わらべうた




784 ―帰花3―


―――なぜ、泣いているのだろう。


「恨んでいる。恨んでいるに決まっているだろう?あの時の痛みはよく覚えているんだ、容赦なくやりやがった」
唸るような低い声と鋭く射貫く強い瞳。片膝を立ててドカッとそこに腰を下ろした姿は、相変わらず威厳があって常人には近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
「あの夜、宴の時からお前たちの様子がおかしい事には気が付いていた。だから待ち構えていたんだ…死ぬつもりじゃあなかったし、負ける気もしなかった。お前はとにかく、あとは雑魚ばかりだっただろう?切り抜けられると思っていたのにな…机なんかに躓いたのが運の尽きだよな」
つらつらと恨みがましく言いながらも、言葉はからりとしていてその語尾では人を揶揄う。相変わらずの言い草に僕は苦笑するしかない。
「…でも、私は謝りませんよ。芹沢先生」
僕は彼の前に膝を折って正座した。芹沢先生は僕をまじまじと見て
「謝ってほしいなんてこれっぽっちも思っちゃいねぇよ」
と笑った。
これは僕の夢だから、僕の願望の現れなのだろう。だとすれば僕は芹沢先生に会って何が言いたかったのだろう。
(自分でもよくわからないけれど…芹沢先生を殺したことがすべての始まりだったんだ)
「いや、殺したことで始まったわけじゃねぇ。たとえ殺せなくとも殺すことを決めた時から、お前の道は始まったんだ」
何も言っていないのに芹沢先生は僕の心を覗き見たように答える。やっぱり夢なのだと思いながら、僕は先生の言葉に耳を傾けた。
「鬼だとか、修羅の道だとか…お前たちはそういう風に格好をつけて言うが、結局はお前の選択の連続だ。俺を殺す選択をした、仲間を見捨てる選択をした、幕府に付く選択をした…それが道になった、それだけだろう?お前たちはいつも大袈裟で自分を買いかぶりすぎる。所詮人は人でしかない」
「…」
「その道が他人からどう見えるか…そんなことを気にしても仕方ねぇ。お前が選んだんだからな。だから、たとえ病に侵されてる身で使い物にならないお前が新撰組に醜くしがみついたって…それはお前の選択だ。周りが無様だと無謀だと言っても、それがお前の道なのだろう?」
「…はい」
「だったらそれを貫けばいいじゃねぇか。誰にも文句を言わせるな。人は勝手に生きて、死ぬんだからな」
芹沢先生は爪を弄りながら、「説教は性に合わない」とつまらなそうに吐き捨てた。
生前は傍若無人で、自己愛が強くて我儘で周りを振り回してばかりだったけれど…生き方は一貫性があって見どころの多い人だった。ある意味、もっと正面からぶつかっていれば、同じように志を貫く近藤先生と意気投合できたのかもしれない。
でもそんな想像すら、芹沢先生には『馬鹿らしい』のだろうけれど。
「…先生も先生の道を歩んだのですか?」
僕が訊ねると、先生は「当たり前だ」と頷いた。
「自分の道は自分しか歩めないに決まっているだろう。俺は俺の思うように生きて…まあちょっと不本意に死んだが、お前に殺されることを望んでいたのだから上々だ」
「先生はどうして私に殺してほしかったんですか?」
「お前が綺麗だったからだ」
「…綺麗?」
とても芹沢先生の口から出たとは思えない露骨な表現に、僕は驚く。けれど先生は表情を変えなかった。
「顔も、肌も、身体も、剣筋も、佇まいも…俺にとってお前は泥中の蓮のように見えた。『蓮は泥より出でて泥に染まらず』とあるが、まさにその通りだった。…蓮ってのは、仏さんの花だ。だから殺されるならお前が良いと思った。そうすれば俺も少しはマシな地獄に行ける」
「…先生、それは買いかぶりすぎです」
「そうだな。お前は坊やじゃなくなってすっかり大人になっちまった」
芹沢先生はそう揶揄いながら立ち上がったので、僕もそうした。壬生にいた頃にいた先生はもっと大きくて手の届かないように感じたけれど…今は同じ高さで目線を合わせることができる。
「じゃあな」
「はい」
芹沢先生は僕に背中を向けて去っていった。その姿は泡がはじけるように消え去って、僕の足元が揺らぐ。
(きっとこの旅ももう終わる…)
だから、僕は駆けだした。
えーん、えーんと泣く子供の声がずっと鼓膜を揺らしていたから。
僕は迎えに行かなくてはいけなかったから。







大津から月真院へ駆け戻ったものの、兄はやはり不在で内海さんも決断を保留し…ただ時間が流れていた。
終着点の見えない議論はそれぞれの主張が飛び交う堂々巡りを繰り返し、次第に皆、言葉が尽きて黙り込んでしまった。それはつまり、兄がいなければ我々は無能な凡人の集まりでしかないのだと思い知らされるようだった。結局、様子を見に行った藤堂先生の帰りを待つしかないのが歯がゆく、俺は部屋の隅で膝を抱えていた。
「とんぼ返りで疲れただろう」
そんな俺に握り飯を差し出したのは服部さんだった。彼は新撰組隊士としては古参であったが、兄と意気投合して脱退した。剣だけでなく槍や柔術も使いこなす武闘派である一方で、議論を交わせば筋を通して熱く語るような漢気もあり、皆から一目置かれている。
俺は礼を言って握り飯を受け取ったが、疲労が溜まっていても食欲はあまりなかった。見かねた服部さんが
「食っておけ。この後、どうなるかわからないんだからな」
と急かしたので仕方なく口に入れることにする。その姿を見て服部さんは少し安堵したようだったが、遠い目をしてため息をついた。
「まったく…内海はどうしちまったんだ?」
「…道中は兄上をお救いするのだと、その一心のご様子でしたが…」
内海さんは兄の残した文を見て、急にその態度を変えた。きっと兄は意図を持って内海さんと俺を皆へ行かせたのだろうから、何か内海さんを思いとどまらせるようなことを書いているに違いない。兄と内海さんの関係について詳しくは知らないが、兄の言葉には内海さんは絶対に従うだろう。
俺がしばらく黙り込んでいると、
「…君も気をしっかり持つんだぞ。伊東先生はきっとご無事だ」
と服部さんに励まされ、彼は去っていった。
また無意味な時間を貪ることになると、俺の脳裏には少し前、兄と共に尾張へ行った時のことが過っていた。
御陵衛士として新撰組を離れてから兄の態度が柔らかくなり、二人で話す機会も増えた。その理由について尋ねると兄は複雑そうな顔で、兄弟関係がギクシャクしていることを心残りにしたくない…と、今思えば不吉な予感のようなことを語っていた。でも血の繋がりがないであろう俺を『弟』であると認識し、過去の過ちを水に流して新たな関係を築こうとしてくれていることが嬉しくて、俺はこの先に明るい展望しか抱いていなかったのだ。
そんな兄が尾張で口にしたのは、
『お前が私の弟であると言うのなら、お前は年長の私よりも長生きするのが当然だ』
という意味深な言葉、そして俺に辛抱強さを学ぶように東湖先生の著作を暗記しろと言いつけた。
(兄上は…内海さんとともに俺も…美濃へ遠ざけたのだろうか…)
「ただいま戻りました!」
俺が考え込んでいたところへ、様子を見に行った藤堂先生が戻ってくる。ずっと衛士たちが集まりやりきれない空気だったが、藤堂先生の登場で一変する―――温厚な彼が、見たことがないほどに憤っていたからだ。唇を強く噛み、目は血走り鬼のように顔が歪み、握りしめた拳は震えている。
「ど、どうだった…?」
そんな藤堂先生へ篠原さんでさえ怖々と訊ねる。藤堂先生は
「皆さん、戦支度を!!」
と叫んだ。静かな月真院の隅々にまで響き渡るような大音声に皆が驚く。そして同時に彼は顔を真っ赤にして目尻から涙が零れた。
「伊東先生は、奸賊、新撰組によって討ち取られました…!」
その言葉を聞いた途端…俺の頭は真っ白になった。
(兄上…が…?)
俺は力が抜けてその場に膝から崩れ落ちた。
ずっと手の届かない場所にいた兄が…もう本当に、手が届かない場所へ行ってしまったというのか。
「討ち取られただと?!」
「奴ら、やっぱり謀ったか!」
「ああ先生…伊東先生…どんなにご無念なことか…」
声を荒げる者、なじる者、嘆く者…阿鼻叫喚の広間のなかで、俺はただただ呆然と、現実味なくその光景を眺めているしかできない。信じたくないと頭が理解を拒み、涙さえ流れなかった。
藤堂先生は続けた。
「先生のご遺体は無惨にも油小路に放置されているとのこと。これは我々を誘き寄せるための奸計です!」
流石に皆の表情が青ざめた。俺は更なる絶望に突き落とされたような心地だった。
「それは本当か?!」
「新撰組め…」
「…なんと卑劣な…!許せぬ、許せぬ!」
「奴らが待ち構えていようと関係ない。今すぐお迎えに参りましょうぞ!」
ダン、ダンと誰かが感情のままに畳を叩き、誰かが頭を抱えて喚く。そして藤堂先生の鬼気迫る表情につられて次第に一人、また一人と立ち上がり皆を奮い立たせるように
「行くぞ!」
「新撰組など恐るるに足らぬ!」
と声を荒げた。
俺はまだ身体に力が入らないままだったが、服部さんに手を差し出され無意識にその手を取った。彼は涙目になりながらもグッと堪えて唇を噛み
「鈴木君、辛かろうがここは兄上の無念を晴らすべきだ!」
と俺の背中を押して皆の中心へ担ぎ出された。衛士たちの視線が集まる…それは狂乱の怒りに満ちていた。
「伊東先生の」
「無念を」
「御遺体を」
「新撰組を」
「我らは」
「報いを」
…衛士たちは口々に威勢よく声を上げるが、俺の耳には断片的にしか入ってこない。まるで息の合わない神輿に担ぎ上げられたような頼りない気持ちになる。
(兄上、俺は…どうしたら…)
…でももう、兄はいない。
俺の脳裏に、凛とした兄上の横顔が蘇る。幼少の頃から共に暮らしてきたのに、なぜだかいつも横顔ばかり眺めていた気がする。背筋を伸ばして本を読む兄は見惚れるほどに美しかったのに、兄はずっと振り返らないまま先へ歩いていってしまう。
悲しい、苦しい、腹立たしい、忌まわしい…
(兄上、兄上…!)
兄上が路上に骸となって放置されているなんて、吐き気がするほど憎らしい。一刻も早く迎えに行きたい。
「待て!」
突然俺の肩を掴んだのは、内海さんだった。ずっと兄の部屋に引きこもっていたがこの騒ぎに気がついたのだろう。青ざめていたが、目は血走っていたを
「皆、待ってくれ。…藤堂君、その知らせは本当なのか?」
「伊東先生の小者の知らせです。先生は醒ヶ井近くの本光寺前で惨殺され、その御遺体は七条油小路の辻に放置されています!」
「…!」
内海さんの表情が変わる。しかし少し項垂れたもののその瞳は強く皆を見据えた。
「…皆、落ち着こう。大蔵君の骸が放置されているのは堪え難いが…これ以上新撰組の奸計に乗ってはならぬ、死ぬことになる」
「まさかこのまま見て見ぬ振りをすると?!」
「そんな!」
藤堂先生をはじめとした衛士たちが声を荒げると
「馬鹿野郎が!」
篠原さんが皆の思いを代弁するかのように、内海さんの胸ぐらを掴んで怒鳴った。
「無念の死を遂げた伊東の骸を晒すと言うのか?!それでも貴様は友だと言えるのか?!」
「…っ、大蔵君はもしもの時は皆を頼むと書き残していた!覚悟を持って会談に臨んだはずだ!」
「だったら何もせずこの結果を受け入れろと?!冗談言うな、俺たちはお前のように薄情じゃねえぞ!」
篠原さんはついに耐えかねたように内海さんをそのまま殴り、壁まで投げ飛ばした。倒れ込む内海さんを誰も介抱せず皆、篠原さんの側に立って見下ろしていた。気持ちは同じだったのだ。
「皆…」
「どうせ文にそんなことが書いてあるのだろうと思ったぜ。伊東は死を覚悟していたし、俺にも別れ際、万一の時は薩摩を頼るように言い残していた。あいつは俺がどれだけ引き留めても結局、我を通した…だったら俺たちだってやりたいようにやる。このまま新撰組に一矢報いず逃げ延びるなんてできるものか!生涯の恥だ、なァ、皆!」
オオーっ!と一番の歓声が上がる。皆は篠原さんと同じ気持ちで、新撰組の奸計だと分かっていても立ち向かうべきだともう決めていたのだ。それは理屈ではなく、感情なのだ。
そして内海さんも本音では同じだったのだろう。
「…わかった。しかし大蔵君の願いに免じて一つ約束してくれ。大蔵君の骸を取り戻したらそれで終わりだ、その後のことはまた考えよう。…皆、くれぐれも安易に命を投げ出すような真似はしないでくれ」
内海さんは力無く頭を下げる。篠原さんたちはそれ以上責めようとはせず、
「お前は足手纏いだ。ここで全部終わるまで待っていろ」
と除け者にして、早速出立の準備に取り掛かり始めた。
服部さんは襲撃に備えて着込むべきだと言ったが、篠原さんはそれで死んだら格好がつかないと揶揄する。すぐ逃げられるように軽装にしようと衛士たちの話がまとまったところで、俺はようやく内海さんの元へ向かった。
「…内海さん…」
俺は膝を折った。内海さんは縋るように俺の腕を強く握った。
「鈴木君、君は…君は、絶対に死んではならない。君を美濃へ行かせたのは大蔵君の優しさだ。それを無碍にしてはならない」
「…わかってます。でも俺も…こんな寒空の下に兄上をいつまでも放置なんて、そんな惨いことはできません…」
「ああ…わかっている…俺だって…本当は…今すぐに迎えに行きたいんだ…」
小刻みに震える内海さんの手には兄の文が握られていた。






俺は自分の行李を開いて羽織を取り出した。支度が整い次第、伊東先生の御遺体をお迎えに行く…たとえかつての仲間が待ち構えていたとしても、その決意は揺らがなかった。
するとふと、行李のなかにしまっていた矢立が目に入った。山南さんが愛用していて形見わけでもらったものだ。
(山南さん…ごめんなさい)
こんな結末を望んでいないとわかっていても、突き進むしかできない…そんな不器用な自分を許して欲しい。
その矢立を行李に再び戻して、俺は羽織に袖を通す。襟を正して「よし」と呟いた。
(行こう…)
俺は蔦藤の紋が刻まれた羽織を翻して、仲間の元へ戻った。
















解説
なし

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