わらべうた




785


そこには膝を抱えて泣き喚く幼子がいた。
頼りない小さな背中が震えている。悲鳴に似た泣き声は聞いているだけで胸が痛み、僕は孤独な子どもをいますぐに抱きしめたいと思ったけれど身体は言うことを聞かず、幼子の前に立ち竦むしかない。
僕の夢のはずなのに、僕の体がままならない。
「…どうして、泣いているの?」
絞り出すように僕は尋ねる。すると幼子はとめどなく流れる涙を拭いながら僕を見上げた。
「だって…僕は役立たずだから…!」
「誰がそんなことを?」
「誰も言わなくったってわかるよ!僕は、もう刀をとることができないのに、他の才能もない。それにこれからみんなの足をひっぱることになるんだ!」
「…」
幼子は口にすればするほど悲しくなるのか、涙を必死に拭っても間に合わないくらい大粒の涙を流す。そして続けた。
「僕はいっぱい悪いことをしたんだ!でも命令されたからじゃない、自分の意思でやった…だって僕は悪い子だからずっと平気だったんだ、僕にしかできないって思ったんだ。でも悪いことを沢山したから神様が怒って…僕を役立たずにしたんだよ」
幼子はしゃくり上げる。
でも僕もその子の言葉を聞いていると、同じように声を上げたくなった。けれどどうにか飲み込んで出来るだけ穏やかに口を開いた。
「…君は役立たずじゃない、それに、たとえいま役立たずでも、まだ頑張れるよ」
「僕は頑張ったよ!皆んなに認められたくて、必要だと言って欲しかったから!でも、もう僕はそこにいるだけで迷惑だ…だから頑張れないんだ…」
「…そうだ…君は頑張った…」
本当はわかっている。
この子は、僕だ。家を出て、試衛館にきて、表向きは楽しく過ごしていたけれど、心のどこかで孤独を感じていた…そんな、誰も知らない心の奥底にいる僕。
僕はずっと…必要とされたかった。お前がいないと困ると言って欲しかった。だから必死に稽古をして腕を磨いた…みんなが喜ぶと嬉しかったから。先生に「お前は強い」と褒められるときだけが、自分の存在を受け入れることができるような気がして。
(ああ…僕は、だから、躊躇いなく人を殺せたのかな…)
どんなに強くなっても僕はいつまでも子どもで、いつも不安だったから安心したくて言われるがままに、自分のために殺したのなら…死んだ人は浮かばれない。
山南さんは許してくれた。君菊さんは励ましてくれた。芹沢先生は認めてくれたけど…そんなの、僕の勝手な想像だ。
僕は罪深い。
「どうしたの…?」
僕の目の前には幼い僕がいた。真っ赤に腫れた目で心配そうに、黙り込んでしまった僕の顔を覗き込む。僕はようやく呪縛が解けたかのように両腕を動かし出来うる限り強く、強く抱きしめた。
(僕が後悔をしたら、近藤先生や歳三さんが悲しむ)
そして幼い僕と自分に言い聞かせるように口を開いた。
「確かに…沢山、酷いことをしたかもしれない。贖えないほどの命を奪った。それを仕方なかったなんて言わない…これは僕と君が一生抱えていくんだよ。死ぬ時まで」
「僕も…?」
幼い僕は不安そうに眉を顰めたので、彼の両肩に触れて穏やかに告げた。
「君は…悪い子じゃない。だからたとえ役立たずになってしまっても…皆は必要としてくれているんだ」
「ほんとうに?僕は何もできないのに…いらない子なのに」
「自分のことを蔑んじゃだめだ。…君の師匠や兄弟子はなんで言ってた?役立たずなんて一言も言ってないはずだし、皆は絶対に噓をつかない。君の大切な人たちを信じなきゃだめなんだ」
僕の問いかけに、幼い僕は大きく頷いた。そしてごしごしと涙を拭い、僕を見据えて言った。
「そうだよね…僕は知っているよ、どうしようもなくなったとき、その諦めに打ち勝てるのは信じることだけだって。だから信じることさえできるなら、刀なんてなくても僕は強くなれるんだって」
「…ああ、そうだね…」
僕は微笑んだ。
かつて僕が自分に言い聞かせていた言葉だ。辛く、苦しい鍛錬の日々のなかでどうしようもない孤独に苛まれた時、僕はそうやって自分に言い聞かせていた。信念さえあれば諦めることはない。
幼い僕は僕の手を握った。そして晴れやかな笑顔で告げた。
「大丈夫だよ。後悔しなくていい、逃げなくていい、だってみんながいる。みんなを信じたら寂しくない。…だからさ…もう、起きた方が良いよ」
「え?」







僕は目を覚ました。見慣れた天井の木目、嗅ぎ慣れた畳の匂い、自分の体の形に縁どられてしまったかのように馴染んだ布団。そのどれもがいつも同じだ。
(なんだか…長い旅に出ていたみたいだ…)
瞼を開いた時にすっと一筋の涙が零れたので、やはり夢だったのだとわかる。でもいつもは起きたらぼんやりと曖昧になってしまう記憶が、懐かしい人々に逢ったせいか鮮明に思い出されて心が高揚していた。これまで胸に閊えていた言葉を伝えることができてすっきりとしている…結局は夢でしかないけれど。
「…都合が良すぎるな…」
僕は苦笑しつつゆっくりと身体を起こして目をこすりながら、外を見た。真っ暗になっている。
(長い夢だったけど、本当に長く寝ていたみたいだ…)
薬の作用のせいか、体調が優れないのか、今日は寝てばかりだ。ふと傍らに英さんが文机に突っ伏して眠っている姿が目に入る。朝からずっと僕の看病をしてくれて疲れているのだろうか、難しそうな書物を開いたまま目を閉じていた。僕はそのあたりの適当な羽織を彼の肩にかけてあげた。
そこでふと、あまりに静かであることに気が付いた。
(いくら何でも夜更けまで寝た、なんてことはないはず…)
疲れていたけれど今までそんなに長く眠ったことはない。
『起きた方が良いよ』
僕はふいに、幼い僕自身が最後に言った言葉を思い出す。所詮は夢なのだから気にしなくても良いとわかっていても、どこか急かされるような気持が沸きあがってしまった。
僕はお目付け役の英さんがぐっすり眠っているのをいいことに、自分の羽織に袖を通して足音を立てないようにこそこそと部屋の外に出た。火鉢を焚いて暖かかった僕の部屋との寒暖差は大きく、外に出た瞬間にヒヤッとするほどの冷気に体が震えたが、それ以上にしんとして静かすぎる屯所を目の当たりにして心が騒めいた。
そして
「にゃぁん…」
という猫の鳴き声がして、僕は目を凝らすと探さなくとも目の前にいた。暗闇の中でギラリと光る金色の瞳を見つけた時、
(あの時の猫だ…)
と思った。芹沢先生を殺した時、山南さんの介錯を務めた時…この黒猫は僕に会いにきた。
僕は何かに取り憑かれたように早足で屯所のあちこちを見て回る。隊士たちの個室、広間、道場、風呂場、厠…不動堂村の屯所は広すぎて、部屋を持て余していると言ってもこんなに人気が無いことはないはずだ。かろうじて正門に目を凝らすと見張りの隊士はいるようだが、それにしても様子がおかしい。
(まさかまだ夢のなかなんて、そんな馬鹿な…)
息を切らせながら屋内を歩き回っていると
「沖田先生?」
と泰助の声が聞こえた。土間から顔を出した彼は頭にほっかむりを被っている。
「泰助…一人ですか?他には誰が?」
「銀之助と鉄之助もいます。二人はいまは米炊きでいませんが…もう戻ると思いますけど」
僕は泰助の姿を見てもまだ胸騒ぎが収まらない。それに土間を覗くと泰助は大量の握り飯を並べていたのだ…さながら戦時のように。
「…何か、あったのですか?」
「え?ああ、張り込みの皆さんに差し入れを作ってて…これくらいで足りますかね?」
「張り込み?一体何が?」
「えーっと…俺たちは屯所に居残りなんで、詳しいことはよく…」
要領を得ない泰助の返答に、僕は少し苛立つ。すると銀之助が薪を抱えて戻ってきて、僕の顔を見るや「あっ!」と声をあげて薪を足元に落とした。ガラガラッとした音は静かな屯所に響き渡るが、僕は気にする余裕なく
「何があったのですか!」
と怒鳴った。泰助はぽかんとして、銀之助は青ざめている。
僕が寝ている間に、僕の知らないところで、何かが起こっている。きっと隊士全員が出払うほどの事態だ―――そう察するのは簡単だ。泰助は事情を知らなかったのかもしれないが、僕を見た途端驚いて声を上げた銀之助はこのことを伏せるように言いつけられていたのだろう。
「あの、その…!僕たちは何も言えません!」
「土方さんにそう言いつけられたのでしょう?いいから言いなさい」
「でも…本当に詳しいことは…申し訳ありません…」
銀之助は顔を顰めながらもそれ以上は言えないと口を噤んでしまった。僕は仕方なく事情を聴くのは諦めて、
「…泰助、握り飯はどこへ?」
「え?油小路って…」
ぽろりと漏らしたのは泰助で、銀之助は慌てて「馬鹿!」と言ったけれどもう遅い。僕は踵を返して部屋に戻る。
(油小路ならここから近い)
握り飯を差し入れするくらいの余裕があるなら、まだ大きな戦ではないのだろう。体調を崩し眠っている僕への遠慮なのだろうとわかっていても、何も聞かされず置いていかれてしまったことは不快さで心はいっぱいだった。こんなことをするのは土方さんに違いないのだから、一言文句を言わなければ気が済まない。
どくどくと焦燥感のようなものが湧き上がり早く駆けつけたいと思ったが、部屋に戻る前に斉藤さんに鉢合わせてしまった。彼は僕の考えなどお見通しなのだろう、難しい顔をして僕の前に立ち塞がるようにして立っている。
「…斉藤さん、どけてください」
「このまま全部終わるまで部屋で待っていてくれ」
短い言葉だが、斉藤さんが事情を把握しているのだとすぐに理解した。彼が片棒を担いでいるとわかり、僕は身構えた。
「隊士総出で出動するなんて普通じゃない。事情を教えてください」
「教えたら留まってくれるか?」
「…いいえ。教えてくれなくとも、油小路へ行きます」
僕は強く斉藤さんを睨んだ。いつも全面的に僕の味方でいてくれる斉藤さんなのに、今はまるで梃子でも動かぬ様子で僕を見据えていた。真剣で立ち会った時以上の緊張感だったが、僕は引くつもりなどない。
斉藤さんは少し息を吐いた。互いに本調子でない上に、僕の頑固さはよく知っているだろう。
「伊東を暗殺した」
「…!」
「新撰組はその骸を油小路に放置し、その餌を引き取りに来るであろう御陵衛士の殲滅を狙っている」
僕は驚いた。
自分が眠っている間に、土方さんが散々手を焼き目の上のたん瘤となり、仲間を引き連れて去ってしまった伊東大蔵という存在がもうこの世からいなくなってしまったなんて、あまりに現実味がなかったのだ。個人的に深い関係はなく、交わした会話も数えるほどしかない僕にとっては正直悲しくもないが、それよりも御陵衛士の殲滅という重い言葉に愕然としていた。
「…藤堂君は…?」
「おそらく、やってくるだろう」
「そんな…」
新撰組の隊士の数は五十名を超える。十数名の御陵衛士が敵うはずもなく一方的に彼らは蹂躙されるだろう。藤堂君がやってくればどんなことになるのか、誰にだってわかる。
僕は斉藤さんの腕を必死になって掴んだ。
「藤堂君を…藤堂君を助けてほしいって、言いましたよね…?」
「…藤堂は望まなかった。伊東とともに心中するつもりだ。それは原田と永倉が説得しても同じだった」
「…」
僕以上に関係の深い原田さんや永倉さんが引き止められなかったのなら、僕にそれができるわけがない。
僕はなお一層、(こんなところにいる場合じゃない)と決意した。
「…っ、とにかく行かせてください。こんな大変な時に蚊帳の外なんて…!」
「駄目だ。俺は土方副長に何としても引き止めるように命令を受けた、屯所から出すわけにはいかない」
「そんなのどうとでも…!」
どんな言い訳でもできるし、僕が土方さんに謝れば済む話だ。僕は斉藤さんの腕を押しのけて部屋に戻ろうとしたが、かえってその手を掴まれてしまった。
「放してください!」
「もう伊東は死んだ、事は動き出しているんだ」
「それでも行かないと…!」
「あんたが行ったところで何ができる?結局、吐血して足手まといになる」
「…!」
斉藤さんが冷たい眼差しで淡々とはっきり告げる言葉が、僕の胸に突き刺さる。
そうだ、僕が万全じゃないから近藤先生や土方さんは僕を置き去りにしてしまい、話すら聞かせてもらえなかった。きっと皆が僕の身体を気遣ってくれたのはわかっている…わかっていても、いまは耐え難い。
『僕は役立たずだ』
幼い僕が嗚咽しながら嘆いていた姿を思い出し、僕は心が苦しくなる。でもそれ以上に認めたくない気持ちが上回り、僕は渾身の力で手を振り払った。それが斉藤さんの傷に障ったのか上体を崩した隙に、僕は自分の部屋に駆け込んで刀を手にした。
「待って、落ち着いて…!」
この騒ぎで目を覚ました英さんが引き止めたけれど、僕は無視してもう一度部屋を出る。斉藤さんを躱して裸足のまま庭から飛び出し裏口に回れば油小路に近いだろう…そう思った途端後ろから身体を引っ張られ、腰に手を回し、抱きしめられた…というには強い力で引き止められてしまった。顔が見えなくても斉藤さんだということはすぐにわかり、僕は暴れた。
「行くな」
「っ…、放してください!どんなに役立たずでも、ここにいるよりはマシです!」
「行ったところで間に合わない」
「そんなの関係ない…!」
僕は懸命に斉藤さんから逃れようとしたが、あまりに急に身体に無理をしたせいで咳き込んでしまった。
「ゲホッ!ゴホッ!」
斉藤さんは少し力を緩めてくれたが、僕は進むことはできず身体を曲げて口を覆うように吐血するしかない。
(こんな時に!)
自分の身体をこんなに恨めしく思うのは初めてだ。どうにか折り合いをつけて過ごしてきたのに肝心な時に動かなくなる。
(本当に役立たずだ…)
苦しさと苛立ちと憤りが混ざり合って、グジャグジャになってしまう。
幼い僕がそうしたように大声で喚いて泣いてしまいたい。
でも、
「もう十分だ…!」
斉藤さんが耳元で声を荒げる。それまで冷たく聞こえた彼の声が急に感情的になり、僕は驚いた。
「…十分…って、何が…」
「これ以上、何も背負わなくていい」
「せ…」
背負うって何を?
僕はずっと蚊帳の外で、何も知らず、暢気に眠っていた。藤堂君が死んでしまうかもしれないのに、無関係でなんていられないのに、今すぐ駆けつけたいのに、何もできない。
でもどうしてだろう。
その言葉を聞いた途端、僕の身体中の力が抜けていく。
「…局長も、副長も、あんたにこれ以上重荷を負わせたくないから黙っていたんだ。それは決して疎外したわけじゃない…心配だから、負担にならないように置いていったんだ。その優しさを受け入れるべきだろう」
「…っ、でも…」
「藤堂は死ぬかもしれない。でも…絶対に、あんたのせいじゃない」
これは僕の悪い癖のようなものなのだろうか。
夢の中で山南さんにああいったのに、僕は自分自身に何もかもを科して抱えて…それで己を苦しめることが義務だと思い込んでいる。
僕は斉藤さんに背中を預けた。すると彼はまた強く背中から抱きしめながら
「だから、行かなくていい」
と言った。
僕は無意識に目尻から涙をこぼしていた。
僕は役立たずだから置いていかれたんじゃない。みんなのためにここで待つんだ。
そしてそのまま座り込み、斉藤さんの腕の中でしばらく泣いた。彼は何も言わなかったが、温かなぬくもりは僕の凍りついた感情を溶かしていくようだった。
藤堂君には生きていてほしい。 
せめて、その想いは届いたのだろうか?
僕にできることはもう何もないけれど、どうか彼の心に少しでも響いてほしいと思った。











解説
なし

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