わらべうた




786  ー帰花5ー


しんと静まった油小路で、新撰組隊士たちは息をひそめて待ち構えていた。
入隊して間もなく経験の乏しい俺は囮の遺体からは遠く離れた場所に配置されているが、それでもひりひりとした緊張感は伝わってきて、息をすることすら忘れてしまう。指先一つ動かすのも躊躇われた。
そんな俺に対して、野村は「寒ぃなぁ」と何度も手をさすり続けている。深夜から続く待機命令は確かに寒さとの闘いでいっそ早く終わってほしいとも思うけれど、そんな風に思うのは俺がまだ新参者で新撰組のことをよく知らないからだろう。
ここにやってくる前、原田先生はいつもの明るく活発な雰囲気を封印し、暗く思いつめた様子で俺たちに告げた。
『今からやってくる仲間はかつての同志だ。俺たちが始末する…お前たちは手を出すな』
命令というよりは釘を刺すように告げられ、普段と比較にならないその重々しさに皆頷くしかなかった。その原田先生たちはもっと囮の近くの前線にいて、様子がうかがえないがここよりもいっそう張り詰めていることだろう。
「あ…」
隣にいた野村が声を漏らす。俺が何事かと視線をやると、「しょっぺぇ」と握り飯を咥えながら顔を顰めていた。屯所から小姓たちが持ってきた握り飯は歪で塩加減もまばらだったが、誰もそんなことに文句を言う雰囲気ではないことを察している。
「相馬、お前も食っておけば?」
「…腹が減ってない」
「馬鹿だな、腹が減ってなくても食うのが仕事だろう。肝心な時に腹の音が鳴ったらどうする?」
「…」
俺は反論できずに仕方なく彼が差し出す握り飯を受け取った。野村は相変わらずの様子だったが、彼がそうして気を抜いているのにもおそらく理由があるのだろうと思うと注意する気にはならなかった。
(もうすぐ明け方か…)
俺は東の空が明るくなっていることに気が付いた。このまま夜が明けると、人通りが増え騒ぎになってしまうだろう。できれば今晩中に片を付けたいと思っているはずだ。
すると、握り飯を飲み込んだ野村が肩を叩いてきた。
「相馬」
「なんだ?」
「来たぞ」
彼が指さした方向へ目を凝らす。数名の人影と駕籠が駆け足で伊東大蔵の遺体に近づいていた。






夜道を駆ける。兄の骸を迎えに行くのだと思うと気が重いが、一刻も早くこんな寒空の下ではなく温かい場所へお連れしたいという気持ちの方が勝っていた。骸を乗せるための駕籠を手配するのに手間取ったがあと少しで油小路に辿り着くだろう。
すると先頭を走っていた藤堂先生が急に足を止めた。
「どうした?」
「…この先は一層警戒した方が良いかもしれません」
篠原さんの問いかけに藤堂さんが鋭く答える。皆が抜刀したので俺もそれに続こうとしたが、
「君は伊東先生のご遺体を優先した方が良い」
と服部さんが止めた。兄弟として気遣ってくれたのだろうと察し、俺は頷いた。
それから先は慎重に一歩、一歩と先へ進む。
今夜は月明かりが眩しく、提灯がなくとも遠くまで見通せる。南へ曲がり、いざ油小路へ踏み入れると不穏なほど静かで人ひとりいない。けれどそこに漂う空気は何人分もの殺気が満ちているような物物しさがあった。
おそらく新撰組が待ち構えているのだろう。それが数人か、何十人、いや全隊士が勢揃いしているのか、わからないが兄上が待っているのだから引き返すはずはない。たとえ一人でも突き進むのみだ。
衛士たちの決意は同じだったようで、藤堂先生が「行きましょう」と力強く声をかけ、さらに進む。
すると次第にそこに黒い影が見えてきた。それが横たわるように四肢を投げ出しているのを見た途端、俺はほとんど無意識に
「兄上…!」
と叫んで皆を追い越して駆けだしていた。
月明かりの中で再会した兄は、すっかり冷たくなっていた。傷だらけの身体とここまで引きずられたことがわかる衣服の乱れた泥汚れ、血塗れの身体は寒空に晒されてあちこち凍りかけている…そんな尊厳を踏みにじるような無残な姿に怒りを通り越して最早、混乱と悲しみしかない。
「ああ、あぁ……兄上…!」
俺はその兄の骸を抱きしめていた。そして…もし、ほんの少しでも兄の魂が残っているのなら、悲しみよりも怒りよりも先に伝えたいことがあった。
「兄上…兄上は、父の、母の…俺の…皆の誇りでした…!」
兄からすれば歪だったかもしれない家族の一員として、これだけは言える。縁遠いと思っていても兄がいたからこそ家族は希望を持ち続けることができたのだと。…だからまず、兄に伝えるべきは『感謝』なのだ。
(だからこんな無機質で冷たい場所で眠る必要はありません。あなたを尊敬する皆の元へ帰りましょう)
兄からの素っ気ない返事がないことが一層、俺の悲しみを煽る。そして周囲を囲んだ衛士たちが「先生」「先生」とすすり泣く声が聞こえてきて、俺は兄をゆっくりと担いだ。
「早く、駕籠に…乗せてやろう」
長年の友人であった篠原さんが感情を堪えるように駕籠の簾を持ち上げた…その時。
バタバタッと、まるで大勢の水鳥が飛び立ったような音が俺の耳に響いたのだった。







衛士たちが伊東の遺体を取り囲んですすり泣いている。
月明かりでその顔を一人ずつ確認していく…伊東と付き合いの長い大柄の篠原、加納、ともに上洛した毛内、富山、実弟の鈴木、新撰組でも古参だった服部…そして藤堂。
(来たか…)
斉藤がすべての事情を話し引き止めたと聞いていたが、それでも藤堂はやってきた。その表情は伊東の遺体を前に厳しく怒りに満ちている…いつも朗らかだった藤堂が見たことがないほど憤っているのは月明かりの下でもはっきりと分かった。
「副長」
隣にいた山崎が俺を短く呼ぶが、俺は首を横に振った。
(まだだ…)
彼らも静かすぎる現場に満ちた殺意に気が付いているはずだ。伊東を前に嘆いているがまだ警戒を解いたわけではない。それに藤堂だけでなく、篠原や加納、服部は手練れだ…いくら人数での勝機があると言っても油断すべきではないだろう。それに気になったのは御陵衛士の半数である七名しかこの場におらず、側近の内海が不在であることだ。内海に何か考えがあるのだろうか…。
「…俺は平助を助けます」
唐突に耳に入ったのは背後に控えている永倉の声だった。俺が振り向くとその隣にいた原田も深く頷いている。
「土方さんが何を言おうと聞かねぇ。法度で罰しても構わねえから」
一歩も引かない原田の言葉はいつになく真剣で、揺るがない強さがある。
俺はそんな二人に何も答えずに視線を元に戻した。
(そんなことはとっくにわかっている)
油小路に来る前から二人からひしひしと強い覚悟を感じていた。彼らからは藤堂を殺す悲壮感などまるでなく、別のことを企んでいるのは明らかだったが、それを止めるつもりはなかった。
「…好きにしろ」
肯定も否定もせず、俺は聞き流す。それが俺ができうる最大の譲歩であり情けだ。藤堂がそれをどう受け止めるのか…それはもう彼に任せるしかない。
そうしていると衛士たちは担いできた駕籠に伊東の遺体を乗せようと手分けし始める。俺は(いまだ)と山崎、そしてこの件を任せている大石に視線に送り事前に示し合わせていた合図を近隣に控える隊士たちに送った。
隊士たちは一斉に衛士たちへ向かって駆けだした。衛士たちは人数の多さに驚いたようだったが、すぐに応戦しそれまでの静寂が一気に破られる。衛士たちは伊東の遺体を守るように隊士たちの刀を受け止めた。
俺は少し離れた場所から状況を見守った。特に勇猛に戦っているのは毛内と服部だ。毛内は新撰組にいた頃から手先が器用で様々な武器を使いこなした。刀が手を離れても小刀で応戦し、隊士たちも慎重にならざるを得ないようだ。そしてもう一人の服部はもともと隊内でも有数の使い手だった。正直、服部がここに現れたことは脅威であり、十人分の働きをするだろう…実際新撰組の精鋭たちも手を焼き、数名傷を負っているように見える。人数では勝っているが、一方的に殲滅とはならないようだ。
「ヤァァァァァ!!」
(藤堂…)
騒乱の中で際立って威勢の良い声が上がる。魁先生のそれは周囲を圧倒し寄せ付けず伊東の遺体の傍を離れようしない。まるで死人を守るかのようだ。
永倉と原田は先陣を切ったが、篠原や加納に遮られ藤堂の元まで到達していないようだ。状況は少しの間拮抗していたが、前線から離れていた隊士たちが襲撃の様子を見て駆けつけてくることでまた新撰組が人数面で優勢へと変わっていく。特に入隊して間もない隊士たちは武功を挙げようと躍起になって、この騒乱はどんどん大きくなっていった。
そうしていると
「毛内ィ!!」
と悲鳴のように叫ぶ篠原の声が響いた。奮戦していた毛内だが入隊間もない柴岡の手によって止めを刺されたようだ。柴岡は入隊したばかりの局長附の隊士であり、腕が立ち見込みがあると考えていたが、前評判通りそれを証明して見せた。そのことが士気を挙げさらに戦いは激しさを増す。
その隊士たちの勢いを一手に引き受けたのは服部だった。服部は唯一、御陵衛士の中で鎖帷子を着込み武装していたため率先して刀を振る。おそらく彼らの中で合意したのだろう、篠原と加納、富山は鈴木を引きずりながら服部を盾にしてその場を逃れていく。
「逃げたぞ、追え!」
すかさず大石が気が付いて声を張り上げる。数名の隊士が駆けだそうとしたが、やはり服部が壁となって立ち塞がった…しかしいずれそれも終わるだろう。服部はもうすでに満身創痍だ。
そうしているうちに俺は藤堂の姿を見失った。永倉や原田もいない…目論見通り逃すことができたのだろうか?
俺はその場を離れた。隣に控えていた山崎が「お待ちください」と俺の身を案じて引き止めようとしたが、もうほとんど勝負がついている…抜刀しながら篠原たちが逃れた場所とは反対方向へ小走りで向かった。
その途中、横目に伊東の遺体が目に入った。さすがに放棄せざるを得なかったのだろう…無念の死を遂げた骸がこの騒動をどう見ているのだろうか。
伊東は死に際に
『衛士たちに手を出すな』
と言ったが、彼らは勇猛果敢だった。たとえ新撰組が先に手を出さなくても、同じ結末を迎えただろう。
(天晴だった)
心で称えながらさらに先を目指すと、服部ほどではないが多くの隊士がその先の小路に詰めかけていた。そのすべてが藤堂に向かっている…そう思った瞬間、
「去れ!こちらに敵はいない!」
と俺は怒鳴っていた。数人の隊士たちはどういうことだと困惑したように足を止めたが、それでも勢いは衰えない。
(藤堂…藤堂…!)
俺はいつの間にか必死に藤堂の名前を呼びながら、隊士たちをかき分けて耳を劈く甲高い音を頼りに走った。魁先生に相応しい気合が聞こえなくなっていることがますます俺の心を掻き立てる。
するとまず視界に入ったのは永倉だった。そして原田が槍を構えて…彼らの前に藤堂がいる。
「藤堂…!」
俺が呼ぶと彼は振り返った。池田屋で負った額の傷が見えなくなるほど血まみれになっているが、大きな傷を負っていないようで無事だ。
「…ひじ…」
藤堂はその愛嬌のある瞳を見開いて状況を把握しようとしているようだった。数名の隊士に囲まれているものの、永倉と原田は藤堂を襲おうとせず、道を開けようとしている。しかし藤堂の中で踏ん切りがつかないのか迷っているようにも見えた。
(行け…!)
俺は頷いた。新撰組の副長という立場上、事情を知らない隊士たちの前で「逃げろ」とは口にできない。けれど顔なじみの食客としてその意図は藤堂に伝わったはずだ。
彼は一瞬泣きそうな顔で唇を引き結んだが、意を決したように走りだした。これで永倉や原田の思いは報われる、近藤先生の願いも叶う、総司も喜ぶ―――今は手を携えることができなくとも生きていればまた機会はある…。
そう思ったのに。
「待てい!」
声を荒げながら俺の傍を一人の隊士がすり抜けていく。妙に足の速く素早い壮年の隊士が藤堂めがけて刀を振り落としたのだ。
「まっ…!」
待て、とその言葉さえもう遅い。藤堂の背中を一閃した刃は肩口から腰…どう見ても致命傷を与えていたのだ。
「平助ェェェ!!!」
原田の悲鳴が響く。永倉が駆け寄って藤堂に手を差し出そうとする…そのすべてが一瞬のことなのに、俺にはとてもゆっくりと進んでいくように見えた。
この薄暗いなか藤堂の真っ赤な血しぶきが目に焼き付く。
しかし藤堂は倒れずにその場に踏ん張った。そして己を斬った隊士目掛けて振り向きながら思いっきり刀を横に払ったのだ。隊士は防御したものの壁まで勢いよく投げ飛ばされた。
そして藤堂は片膝をつき、「はぁはぁ」と荒い息を繰り返した。するともう意識が朦朧としているのか手を差し出そうとした永倉に向かって刀を振るった。もちろん致命傷を受けた藤堂の身体には力が入らず、永倉に避けられた拍子にそのまま倒れ込んでしまう。
「平助、平助…!」
「…大丈夫だ、池田屋の時と一緒だ…きっと塞がる!」
ただ名前を呼び続けるだけの原田が号泣し、永倉の虚しい励ましが響く。隊士たちは状況を察したのか数名が後ずさりしていくが、俺は己の胸に去来する虚しさを抱えながら藤堂に近づいた。
(俺は…ずっと前に藤堂を助けることができたはずだ…)
できたのに、そうしなかった。こうなるとわかっていたのに、ずっと…藤堂を見捨ててきたのではないか。
俺は詫びたい気持ちに駆られたが、何を口にしたところでこの結末は変わらないのだと思うとその言葉を飲み込むしかできなかった。
永倉の腕の中の藤堂は刀はしっかり握りしめているが、もう虫の息だ。藤堂もそれをわかっているのだろう、穏やかに微笑んで明るくなり始めた暁の空をぼんやりと見上げていた。
原田は泣きわめき、永倉は必死に言葉をかけるが藤堂は二人の顔をまじまじと見た後に、気が付いて俺をぼんやりとみていた。
そして藤堂は口元を綻ばせ、一言だけ口にした。
「ありがとうござい…ました…」
その瞬間、カランと彼の手から愛刀が地面に落ちたのだった。












解説
なし

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