行っても良いですか?」
と手を挙げた。皆は怪訝な顔をしたが、
「待ち伏せされているかもしれないのに一人で向かうのは危ないでしょう?それに、たとえ新撰組に見つかっても片方だけなら逃げ出せます」
もっともらしい理由を話すと、加納さんは理解を示してくれた。篠原さんは「好きにしろ」と投げやりな様子だ。
俺は橋本君に「行きましょうか」と声をかけて、そのまま屯所を出て行った。
凍てつくような夜風が流れていた。

















解説
なし

拍手・ご感想はこちらから


目次へ 次へ