わらべうた




783 ー帰花2ー


―――まだ、どこかで泣き声が聞こえる。


彼女は薄紫色の着物に身を包み、そこに佇んでいた。いつからそこにいたのかよくわからない。
「随分、ご活躍で」
懐かしい再会を彼女は喜んでいるように見えた。僕は彼女ほど朗らかで美しい笑みを浮かべている女子を見たことがない。上辺だけでなく心の美しさを映し出すような表情につられ、僕も顔が緩む。
「ええ、おかげさまで」
「ふふ、謙遜せぇへんのやね」
「だって君菊さんも良く御存じでしょう?」
「ほんま、死んでもご近所さんやったからね。全然、静かに眠らせてくれへん」
君菊さんのお墓は西本願寺にあって、彼女がそこへ葬られたあとに移転が決まった。偶然なのだろうけれど、僕はずっと彼女に見守られているような気がしていた。
「でも本当に、君菊さんのおかげです。池田屋で武功を挙げなければ新撰組はここまで出世しなかったでしょう。皆貴方には恩を感じています」
「ふふ…せやけど恩を売りたくてそうしたわけやあらへん。…うちはただのきっかけ、あとは皆さまの才覚と運とめぐり合わせやと思いますえ」
君菊さんは謙遜ではなく、本気でそう思っているようだった。
彼女は膝を折り、そこに咲く白い花を摘んだ。山南さんの時と同じように、ここかどこだとかそんなことはまるでわからないけれど、彼女の慈愛に満ちた優しい空間であることは感じ取ることができた。
僕は夢だとわかっていてももう二度と会えない彼女へ、どうしても伝えたいことがあった。
「私は…ずっとあなたに謝りたかった。あなたは部外者で、死ぬ理由なんて何一つなかったのに…新撰組に関わったせいでこんなことになってしまった。感謝しているけれど、同時に申し訳ないと思っています。土方さんもきっと…」
「総司さん、それは違いますえ。さっきおっしゃってたやろ、すべての責任が自分にあるなんて考えは傲慢やって」
君菊さんは頭を下げた僕に近づいて、先ほど摘んだ白い花を僕に持たせた。そして僕を真っすぐに見据えた。
「廓のおなごは、たいてい早死にする。年季も明けないまま、不自由な暮らしを強いられて何らかの病で息絶える。…せやけどうちは、自分の好いた男の腕の中で逝けた。少し痛かったけれどそれがどんなに幸せなことか」
「でも…」
「土方さまにもお伝えしてな。なぁんにも、謝ることなんてあらへん。御出世されてご立派になられて、いい男になられるたびにうちはあんさんのために働けたことを誇らしゅう思うてます。それに明里や君鶴のこともお世話してくれはって、おかげでうちには何にも未練があらへん」
君菊さんの言葉にはいつも嘘がなくて、清々しい。僕はこれほど美しくて強いおなごに会ったことがない。
彼女の指先が急にゆらゆらと揺れて、その姿の輪郭だけを残して眩しい光に包まれていく。もうお別れなのだろうか…僕は引き止めたかったけれど、
「これからも、お幸せに」
彼女はそう言い残すと、あっさりとそのまま消えて行った。
僕は嬉しい言葉を与えられるままで、何も彼女に伝えられなかったことを少し悔いたけれど、結局これは僕の夢なのだから彼女は何もかもわかっているのだろう。
僕の手元には彼女から渡された白い花が残る。
(これは僕の贖罪の旅なのかな…)
振り返った場所には誰もいない。山南さんも、君菊さんも。そして視線を戻し前を向くと、大きな背中が見えた。
それが誰なのか…僕にはわかる気がした。







伊東先生が去った少し後、歳が戻ってきた。険しい表情のまま俺の前に腰を下ろし
「死んだ」
と端的に口にした。その報告を聞いて、俺は落胆するような安堵するような、複雑な気持ちを抱いたがいまは感傷に浸っている場合ではないだろう。
「そうか…皆は無事か?」
「横倉が一太刀浴びて負傷した。命に関わるほどではないと思うが…」
「さすが北辰一刀流と神道無念流を修めた剣豪だな、こちらが無傷では済むまい。…ご苦労だったと伝えてくれ」
「まだ終わっていない。伊東の骸は予定通り七条油小路の辻に放置させた。…おそらくそのうち町役人に見つかって月真院に知らせが届くだろう。…朝になるまでに引き取りに来ると良いが」
「…そうか」
伊東先生の骸は御陵衛士を引き寄せるための餌となる。
今更、惨い作戦だと口にするつもりはない。歳の作戦に同意した時点で俺も加担しているのだから、非難は引き受けよう。
歳はその場にあった白湯を一気飲みして長めに息を吐く。そして呼吸を整えるように沈黙した後、
「戻る」
と立ち上がった。まだ作戦は終わっていない…歳の表情には隠せない緊張感が漲っていた。
「俺も行こうか」
「馬鹿を言うな。すべて終わるまでお孝とここで待て…大将はこういうことに関わるべきじゃない」
「…芹沢先生の時もそう言ったな」
「ああ…そうかもな」
あの時も、俺は宴会場に残って歳や総司、左之助、山南さんにすべてを任せて待っていた。その心境はあの時と似ているような気がした。
歳は長話をしてる暇はないようで「じゃあな」と背中を向ける。俺はただ「気をつけろ」と言ってその背中を見送った。ガタガタと慌ただしく出て行った歳の足音が聞こえなくなると、かわりにお孝がやってきた。事情を知らないお孝だが何となく場の緊迫感は感じて取っているのだろう、俺の顔を見るや
「酷いお顔」
と少し揶揄するように口にした。俺は「そうかな」と自分の頬に触れたが、確かに強張っていて手の感触を感じないくらいだ。
お孝は熱燗を手にして空になった盃に酒を注いだ。
「哀しいことでも?」
「…哀しくは、ないさ…」
俺は熱い酒を口に含み、ゆっくりと目を閉じる。
哀しいとか、苦しいとか、俺がそういう言葉を使うのは間違っている気がした。俺は最初から伊東先生を殺すつもりで招き、彼の話を最期の言葉だと思って受け取った。そして殺した―――敢えて言うなら、この胸の痛みは罪悪感だろうか。
「ただ…もうこういうことは、最後にしたいと思っているだけだ」
もう二度とこんな思いは御免だ。
お孝は「そう」とそれ以上は何も訊ねずに、おもむろに俺の隣で繕い物を始めた。お勇の小さな着物を縫う姿は、俺の穏やかな日常でありふれた家族の光景だ。
(そうだ、俺の守りたいものは…家族だ)
お孝とお勇のことでもあり、江戸に残しているおつねとおたまのことでもあり、新撰組のことでもあり、食客たちのことでもある。俺には守るべきものがたくさんあって、どれも等しくかけがえのないものだ。
俺はいつも通りの日常を過ごすお孝の隣で、静かに酒を飲み続けたのだった。





凍えるように寒い夜だ。
俺は厚着をして月真院の正門を出て、先に待つ橋本君に合流した。彼が手にした提灯の明かりを頼りに坂を下る。
「雪、もう降っていないみたいですね」
「はい」
「まだ寒いけど」
「はい」
「あ、雲間から月が見えてきました。今日は満月ですかねぇ…いや、少し欠けているかな」
「はい」
…橋本君は同じ相槌を繰り返している。それは面倒だからではなく、俺の話があまり耳に入っていないような感じで、むしろ俺の方がこんな時に暢気な奴だと思われているのかもしれない。
それからは口を閉じて歩き、しばらく坂を下りきって祇園の町にやってきた。寒さのせいか人通りは少なく、静かな夜を迎えていた。
「藤堂先生」
橋本君が突然、俺を呼んだ。
「俺は…陸援隊から呼び戻されてこの数日、できるかぎり客観的に状況を見てきました。伊東先生の理想は素晴らしいですが、高望みが過ぎます。御陵衛士としての立場も実力も伴わないなかで、新撰組と張り合うなど自滅行為です」
「…はっきり言うなぁ」
「時期尚早だったのだと思います。ですから正直、会談に臨んだ伊東先生がご無事であるとは思えません。…藤堂先生も同じお考えなのではありませんか?先生はずっと篠原さんや加納さんの議論に加わらず俺と同じように一歩引いて達観されているように見えました」
「…」
俺は肯定も否定もしなかった。
伊東先生が生きていてほしいと思うけれど…斉藤さんから警告されていたこともあるし、橋本君の言う通りこの先が厳しい状況であることは想像できるのだ。それを承知の上で先生を見送った俺が篠原さんたちの議論に参加するのは、後ろめたくて黙り込んでいただけだ。
橋本君は遠慮なく続けた。
「俺は生き残りたい。そのために新撰組、御陵衛士、陸援隊…渡り歩いてきました。だから、これからもどんなに無様でも生き延びるつもりです。ですから…」
橋本君は突然足を止めた。そして俺へ提灯を渡して頭を下げた。
「ここで、お別れさせてください」
「…そうか、うん…橋本君の選択も悪くないと思う」
彼の考え方なら、これ以上関わり合いになりたくないと思うのは当然だろう。新撰組のように脱走を禁ずる法度があるわけでもないのだから、ここで御陵衛士を去っても引き止められない。それに彼への怒りはなく、彼自身が決めた選択を受け入れたい、と思えた。
「篠原さんたちには適当に言い訳をしておくから、君は思うようにしたらいい」
「…恩に着ます」
「ちなみにあてはある?故郷に戻るとか?」
何の気なしに訊ねてみると、橋本君は深刻な顔をして
「…行きたいところがあるんです。待たせているので…」
と答えた。それがどこなのか、誰が待っているのか気になったけれど…もうここでお別れなのだからこれ以上深入りされるのを望まないだろう。俺は「わかった」と話を切り上げた。
橋本君はもう一度、深々と頭を下げてそのまま背中を向けて反対方向へと小走りで去っていった。その姿が闇の中に消えていくのを見送って、俺はまた歩き始めた。

祇園を過ぎ静かな大通りを抜けて、新撰組の管轄である見慣れた光景を横目にひたすら歩き続ける。静まり返った町並みはよく知っている場所なのになぜか不気味に見えて、だんだんと足取りは重くなっていく。一歩一歩踏み出すたびに嫌な予感は募り…それでも橋本君から受け取った提灯で足元を照らし、ジャッジャッと土と水と氷を踏みしめるように歩いた。
そして五条を通り過ぎ、会談場所である醒ヶ井までもう少し…油小路に差し掛かった時だった。
「お待ちくだされ」
低く、小さな声だったが静かすぎる夜にはよく響く。俺が足を止めて声がした方向に提灯をむけると、そこにいたのは伊東先生が廣島で拾ってきてよく使っていた小者だった。
「この先はだめじゃ。新撰組が待ち構えとる」
「…伊東先生は?」
「死んどる」
「…」
小者のあっさりとした物言いで知りたくはなかったが、俺は(やはり)と思う反面、やはり心に穴が開くような大きな落胆を感じていた。目を伏せて唇を噛む。
(先生…やはり先生はこんなところで死んでいい人じゃなかった)
先生の素晴らしい才能と巧みな弁舌があればどんな時代でも躍進できたはずなのに、どうして生き急いでしまったのですか?
こんな結末になってしまうのをわかっていて、どうして一人で行ってしまったのですか?
俺の心は引き裂かれそうな痛みを覚える。自分のせいだという気持ちもある。そんななかでどうにか
「…先生のご遺体は…」
と訊ねると、小者は険しい顔をした。
「奴ら、引きずって油小路の大通りに放置しおった。さっき役人が見つけて悲鳴上げとったわ」
「引きずって…放置?なんで…そんな真似を…!」
「あんたらを誘き寄せるためじゃろ」
俺は哀悼の気持ちから自分の心が一気に冷え切るのを感じ、先生がそんな惨い扱いを受けたと想像するだけで愕然とした。
先生が真正面から新撰組に相対し、志半ばで倒れてしまったというのなら受け止めるべきだと思っていたのに…どうしてそんな残酷な真似ができるのか。たとえ敵対していたとしても二年、ともに暮らした同志ではないのか…!
俺は拳を握りしめ、身体中が震えるのを感じた。深い悲しみと激しい憤りがまるで大波のように身体中からせりあがってくるようで、呼吸すらままならない。
新撰組の、近藤先生の、皆の考えが理解できない!
(こんな酷い扱いを受けるのなら、やっぱり先生をお引止めすべきだった…!)
自分への怒り、そして何よりかつての仲間への不信感が爆発する。
死者の骸を利用するなんて、先生の尊厳を汚す行為に他ならない。どんな理由や言い分があっても絶対に受け入れられない、吐き気がする!
「…俺は馬鹿だった…!」
大粒の涙が流れた。
悔しくて仕方ない。
信じたかった。向かう道は違っても、根っこの部分では分かり合えるって。俺たちはずっと仲間だってそう思っていたかったのに。
(絶対に許さない…)
俺は小者に背中を向けて踵を返した。
もう心は決まった。
先生の無念を晴らす。
(先生、すぐに迎えに行きます…!)


















解説
なし

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